ありがたきもの 現代語訳。 『鶏鳴狗盗』原文・書き下し文・現代語訳

珍説?「ありがたきもの」(枕草子): 不二草紙 本日のおススメ

ありがたきもの 現代語訳

聞こえやしないだろうと小声で言ったつもりなんでしょうけれど、 「あー、ツライ。 煩悩で苦悩するってのはまさしくコレだ。 夜も更けて夜中になってしまうじゃないか」 なんて言ってたりするのは、まったく気に食わない。 そんな愚痴を言う本人に関しては別にどうでもいいんだけれど、この家来の主人である御簾の中にいる人のことを、これまでステキだなと見たり聞いたりしてきた気持ちが吹き飛んでしまうわ。 またそれとはっきり言葉に出すのではないけれど、 「あーあ」 と声高にうめいてみせるのも、「下行く水の…」の和歌の気持ちなのかと察せられてお気の毒。 言わずに内に籠めた思いは、口に出す思いより強いものだ) 衝立や、透垣 (すいがい・写真参照)などのそばで、 「雨が降りそうだなー」 とか聞えよがしに言っているのも超ウザい。 逆に特に高貴な人のお供をするような人には、そんな振舞いをする者はいない。 摂関家の若君のお供のレベルも、悪くはないわね。 でもそれ以下の身分の人に仕えるお供は、皆あんな感じでダメ。 大勢抱えている家来の中でも、その人の性質をしっかり見極めて、お供に連れて行ってもらいたいものね。 めったにないもの。 舅に褒められる婿。 また姑に良く思われる嫁。 毛がよく抜ける銀製の毛抜き。 主人を悪く言わない家来。 完全無欠な人。 見た目も内面も行動も優れていて、世間づきあいを重ねても全くボロを見せない人。 同じ所に住んでいる人同士が、お互いに気兼ねして全く隙を見せないように心を配っていても、ずっと最後までボロを見せずに通すことは難しいものよ。 物語や歌集などを書写するとき、本を墨で汚さない人。 貴重な本とかだと細心の注意を払って書写するけれど、必ず汚しちゃうのよねえ。 男と女のことに関しては今更書きたてるのも愚か。 女同士だって「ズッ友だよ!」って誓い合って付き合ってても、最後まで仲が良いままだなんて、ほとんどありえないくらいなんだから。

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『鶏鳴狗盗』原文・書き下し文・現代語訳

ありがたきもの 現代語訳

つまらないことでも何かの役に立つというたとえ。 靖郭君田嬰 ナル者 ハ、斉 ノ宣王 之 の 庶弟 也 なり。 封 二 ゼラル於薛 一 ニ。 有 レ リ子曰 レ フ文 ト。 靖 せい 郭 くわく 君 田嬰 でんえい は、 斉 せい の 宣 せん 王 おう の 庶 しょ 弟 てい なり。 薛 せつ に 封 ほう ぜらる。 子有り 文 ぶん と 曰 い ふ。 靖郭君田嬰は、斉の宣王の異母弟である。 薛に領地を与えられた。 (田嬰には)子どもがいて、名を文といった。 食客数千人。 名声聞 二 コユ於諸侯 一 ニ。 号 シテ為 二 ス孟嘗君 一 ト。 食客 しょくかく 数千人。 名声諸侯に聞こゆ。 号して 孟嘗 もうしょう 君 くん と 為 な す。 その名声は諸侯に知られていた。 (文は)孟嘗君と称した。 秦 ノ昭王、聞 二 キ其 ノ賢 一 ナルヲ、乃 チ先 ヅ納 二 レテ質 ヲ於斉 一 ニ、以 ツテ求 レ ム見 エンコトヲ。 秦 しん の 昭 しょう 王 おう 、 其 そ の賢なるを聞き、 乃 すなは ち 先 ま づ質を斉に 納 い れて、 以 も つて 見 まみ えんことを求む。 秦の昭王は、孟嘗君が賢明であることを聞き、そこでまず先に人質を斉に送り入れて、そうして会見を求めた。 人の命を担保に孟嘗君との会見を求めたということ。 至 レバ則 チ止 メ。 囚 ヘテ欲 レ ス殺 レ サント之 ヲ。 至 いた れば 則 すなは ち 止 とど め、 囚 とら へて 之 これ を殺さんと欲す。 (孟嘗君が秦に)到着すると引き止め、捕えて孟嘗君を殺そうとした。 孟嘗君 使 し 下 ム 人 ヲシテ抵 二 リテ昭王 ノ幸姫 一 ニ求 上レ メ解 カンコトヲ。 孟嘗君人をして昭王の幸姫に 抵 いた りて 解 と かんことを求めしむ。 姫曰 ハク、「願 ハクハ得 二 ント君 ノ狐白裘 一 ヲ。 」 姫曰はく、「願はくは君の 狐白裘 こはくきゅう を得ん。 」と言った。 蓋 シ孟嘗君、嘗 テ以 ツテ献 二 ジ昭王 一 ニ、無 二 シ他 ノ裘 一矣。 蓋 けだ し孟嘗君、 嘗 かつ て 以 も つ て昭王に献じ、他の 裘 きゅう 無し。 実は孟嘗君は、以前に昭王に献上しており、他の皮衣がなかった。 客 ニ有 下 リ能 ク為 二 ス狗盗 一 ヲ者 上。 客に 能 よ く 狗盗 くとう を 為 な す者有り。 食客の中にこそどろの上手な者がいた。 入 二 リ秦 ノ蔵中 一 ニ、取 レ リテ裘 ヲ以 ツテ献 レ ズ姫 ニ。 姫為 ニ言 ヒテ得 レ タリ釈 サルルヲ。 秦 しん の蔵中に入り、 裘 きゅう を取りて姫に 献 けん ず。 姫 為 ため に言ひて 釈 ゆる さるるを得たり。 秦の蔵の中に入って、皮衣を盗み出して、姫に献上した。 姫が孟嘗君のために説得して、釈放されることができた。 即 チ馳 セ去 リ、変 二 ジテ姓名 一 ヲ、夜半 ニ至 二 ル函谷関 一 ニ。 即 すなは ち 馳 は せ 去 さ り、姓名を変じて、夜半に 函 かん 谷関 こくかん に 至 いた る。 すぐに馬を走らせて逃げ去り、姓名を変えて、夜中に函谷関に到着した。 関 ノ法、鶏鳴 キテ方 ニ出 レ ダス客 ヲ。 関の法、鶏鳴きて 方 まさ に客を 出 い だす。 関所の法では、鶏が鳴いて初めて旅人を出すということになっていた。 恐 二 ル秦王 ノ後 ニ悔 イテ追 一レ ハンコトヲ之 ヲ。 秦王の後に 悔 く いて 之 これ を追はんことを恐る。 秦王が後で(釈放したことを)後悔して孟嘗君を追うことを恐れた。 客 ニ有 下 リ能 ク為 二 ス鶏鳴 一 ヲ者 上。 客に 能 よ く鶏鳴を 為 な す者有り。 食客の中に鶏の鳴きまねを得意とする者がいた。 鶏尽 ク鳴 ク。 遂 ニ発 レ ス伝 ヲ。 鶏 尽 ことごと く鳴く。 遂 つひ に伝を発す。 そのまま通行を許可した。 出 デテ食頃 ニシテ、追 フ者果 タシテ至 ルモ、而 不 ず レ 及 バ。 出でて食頃にして、追ふ者果たして至るも 及 およ ばず。 孟嘗君帰 リテ怨 レ ミ秦 ヲ、与 二韓・魏 一伐 レ チテ之 ヲ、入 二 ル函谷関 一 ニ。 秦割 レ キテ城 ヲ以 ツテ和 ス。 孟嘗君帰りて秦を 怨 うら み、 韓 かん ・ 魏 ぎ と 之 これ を 伐 う ちて、函谷関に入る。 秦城を 割 さ きて 以 も つ て 和 わ す。 秦は町を割譲して和睦した。 - ・食客が数千人を超えていたと言うが、それは歴史書にありがちな誇張した表現。 聞き手をひきつけるため、「おおすごい」と思わせるための書き方。 ・狐白裘はとても高価で価値のあるものだったので宣王に献上するのにぴったりだった。 幸姫が献上されたことを知っていてその条件を出したのかどうか。 ・幽閉されたはずの孟嘗君がどうして使いを出すことができたのか、また一緒にいた食客は捕えられなかったのか、なぜ幸姫にアプローチがとれたのかは不明。 もっと言うと食客はどうやって抜け出して蔵まで行けたのか。 ・追手が函谷関から追ってこなかったのは、函谷関は国境警備門で、それ以上追うと逆に自分たちが捕まるから。 ・「伝」というのは宿場と宿場を結ぶ連絡用の馬車。 宣王も「伝」を馳せたのだがこちらは馬車ではなく馬だけだろう。

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ありがたきもの

ありがたきもの 現代語訳

