安倍晋三 家系。 安倍晋三は家系図上では韓国人?兄弟や先祖一族を調査!

安倍昭恵夫人(安倍晋三の妻)の家系図が凄い!実家は森永製菓で子供はいる?

安倍晋三 家系

安倍総理の父である安倍晋太郎さんは衆院議員で自民党幹事長や官房長官を歴任し、総理大臣になる寸前で亡くなった『政界のプリンス』と呼ばれた政治家です。 晋太郎氏は総理直前で亡くなったことから『悲運のプリンス』ともいわれています。 1951年、岸信介の長女と結婚 安倍晋太郎さんは実力派の政治家である岸信介元衆院議員の長女である洋子さんと結婚し、1956年からは岸信介議員の秘書になりました。 岸信介議員が総理大臣に就任すると、総理秘書官に任命され議員を志すことになったようです。 岸総理の反対を押し切って、選挙に出馬。 『岸に迷惑がかかるなら、妻と離縁してでも』と決断した出馬でした。 1958年に第28回衆院議員選挙に旧山口1区から出馬し、自民党の公認も受けたため当選。 同期には竹下登、金丸信がいます。 この関係が彼の政治家人生にとって大きな意味を持つことになりました。 1963年に落選、1967年に返り咲き 岸さんは1963年に第30回衆院議員選挙で落選してしまいました。 この時は政界復帰も危ぶまれましたが、第31回衆院議員選挙にて岸信介の後押しもあり、見事当選しました。 この後は当選を続けて、次男である安倍晋三氏へ地盤が受け継がれていくことになります。 その後、福田、麻生内閣で政務官を務めるなどしているようです。 その後、2012年に衆院議員に鞍替えし、兄である安倍晋三さんが総理になると外務副大臣に就任しています。 現在は山口県連の会長や国会対策副委員長などを務めています。 政治信条は兄と似ていて、特に憲法に関する考え方は安倍総理と同じ考えを持っているようです。 現在でも岸の姓を名乗っているので実の兄弟ということを知らない人も多いようです。 麻生太郎元総理も遠縁の親戚 もう一度安倍家の家系図を見てください。 これを見ると安倍総理と麻生元総理は遠縁の関係になり、親戚同士ということになります。 確かに、安倍さんと麻生さんはかなり密接な関係であることは有名です。 いまでも総理経験者ながら入閣しているのがいい例です。

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安倍晋三は家系図や先祖一族・兄弟もすごいのに無能!?岸家や皇族との関係|KININARU JORNAL

安倍晋三 家系

来歴・人物 [ ] 生い立ち [ ] 政治家・、静子夫妻の長男として東京に生まれる。 寛とは、誕生日が同じである。 生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。 晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。 学生時代 [ ] 旧制山口中学校(現・)に進学。 母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わなかった。 一年間浪人した後、(昭和18年)に()に入学。 翌年9月、わずか1年半 で繰り上げ卒業となり法学部に進んだ。 同時に海軍滋賀航空隊にとして入隊。 終結後、改称された東京大学に復学、(昭和24年)に卒業してに入社。 政治家として [ ] (昭和26年)、の長女・洋子と結婚し、(昭和31年)、岸がのとして入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣となって岸に仕えた。 が成立すると、に就任。 外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟のも時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、(昭和33年)のに、郷里の から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。 (昭和38年)のでは落選し、支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、直系の大物議員の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、を後援会長に迎えることによって(昭和42年)ので衆議院議員に返り咲いた。 このため、周東が政界引退する遠因となった。 以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男のへと引き継がれた。 選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。 がの岸と対岸の熊毛郡出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。 岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、(昭和43年)のでは、藤本にから自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。 その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であったがを引き続き務めることとなり、(昭和49年)も再出馬。 (昭和55年)のでは、安倍が推しが後援会長を務めるに地盤をする事となったが、(昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息であるに地盤は戻り、(10年)のでは二木の地盤は後継者へ引き継がれるも落選、無所属のが当選する。 (平成16年)のでは、安倍の実子で岸家へへ入ったが当選した。 この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる(平成25年)ので江島淳の子息である元市長のが就くこととなった。 自民党では、岸派とそれを継承したに所属し、派閥領袖であったを支え、との党内抗争「」を争った。 安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。 行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。 衆議院大蔵委員長を経て(昭和49年)、においてとして初入閣。 以後、(昭和51年)にを務め、(昭和52年)、のとなり、締結などに関与。 1978年(昭和53年)には福田の再選への流れを作るためにはが有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、防衛庁長官が解散反対を公言する などして解散は頓挫。 同年暮れので福田はに敗れ、福田内閣は退陣する。 (昭和54年)から(昭和56年)まで大平総裁の下でを務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。 の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。 政調会長退任直後にでに就任。 この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。 安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。 (昭和57年)、の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。 総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上でを総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見 であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、と思われていたにも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。 岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。 予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。 中曽根は安倍に人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。 では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。 安倍は必ずしも国際派というわけでもないが、義父・岸信介の米国を生かし、韓国など諸国との外交にも尽力したこともあり、などでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。 一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。 また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、を縮めた面も否めない。 (昭和61年)、衆参同日選挙となったで自民党が大勝し、で、安倍は党総務会長に就任。 同時に派閥会長の座も禅譲された。 中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補としてが出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とたちのひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した()。 この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼のであった次男の晋三ら関係者は否定している。 後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だったが激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。 (昭和62年)にが成立し、安倍はに就任。 導入などでの先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。 発病・死去 [ ] (昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現「」)のを譲り受けていたために巻き込まれたが、その最中にが判明し、緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治もいた)。 (平成元年)5月、表向きには「結石治療」と称して手術を受けた。 (平成2年)1月にはを訪問。 総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われたでは、自派から若手議員を大量に当選させた。 同年6月に訪米するも8月に病状が悪化し入院。 9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソ連邦初代大統領の来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行ったがこれが安倍にとって最後の政治活動となった。 1990年(平成2年)9月に再入院した。 この際に次男の晋三から「です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという。 1991年(平成3年)5月15日、入院先のので死去した。 67歳没。 年譜 [ ]• 4月29日:四谷区(現・)に生まれる• は大字蔵小田(現・)• 3月:卒業• 1949年4月:入社• 12月:毎日新聞社退社、外相秘書官に就任• 2月:首相秘書官に就任( - )• 5月:衆議院議員に当選• 11月:農林政務次官( - 11月)• 衆議院大蔵委員長( - )• 12月:農林大臣に就任( - 9月)• 12月:に就任( - 11月)• 11月:内閣官房長官に就任( - 12月)• 11月:自民党政調会長に就任( - 11月)• 11月:通商産業大臣に就任( - 11月)• 11月:外務大臣に就任 - 7月• 7月:自民党総務会長( - 10月)• 10月:自民党幹事長に就任 - 6月 次男のが幹事長秘書となる• 5月15日:死去• 墓所は山口県長門市油谷、のにある 吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形 [ ] 地元・山口県の境内にある記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。 1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。 他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。 安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。 記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、脚部を改造し椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。 なお、同館では山口県出身 の総理大臣であるの蝋人形は何故か展示していない。 韓国や統一教会との関係 [ ] 義父・岸信介は「」・「統一教会」()と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。 「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた 」と言われており、には『』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考: 阿修羅掲示板より記事原文画像 )。 事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援 してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。 には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。 この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。 晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。 晋太郎の福岡事務所が入っていたビルは事業で成功を収めたの実業家の経営する本社のビルであり、末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった。 系譜 [ ] 山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割、現:長門市)の安倍家は、には地元の大を務め、やのを営み、やがて大津郡きってのと知られるようになった家柄である。 になるとが地元の名士として山口県議会議員になった。 彼は「安倍家中興の祖」と呼ばれる。 慎太郎は地元の名門椋木家から婿養子を迎え入れ、その子であるは山口県議会議員を経て、(昭和12年)に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は政治家一家となる。 寛は1942年(昭和17年)のでの推薦なしで当選を果たした議員の一人として知られる。 その息子が安倍晋太郎であった。 安倍家のについては、出身のジャーナリストによれば、安倍晋太郎自身がであり、の末裔にあたると語っていたという。 安倍宗任はのにて、率いるに破れ、に配流されたのである。 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』216-217頁に「家系図をひもとくと安倍家は、以前の奥州征伐などで名高い、前九年の役のにまで繋がる歴史あるである」とある。 安倍家の元は東北地方に飛び、奥州安倍氏の関係地と言われたなど地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わるを調べ歩き、その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、の石搭山荒覇吐(あらはばき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げたという。 元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は昭和62年(1987年)7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、参拝した。 なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家のであり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという。 だが、この石搭山荒覇吐神社は『』に基づいて、同書の「発見者」・が昭和55年()に創建した神社であり、同社所蔵のの遺骨と称する物は後に鑑定の結果、の骨の化石と判明した。 元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。 「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」。 但し、晋太郎にとり宗任は女系の祖先にあたり、父系はの平知貞の系譜をひき、平家滅亡により源氏による迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。 家族 親族 [ ] 安倍家 [ ] (山口県、)• 祖父・ 彪助(椋木家からの婿養子) 生年不詳 - (28年)没• 祖母・ タメ(政治家の妹) 生年不詳 - (明治31年)没• 父・ (政治家) (明治27年)生 - (21年)没• 母・ 静子(山口県、の長女、陸軍の孫娘。 出生直後に生別。 妻・ (山口県、官僚でのちの首相の長女) (昭和3年)生 -• 長男・ (社長) (昭和27年)生 - 同妻・ 幸子(社長の長女)• 二男・ (政治家、第90・96・97・98代) (昭和29年)生 - 同妻・ (社長の長女) (昭和37年)6月生 -• 三男・ (政治家、岸家へ養子) (昭和34年)4月生 -• 異父弟・ (、) (昭和7年)生 - (18年)没 参考文献 [ ]• 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、• 野上忠興 『気骨 安倍晋三のDNA』 、• 『安倍晋三物語』、2003年9月。 『閨閥-特権階級の盛衰の系譜』〈角川文庫〉、2002年3月、改訂新版、62、212-228頁。 演じた俳優 [ ]• (『』、)• (『安倍晋三が号泣した日』、) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• の課程は3年であった。 なお、岸信介と佐藤栄作はともに、• 党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年(昭和53年)の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。 河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。 この時当選した1年生議員に、、、などがいる• 選挙区は中選挙区時代は、小選挙区時代は及びで、山口県に関係する選挙区及び比例代表からは立候補をしていない。 「統一教会」の教祖、は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。 」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。 私が全部そういうふうに作ってあげた。 」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号) 出典 [ ]• 116-118. , p. 217. 218. 日本新華僑報 2012年11月29日. 2016年7月19日閲覧。 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録• 『気骨 安倍晋三のDNA』 169頁• , p. 216-217. , pp. 41-44. 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』• 35「安倍家三代 世襲の果てに」 関連項目 [ ]• 、 外部リンク [ ]• 公職 先代: 第112・113代:1982年 - 1986年 次代: 先代: 第42代:1981年 - 1982年 次代: 先代: 第41代:1977年 - 1978年 次代: 先代: 第46代:1974年 - 1976年 次代: 議会 先代: 1973年 - 1974年 次代: 党職 先代: 第24代:1987年 - 1989年 次代: 先代: 第29代:1986年 - 1987年 次代: 先代: 第29代:1979年 - 1981年 次代: 先代: 第22代:1976年 - 1977年 次代: 先代: 第2代:1986年 - 1991年 次代:.

