アテネ オリンピック。 <オリンピック4位という人生(11)>アテネ五輪男子リレー・土江寛裕

アテネ1896(1) オリンピックコラム

アテネ オリンピック

オリンピックの大会記事における導入部の書き方については、2017年12月現在、で議論中です。 アテネオリンピック 開催都市 参加国・地域数 20 参加人数 903人 競技種目数 13競技78種目 開会式 閉会式 開会宣言 主競技場 1906年アテネオリンピックは、との中間に、の首都で開催された競技会。 この大会の後、4年ごとに開催された大会だけをオリンピックと呼ぶことになり、現在のオリンピックの公式の歴史には登場しない。 1度しか開催されなかったため、特別大会或いは暫定大会、中間大会、10周年大会とも呼ばれることもある 当時、提唱者のは、オリンピックは世界各地で順に開催されるべきだと考えていた。 ところが、ギリシャ王のは、オリンピックは恒久的にギリシャで開催されるべきだと考えていた。 また、との2大会があまり盛り上がらなかったという背景もあった。 そこで、通常のオリンピックは4年ごとに世界各地で、4年ごとの大会の中間の年にはギリシャで中間大会を開催することになった。 1906年の大会は、その最初の中間大会である。 しかし、その後、ギリシャの政情不安と共に、提唱者のゲオルギオス1世が暗殺され、計画は立ち消えとなり、中間大会は二度と開催されなかった。 、国際オリンピック委員会は、この大会を公式の記録から削除した。 これ以降、この大会は歴史の表舞台からは抹消される事になる。 実施競技 [ ]• 各国の獲得メダル [ ] 順 国・地域 金 銀 銅 計 1 15 9 16 40 2 12 6 6 24 3 8 13 12 33 4 8 11 5 24 5 7 6 3 16 6 5 6 4 15 7 4 6 5 15 8 4 2 1 7 9 3 3 3 9 10 3 2 1 6 11 2 5 7 14 12 2 5 3 10 13 2 1 3 6 14 2 1 1 4 15 1 1 0 2 16 0 1 2 3 17 0 1 1 2 18 0 1 0 1 19 0 0 3 3 20 0 0 2 2 合計 78 80 78 226 主なメダリスト [ ]• 金メダル• ()男子• (アメリカ)陸上競技男子、陸上競技男子• (アメリカ)陸上競技男子立ち高飛び、陸上競技男子幅跳び• ()陸上競技男子• (アメリカ)男子100m• ()男子• ()男子シングルス• (フランス)男子個人総合 脚注 [ ].

