田代 眞人。 『図書』2月号 【試し読み】鈴木健一/田代眞人

日本のパンデミック対策への再警鐘(田代眞人)

田代 眞人

風の匂いとか、水のせせらぎとか、名物の味とか、五感を通してのみ得ることができる、その土地の雰囲気としか言いようのないものがあるのである。 もっと言うと、その土地が独自に持っている根源的な力がそこには横たわっていると思う。 このたび拙著(岩波書店)を刊行した。 同書では、一般的に池というものが人の心を慰安する存在であること、不忍池が時代を追うにつれて、江戸的情緒を醸し出す名所から文明開化を象徴する場所へと変化したこと、しかし蓮が名物だという伝統的な美意識は継続していること、などを論じた。 そのこと自体興味深いし、広く知っていただけたら、とてもうれしい。 しかし冒頭に記したように、やはりその土地に行ってみないとわからないことがある。 その際大事なのは、すでに知識があった上で現地を体感してこそ理解が深まるということだ。 特に不忍池のように歴史と文化が豊かな所なら、なおさらである。 予備知識を蓄えた上で、実際にこの池を訪れて、清水観音堂からの眺望、弁天堂のたたずまい、ボートからの四方の光景、隣接する動物園の雰囲気など、感じていただけたら、著者としてこの上なくありがたい。 ちょうど今頃は渡り鳥がたくさん来ていることだろう。 場合によっては、広重が「名所江戸百景」で描いた雪景色を鑑賞できるかもしれない。 いずれもが、一〇〇年前の災厄が忘れ去られている現状を憂慮し、その教訓を生かして、いつか必ず起こる人類存亡のインフルエンザ危機に備えて、地球全体で準備・対応することの必要性を警告している。 一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇憶人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。 犠牲者の多くが青壮年であった。 さまざまな資料や文献にも、世界中で起こった悲惨な実態と社会機能の停滞・破綻が数多く記録されている。 最近、ようやく旧植民地や低開発地域における被害の実態も明らかにされてきた。 一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。 その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、とくに注目されなかった。 一九一四年に始まった第一次世界大戦に途中から参戦した米国は、一八年春から多数の兵士を欧州へ派遣したが、それに伴って流行は欧州へ、さらに世界各地へ広がった。 前線の塹壕から毎日大勢の患者が後方へ移送されて戦力は低下し、後方の市民にも流行が拡大した。 しかし一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は八月までに終息した。 ところが九月、インフルエンザが再出現した。 この第二波は激烈で、三カ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。 生存患者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。 原因も予防・治療法も不明であった。 医療体制は崩壊し、葬儀や埋葬も間に合わず、社会機能は破綻した。 そして多くの孤児が残された。 膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。 それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。 第一次大戦の戦死者一千万人に対して、参戦国におけるスペイン・インフルエンザの死亡者はそれ以上、重症患者はさらに膨大な数に上り、総動員体制下での社会・生活基盤にも大きな影響が出た。 政府による報道管制にもかかわらず、国民の戦意は低下し、厭戦気分が広がった。 休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。 命をとりとめたウィルソン大統領は精神神経症状を呈して思考・意欲が低下し、病床でフランスによる強硬な講和条約案に無気力の状態でサインしたと伝えられている。 スペイン・インフルエンザの結果、労働人口不足で戦後の経済復興が遅れ、膨大な賠償金でドイツ経済は破綻し、世界はその後の大恐慌を克服できずに不安定化し、ファシズムの台頭と第二次世界大戦への伏線が敷かれたと指摘されている。 アウシュビッツをはじめとするナチス・ドイツの絶滅収容所や沖縄、広島・長崎などの惨事や、戦後から現在に至る多くの国際問題も、その延長線上にあるのだろう。 このように、一〇〇年前のパンデミックは、中世ヨーロッパの終焉を導いたペスト大流行と並んで、歴史に大きな影響を与えた感染症である。 しかしその記憶は視覚に強く残る多くの事件に隠され、貴重な教訓が感染症大流行への準備・対策に生かされることはなかった。 スペイン・インフルエンザの原因は何だったのか。 