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安倍家と麻生家の家系図を辿ってわかった歴代総理の異常な親戚関係

安倍晋三 家系

昭和31年の安倍一家:左から、母・洋子、当時2歳の晋三、父・安倍晋太郎、兄・寛信 1954年9月21日に、のであったと、その妻であるの次男としてで生まれる。 は山口県大津郡油谷町(現、)である。 父方の祖父はの、母方の祖父は後の首相、岸信介で、には後の首相、佐藤栄作がいる。 政治家一族であり、安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。 幼い頃の夢はや、テレビを見てになることに憧れていた。 学生時代 、、を経て、を卒業した。 小学4年生から5年生にかけての、1964年から2年間はが家庭教師についていた。 高校でのは地理研究部に所属。 高校卒業後、成蹊大学に進み、教授のゼミに所属してを学ぶ。 大学では部に所属し、準レギュラーだった。 大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという。 1977年春に渡米し、の英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、の家に下宿しながらの語学学校に通った。 1978年1月から一年間、に留学しており 、首相として訪米中に同大学を訪問している。 ただし、在籍したものの、学士の資格は得ていない。 会社員時代 安倍が会社員時代の一時期を過ごした 1979年4月に帰国し、に入社。 事務所、、東京本社で勤務した。 加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点 」、あるいは「私の原点 」だったと回顧している。 政界入り 秘書時代 神戸製鋼所に3年間勤務した後、1982年からに就任していた父・晋太郎の秘書官を務める。 1987年6月9日、社長のの長女で社員のとで結婚式を挙げた。 は夫妻が務めた。 1987年、参議院議員・の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長・が出馬を表明したことから父・晋太郎に断念するよう説得され立候補を見送った。 衆議院議員 1991年、父・晋太郎が急死。 1993年に父の地盤を受け継ぎ、にから出馬し初当選(当選同期に・・・・・・・・らがいる)。 当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めたに所属する(当時の会長は) [ ]。 1994年、施政下、の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加。 首班指名選挙ではに投票し・樹立に貢献。 1995年のではの推薦人の一人になった。 1999年、衆議院厚生委員会理事に就任。 内閣官房副長官 派閥領袖の首相が組閣した2000年ので、小泉純一郎の推薦を受け 、政務担当のに就任。 でも再任した。 2002年、が在任中に訪問を拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の訪問に随行し、小泉首相ととの首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と毅然とした対応で臨んだ。 拉致被害者5人の帰国は実現したものの、このは日本側の納得する形では決着せずに難航した。 のと共に北朝鮮に対するを主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した。 は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。 自民党幹事長 2003年9月、を控える中で自民党の選挙の顔となるであるの性的なスキャンダルが持ち上がったため、小泉は後任幹事長として安倍を抜擢した。 閣僚も党の要職も未経験であった安倍の幹事長就任は異例であり、事前には筆頭副幹事長もしくはへの就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。 また、自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の総裁時代の幹事長以来24年ぶりであった。 11月投票ので与党は安定多数の確保に成功したが、自民党単独では選挙前の過半数から半数割れとなった。 ただしからは当選者増でもあり、幹事長に留まる。 幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。 2004年4月のでは、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格したが当選)。 同年夏のでは、目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。 結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。 同年9月から後任の幹事長のの強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。 幹事長経験者の幹事長代理就任も異例の事であった。 2004年、党改革推進本部長に就任。 内閣官房長官 「」および「」も参照 2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で、を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日のにおいて内閣総理大臣に指名される。 最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。 第1次安倍内閣 就任表明では、冒頭にを引継ぎ加速させる方針を示し 、国家像として「」を提示した。 安倍は小泉前首相ののために途絶えていた、への訪問を表明。 2006年10月に就任後の初外遊先となった中国・でと会談、翌日には、と会談すべく韓国・に入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。 北朝鮮がを実施したことに対しては「日本のに対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派のらと連携しての対北制裁決議であるを可決させ、個別でより厳しいも実施した。 同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言えるが政治問題化する。 12月には、懸案だった改正との昇格を実現した。 一方で、同月、安倍が任命したが公務員宿舎への入居と愛人問題で、兼国・地方が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。 この後、閣内でスキャンダルが続いた。 2007年3月、安倍のに対する非難とへの謝罪に消極的であることが「二枚舌」とワシントンポストに批判された が、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続きが強固なものであることをアピールした。 参議院補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補のの応援演説を行うなどのバックアップを行った。 5月28日、以前から様々な疑惑のあったが内で、首を吊って。 こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。 同月6日 - 8日には首相就任後初のであるハイリゲンダム・サミットに参加、への対策を諸外国に示した。 また、議長総括にの解決を盛り込ませた。 7月3日にはのが問題化。 安倍は久間に厳重注意に処し、久間は直後に辞任、後任にはが就任した。 参議院議員選挙(2007年)での敗北 詳細は「」を参照 2007年7月29日のへ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である農林水産大臣にもいくつかのが発覚。 選挙中に発生したでは発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。 同年のでは「年金問題」の早期解決を約束し、「に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。 選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」 と楽観視していたとも言われるが、結果は37議席と連立を組むの9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。 これまで自民党が強固に議席を守ってきた、やで自民党が全滅、勝敗を左右するも、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。 体調の悪化と総辞職 参院選直後の7月31日のにおいて、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た()。 同日、アメリカ下院ではが議決されていた。 翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と自民党内からも批判された。 に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる。 そして、8月19日から8月25日の・・3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。 しかし、の主治医によると、(17歳のときに発症したという)の血液反応はなく、という検査結果であったという。 選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した()。 ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。 9月9日、・で開催された (アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、することをした。 この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。 2007年9月10日にが開催され、安倍はの中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。 なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「」という言葉は結びに一度使ったのみであった。 2007年9月12日午後2時、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った。 また、理由についてはを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした。 これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。 翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院。 検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。 は9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とメッセージを配信し終了した。 なお、病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした。 9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。 このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」とは置く予定はないという方針をとっていた。 20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた 9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。 さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらずを置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた。 9月25日、最後のに出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議でのにも出席した。 第1次安倍改造内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。 安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。 26日にはで行われた自民党総裁首相のに出席し正式に辞職し再び病院へと戻った。 突然の辞任への反応 安倍は辞任の理由として「の再延長について議論するためのとの党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。 一方、自身の健康への不安のためとする理由も、(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。 24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。 もともと胃腸に持病を抱えており 、辞意表明当日の・特別号外でも持病に触れられていた。 また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している。 この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『』へのインタビューで、である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている。 臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した。 与党側でも驚き や批判 の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た。 安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」()などと報じた。 欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった。 辞任の原因 2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で一般に言う「腹痛」であったが、実際には「」を患っていた。 潰瘍性大腸炎は1973年に(2015年からは)に指定されている。 麻生・与謝野クーデター説 安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党のの一部によってメディアを通じて広められた。 この「麻生・与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。 さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した。 2012年のに伴う街頭演説にて 内閣総理大臣退任後 体調回復と活動の再開 慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・の私邸で自宅療養に入った。 11月13日にの採決を行うに出席し、賛成票を投じた後、首相や公明党の代表へ体調が回復したことを伝えた。 2007年末、『産経新聞』のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」 と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」 と答えている。 2008年1月、『』に手記を寄稿。 2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。 決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている。 2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久やらが入会した。 設立総会において、安倍は「を成功させるのは私の責任」 と語り、同懇話会の座長に就任した。 3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。 私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。 心からおわびを申し上げたい」 と述べて所属議員に謝罪した。 直後に行われたでは、麻生太郎とともに、の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、を支援した。 2度目の総裁就任 2012年9月12日、谷垣総裁の任期満了に伴って行われるへの出馬を表明。 自らが所属するの会長であるの出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、前会長の森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。 当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされた事や5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった、党内重鎮からの支援を受けての出馬となったの後塵を拝していると見られていた。 しかし、、が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となり、9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決選投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。 