次の

アテネ1896(1) オリンピックコラム

アテネ オリンピック

2004年のアテネオリンピックにJOCサポートチームの気象担当として参加しました。 気象という部門では初めてのオリンピック派遣で、出発前はマスコミからの取材に追われる毎日でした。 出発は、選手団体と同じ8月7日、同日ドイツのフランクフルトに1泊した後、8月8日午後アテネに到着しました。 アテネも気温は相当高く、日中の最高気温は35度前後で炎天下では40度。 最初の数日は時差ボケもあって、体を慣らすのに一苦労でした。 私の業務はいわゆる天気予報なので、実際に競技会場に行くことはありませんでした。 宿舎はアテネのほぼ中心部にある、JOC(日本オリンピック委員会:以下JOC)が大会期間中に借り上げた()でした。 ここから毎日、地下鉄とバスで1時間ほど離れたところにある選手村まで通っていました。 バスは選手村まで無料直通便で、乗客のほとんどが(・・)のボランテイアとマスコミ関係者です。 市内の主な交通機関は、バス、タクシー(乗合)、地下鉄に(・・)です。 タクシーを除いては、事前に切符を買うのが基本ですが、改札もないし、出口で集めるわけでもありません。 時折車内で検札がある程度。 アテネでの1日は次のようなものです。 朝早く選手村を出発しなければならない競技もあるため、朝は5時起きで7時までに天気予報をメールします。 その後朝食を済ませて、9時に選手村に到着。 入り口で厳重なを受け、次のゲートでパスポートと交換にゲストパスと呼ばれる入村許可証を受け取り、さらにで選手村に滞在しているJOC職員の出迎えを受けて初めて選手村に入ることが出来ます。 選手村の建物の概観はそれなりに整っていますが、中はやや間に合わせ的な工作。 確かに、遅れに遅れていた会場整備が開催前までに間に合った訳が分かったような気がします。 で仕事をしていましたが、ここは大会終了後にはガレージとなるところ。 壁には排水管が露出しており、1日中水の流れる音が聞えていました。 ここで午後の早い時間までに予報作業を行い、後は様々な質問に答える毎日。 隣は()で、が出入りしていました。 トレーナー室にはが2台あり、時々大きな歓声あるいはため息が聞えてきました。 私も時々顔を出してはテレビ観戦。 昼食は選手村で。 私の場合はゲストなので毎回入り口で食券を渡して中へ。 1度に5千人以上が入れる(・)にはありとあらゆる料理が並んでおり(ただし日本食はほとんどなく)、料理を指差してお皿に盛り付けてもらうのです。 、ギリシャ料理、ピザ、パスタ、西洋料理、、、、。 さらに、、、からまで。 全ての種類を食べるには、多分1日3食で半月以上はかかるでしょう。 しかしです。 見た目にはそれなりに美味しそうなのですが、味はやや大雑把。 特にご飯は炊き方がまったく違うようで、ぼそぼそとぐちゃぐちゃ。 幸いな事に、1人用のキッコーマン醤油のパックが用意されていました。 サラダを食べるときには、これにオリーブオイルとタバスコを混ぜて和風ドレッシングに。 選手に最も人気があった食事は、なんとマクドナルドでした。 このコーナーはいつも長い行列ができていました。 選手村の退出時間は午後9時ですが、私は夕方5時には選手村を後にしていました。 選手村の前で帰りのバスを待つのですが、バス停はなし。 手を上げれば止まってくれます。 ただし、日本のように手を開いて止めるのはマナーが悪いという事で、人差し指を斜め下に出してバスの運転手に合図を送ります。 宿舎に帰り、洗濯(勿論手洗い)をしながらシャワーを浴び、ビールを1杯飲んだ頃で7時。 外はまだ明るく、日没は大体8時過ぎです。 それから近くのレストランへ。 といってもギリシャ語でですが。 ここでだいたい毎日食べるのが、トマトとキュウリの上にヤギのチーズを載せ、オリーブオイルを皿の半分ほどまで注いだギリシャサラダ。 それにミートボール。 見た目はやや小型の揚げハンバーグ。 これがなぜボールなのかはよく分かりません。 ソースがないのでケチャップ。 それに固めのギリシャパンとグラスワインかギリシャビール(ミソスという銘柄)。 ミートボールの代わりに揚げたイカリングあるいはラムチョップの日もありましたが、いずれにしてもほぼ毎日同じ物でした。 1皿の量が多いので(2~3人分)、あれもこれも注文するととんでもない事になります。 値段は10ユーロ前後(日本円で約1,400円)で決して安いとは言えません。 ギリシャでは通貨がユーロに替わってから、物価はかなり上昇したようです。 地中海に面した国にしては、シーフードは意外に高価です。 もともと地中海は塩分濃度が高く、魚にとってはそれほど住み良い海ではないようで、漁獲量も多くありません。 時々はこの夕食の代わりに、セーリングチームの関係者の方々と食事をご一緒させていただきました。 セーリング競技は風を利用してヨットの速さを競うスポーツですから、気象情報も重要です。 大会が始まる前にも風についてのミーティングを行い、期間中も毎日情報をメールで送りました。 アテネ市の中心部は「シンタグマ」という所で、有名なもここから徒歩で行く事ができます。 アクロポリスの丘を見上げるで夕食をとる機会がありました。 日が落ちると神殿がライトアップされ、幻想的な雰囲気の中で食事するのも乙な物です。 