バレー めぐ。 【感想】『バチェラー3』再始動!?YouToubeチャンネル『しんめぐの日常』として復活。その後の2人に目が離せない。

栗原恵と大山加奈、バレー人気を牽引したメグカナに生じた確執

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今年2月に日立リヴァーレを退団した栗原は、以前よりややほっそりした姿で現れた。 「最近は、趣味程度でトレーニングをしたり、ヨガをしたり。 今33歳ですけれど、こんなにゆっくり過ごしているのは初めて。 目覚ましをかけずに寝て、起きたい時間に起きて、という生活です」と穏やかな表情で語った。 今後については、まだ揺れている。 「一応現役なんですけれど、宙ぶらりんの状態。 オファーをいただいて考えるか、もしくは引退するか。 焦りは全然なくて、次にバレーボールをするにしてもしないにしても、今のこの時間がいい充電期間になっています」 収録中、04年の全日本合宿の映像が流れた。 当時の柳本晶一監督にワンマンレシーブで追い込まれ、怒鳴られるシーンが流れると、大山は「この映像、やっと泣かずに見られるようになりました」と苦笑した。 あまりの過酷さに、当時、追いつめられた大山はアテネ五輪を目前にして合宿を逃げ出そうとしたと言う。 2人が当時を回想した。 大山 あの頃は怒られすぎて、もう怒られないように怒られないようにとプレーしていました。 だから、なぜバレーボールをしているのかが分からなくなってしまい、これ以上合宿を続けたら私は壊れてしまうと思って、逃げようとしました。 小学生の頃からずっと夢だったオリンピックがもう目の前だったのに、それよりもつらい気持ちの方が勝ってしまった。 荷物を全部まとめてもう逃げるだけ、というところまでいきました。 でも逃げることを高校の恩師と親にだけは言っておこうと思って、伝えたんです。 そうしたら(下北沢成徳高の)小川(良樹)先生は『カナはスポーツ選手に向いてないんだから、やめたかったらやめていいよ』と言ってくれたんです。 親からも、「バレーはそんなつらい思いをしてまでやるものじゃないよ。 帰っておいで」とメールが届きました。 そういう言葉をもらったことで、逆に「頑張ろう」と思えて、踏みとどまれました。 あの頃は、エースにふさわしい強い人間じゃなきゃいけないと思いすぎていたんですけれど、本当の弱っちい私のことを分かってくれる人がいるんだと思ったら、肩に乗っかっていた重たいものがなくなって、「この人たちのために頑張ろう」と思えたんです。 栗原 当時、私も一緒に合宿に参加していて、カナがすごく苦しんでいるのは分かっていたんですけれど、同じ年齢で、同じポジションで、その中でなんて声をかけたらいいのかが分からなかった。 なんと言えばカナにとってプラスで、逆に何が傷つけてしまうのか。 そういうことを考えすぎてしまって、なかなか声をかけられなくなりました。 私自身は学生時代からしごかれてきていたので、負けじ魂は結構ありました。 だから、ワンマンをされた時も、「絶対負けたくない」と思って追いかけた。 そうすると、目が変わるらしくて、監督はすごくそういうのを見ていましたね。 大山 メグは強いなー、すごいなーと思って見ていました。 私はダメだなーって……。 私の高校はどちらかというと自主性を重んじる高校で、監督が声を荒げるということがいっさいなかったので、そのギャップに苦しみましたね。 2人が出会ったのは中学2年の全国大会。 小学生の頃から将来有望な金の卵として注目されていた大山は、栗原にとって憧れの存在だったため、初対面の時、栗原は「本物だ! テレビの中の人だ!」と舞い上がったと言う。 2人は中学選抜の合宿で意気投合し、高校に入ってからも文通を続ける仲だった。 自分が調子が良かったり、勝っている時はいいんですけど、負けている時や調子が悪い時でも、「栗原さんは何点取りました。 どう思いますか?」とか、そんな質問ばかりで。 とにかくライバル扱いをされて、お互いに自然と距離ができてしまった。 「メグとは仲いいんですか?」と何回聞かれたか。 ね? 栗原 うん、聞かれたね。 私はさっきもお話したように、カナが悩んで落ち込んでいる時に、どういう言葉がうれしくて、どういう言葉がつらいのか、考えすぎて、うまく話しかけられなくなってしまって。 それに、2人でインタビューを受けている時に、「2人は仲がいいんですか?」と聞かれて、カナが「うーん……」となっていると申し訳なく感じたし、自分の質問をされてカナが泣いてしまったというのも目にしたり耳にして、自分のことで悩ませているんだったら、私が声をかけるのはなんか違うのかなと思って、触れられなくなってしまったところもありました。 大山 (泣いたことは)何度かありますね。 特にVリーグで自分が勝てないシーズンに、メグは連勝していて優勝するぐらいのシーズンだったんですけど、試合のたびにメグの質問をされて、「もうやだ!」となりました。 なんだか、自分はメグとセットじゃないと価値がない人間なんじゃないかって、そんなふうに思ってしまいました。 皆さんすごい選手だったので。 だから一緒にいることをやめていた時期もありました。 栗原 あったね。 たくさんすばらしい人たちがいる中に、自分たちはポンと入れてもらっているだけなのに、2人ばかりが取り上げられちゃうのは申し訳なかったです。 大山 2人で並んでストレッチしたり、靴を履いたりすると、そこにカメラが集まるので、自然と距離を置くようになりました。

