アメリカン サイコ 考察。 映画『アメリカン・サイコ』ネタバレ感想 殺人鬼ベイトマンの苦悩

映画「アメリカン・サイコ」の考察

アメリカン サイコ 考察

アメリカン・サイコって本当にクリスチャン・ベールが演じる殺人鬼のことだけなのか? 周りの人間も十分にアメリカン・サイコの素質はあったりする。 そこが怖い。 1980年代のNY。 パトリック・ベイトマンは投資銀行に勤めるエリートサラリーマン。 豪華なマンションに住み、婚約者もいて、何不自由ない裕福な暮らし。 秀でた頭脳に完璧なルックスと美しい肉体。 もちろんそのためには肌の手入れや筋トレを欠かさない。 しかし、彼にはもう一つの顔があった。 そう、彼は人を殺さずにはいられない性癖をもっていたのだ…。 友人も弁護士もパトリック・ベイトマンや被害者ポールの名前と顔を一致させて覚えていないことが終盤のシーンで明らかになっています。 具体的にはまず 1, ポールと殺害日以後にロンドンで一緒に食事をしたとの友人の証言 2, パトリックはポール殺害後にロンドンに行っていないという事実、 3, 証言をした友人はパトリックの名前を誤っている(そのうえ、誤りに気がついてもいない)ことから、友人はポールを誰か別人と勘違いしていたことが(観客に対しては)ラストで明らかになります。 弁護士は関わりたくないので、パトリックの殺人の告白には聞く耳を持とうとしません。 友人の証言の誤りは写真を見せるなどして調査すれば明らかになるだろうと思われるのにバレないのは探偵のいい加減な捜査の現れでもあるのでしょう。 しかし、友人や弁護士がパトリックの名前を誤っていることの説明がつきません。 全部妄想なら、何度も出てくる名前を混同するシーンは不要だからです。 また、ポールのマンションを再訪するパトリックをマンションの管理人の女性が事件なんて何もなかった、と言って追い払うシーンが「妄想説」の根拠にされますが、それは違います。 実はここにも無関心の病理が働いています。 管理人にとっては不動産の価値が下がるような事実…その部屋が実は殺人があった部屋であること…が知れたら、一等地の超高級マンションの価値が下がります。 新しい買い手に買い叩かれるでしょうし、今の入居者からも不満が出かねません。 裁判になって、賠償金を請求されるかも。 殺人事件があったことは、彼女としても詮索されたくない、葬るべき事実なのです。 女性の背景で、壁から床まで全てをはがして塗り直しや壁紙の張り直しをする作業員が映っています。 単なる転居後の掃除でそこまでするでしょうか。 また、「二度と来ないで」という言い方は普通、友人の住所を訪ねて来ただけの者に対して言うセリフではありません。 殺されたポールに関係する人物がやってきて新しい入居者に真実が判明することは好ましくないので、きつく言い渡したのでしょう。 以上から、やはりポールの部屋が殺人現場であったことが推察されます。 友人の無関心、弁護士の無関心、探偵の無関心、マンション管理人の無関心が絡まって、ポール殺害事件をはじめとする一連の殺人事件は闇の中ということになったのでしょう。 あり得ない?でもこれはキツイ社会風刺コメディなので、そういう結末でもいいのです。 何年か前に見て以来、私の中でベスト5に入る面白い映画です。 この映画について、クリスチャン・ベイルが二重人格の殺人鬼と解説されていることが多いですが、単にそうではないところが面白いです。 彼は本当に殺人を犯していても周囲は彼を罪人にしてくれない。 それが正にアメリカンサイコ。 アメリカって、あっちこっちで戦争をしたり、矛盾した自己中心的な行為で色んな国を蹂躙したとしても、許されてしまう。 パトリックはまさに「アメリカ」そのものだな。 と感じました。 80年代のポップスを真剣に語る辺りとか滑稽だし、友人との会話にもバブリーな風刺がたっぷり入っていて、コメディータッチに描かれてますよね。 かなり面白い映画なのに、この映画について語り合える人が周りにいなくて、何年もモヤモヤしてます。 コメントありがとうございました。 たなかさんのコメントは『アメリカン・サイコ』に対する適確なご意見だと思います。 クリスチャン・ベール演じるパトリックは二重人格者ではありません。 殺人を犯さずにはいられないパトリックは自らの罪に対して十分に自覚的です。 だからこそ、罪悪感にさいなまれる彼は自分を誰かが捕まえてくれることをどこかで期待していた。 彼の犯罪は「なかったこと」にされただけ。 パトリックの名前をうろ覚えで他人と勘違いしている友人たちが、本当に興味のあるのは美しい名刺や仕立ての良いスーツ。 外見や服装、他人からどう見られるかには異常な関心を示す人々。 音楽雑誌の批評を暗記したかのようなポップスの批評を語るパトリックも例外ではありません。 しかし、その中身は空っぽです。 連続殺人の衝動にかられるパトリックは十分に異常な人間ですが、それ以上に、周囲の人々や社会環境が病んでいる。 ブラック・ユーモアが胡椒のようにピリッときいていて、お洒落でかつ、そら恐ろしい気分になる映画ですね。 もっと評価されてしかるべき映画だと思います。 ある程度の映画好きでないと、知らない映画、というのではもったいないですね。 コメントのお返しが遅くなりまして、申し訳ありませんでした。 また、感想等お寄せください。 ありがとうございました。