それにしても、ギリシャの人達は夜出歩くのが好きなようです。 オリンピックの期間中ということもあったとは思いますが、夜ともなればレストランはどこもかしこも満員でした。 そこにメダルを取った国のサポーターが繰り込み、飲めや歌えの大騒ぎです。 シンタグマの中心部にシンタグマ広場がありますが、その脇にひときわ立派なホテル「」があります。 この2階に、大会期間中JOCが(・)を開いていました。 アテネの中の日本人ための応接間といったところでしょうか。 夕方からはお寿司なども振舞われていました。 アテネにも日本料理は数件ありますが、どこも予約でいっぱい。 さらに、値段もオリンピック価格。 そんな訳で、私は毎晩「タベルナ」で食事をしていました。 開会式はテレビで見ることになりました。 入場料がなんと日本円で約100,000円。 これでは、ギリシャの一般庶民もテレビしかないでしょう。 式自体は素晴らしいものでしたが、大変なのは選手です。 翌日から競技が始まる選手は勿論欠席します。 開会式が終了して会場から選手村への移動も大混雑。 選手村へ帰ったのは翌日の朝2時。 夕方6時に集合してから入場行進のために8時間以上も拘束されるのは辛いと思います。 しかも、あの感動的なセレモニーは我々同様テレビでしか見ることが出来ません。 オリンピックの期間中はほとんど室内での仕事に終始していましたが、女子マラソンはゴールの()で、男子マラソンは宿舎近くの沿道で見ることができました。 両方とも夜の8時過ぎのことでしたが、黙々と走る選手たちの姿はなかなか感動的でした。 特にがトップでパナシナイコ競技場に入ってきた時、すぐ後ろにケニアのヌデレバ選手が迫っているにもかかわらず野口選手が手を上げたので、もっと早くと声を上げてしまったほどです。 周りにいた大勢のギリシャの観客が、ジャパン、ジャパンと応援していましたので、「日本万歳」と教えたら、皆が「日本万歳、日本万歳」と叫んでくれたのには感激しました。 その後にも5位、8位と日本の選手がゴール。 観戦を終えて宿舎に帰ってから飲んだビールの量が増えたのは言うまでもありません。 当日も暑く、スタート時の気温35度、ゴール地点でも南よりの蒸し暑い風が吹き、31~2度もありました。 そんな中で本当によく頑張ったものだと思います。 肝心のアテネの気象のことですが、特徴は次のとおりです。 日中の気温はほぼ毎日32~35度に上がりますが、明け方は20~24度程度まで下がり、クーラーは要らないほどです。 また、北風がやや強く吹くと、同様に日中でも涼しく感じる事があります。 期間中、雨は1度も降りませんでした。 1度雲行きが怪しくなった事はありましたが、アテネの北側にある山までで、アテネ市内へは雷雲はやってきませんでした。 ギリシャでは夏に「メルテミ」と呼ばれる強い北風が吹くことがあります。 バルカン半島の高気圧からトルコのアナトリア高原の低気圧に向かって時に1週間以上も吹く風のことですが、大会期間中はわずか2日程度しか出現しませんでした。 男子セーリング(470級)で(・・)勝因の1つに、この北よりの強風がほとんどなかったことが挙げられます。 セーリング会場の北側にある山の影響で、北風は変化が激しく、選手はこの風をつかむのに苦労しますが、今回は日中海から吹く南よりの弱い風が多く、軽量の日本選手にとって有利に働いたようです。 我々関係者にとっては、柔道で始まったメダルラッシュはその後が心配でしたが、体操、水泳、レスリング、マラソン、アーチェリー、ハンマー投げ、セーリング、野球、ソフトボールそしてシンクロと次々にメダルを獲得し、日本チーム宿舎前のボードはバラの花で埋まることになりました。 セーリングや女子マラソンを除いては、ボート、トライアスロン、自転車ロードレース、男子マラソンなど、気象に影響される競技での成績は今ひとつでしたが、熱心に情報を取り入れていた競技もあり、これからスポーツと気象の関わりが更に深くなるような気がします。 気象が競技に影響するのはどの選手でも同じではないかとの指摘がありますが、それを前もって知っているかいないかでは、心の持ちようが違うと思うのです。 競技直前まで知らないで面食らい、競技意欲が削がれてしまう事もあるかと思います。 また、仮に選手にとって悪条件が予想されたとしても、それを事前に知る事で更なる闘志を燃やし、また、作戦を練り直すなども事前に出来るわけで、要は試合前の不安の一部を取り除き、心の準備が出来るという点で有利ではないかと思われます。 アテネの印象は、一言で言えば暑くてハッピーな所です。 日中はほとんど自由な時間はありませんでしたが、彼らは24時間フルに使っているようです。 しかも大半が遊びに。 ヨーロッパの中では決して一流とはいえないかもしれませんが、そこかしこに見られる古代の遺跡と、夜中中続く人、車の流れや町の喧騒、言い換えれば、紀元前と21世紀の人と物が決してアンバランスではなく、妙に溶け合って見えるのには驚きました。 日本ではとても目にする事の出来ない風景です。 さて、次は4年後の北京五輪です。 陸も海もアテネとはまったく異なった気象条件です。 出来るだけ早く準備をして、次の五輪に備える必要があります。 特に屋外競技での更なるメダル獲得を目指して。

