お歯黒 なぜ。 お歯黒(おはぐろ)に込められた意味とは?歯に塗る黒い原料の正体も

奇妙な文化「お歯黒」。1000年以上も続いたのにはワケがあった。

お歯黒 なぜ

「花暦吉日姿」「元服よし」 歌川豊国(3世) かつて女性が成人または結婚すると歯を黒く染めた「 お歯黒(はぐろ)」の風習。 文字通り、歯を黒く染める風習。 別名「鉄漿 かね 」「かね」「はぐろめ」「歯黒」「涅歯(でっし、ねっし)」とも呼ばれ化粧品の一種です。 よく時代劇や映画などでもお歯黒の女性が出てくるシーンがありますが、(演出家の意図があるとはいえ)正直私はちょっと不気味に感じてしまいます・・・。 しかし、その歴史は長い。 「お歯黒」は奈良時代から北方民族によって朝鮮半島から伝えられたといわれ、明治初期まで長い歴史を経て続いていた女性の習慣でした(地域によっては大正時代まで続いていたそうです)。 同時に、封建制度下において、女性を精神的にも外観的にも縛りつけるための手段でもあったといえるでしょう。 ということは、昔の男性たちもお歯黒をした女性たちの口許を「美しい」と感じていた訳ではなく、他の(両親や夫の望まぬ)男たちに「手を出すな!」というメッセージを発するためでもあったと考えられます。 こうして長く日本人の風習として続いてきたお歯黒でしたが、明治政府の近代化政策により、チョンマゲや帯刀とともに禁止され、大正時代にはほぼ全国からお歯黒の風習はなくなりました。 お歯黒の効果 古い塚や墓から掘り起こされたお歯黒の歯にはむし歯がほとんどなく、またむし歯が始まってから結婚してお歯黒を付け始めたと思われる女性では死ぬまでそのまま進行が停止していたそうです。 お歯黒にはむし歯を予防する作用があるばかりでなく、その進行を抑制しさらに、知覚を鈍麻する作用のあることが認められています。 お歯黒に使われる五倍子に多く含まれるタンニンは、歯のタンパク質の固着を促し、細菌による溶解を防ぎ、鉄は歯が酸に侵されるのを防いでいたそうです。 さらに、呼吸気で酸化された第二鉄はタンニンと結合して緻密な保護膜となり、歯の表面を細菌から守っていました。 すなわち、お歯黒は歯を強くし、かつ表面を緻密な膜で覆い歯を保護する効果があったのです。 ところで、 現在では歯科医療も発達し、お歯黒にせずとも健康な歯を保つ手段はありますし、現代に生まれた私としては歯は白い方が良いと思っていますが、 それだけ長く続いてきた風習を突如禁止してしまった、明治の文明開化の乱暴ともいえる側面にも驚かされます。。。 参考: ・テーマパーク8020「お歯黒について」, ・Japaaan Magazine, とみひろウェブストアよりお知らせ 【五倍子染(藤ねず色)】 一級和裁士がつくる 洗えるマスク入荷 本日とみひろウェブストアでは、そんなお歯黒にも使われていた五倍子で染めた「一級和裁士がつくる 洗えるマスク」を新たに入荷いたしました。 色は、赤みがかったグレーの「藤ねず色」 男女問わず、使いやすい色目になっております。 詳しくはとみひろウェブストアにてご覧ください。 【五倍子染 藤ねず色】とみひろ和裁工房謹製 一級和裁士がつくる 洗えるマスク.