いつどこから来たのか。 なぜ大きな流行が起こり、病原性が高まって若い人に健康被害をもたらしたのか。 今後、再出現する可能性はあるのか。 予防や対策をどうすればよいのか。 多くの疑問が提起されてきた。 専門家にとってはこれらに対する回答を探ることが大きな課題となった。 スペイン・インフルエンザ流行当時は、ロベルト・コッホを頂点とする近代細菌学の全盛期で、インフルエンザの病原体はインフルエンザ菌という細菌であると信じられており、これに対するワクチンも開発された。 日本でもコッホの高弟の北里柴三郎らはこの説を支持し、対立する帝大学派は異論を唱えていた。 インフルエンザの病原体がウイルスであることは、一九三〇年代になって英米の研究者が初めて証明し、それに基づいて近年の研究発展がなされたと、一般には認識されている。 しかし、スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌"Lancet"に発表していた。 被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。 詳細は、山内一也先生が岩波書店の雑誌『科学』(二〇一一年八月号、八〇七頁)に書かれている。 この一〇〇年間の研究によって、インフルエンザウイルスはヒト以外にもブタ、ウマ、鳥類などで伝播・維持される人獣共通感染症であることがわかった。 そして、すべてのインフルエンザウイルスは、カモなどの渡り鳥がもつ鳥インフルエンザウイルスに由来していること、これらのウイルスは激しい遺伝子変異を繰り返し、さらに異なるウイルス間での遺伝子の交換によって、頻繁に性状を変化させていること、そして、これらの変異ウイルスの中からスペイン・インフルエンザなどのヒトの新型インフルエンザが出現することが明らかになった。 近年、鳥やヒト、動物での感染・伝播・病原性を規定するウイルス側と宿主側の遺伝子の解明が進み、スペイン・インフルエンザを含むさまざまなウイルスの正体が分子レベルで明らかにされてきた。 特筆すべきは、一〇〇年前の犠牲者(病理解剖後の保存臓器および永久凍土に埋葬されていた凍結遺体)からウイルス遺伝子を回収し、その全塩基配列(遺伝情報)を決定したトーベンバーガーらの偉業である。 さらに、東京大学医科学研究所の河岡義裕教授らは、その遺伝情報に基づいて生きたスペイン・インフルエンザウイルスを再構成し、強い病原性の原因を示した。 しかし、スペイン・インフルエンザの起源、第二波が強毒化した場所と機序、第三波のあとに弱毒化した理由などは、各時期のウイルス遺伝情報がすべて得られない限り未解明のままである。 一方、ウイルスの性状が解明された結果、診断方法、ワクチンや抗ウイルス剤の開発が進み、細菌性肺炎の合併に対する抗生物質の導入などの医療の進歩と相まって、現在の状況は一〇〇年前とは別世界である。 しかし、それらの活用は政策次第であり、地球環境・生活様式の変化を考慮すると、決して楽観視はできない。 流行予知とリスク評価は依然、大きな課題である。 この一月、前記の研究のほとんどの局面で世界を牽引・指導してきた世界的インフルエンザ研究者R・G・ウェブスター博士の自伝的著書が、として、総勢一三人のウイルス学者の翻訳によって岩波書店から出版された(田代・河岡監訳)。 スペイン・インフルエンザに関する疑問の解明を目指し、常に世界各地の第一線に身を置いて経験してきた、成功と失敗に関する回想と教訓である。 インディー・ジョーンズ顔負けの科学冒険物語の中に、インフルエンザ研究の全体の足取りと、誰も予想しなかった自然界でのインフルエンザウイルスの驚異的な存在様式、将来への教訓と問題提起が平易に述べられている。 現在、H5とH7亜型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。 博士はこれまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であり、これに対して十分な事前準備の必要を説いている。 感染症専門家はもちろん、一般読者や将来研究者・医療従事者を目指す若い人にもぜひ読んでもらいたい。 日本でも一九一八-二〇(大正七-九)年に、スペイン・インフルエンザによる甚大な健康被害(当時の内地の人口五五〇〇万人のうち四五万人が死亡)と、市民生活・社会機能に大きな影響が生じたが、その実態が解明されぬまま記憶が薄れている。 大正デモクラシーの楽観的な社会の雰囲気と、逆に昭和前期の軍事優先の流れによって、国民の士気を削ぐような健康被害と社会的影響は過小評価され意図的に隠された。 さらに映像に残る関東大震災の強烈な記憶の陰で、その五倍もの死者を出したスペイン・インフルエンザの惨劇は忘れ去られた。 著者の速水先生は、日本がスペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、その実態を解明し、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の確立を強調している。 研究者には有効な対応手段の開発が喫緊の課題であり、行政には市民生活を維持するための行動計画を立て、実施可能に準備しておく責任がある。 しかし、現在の科学・技術と行政能力には限界があり、被害ゼロはあり得ない。 各自は、想定される最悪の事態における最善の対応方法と、自分はどのように行動すべきかを考え、普段から準備しておくことが必要である。

