河野太郎 家系図。 河野氏

清和源氏・義家(八幡太郎)孫

河野太郎 家系図

さて、当メルマガでは自身のご先祖様をいかに古くまで遡っていくかというノウハウを中心に執筆していますが、夏休み特別企画(?)という事で、今回は少し趣向を変えてコラムをお届けします。 「安倍首相と麻生太郎氏は親戚にあたる」 という話をよく耳にしますが、実際にどのような関係にあるのかを家系図を見ながら確認してみたいと思います。 また、そこから歴代総理との関係や、はたまた日本の歴史さえも体感してみたいと思います。 そこで、実際に家系図を作成して確認してみる事にしました。 私は普段、ご依頼人様から依頼を受けてその方の直系の祖先について調べるという事を仕事にしています。 「家系」というのは非常に多くの個人情報を含むものですので、誰のものでも勝手に調べられるというものではありません。 私がご依頼を受ける際にも厳格に本人確認を取らせていただき、その上でその方のご先祖様についてのみ調査を行うようにしています。 今回は、公人である歴代内閣総理大臣につきまして、周知の事実として公になっている情報のみから家系図を作成してまいりました。 それでは早速、系図を見てみましょう。 安倍首相からその関係を見ていきますと「おじいちゃん(岸信介)のいとこ(吉田寛氏)の奥様の甥が麻生太郎氏」という事になります。 自身の祖父のいとこの配偶者の甥って、普通は名前も顔も思い浮かばないですよね。 (家系図作成を専門に行っている私でも全く分かりません…)但し、安倍首相と麻生太郎氏を中心として描いた家系図をもっと引いた目で見ていきますと、なかなかに興味深いものがあります。 結果として現代の日本政府に通じる新政権が樹立された訳です。 今日からみますと、150年ほど前の話です。 明治時代の総理大臣は、当然のことながら討幕を成し遂げて新政府樹立の中心となった旧長州藩士、旧薩摩藩士がほとんどを占めています。 時代はやがて大正、昭和となり平成となった現代ではもはや旧国名や藩名を云われても若い世代はピンとこない人が多くなりました。 そうなると、「長州閥」「薩摩閥」なんていうものは古色蒼然と…と、思いきや、上記の系図のとおり現在の政治の中心にいる安倍首相や麻生太郎氏はまさに長州藩、薩摩藩の末裔です。 そして、その親戚関係にはご覧のとおり歴代総理大臣の名前が多数みられます。 先ほど、安倍首相と麻生太郎氏の親戚関係の中で「いとこの奥様の…って、意外と遠い関係」という旨を書きましたが、実はこの配偶者(婚姻)こそが有力家同士を結び付けている訳です。 戦国時代のドラマ・小説などではよく「政略結婚」という言葉が出てきますが、いつの時代にあってもこれは繰り返されています(尤も、現代に於いてはこうした家柄であっても自由恋愛で婚姻されるケースも多くなっているとは思いますが)。 尚、この家系図は安倍首相と麻生太郎氏を中心に出来るだけ簡潔にその関係性を表したものですが、実際には政界だけでなく財界の有力家も多く親戚関係として繋がってきます。 しかし、そんな百数十年どころではない話も「家系」を見ていきますと存在している事が分かります。 学生時代に歴史の時間で習う「摂政・関白」という響きは多くの方にとって懐かしいものと思われます。 幼少の天皇に代わり、あるいは天皇を補佐する役目として事実上の権力を握れる役職です。 平安時代、この摂関の役職を独占してきたのが、ご存知の藤原氏です。 藤原氏の中でも嫡流と一部の分家がこの摂関家になる事が出来ました。 藤原氏族のなかでも摂政・関白になれる家柄は「近衛家」「九条家」「二条家」「一条家」「鷹司家」の五摂家です。 「近衛」「九条」というのは家名であり、本姓は藤原です。 その五摂家のうちでも筆頭は近衛家です。 近衛家は戦国時代になっても豊臣秀吉と深い関係を結ぶなどして(その為に秀吉の関白任官が実現されました)勢力を保ち、明治時代に華族制度が出来ると最上位の「公爵」の地位につきます。 そして、末裔は昭和に入り近衛文麿内閣総理大臣を生み出します。 五摂家筆頭の家柄という事で当時、国民からの人気は高かったといいます。 つまり、摂関家全盛の平安時代から千年を経過しても尚、その家柄は人々を魅了するものがあったという事になります。 国民に人気を博した総理大臣といえば、スタイルの新鮮さでブームとなった細川護熙元首相がいますが、その熊本藩主・細川家と近衛家も縁戚関係を結んでいます。 細川護熙氏の母は近衛文麿元首相の娘ですので、祖父・孫の関係になります。 さらに、そうした縁もあり、細川護熙氏の弟・忠?氏は近衛家を継いで現当主となっています。 このように、実は江戸時代・明治時代だけでなく、家系というものは千年以上前の平安時代から脈々と現代まで「地続き」として存在している事が分かるのです。 家系図作成サービス | | | | | | | Copyright C 2008 All rights Reserved.