石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された。 一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は以来となった。 第2次安倍内閣(2012年) 内閣総理大臣に再就任 2012年12月16日ので自民党が圧勝し、政権与党に復帰。 同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。 1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では以来2人目である。 首相再登板後は、経済を克服するためにを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示した。 大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、と称される。 「アベノミクス」は2013年のトップテンに入賞し、安倍が受賞した。 参議院議員選挙(2013年)での勝利 「」も参照 安倍は2012年12月の首相就任以降、の東京招致委員会の最高顧問として各国首脳との会談や国際会議の際に東京招致をアピールした。 さらに、2013年3月に来日したIOC評価委員会との公式歓迎行事では演説を行い、歌を披露する場面も見られた。 安倍は首相就任後、の開催が決定した当時の首相が祖父である岸信介であることを持ち合いに、自らがIOC総会に出席してプレゼンテーションを行う意欲を見せていた。 これにより開催地決定の直前である9月5日と6日にので開催されたを途中で切り上げ、6日にブエノスアイレスに到着しIOC委員へ東京支持を呼びかけた [ ]。 7日の総会では東京のプレゼンターの1人として演説を行い、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。 状況は、統御されています。 東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。 」と発言。 演説後の質疑応答では総会直前に明らかとなったの汚染水漏れ に関する質問が出た。 これに対し安倍は「結論から言うと、まったく問題ない。 (ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。 汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0. 3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」、「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。 完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」と答え 、「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」と述べた。 しかし、汚染水漏れのニュースは後を絶たず 、安倍の発言が東電の公表している状況とも異なっているなど 、状況は統御されていない事実が明らかになった。 このことは国会でも追及されており、安倍は追及に対して「事態は掌握しているし、対応はしている、という意味でコントロールと発言した」と抗弁している。 参議院議員選挙(2016年)での勝利 「」も参照 自民党は57議席を獲得した。 改選前から9議席減となり、非改選の議席を含めた単独過半数を維持できなかった。 通算組閣回数・首相通算在職日数 2019年9月11日に内閣改造を行い、が発足。 これにより通算組閣回数は11回となる。 2019年11月20日、首相通算在職日数が「2887日」となり、それまでの(2886日)抜き歴代最長となった。 連続の在職期間は、大叔父のに次ぐ歴代2位。 政見、政策 皇室 皇室典範解釈 「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてある」とし「はそういう役割を担うことができない」と述べている。 退位 2016年8月の天皇の生前退位の示唆を受け、政府は有識者会議を設けた。 有識者会議および安倍内閣とも、違憲性検討等に時間を要する皇室典範改正ではなく特例法制定での早期決着の方針を志向した。 しかし、2017年1月26日の衆議院予算委員会での議員からの質問に対し、安倍は皇位継承や女性宮家創設を含めた皇室典範改正について「当然、必要であれば改正いたします」と答弁した。 2017年4月21日、有識者会議は最終報告書を安倍に提出した。 退位後の天皇の呼称や退位後の制度設計などが含まれる報告書に基づいた特例法案が国会に提出される見込みである。 2017年6月7日、参議院特別委員会で、退位特例法案が可決、成立した。 本会議では、参議院天皇退位法案特別委員会で「女性宮家の創設等」の検討を政府に求める付帯決議が採択されたことも報告された。 安倍は、首相官邸で記者団に「政府としては、国会における議論、そして委員会の付帯決議を尊重しながら、遺漏なくしっかり施行に向けて準備を進めていく」と強調、皇位継承について「安定的な皇位の継承は非常に重要な課題だ。 付帯決議を尊重して検討を進めていく」と語った。 皇位継承問題 「」も参照 総裁選直前の2006年7月19日に自らの政治信条を綴った自書『美しい国へ』を出版し、10刷・51万部以上を発行するになった。 政権も「 美しい国日本を作る」とし、自身の政権を「美しい国づくり内閣」と命名した。 現行憲法を頂点とした行政システムや教育、経済、安全保障などの枠組みが時代の変化についていけなくなったとし、それらを大胆に見直すとしている。 について好意的に捉え、安倍政権においても引継ぎ加速させる見解を総理就任記者会見で表明している。 グローバリゼーション展開 政治家となって以来、日本の市場を、オープンにして国を開く事を自分の中に流れる一貫した哲学とし 、のの方針の一つに、「人材や産業を始めとする徹底した」を示し 、「もはや、国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。 」と発言するなど、「世界に対してどこまでも、広々と、オープンにつながる日本」を追い求めている。 具体例として・の医療画像診断やなどの最先端医療技術、鉄道インフラなどの海外展開の成長戦略を述べた。 2006年の所信表明演説で安倍は、「ヒト・モノ・カネ・文化・情報の流れにおいて、日本がアジアと世界の架け橋となる「」を推進する。 」と表明。 「世界一、ビジネス・フレンドリーな国にしたいと、私たちは言い続けています。 この点、シンガポールに追いつき、できれば追い越したい。 真剣に、そう思っています。 」 、「 日米 両国が、をつくるのは、歴史の必然です。 」という見解を示し 、活動の国境の撤廃を目指している。 2014年4月、安倍が内閣総理大臣時代の首相官邸ホームページには、「企業活動の国境、なくす」「は、関税の障壁など、国内外の市場にまたがる制度面の障害をクリアし、より自由に活動できるようになります。 」と書かれている。 また、「私は、日本を、アメリカのようにベンチャー精神のあふれる、「起業大国」にしていきたいと考えています。 」とも述べている。 アジア・ゲートウェイ構想 「」も参照 のにて「日本がアジアと世界の架け橋となる『アジア・ゲートウェイ構想』を推進します」 と述べ、内閣官房に「アジア・ゲートウェイ戦略会議」を設置した。 のでは、2007年5月までに「アジア・ゲートウェイ構想」を取りまとめると明言している。 議員定数削減 2012年11月14日の党首討論で首相が「来年には定数削減する。 それまでは歳費を削減する」と述べたことに対し、安倍は「来年の通常国会において私たちは既に私たちの選挙公約において定数の削減と選挙制度の改正を行っていく、こう約束をしています。 今この場でそのことをしっかりとやっていく約束しますよ」と述べた。 2016年2月19日、野田の質問に対し「政治は結果。 定数削減を言うのは簡単だが実際に実行するのはそう簡単ではない」「我が党も責任があるが、共同責任。 誰かだけに責任があるわけではない」などと答えた。 2016年2月19日、議員定数削減について「必ず実現する。 平成32年の国勢調査まで先送りすることは決してしない。 自民党総裁としての方針だ」と述べ、自民党案より大幅に前倒しする考えを示した。 2018年7月18日、自民党提出の公職選挙法改正案が可決され、参議院議員の定数が6増加した。 地方自治 の推進者であり、改革()を推進している。 は、における経済政策の一つであり、ローカル・アベノミクスと呼ばれることがある。 具体的には、政府関係機関の地方移転や各種特区の活用などが施策として挙げられている。 2020年2月4日の予算委員会で、2014年に策定した「まち・ひと・しごと創生総合戦略」で20年に東京圏から地方への転出を4万人増加、地方から東京への転入を6万人減少させ東京圏の転入超過を解消する目標を掲げたが、19年は東京圏の転入者が転出者を約14万8千人も上回り3年連続で増え「20年度に逆転させるのは難しい」と述べた。 国家戦略特区 「岩盤規制」改革の突破口として、産業の国際競争力を強化するとともに、国際的な経済活動の拠点の形成を促進する観点から、国が定めたにおいて、規制改革等の施策を総合的かつ集中的に推進する特区と位置付けている。 構造改革特区 実情に合わなくなった国の規制が、民間企業の経済活動や地方公共団体の事業を妨げている場合がある。 この弊害を地域を限定して改革することで構造改革を進め、地域を活性化させることを目的とした特区として平成14年度にが創設された。 地域の自然的、経済的、社会的諸条件等を活かしたを実現するための妨げとなる規制を取り除くツールとして、構造改革特区制度の活用を推奨している。 道州制特区法の制定・道州制推進 「」も参照 2006年に北海道地方等の特別区域で道州制を導入できるを成立、公布・施行した。 道州制導入についても2007年の所信表明演説で「道州制は地方分権の総仕上げ」と表明し 、道州制が地方分権の最終形態として好ましいとの見解である。 外国人政策 中国からの公費留学生の大幅拡充 2005年に都内の専修大学講演の中で「中国からの公費留学生の数がまだまだ少ない。 思い切って増やして、反日にならずに日本を知ってもらうよう、我々も努力をしていかねばならない」との見解を示し 、以後、において、公費留学生受け入れの大幅拡充、在留資格制度見直し、留学生の就職を促進している。 出入国管理・難民認定法改正案を閣議決定 2014年3月11日に、安倍内閣は、高度人材と認定された外国人が永住権を取得するために必要な在留期間を3年に短縮、親や家事使用人の帯同も認められるようにする改正案をする。 安倍は、女性の社会進出推進の観点から、家事や介護の分野への外国人材活用促進を指示している。 少子化問題 詳細は「」を参照 「全世代型社会保障」を掲げ、少子高齢化対策に取り組んでいる。 2019年10月からは幼児教育無償化が始まり、2020年4月からは低所得世帯の学生を中心に大学や高校の授業料などを実質的に無償化する新制度が始まる予定である。 2019年の出生数が初めて90万人を割ったことを受けて、「大変な事態であり、とも言える状況だ」と指摘し、少子化対策を担当するに対し、政府が掲げる「希望出生率1. 8」の達成に向けて、あらゆる施策を動員して対策を進めるよう指示した。 捕鯨問題 2018年12月26日に30年ぶりの本格的なの解禁や、日本の異例の国際機関脱退である(IWC)からの脱退も決定した際は「近代捕鯨発祥の地」を地盤に持つ安倍と「古式捕鯨発祥の地」を地盤に持つ幹事長の意向が働いたとされる。 憲法 総裁選では施行60周年を迎えたを改正すると宣言し、総理就任後の国会で、「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっているので、にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べた。 また「私は、国会議員になった当初から改憲論者だが、3つの点で憲法を改正すべきだと主張してきた。 第一の理由だが、現行憲法は占領軍の手によって、憲法の専門家ではない人たちによって2週間そこそこで書き上げられた、と言われており、やはり国の基本法である限り、制定過程にもこだわらざるを得ない」と述べた。 現行憲法の前文については「敗戦国のいじましい詫び証文」「みっともない」と主張している。 2017年5月3日、民間団体のシンポジウムへのビデオメッセージで、新憲法施行年を2020年としたいと表明した。 改憲案の具体的内容として、現憲法の9条1項及び2項を堅持した上で自衛隊の根拠規定の追加や、高等教育を含む教育無償化への意向を表明した。 改憲への期限を明言した安倍の発言は海外でも報道された。 2017年9月の衆議院選挙において、安倍の憲法に自衛隊を明記する公約は、選挙協力する公明党が困惑し 、憲法学者らの集会では集団的自衛権の行使を可能としたことに触れ「憲法を改正する資格はない」「総理大臣が最も憲法を順守していない」と述べられた。 2020年5月3日、ビデオメッセージで新型コロナウィルスの感染拡大を受け、憲法改正で緊急事態条項の創設の必要性を訴えた。 ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領と 外交 においては、「」と「主張する外交」を外交の基本路線とした。 このうち、「価値観外交」は、、民主主義、、という普遍的な価値観を共有する国の輪を世界、に拡大して行くことを目指す外交戦略である が、第1次安倍内閣で外務大臣を務めたが、「」として初めて提唱したものである。 自由と繁栄の弧は、民主主義や法の支配などの価値について、日本が非欧米圏における先駆者としての地位にあることに着目した上、北東アジアから、を経て、インド、中東、中央アジア、中・東欧にかけての「弧」上にある国との間で、日本がリーダーシップをとってこれら価値を共有し、「弧」地域全体の繁栄に貢献する、その結果として経済や安全保障などで日本も国益を享受するという構想といえる。 第1次安倍内閣当時、「自由と繁栄の弧」には、民主主義や法の支配などの価値を共有しているとはいえないの反発を招くとの批判もあったが、就任後初の外遊先に中国を選ぶなど安倍は原則論と現実的対応のバランスを保つことに努めてきており 、日本の国際的存在感の低下、に象徴される日中間の力関係の変化という新たな国際情勢のもと、中国との正面衝突を回避しつつ、アジアにおけるパワーバランスを適正に保ち、アジア及び世界の安定と発展に寄与する外交政策であると再評価されている。 2012年12月28日に発足したも、麻生太郎を副総理兼財務相・金融担当相としたほか、を内閣官房参与としており、改めて自由と繁栄の弧を基本とした外交政策を打ち出すと指摘されている 、安倍が、平成24年12月28日にベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなどの首脳と相次いで電話会談を行ったのもその表れと指摘されている。 またプラハに本拠を置く国際NPO団体「」のウェブサイトに12月27日付けで掲載された安倍の英語論文では、「アジアの民主主義セキュリティダイアモンド構想」を世界に向けて主張している。 第2次安倍内閣最初の閣僚外遊は、民政移管を進めていたへの麻生太郎副総理兼財務相・金融相の訪問で、麻生は「閣僚の最初の訪問先がミャンマーとなったこと自体、政権としてのメッセージである。 」と述べている。 安倍も、就任後最初の外遊先として、2013年1月16日から18日にかけ、まずを訪れ、次に、を訪問。 アジア太平洋地域の戦略環境が変化する中で、地域の平和と繁栄を確保していくため、、、、など普遍的価値の実現と経済連携ネットワークを通じた繁栄を目指し、日本はASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、を発表した。 は、第2次安倍内閣における「価値観外交」の特色は、中国やインドの間という地政学的優位性が高いを抱え、経済や安全保障での重要性も高まるを重視する点であると述べている。 また、日本のにおいては、港や道路などハードのインフラの整備だけでなく、投資環境整備にもつながるや、人材育成といったソフトのインフラ整備への協力を、日本の役割として位置付けることが重要と主張している。 小泉政権により強化されたをさらに充実させるためとの一体化を目指しており、集団的自衛権行使のための憲法改正も視野に入れている。 安倍政権の外交方針について、やなどからはであるという批判 や懸念 があるが、2013年3月の施政方針演説 によれば「日米同盟をより強固にしたい。 わが国の安全確保の観点から当然の取り組みであり、地域の平和と安全に資する。 対米追随外交との指摘はまったくあたらない」としている。 2014年4月24日の日米首脳会談で、日本の超電導リニア新幹線の技術をアメリカへ無償提供すると表明する。 2013年2月の首脳会談でも「日米同盟の象徴」と技術提供を提案していた。 なお、リニアの研究は1962年から開始しており、通常では、リニア技術提供を望む場合、ライセンス料が徴収される。 2013年3月には、日本企業が米軍の開発に参加することを提言した。 中はと会談を行うも 、2016年11月17日に世界の政府首脳に先駆けて大統領選勝利後の次期大統領と非公式会談しての特注品を贈った。 2017年11月5日、トランプ大統領が初来日。 北朝鮮への圧力最大化で一致して米製防衛装備の購入も表明した。 両者のゴルフプレーを通じたゴルフ外交についても報じられた。 ドナルド・トランプが(TPP)からの離脱や、(TTIP)交渉の凍結など、主義的政策をとることに対抗し、アメリカとの貿易交渉を優先する従来の方針を転換し、欧州連合(EU)と接近。 2013年から交渉が続けられていたものの長年停滞していた構想に関し、首席交渉官を交代させるなどして交渉を進め 、2017年12月には交渉の妥結を確認した。 「」を参照 () 祖父である岸信介や父・晋太郎もであり、自身も台湾などとの交流強化を目指している亜東親善協会の会長を2012年の首相就任まで務めていたほか 、第一次安倍内閣の際にはととの間の直行便を推進したり、野党時代には台湾を訪問し総統、元総統などと会談を行うなど、筋金入りの親台派と言える。 また、中華民国政府も安倍のことを親台派であると評価している。 