チャンネル 銀河 えい らく。 中国ドラマ「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」

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「大唐見聞録 皇国への使者」 「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」特設サイト11月上旬公開予定• 豪華絢爛な中国歴史ドラマ2作が登場! チャンネル銀河では、新たな中国歴史ドラマの大作2本を11月より2カ月連続でスタートすることを決定した。 11月より放送するのは、 2018年中国ドラマランキングで三冠(中国の動画配信サイト「iQIYI」リアルタイム・ランキングで第1位、「百度」テレビドラマ総合ランキング&時代劇ランキング第1位を獲得)を達成した注目作「大唐見聞録 皇国への使者」。 陵墓の発掘調査中に唐の時代へタイムスリップしてしまった現代の青年がどのように戦乱の時代を生き抜くのかが描かれるスリリング作。 日本でもタイムスリップものとして人気を博した「JIN-仁-」や、「信長協奏曲」のようにエンタテインメント性に富んだ作品だ。 中国歴史ドラマを観たことがない人も気軽に楽しめること間違いない。 清朝最盛期を舞台に、愛憎と陰謀が渦巻く後宮で、その才知と信念を武器に女官から皇后へと上り詰めた実在の女性をモデルに描く、かつてない痛快歴史ドラマだ。 中国版エミー賞と言われる国劇盛典の4冠を獲得し、さらには、Variety誌のベスト海外ドラマにも選ばれた世界レベルの話題作。 この冬は、壮大なスケールで描く中国歴史ドラマをご堪能あれ!• 唐の皇帝・李世民(り・せいみん)や皇太子・李承乾(り・しょうけん)に認められた雲燁は、戸惑いながらも現代の知識を使い、宮廷内での地位を高めていく。 やがて宮廷に渦巻く数々の陰謀や政争の只中に巻き込まれていく雲燁。 , LTD. ALL RIGHTS RESERVED• どんな窮地も才知と信念で突破するヒロインに惚れる 「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」 女官として後宮に入り繍坊で働き始めた魏瓔珞(ぎえいらく)は、持ち前の正義感と頭脳で数々の試練を乗り越えていく一方、ある目的のために密かに行動する。 それは後宮で謎の死を遂げた姉の死の真相を突き止めることだった。 彼女は富察(フチャ)皇后の弟・傅恒(ふこう)を犯人と疑い近づくが、意に反して彼に惹かれていく。 同時に、思いがけず乾隆(けんりゅう)帝からも好意を寄せられ、愛憎渦巻く宮廷で波乱の人生を歩むことに・・・。 妃や女官たちの陰謀に晒されながらも、常にそれを上回る知略で相手を追い詰めていく瓔珞の痛快な大逆転劇は大きな反響を呼んだ。 , Ltd. All Rights Reserved チャンネル銀河 歴史ドラマ・サスペンス・日本のうた 大河「軍師官兵衛」、中国「蘭陵王妃」、韓国「イ・サン」、トルコ「オスマン帝国外伝」他、日本初放送を含む世界各国の歴史ドラマから「松本清張サスペンス」、「孤独のグルメ」等の国内ドラマやNHKの豪華歌謡番組まで、大人世代の番組が満載のドラマ・エンターテインメントチャンネル。 J:COMなど全国のケーブルテレビや、スカパー! 、IPTVを通じ、約573万世帯(2019年8月末現在)のお客様にご覧いただいています。

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瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~

