アイヌ の 人々 から 土地 を 奪っ た の は。 明治政府は、アイヌ領土の北海道を武力制圧したのですか?アイヌは...

アイヌから奪われた「先住民の権利」とは何か

アイヌ の 人々 から 土地 を 奪っ た の は

アイヌ独立国家などというものは存在しない。 過去から現代までを通してアイヌは一度も国家を形成していない。 それは日本に限らず、ロシアの領土でも同じです。 アイヌ領土というものも存在しない。 アイヌは過去から現代までを通して一度も領域を支配したことがない。 アイヌに限らず狩猟・漁労・採集民族は領土を必要としないのです。 世界の歴史において領土を持ったのは農耕民族だけです。 またアイヌは外国人ではありません。 和人と文化・言語・風俗が異なるが江戸時代から日本人です。 江戸時代から共同でロシア人からの侵略に対抗しています。 また同化もしていません。 さらに明治政府は、北海道を武力制圧などしていない。 明治政府は、北海道の開拓を進め和人の入植を推奨しただけです。 明治維新の時点で500人住めるはずの北海道というマンションに一人しか住んでいなかったのです。 その人は先に住んでいたかもしれないがマンションの主でもなんでもない。 寒すぎて誰も住んでいなかったマンションに本州から引っ越した人がいただけの話です。 空き部屋ばかりなのだから全く問題ない。 何が武力制圧なものか。 今度このマンションに住むことになりました。 よろしくお願いしますというだけです。 ただ、まったく問題がなかったかといえば、それはそうでもない。 圧倒的大多数になった和人の新住民がマンション自治会を乗っ取ってしまって、アイヌに和人の文化・言語・風俗を押し付けてしまったことは否定できない事実である。 アイヌになんらかの不利益が無かったとまではいえないのである。 元々蝦夷地にはアイヌが住んでいましたが、アイヌの考えでは土地は誰の物でもありません。 アイヌモシリはアイヌ(人の意)と熊、鹿、鮭、その他の全ての生き物の物であり誰かの所有物ではないという考えです。 だから、国家という形成は持っていませんでした。 そこに江戸時代末期に和人がやってきて土地を占拠した訳です。 和人が、どんどん入植してきて、勝手に土地を個人叉は国家や行政の物としていった結果、土地を持たない(個人や国家として所有しない)アイヌは押しやられていったという感じです。 アイヌも何度か和人と勇敢に闘いました。 そうやってアイヌから抵抗する気力も奪っていったのです。 後はアイヌに和人の名前を名乗らせ、アイヌの風習を禁止し、アイヌという民俗を無かったものとして扱いました。 「北海道」の名の起こりは幕末の探検家「松浦武四郎」の 「北加伊道」とか聞いています。 「加伊」とは何ぞ!? 「蝦夷」をその昔は「カイ」と読みました。 「カイ」の島です。 まさに「エビ」ですよ。 「容貌魁夷? 魁偉?怪異? 」、髭面でした ものね。 大昔から、流刑者の「渡り島」でありました。 だから「渡島半島」! 明治政府のはるか昔から、蝦夷ケ島、千島を外国だとの認識は 無かったと思う。 北方領土を窺う「外国人」はいました。 ロシア人 です。 「樺太(サハレン)」旅行記をロシアの作家「チェホフ」が書いて 居ることはご存知でしょうか。 そこは、ロシアは流刑地と見なして居た のですね。 しかし、徳川幕府は、アイヌを含め、わが国の土地と 見做して、多くの探検隊(間宮林蔵、松田伝十郎 etc)を送り込んで 居ます。 彼らが、間宮の名前の付く浅い海峡を越えて、遡行した 黒竜江の上流「デレン」には、すでに当時の清国 China の役所があって、 対ロシアの警備陣を敷いていました。 そこまで、間宮林蔵らは行って来て います。 危なく殺されそうな情報を察知して、ほうぼうの体で逃げ帰りました (言葉も判ったのだね! ポケッとしていたらアウツだものね! これが後に、 源義経のモンゴル渡り伝説の裏づけになったとか? フランツ・シーボルトの!)。 また、幕府は函館奉行「小出大和守」をはるばる、サンクト・ペテルブルグ まで派遣して、樺太の帰属問題で外交談判しています。 明治政府が、北海道に屯田兵を投入したのは、幕府の置いた守備兵 に替わるもので、第一義は、ひとへに、国防問題でした。 その為に「万国公法(国際法)」に詳しい、五稜郭戦争の幕臣「榎本武揚」 の命を救い(新撰組の土方歳三は戦死)、対露外交交渉に当てたのが、 初代開拓使長官・黒田清隆でした。 実は、そのはるか以前から、現在大問題の北方四島付近にも、「南部藩兵」 が守備兵として投入されていました。 あちこちに「南部陣屋」あとが残って います。 今回の選挙で勝った鳩山さんの選挙区にも、ちゃんと、残っている のですよ! 面白い話題が沢山あります。 (純真無垢のアイヌさんの手で何とかなる如き 国際事情には、すでに大昔から、無かったのですね。 ) これらを、お読みの上、再質問されると有効だろうと愚考致します。 宜しく! >明治政府は、アイヌ領土の北海道を武力制圧したのですか? それは否定できないでしょう、「武力制圧」だったということは。 ただもちろん、「アイヌの領土」というのが、近代国際法に照らした上での話ではないのも事実です。 >アイヌは外国人なのに、日本人に同化されたんですか? ですからアイヌを「外国人」というように表現するのはちょっとおかしいわけです。 「外国人」という表現は、そこに「近代国家」がなければ定義しきれないもので、この場合、英国からのアメリカ植民者といわゆる先住民の関係の方をイメージした方がいいでしょう。 >江戸時代までは、アイヌ独立国家だったんですよね??????? それは全く違います。 この点、これはこれで微妙ですが一応「国家」としての外交関係を形式的にもせよ保っていた琉球とは事情が異なります。 政治的・法律的なこととは別に、倫理的な側面では、江戸幕府も明治政府も、アイヌ民族に対しては言語道断なことを繰り返しています。 「制圧」なんて表現はなまぬるいとすら私個人は思いますね。 確か新谷行の『アイヌ民族抵抗史』 三一新書 という本がかなり良かったように記憶しています。

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アイヌ人は差別されているの?その理由とは?

アイヌ の 人々 から 土地 を 奪っ た の は