また、第三次安倍内閣では国会答弁のなかで「日本の友人である台湾」と同答弁内で述べられた中国、韓国、北朝鮮、ロシアとは別格の表現をしている ほか、同年7月29日に行われた参議院の我が国及び国際社会のに関する特別委員会において、「台湾は、基本的な価値観を共有する重要なパートナーであり、大切な友人であります」と答弁している。 大叔父の佐藤栄作は中国との国交正常化を目指していたことや 、父・晋太郎は締結や訪日に携わったことから対中関係を重視してきた。 2006年の総裁選は、ありのままの日本を知ってもらうために多くの中国人留学生を受け入れるべきと主張し、小泉政権時に悪化したの改善に意欲を見せた。 2006年の首相就任後の初外遊先に1999年の小渕総理以来の公式訪問として中国を選び、胡錦濤との会談では8年ぶりの共同文書「日中共同プレス発表」での構築を合意した。 第2次安倍内閣でも親書や日中首脳会談などで戦略的互恵関係を日中関係の基礎と度々位置付けてる。 2017年9月には首相の参加は15年ぶりだった45周年記念行事でも出席した安倍首相は戦略的互恵関係に基づいて日中関係を発展させることを表明し 、10年ぶり に日中首脳間で交換された祝電でも戦略的互恵関係を重視し 、同年10月の第19回中国共産党大会にも自民党総裁名義で祝電をおくり 、同年11月にやといった中国の首脳と第三国で立て続けに会う極めて異例の会談を行い 、翌2018年5月には中国の国家主席とは史上初の電話会談も行い 、同年6月にで中国首相では8年ぶりに訪日したと様々な合意 を交わしてその後の視察にも同行し 、同年10月には日本の首相では7年ぶりに公式に訪中して「競争から協調へ」「お互いパートナーとして脅威にならない」「自由で公正な貿易体制の発展」の日中新時代3原則や先端技術やインフラ整備と金融などの協力で一致した。 2012年12月、によると、から「中国の言うことを聞け」と要求され激怒したが「経団連会長(会長)」からの要求を断ったら第二次安倍総理は誕生しなかった、と述べている。 2019年6月27日、G20サミットで来日した習近平と会談し、2020年春に国賓として来日するよう求め、習近平は求めに応じる考えを示した。 2016年12月16日の首脳会談終了後、安倍首相が強調したのは、4島の元住民の墓参など自由訪問の拡充の検討や、4島での共同経済活動を実現するための交渉開始で合意したことだった。 また、プーチン大統領は、領土問題と捉えているのは日本だけであろう、4島一括返還は議題にすらできない、2島返還さえないと述べており、領土返還は難しい見通しとなった。 国交正常化50周年記念式で祖父である岸信介や大叔父の佐藤栄作は国交正常化に大きく関与したと述べ 、父・晋太郎はであり 、父親同士が親密だった大統領に官房長官時代からを贈り手紙をやりとりするなど交流があった。 第一次安倍内閣時に「韓国はまさに日本と同じ価値観を持っている」と発言をしている。 (端島)などの登録をめぐる韓国との交渉では、朝鮮半島出身者のについて、韓国側の要求を受け入れるように外務省に歩み寄りを指示している。 第三次安倍政権下では外務省による二国間関係を紹介するウェブページの韓国に関する記載から「基本的な価値を共有する」を削除し 、更に2018年には「最も重要な隣国」という表現も削除し、困難な問題があるが未来志向で前に進めていくべきといった表現に改めている。 2013年の韓国の月刊誌「」(2013年4月号)による安倍へのインタビューで、安倍は日韓関係はじめ歴史問題や憲法改正などについて語った。 とは2015年12月にを行い、翌年2016年には日韓初 の防衛協力協定である(GSOMIA)も締結し、日米韓の枠組みで初の合同演習も行った。 しかし、朴槿恵大統領の弾劾後は2018年5月9日に日中韓首脳会談のために初訪日した大統領とは日韓間の懸案は先送りされ 、その後の個別の首脳会談で日中が複数の合意文書を交わしたのに対して日韓では目立った成果がなかった。 をめぐって文大統領に「戦略的放置」で対応したとされ 、対抗措置も関係省庁に指示したため 、文大統領から「日本の政治指導者が政治的な争点とし、問題を拡散させている」と批判され 、首相も「日本の指導者はを利用しているとする見方もある」と反発した。 日韓合意に基づくの韓国による一方的な解散、、韓国国会議長によるへの謝罪要求など日本の対韓感情を損ねる事案も続発し 、日本では「は史上最悪」と評されるに至り 、からは日本側は(補完的輸出規制)において優遇措置対象国のホワイト国から韓国を除外して韓国側もGSOMIAを破棄するなどとも呼ばれる状態となった。 (北朝鮮) 北朝鮮対策としての要件緩和・対象拡大を主張した。 2007年2月12日に訪日した米副大統領に、拉致問題が解決するまで北朝鮮に対する指定の解除をしないように要請した。 2016年、北朝鮮が5回目のを行ったことについて「厳重に抗議し、最も強い言葉で非難する」としたを発表し 、国連演説で異例の名指しで批判して制裁強化の議論を日本が主導する意向を表明した。 2017年の国連演説では北朝鮮を非難して「対話を通じた問題解決の試みは無に帰した。 何の成算があって三度同じ過ちを繰り返すのか。 必要なのは対話ではなく、圧力だ」と演説した。 その前には「北朝鮮との対話は無駄骨。 最大限の圧力をかけるべき」と主張する寄稿を米紙に行った。 2017年9月25日、衆議院解散演説において「北朝鮮には勤勉な労働力があり資源も豊富です。 北朝鮮が正しい道を歩めば、経済を飛躍的に延ばすこともできる」と前置きした上で、弾道ミサイル計画を完全な検証可能なかつ不可逆的な方法で放棄させるため「今後ともあらゆる手段による圧力を最大限まで高めていく他に道はない」と述べた。 からは「米国の反共和国制裁・圧迫策動に追従してる」として名指しで「安倍の輩」「忠犬」と批判されている。 2017年11月20日にトランプ米大統領が9年ぶりに北朝鮮をテロ支援国家に再指定した際は「北朝鮮に対する圧力を強化するものとして歓迎し支持する」と表明した。 2018年6月2日の講演で、が設定されたことに触れ「核武装した北朝鮮を決して容認するわけにはいかない。 抜け道は許さないという姿勢で日本は国際社会をリードし、国際社会とともに圧力をかけてきた。 その中で米朝首脳会談が行われることに期待したい」と述べた。 これに先立つテレビ出演において「拉致問題が解決していない中で大きな経済支援をすることはない」と述べた。 2019年5月にを無条件で行う用意があることも表明するも朝鮮中央通信は「面の皮が厚い安倍は方針を変更したかのように喧伝して執拗に平壌の扉を叩くが、わが国への敵視政策は変わっていない」と批判し 、同年11月には弾道ミサイルの発射を非難したことに対して朝鮮中央通信は「安倍は世界で唯一無二の、史上最もばかな人間」と罵倒した。 詳細は「」および「」を参照 オーストラリアとは「基本的価値観を共有する 」としている。 の交渉を開始し、2006年12月に合意した。 2007年3月13日にはに首相とともに署名した。 この宣言にはなどの海外活動や対対策、北朝鮮問題などで日豪が協力する、安全保障協議委員会の設置などが明記されていた。 「豪との共同宣言が中国狙ったものでない」とした。 2007年8月に日印首脳会談を行い、政治・安全保障、経済、環境とエネルギーなど多岐に渡って合意した。 また、インドの国会において、日印間の更なる関係強化について「二つの海の交わり」と題する政策演説を行った。 外務省は「この演説内容はインドに非常に高く評価された。 2017年7月7日、首相と会談し、日米印3か国の安全保障協力を強化する方針で一致した。 ・ 2014年1月にを訪問し、さらにを訪れた。 2017年8月10日、のシュタイナー総裁と面会し、貧困・飢餓の撲滅を目指す国連の持続可能な開発目標(SDGs)に向けて努力し、アフリカの開発の提案、防災、女性の活躍の分野で協力して成果を出す意欲を述べた。 安全保障 日本版「」(NSC)構想を推進した。 総理就任以前から憲法改正に関してはの容認を打ち出してきた。 2007年にはを開催、集団的自衛権の行使はに反しないとの報告書を得て、に対し、解釈変更の指示を行ったが、職員の総辞職の可能性を示される抵抗を受け頓挫した。 第2次安倍内閣では、集団的自衛権行使容認派のフランス大使を2013年8月8日に内閣法制局長官に任命した。 しかし、体調不良のため小松は退任し、代わって内閣法制局次長であったを2014年5月16日に内閣法制局長官に任命した。 横畠は、2016年3月18日の参議院予算委員会において、「我が国を防衛するためにの必要最小限度に限られる」としながらも「憲法上全てのあらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されていると考えていない」と答弁している。 2006年11月14日、安倍内閣は閣議で、核保有についてのの に対して、「政府としては、の見直しを議論することは考えていない」と強調しながらも、「であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」との を出した。 自衛隊について、「政府の立場で言えば合憲であるという立場」と述べつつ、「憲法学者の7、8割が違憲である」「違憲であることが教科書にも記述があるのは事実」と説明し、憲法9条「3項に自衛隊を明記」することで、憲法上の自衛隊の位置付けの議論を促す答弁している。 「新規隊員募集に対し、都道府県の6割以上が協力を拒否している」と述べ、憲法への自衛隊明記の必要性を述べた。 においてはの撤廃を含めた根本的な見直しに着手。 2013年10月9日、政府の有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」に安倍等が加わり、装備品の輸出を事実上全面禁止してきた武器輸出三原則の抜本見直しを盛り込む方針を固めた。 2014年3月、武器輸出三原則に代わる「防衛装備移転三原則」の原案が与党のプロジェクトチームに示され 、同年4月1日に武器輸出三原則に代わるが閣議決定された。 「」も参照 2015年11月1日、長崎で開催された第61回世界大会へ「非核三原則を堅持しつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会における核軍縮の取組を主導していく決意」を表明するメッセージを寄せた。 2016年11月15日、で新たに認められた「駆け付け警護」を、で(PKO)を行っているの任務に加える実施計画を閣議決定した。 安倍は、「自衛隊の安全を確保し、意義のある活動が困難であると判断する場合は撤収を躊躇しない」と述べた。 一方で「危険の伴う活動だが、自衛隊にしかできない責務をしっかりと果たすことができる」と述べた。 2017年3月17日、「レーダー5号機」の打ち上げ成功について「情報収集衛星を最大限活用し、今後とも日本の安全保障と危機管理に万全を期す」とのコメントを発表した。 2017年8月9日、において、真に「核兵器のない世界」を実現するためには核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要であり、日本は非核三原則を堅持し、双方に働き掛けを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意を表明した。 普天間基地移設問題 2013年12月25日、()のに向け、のと会談し、に関し環境面を補足する協定を締結するための日米協議開始などの基地負担軽減策を示した。 仲井真は「驚くべき立派な内容だ」と評価して移設先である沖の埋め立て申請を承認する方針を固め 、同年12月27日午前にこの申請を承認した。 2018年10月1日、共産党、社民党や労組などでつくる「オール沖縄」が推すが沖縄県知事に当選したことについて「結果は政府として真摯に受け止め、沖縄の振興、基地負担軽減に努めていく」と述べた。 2019年2月25日、米軍普天間飛行場の辺野古移設を問う県民投票において、「反対」が有効投票の7割超となったことに対し「結果を真摯に受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と述べた。 なお、この件に関連して安倍は元・らにより、「を既遂した首謀者」としてされている。 「」も参照 2013年4月に台湾との間で尖閣諸島沖の漁業範囲に関する取り決めを行った。 この協定は官邸の独断で成立が決定されたとして、水産庁や外務省などと事前協議を行っていた地元の漁協は強く反発し、「いずれこの漁業範囲から日本船が締め出され中国船や台湾船しかいなくなる」、と強い懸念を出している。 実際に台湾漁船は当協定の成立が決定すると、協定の発行前から認められる予定の漁業範囲さえ超えた範囲で操業を開始した。 教育 2006年12月に教育基本法を改正し、教育の目標の一つとしてという言葉を盛り込んだ他、9年の規定やの項を削除した。 直属の「」を立ち上げ、2007年6月にはを導入した。 その他、の見直しや大学進学の条件として社会奉仕活動の義務化を提唱した。 その他の政策としては、教育バウチャー制度の導入を検討、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」の座長を務める。 2005年5月26日に開催された「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」でプロジェクトチーム座長を務めた安倍は、「男女の性別による差別は決して許されるものではない。 」としながらも、は、家族の破壊をもたらす概念であり、明らかに間違いと主張した。 ジェンダーフリーの言葉の間違いについては、やでも見解の一致が見られるとし、の検討の必要性を述べた。 改正後の教育基本法については、「一見、立派なことが書いてあるが、家族・郷土・歴史・伝統・文化・国など、私たちが大切にしなければいけないものが抜け落ちている。 これと関連して、教科書検定においてパン屋さんを使った題材について伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度(愛国心)に照らして不適切という検定意見がついた。 これに対して識者は薄っぺらな愛国心だと指摘した。 しかし、政府は「『パン屋』の記述に特定して検定意見を付した事実はない」とし、具体的には「まちやくにのすきなところは」との設問を追加するなど、国や郷土を具体的に盛り込む修正を行い合格した。 その過程で、散歩道にあったパン屋さんは消え、自分の住む町や季節ごとの和菓子を作る日本のお菓子屋さんをもっと知りたくなるストーリーとなった。 また、を推進する。 親学推進議員連盟の会長をつとめ 、2012年の「山口県親学推進セミナー」では「戦後の教育の問題点は家庭教育がスポッと落ちてしまい、その存在が希薄化されてきたことにある。 家庭教育支援の思索を推進していくように政府は勤めていかなければならない」と述べている。 時においては、の第一次提言や2013年3月の施政方針演説より、• 6・3・3・4制の見直しによる「平成の学制大改革」を始める• 道徳の教科化• いじめ対策の法制化 などが主たる教育政策である。 時の教育政策については、時についてはも参考のこと。 2014年11月21日、2年間で20万人、5年間で40万人分の保育の受け皿を整備し待機児童を無くすと述べている。 2015年「特別の教科 道徳」を教科にした。 学習指導要領には「児童の道徳性の育成に大きな影響を与えている社会的風潮」のひとつとして「物や金銭等の物質的な価値や快楽が優先される」とある。 [ ] 2017年5月24日、教育再生実行会議において、大人と子供と向き合う時間を確保することが家庭等での教育力向上に資するとの見解のもと、地域ごとの学校休業日の分散化を図る「キッズウィーク」と称する施策に取り組むことを表明した。 2017年8月3日、での記者会見において、「人づくり革命担当大臣」を新設した。 子どもへのユニバーサルな教育機会の提供みならず、社会人の学び直しを推進することを企図している。 2017年9月25日、衆議院解散演説において「所得が低い家庭の子供たち、真に必要な子供たちに限って高等教育の無償化を必ず実現する決意です。 授業料の減免措置の拡充と合わせ、必要な生活費を全てまかなえるよう、今月から始まった給付型奨学金の支給額を大幅に増やします」 、「3歳から5歳児の幼稚園、保育所について全面無償化します。 所得の低い世帯について保育所無償化を行うことを考えています」「どんなに貧しい家庭に育っても意欲さえあれば専修学校や高等教育、大学にも進学できる社会に変革をしなければならない。 真に必要な子供に限って、高等教育の無償化を必ず実現していく」と述べた。 しかし、安倍は2017年11月27日の衆議院予算委員会で選挙公約で掲げた3歳から5歳児の幼児教育・保育の全面無償化について、補助対象とする認可外保育施設の種類などに関し専門家の意見聴取を求め、与党連携で2018年夏までに結論を出すと述べ、制度設計の詳細については先送りすることを表明した。 民法論議・家族制度 夫婦同姓規定 現行の民法規定で定められているを支持しており、選択的について「夫婦別姓は家族の解体を意味する。 家族の解体が最終目標であって、家族から解放されなければ人間として自由になれないという左翼的かつ共産主義のドグマだ。 これは日教組が教育現場で実行していることです」と述べている [ ]。 2016年2月29日に衆議院予算委員会で、から、この発言の真意について説明を求められ、「(選択的夫婦別姓を認めない民法の規定を合憲とした)最高裁判決における指摘や国民的議論の動向を踏まえながら慎重に対応する必要がある」と答弁している。 ()や()は、安倍が「反対の急先鋒」であるとしている。 離婚後300日規定 女性が離婚後300日以内に出産した場合、子供は戸籍上、離婚前の夫の子供になるという民法の規定に関しては、2007年2月15日の参院厚生労働委員会の少子化問題に関する集中審議において「見直しの要否を含めて、慎重に検討する」と回答し 、2月23日の衆院予算委員会において「時代が変わってきて親子関係はDNA鑑定ですぐにわかる」と答弁している。 婚外子規定 婚外子の遺産相続分を嫡出子の半分とする規定を削除する民法改正に関しては、2013年10月18日の参院本会議において「不合理な差別は、解消に向けて真摯に取り組む必要がある」と答弁している。 性的少数者対策 2016年1月26日、衆議院本会議において「偏見や不合理な差別があることは残念。 今後の国民的な議論も踏まえ、慎重に検討する必要がある。 」旨、答弁した。 において、自民党はへの理解を促す「性的指向・性同一性の多様性に関する理解増進法案」を取り纏めた。 