島倉 千代子 人生 いろいろ。 島倉千代子の生涯は4人の詐欺師?による人生いろいろだった

人生いろいろ 歌詞「島倉千代子」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

島倉 千代子 人生 いろいろ

1987年、島倉千代子が歌った「人生いろいろ」は大ヒットした。 「人生いろいろあるわな」と普段口にしていることが歌詞になって大化けすることがままある。 時の首相も国会で引用したほど。 作詞は中山大三郎さん(故人)。 前年には森進一の「ゆうすげの恋」で作詩大賞を受賞しており、2年連続の受賞となった。 86年に尾形大作「無錫旅情」、96年に天童よしみ「珍道物語」を作詞作曲してビッグヒットとなった。 ユニークな作品では、78年の千昌夫「味噌汁の詩」。 中山さんの歌には普通の人々の目線からのドラマがあった。 中山さんには70年代後半からよく飲みに連れてもらった。 来社されたついでが多かった。 駆け出しの小僧で暇そうにしていたから遊んでもらったのかもしれない。 居酒屋で飲んでから、生演奏で歌える店がお決まりのコース。 何か歌えといわれて歌わないわけにもいかず演歌を歌う。 「へた過ぎる、それでもディレクターか」と笑われそうでいつも緊張した。 桜新町の住まいにお邪魔したこともある。 いつもお弟子さんや友人が集まり、にぎやかだった。 演歌歌謡のジャンルでは苦労、貧乏と暗い話がつきものだが、中山さんはそんな臭いがまったくなく、いつも明るく、笑顔の絶えない人だった。 周囲には作詞志望の人かと思えば作曲、編曲家、スタッフから飲み屋の兄ちゃんまでいる。 しかしものづくりらしい話をされた記憶がない。 九州男児で男っぽく、細かいことを言わない。 仲間は面倒みのいい中山兄貴を慕って集まった。 とにかくワイワイやるのが好きで、時にはみんなを連れて魚を食べに海に行くことも。 そんな日常が作品作りの原点だったのかもしれない。 77年に「しらけ鳥音頭」を手掛けた際、発売後しばらくして、音楽出版社から連絡があった。 作詞は不詳としていたが、ほぼ原形のものを管理しているという。 内容を確認したら作詞はなんと中山さんだった。 話し合いは丸く収まった。 当の本人はすっかり忘れており、とんだことで喜んでもらえた。 交際も広く、野球選手では江本孟紀さんやロッテの選手とも飲ませてもらった。 相撲では益荒雄さんらとも親交があったようだ。 2005年、64歳の若さで死去された。 歌を愛し、人を愛した笑顔が今も脳裏から離れない。 1941年2月15日生まれ、2005年4月7日死去。 法政大学在学中に星野哲郎さんに師事し、作詞・作曲活動に入る。 50年生まれ。 渡辺プロダクションを経て、東芝EMI(現ユニバーサル)で制作ディレクターとして布施明、アン・ルイスらを手がけた。 徳間ではPerfumeらを担当。 2017年5月、徳間ジャパンコミュニケーションズ顧問を退任し、現職。