あなたは北海道に行ったことがありますか? 北海道に来て気が付くのは たくさんの見慣れない 不思議な地名です。 芦別(あしべつ)• 厚岸(あっけし)• 足寄(あしょろ) ・・・耳慣れないうえ、漢字なのに読めないものが多いのはなぜでしょう? それもそのはず、北海道にある地名は 元々アイヌの地名だったものに漢字を当てていったからなのです。 ではアイヌとはいったい何のことでしょうか。 実は 北海道を知るうえでアイヌのことは欠かせません。 北海道へ旅行へ来ることがあれば是非、 アイヌのことを少しでも頭に入れておくとより深く楽しむことができるでしょう。 この記事では簡単ではありますが、アイヌについてわかりやすくご説明させていただきます。 アイヌとは何? アイヌは今の• 北海道• 千島列島• 東北の北側 に居住していた 少数民族のことをいいます。 言語は「 アイヌ語」で、主に狩猟を生業として生活していました。 アイヌとはアイヌ語で 神様「カムイ」に対しての 「人、人間」という意味です。 文字を持たない民族なので、アイヌの人たちが記したような大昔の文献はなく、 いつごろからどのようにして始まったのかは、はっきりとしていません。 口承によって文化が受け継がれてきたのですね。 アイヌ文化のはじまり 先述したようにアイヌは 文字を持たない民族なので、 どこからやってきた人たちから始まった文化なのか不明です。 遺伝子調査や出土品などで、縄文時代頃から北海道を中心とした地域に人が居住しはじめ、 本州の文化と オホーツクの文化が混じって、アイヌ文化が生まれたと予想されています。 そして、アイヌの人たちの生活は「 カムイ」の影響が大きいです。 「カムイ」とは神様のことで、• 生活用具 など• 人が生きていく上で必要な物• 病気などの人間の力ではどうにもできない物 を 「 カムイ」といい、敬ったのです。 なんだか「カムイ」の考え方に万物の事象に対する深いリスペクトを感じますよね。 物を大切にする、ありがたく使わせてもらうという精神なのですね。 アイヌの歴史、和人との戦い 本州は弥生時代に大陸の影響を受け、稲作がおこなわれるようになりました。 けれども蝦夷地(北海道)は寒さが厳しく、稲作を行える環境ではなかったので、 アイヌの人たちは 狩猟をメインとしていたのです。 北海道は農作物を作らなくても山に入れば美味しい山菜が山ほど手に入りますので、 米がない分の栄養は他の食べ物で補っていたとされています。 北海道には和人と呼ばれる本州から移り住んだ人も少しは存在していたと言います。 室町時代にはその 和人たちと鉄器の出来の良し悪しから殺人事件が起こり、 「 コシャマインの戦い」という争い事の発端となります。 アイヌの人たちは当時、土器を使っていたとされ、 鉄器は和人から物々交換で仕入れていたようです。 あるアイヌの客が、和人からの鉄器の出来が良くないと言ったため、 和人は怒ってアイヌの客を殺してしまったそうなのです。 アイヌの人たちは団結して戦いを挑みましたが破れてしまったそうで、 その後も、 道南に進出した松前藩とも度々戦いが繰り返されたと言われています。 アイヌの歴史、北海道に改称されたころ 明治に入り、 蝦夷地が 北海道へ改称されたころ、多くの和人が北海道へ移り住みます。 そう、勝手に開拓をし始め、北海道はいつの間にか、日本の領土とされてしまいます。 その後、アイヌの人たちは、日本の戸籍制度に組み込まれていきました。 このころから 和人によるアイヌの人たちへの差別が大きくなっていったのです。 アイヌの人たちは「 土人」とも呼ばれ、宗教的な入れ墨や耳環などが禁止されました。 そして 「 アイヌ学校」が設立され、日本語での教育が行われるようになっていきました。 ここら辺の話を聞くと、日本語教えてもらえたり、日本人の仲間に入れたりして ラッキーな感じを持ちますが、内情は全く違います。 アイヌの人たちは独自の文化で生きてきたのに、 それを 全否定され日本の文化を強要されたのです。 「アイヌ学校」はアイヌの子供しか通えません。 和人がアイヌの人と違う学校に通いたかったからです。 開拓の 和人たちはアイヌの人たちが住んでいる肥沃な土地を奪い、 代わりに痩せて作物が育ちにくい土地を分け与えました。 そして 生業としている 狩猟も禁止させたのです。 慣れない農作業で、しかも作物が育たないとなると、生きていく術はありません。 こうしてアイヌの人たちはどんどん貧困に陥っていったのでした。 なんだか本当に心苦しい限りです。 アイヌの歴史 現代は? 貧困に陥ったアイヌの人たちを救おうとする法が明治32年にできました。 「 北海道旧土人保護法」です。 この背景には物々交換で生計を立てていたアイヌの人が• 貨幣の生活に馴れなかったり• 農作業をいくらやっても成果がなく 貧困に陥ってしまったことがあります。 やがて田畑を捨てていくアイヌの人が多くなり、 政府は アイヌの人を保護するために「 北海道旧土人保護法」を制定しました。 この法律は平成の時代までありました。 しかしアイヌの人たちの中には この法律を廃止して欲しいという声も多かったのです。 「旧土人」保護法って。。 非常に差別的な言葉を政府が使っていることに時代の差を感じます。 「旧土人」と言われることに抵抗する人も多く、 自分がアイヌだということを隠して生活している人も未だに多いのが現状なのです。 廃止するにしても、アイヌを守る法律が他にないんだから我慢してよ とウタリ協会(現在のアイヌ協会)はいい、中々この法律は消えませんでした。 しかし、 アイヌで初めての国会議員である 萱野茂(かやのしげる)さんが、 撤廃案を提出したことで、平成9年には 「 アイヌ文化振興法」が制定されました。 この法律は アイヌの文化を守り、継承・発展させていこうというものです。 アイヌの人たちの誇りを尊重していこうという活動が 北海道のあちこちで起こってきているのです。 アイヌのことを知れる資料館 北海道へ行ってアイヌの文化に触れてみたい方はぜひこちらへ! 札幌市アイヌ交流センター 札幌駅からお車で アイヌとは おわりに いかがでしたでしょうか。 北海道の様々な地名はアイヌ語が元となっており、それぞれが深い意味を持ちます。 北海道在住の著者は和人と呼ばれた祖先が、 極寒の地で生きていける文化を発展させてくれたから、今の自分たちの生活が送れている と心より感謝しています。 そして 今の文化は、アイヌの人たちの礎があったからこそ存在しているものだ とも思っています。 北海道へ訪れるならアイヌに関する情報は外せないと言っても過言ではありません。 あなたも北海道へ訪れる際はぜひ、 アイヌについて意識して色々な地名や場所を楽しんでみてくださいね。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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【北海道】アイヌとは何か?歴史や現状をわかりやすくご紹介します!│御パンダと合理天狗の雑記