同格の構文について >>> 11 同格の構文について 1 同格の構文というものがあります。 次は、同格の構文として取り上げられることが多い『伊勢物語』の東下りの段にある例です。 白き鳥の、嘴〔はし〕と脚〔あし〕と赤き、鴫〔しぎ〕の大きさなる、水の上に遊びつつ魚〔いを〕を食ふ。 (『伊勢物語』9) 「白き鳥の」以下の言葉は、すべて「水の上に遊びつつ魚を食ふ」ということをしている「白き鳥」について述べているのであるから、文意から「赤き」という連体形の語の次に「鳥」を補い、「大きさなる」の次に「鳥」を補った上で、「白き鳥」と「嘴と脚と赤き(鳥)」は同じ鳥、「白き鳥」と「鴫の大きさなる(鳥)」も同じ鳥であるから、「水の上に遊びつつ魚を食ふ」に対して同じ主格であるとする、そういう論理なのでしょう。 こういう連体形の用法は準体法と呼ばれていて、活用語としての意味や性質を保ちながら名詞相当の意味で使われるものとされています。 文意からそれぞれの連体形の語の次にふさわしい名詞を補って解釈をするというのが一般的です。 こういう操作の結果として、次のような現代語訳が出来あがります。 白い鳥で、くちばしと足とが赤い鳥で、鴫の大きさである鳥(=都鳥)が、水の上で遊びながら魚を食べている。 (旺文社『全訳古語辞典』第二版の格助詞「の」の項) こういう準体法の説明を聞いてからこの現代語訳を読むと、なるほど文法と言うのはきっちり出来ていてすごいんだなあと、誰もが感心するでしょう。 しかし、考えなければならないのは、準体法と呼ばれる連体形の語の処置の仕方です。 連体形の語の次に名詞を補うのは、はたして、これが妥当な処置であるのかどうかということです。 2 「白き鳥の、嘴と脚と赤き」という表現から思い浮かぶのは『枕草子』の物尽くしの章段です。 物尽くしの章段は、「もの」の提示の仕方に次の三通りがあるようです。 『枕草子』の章段は、新潮日本古典集成の『枕草子』です。 名詞 瞿麦〔なでしこ〕。 菖蒲〔さうぶ〕。 (『枕草子』絵に描き劣りするもの) 松の木。 秋の野。 (『枕草子』描きまさりするもの) これは名詞そのものをずばり提示しているのは分かりやすいです。 これこれという名詞 舅〔しうと〕にほめらるる婿〔むこ〕。 また、姑〔しうとめ〕に思はるる嫁の君。 主〔しゆう〕そしらぬ従者〔ずさ〕。 (『枕草子』ありがたきもの) 「舅にほめらるる婿」は、婿といってもいろいろな婿がいるわけで、その中でもなかなかいないのは「舅にほめらるる婿」だという示し方をしています。 これは名詞による提示の仲間ですけれども、その名詞の属性をより具体的に説明した提示の仕方と言えるでしょう。 これこれという連体形 つゆの癖なき。 (『枕草子』ありがたきもの) 親などの、心地悪〔あ〕しとて例ならぬ気色〔けしき〕なる。 (『枕草子』胸つぶるるもの) 物見のかへさに、乗りこぼれて、男どもいと多く、牛よく遣〔や〕る者の、車走らせたる。 (『枕草子』心ゆくもの) これは「名詞」や「これこれという名詞」という、名詞で終わる提示の仕方とは違い、「癖なき」「気色なる」「走らせたる」のように述部で終わっています。 「つゆの癖なき」は、まったく癖のない人という意味ではなく、まったく癖がないという状態そのものを、「親などの、心地悪しとて例ならぬ気色なる」は、親などが具合が悪くて、普段とは様子が違う状態そのものを、また、「物見のかへさ」の例では、牛車が疾走しているありさまそのものを表現していると考えられます。 『枕草子』の物尽くしの章段には、以上のように「名詞」「これこれという名詞」「これこれという連体形」という三通りの提示の仕方があるようですが、「名詞」による提示の仕方は除外して、「これこれという名詞」と「これこれという連体形」との表現の違いをさらに考えることにします。 3 『枕草子』の「すさまじきもの」の章段に、次のような示唆的な例があります。 婿取りして四五年まで産屋〔うぶや〕のさわぎせぬ所も、いとすさまじ。 (『枕草子』すさまじきもの) これは、「これこれという名詞」という提示の仕方をしています。 婿取りして四五年たっても子供が産まれない所を具体的に示していて、そういう所も「いとすさまじ」だと言っています。 家の内なる男君の来〔こ〕ずなりぬる、いとすさまじ。 (『枕草子』すさまじきもの) 一方こちらは、「これこれという連体形」という提示の仕方です。 「来ずなりぬる」は、本来通ってくるはずの男の通って来ない状態、家の中にぽかんと空間が出来てしまったような状態を示しているのであって、通って来なくなってしまった男君は「いとすさまじ」という表現ではないでしょう。 こうして比べてみると、「これこれという名詞」という、連体形の語の次に名詞が続く表現と、「これこれという連体形」という、連体形の語の次に名詞が続かない表現とでは、表現の内容がまったく違っていることが分かります。 いわば、名詞的な表現と形容詞的な表現の違いと言ってもよいような大きな違いがあるようです。 次に示す、「三月三日は」の例は「これこれという名詞」と「これこれという連体形」とが混在していて、とても示唆的です。 おもしろく咲きたる桜を長く折りて、おほきなる瓶〔かめ〕にさしたるこそ、をかしけれ。 (『枕草子』ころは) 「おもしろく咲きたる」は「桜」に集約された表現で、「おもしろく咲きたるを長く折りて」という表現では、話の焦点が定まらず何を言いたいのかよく分かりません。 ここでは藤でも山吹でもなく桜なのだと示されているので、何を話題にしているのかがよく分かり、的確にイメージすることができます。 一方、「おほきなる瓶にさしたる」は、名詞に意識を集約させる表現とは異なっていて、「おもしろく咲きたる桜を長く折りて、おほきなる瓶にさしたる」という状態そのもの、大きな瓶に満開の桜が生けられた、いわば全体像を表現していると解釈するのが妥当でしょう。 このように「これこれという名詞」と「これこれという連体形」という提示の仕方は、表現していることがずいぶん違っていることが分かります。 以下、「これこれという連体形」をさらに調べてみましょう。 正月一日、三月三日は、いとうららかなる。 五月五日は、曇りくらしたる。 七月七日は、曇りくらして、夕方は晴れたる空に月いとあかく星の数も見えたる。 (『枕草子』正月一日) 「いとうららかなる」は「いとうららかなる日」でも「いとうららかなる空」でもありません。 「いとうららか」な状態そのものを表現しています。 「曇りくらしたる」「星の数も見えたる」も同様であって、どれも空の状態そのものを言っているのであって、何かの名詞に集約されるような表現ではありません。 夜中ばかりに、御笛の声の聞こえたる、また、いとめでたし。 (『枕草子』日のうらうらと) これは、「夜中に聞こえたる笛の声」という理解をしてしまいがちな表現ですが、そうではありません。 夜中に主上の吹く笛の音が聞こえている状態そのものを表現していて、内裏の夜の空間をも感じさせる表現です。 思はん子を法師になしたらんこそ、心苦しけれ。 (『枕草子』思はん子を) 「思はん」は「子」に集約される表現で、「子」でないと話の焦点がぼけてしまいます。 「思はんを法師になしたらんこそ、心苦しけれ」では、何のことやら分かりません。 逆に、「法師になしたらん」の「ん」の次に「子」は補うことはできません。 法師になったかわいい子が「心苦し」ということではなくて、かわいい子を法師にしているのという状態そのものが「心苦し」と言っているのだと考えられます。 このように、「これこれという名詞」と「これこれという連体形」とは、名詞的な提示と形容詞的な提示とも言うべき、はっきりとした違いのある表現だと考えるのが妥当でしょう。 4 しかし、この「これこれという連体形」という表現を現代語に移す作業をする場合、つまり、現代語訳をする場合には、どうしても連体形の語の次に言葉を補わなければなりません。 