いとあはれなり 現代語訳。 「みのむし、いとあわれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも...

同格の構文について

いとあはれなり 現代語訳

〔一〕 六条のあたりにお忍びでお通いになるころ、宮中からお出ましになる途中のお立寄り所として、大弐 だいに の乳 めの 母 と がひどくわずらって尼になっていたのを見舞おうとして、五条にあるその家を訪ねておいでになる。 お車を引き入れられる門は錠 じよう をおろしてあったので、従者に命じて惟光をお呼びになり、お待ちになっていらっしゃる間、いかにもむさ苦しい大路の様子を見渡しておいでになると、この家の傍らに、檜垣 ひがき というものを新しく作って、上の方は半蔀 はじとみ を四、五間ばかりずうっと上げて、簾 すだれ なども白く涼しげにしてある、そこに美しい額 ひたい のみえる女の影が、簾をすかして何人もこちらをのぞいているのが見える。 立ったままあちこちしているらしいが、その下半身を想像すると、むやみに背丈が高いという感じである。 どんな女たちが集まっているのだろうと、珍しくお感じになる。 お車も目だたぬよう略式のものをお使いになっているし、先払いをおさせになっているわけでもないのだから、自分を誰と知るわけはないと気をお許しになって、少し顔を出してごらんになると、門は蔀 しとみ のような扉を押し上げてあって、奥行も浅く、頼りなく粗末な住いなのを、しみじみと胸迫る思いで、この世はどこでも仮の宿なのだとお考えになると、金殿玉楼であろうとこ• 百科 50• 日本大百科全書 27• 世界大百科事典 23• Encyclopedia of Japan 0• 日本語 1093• デジタル大辞泉 177• 日本国語大辞典 870• 字通 0• 数え方の辞典 0• 日本方言大辞典 46• 歴史 81• 国史大辞典 21• 日本歴史地名大系 57• 日本史年表 0• 古事類苑 1• 江戸名所図会 2• 英語 2• ランダムハウス英和 0• プログレッシブ英和 0• プログレッシブ和英 2• コウビルド英英和 0• CAMBRIDGE英英 0• 理化学英和辞典 0• 医学英和辞典 0• ヨーロッパ言語 0• ポケプロ独和 0• ポケプロ仏和 0• ポケプロ西和 0• ポケプロ伊和 0• 羅和辞典 0• ポケプロ和独 0• ポケプロ和仏 0• ポケプロ和西 0• ポケプロ和伊 0• 和羅辞典 0• 東アジア言語 1• ポケプロ中日 0• ポケプロ韓日 1• ポケプロ日中 0• ポケプロ日韓 0• 用語・情報 4• イミダス 2016 1• 現代用語の基礎知識 2016 0• 会社四季報 2016秋 0• 法律用語辞典 0• デジタル大辞泉プラス 3• 図書館情報学用語辞典 0 new! 人名・文化・宗教 31• 日本人名大辞典 8• 世界文学大事典 0• 日本人物文献目録 2• 日本架空伝承人名事典 6• 能・狂言事典 7• 歌舞伎事典 0• 仏教語大辞典 6• 科学 0• デジタル化学辞典 0• 法則の辞典 0• 記事・コラム 0• 週刊エコノミスト 2015-16 0• 生活便利帳 0• 叢書 542• 東洋文庫 93• 日本古典文学全集 449• 文庫クセジュ 0.