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映画【アメリカンサイコ】ネタバレ感想・2回観ないと理解できない意味不明ストーリー

アメリカン サイコ 考察

サイコスリラーなのですが、もはやぶっ飛びすぎてコメディの領域ですよね…(笑) クリスチャン・ベイルの出演作としては、 『マシニスト』が1番インパクトが大きかったのですが、今作はそれを塗り替えるレベルの怪演ですね。 表の顔は成功を収めた証券会社のエリートですが、その裏では恐ろしいほどの欲望を抱えており、人を殺害することで自分の欲望を満たしています。 何と言いますか、金銭的にも社会的な地位としても認められて、それでも他人よりも優れたいと願い続け、他人と同じ尺度で競い続けることの空虚さと言いますか、底知れぬ劣等感を見事に描いた作品です。 そしてその両面性を クリスチャン・ベイルは完璧に表現しています。 彼の狂気の演技が、あまりにもぶっ飛びすぎていて、恐怖よりは面白さが先んじるような、そんな印象すら受けました。 今回はそんな映画 『アメリカンサイコ』について個人的に考えたことをお話していきます。 本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。 作品を未鑑賞の方はお気をつけください。 良かったら最後までお付き合いください。 『アメリカンサイコ』 あらすじ パトリック・ベイトマンは、証券会社のエリートで誰からも一目置かれる存在だった。 彼は白を基調とした空虚ながらも家賃の高い住宅に住み、エステや日焼けサロンなどに通い、美貌を保ち優雅な生活を送っていた。 そんな彼は、同僚たちとどちらが格の高いレストランで食事をするか、誰が優れた名刺を持つか、誰がより高い家賃の家に住むかで競い合っていた。 その会社を所有しているのは他でもない ベイトマンの実父ということもあり、特に仕事に懸命に取り組んでいる様子もない彼だったが、同僚に何かで敗れるたびに劣等感を隠せなくなっていく。 ある時、自分よりも格の高いレストランで食事をし、自分よりも良い暮らしをしている同僚の ポール・アレンに強いジェラシーを感じるようになり、彼を自宅に誘った時に斧で殺害してしまう。 その一件を機に、タガが外れたように狂気を抑えられなくなった彼は、娼婦や女子大生を自宅に招き入れては次々に殺害するようになる。 計画的な犯行でかつ、自宅の中に死体を隠していたことから警察は犯人になかなか辿り着くことができずにいた。 しかし、私立探偵の ドナルド・キンボールは ベイトマンにアリバイがないことや事件の概要から徐々に捜査の網を狭めていき…。 スタッフ・キャスト この映画は様々な制作秘話があるんだとか…。 当初は クリスチャン・ベイル主演& メアリー・ハロン監督のコンビでの企画があったようです。 ただ、その後スタジオが レオナルド・ディカプリオの主演を発表し、 メアリー・ハロンとゴタゴタが起き、その結果、監督を降板しました。 監督にはオリバー・ストーンが就任する運びになったが、結果的に作品の制作に至らず、最終的に クリスチャン・ベイル主演& メアリー・ハロン監督のコンビが復帰し、制作が進められたそうです。 メアリー・ハロン監督は 『ペティ・ペイジ』や 『モスダイアリー』と言った作品の監督も務めていますが代表作としてはやはり本作になりますよね。 脚本には、本作以外でも メアリー・ハロン監督作品の脚本として携わっている グィネビア・ターナーが共同脚本として参加しています。 というのも、この作品は基本的に主人公である パトリック・ベイトマンの語りによって進行されるのですが、彼がいわゆる「信頼できない語り手」となっているのです。 ミステリではよくある設定ですし、映画でも 『シャッターアイランド』のような作品がそうですが、語り手が精神的な疾患を抱えているために、物語に現実と幻想が混在しているという状態になっています。 