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Contents• 宮女として後宮で働き始めたのは主人公の魏瓔珞(ぎえいらく)。 同僚に数々の嫌がらせを受けるが、正義感と勇気で負けずに困難を乗り越えていきます。 後宮は、殺された姉がいた場所で、その真相にも近づいていくんですね。 そんな中、犯人と疑う孝賢純皇后・富察氏の弟である富察傅恒に近づいていきますが、なんと同時に乾隆帝からも好意を寄せられるように・・・ 主人公の 魏 瓔珞は、清朝の英雄、乾隆帝との間に6人の子供をもうけた、数多い妃嬪の中で最も愛された女性といわれています。 今回のドラマではこの人物を聡明な女性として描き、 宮廷のドロドロや姉の死を巡るサスペンスなど、その サクセスストーリーがとにかく話題になったんですね! なんと、一日の視聴再生数が 約6. 7億回にも上り、まさにお化けドラマの名を欲しいままにしていました。 一日ですよ!一日!やばい・・・ 原題は? 原題について調べると、少し違いましたね。 延禧攻略というのがその原題。 延禧という意味について調べると、 舞台となる 紫禁城の東宮殿の六つのうちの一つ 景仁宫、承乾宫、钟粹宫、景阳宫、永和宫、延禧宫 であるということです。 つまりこの延禧宫を舞台に繰り広げられるサクセスストーリーなので、 攻略としたのでしょう。 ettoday. 延禧の読み方はイェンシー。 英語では、 Story of Yanxi Palaceとなっています。 blog82. fc2. 代表作品は2013年 「烽火佳人」ですが、まだあまりヒット作品はなかったというのが現状でした。 そして、このドラマでその人気に火が付いたのです。 今後の活躍も楽しみですよね。 詳細はこちらからどうぞ!.