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枕草子

いとあはれなり 現代語訳

人が言う言葉を真似するらしいの。 ヤマドリは友だちを恋しがって、鏡を見せれば慰められるって、ピュアでとってもかわいい。 なのに、お互い谷を隔てている様子はかわいそうだわ。 鶴はすごく大げさなルックスなんだけど、鳴き声が雲の上まで聞こえるのは、ほんとにすばらしい。 頭の赤い雀、ル(鵤)の雄鳥、キツツキ(啄木鳥)もね。 鷺(サギ)はとっても見た目が悪いの。 目つきなんかも不愉快で全然可愛げがないんだけど、「ゆるぎの森にひとりは寝じ(ゆるぎの森で一人では寝ないぞ)」と、妻争いをするっていうのがぐっとくるよね。 水鳥の中では、(鴛鴦)がとってもしみじみ感動的なの。 雄鳥と雌鶏がかわりばんこで、羽の上の霜を払うなんてステキでしょ。 千鳥もすごくいい感じだよね。 鶯(ウグイス)は、詩なんかでも素晴らしいって扱いをされてるし、鳴き声をはじめとして、見た目もあんなに上品できれいなのに、宮中に来ても鳴かないっていうのは全然ダメね。 ある人が「やっぱ鳴かないんだよ」って言ったけど、私は「いやいやそんなことないでしょ」と思ってたの。 でも、10年くらいずっと聞こうとしてたのに、ほんとに何の鳴き声もしないのよ。 でも竹の近くには紅梅があって、しょっちゅう通ってきてもいい場所のはずなんだけどね。 で、宮中から退出して聞いてたら、みすぼらしい家の何てことない梅の木なんかで、うるさいくらいに鳴いてるの。 夜に鳴かないのも、ぐっすり寝込んでるからだと思うけど、元々そういう性質なんだから今さらどうしようもないわよね。 夏から秋の終わり頃まで年寄りっぽい声で鳴いて、「虫食い」なんて、大したことのない者がアダ名を付けて呼んでるのは残念だし、ちょっと期待外れ気味って感じはするの。 ただ雀みたいにいつもその辺にいる鳥なら、そうも思わないんだろうけどね。 でも、こんな扱いを受けるのって、春に鳴く鳥だからこそなんでしょう。 「年たちかへる」なんて、素敵な感じに和歌にも詩にもなってるのよ。 やっぱり春の間だけ鳴くのなら、どんなにか素敵かしらね。 人間でも、人並み以下の、もはや世間からの評価が下がりはじめた人をあえてdisったりする? しないよね。 だって鳶や烏(からす)なんかだと、姿に見入ったり、声に聞き入ったりする人なんて、世間にはいないわけでしょ。 つまるところ、鴬っていうのは素晴しい存在であるべき、って思ってるから、納得できない気がしちゃうのよね。 ()の斎王のお帰りの行列を見ようと、や知足院の前に車を停めてたら、郭公()も、もはや隠れてられないかのように鳴くんだけど、それを鴬がすごく上手く真似て、小高い木の茂みの中で声を揃えて鳴くのは、さすがに素晴らしいわよね。 の良さは、今さら言うまでもないわ。 いつの間にか得意顔で鳴いているようにも聞こえるんだけど、や花橘なんかに止まって、その姿が見え隠れしてるのも、憎らしいくらいすてきな風情なの。 梅雨時の短い夜に目を覚まして、何とかして人より先に鳴き声を聞こうと待ってたら、深夜に鳴いた声が上品でかわいくて、すごく心が惹かれて、どうしようもなくって。 でも六月になると全然鳴かなくなるの、こんなこと全部、言葉にするのも愚かなくらいいかしてるよね。 夜なくものは、どれもこれもすばらしいの。 赤ちゃんのだけはそうでもないけどね。 ----------訳者の戯言--------- 原文の「(いかるが)」というのは地名だと思っていましたが、元々は鳥の名前なんですか? と、言われてみれば、そうなのかなーと思い、検索してみました。 と、どうやら、「ル(鵤)」という鳥がいるらしい。 それのことなんですね。 「」の字は誤用だそうです。 原文で「たくみ鳥」とあるのは、「キツツキ」と解釈しましたが、「」との説もあります。 いずれも巣を作るのが巧みなところからこう呼ばれたのではないかとのことです。 ゆるぎの森=万木の森です。 現在のあどがわ町にあった森とのこと。 「鷺」とともに和歌に詠まれることが多かったそうです。 ここではの次の歌がクローズアップされています。 高島やゆるぎの森の鷺すらもひとりは寝じと争ふものを (高島のゆるぎの森に棲む鷺ですら、夜は一人で寝まいと妻を巡ってオス同士で争うものなのだから) 原文の「かたみに居かはりて」ですが、直訳すると、「互いに位置を代わり合って」という感じだと思います。 簡単に言うと「かわりばんこに」です。 そういえば「かわりばんこ」という言葉、結構珍しい言葉で、方言のようにも思えますが、全国で使っているらしいんですね。 しかし、標準語でもなさそうです。 児童語? 否、大人も使います。 