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島倉 千代子 人生 いろいろ

概要 [ ] が同局で放送した『』の主題歌制作を日音に依頼して制作された楽曲で島倉の代表曲でもある。 浜口が函館の街をイメージして作った「坂のある町」が原曲。 当初、作詞者の中山が予定した曲名は「笑いばなしにして」 で、「花ごよみ」のB面曲だった。 当初酒で憂さを晴らす歌詞を酒を飲まない島倉に合わせて一部歌詞を変更。 レコーディング時に同席した・の判断により、タイトルを分かりやすい「人生いろいろ」に変更し 、A面曲になった。 本楽曲が話題になり始めたのは、1987年10月13日の「第20回」の受賞がきっかけである。 同年には「」で作詞賞を受賞し、さらには当時の『』の「ひょうきんベストテン」コーナーで、が島倉のをしながら本曲を歌唱したことで、徐々にオリコンチャートや有線放送チャートを上昇して大ヒットとなり人気はさらに拡大した。 同時期に他のものまねタレントでは、なども本曲を披露していた。 「100万枚記念パーティー」では、山田とコロッケが招待されて本人の目の前で、島倉の物真似による「人生いろいろ」を熱唱。 これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのお陰で、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と2人を賞賛する(ただしコロッケに対して、「コロッケさんは酷いと思う時もありますが」とも続けて冗談で述べていた。 それでもコロッケ本人には「もっとふざけてやっていいのよ」と話していたという)。 後に2人には感謝の気持ちから特に島倉が大切にしていた高価な着物を贈呈しており、山田には『』歌唱時の衣装で、美術館に展示できるほどの価値がある大変に高価で純白に金銀の鶴が飛んでいる模様の着物と金色の帯を1989年の年明けに『お年玉でご褒美に』と言われて戴いたと山田が語っており、今までになどの披露宴出席時や2020年1月2日放送のBSテレ東『日本歌手協会新春12時間歌謡祭』出演時に島倉の専属担当だったヘアメイクや着付け師にお願いしてこの着物を着て島倉のものまねをしながら久々にこの曲を熱唱した。 コロッケには同曲のシングル盤ジャケット写真で島倉が実際に着ていた同じ柄の着物をコロッケの体型に合わせて仕立て、且つステージ上で早替えができるようにと特別に面ファスナーを取り付けて贈呈して、このお揃いの着物を着て一緒にテレビ番組に出演している。 逝去後のインタビューで2人は島倉の形見となった着物は現在もとても大切に所有しているそうでプライベートでも島倉からは大変可愛がっていただいたと語っている。 には「第8回」の演歌大賞、「第30回日本レコード大賞」の金賞・最優秀歌唱賞を受賞する。 累計売上は130万枚に達した。 本曲を歌唱する島倉の姿は往時のファンを少なからず驚かせた。 ポップス調のサウンドに乗せて、全盛期の歌唱力に比べて豊かとは言えない声量でビブラートを重ねる様子は、一部からヘタウマ歌手との評も出た(ものまねの格好の題材となった)。 の『』からまで『』に30回連続で『』に出場していた島倉だったが、本楽曲が発表された1987年、「30回という数字を汚したくない」と 卒業宣言をして『』への出場を辞退した。 しかし上述の大ヒットに加えて、当時病気療養中だった作曲者の浜口 に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」という思いから、翌1988年の『』に2年ぶりに復帰出場し本曲を歌唱。 以後も紅白では、『』、『』と、計3回歌唱されている。 のでは、紅組の76位にランクインした。 TBS『』では1987年、「今週のスポットライト」のコーナーへ同番組において、島倉自身最初で最後の出演を果たしている。 島倉は本曲を「第2のデビュー曲」と思っていると語った。 (16年)には、当時のがで、の質疑に対して「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と、本曲を使って答弁した。 の『』(フジテレビ)内ののスペシャルアニメで島倉が本人役で出演した際、この回のみのエンディングテーマとして本曲が使用された。 からは、島倉の出身地であるのにおいてとして使用されている。 編曲はが手掛けた。 なお、この事を聞きつけた島倉は、1月に実際に青物横丁駅を訪れてメロディに耳を傾け、後日京急に宛てて礼状を改めて送付したという。 に島倉が逝去した時には、の時に本曲が流され、計3000人の参列者が手拍子で合わせた。 また 、 、、など、多数の女性演歌・歌謡歌手によってされている。 他に「ギャツビー」のCMにもかつて用いられていた。 収録曲 [ ]• 両楽曲とも作詞: 、作曲: 、編曲:• 人生いろいろ• 系・『』主題歌• 花ごよみ その他のカバー [ ]• (2007年、カバーアルバム『Cover Song Dolls』) 参考文献 [ ]• 『昭和歌謡100名曲 part. 3』(塩澤実信・ブレーン) 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 3』302ページ• 3』303ページ• - スポニチアネックス 2013年11月8日• - サンケイスポーツ 2013年11月8日• 『』2013年11月9日付、大阪本社版12版、26面。 ,Real Sound,2013年11月9日• 『島倉家-これが私の遺言』• 国会会議録検索システム. 国立国会図書館 2004年6月2日. 2020年2月5日閲覧。 京浜急行電鉄|報道発表資料. 京浜急行電鉄. 2008年12月1日時点のよりアーカイブ。 2020年4月22日閲覧。 塩塚博. 2020年4月22日閲覧。 スポーツ報知 2013年11月9日閲覧• デジタル(まんたんウェブ)、2013年11月14日• ,ナリナリドットコム,2013年11月27日• EMI MUSIC Japan:、2002年• コロムビアミュージックエンタテイメント:、2009年 外部リンク [ ]• - 歌詞.