古文では名詞なしで表現できるところを、現代語としてはどうしてもなにか言葉を入れないと理解できないという、避けては通れない問題があるからです。 雪の、いと高うはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。 また、雪のいと高う降り積もりたる夕暮より、端近〔はしぢか〕う、おなじ心なる人二三人ばかり、火桶を中に据ゑて物語などするほどに、暗うなりぬれど、こなたには灯〔ひ〕もともさぬに、おほかたの雪の光、いと白う見えたるに、火箸して灰など掻きすさみて、あはれなるも、をかしきも、言ひ合はせたるこそ、をかしけれ。 (『枕草子』雪のいと高うはあらで) 「雪の、いと高うはあらで、うすらかに降りたる」は、雪がうっすらと積もっている状態そのものを言うのに対し、そのすぐ続きに出て来る「雪のいと高う降り積もりたる」は「夕暮」という名詞に集約される表現をしています。 両者には表現として大きな違いがあるのは言うまでもありませんが、現代語訳をする場合、「うすらかに降りたるなどは」については、古文の表現を尊重して準体助詞の「の」を補って「うすらかに降りたる(の)などは」というようにするのが許容される最大限の操作だと言えます。 この操作によって状態の表現であることをどうにか示すことができます。 ここに「時」などを補ってしまうと、名詞に集約された表現として解釈したことになり、「これこれという連体形」の、形容詞的提示という表現が理解できていないということになります。 次の「夕暮より、端近う、おなじ心なる人二三人ばかり、火桶を中に据ゑて物語などする」は「ほど」に集約されている表現です。 その続きの「暗うなりぬれど、こなたには灯もともさぬ」と「おほかたの雪の光、いと白う見えたる」は、どちらも状態の提示であって、名詞に集約された表現ではありません。 それぞれ、明かりを点けていない薄暗い状態そのもの、雪の光でぼおっと明るく見える状態そのものを示しています。 清少納言には、この室内と室外の明暗の対比がおもしろかったのでしょう。 しかし、現代語訳として、「いと白う見えたる」と次の助詞の「に」とのつながりをどう処置するかとなると、とても難しい問題が生じます。 連体形+助詞「に」の形のままでは現代語として理解できませんから、何かの処置をしなければならないのですが、「暗うなりぬれど、こなたには灯もともさぬ(の)に」というように「の」を補って訳すと、「のに」が現代語の接続助詞「のに」と間違えられてしまい、誤解が生じます。 それで仕方なしに「時」を補うことになるのですが、これでは名詞に集約された表現として訳していることになってしまって、古文の表現とは異なっていることになります。 この助詞の「に」は、状態を示す語句を受けているので、助詞なのですが形容動詞の連用形の活用語尾の「に」ような働きをしているように感じられるます。 この「に」の働きが現代語に移しにくいのです。 「こなたには灯もともさぬに」と「いと白う見えたるに」は、形容動詞の連用中止法のようにして状態を並べているような表現をしているように感じられます。 「室内はこれこれという状態で、庭はこれこれという状態で」と述べて次へ話が進んでいく、そんな表現であるのでしょうが、連体形の語の次に言葉を補うという方法では、こういう表現を現代語にはどうしても移すことができないのです。 かといって、「に」を接続助詞として、「ので」とか「けれども」と解釈することができないのは言うまでもないでしょう。 「あはれなるも、をかしきも」は、しんみりとする状態そのもの、興趣を感じる状態そのものを表現しているのであって、「あはれなる話も、をかしき話も」というように名詞に集約された表現をしているのではありません。 現代に訳す時には「あはれなる(の)も、をかしき(の)も」とするのが許容される最大限の操作でしょう。 