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お歯黒には何の意味があったの?日本人がはじめた理由や由来を詳しく解説

お歯黒 なぜ

目 次• お歯黒とは 「お歯黒」は明治初期まで長い歴史を経て続いていた女性の習慣であった。 「お歯黒文化」はむし歯予防の見地からも有効であったといわれている。 文字通り、歯を黒く染める風習である。 別名「鉄漿 かね 」「かね」「はぐろめ」「歯黒」「涅歯(でっし、ねっし)」とも呼ばれ化粧品の一種で、時代の風俗によって歯を黒く染める鉄の溶液や、またそれを使用して歯を染めること、あるいは、染めた歯を示すようである。 お歯黒の起こりは日本古来からあったという説(日本古来説)、南方民族が持って来たという説(南方由来説)、およびインドから大陸、朝鮮を経て日本に伝わったという説(大陸渡来説)がある。 この三つの説はいずれも定説がないのが現状であるが、たとえ外国から伝来した風習であるとしてもこれを消化、吸収し、さらに日本特有の文化に練り上げ千年以上の永きにわたり日本婦人のむし歯の予防に役立っていたことは驚嘆に値する。 わが国における「歯黒め、はぐろめ」すなわち涅歯の風習はいつ頃からはじまったのかは詳らかではない。 わが国最古の辞書といわれる938年(承平7年)刊、源 みなもと 順 したがう 著「和名類聚鈔 わみょうるいじゅうしょう 」の巻六に「・・・黒歯 こくしの 国 くに 、東海中にあり。 その土俗、草を以て歯を染むる故に曰く。 歯黒は俗に 波 は 久 く 路女 ろめ と云ふ。 婦人黒歯具有り。 故にこれを取る」の記載があり、少なくとも千年前にはすでに閉仁(べに)、之路岐毛能(しろきもの)、万由須美(まゆずみ)などとともに、化粧の道具の一つとしてお歯黒道具のあったことが推察される。 お歯黒をつけることにはいろいろな意義があったが、江戸時代においては既婚婦人のしるしで、まずは白い歯を染めて、「二夫にまみえず」との誓いの意味あいがあった。 また、江戸時代の浮世絵には医療を取り扱ったものや 房 ふさ 楊枝 ようじ による歯磨き、婦女子のお歯黒などがみられる(写真1、2)。 また、日本固有の木床義歯にもお歯黒が施されたものもある(写真3)。 大正時代にはお歯黒を施した陶歯も作られていた(写真4)。 写真1 江戸時代初期から明治にかけて庶民の間で生まれた庶民のための絵画、版画で当時の風俗や生活を描いた風俗画で、浮き世といわれた遊里や歌舞伎の生活風俗を描いたことから、浮世絵とよばれるようになった。 これは、お歯黒をつける前に房楊枝で歯の掃除をしているところ。 江戸時代 豊國画。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真2 お歯黒をつけているところ。 江戸時代。 芳年画。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真3 お歯黒を施した木床義歯。 江戸時代。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) 写真4 お歯黒陶歯。 大正時代。 BSA硬質新シアトリック陶歯。 (日本大学松戸歯学部歯学史資料室所蔵) お歯黒の歴史 浮世絵で有名な歌麿や春信の美人画をみたことがありますか。 なんとなく口元が変なのは歯を真っ黒に描いているためです。 これは「お歯黒」といって、江戸時代、結婚した女性に歯を黒く着色する風習があったからです。 わが国におけるお歯黒の歴史は古く、奈良時代に北方民族によって朝鮮半島から伝えれたといわれています。 平安時代には貴族階級の間に広がり、男女ともに十七〜十八歳で歯を黒く染め成人であることを表していました。 その後、時代とともに染めはじめる年齢が低くなり、室町時代には十三〜十四歳に、戦国時代になると武将の娘は早く政略結婚させるために八歳で染めていたといいます。 今川義元の肖像画などをみると、成人男子でもお歯黒をしていたことがわかります。 江戸時代に入ると上流社会の生活様式がしだいに一般庶民にも浸透しはじめ、お歯黒は元禄時代には全国各地に広がりました。 そしてこの時期に男子のお歯黒は姿を消したのです。 さて女子だけのものになったお歯黒ですが、緻密なエナメル質を染めるのはなかなか骨の折れる仕事でした。 そこで、庶民に広がってからは、女性によって人生の大転換期である婚約・結婚を迎えてはじめて染める風趣となり、ついには既婚女性の象徴となりました。 黒は何色にも染まらない色なので、貞操を意味し、既婚女性の誇り高い心の支えともなっていたようです。 一方、封建制度下における女性を、精神的にも外観的にも人妻として制約するための強力な手段であったともいえるでしょう。 お歯黒の風習は、明治政府の近代化政策により、チョンマゲや帯刀とともに禁止されたので、しだいになくなっていきました。 そして、大正時代にはほぼ全国からお歯黒の風習はなくなりました。 お歯黒の風習がこのように長い間受け継がれてきたことには、理由があったようです。