そのため、今作は公開されて以来、映画ファンの論争の種となっているわけですが、これについて監督・脚本を担当した メアリー・ハロンは次のように述べています。 All I wanted was to be ambiguous in the way that the book was. I should have left it more open ended. 」となる。 監督は、ある程度見た人に解釈が委ねられるいわゆる「オープンエンド」にしたかったそうですが、作中の出来事の全てが ベイトマンの夢の中の出来事であったという風に解釈されることを良しとしないとコメントしているわけです。 そうなると、当然この映画には現実に起きていたことと、そうではないことが混在しているということになり、それを整理しなければ混乱してしまいます。 ということで、今回は映画をシーンを細かく追いながら、本作の虚実の境界を探ってみようと思います。 そもそも本作は顔のない男の物語である 『アメリカンサイコ』にて不気味なのは、主人公の パトリック・ベイトマンの暮らしぶりでしょう。 冒頭に彼のモーニングルーティンが紹介されますが、そこで注目したいのは、彼がミントの顔パックをしている描写です。 (映画『アメリカンサイコ』より引用) ペラペラと顔に貼りついたパックを剥がしていくシーンは強烈な印象を与えますが、この時のナレーションが 「だが本当の俺はそんざいしない。 実在するが幻影のようなものだ。 」と語っています。 このナレーションと映像の調和は、主人公の男が何者でもなく、ただ ベイトマンの仮面を貼りつけているに過ぎないのだということを言わんとしているように感じられました。 加えて、この時にカメラが捉えているのは、 ベイトマンの実体ではなく、鏡に映った彼であり、そこにも脱身体性が伺えます。 そして、彼の住んでいる高級住宅も実に不気味に思えませんか…? 白を基調にした、殺風景な部屋は、個性というものを全く感じさせることがありません。 まるで生活感がないのです。 そんな生活感のなさ、没個性感が、そこには元々誰も住んでいないかのような雰囲気を漂わせているわけですが、もっと言うなれば、この家が特定の誰かの家とは思わせないようにさせています。 この一連の冒頭のシーンが感じさせるのは、本作が描こうとしているのはベイトマンの物語ではなく、80年代にウォール街を支配していた白人の物語であり、ひいてはアメリカという国そのものの映画であることです。 名前についてのギミックを探る この映画の最初のシーンは ベイトマンたちがレストランで食事をしている描写でした。 ただ、ここでいきなり本作を取り巻く状況を説明するうえで非常に重要な情報が示されていたことに気がつきましたか。 会話に注目してみましょう! 「あれロビンソン?」 「ラリってんのか?違うよ。 」 「じゃあ誰だ?」 「ポール・アレンさ。 」 「違うよ」 「ポール・アレンはあっちだ。 」 (映画『アメリカンサイコ』より引用) 彼らは同僚の ロビンソンや ポール・アレンについて話しているはずなのですが、完全な人違いを繰り返しており、ただ ベイトマンによると ポール・アレンという人物は向こうの席で女性と一緒に食事をしている男であるということが分かります。 しかし、考えてみると、この会話って実に不自然だと思いませんか。 最初に喋った男は見ず知らずの他人を「ロビンソン」と間違え、さらにもう1人の男が「ポール・アレン」と人違いをしているわけです。 つまり、本作 『アメリカンサイコ』においては、名前という概念が実に希薄なのです。 ウォール街に生きている白人は、髪をジェルで持ち上げ、スーツで着飾り、似たようなクレジットカードでレストランの支払いをし、似たような名刺を持ち、食事をするレストランの格や住む住宅の家賃で競い合っています。 彼らは社会的に成功しており、誰からも羨ましがられる存在であるはずなのですが、全員が外見的にも行動的にも似たようなことをしており、完全に没個性化しているのです。 だからこそ、本作には名前の曖昧さを強調するシーンが多く使われているわけだ! 主人公は、 パトリック・ベイトマンという名前ですが、彼はその時々によって自分の名前を変えていることに気がつきましたか。 彼は ポール・アレンに最初に出会った時に、「マーカスハルバーストラム」という別人と間違えられていました。 他にも例えば、 ポール・アレンに斧を振り下ろして殺害し、死体を持って表通りに出た彼は通りでカップルから「パトリックか?」と声をかけられますよね。 この時、彼はそれを否定しました。 その後、彼は アレンの家に向かうと、留守電に彼のふりをしてメッセージを残しました。 後のシーンで彼は自宅に2人の女性を招いているシーンでで「ポール・アレン」を名乗っていました。 