2018年8月2日、衆院議員の性的少数者(LGBT)への行政支援に関する寄稿に対し、「人権が尊重され、多様性が尊重される社会をつくっていく、目指していくことは当然だ。 これは政府・与党の方針でもある」と述べた。 公務員改革 ()兼国・地方兼のポストにを置き、官僚主導の政治体制、公務員の給料制度、、業界の談合体質など官僚にまつわる諸悪を摘出し、政官業の関係を健全化しようと国家公務員法改正を打ち出した。 同改正法に基づいて 1 官民人材交流センター(人材バンク)の制度設計 2 キャリア制度の見直し、という2つの作業が開始され、それぞれについて有識者懇談会が設けられた。 安倍も社長に官僚OBがなることを却下したり、への天下り人事にも横槍を入れるなどの行動を見せていたが、官僚や自民党内から激しい抵抗が起きるようになる。 渡辺喜美行政改革担当相が、の会合に出席し、各省庁による天下り支援を禁止する案を説明すると、党側に『各省にあっせん機能を残すべきだ』と猛反発されたり、天下り規制の懇談会にて天下りをしている元事務次官7人のヒアリング調査をしようとしたところ、担当官僚が元事務次官に懇談会出席の要請すらしないなどの抵抗が見られた [ ]。 この公務員改革で安倍は、特に社会保険庁改革(社保庁民営化)に力を入れていた。 年金行政への信頼回復とともに、社保庁の民営化によって公務員削減の突破口にしたいとの狙いからだった が、ここでも激しい抵抗にあった [ ]。 は、安倍が社保庁民営化を目指していたことで、社保庁がクーデターを起こし、社保庁の年金が酷い状態であるということを社保庁自らが民主党やマスコミに選挙前に広め、「いかに安倍が危機管理ができないか」と国民に思わせて退陣を狙う「自爆テロ」を行い、そしてマスコミもそれに乗った、と主張した。 労働政策 では、政策を提唱したが、後にに追われることとなったため、提出された法案は第1次安倍内閣においては成立させることはできなかった。 では、働き方改革の実現を目的として内閣総理大臣決裁によりという私的諮問機関が設置された。 これを経てが成立し、かつての政策のいくつかは実現されている。 再チャレンジ政策 第1次安倍内閣では、小泉政権下によって生じた都市と地方の歪や不安定の増加やいわゆるの是正を掲げ、政策の一環としてをとして採用するよう企業に要請した。 しかし2006年8月の が会員企業に行なったアンケートによると、フリーターの正規社員採用に約9割が消極的であるとの結果であり、期待通りの成果は出なかった。 「と言われる人たちを前提に言わばコストあるいは生産の現状が確立されているのであれば、それはもう大変な問題であろう」と述べ、「企業も者がへ常にチャレンジができるように積極的に取り組むことが、中、長期的には企業への信頼感、活力も高まる」という旨の考えを示しており、等に関しても、「、に反していれば厳格に対応していく」旨を述べている。 第1次安倍内閣を引き継いだではが改正され、が5年を超える場合、これをに転換できる権利を得ることとなった。 最低賃金 の抜本的引き上げは、「を中心に労働コスト増で、かえって雇用が失われ非現実的だ。 」とした。 2007年3月の参議院のでは、「最低賃金制度を以上にしていくという改正を行い、成長力底上げ戦略を進めていく中で、中小企業と労働者の生産性を上げることによって、最低賃金も上げるという二段構えの仕組みを検討している」考えを示した。 男女共同参画 第1次安倍内閣ではやの就業率向上を目指していた。 第4次安倍内閣では、経済団体への努力目標としての3年化の推進を提言した。 2014年3月28日、首相官邸で、すべての女性が輝く社会を目指す活動を推進する「輝く女性応援会議」が開催された。 各界のリーダーからの宣言や、地域版の「輝く女性応援会議」の開催などが行われている。 2017年6月21日、女性の社会進出等に貢献した団体等への表彰式において、「女性が思う存分活躍できる社会に向け、今後も一層尽力することを心から願っている」と述べた。 日本の企業文化、日本人のライフスタイル、日本の働くということに対する考え方を改革するという定義の下、や罰則付きの時間外労働の上限規制などの実現が示された。 2016年12月の政府主催の国際シンポジウムにおいて、働き方改革の成功について男性の意識変革を指摘し、家事や育児を夫婦で共に担うことや、出産直後から夫が育児に取り組めるよう、男性の育休に加え、妻の出産直後の男性の産休を推奨する旨、述べた。 その他の具体的施策として、政府と経済界が提唱する消費喚起キャンペーンの 、夏季の早期出社・早期退社を奨励する 、時差通勤を促す「時差Biz」なども働き方改革の一環とされる。 第1次安倍内閣ではが検討されていた。 第4次安倍内閣では、高収入の専門職種の一部に対し、裁量労働制を想定した「高度プロフェッショナル制度」が検討された。 しかし、高収入の一部専門職を残業代支払いなどの労働時間規制から外すことになり、野党が「残業代ゼロ法案」として批判していた。 安倍は、当初の法案から、休日確保の義務化等の働き過ぎ防止を考慮した法案に修正する方針を表明した。 2018年6月29日、高度プロフェッショナル制度の新設などを含む「働き方改革法案」が成立した。 但し、審議過程で厚生労働省の作成したデータが不適切であったことが判明したため、裁量労働制の適用業種の拡大は削られた。 1億総活躍社会 2020年1月20日、全世代型社会保障を掲げ、労働意欲のある70歳まで高齢者の就業機会を確保を行うと述べた。 高齢者の8割が65歳を超えても働きたいという社会情勢を述べた。 労働市場の構造改革 企業が賃上げを促進し、政府は賃上げ企業への優遇や失業者対策を進め、労働者は労働市場流動化に同意し失業増を受け入れるという日本版「ワッセナー合意」が構想されていることが明らかになった。 ただし、オランダで起こったは「労組は賃金の抑制」「政府は企業の社会保障負担を低減し労働者のための減税を実施」「経営者は仕事を分かち合い雇用を確保」という内容的には正反対とも言えるものである。 日本版「ワッセナー合意」は、むしろで提唱された(日本版オランダ革命)に近いものであり、のブレーンでの中心人物であったメンバーの主張である「再就職支援金の支払いを条件に従業員の解雇を認めるといった解雇ルール」や「正規と非正規の中間的な雇用形態の導入」などが盛り込まれている。 これについては、失業増を受け入れる労働組合はもちろん経済界も難色を示しているとされる。 はの際には、著書の中で「を失うや、保険や年金の負担増を嫌うの反対で頓挫した」と述べていた。 「」も参照 治安政策 (いわゆる「共謀罪法案」)について、「国際社会で組織犯罪に対応していく役割を果たす上で早期に「国際組織犯罪防止法条約」を批准をする必要がある」として2007年1月25日召集ので成立を図るよう指示したが、世論や自民党内からの反発が強く、継続審議となった。 2017年5月19日、共謀罪の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設することを柱とする組織犯罪処罰法改正案が衆議院法務委員会で自民、公明の与党と日本維新の会の賛成多数で可決、23日に衆議院本会議で可決された。 6月15日、参議院では会期延長によらず法案成立を目指した与党は法務委員会の採決を省略する「中間報告」を行う動議を提出し、同日未明の衆議院本会議で「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」(共謀罪の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設する改正組織犯罪処罰法)が自民・公明両党と日本維新の会などの賛成多数で可決、成立した。 安倍は同法成立について「本法を適切に、そして効果的に運用」する旨、また東京オリンピック開催に触れ「一日も早くを締結し、テロを未然に防ぐために国際社会としっかりと連携していきたいと思います。 そのための法が成立したと考えております。 」と述べた。 2017年7月11日、同法が施行された。 また、改正組織犯罪処罰法施行により、同年8月10日国連本部に於いて、国際組織犯罪防止条約 TOC条約 とTOC条約締結が前提条件となる人身取引議定書と密入国議定書、さらにが締結された。 「」も参照 特定秘密の保護に関する法律 2013年中旬からなどの情報のうち「特に秘匿するが必要あるもの」を「特定秘密」と指定し、情報にアクセス出来る者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めたの検討を開始した。 当法案には国内外で議論を呼び、報道各社が行った世論調査では廃案・見送りが多数を占めるものが大勢を占めたが 、一部賛成が反対を上回るものもあった。 法案は、2013年11月に衆議院で、12月に参議院で採決された。 衆議院では与党に加えみんなの党も賛成したが、参院では直前の与党議員の発言などを受け 全ての野党が賛成しなかった。 その後、安倍政権の支持率は急落した。 この法案に対しては国連が重大な懸念を表明し 、海外メディアからは「報道の自由及び民主主義の根本を脅かす悪法」 、「日本で内部告発者を弾圧する立法が成立した」 、「日本が報道の自由を制限」 などと報じられた。 元アメリカ国防次官補のは「知る権利と秘密保護のバランスを定めた国際基準を逸脱している」と法案を批判した。 一方で、副報道官のハーフは記者会見で、日本で特定秘密保護法案が成立したことについて「情報の保護は同盟における協力関係で重要な役割があり、機密情報の保護に関する政策などの強化が前進することを歓迎する」と述べ 、は「中国の軍事力増強に対抗するために強い日本を望む米国は、法案可決を歓迎している」と報じた。 「」および「」も参照 年金記録問題では民主党の小沢一郎とので「はどうするのか」という野党からの追及に対し「年金は消えたわけではない」として年金時効撤廃特例法案など具体的な救済案を提示した。 該当者不明の年金記録5000万件の照合作業については「三千万人の方々とこの二千八百八十万件を一年間のうちに突合いたします」 「一年間で私たちはすべて突合を行うということをお約束をする」 と断言、当初2年程度を想定していた調査期間を前倒しすると表明し 、自民党の公式HPでも宣伝した。 第166回国会本会議においても、「長年まじめに保険料を納めてきたにもかかわらず年金がきちんと給付されないという理不尽なことは、絶対にあってはなりません。 このため、国民の視点に立って、できる限り速やかに、かつ、行うべきことはすべて行い、国民の不安の解消に最善を尽くしてまいります。 」 と答弁した。 は年金記録の照合作業を進めたものの、2008年3月末までに持ち主が判明するのは1000万人程度に留まり、名寄せ困難な記録が1975万件に達すると発表された(人数や件数は2007年12月時点での推計値)。 安倍の公約実現は絶望的となり、後任の首相である福田康夫が謝罪する事態となった。 内閣官房長官のは「亡くなった方もいる。 『最後の一人まで』ということはありえない。 もとより無理」 と述べ、安倍の公約の問題点を指摘した。 2008年3月、社会保険庁の照合結果が公表され、1172万件分の持ち主が特定できたが、名寄せ困難な未解明記録は2025万件に達したことが明らかになった。 2019年の参議院選挙演説において、「この6年間、雇用が大きく改善し、380万人が新たに仕事につき始めた。 新たな働き手、支え手が増えたことによって、年金の保険料収入は増え」、株式市場での運用で「運用益は民主党政権時代の10倍」になったと述べた。 介護施策について 2017年9月25日、衆議院解散演説において、自公政権で介護人材に対し月額47000円の処遇改善を実現したことに触れ、更に他の産業との賃金格差を無くすべく更なる処遇改善を推進することを表明した。 児童を対象とする手当について のは「国家から直接子供たちに養育費がいくことによって、自分たちは両親に対し何の義務を感じる必要がないという議論もあった」と指摘し、「子育てを家族から奪い去り、国家や社会が行う子育ての国家化、社会化だ。 これは実際にポルポトやスターリンが行おうとしたことだ」と、2016年2月29日の衆議院予算委員会で発言した。 2016年9月28日の参議院本会議において、「民主党政権は児童扶養手当をたったの1円も上げなかった」と答弁した。 一方、前に幼保無償化を発表し2019年10月より実施された。 医療制度 官民一体で創薬・再生医療を推進する「日本版」の構想を提案した。 また、やを活用した「予防・健康管理」や「」の推進も表明している。 経済政策 詳細は「」を参照 をで再開した。 2014年に、といわれる以下の3政策からなる経済政策を開始した。 大胆な金融政策• 機動的な財政政策。 民間投資を喚起する成長戦略 安倍は、2015年11月に行われた民間の講演会において「GDPは、アベノミクスによって成長率がマイナスからプラスに転じた結果、500兆円まで回復している。 2017年9月25日、衆議院解散演説において、「11年ぶりとなる6四半期連続のプラス成長、内需主導の力強い経済成長が実現」と述べ、雇用は200万人近く増加し、2017年春に大学卒業した学生の就職率は過去最高で、「この2年間で正規雇用は79万人増え、正社員の有効求人倍率は調査開始以来、初めて1倍を超えました。 正社員になりたい人がいれば、必ず1つ以上の正社員の仕事がある」と述べた。 2018年9月14日の自民総裁選討論会において、賃金に関し「大企業では5年連続、過去最高の賃上げが続いており、中小企業においても過去20年で最高となっている」と主張した。 TPP問題 2012年11月14日の首相の解散表明により選挙の争点として浮上したについて、自民党の「聖域なき関税撤廃」のTPP参加の反対派に対し 、安倍は日本商工会議所会頭の岡村正との会談で交渉に含みをもたせ、「TPP推進に対して強い交渉力を発揮して頂けるという強い意気込みは感じたので心強く思う」と評価された。 この岡村とのやりとりについて、経団連会長のも「いいことだ」 と歓迎している。 しかし、その後の記者会見では「交渉参加に前向きというのはあくまでミスリードだと思います。 」 と否定し、その結果として衆院選では160人超の候補者が、TPP交渉参加反対を訴える農協(JA)系の政治団体から推薦を受け当選した。 しかし、農水大臣にになじみの薄いを起用し 、、麻生太郎など経済関係の主要閣僚にもTPP賛成派を配置。 さらに外交政策に関して助言を行うには、日本はTPPに参加すべきとの発言をおこなっていた を起用した。 また、TPP賛成派のやをそれぞれ内閣府議長及び議長代理とし、さらに新設のに設置されたのメンバーにもと関係の深い TPP賛成派の や、TPP早期実現要請を行なっていた を加えた。 経済全般のマクロ政策を決める経済財政諮問会議の民間議員も全員TPP賛成派で、は構造改革派の論客として野田佳彦民主党政権の方針を力強く後押ししていた人物。 にいたっては「TPPに参加できないなら、農村部にある多くの工場は閉鎖を余儀なくされる」 というのが持論で、野田佳彦民主党政権の「社会保障制度改革国民会議」のメンバーでもあった。 2013年2月23日、日米首脳会談後に共同声明を出した。 それまでの関税に関する見解(カークUSTR代表と玄葉外務大臣との会談)は「物品関税の最終的な扱いについてはTPP交渉プロセスのなかで決まっていくもの」 であったが、今回の共同声明は「一方的に全ての関税を撤廃することをあらかじめ約束することを求められるものではないことを確認する」 との表現になった。 2013年3月8日、日本政府が内閣当時の昨年3月の段階から『TPP交渉参加後発組に出された3条件』を把握していたにもかかわらず、国民に条件を告知することなく交渉参加を推進していたことが判明した。 安倍はこの問題に関して衆院予算委員会で答弁を拒否し、質問した日本維新の会の国会議員団幹事長が「政府が交渉参加のルールを探って議会に説明するのは当然の責任だ」と批判した。 また岸田文雄外相は「少なくともわが国には、そうした条件の提示は全くない。 引き続き情報収集に全力を挙げる」と答弁していたが、9日になって安倍は「ルールを作っていく上で、最初に入った人たちが後から入った人に議論を覆されたら困るというのは、それはそうだろうと思う」と述べた。 安倍政権はこの3条件を政権移行直後に把握したが公表はしていなかった。 2013年3月15日、TPP交渉参加という形で決着が図られることとなった。 2013年4月12日に決着したTPP交渉参加に向けた日米事前協議は大手各紙上でも『高い「入場料」』という言葉が飛び交い、米側に譲りに譲ったもの となった。 日本政府のTPP交渉担当者が「なんとしても7月中には交渉に加わりたいのだが……」とあせりの色を隠せない中での事前協議であり、交渉に入る前から通商条件で大幅な譲歩を迫られる可能性があった が、現実のものとなった。 焦点の自動車・保険分野では双方とも大幅譲歩であり、自動車分野では自動車関税について当面は乗用車・トラックの関税を維持した上、撤廃時期はTPPが認める範囲で最大限遅らせることで決着 、保険分野ではかんぽ生命のがん保険など新商品の申請を事実上凍結したため、投資家に訴える新規事業への参入が不可欠な2015年秋までの株式上場は計画の見直しが不可避 となり、政府が復興財源として期待していた日本郵政株式の売却収入4兆円が見通せなくなってしまった。 のみならず、非関税措置について9つの分野で日米間で継続協議 とされたため、1990年代に経験した日米構造協議、包括経済協議と同様に2国間の枠組みを使って日本に市場開放の圧力をかける構図が繰り返されることになった。 2013年9月25日、ニューヨーク証券取引所で行った講演で、「もはややにこだわる時代は過ぎ去りました。 世界の成長センターである。 その中にあって、日本とアメリカは、、、といった価値観を共有し、共に経済発展してきました。 その両国が、TPPをつくるのは、歴史の必然です。 」との見解を示した。 2016年12月9日、参議院本会議で記名投票による採決を行い、TPP参加が決議された。 しかし、2017年1月20日、第45代に就任したは、同日TPP離脱を表明した。 日本政府はTPPに代わる域内経済協定を検討、2017年2月10日(米国時間)、安倍は初の日米首脳会談において、日米間の経済対話、これをさらにアジア太平洋地域に拡大する方向性を話し合った。 訪米に同行した財務省関係者は、二国間自由貿易協定()に発展する可能性を否定しなかった。 2017年3月1日の参議院予算委員会で、安倍は米国のTPP離脱に関し「日本の求心力を生かし、今後どのようなことができるかを米国以外の各国とも議論したい」と語った。 