またまた余計な脱線なんですが、この語の詳細についてご存じの方は是非お教えください。 あらたまの年立帰る朝より またるる物はうくひすのこゑ (年が改まり新年となった朝から、待ち遠しいものは鴬の声なんだよなぁ) 「あらたまの」は「年」の枕詞(まくらことば)です。 新年、元旦の朝から聞きたいのはやっぱ鴬の鳴き声なんだよ、ってことですね。 旧暦の元日と言うと1月後半ごろから1カ月ほどの間を動きますから、時候は春、鴬の季節であるには違いありません。 昔は京都で祭と言ったら、()のことだったらしい。 というのはのお祭りで、やっぱり貴族のものなんですね。 もあるけど、のほうがだいぶ後のもので、どっちかっていうと町人のお祭りらしい。 「祭のかへさ」とありますね。 「かへさ」というのは帰り道ということなんですが、の行列に往路復路ありましたっけ? ないですよね。 一方通行です。 じゃないんだから。 この「かへさ」というのは、実は祭の翌日、斎王(いつきのみこ)がから紫野(今の)の斎院に帰ること、またはその行列のことを言ったんですね。 五月雨は、今さら言うまでもないのですが、現在の「梅雨」。 旧暦五月(皐月)の長雨です。 この段は「鳥づくし」です。 イケてる鳥はコレだ!特集ですね。 とは言うものの、鴬の部分だけが異常に長い。 詳しい。 、「期待外れ」なのがどうも気になるようですね。 細かいようですが、またまたが2回出ています。 ちゃんと推敲するように。 【原文】 鳥は こと所のものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。 人のいふらむことをまねぶらむよ。 ほととぎす。 水鶏(くひな)。 鴫(しぎ)。 鶸(ひわ)。 ひたき。 、友を恋ひて、鏡を見すればなぐさむらむ、心わかう、いとあはれなり。 谷へだてたるほどなど、心苦し。 鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居にまで聞こゆる、いとめでたし。 頭あかき雀。 (いかるが)の雄鳥(をどり)。 たくみ鳥。 鷺は、いとみめ見苦し。 まなこゐなども、うたてよろづになつかしからねど、「ゆるぎの森に一人は寝じ」と争ふらむ、をかし。 水鳥、鴛鴦(をし)いとあはれなり。 かたみに居かはりて、羽の上の霜はらふらむほどなど。 千鳥、いとをかし。 鶯は、文などにもめでたきものに作り、声よりはじめて様形も、さばかりあてにうつくしきほどよりは、九重のうちに鳴かぬぞいとわろき。 人の「さなむある」といひしを、「さしもあらじ」と思ひしに、十年ばかり候ひて聞きしに、まことにさらに音せざりき。 さるは、竹近き紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。 まかでて聞けば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしがましきまでぞ鳴く。 夜鳴かぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせむ。 夏秋の末まで老い声に鳴きて、「むしくひ」など、ようあらぬ者は名を付けかへていふぞ、口惜しくくすしき心地する。 それもただ雀のやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。 春鳴くゆゑこそはあらめ。 「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にも作るなるは。 なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。 人をも、人げなう、世のおぼえあなづらはしうなりそめにたるをばそしりやはする。 鳶・烏などのうへは見入れ、聞き入れなどする人、世になしかし。 されば、いみじかるべきものとなりたればと思ふに、心ゆかぬ心地するなり。 祭のかへさ見るとて、、知足院などの前に車を立てたれば、郭公(ほととぎす)も忍ばぬにやあらむ、鳴くに、いとようまねび似せて、木高き木どもの中に、もろ声に鳴きたるこそ、さすがにをかしけれ。 郭公は、なほさらにいふべきかたなし。 いつしかしたり顔にも聞こえたるに、、花橘などに宿りをして、はた隠れたるも、ねたげなる心ばへなり。 五月雨の短き夜に寝覚をして、いかで人より先に聞かむと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せむかたなし。 六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。 夜なくもの、何も何もめでたし。 児(ちご)どものみぞさしもなき。