次の「言ひ合はせたるこそ、をかしけれ」も同様であって、「言ひ合はせたる」はあれやこれや話に花が咲いている状態そのものを表現しています。 この部分の処置は、「言ひ合はせたる(の)こそ、をかしけれ」とするしかないでしょう。 補う言葉は「時」ではないし、「話」でもないのは言うまでもありません。 現代語訳という作業をしていて、連体形の語の次に具体的な名詞を補った瞬間に、古文本来の表現の論理を破壊して、現代語の論理の世界に持って来てしまっていることに気付かなければいけません。 さらに、その補った名詞に注目して構文を再構築するような読み方、つまり、同格の処置は慎まなければいけないことだと思います。 5 いわゆる同格の構文の訳し方として言われている、「の」を「で」と訳し、「の」の前にある名詞と同じ名詞を連体形の語の次に補うという方法で現代語訳を組み立てる作業をすると、しなくてもよい下位分類までもしてしまって、何が何やらわけが分からなくなってしまうということが起こります。 遊び、もしは、見すべきことありて、呼びにやりたる人の来〔こ〕ぬ、いとくちをし。 (『枕草子』くちをしきもの) 「呼びにやりたる人の来ぬ」を、現代語訳として「呼びにやった人で来ない人」と訳すと、呼ばれても来ない人がいる一方で、呼ばれたことに応えてやって来た人もいて、そのやって来た人については満足に思うけれども、来ない人についてはがっかりだという解釈をしてしまう恐れがあります。 しかし、古文はそうは書かれていません。 呼びにやった人が来ないのはがっかりだということです。 痩せ、色黒き人の、生絹の単着たる、いと見苦しかし。 (『枕草子』見苦しきもの) 「痩せ、色黒き人の、生絹の単着たる」を「痩せ、色が黒い人で、生絹の単を着ている人」と訳すと、「痩せ、色が黒い人」について「生絹の単着ている人」と「生絹の単を来ていない人」という下位分類をして、その「生絹の単着ている人」の方はとても見苦しいと言っているという解釈をしてしまう恐れがあります。 しかし、そういう表現でないことは言うまでもないでしょう。 6 「名詞の〜連体形」という形をいくつか確かめてみよう。 あはれなる事など人の言ひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。 (『枕草子』はしたなきもの) 「涙のつと出で来ぬ」は「涙のつと出で来ぬ(の)」であって、「涙のつと出で来ぬ(涙)」ではありません。 暁に格子妻戸を押し開けたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、をかしけれ。 (『枕草子』風は) 「嵐のさと顔にしみたる」は「嵐のさと顔にしみたる(の)」であって、「嵐のさと顔にしみたる(嵐)」ではありません。 九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて風のいと騒しく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。 (『枕草子』風は) 「黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる」は「黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる(の)」であって、「黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる(黄なる葉)」ではありません。 頭は尼削ぎなるちごの、目に髪のおほへるを掻きはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。 (『枕草子』うつくしきもの) 「目に髪のおほへるを」は、「おほへるをを掻きはやらで」だけに注目すると「おほへる(髪)を」としたくなりますが、ほかの用例と同じように「目に髪のおほへる(の)を」とすべきでしょう。 