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島倉千代子の生涯は4人の詐欺師?による人生いろいろだった

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この世を去ってちょうど5年となる11月8日放送の「シンソウ坂上!」(フジテレビ系)では、これまでに語られてこなかった島倉さんの75年の人生に迫った。 美空ひばりに憧れて16歳で歌手デビュー 1955年(昭和30年)。 戦争が終わって10年が経ち、成長期を迎えた日本。 デビュー曲『この世の花』は、200万枚の大ヒットで華々しいスタートを切った。 戦争の傷跡を引きずりながらも、ひたむきに復興を目指す日本人の心を鷲づかみにした。 明るく歌うひばりさんと、儚く歌う島倉さん。 この二人の存在が、戦後の歌謡界を二分した。 夫の事業が失敗し、借金を背負うことに 1963年(昭和38年)、東京五輪を翌年に控え、街中が建設ラッシュに沸く中、人気絶頂の島倉さんは25歳で有名なプロスポーツ選手と結婚した。 このスター同士の結婚は、当時の世間を賑わせた。 結婚を機に歌手活動をセーブし、夫に合わせて大阪へ移り住み、主婦業中心の生活を送ることになった島倉さん。 しかし、16歳から芸能界で活躍する大スターゆえに、結婚生活では苦労していた。 さらにこの結婚が、後の島倉さんの人生を狂わせることとなった。 慣れないながらも主婦として頑張っていた島倉さんは待望の妊娠をするが、引退後に夫が始めたクラブ経営が失敗し、借金6000万円を島倉さんが背負うことに。 大好きな歌を辞めてまで母になろうとした島倉さんだが、借金を返済するために歌手活動を再開。 そして、働くために『中絶』という苦渋の決断をする。 結局、結婚5年、30歳で離婚。 島倉さんは、睡眠薬による自殺未遂まで起こし、残ったのは莫大な借金だけというまさにドン底だった。 離婚後、新たに付き合い出した医師の男性に、不動産事業の連帯保証人になってほしいと相談を受け、世間をあまり知らない島倉さんは、相手に実印を渡してしまった。 結局、男性は4億円もの借金を残して夜逃げをし、連帯保証人となっていた島倉さんがすべてを背負うこととなった。 しかし、島倉さんの態度は意外なものだったという。 30年来の元付き人・綿引あつ子さんは「彼のことを悪く言ったことは全然聞いたことなかったです。 もう前進のみ。 歌って私が返していくという気持ちですね」と明かした。 その思いとは裏腹に、借金は利子などを合わせて16億円まで膨らんだ。 島倉さんは、返済のため知人を頼り、昼はコンサートや歌の収録、夜はキャバレーやスナックを回ったという。 10歳の頃から島倉さんを母親のように慕っていた小林幸子さんは、「当時、本人から聞いた話では、新宿コマ劇場でずっと定期的にやっていたんですが、『サチね、新宿コマで歌っているときが一番ホッとするの。 借金取りも舞台に来ないし』って。 『だから、一番お客様に守られているから、それがすっごい楽なの』と話していました」と語った。 そんな借金返済の真っただ中に、歌手生活30周年パーティを開催。 そこに現れたのが、島倉さんがあこがれ続けたひばりさんだった。 この時にひばりさんが贈った「もう決して人に騙されることのない人生を送って頂きたい。 実印は絶対に離しません!」というお祝いの言葉は当時、世間の大きな話題となった。 そんな島倉さんの人生を知った作詞家・中山大三郎さんと一緒に作り、生まれたのが1987年(昭和62年)、49歳の時に発表した名曲『人生いろいろ』。 時代はバブル景気真っただ中で、この歌は130万枚の大ヒットを記録。 そして、借金を返し続けること10年以上…ついに16億円とも言われた借金を完済した。 この名曲の誕生した背景に番組MCの坂上忍は「『人生いろいろ』がノンフィクションの歌だって知らなかったので、それを知ってあの歌を聞いたら聞こえ方が全然違います」と驚きを隠せないでいた。 また、小林さんも「でも(島倉さんは)明るく歌ってるでしょ?すごいと思います」と感動していた。 やっと借金を完済したのに…がんを発症 そんな島倉さんに更なる悲劇が襲った。 1993年(平成5年)、島倉さんは54歳で乳がんを発症した。 やっといろんなことが終わって、やっと心静かになった時だったので、がんにはなりたくなかったですね。 私にはありがたいことに歌がありまして、歌が好きだから、歌いたいから元気になります」と述べ、最後にはこらえていた涙があふれた。 その後、手術を行い、毎日続く放射線治療にも必死で耐え続けた島倉さんは、1か月に及ぶ、辛い放射線治療を終え、乳がんを克服した。 