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吉田茂の家系図に麻生太郎!こんなに豪華な血筋だった

河野太郎 家系図

武家家伝_河野氏 河野氏 折敷に三文字 越智氏流 河野氏は、ニギハヤヒ命の後裔越智氏から出ている。 すなわち、文武天皇の時代に越智玉興が伊予大領となり、その弟玉澄が伊予国温泉郡(風早郡?)河野郷に住んで河野氏の祖になったという。 その真偽は詳らかではないが、かなり古くから河野郷に根差した土着の氏族であったことは間違いない。 天慶四年、藤原純友の乱に当たり、好方が純友を九州の博多に滅ぼして名を現わしている。 以来、伊予水軍の将として知られるようになったという。 河野氏が史上よくその名を現わすようになるのは、平安末期から鎌倉期である。 治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵するや、それに呼応して、河野通清・通信父子が風早郡高縄山に兵を挙げた。 そして、通信は源義経に従って平氏討滅の戦で各地に戦功をあげ、河野氏はその恩賞として所領を安堵され、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職を与えられた。 義経の死後は頼朝に従い、大きな勢力基盤を形成するにいたった。 しかし、承久の乱に際して、後鳥羽上皇に与した通政と幕府方に属した通久との二家に分かれて争っている。 通政は、伊予高縄城で幕府軍を迎えたが攻め破られ、通久を除き、一族全ての所領を失った。 その後、蒙古襲来の時、弘安四年(1281)弘安の役で、水軍を率いて活躍した通久の孫通有は河野氏の旧領を回復し、ふたたび河野氏は伊予での勢力を取り戻した。 このころには、河野氏から分かれた得能氏・土居氏など一族が伊予国内に蟠居し、村上・来島氏らと瀬戸内水軍の覇を競うようになった。 元弘・建武の争乱には、宗家通朝は足利尊氏に属したが、一族の得能氏・土居氏は新田義貞と行動を共にし、一族が二派に分かれることになったのである。 そして、尊氏に従った通盛は伊予守護に補人されるまでに河野氏の勢力を拡大した。 この通盛のときに、本城は温泉郷の湯築城に移され、以後、戦国末期まで続く河野氏の本拠となった。 争乱の時代と河野氏 伊予国には最大勢力である河野氏のほかに、細川氏・宇都宮氏・西園寺氏、さらに大内氏や大友氏、戦国末期には長宗我部氏や毛利氏などの他国大名の介入などがあり、河野氏の安定した一国支配の時期はなかった。 たとえば、南北朝期には岩松氏、室町時代には細川氏らに、若干の時期とって代わられることもあった。 このような、多少の興亡と紆余曲折を経ながらも守護職を世襲している。 その間、文和三年(1354)には周防の守護職も得たこともあったが、すぐに大内氏にとって代わられている。 とはいえ、河野氏が伊予を領国とする守護大名に成長していったことが知られる。 しかし、東伊予には細川氏の支配が入り、つねに細川氏と対立関係におかれた河野氏は東伊予で不安定な状況を作り出した。 さらに、細川・河野両家の対立のなか、宇摩・新居二郡の支配権を細川氏代官であった石川氏が独自に確立したりした。 しかし、石川氏はその被官の金子氏に取って替わられ、金子氏は河野氏下の村上城に援助を求めるといった状況も呈した。 応仁の乱では、伊予国内でもその勢力は二分され、河野宗家は細川氏との対立から河野氏は山名方の西軍に属し、一族で新居郡高外木城主の河野通春などは細川方に属し、河野家内でも内紛が生じた。 応仁・文明の乱の鎮静化により、国人諸氏の対立も静まると、今度は細川氏の内訌が始まった。 そんな時期、伊予国内は比較的安定をみせ、大内義興の上洛時には、伊予・讃岐の大方の国人は大内氏に従い、争いもおさまった。 しかし、天文のころから、大内氏に対抗する豊後大友氏の台頭、大内氏滅亡後の毛利氏の勢力拡大などによって、比較的平穏であった、伊予国内の河野氏・宇都宮氏・西園寺氏三者の関係も微妙に変化していった。 三者の対立、同盟関係は、その後楯勢力の影響によって、二転三転した。 すなわち、大友氏が大内氏との対立で、河野・宇都宮が同盟を組むと、宇都宮氏と西園寺氏の対立に河野・大友氏は積極的に介入し、河野氏は宇都宮氏を後方支援し、大友氏は土佐一条氏との関係から西園寺氏を挟撃した。 大内氏滅亡後毛利氏が台頭してくると、河野氏は毛利氏を後楯に宇都宮・大友氏と対立、西園寺氏と与して宇都宮氏に攻撃を加えた。 その後、これらの対立は土佐国内を統一した長宗我部元親の進出によって、一本化されていった。 当初、一条氏を後押しして伊予への介入をはかっていた元親であったが、天正二年(1574)元親は一条氏を豊後に追放した。 翌年、大友宗隣の支援で帰国した一条軍と長宗我部軍が戦ったが、一条軍は壊滅的敗北をおった。 ・写真:湯築城址 長宗我部元親の侵攻 その後、元親は土佐の軍兵をもって、阿波・伊予に侵攻し、四国平定を目指した。 本格的な長宗我部軍の侵攻は次第に伊予国人を臣従させていった。 すなわち、天正九年(1581)七月、新居郡に権勢を誇った金子元宅が元親に款を通じ、同年高外木城主石川通清らの諸豪族も長宗我部氏に従うようになった。 これに対して河野氏は毛利氏に支援を要請し、西園寺氏ら伊予国人と結集して長宗我部軍に対した。 このため、一時長宗我部軍も撤兵を余儀なくされたが、ふたたび長宗我部軍の勢力は伊予に浸透し、天正十二年、西園寺氏をはじめ南伊予の諸将は降伏した。 さらに、毛利氏が豊臣秀吉に接近したことで、河野毛利の親善関係もくずれ、結果、孤立した河野氏は遂に長宗我部氏の軍門に降り、四国全土はほぼ長宗我部氏の支配下に入った。 以後、伊予国は長宗我部氏と秀吉・毛利との争奪地点になった。 翌天正十三年、秀吉の四国征伐が行われ、これに対し河野通直も湯築城に籠った。 六月、小早川隆景・吉川元長らは征討軍を率いて新居郡および越智郡に上陸した。 毛利勢は、まず長宗我部氏の勢力圏である新居・宇摩両郡を攻撃し、ついで河野氏を征討することになった。 隆景は新居郡における石川・金子両氏を破って西進し、越智郡に入った。 小早川隆景の軍は風早郡の堅城を抜き、通直の拠る温泉郡湯築城を包囲した。 隆景は城中の通直に書を送って降伏をすすめた。 これに対して通直は湯築城を開城、恭順を示し、秀吉に降った。 その後、通直は安芸竹原に移ったが、そこで病没し、河野氏は断絶した。 一方、四国征伐の功によって、伊予国の新居・周敷・桑村・越智・風早などの十四郡は小早川隆景に与えられた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。 わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。