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【画像】岡田晴恵の不倫相手?田代眞人氏とは?噂の経緯や馴れ初めを詳しくまとめ|まるっとログ

田代 眞人

風の匂いとか、水のせせらぎとか、名物の味とか、五感を通してのみ得ることができる、その土地の雰囲気としか言いようのないものがあるのである。 もっと言うと、その土地が独自に持っている根源的な力がそこには横たわっていると思う。 このたび拙著(岩波書店)を刊行した。 同書では、一般的に池というものが人の心を慰安する存在であること、不忍池が時代を追うにつれて、江戸的情緒を醸し出す名所から文明開化を象徴する場所へと変化したこと、しかし蓮が名物だという伝統的な美意識は継続していること、などを論じた。 そのこと自体興味深いし、広く知っていただけたら、とてもうれしい。 しかし冒頭に記したように、やはりその土地に行ってみないとわからないことがある。 その際大事なのは、すでに知識があった上で現地を体感してこそ理解が深まるということだ。 特に不忍池のように歴史と文化が豊かな所なら、なおさらである。 予備知識を蓄えた上で、実際にこの池を訪れて、清水観音堂からの眺望、弁天堂のたたずまい、ボートからの四方の光景、隣接する動物園の雰囲気など、感じていただけたら、著者としてこの上なくありがたい。 ちょうど今頃は渡り鳥がたくさん来ていることだろう。 場合によっては、広重が「名所江戸百景」で描いた雪景色を鑑賞できるかもしれない。 いずれもが、一〇〇年前の災厄が忘れ去られている現状を憂慮し、その教訓を生かして、いつか必ず起こる人類存亡のインフルエンザ危機に備えて、地球全体で準備・対応することの必要性を警告している。 一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇憶人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。 犠牲者の多くが青壮年であった。 さまざまな資料や文献にも、世界中で起こった悲惨な実態と社会機能の停滞・破綻が数多く記録されている。 最近、ようやく旧植民地や低開発地域における被害の実態も明らかにされてきた。 一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。 その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、とくに注目されなかった。 一九一四年に始まった第一次世界大戦に途中から参戦した米国は、一八年春から多数の兵士を欧州へ派遣したが、それに伴って流行は欧州へ、さらに世界各地へ広がった。 前線の塹壕から毎日大勢の患者が後方へ移送されて戦力は低下し、後方の市民にも流行が拡大した。 しかし一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は八月までに終息した。 ところが九月、インフルエンザが再出現した。 この第二波は激烈で、三カ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。 生存患者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。 原因も予防・治療法も不明であった。 医療体制は崩壊し、葬儀や埋葬も間に合わず、社会機能は破綻した。 そして多くの孤児が残された。 膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。 それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。 第一次大戦の戦死者一千万人に対して、参戦国におけるスペイン・インフルエンザの死亡者はそれ以上、重症患者はさらに膨大な数に上り、総動員体制下での社会・生活基盤にも大きな影響が出た。 政府による報道管制にもかかわらず、国民の戦意は低下し、厭戦気分が広がった。 休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。 命をとりとめたウィルソン大統領は精神神経症状を呈して思考・意欲が低下し、病床でフランスによる強硬な講和条約案に無気力の状態でサインしたと伝えられている。 スペイン・インフルエンザの結果、労働人口不足で戦後の経済復興が遅れ、膨大な賠償金でドイツ経済は破綻し、世界はその後の大恐慌を克服できずに不安定化し、ファシズムの台頭と第二次世界大戦への伏線が敷かれたと指摘されている。 