大隈 重信 政党。 大隈重信とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や人物像、功績についても紹介】

大隈重信もガックリ?初の政党内閣が失敗した理由

大隈 重信 政党

スポンサーリンク 隈板内閣の内務大臣は この内閣で大隈重信さんは内閣総理大臣と外務大臣を兼務することとなりました。 この内閣で内務大臣を担当した人物は板垣退助さんでした。 憲政党が誕生する以前に存在していた大きな政党である自由党の党首だったかたです。 第3次伊藤内閣が発足した後伊藤博文さんは自由党ともう一つの大きな政党進歩党、両党と連携し政権運営しようとしていました。 しかし自由党の板垣退助さんと当時の進歩党のリーダーだった大隈重信さん、両者とも政権との連携の条件として内務大臣就任を要求したのだそうです。 伊藤首相はこの両者からの要望に応じられず、結局どちらの政党とも連携できなくなってしまったという出来事がかつてありました。 内務大臣という立場は政党の人間にとってそれくらい魅力的だったようです。 内務大臣の担当職務は警察行政、地方行政、公共事業、保健衛生行政をはじめとした広範な分野に渡っていました。 内閣の中でもとくに重要な大臣職と見なされていたのだそうです。 スポンサーリンク 日本初の政党内閣のその後 実は日本で最初となった憲政党を基盤とする隈板内閣(第1次大隈内閣)ですが、短期間で倒れてしまう、退陣してしまうこととなります。 おまけにせっかく自由党と進歩党が合同して誕生した憲政党も分裂してしまうこととなりました。 衆議院で大きな勢力を持っていたはずの政党内閣はあっけなく終わってしまい、次に発足したのは元老(明治天皇の重臣)、山県有朋さんが率いる政党とは関係のない内閣となります。 隈板内閣が行き詰る理由は 憲政党内での争いが絶えなかったことが理由のようです。 「共和演説事件」という出来事はその党内での争いの代表的な出来事の一つでした。 後に「憲政の神様」と呼ばれることとなる尾崎行雄(おざきゆきお)さんはこの内閣で文部大臣を担当していましたが、彼の発言内容が様々な方面から攻撃される結果となり文部大臣を辞任することとなってしまったのです。 彼はもし日本に皇室制度が無く共和制であれば三井や三菱のような財力のある勢力から大統領が誕生するであろうという内容の発言をしました。 発言目的は金権政治を批判することにありました。 当時の日本で天皇の立場は明治憲法にもあるように「神聖にして侵すべからず」、神聖不可侵な存在でした。 そのような存在に関し仮の話とことわったうえでの発言であっても、天皇がいなければという状況設定はとんでもなく不敬であるということで批判されたようです。 しかし尾崎さんが文部大臣を辞めたあと、憲政党内部では旧自由党勢力と旧進歩党勢力の間で文部大臣職を激しく奪い合い、対立が深まってしまいました。 こうしたいきさつもあり憲政党は早々に分裂してしまいます。 隈板内閣も倒れてしまいました。 スポンサーリンク 今回は隈板内閣(第一次大隈内閣)を取りあげてみました。 第3次伊藤博文内閣の次の内閣ですし、日本初の政党内閣という特徴もある政権ですからどんなことをした政権なのだろうと思って調べてみました。 しかし短期間で終わってしまう政権なのでこれといった政策の実現は無かったようです。 派閥争いが激化して基盤の政党が分裂してしまい内閣がもたなくなってしまうという結果になりました。 せめて政権を担当している間は各派閥とも自重して・・・、といった配慮は無かったようですね。 尾崎行雄さんは当時進歩党系の議員という経歴で大臣に就任していましたが、共和演説後憲政党の旧自由党勢力からも強く批判されたそうです。 同じ政党の議員でしたらかばうのが普通のように思いますが。 こういったことが積み重なって「一緒にやってられない!」ということになってしまうのでしょうね。 大きな政治勢力を維持する場合このような派閥抗争を乗り越えていくには一体何が必要なのでしょうね。 分裂ばかりしていては安定した政治勢力が育ちませんよね。 憲政党は旧自由党系の勢力が「憲政党」の名前を引き続き使用し、旧進歩党系の勢力は憲政党の名前を使用できなくなってしまったため「憲政本党」という名称の政党になりました。 旧自由党系と旧進歩党系のどちらが憲政党の名前を引き継ぐかという件でもトラブルがあったそうです。 当時の一般国民からすると、しらける話だったかもしれません。 今回の記事は以上となります。 最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 ご了承ください。 大隈重信関連記事「第2次大隈内閣で与党だった立憲同志会とは?初代党首についても」はです。 大隈重信関連記事「明治十四年の政変とは?発生理由や下野した一部の人について」はです。