さらには、彼は自宅に来ている女性にそれぞれ「クリスティ」と「サブリナ」という名前をつけていましたよね。 このように 『アメリカンサイコ』という作品においては、登場人物の名前というものが曖昧になっています。 その極めつけが終盤に ベイトマンが自分の担当弁護士と会話をするシーンなのですが、彼は 「君だったんだな!ベイトマンが殺人なんて最高だね。 」と告げ、 ベイトマンのことを 「デイヴィス」と呼称しました。 (映画『アメリカンサイコ』より引用) このシーンで、一体何が起きているんだと頭が混乱しましたね…。 しかもあの弁護士は、殺害されたはずの ポール・アレンと10日前にロンドンで食事をしていたという話をしており、それ故に ベイトマンによって ポール・アレン殺害されたはずがないと語っています。 ジブリアニメの 『千と千尋の神隠し』でも主人公が名前を奪われるという描写がありますが、「名前」とはその人のアイデンティティの象徴として扱われます。 つまり、『アメリカンサイコ』において登場人物の名前が極めて不正確で、不安定なのは登場人物たちにアイデンティティがないということを暗に仄めかすためのように感じられます。 この物語を語っていたのは、確かに ベイトマンではあるのですが、 ベイトマンとは一体誰のことだったのかは謎に包まれています。 私たちが ベイトマンだと思って追いかけてきた クリスチャン・ベイルが演じている主人公は、単なる「デイヴィス」なのかもしれません。 そこで、冒頭のミントの顔パックをペラペラと剥がすシーンが効いてくるように感じますね! そういう意味では、本作が描いたのは、顔も名前もない「80年代にウォール街の白人」というある種の抽象概念が孕む残虐性だったのかもしれません。 ラストの独白について 本作のラストを飾る ベイトマンのモノローグは実に重要で作品の命題にも直結するものだと思います。 もはや境界線は存在しない 俺たちが共有する 抑制できない衝動、狂気、悪意、不正 俺が引き起こした暴力と それに対する無関心さを俺は超えてしまったのだ 激しい痛みがおさまらない 他人のためにこの世が良くなることなど願わない 他人にも俺の苦痛を味わわせたい 誰も逃がしたくない でもこれを認めた後でさえカタルシスは起こらない 俺は処罰を受けず、自分を深く理解することもできない 告白から何か新しい知識を得るわけでもない この告白には何の意味もないのだ (映画『アメリカンサイコ』より引用) 実に意味深なモノローグだよね…。 このモノローグは、自分という存在が何者でもない、空虚な存在であることを強調しているように思います。 まず「もはや境界線は存在しない 俺たちが共有する 抑制できない衝動、狂気、悪意、不正」という部分には、本作が描いていたのが 「80年代にウォール街の白人」による集合的狂気であるということを仄めかしているのではないでしょうか。 「俺が引き起こした暴力とそれに対する無関心さを俺は超えてしまったのだ」とその次にありますが、 これは自分が犯した殺人とそれに対する他者の無関心さは、もはや自分という存在を置き去りにしてしまったかのようだということです。 しかし、確かに自分の中には他人を傷つけたいという衝動が隠れていて、殺人を犯したはずだと思うのですが、彼は処罰されることもなく、自分が何者なのかもわかりません。 結局、自分がいくら殺人の罪を告白したところで、そこには何の価値もなく、誰も気に留めないのだと締めくくっていますね。 モノローグを紐解くと、どうやらラストシーンでもって、本作はこれまでベイトマンという1人の人間が引き起こしてきた狂気をもっと上のレイヤーへと昇華し、個人から解き放ったように感じられます。 本作において、「ベイトマン」は確かに罪を犯したと言えるのでしょうが、それが本当に クリスチャン・ベイルが演じている主人公の男によって引き起こされたものなのか、はたまた他の誰かが起こしたものなのかはアンビギャスなままなんですね。 ラストシーンのレストランのテレビには、時の大統領であるドナルドレーガンが映し出されています。 彼はあの大スキャンダルであるイラン・コントラ事件について語っているよね! レーガン大統領は、とにかく「強いアメリカ」というイメージを前面に押し出し、指導力がある大統領であることを誇示していました。 元々映画やミュージカルの俳優も務めていた経験を持つ彼は、政治シーンを自信を主人公に見立てたショーのように仕立て上げる傾向があり、演説や記者会見で映画のセリフを引用することも多かったと言われています。 ただ、そういった虚構を作り上げることの巧さによって レーガン大統領は、当時高い人気を誇っていました。 