アウシュビッツをはじめとするナチス・ドイツの絶滅収容所や沖縄、広島・長崎などの惨事や、戦後から現在に至る多くの国際問題も、その延長線上にあるのだろう。 このように、一〇〇年前のパンデミックは、中世ヨーロッパの終焉を導いたペスト大流行と並んで、歴史に大きな影響を与えた感染症である。 しかしその記憶は視覚に強く残る多くの事件に隠され、貴重な教訓が感染症大流行への準備・対策に生かされることはなかった。 スペイン・インフルエンザの原因は何だったのか。 いつどこから来たのか。 なぜ大きな流行が起こり、病原性が高まって若い人に健康被害をもたらしたのか。 今後、再出現する可能性はあるのか。 予防や対策をどうすればよいのか。 多くの疑問が提起されてきた。 専門家にとってはこれらに対する回答を探ることが大きな課題となった。 スペイン・インフルエンザ流行当時は、ロベルト・コッホを頂点とする近代細菌学の全盛期で、インフルエンザの病原体はインフルエンザ菌という細菌であると信じられており、これに対するワクチンも開発された。 日本でもコッホの高弟の北里柴三郎らはこの説を支持し、対立する帝大学派は異論を唱えていた。 インフルエンザの病原体がウイルスであることは、一九三〇年代になって英米の研究者が初めて証明し、それに基づいて近年の研究発展がなされたと、一般には認識されている。 しかし、スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌"Lancet"に発表していた。 被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。 詳細は、山内一也先生が岩波書店の雑誌『科学』(二〇一一年八月号、八〇七頁)に書かれている。 この一〇〇年間の研究によって、インフルエンザウイルスはヒト以外にもブタ、ウマ、鳥類などで伝播・維持される人獣共通感染症であることがわかった。 そして、すべてのインフルエンザウイルスは、カモなどの渡り鳥がもつ鳥インフルエンザウイルスに由来していること、これらのウイルスは激しい遺伝子変異を繰り返し、さらに異なるウイルス間での遺伝子の交換によって、頻繁に性状を変化させていること、そして、これらの変異ウイルスの中からスペイン・インフルエンザなどのヒトの新型インフルエンザが出現することが明らかになった。 近年、鳥やヒト、動物での感染・伝播・病原性を規定するウイルス側と宿主側の遺伝子の解明が進み、スペイン・インフルエンザを含むさまざまなウイルスの正体が分子レベルで明らかにされてきた。 特筆すべきは、一〇〇年前の犠牲者(病理解剖後の保存臓器および永久凍土に埋葬されていた凍結遺体)からウイルス遺伝子を回収し、その全塩基配列(遺伝情報)を決定したトーベンバーガーらの偉業である。 さらに、東京大学医科学研究所の河岡義裕教授らは、その遺伝情報に基づいて生きたスペイン・インフルエンザウイルスを再構成し、強い病原性の原因を示した。 しかし、スペイン・インフルエンザの起源、第二波が強毒化した場所と機序、第三波のあとに弱毒化した理由などは、各時期のウイルス遺伝情報がすべて得られない限り未解明のままである。 一方、ウイルスの性状が解明された結果、診断方法、ワクチンや抗ウイルス剤の開発が進み、細菌性肺炎の合併に対する抗生物質の導入などの医療の進歩と相まって、現在の状況は一〇〇年前とは別世界である。 しかし、それらの活用は政策次第であり、地球環境・生活様式の変化を考慮すると、決して楽観視はできない。 流行予知とリスク評価は依然、大きな課題である。 この一月、前記の研究のほとんどの局面で世界を牽引・指導してきた世界的インフルエンザ研究者R・G・ウェブスター博士の自伝的著書が、として、総勢一三人のウイルス学者の翻訳によって岩波書店から出版された(田代・河岡監訳)。 スペイン・インフルエンザに関する疑問の解明を目指し、常に世界各地の第一線に身を置いて経験してきた、成功と失敗に関する回想と教訓である。 インディー・ジョーンズ顔負けの科学冒険物語の中に、インフルエンザ研究の全体の足取りと、誰も予想しなかった自然界でのインフルエンザウイルスの驚異的な存在様式、将来への教訓と問題提起が平易に述べられている。 現在、H5とH7亜型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。 博士はこれまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であり、これに対して十分な事前準備の必要を説いている。 感染症専門家はもちろん、一般読者や将来研究者・医療従事者を目指す若い人にもぜひ読んでもらいたい。 日本でも一九一八-二〇(大正七-九)年に、スペイン・インフルエンザによる甚大な健康被害(当時の内地の人口五五〇〇万人のうち四五万人が死亡)と、市民生活・社会機能に大きな影響が生じたが、その実態が解明されぬまま記憶が薄れている。 