スクール ウォーズ モデル。 大阪の体罰顧問は『スクール☆ウォーズ』モデル教師の娘婿|NEWSポストセブン

スクールウォーズ実話モデルについて!イソップも実在!名言も凄かった!

スクール ウォーズ モデル

Contents• 53歳でこの世を去った『MR. ラグビー』平尾誠二 平尾誠二さんといえば、高校・大学・社会人の全てで頂点を極めただけでなく、海外留学の経験、そして、その柔軟な発想から日本ラグビー界に多くの革命をもたらしてきました。 それほどまでに日本ラグビー界に多くの影響を与えてきた人物であり、いわば 『日本ラグビー界躍進の立役者』でもあります。 そして、そんな経歴、そして華のあるルックスから多くの女性ラグビーファンからの人気もあるなど『Mr. ラグビー』の異名を持ち、ラグビーを知る人であればレジェンド的な存在。 残念ながら、53歳という若さで亡くなってしまいましたが、今でもその栄光は色褪せることはなく、多くのラグビーファンだけでなく、ラグビー界の外からも平尾誠二さんを尊敬する人も多数。 スポーツ界に今も語り継がれる伏見工業高校の伝説とは? まずはじめに、平尾誠二さんについて語る前に、スポーツ界で今もなお語り継がれる、 『伏見工業伝説』について軽くご紹介しましょう。 伏見工業の伝説とは、校内暴力全盛の1970年代にその中でも『京都一悪の集まり』とされる『伏見工業』に教師として赴任した元ラグビー日本代表の山口良治さん。 生徒思いで、涙もろいことから『泣き虫先生』とも呼ばれました。 そんな学校の荒廃を立て直す為、学校の不良たちにラグビーを通じて更生させ、わずか7年で全国大会優勝を果たした奇跡のストーリー。 そして、以後、山口先生の率いる伏見工業ラグビー部は常勝軍団に生まれ変わり、長くラグビー界を牽引することになりました。 そして、そんな物語の立役者となったのが平尾誠二さんでもあります。 鳴り物入りで入学した平尾誠二 そして、伝説の伏見工業の全国優勝優勝から遡ること3年前。 伏見工業に高校に鳴り物入りで入学した平尾誠二さん。 その時にはすでに『平尾誠二』の名はラグビー界で知られていました。 山口先生と平尾誠二さんの出会いは毎年、10月10日に開かれていた京都ラグビー祭。 山口先生率いる伏見工と花園高の前座試合として行われた、平尾誠二さんの当時在籍していた陶化(とうか)中(現凌風中)と修学院中の試合。 そこで平尾誠二さんのプレーを見た山口先生は衝撃を受けました。 すぐに試合後その場で平尾誠二さんにコンタクトを試みた山口先生。 しかし、すでに同じ京都の名門である、花園高校に特待生で進学が決まっていた平尾誠二さん。 「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年間は勝てないやろう」 そんなことを感じていた山口先生は平尾誠二さんをスカウトしたい。 そんな一心で、平尾誠二さんの自宅を調べ、足を運んだそうです。 しかし、当時の伏見工業はまだまだワルの集まりで荒れており、到底親御さんは良い顔をしなかったそう。 しかし、 『日本一になろう。 必ず、日本代表に育ててやる』そんな熱い言葉で口説かれ、心を打たれた平尾誠二さんは、急遽伏見工業に進学先を変更することになりました。 精いっぱい夢を訴えかけた。 できる限りのことはしたつもりだった。 帰り際、両親に深々と頭を下げ、ふと平尾の自宅を振り返る。 そこまでしても山口は「無理やろうな…」と心の中で寂しい思いを抱いていた。 年が明け、京都にも公立高校の入試の時期が迫っていた。 職員室に次々と出願書類が届く。 あのバンビの目をした陶化中のSOは、花園高に行くものだと信じて疑わなかった。 だが、その1通に「平尾誠二」の願書は、あった。 「平尾が伏見を受けてくれる! あの平尾が…」 目から涙がこぼれた。 それと同時に「これで、本気で全国を狙える」と熱いものがこみ上げてきた。 高校1年時から頭角を表しチームを牽引 わずか3年前に0-112で花園高に大敗したチームは、強豪へと生まれ変わりつつあった。 そして、そこに鳴り物入りで入部した平尾誠二さん。 「平尾は1年生からチームの中心で使った。 あの子を抜いたゲームは考えられなかった」 のちに山口先生はこう語るほど、その才能はずば抜けていました。 1年生ながらレギュラーをつかみ、臨んだ全国大会の切符をかけた京都予選決勝。 しかし、伏見工業は6-12で花園高に敗れ惜しくも全国大会の切符の逃しました。 あまりの悔しさにに、帰り道の天神川に架かる橋から手に持っていた準優勝トロフィーを投げ捨てた。 そんなエピソードまであります。 高校2年時で花園初出場しチームの躍進に大貢献 そして、1979年の平尾誠二さんが2年生の時に、ついに伏見工業は念願の花園初出場を果たします。 準々決勝で国学院久我山に敗れはしたが、初出場で8強に進出。 平尾誠二の名は全国に名を轟かせることに。 高校3年時には伏見工業を初の全国優勝に導く そして、1980年3年生のときにはついに、悲願の伏見工業高校の全国制覇を達成。 その決勝戦の内容も壮絶。 危なげなく勝ち進んでいった伏見工業ですが、1月3日の準々決勝、秋田工戦(16-10)で想像もしていなかったアクシデントが起きました。 タックルに入った際、主将の平尾誠二さんが左太ももの筋を断裂。 普通なら試合どころか、立つことすらままならない重傷だった。 それでも山口先生は、平尾誠二さんを外しませんでした。 しかし、試合は同点で進み、同高優勝かと思われた後半ロスタイムに見事逆転。 伏見工7-3大阪工大高で破り、初優勝。 山口先生が赴任してからわずか6年。 平尾誠二さんを中心とする伏見工業が、花園出場わずか2度目で初優勝という快挙を遂げました。 奇跡とも言えるそのストーリーの立役者となった平尾誠二さん。 まさに平尾誠二さんを抜きに伏見工業の伝説について語ることはできないでしょう。 それにしても当時の高校生ってなんでこんなに大人びて見えるのでしょうね〜。 これが17歳そこらって信じられませんね… 笑 「強い打撲でね。 決勝の朝、ぬるま湯に漬からせてマッサージしてやった。 本当に祈りを込めた。 『何もしなくていい。 走らなくてもいい。 ああせい、こうせいと仲間に指示するだけでいいから、グラウンドに立ってくれ』と、平尾を送り出した」 平尾誠二は高校時代はワルだった? 伏見工業のラグビー部出身。 そんなイメージから平尾誠二さんも元ヤンキーだった? そんなイメージを持ってしまいがちですが、平尾誠二さんはラグビーで全国優勝したくて伏見工業に入学しただけで、平尾誠二さん自身はワルでもなく、むしろ優等生でした。 平尾誠二さんの入学から遡ること数年前。 不良の集まりだった伏見工業に山口先生が赴任。 そして、不良たちにラグビーを教え、更生させて行く中でその不良の先輩たちが、猛練習の末、1年で強豪花園高校を倒し、0から1を作りあげ、花園に初出場を果たし、いよいよこれから伏見工業が強くなる。 平尾誠二さんはそんなタイミングでの入学であり、いわゆる学校の転換期でその高校生活を過ごしました。 成績優秀だった平尾誠二さんから見れば、当時の伏見工業はラグビーが強くなく、山口先生と出会わなければ見向きもしなかった高校だったのでしょうね。 山口先生が不良たちをラグビーを通じて不良たちを更生させ、ラグビーの強豪に仕立て上げた。 そして、そんなところに平尾誠二という成績優秀でラグビー万能の大エースが入学し、伏見工業をラグビーの頂点に導いた。 そして、その結果、学校全体の雰囲気もよくなっていった。 そんな好循環ができていったのでしょうね。 スポンサーリンク 平尾誠二の伏見工業高校時代はスクールウォーズのモデルにもなった また、この伏見工業の伝説はドラマ『スクールウォーズ』のモデルにもなったことで有名。 平尾誠二さんも、このスクールウォーズのドラマにしっかりと登場しています。 平尾誠二のモデルとなった『平山誠』 平尾誠二さんは平山誠(ひらやま まこと)。 という名前の役で登場。 そのままですねw 俳優の四方堂亘さんが演じ、ラグビー部のキャプテンでエースという役で登場。 女子生徒から「ファンクラブ」的存在もできるほど女性人気もすごく、賢治からは「森田、大木に比べおとなしすぎる」と評されていたが、実際は国体と全国大会で優勝という、川浜ラグビー部の黄金期を築いた優秀なキャプテンでもありました。 平尾誠二さんといえば、高校時代からその甘いマスクでも有名。 まさに、その実力やルックスまでほぼ忠実に再現されています。 城南工大高の曽根にライバル意識を持つラグビー部のエース。 少々独りよがりなところがあり、練習やプレーに集中したいからと主将になることを一度は辞退するものの、後に先輩らに説得されて引き受けた。 当初は後輩の八木に嫉妬するなどキャプテンとして明らかに問題のある言動も見られたが、その後は主将としての自覚を持ち、チームを引っ張っていった。 wikipediaより引用 実際の平尾誠二と平山誠を比較 こちらがスクールウォーズの平山誠と実際の平尾誠二さんの比較。 体格といい、その爽やかなイケメンマスクまで、かなり忠実ですね〜。 また、実際のスクールウォーズの物語でも、平山誠が登場するのは26話あるうちの後半部分。 その時には 先輩である元々悪かった三年生達によるOPや序盤でよく見られたバイクを校内で乗り回したり、ガラスを割ったり、人を殴るなどの暴力行為。 そういった行為の問題は先輩である元々悪かった三年生が卒業した時点でほとんど片付いており、物語序盤にあったそういった描写はどんどんなくなっていきました。 そういう部分でもかなり忠実に再現されています。 スクールウォーズの優勝シーンは平尾誠二の3年次の優勝シーン.