それを決定的に覆してしまったのが、イラン・コントラ事件であり、これに関する レーガン自身の事件への指示・関与の疑惑が湧いて出てきたわけです。 結果的に、彼は側近をトカゲの尻尾きりのように有罪に仕立て上げることで、自分自身の責任追及から逃れようとし、結果的に「強いアメリカ」という幻想を崩壊させることへと繋がりました。 『アメリカンサイコ』がラストシーンで、わざわざレーガン大統領の映像を流すのは、本作がアメリカという国ないし白人特権階級に対するアイロニーを内包しているからに他なりません。 レーガンという人間は、確かにテレビの向こうで大統領として立っているわけですが、彼は政治というショーの舞台で「レーガン」という仮面を演じているに過ぎないのかもしれません。 彼が何者なのか、つまり「中身」には誰も興味など抱いておらず、彼の身に着けている「レーガン」という仮面にしか興味を持っていないというのがその実とでも言うのでしょうか。 カート・アンダーセン氏が自身の著書の中で、幻想と現実の境界を曖昧にしてしまうアメリカ人の国民性について論考していました。 アメリカ人は現実がどうなのかには興味を持たず、幻想や虚構に傾倒する傾向があることを、建国以来の宗教や文化、経済、政治といった様々な側面から読み解いています。 そこに書かれていたのは、まさしくアメリカ人が「中身」には興味を持たないという事実でしょう。 つまり、 クリスチャン・ベイルが演じている主人公が仮に「 ベイトマン」の仮面をかぶって、多くの人を殺害する蛮行を犯していたとしても、人々が関心を持つのは「 ベイトマン」という仮面であり、彼自身ではないのです。 彼の周囲にいた人間たちは、彼がどこのレストランで食事をしているのか、どんな名刺を持っているのか、どんな女と付き合っているのかといった表面的な部分にしか興味がなく、彼の「中身」には何の興味も示しません。 レーガンという人間は、イラン・コントラ事件に関わるという罪を犯していたかもしれません。 というよりも犯していたでしょう。 しかし、政治というショーの舞台に「レーガン大統領」という仮面をつけて現れる彼は、自分自身には責任がなかったと言い張るのです。 本作 『アメリカンサイコ』は、アメリカという社会において虚構や幻想が強大な力を持つことに対する痛烈な皮肉が込められています。 虚構や幻想を身に纏い、虚構や幻想を信じることで、その「中身」がどうなっているかについて誰も関心を持たなくなってしまったわけです。 だからこそ、 クリスチャン・ベイル演じる主人公が自分が罪を犯したのだと語ったところで、そんな言葉に誰も興味を示しはしません。 それ故に彼の告白は無意味です。 ラストシーンで ベイトマンの背後のドアの表示を見てみると、そこには 「This is not an exit. 」という1文が書かれています。 レーガン大統領はイラン・コントラ事件がひと段落し、気持ちを切り替えて前に進んでいくのだという内容をテレビで語り、そして ベイトマンは自分の引き起こした一連の事件が罰せられることもないままに終わっていくことをモノローグに乗せて語っています。 ただ、 「This is not an exit. 」という1文はそうしたアメリカの幻想偏重の社会に終わりがないことを暗に示していると言えるでしょう。 幻想と現実の境界線が溶け、もはや物事の「中身」に誰も興味を示さなくなり、レストランを料理の内容ではなく格式の高さと評判だけで選ぶようなそんな時代が続いていくのだという絶望が今作のラストには強く投影されています。 結局のところ主人公は罪を犯したのか? さて、ここまで本作が何を描こうとしていたのかについてお話してきたわけですが、最後に結局のところ主人公は殺人を犯したのかどうかについてお話してみましょう。 これはあくまでも私の考えではありますが、主人公は殺人を犯したと言えるでしょう。 先ほど、本作の主題はアメリカという国の幻想と現実の境界線の曖昧さにあるというお話をしました。 今作も実にその境界をぼかして描かれているんだよね…。 まず、本作における彼の最初の殺人は、ホームレスの男性とその飼い犬でした。 これについては紛れもなく彼が実際に犯した犯行ではないでしょうか。 その後も同僚の ポール・アレンや売春婦の女性などを次々に殺害し、過去には自分の元ガールフレンドを殺害していたことなどが明らかになっていきます。 私は、個人的にここで彼が犯していた一連の殺人や アレンの家に保管していた死体は紛れもなく事実であったと解釈しています。 それは、終盤には彼が死体を隠していた アレンの家を訪れたシーンが大きな根拠になるでしょうか。 