原発政策 2006年12月22日、(第一次安倍内閣時)巨大地震に伴う津波が生じた場合の原子力発電所の安全性に関する質問 に対し、日本の原子力発電所は外部電源又は非常用所内電源のいずれからも電力の供給を受けられる設計であり停止した原子炉の冷却は可能であること、崩壊熱が除去できず核燃料棒が焼損した場合の原発事故について評価は行っていない旨、衆議院で答弁している。 福島第一原子力発電所事故の影響で停止している、日本各地の原子力発電所について、2014年5月1日にでおこなった演説の中で、安全基準を満たしたところから順次稼働させていく方針を表明した。 財政再建 財政について、「成長せずにできるかというとそれは無理で、絶対に有り得ない」と述べている。 をに黒字化する目標だったがに延期した。 2020年1月20日、来年度予算の税収は過去最高となり公債発行は8年連続での減額であると述べ、財政健全化の進捗を述べた。 消費税増税 増税について、に立候補した5人による主催の公開討論会で「時期を間違えると結果として経済の腰を折ってしまう。 がずっと今と同じままなら上げるべきでない」と述べた。 再増税は2015年10月に予定されていたが、2014年6月24日のインタビューで安倍は「やっとつかんだ(デフレ脱却の)チャンスを逃してしまうかもしれないなら、引き上げることはできない」と述べ、11月発表の7〜9月期の実質を待って最終判断を下す考えを示した。 8月9日発売の「」において、安倍は「経済成長こそが安倍政権の最優先課題であることを明言する」とデフレ脱却への決意を語った。 2014年10月7日の参議院予算委員会で、安倍は「今の社会保障制度を次世代に引き渡し、子育て支援のために資金を国民に負担してもらうための消費税だ。 2014年10月17日、安倍はのインタビューに応じ、増税で景気後退すれば歳入も減少して施策自体が無意味になると述べた。 11月13日、安倍は消費税率再引き上げの先送りを決めた上、次週にを解散する方針を固めた。 1年半延期して2017年4月からとした。 11月18日、安倍は記者会見において、7月・8月・9月のGDP速報から「成長軌道に戻っておらず」、「デフレから脱却し、経済を成長させる、アベノミクスの成功を確かなものとするため」に、2015年10月1日に予定されていた消費税増税は1年半延期すべきことを表明した。 2016年6月1日、安倍は記者会見において、「内需を腰折れさせかねない消費税率の引上げは延期すべき」という判断に基づき、2017年4月1日に予定されていた消費税増税は2年半延期すべきことを表明した。 併せて、消費税増税の際はを導入する旨を表明した。 詳細は「」を参照 村山談話 総裁選を目前に控えた2006年9月7日、「」(村山首相談話)について、「基本的にその精神を引き継いでいく」とした。 その一方で、2006年10月6日、衆議院予算委員会で、についてについては「当時の指導者であった人たちについてはより重たい責任があるが、その責任の主体がどこにあるかということについては、政府としてそれを判断する立場にはない」旨を述べた。 2006年10月5日、衆院予算委員会で、のだった岸信介が対米英開戦の詔書に署名したことへの認識を問われ「指導者には祖父を含め大きな責任があった。 政治は結果責任だから当然、判断は間違っていた」とも述べている。 については、時代、「受諾しており異議を述べる立場にない」としていた。 では、2013年2月12日の衆議院予算委員会にて、「大戦の総括は日本人自身の手でなく、いわば連合国側の勝者の判断によって断罪がなされた」と述べ、懐疑的な見方を示した。 しかし、同年5月には「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と述べ、村山談話を継承することを表明した。 慰安婦問題 河野談話 日本のこれまでの歴史教育に異議を唱え、「」を支援して来た自民党内部の「」の事務局長を務めた(現在は顧問)。 同会は特に「侵略戦争」や「」問題の教科書記述に批判的であり、証拠もないまま旧日本軍による慰安婦のを認めた「」(河野談話)を発表したを会に呼んで、談話の撤回を要求したこともある。 1997年の国会でも、慰安婦の強制連行の根拠とされてきたの証言が虚偽であることが判明したため、「河野談話」および教科書への「従軍慰安婦」の記述を載せることは問題であると指摘している。 自民党幹事長代理時代の2005年3月27日の講演会でも、「従軍慰安婦は作られた話」と語っている。 総理就任後の2006年10月5日には、「河野談話」を「で変更するものではない」と発言。 2007年3月1日、河野談話に関する記者の質問に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言。 米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案について、同年3月5日の参院予算委員会において「この決議案は客観的な事実に基づいていません」「これは、別に決議があったからといって我々は謝罪するということはないということは、まず申し上げておかなければいけないと思います」と述べた。 この「(旧日本軍による)狭義の強制性を裏付けるものはなかった」という発言は、米国からも批判され、2007年3月16日の国会答弁で河野談話の継承に改めてふれ、「同情とおわび」に言及し、4月3日のとの電話協議で見解を説明する対応をとる。 4月27日にはのインタビューに、英語で「極めて痛ましい状況に慰安婦の方々が『強制的に』置かれたことについて大変申し訳なく思う」 、「私たちは、戦時下の環境において、そうした苦難や苦痛を受けることを『強制された』方々に責任を感じている」 と発言(以上、和訳)。 同日、日本のメディアに日本語で「人間として心から同情する。 首相として大変申し訳なく思っている」、「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況につき、我々は責任がある」と発言。 これについて毎日新聞は、「今回の発言は日本側の「責任」も指摘することで、沈静化を図ったものとみられる。 」と報じている。 第2次安倍内閣発足後の2012年12月27日、河野談話について、見直しを視野に入れて検討をおこなう方針を示した。 日米首脳会談での言及 ブッシュ大統領との2007年4月28日の日米首脳会談後の共同記者会見で、「慰安婦の方々にとって非常に困難な状況のなかで辛酸を舐められた、苦しい思いをされたことに対し、人間としてまた、総理大臣として心から同情しておりますし、またそういう状況におかれていたと言うことに対して、申し訳ない、と言う思いでございます」とあらためて謝罪の意を示した。 ブッシュ大統領は「安倍総理の謝罪を受け入れた」と応じた。 安倍は2011年11月、この問題に関して「会談で従軍慰安婦問題は全く出なかった。 そもそも日本が米国に謝罪する筋合いの話ではない」とアメリカメディアの報道は事実無根だと主張した が、2013年5月に主張を修正し、実際には日米首脳会談で「元慰安婦の方々に、首相として心から同情し、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」と発言したことは認める答弁書を決定した。 日韓合意 「」も参照 首相の靖国神社参拝について「国のために殉じた人たちに対して国のリーダーが尊崇の念を表するのは当然だ。 お参りすべきだと思う」と述べている。 また、を巡って騒動が起こった中国と韓国の態度を批判し、外国が靖国神社参拝について抗議するのはだという見解を持っている。 安倍は幹事長在任中の2004年・幹事長代理在任中の2005年には終戦の日(8月15日)に参拝を行った が、官房長官在任中の2006年は4月15日朝、秘密裏に参拝を行った (「内閣官房長官 安倍晋三」と記帳し、ポケットマネーでを収めた)。 安倍は同年8月4日の記者会見で、この件に関し「参拝したかしないかについては申し上げるつもりはない」と述べた。 第1次安倍内閣発足による首相就任後も参拝を続ける意向を示し、2007年1月17日の自民党大会で決定された運動方針でも「靖国参拝を受け継ぐ」ことが明記されたが、外交問題や政治問題になるのを避けるため自身の参拝については明言しない考えを改めて示した。 首相在任中は参拝を行わなかったが、安倍はこれについて首相退任後に「『主張する外交』を展開する中で、日本のための将来の布石を打つため大きな決断をした」と説明している。 2012年9月14日党総裁選候補者による共同記者会見で安倍は「首相在任中に参拝できなかったことは、痛恨の極みだ」と述べ、再び首相に就任した場合の対応について「そのことから考えていただきたい」と語った。 第2次安倍内閣発足による首相再任後、2013年の春季および秋季 と の参拝はいずれも見送った。 首相在任中の靖国神社初参拝 内閣発足からちょうど1年となる2013年12月26日、第1次時代も含め首相在任中としては自身初の参拝を 、、に外交ルートを通じて参拝の連絡をした上で参拝した。 安倍はモーニング姿で本殿に参拝し、「内閣総理大臣 安倍晋三」名で白い菊を献花した。 靖国神社境内にある世界の全ての戦没者を慰霊する「鎮霊社」にも参拝した。 その後、「恒久平和への誓い」と題した「首相の談話」を発表。 談話を英訳し、世界に向けてメッセージを発信した。 参拝後、記者団に「御霊安らかなれと、手を合わせて参った。 この1年の安倍政権の歩みをご報告し、二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるとの誓い、決意をお伝えするためにこの日を選んだ。 戦場で散った英霊のご冥福をお祈りすることは世界共通のリーダーの姿勢だ。 中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは毛頭ない。 中韓両国首脳に直接説明したい」などと語った。 この参拝について、(機関紙)系のはの記事を引用し『安倍首相は外交ルートを通じて中韓首脳との会談を模索しており、(2013年)12月28日訪中のスケジュールで調整が進められていたそうだ。 だが、これを「単なる政治的パフォーマンスであり、尖閣問題の解決策の提示はない」と判断した中国側が(2013年12月)20日に安倍首相の訪中を拒否。 中国に続いて韓国も否定的な返答を寄せたという。 世論調査・ネット調査 安倍の2013年12月26日の靖国神社参拝について、以下の様な結果が報じられている。 は2013年12月30日の朝刊30面で、安倍のこの靖国参拝後の世論調査「日本の首相が靖国神社に参拝することに賛成ですか。 反対ですか。 また、同調査における内閣支持率調査「安倍内閣を支持しますか。 しませんか。 は2013年12月28・29日に全国緊急電話世論調査を実施し、安倍の参拝について「よかった」43. との合同世論調査では、靖国神社参拝について、「評価しない」(53. ただし、20代と30代では、「評価する」という回答が、「評価しない」という回答を上回っている。 批判 安倍の2013年12月26日の靖国神社参拝に対し、以下の様な批判がある。 米国は安倍のこの靖国神社参拝について声明などを一切発表しなかったが 、は2013年12月26日に「日本は大切な同盟国であり友好国であるが、近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに失望している」との声明を出した。 米国サキ報道官は「靖国参拝に関する声明を出すかどうか」の質問に「在日米国大使館の声明をみてほしい」と答えた。 2013年12月30日、サキ報道官は米国大使館が同年12月26日に出した声明 における『失望している(disappointed)』という表現について、『「失望」という言葉は安倍の靖国神社参拝そのものに論評を加えたものではなく、中国や韓国との関係悪化を懸念したものである』 、『意見の相違がある時に互いに正直に発言できるのは、緊密な関係の証し』 、『日本は大切な同盟国で友好国であり、(今回の安倍の靖国神社参拝は)日米関係全体に影響はない』 などと述べた。 (欧州連合)の報道官は、靖国参拝に対して懸念を表明し 、各国に対し「EUは、緊張を高める行動を避け、外交で争いを解決する必要性を常に強調してきた」と訴え、地域の長期的な安定に向け建設的な関係を築くよう促した。 中国と韓国の駐日大使も安倍の参拝に抗議した。 最大手新聞のは『日本の大手6紙のうち、、、、の4紙は社説で安倍首相を批判した。 「平和主義」を守ろうとする日本国民と安倍首相を切り離し、日本国内で良心的な声を高めるには、韓国は自らの対応を単なる反日で終わらせるのではなく、より高度な次元に高める必要がある。 日本の国内外で安倍首相の批判を高めその立場を失わせれば、この脱線にも必ずブレーキがかかるだろう。 』と批判した。 台湾の馬英九総統は「中華民族の一人として、日本政府が周辺国の歴史の傷を顧みず、こうした行動をとったことは理解しがたく失望した」と自らのに投稿した。 その後も馬暁光報道官が「第2次大戦後の国際秩序に対する挑戦で、平和を愛する全ての人が断固反対するのは当然だ」などと述べている。 は、が「日本の軍国主義復活の恐怖を、自国の権益拡大の口実に使いたい中国への贈り物」と批判したと報じた。 のは「過去の日本の歴史の負の側面とは一線を画すべきだ。 日本の主体的な判断として大局的な立場にたって参拝を自重すべきだ」と述べ、靖国神社が日本の歴史の負の面であるとの認識を示し安倍を批判した。 ロシア外務省情報局長のルカシェビッチは26日、声明を出し、「このような行動には遺憾の意を抱かざるを得ない」と批判した。 韓国外務省報道官は2004年1月23日の定例記者会見で、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席した総理大臣の安倍晋三が靖国参拝に理解を求めたことについて「参拝しない韓日友好を語るのがいかに矛盾しているか、韓国だけでなく、全世界のメディアと知識人、良識ある人が声を上げている。 この声が聞こえないのが理解しがたい」と改めて批判した。 報道官は「参拝は、帝国主義時代に日本が犯した過ちを反省しないのと同じだ。 首相ら指導者が靖国神社を参拝しないことが、韓日友好、地域の安定の出発点だ」と強調した。 のは講演で、安倍晋三の参拝について「日本の国益にとても高いコストを生む」と批判するいっぽう、再度参拝するかどうかは「中国との取引材料となる」と語った。 カーティスは「安倍首相は1年間参拝を自制したが、中韓両国からなにも得られなかった。 参拝したから関係がさらに悪化するわけではない」と指摘。 今回の参拝に対し、中国の態度は比較的抑制されていると述べ、再参拝の可否を対中関係の改善次第とすることで、局面のてこにできるとの考え方をしめした。 参拝に対する米国政府の「失望」表明について、「安倍首相はショックだったかもしれないが、世界は変化している。 中国台頭という新たな現実に取り組まなければならない」とした。 米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は23日、複数の米政府当局者の話として、安倍晋三が靖国神社参拝を繰り返さない保証を、米政府が日本政府に非公式に求めていると伝えた。 日中、日韓関係がさらに悪化することを懸念しているとみられる。 同紙によると、米政府は参拝後にワシントンと東京で開かれた日本側との「一連の会談」を通じ、近隣諸国をいら立たせるさらなる言動を首相は控えるよう要請。 日米韓の連携を阻害している日韓関係の改善に向けて韓国に働きかけるよう促し、従軍慰安婦問題に対処することも求めた。 さらに今後、過去の侵略と植民地支配に対する「おわび」を再確認することを検討するよう首相に求める考えだという。 米国務省副報道官のハーフは23日の記者会見で、同紙の報道について問われ、「事実かどうか分からない」と述べた。 エピソード この節には、過剰にが含まれているおそれがあります。 内容の増大は歓迎されません。 をで検討しています。 ( 2013年2月) 政治資金 に、で禁止されている、国の補助金を受け取った企業からの1年以内の献金(寄付)を受けた可能性があると指摘された。 それに対し、安倍は「当該会社が国から補助金を受けていたことは知らなかった。 まず事実関係を調査する」として、政治資金規正法の改正も視野に入れた検討の必要性について言及した。 献金をした企業は、それぞれ「お答えを差し控える」 東西化学産業)、「(補助金の性質から)政治資金規正法に抵触しない」 電通)、「例外規定の『試験研究』に該当し、法的問題はない」(宇部興産)とコメントした。 同種の献金は、与野党の党首以下、多くの政治家や企業が意図せず違反していた可能性がある。 献金禁止規定の見直しの必要性が言及されている。 『週刊現代』による脱税疑惑報道 『週刊現代』は2007年9月29日号(9月15日発売)において、安倍がをしていたとの記事を掲載した。 内容は「父・晋太郎が生前、自身の指定政治団体に「安倍晋太郎」名義で寄付した6億円以上の政治資金を、66の政治団体に分散させて引継ぎ、3億円を脱税した」というものである。 『週刊現代』は安倍の辞意表明当日に、以前から脱税疑惑についての取材を安倍に申し入れていたことを明らかにした。 安倍の事務所は「事実無根である」と反論し、発行元の講談社に対して、当該記事を掲載しないよう「警告文書」を送った。 事務所の関係者によると、「父である晋太郎が個人資産を政治団体に寄付し、相続税の支払いを免れたのではないか」との質問が『週刊現代』側からあったという。 同事務所は、安倍の辞意表明当日の『毎日新聞』夕刊がこの一件について報じたことを受け、自民党本部の(本部平河クラブ)にて、「収支報告書には、あくまでも第三者からの寄付を晋太郎氏名義で記載しているにすぎず、個人献金ではないので相続税の問題はない」とする内容の文書を配布し、疑惑を全面的に否定した。 これについて、「高瀬真実」のペンネームで『週刊現代』の当該記事を執筆したジャーナリストのは、「その説明が正しいなら、安倍事務所は『安倍晋太郎』という偽名を使ってへの虚偽の記載を毎年続けていたことになる」と述べている。 安倍は首相再任後の2014年11月4日、党首のが参議院予算委員会で本件に言及し、週刊誌の記事を根拠にして自発的納税を促したことに対し、重大な名誉棄損に当たるとして吉田を非難し、吉田は「断定的に申し上げたのは申し訳ない」と陳謝した。 後援会事務所等への被害 「」も参照 2000年6月28日、安倍の後援会事務所()の窓ガラスが割られ、屋内外に2本が置かれた。 