アイヌ の 人々 から 土地 を 奪っ た の は

シャクシャイン時代の北海道 アイヌとはで「人間」を意味する言葉で、もともとは「」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。 世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。 これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、( 、 シサム・シャモ )とアイヌとの交易量が増加した末から初めにかけての時期とされている。 アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使われた。 丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずに ウェンペ(悪いやつ)と言う。 地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。 大和民族(和人)は、アイヌのことを「 」、期には「 土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、近代の以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる )」とも呼び、「 アイノ」(=アイヌ)と呼んでいた。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。 ウタリ [ ] ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが 、長年の差別の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、行政機関の用語としても長年使われてきた。 蝦夷 [ ] 詳細は「」を参照 の「蝦夷征伐」など、からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。 東北の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ()、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。 東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、アイヌ語地名も散見され、古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であったとも考えられている。 以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太をと称してきた。 北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。 また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。 また、中国東北部の民族からはアイヌは 骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。 歴史 [ ] 「」を参照 人類学的にはの縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。 以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道ではの続縄文文化が継続。 と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、の介入(の)が見られた以降 、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけにが始まる。 移住者たちはや祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。 その後、にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化との文化を摂取してアイヌ文化は生まれたと考えられている。 擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。 遅くとも末ころから道南に和人の定着が始まり、の存在した13~14世紀になると、農耕も開始された。 またアイヌからオロッコと呼ばれたともアイヌは交易していた。 には道南でが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。 蠣崎氏を祖先としたはアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥・・獣皮・の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・・・などで支払っていた。 また、から伝わったなどの衣服を当初はアイヌを介し輸入した()。 北千島を除き、が敷かれ、アイヌの有力者をに任命。 アイヌは身分に位置づけられていた。 の後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。 江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地をとした。 幕末、によって、アイヌも和人も分け隔てなく対策のを行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。 これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。 熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。 右から、熊の世話係だった女性が従う。 (元年)の当時のとのにより、当時のの下 、一部が国民とされた。 2年()、蝦夷地はと改称され、同時に開拓が本格的に開始される。 や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。 戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「」とされるが、や、など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。 には女子の入墨と(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。 同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた。 1875年、アイヌはにより和人に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされた上、動物の減少を防ぐために伝統な狩猟、漁撈も制限され 、生活も困窮の道をたどる。 対策として、政府は1899年にを施行し、無償医療の提供、冬季生活資料の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した。 しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた。 身体的特徴と遺伝子 [ ] 身体的特徴 [ ] アイヌは旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。 アイヌは周囲のと大きく異なるに似た形質を持っており、人種的には アイノイド(Ainoid)と呼ばれる。 ()などのモンゴロイドと比較して、北海道アイヌは次のような特徴をもつ。 皮膚の色は、黄色みの乏しい明褐色• 新生児の仙骨部の皮膚の(児斑、)がまれ(11%)• 体毛が比較的太く、長い• 頭毛が波状を呈し、断面形が扁平• 脳頭蓋の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76. 6%)• 顔高が低く、頬骨弓幅が広い• 眉稜、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼は二重瞼が多く、が少ない(5%)• が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんど(95%)• は湿型が非常に多い(87%)• 歯の咬合型式は鉗子状が多い• 身長はと比べると低く、体の比例は上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い• 手のは渦状紋が比較的少なく蹄状紋が多い 以上に挙げた特徴は、北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向がある。 頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、、、などとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究により、アイヌは遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、東アジアのモンゴロイドと系統的に最も近いことがわかっている。 アイヌがモンゴロイドでありながら他人種に似たような形質的特徴を示すのは、アイヌが新モンゴロイドのを獲得していない、すなわち現生人類の祖先形質を残しているためである。 形質的には(アイノイド)に属すとされ、またもアイノイドに属していたと考えられる。 ただし、以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。 20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言えるも、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。 これまでアイヌの起源論については・比較解剖人類学・・・などからアプローチされてきたが、近年解析が進み、遺伝的にはコーカソイドではなく、モンゴロイドの系統に属することが判明している。 [ ] かつてアイヌはコーカソイドではないかと考えられていたことがあるように、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究 もあるものの、の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっていると日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。 他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示された。 これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。 アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。 アイヌにはATLのレトロウイルス()が日本列島内でも高頻度で観察される事から、の血が濃く残っていると考えられる。 アイヌ人の父系系譜を示すの構成比については、日本列島固有のが87. ハプログループD1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。 HLA IおよびHLA II遺伝子、ならびにHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の遺伝分析では、アイヌをアメリカ大陸の先住民族、特にトリンギット島などの太平洋岸北西部沿岸の人口に関連性が高いとされた。 アイヌといくつかのネイティブアメリカングループの主な祖先は、シベリア南部の旧石器時代のグループにさかのぼることができると示唆されている。 ゲノムワイドなSNPデータ比較を使用した遺伝学的研究により、アイヌには独特の特徴があり、現代の他の東ユーラシア人とは異なる部分があり、その違いは、ヨーロッパ人において顔面の特徴を決定づける遺伝子だということがわかった。 