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2019年度女子日本代表チーム 選手・監督・スタッフ|女子日本代表|公益財団法人日本バレーボール協会

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実際、私も子どもの頃からよく見ていましたね。 特に1999年は中学3年生で、まだW杯は「出るもの」や「目指すもの」ではなく「見るもの」だったので、朝日健太郎さんを応援しながら楽しく見ていました(笑)。 そこに至るまでの経緯は順調でしたか? 初めて合宿に参加したのが02年で、当時は高校3年生でしたが、世界選手権とアジア大会に出場することができました。 でも結果は惨敗で、大会後、当時の日本代表監督が更迭されました。 結果が出ないと監督もクビになってしまうんだ、とショックでした。 翌年、監督が代わって、そこでまた私もメンバーに選出され、キャプテンがトモ(吉原知子)さんになった。 トモさんの姿は「代表のキャプテンとはこういうものだ」と感じさせられることばかりで、トモさんだけでなく、北京オリンピックでキャプテンを務めたテン(竹下佳江)さんなどベテラン選手もいて、私やメグのような若手もいた。 年齢の幅もある中で、トモさんがしっかり締めるところはぎゅっと締める。 トモさんは誰よりも練習をする人だったので、自分が率先してやるからこそ言葉にも説得力がある。 ただいるのではなく、行動で示して説得力を私たちに感じさせるキャプテンで、厳しいけれど温かい。 私たち若手に対しても伸び伸びプレーできる環境をつくってくれる偉大なキャプテンでした。 ワンマンレシーブしかやっていないイメージがあるぐらい(笑)、毎日厳しかったです。 基本的に練習は朝、午前、午後、夜の4部練習です。 朝と夜は自主練なのですが、みんな練習していたので自主練ではないですね(笑)。 W杯前に行われたワールドグランプリで、レギュラーとしてスタメン出場させてもらっていて、私自身も手応えがあったので、「W杯も自分がスタメンでやるんだ」という気持ちでいました。 もちろん直前まで誰が出るかはわかりませんし、スタメンだと言われていたわけではありませんが、自分もW杯に出るんだ、オリンピックに行くんだ、と大きな夢、目標に向かって真っすぐ突き進めていた時期でした。 むしろ、ワールドグランプリもテレビで放送してもらったかな? という記憶しかないですし、あまり注目されている感じはなかったですね。 ただ、私とメグばかり取材は多くて、そこはちょっと、と思っていたし、周りの先輩にも申し訳ないな、と思っていました。

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プリンセスめぐさんはいないの?

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実際、私も子どもの頃からよく見ていましたね。 特に1999年は中学3年生で、まだW杯は「出るもの」や「目指すもの」ではなく「見るもの」だったので、朝日健太郎さんを応援しながら楽しく見ていました(笑)。 そこに至るまでの経緯は順調でしたか? 初めて合宿に参加したのが02年で、当時は高校3年生でしたが、世界選手権とアジア大会に出場することができました。 でも結果は惨敗で、大会後、当時の日本代表監督が更迭されました。 結果が出ないと監督もクビになってしまうんだ、とショックでした。 翌年、監督が代わって、そこでまた私もメンバーに選出され、キャプテンがトモ(吉原知子)さんになった。 トモさんの姿は「代表のキャプテンとはこういうものだ」と感じさせられることばかりで、トモさんだけでなく、北京オリンピックでキャプテンを務めたテン(竹下佳江)さんなどベテラン選手もいて、私やメグのような若手もいた。 年齢の幅もある中で、トモさんがしっかり締めるところはぎゅっと締める。 トモさんは誰よりも練習をする人だったので、自分が率先してやるからこそ言葉にも説得力がある。 ただいるのではなく、行動で示して説得力を私たちに感じさせるキャプテンで、厳しいけれど温かい。 私たち若手に対しても伸び伸びプレーできる環境をつくってくれる偉大なキャプテンでした。 ワンマンレシーブしかやっていないイメージがあるぐらい(笑)、毎日厳しかったです。 基本的に練習は朝、午前、午後、夜の4部練習です。 朝と夜は自主練なのですが、みんな練習していたので自主練ではないですね(笑)。 W杯前に行われたワールドグランプリで、レギュラーとしてスタメン出場させてもらっていて、私自身も手応えがあったので、「W杯も自分がスタメンでやるんだ」という気持ちでいました。 もちろん直前まで誰が出るかはわかりませんし、スタメンだと言われていたわけではありませんが、自分もW杯に出るんだ、オリンピックに行くんだ、と大きな夢、目標に向かって真っすぐ突き進めていた時期でした。 むしろ、ワールドグランプリもテレビで放送してもらったかな? という記憶しかないですし、あまり注目されている感じはなかったですね。 ただ、私とメグばかり取材は多くて、そこはちょっと、と思っていたし、周りの先輩にも申し訳ないな、と思っていました。

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