次の

アテネオリンピック|気象海洋コンサルタント WAM MARINE WEB

アテネ オリンピック

近代オリンピックの第1回大会は1896年の春、ギリシャのアテネで行なわれました。 それから108年、第28回大会が再びアテネの土を踏み、オリンピックは生まれ故郷に里帰りすることになったのです。 近代オリンピックは、フランス貴族で教育者だったピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって誕生しました。 そのモデルとなったのは、西暦紀元前776年から紀元393年までギリシャのオリンピアで4年ごとに開かれる祭典競技でした。 当時のギリシャは都市国家をつくっていましたが、全土のギリシャ人は、北方のオリンポス山に住むとされる、ギリシャ神話で有名な、ゼウスを長とする神々を信仰していました。 このため都市国家では、それぞれに神々を祭る祭事を実施していましたが、ゼウスとその妻ヘラの神域を設け、その神託(お告げ)を聞く事ができるオリンピアで、鍛えた体、強い意志とエネルギーをゼウスに奉納するため始めた、スポーツ祭事が注目を浴び、全土から参加者が集まるイベントとなりました。 これが『古代オリンピック』です。 クーベルタンはこれに深い関心を持ち、中でも、この祭典の前後3ヵ月間は全都市国家がお互い戦争や争いを休止したことに感銘を受けました。 そして、このようなスポーツの催しを、国際的な規模で現代社会に生かせれば、国際親善を推進し、世界平和に寄与できるのでは、と考えました。 そこで、1894年、欧米主要国のスポーツ界有志に呼び掛け、パリで国際会議を開いた折に、このことを提案すると全員が賛同し、クーベルタンが考えたよりも早く、2年後の1896年にアテネで創設大会を開くことが決まってしまいました。 この決定の日が6月23日で、今日ではそれを記念する『オリンピックデー』となっています。 企画・運営のために12カ国から14人が委員として選ばれました(翌年には1人が追加され、15人となりました)。 これが国際オリンピック委員会(IOC)の最初で、会長には開催国ギリシャの代表、ディミトリウス・ビケラスが選ばれました。 当時のギリシャは内政の不安定、財政悪化など問題をかかえていましたが、国王ゲオルギウス一世の指導、海外同胞からの多額の寄付などで乗り切り、4月6日、無事、開幕に漕ぎつけました。 まだ『オリンピック憲章』もなく、細かい開催要項も決まっていませんでしたが、開会式ではファンファーレにのって役員、選手団が入場、国王が開会を宣言すると祝砲が轟き、鳩が飛び立ちました。 今日の壮麗な開会式は、第1回大会が原形といってよいでしょう。 日本国内でもよく耳にする『オリンピック賛歌』はこの開会式の冒頭、ファンファーレに先立って合唱で紹介(詞コスティス・パロマ、曲スピロ・サマラ)されたものです。 その後、忘れ去られていましたが、たまたま、賛歌の古い楽譜がギリシャで見つかり、東龍太郎IOC委員(元東京都知事)の仲介でこれを知ったNHK交響楽団が、あらためて採譜、編曲して、1958年5月、東京で開かれたIOC総会の開会式で演奏、披露しました。 IOCは日本の善意と曲の素晴らしさに感激、以後この曲を公式に認定し、催事に使うことにしたのです。

次の