アイヌは旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。 北海道縄文人集団 [ ] 母系の系統を表すの系統解析から、北海道の縄文時代人・続縄文時代人の母系系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団の母系系統の頻度分布と大きく異なることがわかっている。 また、による以前の東北地方の古墳時代人には、北海道の縄文人・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察されることから、東北地方の縄文人も北海道の縄文人・続縄文人と同じ系統に属する可能性が指摘された。 これを受けて東北地方縄文時代人のDNAと北海道縄文時代人のDNAが比較され、北日本縄文人の遺伝子型の中心となっているのはハプログループN9bおよびであることがわかった。 北海道縄文人集団には、、D10、G1b、の4種類のが観察されている。 このうち、N9bの頻度分布は64. N9bは下流域の先住民に高頻度で保持されている。 また、D10はアムール川下流域の先住民にみられる。 G1bは、主ににみられるのサブグループで、先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。 オホーツク人・カムチャツカ半島先住民族との関連 [ ] 「」、「」、「」、「」、および「」を参照 近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。 ()起源とされるはごろ北海道に南下したがごろ姿を消している。 、北海道で発見されたオホーツク文化遺跡の人骨が、現在では樺太北部やの河口一帯に住むに最も近く、またアムール川下流域に住む、さらに現在に暮らす、とも祖先を共有することがDNA調査でわかった。 また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプである遺伝子が確認され、アイヌとオホーツク人との遺伝的共通性も判明した。 北海道大学教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした。 北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した。 この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた。 諸説 [ ] 自然人類学の中には(特に日本人(和人)の学者の中には)「アイヌも本土日本人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ」とする学者もいた [ ]。 また日本人(和人)の側に立って日本人(和人)を研究する研究者であり、「南方系の縄文人、北方系の弥生人」という「二重構造説」で知られるは、「アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立した」と主張した(2009年 )。 また「アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫 」と主張した。 文化 [ ] 「」を参照 アイヌの宗教はに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。 この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を持つ()を天界に送り返す儀式がある。 祭壇はヌサとよばれ、の頭骨が祀られた。 キリスト教 (・)に住むはの神父コウンチェウスキーによって、最初にに改宗する者が出た。 北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。 1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。 その後、北千島は日本の領土になったが、国力の乏しい当時の日本にとって生活物資の補給は大変困難であり、の官吏が北千島の住民を説得しに移住させた(『千島巡航日記』)。 色丹島に移住した千島アイヌに対して最初僧侶が改宗を試みたが失敗した。 その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした。 また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師は自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった 」と記述している。 建築 [ ] のの職員。 沿岸地方の伝統衣装・ルウンペを着用する アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にやの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をと呼ぶ。 仕立てはに似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。 装飾として、木綿の生地をし、さらにを施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。 道南地方、特に沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。 では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパㇻミㇷ゚」がある。 また、綿布の流通が乏しかったの上流部やでは、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。 さらに繊維用の森林資源にも乏しかったでは、鳥の皮で作られた外套「チカㇷ゚ウㇽ」がある。 江戸時代中期以降は、和人との交易で入手したやが、儀礼用の衣装として着用された。 [ ] アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。 口承文芸としては(散文の昔話)や(叙事詩)がある。 明治時代、アイヌ出身のがローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』を出版したほか、が長大なユーカラ研究を発表している。 