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河野太郎の妻や息子の職業!幼少期からアトピー?病気の父親に移植も?

河野太郎 家系図

武家家伝_河野氏 河野氏 折敷に三文字 越智氏流 河野氏は、ニギハヤヒ命の後裔越智氏から出ている。 すなわち、文武天皇の時代に越智玉興が伊予大領となり、その弟玉澄が伊予国温泉郡(風早郡?)河野郷に住んで河野氏の祖になったという。 その真偽は詳らかではないが、かなり古くから河野郷に根差した土着の氏族であったことは間違いない。 天慶四年、藤原純友の乱に当たり、好方が純友を九州の博多に滅ぼして名を現わしている。 以来、伊予水軍の将として知られるようになったという。 河野氏が史上よくその名を現わすようになるのは、平安末期から鎌倉期である。 治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵するや、それに呼応して、河野通清・通信父子が風早郡高縄山に兵を挙げた。 そして、通信は源義経に従って平氏討滅の戦で各地に戦功をあげ、河野氏はその恩賞として所領を安堵され、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職を与えられた。 義経の死後は頼朝に従い、大きな勢力基盤を形成するにいたった。 しかし、承久の乱に際して、後鳥羽上皇に与した通政と幕府方に属した通久との二家に分かれて争っている。 通政は、伊予高縄城で幕府軍を迎えたが攻め破られ、通久を除き、一族全ての所領を失った。 その後、蒙古襲来の時、弘安四年(1281)弘安の役で、水軍を率いて活躍した通久の孫通有は河野氏の旧領を回復し、ふたたび河野氏は伊予での勢力を取り戻した。 このころには、河野氏から分かれた得能氏・土居氏など一族が伊予国内に蟠居し、村上・来島氏らと瀬戸内水軍の覇を競うようになった。 元弘・建武の争乱には、宗家通朝は足利尊氏に属したが、一族の得能氏・土居氏は新田義貞と行動を共にし、一族が二派に分かれることになったのである。 そして、尊氏に従った通盛は伊予守護に補人されるまでに河野氏の勢力を拡大した。 この通盛のときに、本城は温泉郷の湯築城に移され、以後、戦国末期まで続く河野氏の本拠となった。 争乱の時代と河野氏 伊予国には最大勢力である河野氏のほかに、細川氏・宇都宮氏・西園寺氏、さらに大内氏や大友氏、戦国末期には長宗我部氏や毛利氏などの他国大名の介入などがあり、河野氏の安定した一国支配の時期はなかった。 たとえば、南北朝期には岩松氏、室町時代には細川氏らに、若干の時期とって代わられることもあった。 このような、多少の興亡と紆余曲折を経ながらも守護職を世襲している。 その間、文和三年(1354)には周防の守護職も得たこともあったが、すぐに大内氏にとって代わられている。 とはいえ、河野氏が伊予を領国とする守護大名に成長していったことが知られる。 しかし、東伊予には細川氏の支配が入り、つねに細川氏と対立関係におかれた河野氏は東伊予で不安定な状況を作り出した。 さらに、細川・河野両家の対立のなか、宇摩・新居二郡の支配権を細川氏代官であった石川氏が独自に確立したりした。 しかし、石川氏はその被官の金子氏に取って替わられ、金子氏は河野氏下の村上城に援助を求めるといった状況も呈した。 