これに先立つ同月14日には同事務所近くにある催事場駐車場の壁、同月17日には安倍の自宅(同市内)の倉庫兼車庫にそれぞれ火炎瓶が投げられ、自宅の事件では車2台が焼ける被害もあった。 事件が起きたのは、安倍が三選を目指した(同年6月25日投開票)の最中であった。 事件の3年後の2003年11月、福岡・山口両県警の合同捜査本部は、(後の)系高野組(本部・)の組長ら6人を、容疑で逮捕し、工藤会本部事務所(同市内)などを家宅捜索した。 同事件では、主犯格の組長に懲役20年 、実行犯らに懲役8年から13年の判決が確定した。 なお、朝日新聞は、同事件では、1999年に行われた下関市長選挙に際して安倍が推した候補者を支援した土地ブローカーが、被告人の一人となっていると報じている。 公判の検察側立証で、この被告人は、安倍が推した候補者の支援活動に当たって当時の安倍の秘書に現金を要求して300万円を工面させ、その後も金を要求したが、安倍側が応じなかったことから、暴力団と共謀して報復したという証言を報じている。 災害への対応について 2007年7月16日、沖の日本海でマグニチュード6. 8の新潟県中越沖地震(最大震度6強)が発生した。 第21回参議院議員通常選挙の遊説中に地震発生を知らされた安倍は、いったん官邸に戻ってから、震度6強を記録した柏崎市を訪問した。 余震の発生が懸念される中で首相自らが震源地に程近い現地を訪問したことは、危機管理の観点から議論を呼んだ。 元のは「現場に行ったときに果たして正確な情報が得られるのか。 総理大臣は通信情報の拠点におられた方が良かった」 と指摘し、衆議院議員のは「担当大臣を派遣するっていうのが本来の第一歩だと思います。 総理大臣は大将ですから、一番官邸にいて指示を出すっていうのがいい対応」 と指摘した。 読売新聞は、「首相が発生直後に行けば、現場が首相への対応に人手を割かなければいけなくなり、行っても混乱するだけだ」 との論評も報じている。 2014年2月に雪害が発生。 政府は降雪が厳しくなる前の14日に災害警戒会議を開いて対応し、15-16日には、山梨・長野両県知事の要請に基づき、自衛隊を派遣した。 しかし、17日に大雪で車が立ち往生したまま除雪車が進入できない状況となり、産経新聞では「政府の対応が後手に回った」と報じられた。 17日の記者会見において、民主党のは、安倍が前日の16日夜に支援者と天ぷら料理店で会食したことに触れ、「緊張感が乏しい。 16日の段階で雪の中で孤立している集落や車があった。 残念だ」と述べた。 また、は、「初動が遅れたというそしりを免れない」と批判した。 野党の批判を受け、安倍は、同日の衆院予算委員会で、「関係自治体と連携を密にし、関係省庁一体となって国民の生命、財産を守るため、対応に万全を期す」と述べている。 (台風15号) 2019年9月の房総半島台風に対する初動対応について、のは「結果的に対応が遅れたことを率直におわびし、第三者による客観的な検証を急ぐべきだ」と述べた。 これに対し、安倍は「初動対応は迅速、適切に行われてきた」と述べた。 2019年-2020年コロナウイルスの流行 詳細は「」を参照 2020年1月26日、が中国・武漢市で勃発したことを受け、武漢市の邦人帰国のためのチャーター便の手配等を行うと述べた。 2020年2月26日、多人数が集まるスポーツ・文化イベントは、大規模感染リスクを勘案し、今後2週間の中止・延期・規模縮小を要請した。 2020年2月27日、感染拡大防止のため全国全ての小中高校や特別支援学校を3月2日からするよう要請した。 2020年3月5日、政府は水際対策として中国・韓国からの入国制限のため両国のビザの効力停止を決定した。 安倍は、「機動的な水際対策を躊躇なく断行していくことが不可欠だ。 今般、積極果断な措置を講じることにした」と強調、「中国や韓国全土から人の流入が続いている。 感染拡大を防止し、国民の不安感を解消する」とも述べ、検疫を強化する考えを示した。 2020年3月14日、新型コロナウイルスの感染拡大に備え「緊急事態宣言」を可能にする特別措置法成立に関し「あくまで万が一のための備えをし、そのための法律だ。 さまざまな私権を制限する緊急事態の判断は専門家の意見もうかがい、慎重な判断を行っていく」と述べた。 2020年4月7日、コロナウイルスの感染が広がっている東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に、5月6日までを期間とし、に基づくを発令した。 福島第一原発事故 2011年5月20日、自身が発行するメールマガジン にて、によって発生した福島第一原子力発電所事故における海水注入対応について当時の首相・に対し「やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです。 」と発信し、「菅総理は間違った判断と嘘について国民に謝罪し直ちに辞任すべきです。 」と退陣を要求した。 しかし、事故当時の福島第一原発所長・の判断により実際には海水注入は中止しておらず 、菅から中止の指示があったという指摘についても、翌2012年の国会の福島原発事故調査委員会において、中止の指示を出したのは総理大臣の菅ではなく、官邸へ派遣された東京電力フェローのによるものだったと武黒本人が主張している。 これに関し、菅は安倍に嘘の情報を流されたとして、謝罪と訂正を要求していたが 、安倍はこれに応じずメルマガの掲載を続けたため、2013年7月16日、菅は東京地裁への提訴に踏み切った。 2015年12月3日、東京地裁は「記事は重要な部分で事実であった」としてその請求を棄却した。 裁判長の永谷典雄は、「菅氏に東電の海水注入を中断させかねない振る舞いがあった」「(当時)野党議員であった安倍氏が首相の責任を追及したものであり、人身攻撃とは言えない」と指摘した。 翌日、菅はこの判決を不服として東京高裁に控訴した。 また、当時安倍は情報の出所として「(経済産業省の)か(保安院の)寺坂に聞けば分かる」と記者に話していたため、柳瀬唯夫に対して多くの記者達から「注水を止めたのは総理の指示か?」という問い合わせがあったという。 柳瀬にとってその問い合わせは寝耳に水であり「ありえません」「安倍さんの言っていることは嘘です」と返答したという。 は、首相再就任後の2013年、福島第一原発の汚染水が大量に土壌や海洋に流出していることが判明したことに関して、具体策の提言はないが政府の介入により対策を行う意向を安倍が示したと報じている。 財務省の決裁文書改竄問題 2018年3月19日、への国有地売却に関するの決裁文書改竄について「内や内の決裁文書の存在すら知らない。 指示のしようがない」と述べ、関与を否定した。 一方「行政府の長として責任を痛感している。 最終的な責任は私にある」と陳謝した。 本件に自身や配偶者()が関与しているなら「首相も国会議員も辞める」とする自身の答弁が改竄に影響を与えたとする見方も否定した。 同月26日の党役員会で、衆参両院の予算委員会で行われる前長官のに触れ、「地検の捜査にも協力しながら、政府として徹底した調査を急がせたい。 政府、国会、それぞれの立場でしっかりと全容を解明し、膿を出し切ることが重要だ」と述べた。 設置認可や敷地の国有地払い下げへの関与に関し、「私や妻、事務所は一切関わっていない。 もし関わっていれば首相も国会議員も辞める」と述べている。 不起訴になり証拠が開示されなくなった。 2020年自殺した人の手記が公開されたが再調査を拒否した。 詳細は「」を参照 2012年から毎年行われているが「鶴の間」で行われた前夜祭は1人当たり5000円でNHKの取材にホテルは「1人11000円からで値引きには応じられない」と答えているが安倍は「ホテル側が設定した価格」「国会から求められれば説明責任を果たす」と説明している。 2019年5月5日にが資料を請求したら内閣府の担当者は2019年度4月13日に開催された桜を見る会の紙媒体の招待名簿を5月9日に廃棄したと答え、安倍は安倍晋三後援会桜を見る会前夜祭の明細書等も「そんなものはない」「800人が参加」「安倍事務所にも後援会にも入金はないので領収書を発行してもいない」「国会対応は党に任せている」と言っている。 同年11月29日、と山口県選挙管理委員会が2018年分の政治資金収支報告書を発表。 計6つある安倍の関連政治団体は、いずれの報告書にも前夜祭に関する収支を記載しなかった。 安倍は「会場受付で参加者から集金してホテル側に渡したにすぎない。 政治団体に収支が発生して初めて記入の義務が生じる。 政治資金規正法違反には当たらない」と主張している。 、全国のや500人以上が同月21日にも、違反(寄付行為)などの疑いで安倍と後援会幹部の計3人のをに提出することが明らかにされた。 黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題 2020年1月31日、政府は東京高検検事長の定年を6カ月延長する閣議決定を行った。 これに対し、立憲民主党の枝野幸男は、国家公務員法に基づき黒川東京高検検事長の半年間定年延長の決定を「違法、脱法行為だ」と批判した。 安倍は、定年延長の決定について「法務省の人事案を承認しただけだ」と述べ、定年延長は検察のトップを含めた総意の人事であるとし、官邸が介入したとの指摘は「あり得ない」と強調した。 発言 この項目は、・執筆者の個人の主観での記述や批評・・的・的である・不適当な、その他など、改善の余地があるため、 を広く求めています。 2016年4月には鈴木貴子の質問主意書に対し「は一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない。 しかし及びに基づき、一切の核兵器を保有し得ない」とする答弁を閣議決定した。 民主党を「中国の拡声器」 2002年5月19日中国・に関して、日本国外務省の不手際を調査するため中国を訪問した民主党を、テレビ番組において「中国の拡声器」と批判した。 安倍は2日後の5月21日、参議院において、民主党の激しい反発に遭い、発言を撤回した。 辛光洙の保釈署名者の土井たか子と菅直人に対する発言 2002年10月19日・の講演において「1985年に韓国入国を図り逮捕された(シン グァンス)容疑者を含む政治犯の釈放運動を起こし、政権に要望書を出した人たちがいる。 それが、あるいはだ」「この2人は、で原さんを拉致した犯人を無罪放免にしろといって要望書を出したという、極めてマヌケな議員なんです」と発言した。 この発言は両議員から抗議を受け、同月21日の衆院議院運営委員会の理事会で取り上げられ、社民党の衆院議員が抗議した。 また、土井党首も記者団に「人格とか品格の問題にかかわる」と不快感を示した。 結局、安倍が自らの発言を「不適切」と認めたことで、同月25日の衆院議院運営委員会の理事会にて決着した。 委員長が安倍に「適切さを欠く表現があったと思われるので注意して欲しい」と伝え、安倍は「官房副長官という立場を考えると、不適切な発言だったので、今後十分注意する」と述べたという。 その後、大野委員長が、このやりとりを理事会で報告し、民主、社民両党も了承した。 2011年 日韓図書協定 2011年のについて、「国民や歴史に対する重大な背信だ」と批判した。 2012年 「来年の通常国会において私たちは既に私たちの選挙公約において定数の削減と選挙制度の改正を行っていく、こう約束をしています。 今この場でそのことをしっかりとやっていく約束しますよ」発言 2012年11月14日の党首討論で首相が「来年には定数削減する。 それまでは歳費を削減する」と言ったのに対し安倍は「来年の通常国会において私たちは既に私たちの選挙公約において定数の削減と選挙制度の改正を行っていく、こう約束をしています。 今この場でそのことをしっかりとやっていく約束しますよ」と言って解散したが、逆の立場になった2016年2月19日、野田の質問に対し「政治は結果。 定数削減を言うのは簡単だが実際に実行するのはそう簡単ではない」「我が党も責任があるが、共同責任。 誰かだけに責任があるわけではない」などと答えた。 2014年 最高責任者に関する発言 2014年2月13日、自民党の総務会において「最高責任者は私です。 私が責任者であって、政府の答弁に対しても、私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ」と発言した。 この発言について、自民党のは「総理の発言は、選挙で勝ったら、拡大解釈で憲法を改正しても、何をしても良いのかと理解できる。 その時々の政権が解釈を変更できることになる」と、自民党のは「拡大解釈を自由にやるなら、憲法改正は必要ないと言われてしまう」と、それぞれ意見した。 消費税10%を延期 11月、「来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。 再び延期することはない。 ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。 平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。 3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。 私はそう決意しています。 2020年度の財政健全化目標についてもしっかりと堅持してまいります。 来年の夏までにその達成に向けた具体的な計画を策定いたします」と発言した が、消費税率が10%に引き上げられたのは2019年10月であり、財政健全化も2020年時点で達成してない。 2015年 2015年衆議院予算委員会においての野次「日教組どうするの! 」 2015年2月23日の衆議院予算委員会において、民主党議員の質問中に、質問内容と全く関係なく「日教組どうするの! 」という野次を飛ばし続けた。 これについて、「なぜ日教組と言ったかといえば、日教組は補助金をもらっていて、教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」などと理由を説明した。 しかし、後にそれが事実に反することを指摘され、「私の記憶違いにより、正確性を欠く発言を行ったことは遺憾で訂正申し上げる。 申し訳ない」と、それが誤りであることを認め撤回した。 一方、野次で質疑を遮ったことについては謝罪などのコメントはしていない。 自衛隊について「わが軍」と発言 2015年3月20日、参議院予算委員会で訓練の目的を尋ねられた際、「我が軍の透明性を上げていく、ということにおいては、大きな成果を上げているんだろうと思います」と語った。 30日の衆院予算委員会での質問に対し、安倍は「共同訓練の相手である他国軍と対比するイメージで自衛隊を『わが軍』と述べたわけで、それ以上でもそれ以下でもない」と改めて説明し、「自衛隊の位置づけに関するこれまでの政府見解を変更するものではないし、そのような意図はない」、「軍と呼ぶことは基本的にない」と主張した。 また、「言葉尻をとりあげて議論をする意味はあまりない。 もう少し防衛政策そのものを議論した方が生産的だ」、「こうした答弁により大切な予算委員会の時間がこんなに使われるならば、いちいちそういう言葉は使わない。 ただそれを使ったからどうこういうものではない」と述べた。 衆議院特別委員会において野次「早く質問しろよ」「大げさなんだよ」 2015年5月28日、衆議院平和安全法制特別委員会において、の質疑中に「早く質問しろよ」「大げさなんだよ」とやじを飛ばした。 批判を受け、同6月1日の同委員会において「重ねておわび申し上げる。 真摯に対応していく」と謝罪した。 2016年 「デフレ脱却していないがもはやデフレではない」発言 第2次安倍内閣発足後にいわゆるを推進した安倍は、国会内で「もはやデフレではない」とデフレ脱却を主張したが、同時に「デフレ脱却道半ば」と付け加えたため野党議員より意味不明と非難された。 「私は立法府の長」発言 2016年5月16日、衆議院予算委員会で自身を指して「の長」と発言し、翌17日の参議院予算委員会でも「立法府の私」と発言した。 23日の参議院決算委員会で、「もしかしたら言い間違えていたかもしれない」と釈明した。 はこの「立法府の長」発言を2016年の国会の名言6位に取り上げた。 は社説にて、行政府の長を言い間違えたのではなく、何でも可能であるという全能さを表しているのではないか、謙虚さが必要であると批判している。 一方、立命館大学教授のはこれを、議院内閣制のもとで国会のを維持している首相の安倍が衆議院・参議院・内閣の「「三位一体」体制の長であるという意味合い」を示す発言であると評した。 「これまでのお約束とは異なる新しい判断だ。 公約違反ではないかとのご批判があることも真摯に受け止めている」 2017年4月の消費増税の再延期について2016年6月、にて経済リスクを世界のリーダと共有し「世界経済は想像を超えるスピードで変化し不透明感を増している。 のときに匹敵するレベルで原油などの商品価格が下落し、さらに投資が落ち込んだことで新興国や途上国の経済が大きく傷ついている」。 「現在直面しているリスクはリーマンショックのような金融不安とは全く異なるが、危機に陥ることを回避するため、内需を腰折れさせかねない消費税率の引き上げは延期すべきだと判断した」。 「これまでのお約束とは異なる新しい判断だ。 公約違反ではないかとのご批判があることも真摯に受け止めている」、「アベノミクス加速か後戻りするのかが参院選の最大の争点だ」と発言。 2017年 「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員も辞める」発言 で2017年2月17日に国会での答弁。 2018年、文書改ざん等で前国税庁長官ら職員20人の処分を公表したが財務大臣も責任を取らなかった。 「訂正でんでん」発言 2017年1月24日の参院代表質問にて、元民進党の議員の発言に対して、「訂正 でんでんという指摘は全く当たらない」と云々(うんぬん)を誤読したと思われる答弁をして話題となった。 「こんな人たち」発言 の2017年7月1日に秋葉原駅前での街頭演説で野次に苛立って「皆さんあのように人の主張の訴える場所に来て演説を邪魔するような行為を私たち自民党は絶対にしません。 私たちはしっかりと政策を真面目に訴えていきたいんです。 憎悪からは何も生まれない。 相手を誹謗中傷したって皆さん何も生まれないんです。 こんな人たちに皆さん私たちは負けるわけにはいかない。 都政を任せるわけにはいかないじゃありませんか」と言った がは問題は「全くない」「きわめて常識的」だと発言。 2018年 「エンゲル係数上昇は食生活の変化」発言 2018年参院予算委員会の場で民進党のが安倍の経済政策について、「が顕著に上がっている」と経済指標から庶民の生活の貧困具合を指摘したが、安倍晋三は「エンゲル係数上昇は物価変動、食生活や生活スタイルの変化が含まれている」「景気回復の波は全国津々浦々に」とによる景気回復を主張した。 