現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。 古式舞踊 [ ] 祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。 地域によって曲目や舞い方は異なる。 に国のに指定され、にのに登録。 また、を用いた剣の舞もある。 言語 [ ] 「」および「」を参照 アイヌの言語であるは上は、に属する日本語とは異なり、に分類されとは系統が全く異なる。 北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。 しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」 critically endangered な消滅の危機にあると分類された、である。 危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された。 系統的には「」とされており、の言語をそのまま残しているという説がある。 を持たない民族であったが 、北海道はもとより、北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。 地理 [ ] 北海道のアイヌ人の分布地図 1999年 は、記録上最大26800人であったが、とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。 のロシアによればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた。 現在、ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。 そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。 の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人 となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、・支庁に多い。 なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。 また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。 調査で道内に77,000人という調査結果もある。 日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある。 この結果を裏付ける他の研究はない。 北海道外に在住するアイヌも多い。 の調査では在住アイヌ人口が2,700人と推計された。 の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。 日本・ロシア国内以外にも、にはの末裔がいると1992年に報道されたが、の末裔ではないかとの指摘もある。 一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者がの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。 2017年の調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。 これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力しているの会員数が減少したことと、への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている。 現在 [ ] アイヌの夫婦(1930年代) 現在の日本政府が日本の先住民として認識しているのはアイヌのみである。 アイヌ居留地は存在しないが、釧路、、等をはじめとする「全道各地」に多数が居住するほか、やでは観光名所としてアイヌが存在する。 平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16. アイヌとして生活する者が周囲から差別的に扱われる順番として、第一に義務教育課程でアイヌ文化を扱った授業を受けた時、第二に婚姻・結婚、次に就職など社会に出た場合、とされる。 中でも義務教育時代に受けた差別は普遍的な経験になっている、とされる。 明治以降はとの通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、大和民族との通婚が増えている理由としては1980年代前半に二風谷のアイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している。 アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である 生 のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。 また、浦河町のエカシである細川一人 生 は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという。 長い間、和人による差別や蔑視をうけた事により、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。 しかし、近年は自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。 北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。 アイヌのなりたちをめぐる諸学説や諸論点 [ ] 縄文・続縄文・擦文文化 [ ] 「」も参照 アイヌの祖先は北海道在住のであり、、を経て、擦文文化人がや、に展開したオホーツク人を排除・混血しながら北海道や樺太南部に広がりの形成に至ったという説がある。 この説は、アイヌの熊送りの儀式が北海道縄文人や東北地方には見られず、当時のオホーツク人などをはじめユーラシア大陸の狩猟民族の典型的な宗教文化であることと符合する。 また、熊送りについては諸説あり、縄文時代に行われたに由来し、弥生時代以降に対象動物が熊に置き換わったとする説もある。 