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【大隈重信】生涯年表と経歴をカンタン解説!どんな功績を残したの?

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大隈重信による大学教育への思い 大隈重信と言えば、早稲田大学の創設者としても有名であります。 早稲田大学は、慶應義塾大学や同志社大学などの私立大学と同様に、明治時代に創設されました。 現在も難関私立大学として、多くの高校生が憧れる大学でもあります。 そもそも、この早稲田大学の前身となる東京専門学校は、学の独立・自由精神の育成という2つのスローガンを掲げた上で設立されました。 なぜ、大隈重信は政治家であるにも関わらず、明治時代の教育に携わったかというと、大隈重信自身が、日本を近代化させて先進国の仲間入りを果たすためには、新しい世代への教育が必要不可欠であると考えていたからです。 大隈重信は、佐賀藩出身でしたが、当時の中央政府に影響を与えたのは、江戸幕府倒幕に大きく貢献した薩摩藩・長州藩の人物中心でした。 この状況が続けば、後々日本全体を動かす人々が、特定の出身地の人々のみに依存する可能性があったので、薩摩藩・長州藩以外の出身であった大隈重信は教育を重要視していたのです。 大隈重信と政党内閣 大隈重信は、外務大臣としての経歴を経て、1898年に内閣総理大臣に就任しました。 今回は2回の就任期間の中でも特に1回目の政権運営に焦点を当てようと思います。 第一次大隈重信内閣は、これまでの内閣とは全く異なる特徴を持ち合わせていました。 それは、出身が薩摩藩・長州藩以外から選ばれた初めての内閣総理大臣であり、日本で初めて政党内閣を組閣したという特徴です。 そもそも政党内閣とは、両院制を構成している衆議院によって多数を占めた政党、または連立した政党を軸にして成立している内閣のことを指します。 現在では、当たり前のようにこの状況にて政治が運営されていますが、当時は画期的なことでした。 大隈重信は、板垣退助たちと憲政党という政党を結成することによって、この政党内閣を構築することに成功しました。 また、第二次大隈重信内閣は、第一次世界大戦と時期が重複していて難しい時期に政治運営を行っていました。 そのような状況の中で、袁世凱率いる中国に対して、二十一箇条の要求を強要するなどの政治的遺産を遺すことに成功しました。 大隈重信の字に関するエピソード 現代において、大隈重信の直筆の書物は2点しか残されていません。 なぜ、これほど大隈重信の字によって書かれた書物が少ないのでしょうか? それは、大隈重信の性格である負けず嫌いが大きく影響していました。 大隈重信には、学生時代に字を書くことが上手な友達がいました。 その友達には、努力しても字の上手さで勝ることができませんでした。 このことに対して、大隈重信は良く思っていなくて、字を書かなければその友達に負けることは無いと考えるようになり、字を書くことを止めました。 それ以降、勉強はひたすら自分の記憶を頼りにするようになったそうです。 本を出版する時でさえ口頭で自分の考えた文章を伝えたうえで、誰かに書かせていたと言われています。 このエピソードを知ってから、もし、学生時代にその友達に字で負けていなければ、もっと多くの直筆の書物が残されていたのではないかと、個人的には思っています。 まとめ 大隈重信は、政治と教育という2つの方面から日本を支えた人物でした。 この2つのことを上手く両立することができたのは、もしかしたら大隈重信の性格である負けず嫌いが影響しているのかもしれませんね。

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大隈重信とは?足や早稲田大学、子孫や名言について解説!