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なぜ日本人は「お歯黒」だったのか

お歯黒 なぜ

ムハンマドの顔が描かれない理由とは? さてこの 預言者ムハンマド、イスラム教徒にこの名が多いのは、誰もが彼のように寛大で思慮深いイスラム教徒になりたいという思いがあるようです。 どのような人物だったかは 聖典クルアーンや ハディースを読めばわかるのです。 しかし、 姿・容姿については詳細な記述がありません。 これだけ誰もが憧れる人物についてイスラム教徒は誰も彼の姿・容姿を気にしたことも語ることもないのでしょうか?その理由はイスラム教では偶像崇拝が禁止されているからなのでしょうか? イスラム教徒に聞いてみました。 「預言者ムハンマドの顔は何故描かれないの?」 「誰も見たことがないから描きようが無いだろう」「描くことはイスラム教徒にとって侮辱にあたる」 とのことです。 イスラム教徒がこう言った背景には、聖典コーランにははっきりとムハンマドの肖像画を禁じているととれる個所はないものの、 ハディースではムハンマドの外見について視覚的に描写することを明確に禁じているからです。 【関連記事】 偶像崇拝から偶像崇拝禁止へ もともと メッカの住人たちは、 カアバ神殿(イスラム教徒が礼拝する際に頭部を向ける方角にある)の内部に収められた数々の偶像や神々の彫刻(彼らはこれらを神の娘たちとみなしていた)を崇拝していました。 しかし、この 偶像崇拝を拒否していた一部の人たちは個々の持つ 内面的光によって真実を求めており、 預言者ムハンマドもそうした者たちの内の一人だったようです。 彼は 天使ガブリエルから啓示を受けたのち、預言者としての使命として普及活動を数年間行った後、 公に偶像崇拝を禁じ、布教する命令が神から下ることとなります。 クルアーンにおいて神はこう言っています。 【関連記事】 崇拝行為は神のもの 崇拝行為は神から許された行為であり、この崇拝行為を1日5回イスラム教徒たちは義務図けられています。 イスラム教徒の 五大義務(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)のうちの一つで、これを行うことで死後の天国行きが近くなると言われています。 崇拝行為には 愛情、 忠誠、そして 敬意が伴っていなければならず、この感情が伴っていなければいかに従属していたとしても崇拝行為とはみなされません。 これらの理由により、神にのみ崇拝行為を受ける権利を有することが強調されなければなりません。 イスラム教は最も厳格な一神教の形を維持し、神以外のいかなるものに対しても崇拝行為を向けることを許されません。 この世を創造したのは神であり、私たちが敬愛する価値のあるものも神アッラーだけであるということを理解しなければいけないのです。 この考えからすると、であろうと、であろうと、また聖人、殉教者やその者たちに付属する遺品、偶像、肖像画であろうと 神以外、何の根拠もないものに対する崇敬は一神教の侵害で、それを行おうとすればイスラム教の教えに反することになります。 ムハンマドの顔の特徴 イスラム教徒に聞いてみました。 「預言者ムハンマドの顔はどんな感じ?」 「わかるわけないだろう。 誰も見たことが無いし写真だってない」 さらに聞いてみました。 「友達と一度も話してみたことないの?どんな顔かって」 「一度もない。 必要ないし誰も見たこともないものを話してどうするんだ」 先ほどの偶像崇拝の質問の二の舞のような返答です。 普段、なんの面白げもない話題に何時間もかけて話をしているのに一番身近な誰もが知っている預言者ムハンマドの顔の話題については1分と会話が持ちませんでした。 ハディースには、ただ髭がある、美しく人々から愛された、優しい人などアバウトに書かれているのみです。 肖像画についてはどうなのか? 