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チャンネル銀河 : 華流ドラマ放送予定

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チャンネル銀河で2019年5月22日(水)から放送をスタートする、中国歴史ドラマ。 今回、日本初放送となるそのドラマをより楽しんでいただくため、作品の舞台となる 「清」という国の成り立ち、首都を北京に置いた理由や、中国の歴代王朝の首都の移り変わりなどを、簡潔にではあるが解説したいと思う。 清の創設者、ヌルハチは石田三成と同世代! 後金を建国したヌルハチ 中国史上最後の帝国「清」という国は、その前王朝である明を、直接打倒して建国されたわけではない。 元々は女真族という中国の東北部、いわゆる「満州」を支配していた遊牧民族だった。 女真族は13部族に分かれて相争っていたが、これを1616年に統一したのが、 ヌルハチという猛者であった。 ヌルハチの生まれは1559年。 その翌年、日本では織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」が起きている。 石田三成や直江兼続が生まれた頃(1560年)でもある。 ヌルハチは生まれつき力が強く、かつ聡明な男だったが、9歳のときに母親が亡くなり、継母と折り合いが悪く、家を飛び出した。 そこで母方の祖父・ワンカオに引き取られることとなった。 ワンカオも武勇に優れる英傑であったが、明国との戦いに敗れ、殺された。 ヌルハチも捕らわれたが、からくも逃げ切った。 その後、25歳になったヌルハチは兵を挙げ、1616年に敵対勢力を討ち平らげ、女真族を統一する。 同年、彼は明に対抗しようと、国号を 「アイシン=後金」と定めて帝位についた。 秀吉の朝鮮出兵が、明を弱体化させていた? 天下人・豊臣秀吉 ヌルハチが明国に対して攻勢に出たのは、明が弱体化を見せていたからだった。 さもなければ女真族の統一もできなかっただろう。 実は明の弱体化を招いたのは、かの日本の太閤・ 豊臣秀吉の 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大きく関係していた。 当時、北京を首都に置く明の皇帝は第14代・万暦帝(ばんれきてい)。 相次ぐ反乱と、時期皇帝の座をめぐる後継者問題に悩まされていたところへ、秀吉が派遣した日本軍が朝鮮半島へ侵攻してきたため、万暦帝は援軍を出した。 当時、明は李氏朝鮮の宗主国であったし、もし日本軍が朝鮮を占領する事態になれば、明とて安穏としてはいられなかったからだ。 寧夏(ねいか)、播州(はしゅう)で起きた乱の鎮圧に加え、二度にわたる朝鮮への援軍派遣は「万暦の三大征」と呼ばれた。 特に朝鮮への派兵は十数万を数え、そのために軍費が嵩んで明の国庫を圧迫した。 もし、秀吉が朝鮮出兵をしていなければ、明はもう少し長く存続し、清の誕生もなかったかもしれない。 万暦帝はそうした難局に嫌気がさしたのか、現実逃避のためか、重税を課して奢侈な生活を送る。 皇族の結婚式に莫大な金をつぎ込むなどの贅沢を行ない、後宮にこもりきりとなるなど、政治を省みなくなった。 ヌルハチの乱は、こうした情勢下で行なわれた。 1618年、明に対して宣戦布告し、遼東地区(満州)一帯を平定。 1625年には瀋陽(奉天)まで進出し、そこを盛京(せいけい)と称して都とする。 まさに快進撃を見せた。 ところが、翌1626年、寧遠の戦いで明軍が繰り出してきた大砲の前に苦戦。 大敗を喫してしまう。 みずからも砲弾によって背中を負傷し、同年にあえなく世を去った。 ヌルハチの孫の代に明が滅び、首都・北京を奪う ヌルハチの子・ホンタイジは国号を「清」と定めた(『皇后の記』より) その後、ヌルハチの志は子の ホンタイジ、さらにその子の フリン(順治帝)へと引き継がれる。 ホンタイジは朝鮮を攻撃して支配下に収め、さらに内モンゴルを制圧。 1636年に国号を 「ダイチン」(大清=清)と定めると、民族名を女真から満州と改め、皇帝の座についた。 しかし、中国東北地方と中心部を隔てる山海関(さんかいかん)から西へは進出できず、北京進出は次代に委ねられた。 1644年、フリン(順治帝)の代となり、明の内部で大規模な農民反乱「李自成の乱」が起き、ついに明は滅ぼされた。 李自成は「順」を国号とし、北京へ入城、制圧した。 それを順治帝の叔父 ドルゴンが打ち破って北京を奪い取った。 まだ明の残存勢力(台湾の鄭成功など)が残ってはいたが、ここに清は中国の実効支配を始めたのである。 「摂政王」と呼ばれたドルゴンは、清が中華王朝となるにあたって大きな功績を残した(『皇后の記』より) 順軍を破ったドルゴンは、北京の統治を進め、漢民族にも 辮髪(べんぱつ)をするよう布令を出した。 頭髪を剃りあげ、残った一部の毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らすという有名なヘアスタイルだ。 拒否する者は死罪とするが、従う者には元の生活を安堵するという徹底した政策だった。 以後、清の滅亡まで中国人が辮髪となったのはこのためである。 そして清は以後、約270年という永きにわたって中国を支配する。 そして、ラストエンペラーこと溥儀(ふぎ)の代の1912年まで続いていく。 なぜ近世、北京が重視されたのか? さて、これまでに述べた通り、清は北京を首都として長期政権を布いた。 その理由としては、もちろん前政権である明が北京を都としていたのを奪ったことがまず第一にある。 加えて清(元は女真族)の元の領地である東北部に近いためでもある。 もともと北方から来た遊牧民なので、首都は北に位置していたほうが都合が良かったのだろう。 その流れは、クビライ(チンギス・ハンの孫)が樹立し、1271年に中国を侵略支配した「元」に始まった。 北方のモンゴルから来た遊牧民である彼らは、それまで西の長安や東南の南京にあった首都を北京に初めて動かし、大都(だいと)と定めた。 カラコルムに代わってモンゴル帝国の本拠地とし、多くの中華文明を吸収したのである。 その後の明は、朱元璋(しゅげんしょう)が南京に都を置いたが、外征に力を注いだ第3代・永楽帝が1403年に北京に戻し、紫禁城を完成させた。 中華の人々から見れば、異民族が樹立した国家である元・清が特に北京の存在を重要視し、その後も繁栄させていった。 以後、北京は清が滅亡するまで首都として機能し、その後の中華民国や中華人民共和国にも引き継がれている。

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