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《大隈重信》 『引用元より』 1838年2月16日、大隈重信・誕生。 幼名「八太郎」。 父「大隈信保」、母「三井子」。 1844年、藩校「弘道館」へ入学。 1854年、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な書籍「葉隠」を使った「儒教」の教育に反発し、教育改革を訴える 1855年、弘道館を退学。 そのころから「尊王思想」に目覚め、副島種臣や江藤新平とともに「義祭同盟」へ参加。 1856年、佐賀藩が設置した「蘭学寮」へ入学。 1861年、肥前佐賀藩主「鍋島直正」に対して、オランダ憲法を講義する。 その後、退学した「弘道館」と「蘭学寮」が合併。 合併した「弘道館」で「蘭学の教授」として教育を行うようになる 1865年、長崎にあった佐賀藩の英学塾「致遠館」で、校長「」のもと、副島種臣とともに「教頭」として生徒の指導を行う。 その時「フルベッキ」から英語を学ぶ。 1867年、最期の将軍「」に対して「」をすすめるために佐賀藩を脱藩。 しかし途中でつかまり、佐賀藩へ無理やり帰国させられる。 1か月の謹慎処分 1868年(明治元年)、「」「」「」により「」が成立する 1869年、微士参与職と「外国事務局」の判事に就任。 同年、「三枝綾子」と再婚する。 1870年、「参議」に就任。 参議とは「」や「」「」らが務めていた、明治政府の最高意思決定機関。 1872年、伊藤博文と協力して「富岡製糸場」を設立 1873年5月、大蔵省「事務総裁」に就任。 同年6月、「」の政府内対立が原因で、「西郷隆盛」「江藤新平」「副島種臣」らが政府を下野(辞職)した() 同年10月、「参議」と「大蔵卿」を兼務。 1874年2月、「」が勃発。 盟友である「江藤新平」や「島義勇」らが亡くなる。 この時、大隈は妻の「綾子」とともに、江藤新平の息子「江藤新作」を引き取って、育てることとなる。 1877年2月、「」勃発。 同年9月、「西郷隆盛」戦死。 西南戦争が終結。 1878年5月、「」により「大久保利通」が暗殺される 1881年、正確な統計が必要であると考え、「統計院」を設置。 大隈は初代院長に就任。 同年10月21日、失策が原因で「参議」をクビになる。 (明治十四年の政変) 1882年3月、「立憲改進党」を結成 同年10月、「東京専門学校(早稲田大学)」を創設。 1884年、「立憲改進党」を離党 1888年2月、「」内閣で「外務大臣」に就任。 同年、「」内閣で、外務大臣に留任。 1889年10月18日、「来島恒喜」による爆弾テロで、右足を切断(大隈重信遭難事件) 1896年、第二次「松方正義」内閣で、「外務大臣」に就任。 (松隈内閣・しょうわいないかく) 1897年、外務大臣を辞職 1898年6月、「板垣退助」たちと協力して「憲政党」を結成。 同年6月30日、薩長藩閥以外で、初めての「内閣総理大臣」を拝命する。 そして日本初の「政党内閣」を組閣。 協力者である「板垣退助」の名前をとって「隈板内閣(わいはん内閣)」と呼ばれる 同年11月8日、「第一次大隈重信内閣」総辞職。 党内の亀裂や、外交の失敗が「総辞職」の原因。 大隈は「憲政本党」を率いることになる。 1907年、政界を引退し、「早稲田大学」の初代総長に就任。 「第一次護憲運動」が起こるとともに、政界へ復帰。 1914年、汚職事件「シーメンス事件」により「内閣」が辞職。 大隈重信がこの後をうけて「第2次大隈内閣」を組閣。 1916年7月、「第一次世界大戦」勃発、 同年8月23日、「日英同盟」を理由に、日本がドイツに対して宣戦布告。 「第一次世界大戦」に参戦。 1917年1月、チャイナに対して「対華21ヶ条要求」を提出。 1916年7月14日、貴族院議員に就任。 1916年10月、第二次大隈重信内閣が総辞職。 これにより「大隈重信」は、政界から完全に引退することとなる。 1922年(大正11年)1月10日、早稲田の自宅で死去。 享年85歳。 