応仁の乱では、伊予国内でもその勢力は二分され、河野宗家は細川氏との対立から河野氏は山名方の西軍に属し、一族で新居郡高外木城主の河野通春などは細川方に属し、河野家内でも内紛が生じた。 応仁・文明の乱の鎮静化により、国人諸氏の対立も静まると、今度は細川氏の内訌が始まった。 そんな時期、伊予国内は比較的安定をみせ、大内義興の上洛時には、伊予・讃岐の大方の国人は大内氏に従い、争いもおさまった。 しかし、天文のころから、大内氏に対抗する豊後大友氏の台頭、大内氏滅亡後の毛利氏の勢力拡大などによって、比較的平穏であった、伊予国内の河野氏・宇都宮氏・西園寺氏三者の関係も微妙に変化していった。 三者の対立、同盟関係は、その後楯勢力の影響によって、二転三転した。 すなわち、大友氏が大内氏との対立で、河野・宇都宮が同盟を組むと、宇都宮氏と西園寺氏の対立に河野・大友氏は積極的に介入し、河野氏は宇都宮氏を後方支援し、大友氏は土佐一条氏との関係から西園寺氏を挟撃した。 大内氏滅亡後毛利氏が台頭してくると、河野氏は毛利氏を後楯に宇都宮・大友氏と対立、西園寺氏と与して宇都宮氏に攻撃を加えた。 その後、これらの対立は土佐国内を統一した長宗我部元親の進出によって、一本化されていった。 当初、一条氏を後押しして伊予への介入をはかっていた元親であったが、天正二年(1574)元親は一条氏を豊後に追放した。 翌年、大友宗隣の支援で帰国した一条軍と長宗我部軍が戦ったが、一条軍は壊滅的敗北をおった。 ・写真:湯築城址 長宗我部元親の侵攻 その後、元親は土佐の軍兵をもって、阿波・伊予に侵攻し、四国平定を目指した。 本格的な長宗我部軍の侵攻は次第に伊予国人を臣従させていった。 すなわち、天正九年(1581)七月、新居郡に権勢を誇った金子元宅が元親に款を通じ、同年高外木城主石川通清らの諸豪族も長宗我部氏に従うようになった。 これに対して河野氏は毛利氏に支援を要請し、西園寺氏ら伊予国人と結集して長宗我部軍に対した。 このため、一時長宗我部軍も撤兵を余儀なくされたが、ふたたび長宗我部軍の勢力は伊予に浸透し、天正十二年、西園寺氏をはじめ南伊予の諸将は降伏した。 さらに、毛利氏が豊臣秀吉に接近したことで、河野毛利の親善関係もくずれ、結果、孤立した河野氏は遂に長宗我部氏の軍門に降り、四国全土はほぼ長宗我部氏の支配下に入った。 以後、伊予国は長宗我部氏と秀吉・毛利との争奪地点になった。 翌天正十三年、秀吉の四国征伐が行われ、これに対し河野通直も湯築城に籠った。 六月、小早川隆景・吉川元長らは征討軍を率いて新居郡および越智郡に上陸した。 毛利勢は、まず長宗我部氏の勢力圏である新居・宇摩両郡を攻撃し、ついで河野氏を征討することになった。 隆景は新居郡における石川・金子両氏を破って西進し、越智郡に入った。 小早川隆景の軍は風早郡の堅城を抜き、通直の拠る温泉郡湯築城を包囲した。 隆景は城中の通直に書を送って降伏をすすめた。 これに対して通直は湯築城を開城、恭順を示し、秀吉に降った。 その後、通直は安芸竹原に移ったが、そこで病没し、河野氏は断絶した。 一方、四国征伐の功によって、伊予国の新居・周敷・桑村・越智・風早などの十四郡は小早川隆景に与えられた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。 わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。

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