彼は、死体を隠しており、血まみれになっていた部屋の壁が綺麗にペンキで白く塗られていることに気がつきます。 そしてあの家にアレンが住んでいたことは隠蔽され、新しい人が契約しようとしているところでしたね! これってアメリカの歴史そのものを投影した描写にも思えました。 アメリカという国は、元々はイギリスからのプロテスタント系の移民が勢力を拡大し、先住民を弾圧し虐殺して、その上に成り立っている国とも言えます。 しかし、そういった負の歴史を覆い隠し、幻想を上塗りすることで、自分たちの国の「正義」を主張しているのです。 『アメリカンサイコ』における アレンが住んでいたはずの賃貸も、そこには生々しい殺人の痕跡が残されていたわけですが、そんなことが表に出てしまえば住み手がいなくなってしまいます。 だからこそ、その真実を闇に葬り去り、「白いペンキ=幻想・虚構」を上塗りすることで、そこが優良な高級住宅であるというファンタジーを作り上げるのです。 ただ、その背後には主人公が、殺人を犯していたという事実が紛れもなく存在しています。 しかし、その真実を求めておらず、そして誰も関心を示さないために、彼は罪に問われないのです…。 でも、彼が犯した殺人が全て真実だとは思わないな…。 おそらくですが、彼がATMのところで猫を殺害しようとした描写から始まる一連のシーンは、現実ではないと思っています。 まず、ATMに 「FEED ME A STRAY CAT」という表示が出るシーンは、現実ではありえませんので、そこには主人公の幻想が入り混じっているでしょう。 (映画『アメリカンサイコ』より引用) その後、警察に追跡されて、銃撃戦が起きますが、彼はパトカーの爆発のあまりの大きさに驚いた表情をしていましたよね。 これって、彼が「本当にこれが現実の出来事なのか?」とそのあまりにもフィクショナルな爆発を怪しんでいる表情でもあると思うんです。 その後、彼は間違って別の似たようなオフィスビルに入ってしまうのですが、そこで受け付けの人間に 「Mr. Smith」と呼ばれているんですよね。 ここでも名前が違っているんだよね…。 最終的には、自分のオフィスに辿り着き、そこで弁護士に自分が何人の人間を殺害したのかを告白しますが、もう自分が何人の人間を殺害したのかが曖昧になっていました。 つまり、彼は自分が現実で殺害した人間と、虚構の中で殺害した人間の区別がつかなくなっているのです。 このシーンで、彼を追跡していると思われるヘリコプターの音は聞こえるのですが、ヘリコプターの姿が映し出されることはありません。 しかも翌日彼は何事もなかったかのように自室でシャワーを浴びて、いつものモーニングルーティンをこなしています。 こういった一連の描写から推測するに、主人公が犯した罪の中で 「FEED ME A STRAY CAT」の表示以降のものは、個人的には幻想の範疇に含まれると解釈しています。 一方で、それ以外のものについては、終盤の賃貸の管理人の様子からしても事実だったの考えるのが、妥当ではないでしょうか。 また、彼がオフィスのデスクの引き出しに入れていたノートには、確かに彼の猟奇的な殺人のビジョンが描かれていました。 これも彼が殺人を犯したことを裏付ける証拠の1つと言えるのではないでしょうか。 (映画『アメリカンサイコ』より引用) ただ、本作『アメリカンサイコ』の肝は、現実の殺人と虚構の殺人をシームレスに描いている点だと思っています。 そこに区別がなく、そして、その現実に起きた罪すらも虚構の中へと溶け出していき、裁かれることはないのです。 おわりに いかがだったでしょうか。 今回は 映画『アメリカンサイコ』についてお話してきました。 個人的には無限の解釈が許される映画だと感じましたね! ただ、全ての出来事が「幻想」でしかなったと解釈するのは、監督の発言から考えても少し無理があるように思います。 むしろ幻想と現実が共存しており、そしてそれを同じトーンで描き切ってしまったことが本作の真の恐ろしさだと思っております。 現実が幻想へと溶け出していき、逆に幻想が現実に溶け出してくることで、主人公は、もはや自分が何者なのかすらも分からなくなってしまいます。 そこには、一個人の物語というよりも、アメリカという国そのものの現実と虚構のコンテクストが反映されていると思います。 「中身」には誰も興味を持たず、上塗りされた白いペンキのような「幻想」にしか誰も興味を持たないのです。 そんな「幻想」が多い隠してきたたくさんの血が、アメリカという国を「サイコ」たらしめるのだという痛烈なアイロニーを本作は打ち出してみせたのです。 謎の多い映画ではありますが、ぜひ多くの方にご覧いただきたい1本です。 今回も読んでくださった方、ありがとうございました。 関連記事.