弥生時代以降、熊毛皮は本州方面への出荷品となっていたという。 擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。 これまでアイヌの民族起源や和人との関連については・比較解剖人類学・・・などからアプローチされ、に残るアイヌ語の痕跡、文化(など)、言語の遺産(、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた [ ]。 近年 解析が進み、縄文人やとのDNA上での近遠関係が明らかになっている。 また、アイヌは、をはじめ流域に住むとの関連も強く示唆されている。 以降の民族形成については、人(と推定されている )のなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。 アイヌと先住民族に関する論点 [ ] 「」および「」を参照 1950年代のアメリカ合衆国での権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた。 、施行によっては廃止された。 しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌをと認定されなかった。 またによるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してが行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。 に国連総会で採択されたを踏まえて、、アイヌを先住民族として認めることを政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。 北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業 をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ に基づき実施している。 その際には、や、除籍謄本等を判断資料としている。 にが国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。 」と答弁している(ただし「先住民族」との認識ではない)。 6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)。 一方で、『』などの著作で知られる文化人類学者は、その著作の中で繰り返し、アイヌを日本の先住民族(indigenous group)と書いている。 2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請」が行われた。 2019年4月19日、が成立し、同月26日公布された。 同法1条の目的規定において「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌの文化(以下「アイヌの伝統等」という。 )が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務,政府による基本方針の策定、民族象徴共生空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。 以下同じ。 )によるアイヌ施策推進地域計画の作成及び内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。 」と規定され、法制上アイヌの人々が北海道の先住民族であることを明記した。 同法に基づき、国有林野におけるアイヌにおける儀式の実施その他アイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取について共同使用権の取得に関する規定、内水面さけ採捕事業についての及び上の許可の配慮規定などが設けられるにいたった。 2018年12月、ロシアの大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。 アイヌ先住民族認定と保護政策に対する意見の食い違い [ ] 8月に選出ので所属の金子快之 がで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。 せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。 納税者に説明できません」とアイヌ民族は今は存在しないと受け止められる書き込みを行っていたことが判明 、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議 をうけた。 金子は、がアイヌ民族の認定を独占的に行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しない」とし、「アイヌ民族であることを『証明』しているが「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどを市役所の決算から市議会で告発した。 アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとし、アイヌに様々な苦労があったことを認めつつも、利権の問題には今後も取り組んでいくと述べた。 しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない。 その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、札幌市のアイヌ政策に関する「官製談合」が存在したとして市議会で追及した後 、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの、落選した。 ただし官製談合そのものは実際に何度も行われている事が判明している。 札幌市役所は市民へ謝罪した。 墓地の盗掘と遺骨返還 [ ] 北海道や千島、樺太の開発と学術調査が本格化した明治以降、国内外の民族学者や考古学者らが、アイヌを含む北方先住民族のをして、遺骨を乱雑に扱ったり、国外に持ち出したりした例があった。 では1995年に「」が発覚。 北大は学内で保管するアイヌの遺骨 16人分 を、日本政府のガイドラインに沿って子孫ら祭祀継承者へ渡す「アイヌ遺骨等返還室」を2015年4月に設置した。 