預言者ムハンマドの肖像画についての話は多く、例えば:• 2人のメッカの人がビザンツの皇帝のもとを訪れたとき、皇帝は2人に飾り戸棚を見せ、引き出しの中にムハンマドの肖像画があった• 17世紀、中国の皇帝がムハンマドとの面会を要求したが断られ、その代わりムハンマドの肖像画が送られてきたという話がある。 皇帝はこの肖像画に夢中になるあまりムスリムに改宗したそうであるが、その時点で役目を果たした肖像画はどこかに消えてしまった など肖像画にまつわる話は残されています。 肖像画が伝えられなかった理由の一つはハディースで禁止されているからなのでしょう。 また、預言者ムハンマドが預言者になる前に修道士が彼の顔をスケッチしたという伝承があります。 彼がシリアに商人として学びに行く途中で、修道士が肖像画を描いたというのです。 イスラム法学者の中田孝氏はその肖像画をみた感想として、 「優しそうな顔、女性的、ジャニーズ系」などと述べています。 ハディースでは 預言者ムハンマドは髭(ひげ)があることは書かれてあります。 ちなみに、イスラム教徒の男性で髭を生やしている人が多いのは、預言者ムハンマドに髭があったからだそうです。 シャルリー・エブドの事件数時間後の現場(出典:wikipedia) 事件の概要 ムハンマド風刺画事件とは、2015年フランスの風刺週刊誌シャルリー・エブドが預言者ムハンマドを描写した風刺画を掲載し、その後国際テロ組織アルカイーダ系組織との関係が疑われる容疑者らが週刊誌本社で銃を乱射し12人が亡くなったというものです。 同紙はこれまでも繰り返し預言者ムハンマドの風刺画を掲載してきていました。 2011年預言者ムハンマドが「笑い死にしなければ、むちうち100回の刑だ」といっている風刺画や、預言者ムハンマドを同性愛者として描いた風刺画を掲載しています。 一連の風刺画の掲載を通して、イスラム教徒たちは反感を募らせ、テロの恐れがあることはずっと指摘されていました。 その矢先に最悪の事態が起きたということです。 この問題は宗教の問題にとどまらず言論の自由という権利に関する論争にも発展しました。 フランスのメディアが同年報じた世論調査結果によると、預言者ムハンマドの風刺画掲載について、42%が反対する一方、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%に上っています。 しかし、同時に表現の自由はインターネット上では一定の制限が加えることを約半数が支持しています。 このテロ事件から1週間後、襲撃されたシャルリー・エブドが事件後初となる特別号の表紙に預言者ムハンマドとみられる男性の風刺画を再び掲載しています。 この特別号の発行部数は諸外国から引き合いがあったことから、フランス語のほか、英語やアラビア語など16の言語に翻訳され、25か国で発売されたといいます。 事件に対するイスラム教徒たちの反応 シャルリー・エブドに風刺画が掲載されるたびに、イスラム教徒たちが不満を募らせていたのも不思議ではありません。 ただし、風刺画に対しての意見はイスラム教徒間で分かれており、 「そもそも誰も見たことがないので書けるわけがない」「侮辱行為そのもの」「無視するに限る」「別にいいんじゃないか」など様々です。 また、イスラム教徒には シーア派、 スンニ派がありますが、この両者間でもこの問題に関しては意見が分かれており、 スンニ派は描写に関して禁止するべきだと考えています。 一方、 シーア派では預言者ムハンマドの肖像画に対してかつては反対していましたが、現在はそうでもないとのことです。 様々な意見や反応があるものの、風刺画事件に関しては言論の自由を謳う前に、宗教というセンシティブな領域に触れるときは配慮するべきかもしれません。 まとめ イスラム教の預言者ムハンマドの顔が描かれない理由やそれにまつわる話、そして2015年にフランス・パリで起きたムハンマド風刺画事件について解説しました。

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