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映画【アメリカンサイコ】ネタバレ感想・2回観ないと理解できない意味不明ストーリー

アメリカン サイコ 考察

映画『アメリカン・サイコ』ネタバレ感想。 ラストですべてが覆される、考察必須の面白スリラー。 映画『アメリカン・サイコ』ネタバレ感想。 ラストですべてが覆される、考察必須の面白スリラー。 2020. エリートビジネスマンが、夜ごと町に出ては殺人を繰り返すというあらすじから、とんでも怖い話なんだろうと長らく遠ざけていたのが、この度の再会。 エイヤッ! と見ることになった次第です。 主演は名優クリスチャン・ベール氏。 共演にジャレット・レト氏やリーズ・ウィザースプーンさん、ウィレム・デフォー氏にジョシュ・ルーカスさんなど、豪華キャストが顔をそろえていらっしゃいます。 あらすじ 俺の名刺が惨敗した……。 NYのビジネスマン、 パトリック・ベイトマンは打ち震えていた。 宿敵の名は、ポール・アレン。 大物相手の取引を独占し、超絶人気店の予約を押さえる男。 「色も書体も完璧…… そのうえ透かしまで入っているだと!? 許さん……許さんぞ、ポール・アレン……!」 血涙を流すベイトマン。 この後、彼はとんでもない行動に出るのだったが…… エリートの考えることは、ようわからん。 若干の残虐な描写も含みます。 未見の方と、苦手な方はご注意。 怖いんだろうなあ、おぞましいんだろうなあ……と戦々恐々としていたんですが……。 存外コメディだったよ、おっかさん。 名刺バトルはもとより、ムーンウォーク入場に濡れ場ポージング、裸チェーンソーに回転ドア銃撃。 ベイトマン君、面白すぎ。 もし実在したら面白いでは済まされんでしょうが、フィクションとわかっていれば、一周回って好きになってくるぐらい、ベイトマンのキャラが立っている。 さて、本作で一番の注目どころは、 結局ベイトマンはポール・アレンを殺したのか否か、という点。 公開後二十年近くが経っても、いまだに殺した派とすべて妄想だった派に分かれており、どちらが正しいとも言いきれないようです。 個人的には、『ベイトマンはポール・アレンを殺した』に一票。 とくに前知識もなくフツーに見てて、こんなばったばった殺して大丈夫なんかなーと思っていたら、ラスト弁護士の 「ポール・アレンなら、先週ロンドンで食事したよ」発言に「????」となったわけですが、あれが全部妄想だというのは無理があると思うので、やっぱり殺したんだろうなあ……という印象です。 直後に鏡に映ったベイトマンに切り替わることから、脳内でつぶやくにとどめた。 ・ドルシアに当日予約を入れようとした際の笑い声。 笑い声の途中でベイトマンは電話を切っているのと、次に電話した時の受付は非常に礼儀正しかったので、あれは普通に断られたのを、脳内で嘲笑に変換した。 ・猫を食わせろATMからの下り。 あんなメッセージが表示されるわけはないので、この時点でかなり精神にきていた。 おまけにマグナムでもない普通の銃で パトカーが爆発するわけねーずらってことで、そのあたりは妄想が混じっていると思われます。 老婦人と別ビルの守衛、清掃人は実際に殺されたと思いますが、パトカーの銃撃戦は脳内での出来事。 仕事に行かなきゃ! という混乱の極み……的な……? ようわからん。 もしもそんな場所で事故物件が出たとなったら、不動産価値が暴落しそうなので、管理会社が隠ぺいした。 ベイトマンが訪ねて行った際に、案内のおばちゃんが塩対応だったのは面倒を起されたくなかったから。 というか、もしも外から悲鳴とチェーンソーと男のヒャッハー声が聞こえたら、 誰かドアを開けるやついんのかっていう。 『アメリカン・サイコ』というのはベイトマンのこと……ではなく、実は社会の恐ろしいほどの無関心さにかかっているんだろうなあ……としみじみ。 トランクに明らかに人積んでるのに、「その鞄どこの?」だかんね。 「ゴルチェだよ」じゃねーわー。 そこは律儀に答えんでいーわー。 というわけで、とてもとても面白かったです。 