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枕草子(第41段~第82段)

いとあはれなり 現代語訳

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた 『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。 『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。 紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある 『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、 『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。 参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます) 石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫) [古文・原文] 38段 鳥は、異所(ことところ)のものなれど、鸚鵡(おうむ)、いとあはれなり。 人の言ふらむことをまねぶらむよ。 郭公(ほととぎす)。 水鶏(くひな)。 ひたき。 山鳥、友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ、心若う、いとあはれなり。 谷隔てたるほどなど、心苦し。 鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居(くもい)まで聞ゆる、いとめでたし。 頭赤き雀。 斑鳩の雄鳥(いかるがのおどり)。 巧鳥(たくみどり)。 鷺(さぎ)は、いと見目も見苦し。 眼居(まなこゐ)なども、うたて萬(よろづ)になつかしからねど、ゆるぎの森にひとりは寝じとあらそふらむ、をかし。 水鳥、鴛鴦(をし)いとあはれなり。 かたみに居かはりて、羽の上の霜払ふらむほどなど。 千鳥、いとをかし。 鶯(うぐいす)は、詩(ふみ)などにもめでたきものに作り、声よりはじめて、様かたちも、さばかり貴(あて)に美しきほどよりは、九重(ここのえ)の内に鳴かぬぞ、いとわろき。 人の「さなむある」と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかり侍ひて聞きしに、まことに更に音せざりき。 さるは、竹近き紅梅も、いとよく通ひぬべきたよりなりかし。 まかでて聞けば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしかましきまでぞ鳴く。 夜鳴かぬも、寝(い)ぎたなき心地すれども、今はいかがせむ。 夏、秋の末まで、老い声に鳴きて、虫食ひなど、ようもあらぬ者は名をつけかへて言ふぞ、口惜しくくすしき心地する。 それもただ雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。 春鳴くゆゑこそはあらめ。 [現代語訳] 38段 鳥は異国のものだけれど、オウムはとてもかわいらしい。 人の話す言葉を真似するというではないか。 ひたき。 山鳥は仲間を恋しがって、鏡を見せると自分の姿を仲間かと思って安心するが、その純粋さがとても哀れである。 また、雌雄が谷を隔てて夜に眠るというのも、心苦しいことだ。 鶴はとてもいかつい(怖そうな)外見をしているが、鳴く声が天まで届くというのは、とても素晴らしい。 頭の赤い雀。 斑鳩の雄鳥。 たくみ鳥。 鷺は、見た目がとても見苦しい。 あのぎょろりとした眼つきなども嫌な感じで、すべてが可愛げのない鳥であるが、「ゆるぎの森に独りでは寝ない」と言って妻を争っているのは面白い。 水鳥では、鴛鴦がとても味わいのある鳥だ。 夜に雌雄がお互いに代わり合って、羽の上に白く置いている霜を払っているところなど。 千鳥もとても趣きのある鳥だ。 