またの学術団体「人類学・民族学・先史学協会」(BGAEU)は2017年7月31日、ドイツ人旅行者のゲオルク・シュレジンガーが1879年に札幌市内のアイヌ墓地から持ち出したアイヌの遺骨1体を、在ベルリン日本で北海道アイヌ協会へ返還した。 この遺骨は8月2日に北海道大学のアイヌに納められた後、同月4日に慰霊祭(イチャルパ)で供養される予定である。 画像 [ ]• を行う男性たち() 博物館、資料館 [ ]• (札幌)• 札幌市アイヌ文化交流センター サッポロピリカコタン• (旭川)• (民族共生象徴空間)(白老)2020年開業予定(旧名:) 関連団体 [ ]• 関連作品 [ ]• 『』(コミック)( 1974-1976) 明治初期の北海道を舞台にした漫画作品。 とアイヌ 小学館版学習まんが人物館 知里幸恵銀のしずく記念館,• 『』1,2(コミック)(1992,1993),• (格闘ゲーム)(1993- )• 『』(コミック、アニメーション)(のちに、1998-) 漫画作品。 『』(コミック、アニメーション)( 2015-) 明治末期の北海道や樺太を舞台にした漫画作品。 アニメ化もされている。 (テレビドラマ)(2019年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。 また、以前、に居住した民族は、の史書では「」と記載されているが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。 他にも、や、などにも、民族名に「人」の意が含まれる。 当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。 シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。 義務化されたのは国語、算数、体育、農業の4種目であった。 毒矢と網の使用禁止、禁猟区と禁猟期の設定。 他の7言語は、が「重大な危険 severely endangered 」、、、、、が「危険 definitely endangered 」に分類されている。 (大正12年)に出版されたのでは、その発音を、で表記するなどの工夫がされている。 1970年、兵庫県生まれ。 卒業後、1998年から北海道に在住し、2011年の市議会議員選挙で公認で初当選した後、同年4月から自民党に所属していた。 出典 [ ]• 2018年4月20日閲覧。 櫻井義秀 北海道大学アイヌ・先住民研究センター編『現代アイヌの生活と意識 : 2008年北海道アイヌ民族生活実態調査報告書』 2010年3月刊行• 浪川健治 『日本史リブレット50 アイヌ民族の軌跡』 山川出版社、2016年(1版6刷)、6頁。 日本大百科全書 ニッポニカ 『』 -• 縄文土器の文様は、長い長い年数をかけてゆっくりと変化してゆき、「後期縄文土器」の文様は、その後の時代の「アイヌ」の人々が用いている文様と酷似しており かなり直接的に、連続的に繋がっている。 2008年10月15日放送、NHK「その時、歴史は動いた」神々のうた 大地にふたたび~アイヌ少女・知里幸恵の闘い~、北海道大学大学院教授 小野有五。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『』 -• 東京新聞 TOKYO Web. 2020年2月1日閲覧。 毎日新聞. 2018年7月21日. 坂田美奈子 『歴史総合パートナーズ5 先住民アイヌはどんな歴史を歩んできたか』 清水書院、2018年、50頁。 『デジタル大辞泉』• 2009年-2013年度放送 「 日本史」 第20回 「海外交流の実態 〜4つの窓口〜」の『4つの窓口』より。 講師 琉球大学准教授。 2013年3月29日, at the. 2013年3月8日時点の [ ]よりアーカイブ。 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These include two genes associated with facial structure in Europeans. 安達登・篠田謙一・梅津和夫・松村博文・大島直行・坂上和弘・百々幸雄 2005 北海道伊達市有珠モシリ遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA多型解析. 「DNA多型 vol. 13」所収、日本DNA多型学会・小林敬典編、東洋書店、pp. 242-245. asahi. com 朝日新聞社. 2009年2月4日. の2015年12月28日時点におけるアーカイブ。 2019年3月16日閲覧。 どうしんウェブ 北海道新聞社. 2009年6月18日. の2009年6月20日時点におけるアーカイブ。 2019年3月16日閲覧。 オホーツク観光連盟. 2018年11月10日閲覧。 『ハリストス正教徒としての千島アイヌ』Malgorzata Zajac• 2014年1月12日中日新聞朝刊サンデー版1面• 2014年12月13日, at the. , 文化庁• 朝日新聞 2009年2月20日. 2014年3月29日閲覧。 「昭和21年(1946年)12月19日、東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。 協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。 日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特に但し書きされていた。 」(ネットワークコミュニティきたみ・ [ ] 平成17年1月15日発行)• 2019年3月16日閲覧。 2019年3月16日閲覧。 Poisson, B. 2002, The Ainu of Japan, Lerner Publications, Minneapolis, p. 「しかしアキヅキトシユキは実際には1975年の樺太・千島交換条約の際に千島に住んでいた90人のアレウト族の末裔だったのではないかと推測している。 そのアイヌがどこのだれのことを示しているのかということに関してそれ以上の情報はでてこなかった」 David L. Howell. 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