何事も突き詰めると笑いに到達するという事実を認識した映画でした。 万人におすすめはできんけども。 社長の息子。 腹筋1000回可能な無敵のシックスパックを持つ男。 完全無欠……かと思いきや、無欠が行き過ぎて百回転くらいひねられた性格。 ポール・アレンの透かしが入った名刺に打ちのめされ、浮気相手にヤクを投与して人気店だとごまかし、街角の女性を伴った三人でのくんずほぐれつでは、 鏡を前に自身の上腕二頭筋にうっとりするなど、笑いでこちらの腹筋を1000回振動させるアクションを取りまくる。 やめれ。 いそいそと着込んだレインコート姿で、ムーンウォークしつつリビングに入場してきたときはどうしようかと思いました。 一見とっつきにくい人の、案外親しみやすい顔を見た…… と思ったら斧をフルスイングするから、やっぱりとっつきにくかったデス。 ポール・アレン君殺害後は、アレン君を名乗って彼の部屋でやりたい放題。 そんな大暴れのベイトマン君だったが、あんなに殺人を繰り返したにも関わらず、結局みんなそのことに無関心で、冒頭で言っていた本当の俺はどこにも存在しない……が真実だったということに思い当たり、何がしかの悟りの境地に達して物語はジ・エンド。 うん……まあ…… エリートのやることはようわからん。 お前が犬を殺したことは忘れんぞ。 名刺のセンスも住まいも上。 超絶人気のレストランに、よりによって金曜の夜に予約を入れるという快挙を見せ、 見事死亡フラグが確定した。 有能だったというだけで、別に殺されるほど悪いことはしていない……と思うのですが、登場からずっとベイトマンをハールスタム呼ばわりするうえに、「ベイトマンは無能だぜ」と本人に言ってくるので、まあなんちゅーか。 そう思うと、少なくとも作中では律儀に全員の名前を正しく覚えていたベイトマン君は、相当いいヤツなのではなかろうか……と思ったけど そんなことはなかった。 仕事に適した服装をしているのに、「俺はその服装は好かないね」と上司に強要され、彼に好意があるゆえに、その通りにしてくるめんこい女子。 作中の良心といってもいい存在。 なのに、ベイトマンは 彼女の頭にくぎ打ち機をぶち込もうとするんだからこの野郎。 最後は上司のスケジュール帖に描かれたサイコな画像を見て戦慄。 多分そのまま恐れをなして辞めると思うけど、万が一「あなたには治療が必要よ」とか言い出したらどうしようと思わないでもないデス。 彼と同じで自分のことしか考えておらず、横で婚約者がチェーンソー刺さった女性の絵を描いてもどこ吹く風。 なのに演じるウィザースプーンさんの力ゆえか、めちゃくちゃかわいく映る不思議。 作中では別れたっぽいですが、多分ベイトマンの毒牙にかからないのは彼女だけだと思うので、お似合いのカップルだったのになー。 思わずその足でトイレに出向き、ルイスの首に手をかけよう……としたその時。 なんとルイス君、ベイトマンに気があることが発覚。 衝撃のあまり、 手袋をしたまま手を洗うという行動に出るベイトマンがほほえましい。 「TELして」じゃねーわ。 食事の代金を「たったの六万円かよ」と言ったり、女性の顔に関して談義したり、庶民のハートをピリつかせるのが大得意。 正直どいつの名刺も同じに見えるYO。 名優ウィレム・デフォー氏が演じているので、こいつは絶対曲者だぜ……と思っていたら、例によって誰かをベイトマンと間違えている人間がアリバイ証言をしてくれたため、あっさり引き下がってその後出番なし。 なるほど……そういう趣向で来るか、ふふ……と思った人は大分デフォー氏に洗脳されている。 ポール・アレンが生きていたと証言して観客を混乱に陥れるうえに、罪の告白電話を 「ウケる」の一言で済ます 奴。 お前どんだけクランベリー好きなんだよ。 とくに清掃員。 回転ドアぐーるぐる……あっ、人いるじゃん。 戻って撃っとこ、的な。 やめたって。 まさかの女性とは……! 御見それしました。 とてもとても面白かったです。 ありがとうございます。

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