死因は「胆石症」 同年1月17日、「日比谷公園」で「国民葬」がおこなわれました。 約30万人の一般市民が参列し、3週間後に行われた「国軍の父」こと長州藩の「」の参列者がまばらな葬儀と比べても、大隈重信には相当な人気があったことがうかがえる結果となりました。 墓所は二か所。 故郷である佐賀の「龍泰寺」。 もう一つが東京都文京区の「護国寺」。 日本で最初に「政党内閣」を組閣したのは大隈重信です。 「政党内閣」、つまり選挙で選ばれた政党の議員が、内閣の閣僚となるのは、今では当たり前のことですが、当時としては画期的でした。 今では「選挙で選ばれた第一党の議員から、政府が誕生する」というのが当然ですが、当時は、「選挙で選ばれた第一党」とは別に「政府」が存在していたため、民意が十分に反映されていなかったのです。 そこから「政党内閣」を誕生させたのが「大隈重信」というわけです。 そして大隈重信といえば「早稲田大学」の創設者。 実は大隈重信、犬猿の仲だった「慶応義塾大学」の創設者「福沢諭吉」から「学校の創設」をすすめられて、早稲田大学をつくったのだそうです。 政治家「大隈重信」と、教育者であり批評家でもあった「福沢諭吉」は、とても仲が悪かったのですが、酒の席で顔を合わせて意気投合。 それ以後はとても仲の良い間柄となったそうです。 大隈重信最大の功績は、この名門「早稲田大学」を創設したことではないでしょうか。 創設から100年以上。 今も優秀な人材を輩出し続けています。 『大隈重信』について「ひとこと」言いたい! 大隈重信・・・清廉潔白な「西郷隆盛」と仲が悪かったことで有名なお方です。 国民から圧倒的な人気を得て、「西南戦争」という反乱を起こしたにもかかわらず、わずか12年で汚名を返上して英雄扱いをされている「西郷隆盛」・・・。 大隈重信は、そんな西郷隆盛とは、真逆なところにいた人物でした。 なんといえばよいのか・・・・大隈重信は、「清廉潔白」というわけではなく、「清濁併せ? む」というか、短所も人並みにある「とても人間味のある好人物」だったのではないでしょうか。 西郷と同じく清廉潔白で、温和な教育者「福沢諭吉」は、もともとは大隈重信を批判していた人物でした。 しかし、大隈重信と顔を合わせてみると、その魅力に引き寄せられたのか、あっという間に意気投合して仲良くなってしまいました。 当時、大隈重信と付き合いがあった「」は、大隈重信について、こんなことを言っています。 「大隈さんと会った時に、こんなことを言われた 『君も私も書生として勉強中なのだから、仕事も書生のように仲良く愉快にやろうじゃないか』 それを聞いたときに、ふと肩の力が抜けて、愉快な気持ちになったものだよ」 大隈重信・・・確かに失敗も多い人でした。 爆弾で吹っ飛ばされた「足」を「ホルマリン漬け」にして、お客様に見せていたなんてエピソードもある、すごい人です。 しかし、それでも死後30万人もの人に見送られたのは、その人間味あふれる魅力があったからこそでしょう。 西郷隆盛や福沢諭吉とは異なった種類の魅力を持つ、とても人情味にあふれた人物だったのではないでしょうか。 まとめ 本日の記事をまとめますと• 大隈重信とは、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる元「内閣総理大臣」• 大隈重信は、「内閣総理大臣」を2度、「外務大臣」を5度も務めた大政治家• 「自由民権運動」「政党内閣」「早稲田大学を創設」など、明治中期頃から、日本に大きく貢献している 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました 「大隈重信」関連記事 よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。 これらの記事でも「大隈重信」や関連人物の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。

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