鶯は、詩などにも素晴らしい鳥として歌われており、鳴き声をはじめとして、姿形はあんなに高貴・上品で美しいのに、宮中の中に来ても鳴いてくれないのは、とても残念で悪い。 ある人が「宮中では鳴かない」と言ったのを、私はまさかそんなことはないと思ったけれど、宮中に10年ばかりいて聞いていたが、本当に鶯は鳴くことがなかった。 しかし、竹の近くに紅梅があったりして、鶯にとっては通ってきて鳴くのに都合が良い場所のように思われるのだが。 宮中を退出して聞くと、貧しい家の何の見所もない梅の木では、うるさいほどに鶯が鳴いている。 夜に鳴かないのも、眠たいような感じがするが、生まれつきなので今更どうしようもないだろう。 夏・秋の終わり頃まで、年寄り臭い声で鳴いていて、虫食いなどと人にいつもと違う名前で言われているのは、とても悔しくて残念な気持ちがする。 それもただの雀などのように、いつもその辺にいる鳥であればそうも思われないだろう。 鶯が春に鳴く鳥だからである。 [古文・原文] 38段(終わり) 「年たちかへる」など、をかしきことに歌にも詩(ふみ)にも作るなるは。 なほ春のうち鳴かましかば、いかにをかしからまし。 人をも、人げなう、世のおぼえあなづらはしうなりそめにたるを、謗り(そしり)やはする。 鳶(とび)、烏(からす)などの上は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。 されば、いみじかるべきものとなりたれば、と思ふに、心ゆかぬ心地するなり、祭の帰さ見るとて、雲林院(うりんいん)、知足院(ちそくいん)などの前に車を立てたれば、郭公(ほととぎす)も忍ばぬにやあらむ、鳴くに、いとようまねび似せて、木高き木どもの中に、諸声(もろこえ)に鳴きたるこそ、さすがにをかしけれ。 郭公はなほ、更に言ふべきかたなし。 いつしか、したり顔にも聞えたるに、卯の花、花橘(はなたちばな)などに宿りをして、はた隠れたるも、ねたげなる心ばへなり。 五月雨(さみだれ)の短き夜に寝覚(ねざめ)をして、いかで人よりさきに聞かむと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうじう愛敬(あいぎょう)づきたる、いみじう心あくがれ、せむかたなし。 六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり。 夜鳴くもの、何も何もめでたし。 ちごどものみぞ、さしもなき。 [現代語訳] 38段(終わり) 「年が立ち返る新年の朝から鶯の声が待ち遠しい」などと、風情のある面白い鳥として、歌にも詩にも歌われている鳥である。 春のうちだけ鳴くのであれば、鶯はどんなに素敵な鳥だろう。 人間であっても、落ちぶれてしまって、世間の評価が低下し始めた人を、改めて誹謗することがあるだろうか。 (はじめから評価の低い)鳶とか烏とかであれば、それに見入ったり論評し合ったりする人は、世の中にいないではないか。 だから、鶯は素晴らしい鳥だと世間の評価が決まっているので、夏・秋の終わり頃に評判が落ちてしまうのは、納得のいかない気持ちがするのだ。 祭りの帰さの見物で、雲林院や知足院などの前に車を立てかけて待っていると、ホトトギスのこの時期にはもう我慢できないといった感じで鳴いている。 すると鶯がそのホトトギスの声を真似て、あの辺の小高い木立の茂みの中で声を揃えて鳴くのは、さすがに素晴らしい情趣がある。 ホトトギスの風情は、今更言うまでもない。 いつの間にか、得意顔で鳴いているようにも聞こえるが、卯の花や花橘などに好んで止まり、その姿が見え隠れするのも、憎らしいほどの風情がある。 五月雨の時期の短い夜に、目を覚まして何とか人より先にその声を聞こうと待っていると、明け方の夜に鳴いたその鳴き声の堂々としていて可愛らしいこと、その声に非常に心を惹かれて憧れてしまうのも無理はない。 六月になると全く鳴かなくなるが、すべてが語り尽くせないほどの魅力である。 夜に鳴くものは、どれでも何でも素晴らしいものだ。 赤ん坊が泣いているのだけは、そうでもないが。

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