大正デモクラシーの楽観的な社会の雰囲気と、逆に昭和前期の軍事優先の流れによって、国民の士気を削ぐような健康被害と社会的影響は過小評価され意図的に隠された。 さらに映像に残る関東大震災の強烈な記憶の陰で、その五倍もの死者を出したスペイン・インフルエンザの惨劇は忘れ去られた。 著者の速水先生は、日本がスペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、その実態を解明し、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の確立を強調している。 研究者には有効な対応手段の開発が喫緊の課題であり、行政には市民生活を維持するための行動計画を立て、実施可能に準備しておく責任がある。 しかし、現在の科学・技術と行政能力には限界があり、被害ゼロはあり得ない。 各自は、想定される最悪の事態における最善の対応方法と、自分はどのように行動すべきかを考え、普段から準備しておくことが必要である。

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教員紹介|教育学部|学部・大学院|白鴎大学

田代 眞人

第5代 当選回数 2回 在任期間 - 生誕 1949-06-11 (71歳) 居住 国籍 研究分野 研究機関 出身校 中途退学 卒業 主な業績 西太平洋地域での の根絶に成功 の 制圧に尽力 影響を 受けた人物 主な受賞歴 ベトナム名誉国民賞 () 小島三郎記念文化賞 () 小児麻痺根絶特別貢献賞 () 尾身 茂(おみ しげる、(昭和24年) - )は、の、(・・)、、。 は()。 (初代)、西太平洋地域事務局、自治医科大学。 やの診療所での勤務を経て、自治医科大学となり、医療課に勤めたのち、世界保健機関西太平洋地域事務局事務局長(第5代)、世界保健機関事務局長選挙候補者、自治医科大学地域医療学センター、世界保健機関執行理事、(第2代)、などを歴任した。 、にて(右)と 出身のであり、地域医療、感染症、国際保健などを専門とするでもある。 卒業後、地域医療の現場で医師として活動したのち、を経てに入る。 西太平洋地域でのの根絶に成功し、西太平洋地域事務局の事務局長に就任する。 西太平洋地域事務局長在任中、世界保健機関事務局長の急逝に伴う後任事務局長選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも 、落選。 西太平洋地域事務局長退任後は、自治医科大学にて教鞭を執った。 その後、やのを務めた。 また、厚生労働省顧問、名誉 WHO 西太平洋地域事務局長、名誉教授、内閣府「野口英世アフリカ賞」委員会委員、NPO法人「全世代」代表理事といった各種役職も兼任した。 にともない、の下に新設されたの副座長を務めた。 また、のにおいては会長を務め、の委員長も兼務していたことから 、新型コロナウイルスに対するの妥当性についてに基づき審議した。 来歴 [ ] 生い立ち [ ] (24年)、にて生まれた。 に進学したが 、の交換留学生に選ばれ 、在学中の(昭和42年)からにした。 アメリカ合衆国では、のに通った。 (昭和43年)の夏にに帰国したが 、当時の日本はが激化していた時期であり 、志望していたもの煽りを受けを中止する事態となった。 これを受け、(昭和44年)にに進学し 、のにて学んだ。 当初は商社員やになりたいと考えていたが 、であるの『わが歩みし精神医学の道』に衝撃を受け 、再受験を志す。 (昭和46年)、慶應義塾大学を中途退学する。 また、が新設されるとの報を聞き 、日本ののを目指すという同大学の方針に賛同し 、第一志望とする。 (昭和47年)、自治医科大学に1期生として入学し 、医学部にて学んだ。 (昭和53年)、同大学を卒業した。 医師、医学者として [ ] 大学卒業後は、にとして勤務したのち 、東京都のを中心とする僻地・地域医療に従事した。 その後、母校である自治医科大学にて医学部のとなり 、予防生態学を受け持った。 (2年)には、の的研究により号を取得。 官界にて [ ] その後、に転じてとなり、の医療課に勤務した。 さらに、のに所在するの西太平洋地域事務局に入り 、感染症対策部の等を歴任した。 域内におけるの制圧に尽力し、西太平洋地域からを根絶させることに成功した。 これらの実績が評価され西太平洋地域事務局の事務局長候補に推され、3期目を目指していた ()を破り初当選を果たす。 (平成11年)、世界保健機関の西太平洋地域事務局にて、第5代事務局長に正式に就任した。 西太平洋地域事務局長在任中の2006年、世界保健機関事務局長の急逝に伴う後任事務局長選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも 、が推薦した(出身の)世界保健機関事務局長補(感染症担当)に敗北して落選。 西太平洋地域事務局長退任後、世界保健機関より西太平洋地域事務局ののが贈られた。 退官後 [ ] 、の会合にてらと 日本に帰国後、2009年(平成21年)より自治医科大学の地域医療学センターにてを務めた。 