「ちごの、〜、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし」も、もちろん、「ちごの、〜、うちかたぶきて物など見たる(の)も、うつくし」という処置をすべきです。 「名詞の〜連体形」という形は、名詞で示されたものについて、そのありようというか、その状態を示している表現であるわけですが、この「名詞の〜連体形」と同じように、状態を示してそのままで済ませてしまう表現が現代語にないかと言うと、「ビールの冷えたのをくれ」とか「お大根の炊いたんが食べたい」とかがあります。 これは特殊な難しい表現ではなく、現代語として普通に使うことができる表現であるわけですから、古文の「名詞の〜連体形」をこの方式で理解すれば十分であると言えるでしょう。 文意からふさわしい名詞を補って解釈するという操作をしてわざわざ難しくする必要はないのです。 7 冒頭にあげた『伊勢物語』の例も、今まで述べてきたように連体形の語の次に「の」を補うのが許される最大限の処置であることは同様です。 ただし、この例では「嘴と脚と赤き」と「鴫の大きさなる」というように連体形が続けて二回出て来るので、現代語訳が現代語として様にならないという別の問題が起こりますが、これは、現代語として様になっていないだけであって、古文の表現としては十分に様になっている、普通の表現であることを理解しておかなければなりません。 白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。 (『伊勢物語』9) 白い鳥の、くちばしと足と赤い(のが)、鴫の大きさである(のが)、水の上で遊びながら魚を食べている。 これには語り手の視点の移動というか、関心の移動という観点を取り入れると、うまく説明ができます。 白い鳥だと全体像をまず示し、嘴と脚が赤いんだよと部分の説明を付け加え、そういうのは鴫の大きさなんだと大きさの説明をして、さらに、そういうのが水の上で遊びながら魚を食べているというように、視点を移動させながら表現していると考えるのです。 連体形の語のところで残っている響を受け止めて、そういうのが〜、それが〜というように読むとよいわけです。 これが古文本来の読み方でしょう。 あるいは、塗り重ねてゆく表現であるととらえることもできます。 『伊勢物語』の例では「鴫の大きさなる」を絵としてどう描くか、説明しにくいのですが、「ビールの冷えたのをくれ」では、最初にビール瓶を描いて、次に瓶の表面に水滴を描いてよく冷えた感じを表わすというような表現をしているわけです。 現代語に訳す時には、古文に書かれている通りにずるずると訳していけばよいのであって、古文はこういう表現をしているのだと理解すればよいわけです。 そうやってできた現代語訳を、現代語として整った表現にするというのは、まったく別次元の作業であることを自覚しないといけません。 8 訳例には(が)を現代語としては入れておかないと分かりにくいので仕方がなく入れましたが、こういう言葉をついつい入れたくなるという、言葉相互の論理関係を明確にしようという現代語の発想と、ものごとそのものや状態そのものをぽんぽんと提示して、それについての説明を気の向くままに連ねていく古文の発想と、同じ日本語でもずいぶん違うことに気付かされます。 同格の構文というもめ事は、準体法と呼ばれる連体形の語の意味と働きを現代語に移すためにふさわしい言葉を補うという操作を優先し、さらに、現代語として整った表現をしようとすることに注意が向いた結果、古文がそこでどういう表現をしているのかを考え読み取ろうとしなかったことから起こったものだろうと思います。

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