経済評論家のはこれについて、「テストなら0点」「食費は生活の基礎的な部分。 支出に占める割合が大きければ大きいほど、生活に余裕がないという指標」「今や外食の単価が下がり、ワンコインでおつりがくることもある。 外食費は多くない。 安倍や麻生は1万円を超えるステーキを食べに行く金持ちだから、自分と国民の違いが分からない」と答弁について指摘した。 2019年 「総理なので森羅万象すべて担当している」発言 2019年2月6日、参議院予算委員会において、の不正調査問題に関するの質問に対し、「総理大臣でございますので、すべて担当しておりますので…」と発言し話題となった。 「唯一のミスは大阪城にエレベーターをつけたこと」発言 2019年の大阪サミットのとき、ジョークとして「唯一のミスは大阪城にエレベーターをつけてしまったこと」等と発言したが、「障害者や高齢者を軽蔑する発言だ」と批判された。 2020年 「募ってはいるが募集はしていない」 2020年1月28日の衆議院予算委員会において、のによるに関する質問に対して、「私は、幅広く募っているという認識だった。 募集しているという認識ではなかった」と答弁をして話題となった。 この答弁に対して宮本は、「私は日本語を48年間使ってきたが、『募る』というのは『募集する』というのと同じですよ。 募集の『募』は『募る』っていう字なんですよ」と諭した。 「春節に際して、多くの中国の皆さまが訪日されることを楽しみにしています」 2020年1月24日、すでに中国では湖北省・武漢を中心に新型コロナウイルスの感染拡大が公に報道されているにも関わらず、在中国日本国大使館の公式HPに中国人観光客の来訪を歓迎する旨の動画メッセージを掲載した。 これに対しネット上から疑問視の声が相次ぎ、30日に動画は削除された 日本が中国を入国拒否対象に加えたのはそこから2ヶ月以上経過した4月1日である。 「意味のない質問だよ」 2月12日、衆議院予算委員会で辻元清美が質問の最後に「タイは頭から腐る」と述べたことに対して、質問終了直後に「意味のない質問だよ」とヤジを飛ばした。 これに対して野党は抗議し審議が一時中断された。 同月17日の衆議院予算委員会で安倍はこのヤジについて謝罪した。 「全ての責任は私にある」 4月27日衆院代表質問でについて「もっと早くという批判は私自身の責任として受け止めなければならない。 私はこれまでも政治は結果責任であると申し上げてきた。 全ての責任は首相である私にある」。 人物 座右の銘• の「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」。 「初心忘るべからず」。 には(真心)としている。 愛読書• の『の世界』(留魂録は吉田松陰の著作である)。 尊敬する人物やファンである人物• 期の、吉田松陰を尊敬する。 「晋三」の名は、松陰のの門下生だったからとって付けられた。 内閣官房副長官時代に仕えた小泉純一郎、森喜朗を尊敬する対象としている。 には「政治家にいないタイプ」「つねに挑戦的でかつ」などの理由で嫉妬しており、学生時代には父にあうために来訪した石原に『』文庫本にサインを書いてもらった際にもっと新しいものを買えと全く媚びない言葉を掛けられて憧れを感じている。 ファッション 寒がりである。 の一環である「国会内は・ノー」が導入された当初は背広で通していた が、東京新聞の政治ネットモニター調査では、クールビズが似合う政治家第2位となった。 2002年、清潔感を大切にしたファッションを心がけていることが評価され、政治経済部門でを受賞。 安倍は「いつも私の服をチェックしてくれる妻が受賞したようなもの」とコメントした。 アーチェリー 大学時代にをしていた安倍は、2005年にの第6代会長に就任している(前任は同じく首相経験者の、父の安倍晋太郎も第4代会長である)。 2007年3月25日、連盟から再び会長に推薦され 、これを受託したため、14日の理事会で2期目を務めることとなった。 首相であるため、職務は副会長が代行することになっている。 2006年4月28日ののでは、とアーチェリーで対決、その腕前をテレビで初めて披露した。 ゴルフ も趣味の一つであり、アメリカ留学中も、現地で知り合った友人とプレーしていた。 米大統領や とゴルフをプレーする仲である。 野球 少年時代、・サンケイアトムズ(現:)のファンだった。 一方で、神戸製鋼所に勤務していたことから「あの会社はじゃなきゃ生きていけない」と冗談めかして語るように、2017年のではの氏の応援にの前で行われた街頭演説にて「今日(10月14日)ので阪神タイガースが勝ちました」と発言している [ ]。 かつてであったことも公言しており、出身の政治家であるが予算委員会に「初登板」した際には「応援しているチームが痛い目にあい、『本当に憎たらしいピッチャーだ』と思いながらも『この人はすごいな』と思った」と印象を述べた。 食べ物・調理 かつては寝る前にビデオを見ながら、アイスクリーム やせんべいを食べるのが好きだったが、妻の助言でやめた(2017年時点 )。 (コース料理よりも)自分で注文するアラカルトが好きと、2012年に語っている。 得意料理は入りのと述べている。 お笑い が好きであり、特にタモリのファンでフジテレビ系「」をよく見ていた。 これもあり、自らと考えが一部異なるの番組に出演したり、で一緒に写真を撮ったりもしている。 疾患 国のの1つであるを患っており、中学卒業時より悩まされてきた。 時には病状の悪化に苦悩していたともいわれており 、の突然の総理辞任の原因にもなった。 喫煙 自らの歴について、「24、25歳ぐらいまでを吸っていて、その後やめた」と打ち明けたうえで、「吸っている時にはの立場に立たされる人が不愉快であるとは気づかないが、やめたとたんにそれがよく分かる」と述べた。 関係団体 安晋会 「」も参照 「」「系」とされる団体では国内最大級の組織であり、安倍と思想的にも近いと朝日新聞で報道された。 事務総長の、政策委員の、役員のは、朝日新聞で安倍のブレーンであると報道されている。 安倍はの特別顧問である。 交流関係 週刊誌『』によると、安倍は、小選挙区制度が導入されて二大政党制に近づけば、創価学会は自分から離れてゆくとの判断から、1994年に創価学会と公明党に批判的な宗教団体や有識者で結成された「」(代表幹事:)の集会などに参加したこともあったと報じられている。 また、創価学会に関する自民党の勉強会『憲法20条を考える会』に参加した次の日、自身の選挙区の公明党の大幹部から電話で釘を刺されたことで、政治的野望を持った創価学会が政界での影響力を拡大して行くことを危険視していたという。 首相就任直前の2006年9月22日に極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、池田大作創価学会名誉会長と会談を持ったと『』・『毎日新聞』・『朝日新聞』・『読売新聞』や『週刊文春』などが報じた [ ]。 毎日は20日と報道。 安倍は池田に父との生前のつきあいについて感謝の意を表し、「参院選での公明党や創価学会の協力を要請」し、池田は「協力を約束した」という。 また、「日中関係の早期改善が重要との認識で一致」したという。 同月30日には公明党大会に来賓として出席し、祖父も父も「公明党とは交友関係が深かった」として「何か特別な運命を感じる」と語った。 その後、国会で池田と面会した事実があったかというの質問に対して、安倍は「そういうことはございません。 」と答弁した。 2007年2月13日の衆議院予算委員会でも同様に否定した。 20代から30代の頃にアグネス・チャンの熱心なファンであった。 チャンとは親交がありたびたび食事をともにしている。 — 理事長 アメリカ留学時代以来の政治家になる前からの友人である。 家族・親族• 先祖に、、、ら [ ]。 五世祖父 - ()• 高祖父 - (・、)• 曾祖伯父 - (政治家)• 祖父 - (政治家)• 祖父 - 岸信介(官僚、政治家・首相)• 大伯父 - (軍人・)• 大叔父 - 佐藤栄作(官僚、政治家・首相)• 父 - 晋太郎(、政治家)• 母 - (岸信介の長女)• 兄 - (社長。 妻は会長の娘)• 弟 - (岸家へ養子、政治家)• 妻 - (旧姓・松崎。 第5代社長・の長女) 家庭 妻・昭恵との間に子供はいない。 岸信夫 実弟の岸信夫がに立候補した際、安倍は秘書に対して岸の出馬に反対する発言をしたと報道された。 当時の秘書は「虚偽の事実を書かれ、地元での声望は地に落ちた」として筆者であるジャーナリストのを訴えたが、下関支部は「原告の発言内容がおおむねその通りに掲載されている」として秘書の訴えを棄却した。 系譜 安倍家 ルーツは平安時代にの奥六郡(現在の岩手県内陸部)を治めた豪族・一族にあり、 を祖として晋三で44代目であるとしている。 山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割、現:長門市)の安倍家は、には地元の大を務め、やのを営み、やがて大津郡きってのと知られるようになった。 になるとが山口県議会議員に当選し、「安倍家中興の祖」と呼ばれた。 慎太郎は地元の名門椋木家から婿養子を迎え入れ、その子であるは山口県議会議員を経て、1937年に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は山口の地盤を世襲する政治家一家となる。 その息子が晋三の父であるである。 は総辞職後に下野して防長尊攘同志会を作った際に安倍寛と親しくなっており、その安倍寛の息子でとの後輩にあたる晋太郎のことをいたく気に入り、娘との結婚を許した。 そして慎太郎と洋子夫妻の次男として生まれたのが晋三である。 佐藤家 安倍晋三の母方のルーツである佐藤家は江戸時代には士だった家系である。 江戸時代最後の当主は藩の郡奉行筆者役などを務めた信寛の孫娘は山口県官吏だった岸秀助と結婚し、秀助は佐藤家の養子となった。 秀助・茂世夫妻の間に生まれたのが晋三の祖父である 父の実家岸家の養子に入った 、および晋三の大叔父にあたるの兄弟である。 第31回(2002年) - 政治・経済部門• MEN OF THE YEAR 2006 (2006年)• 第42回ベストドレッサー賞(2013年) - 政治・経済部門• (2013年)• (2013年)• (2013年)• (2014年) - Leader枠で選出 栄典• : () - (2014年)• : - (2015年)• : () - (2017年) 著作 主著• 『安倍晋三対論集 日本を語る』PHP研究所、、2006年4月。 『美しい国へ』〈文春新書〉、2006年7月。 『新しい国へ 美しい国へ 完全版』文藝春秋〈文春新書 903〉、2013年1月。 『日本の決意』、2014年4月。 共著・編著• 『』安倍晋三 編、新外交研究会、1992年4月。 - 安倍晋太郎外交対象。 安倍晋三、『この国を守る決意』、2004年1月。 『日中対話』安倍晋三 編、〈言論ブログ・ブックレット 私ならこう考える-の主張〉、2006年12月。 安倍晋三、『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』、2013年12月。 出演番組 テレビ• ()- 2012年12月19日、2015年1月14日• ()- 2011年10月18日、2014年4月8日、2015年4月20日、2017年2月13日、10月5日• ()- 2013年4月18日• ()- 2005年1月13日、2012年9月12日、2013年12月20日、2017年9月25日など• ()- 2014年3月21日『』コーナー• ()- 2013年1月20日、2017年1月8日• (フジテレビ)- 2015年7月20日• (読売テレビ)- 2015年9月4日• (読売テレビ)- 2018年6月18日• (フジテレビ)- 2018年5月11日• (フジテレビ)- 2016年5月1日• (NHK総合)- 2016年12月16日、2017年9月25日• ()- 2016年12月16日、2017年9月25日• (フジテレビ)- 2018年1月3日。 インターネット動画配信• の部屋()- 2017年10月8日 ラジオ• () - 2014年9月11日、2015年7月23日• (ニッポン放送) - 2016年2月20日• (ニッポン放送) - 2017年5月28日、6月4日• 安倍晋三・櫻井よし子新春対談 強いニッポンの創り方(ニッポン放送) - 2018年1月1日 所属団体• (会長)• (会長 [ ] )• (会長)• (顧問)• (顧問)• (顧問)• (顧問)• (顧問)• (事務局長)• (特別顧問)• (副幹事長)• 日本の水源林を守る議員勉強会• 脚注 [] 注釈• また、首相官邸公式サイトの小泉内閣閣僚名簿『』ページでは、「南カリフォルニア大学に留学」と明記されている。 ただし、では非掲載(2020年現在)。 総理就任記者会見冒頭で「まず初めに、はっきりと申し上げておきたいことは、5年間小泉総理が進めてまいりました構造改革を私もしっかりと引き継ぎ、この構造改革を行ってまいります。 」と述べる。 むしろ加速させたいとの考えを示した。 官邸で訃報に接した安倍は涙を流し 「慙愧に耐えない」 と会見し、その晩は公邸で妻の昭恵に「松岡さんにはかわいそうなことをした」 と語っている。 9月11日には妻の昭恵に対し「もうこれ以上、続けられないかもしれない」 と語ったが、辞任の具体的な日程までは一切明かさなかった。 病室内では新聞は読まずテレビも基本的には視聴せず、外部の情報をシャットアウトした環境下で治療を行った。 入院中、妻の昭恵から政治家引退を勧められたが、安倍は「いや、それは違う」と答え、議員辞職は拒否した。 ただし、吉田は初任時はでの任命であるため、日本国憲法下で初任だった首相としては安倍が初となる。 『週刊金曜日』において、ジャーナリストからは内閣発足当初からを容認しアメリカに追従する的な体制を作ろうとしていると批判された• 2013年、6月19日にロンドンで行われた講演で「ではいかにして、成長を図るのか。 国を開くこと、日本の市場を、オープンにすることです。 これは、政治家となって以来、私の中に流れる一貫した哲学でした。 」と国を開いていく意欲を示した。 安倍は、の方針を5つ挙げ、そのひとつに「人材や産業を始めとする徹底した」を挙げた。 安倍は会議の中で、「世界の人材、資金、技術を引き付け、日本の成長に結び付けるためにも、日本国内の徹底したを進めていかなければならない。 」という見解を示した。 同日にジャカルタで行う予定であったが、安倍が発生の影響で予定を早めて緊急帰国することとなったことにより行われなかったスピーチが、首相官邸のHPで公開されている。 の国際的流動化について2013年などを交えて協議。 国家財源の自給率を低下させる政策。 日銀決済局 2013年11月29日 同年9月3日、上のソースにて、とが息をそろえて国債流動化をPR• 安倍の関連政治団体は2018年12月現在で以下の6つ。 内訳は所管分が3、山口県選挙管理委員会届け出分が3。 主たる事務所の所在地は、である晋和会が東京都の衆議院第一議員会館。 その他の政治団体はすべて山口県東大和町1丁目に集約されている。 晋和会(総務省)• 東京政経研究会(同上)• 山口晋友会(同上)• 安倍晋三後援会(山口県選挙管理委員会)• 山口政経研究会(同上)• 自由民主党山口県第四選挙区支部(同上)• 一族では大叔父の佐藤栄作が1973年、兄嫁の父であるが1981年に受賞している。 当初は4月17日に放送予定であった が、4月14日に発生したのニュースのため放送延期 となり、5月1日の放送になった。 時事ドットコム. 2019年6月7日閲覧。 夕刊フジ. 2007年9月26日閲覧。 2007年9月28日時点の [ ]よりアーカイブ。 2007年9月26日閲覧。 産経新聞 2015年12月7日• ライブドア・ニュース. 2007年9月26日閲覧。 『滋賀市民新聞』2007年2月12日 第4784号• 『』 2003年12月号「安倍晋三 気骨と血脈」、野上忠興• 「」 四国新聞、2015-05-03• 2007年9月26日閲覧。 2016年3月13日閲覧。 2018年10月19日閲覧。 安倍洋子 『わたしの安倍晋太郎』 ネスコ、1992年• 安倍洋子 『わたしの安倍晋太郎』 ネスコ、1992年• 2017年5月26日閲覧。 『自民党総裁選 焦点は票差、両陣営始動 出陣式に橋本氏側224人参集』 読売新聞 東京朝刊 三面 1995年9月11日• ライブドア・ニュース. 2007年9月26日閲覧。 「民意は安倍政権の拉致政策を支持」(『産経新聞』2006年8月3日付「正論」欄)• 四国新聞. 2007年5月28日. 2016年4月28日閲覧。 読売新聞. 2007年7月31日. の2008年5月19日時点におけるアーカイブ。 2010年7月13日閲覧。 「わが告白 総理辞任の真相」『文藝春秋』平成20年2月号• YouTube TOKYOMX 2007年9月12日• 内閣官房内閣広報室 2007年9月13日. 2007年9月26日閲覧。 読売新聞. 2007年9月20日• 産経新聞. 2007年9月18日• 産経新聞. 2007年9月20日• 毎日新聞. 2007年9月24日• 毎日新聞. 2007年9月24日• 読売新聞. 2001年9月13日• 安倍首相が風邪、公邸に直帰、時事通信。 2007年9月11日• 週刊現代. 2011-10-22. 2012年9月27日閲覧。. 「無責任の極み」と批判 野党、衆院解散を求める構え(2007年9月12日 東京新聞)• 2007年9月12日. の2007年10月11日時点におけるアーカイブ。 2015年9月5日閲覧。 共同通信社. 47NEWS. 2007年9月12日. 2015年9月5日閲覧。 共同通信社. 47NEWS. 2007年9月12日. 2015年9月5日閲覧。 共同通信社. 47NEWS. 2007年9月12日. 2015年9月5日閲覧。 朝日新聞. 2007年9月13日. の2007年9月29日時点におけるアーカイブ。 2007年9月26日閲覧。 木村正人 2007年9月13日. 産経新聞. の2007年9月30日時点におけるアーカイブ。 2017年2月22日閲覧。 産経新聞. 2016年2月10日. 2017年8月17日閲覧。 読売新聞.

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