また、世界保健機関の執行理事も兼任していた。 (平成24年)、であるのに就任した。 同機構がへ改組するにあたり、準備の陣頭指揮をとった。 (平成26年)、地域医療機能推進機構が発足すると、引き続き理事長に就任した。 その傍ら、さまざまな役職を兼任していた。 (平成24年)、の下にが新設されると 、そのを兼任することになった。 なお、新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に置かれるにおいては 、そのも兼任した。 (2年)、の下にが新設されると 、その副座長も兼任した。 そのほか、(平成25年)に開催されたにおいては、を務めた。 業績 [ ] 、執行理事会の会合にて 尾身の業績のひとつは、西太平洋地域において(ポリオ)の根絶を達成したことである。 この業績により、の世界保健機関 WHO 西太平洋地域事務局事務局長選挙に日本政府から擁立され、当選。 その後再選され、10年間務めた。 在任中は SARS 対策で陣頭指揮をとり 、 アジアにおける結核対策を前進させ、の脅威を世界に発信した [ ]。 これら(「アジア地域における感染症対策等の陣頭指揮」「東アジアを含む西太平洋地域からポリオを撲滅する上で発揮した指導力」「SARS勃発の際の迅速・機敏な対応」)を評価され 、西太平洋地域事務局長在任中の2006年5月、WHO事務局長の急逝に伴う後任の事務局長を選出する選挙の候補者に日本国政府から擁立されるも 、中国が推薦した(香港出身の)世界保健機関事務局長補(感染症担当)に敗北して落選した。 2009年2月、母校の自治医科大学教授に就任し、後進の指導にあたった。 の際、政府の新型インフルエンザ対策本部専門家諮問委員会の委員長に任命された。 既に政府によって始められていた水際作戦から、重点を地域感染対策に移すべきこと、パンデミック初期には広範に学校閉鎖を実施すべきこと、ワクチンの優先接種グループなどにつき提言した。 2014年からは、日本初の新たな医薬品や診断キットの国際的普及を目指した官民学一体の「アジア・アフリカ感染症会議」議長を務めている。 2016年、国際的な公衆衛生危機対応タスクフォースメンバー(国連議長からの要請)。 略歴 [ ] 、の会合にて(右)、(中央)と• - 名誉国民賞。 - 小島三郎記念文化賞。 - 香港地域医療学会名誉特別専門医。 - 慶應義塾大学特選塾員。 - 国民栄誉賞。 - 小児麻痺根絶貢献賞。 著作 [ ] 論文・報告書• Omi. Polio Eradication: Western Pacific Region,. 2000• Omi. SARS: How a global epidemic was stopped,. WHO. 2006 日本語訳:SARS いかに世界的流行を止められたか 財団法人結核予防会 監修:押谷仁• 尾身茂.『医療の輪が世界を救う』(『医の未来』(2011 岩波新書・矢崎義雄編) 第5章) 著作• 『WHOをゆく』医学書院 2011 脚注 [ ] 註釈 [ ] []• 2006年6月5日. 2020年5月13日閲覧。 2020年4月8日閲覧。 2020年11月8日. 2020年5月13日閲覧。 薬事日報. 2020年11月9日. 2020年5月13日閲覧。 2020年11月10日. 2020年5月13日閲覧。 共同通信. 2012年12月30日. 2014年7月19日閲覧。 新型インフルエンザ等対策有識者会議の開催について(平成24年8月3日新型インフルエンザ等対策閣僚会議決定)。 新型インフルエンザ等対策有識者会議の開催について(平成24年8月3日新型インフルエンザ等対策閣僚会議決定)第2項。 新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の開催について(令和2年2月14日新型コロナウイルス感染症対策本部決定)第1項。 Omi. Polio Eradication: Western Pacific Region,. 2000• Omi. SARS: How a global epidemic was stopped,. WHO. 2006 日本語訳:SARS いかに世界的流行を止められたか 財団法人 監修:• 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 尾身を紹介する地域医療機能推進機構のページ• - 尾身が参加する有志の会の公式ウェブサイト 公職 先代: (新設) 初代: - 次代: (現職) 非営利団体 先代: (新設) 初代: - 次代: (現職) 先代: 第2代:2012年 - 2014年 次代: (廃止) 先代: () 第5代: - 次代: この項目は、に関連した です。 この項目は、に関連した です。 などしてくださる(/)。

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