そして、退院から約24日という早さでコンサートに復帰した。 さらに、活動の幅を広げて、バラエティでも活躍し、持ち前の天真爛漫さがうけて人気者となった。 歌手人生をかけた死の3日前のレコーディング だが、島倉さんを再び病が襲った。 2010年ごろに肝臓がんを発症し、3度の手術を受けるなど必死に闘っていたという。 闘病中の島倉さんだったが、2013年(平成25年)、75歳の誕生日には、レコード会社の人気歌手が一堂に会した記念コンサートに出演し、出演者たちから祝われ、元気そうな姿を見せていた。 乳がんの時とは違って、病状について沈黙を貫いたのは、2014年に歌手活動60周年コンサートを予定していたからだった。 それが島倉さんの目標であり、周囲に病気が知られると、治療を勧められ、舞台に立てなくなると恐れたため、誰にも言うまいと心に決めていたという。 そんな島倉さんは、かねてからのファンだった南こうせつさんに、歌手生活60周年で歌いたい新曲の依頼をする。 島倉さんの楽曲『からたち日記』の中で、「このまま別れてもいいの?」と語る島倉さんにインスピレーションを受けたこうせつさん。 「またかわいい声で。 こんなかわいい人がいるんだったら、そのまま自分の作品にしようと思いました」と明かした。 コンサート中にこうせつさんの元を訪ねた車いす姿の島倉さんの姿を見て、こうせつさんは予定よりも早く新曲を作り上げる。 そして、完成した新曲『からたちの小径』。 レコーディング日が迫る中、その半月前に島倉さんから、こうせつさんの元に電話があったという。 こうせつさんは「『もうすぐレコーディングですね、頑張りましょう』という話かと思ったら、『その日を待てない』と。 声だけでも録っておきたいって。 これは尋常じゃないと思いまして、島倉さんの自宅に録音機材を運ぶ段取りをつけました」と明かした。 島倉さんの体力を考え、10日早めたレコーディング。 こうせつさんは、島倉さんを気遣い、近くで待機していた。 こうせつさんは、島倉さんがスリーコーラス歌えるか、いても立ってもいられなかったというが、島倉さんはフルコーラスを3回歌い切り、その歌声は闘病中とは思えないほど、気力あふれる声だったという。 「スタッフからすぐに電話があって、歌えたって。 本当に安心しました。 『声だけでも残しておきたい』と島倉さんが言った。 彼女は本当に歌手のプライドを持ってやり遂げたんです。 完璧ですね、あり得ない、奇跡かな…」と振り返った。 レコーディングを終え、島倉さんから直接お礼の電話があったと明かす。 「夕方本人が直接話したいということで電話に出ました。 で、泣かれたんですね。 それで『皆さんに感謝します』って、だから『待ってくださいって。 もうちょっとしたら本式のスタジオ押さえてます。 それまでに体調を整えて、今度さらに自由に歌ってください』と言ったんですが、いま思い出すとそれに対して島倉さんは答えてなかった。 何かを感じてたのかな。 そしたらその日の夜に昏睡状態に陥って、その3日後に亡くなったんです…」 2013年11月8日。 島倉さんは75年の人生に幕を下ろした。 小林幸子さんに贈った指輪に込めた思い 島倉さんの葬儀には交流のあった歌手など3000人が集まり、死の3日前に収録された最後の歌と最後のレコーディングで収録された肉声が披露された。 意識を失う数時間前に命の限りを尽くして吹き込んだ新曲に、こうせつさんは「(島倉さんは)いろいろなことを体験したんです。 でも、あのコロコロしたかわいい声と微笑みは変わらないんです。 普通、人間がああいう体験をするとまず顔が変わります。 それから声が出なくなるんです。 でも、最後の最後まであれはあり得ない。 奇跡です。 もう泣けてきますよ」と目を潤ませた。 小林さんは母と慕う島倉さんからもらった、一生大事にしたいものがあるという。 それは島倉さんとペアの指輪。 飾りの部分がひっくり返り、その裏には「忍」と書かれている。 「人生は、何があっても忍びなさい。 何にも言わずに忍びなさい。 どんなことがあっても忍耐。 何しろ、余計なことを言わずに、忍びなさいという意味だからね」と、島倉さんが指輪に込めた思いを明かした小林さん。 激動の時代に人々を歌で癒し続けた島倉さんの波乱の人生。 借金やがん…人生の波にもまれながらも、歌を愛し、歌に生かされた人生を全うした。 「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54.

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