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スクールウォーズはどこまで実話?モデルになった人やエピソードの真偽は?

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1971年にあった「伝説」のイングランド戦を経験した元日本代表FWの山口良治(よしはる、76)が、京都の伏見工高へ教諭として赴任。 当時は荒れた無名校だった。 屈辱的な滑り出しとなった。 しかし、「選手を見捨てるわけにはいかない。 『これが自分の子だったら……』とぶつかった」。 部員と山に登り、滝に打たれた。 寺で木魚をたたき、全員の音が一つに重なるまで繰り返した。 「信は力なり」 貫いたのは、日本代表で、大西鉄之祐監督から教わった精神。 監督に就いて5年後、80年度の第60回大会で念願が実を結ぶ。 前年度に続く2回目の出場。 決勝へ初めて駒を進めた。 ただ、山口は不安に駆られた。 大黒柱の司令塔・平尾誠二が足を負傷し、まともに走れる状態ではなかったからだ。

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「スクール☆ウォーズ」が再び蘇る!『伏見工業伝説』、小畑親子の夢。

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滝沢賢治の名言:お前らゼロか? ゼロの人間なのか? 何をやるのもいい加減にして、一生ゼロのまま終わるのか? それでいいのか? お前らそれでも男か? 悔しくないのか!! (第8回『愛すればこそ』より) ブルーレイボックスの発売が決定した熱血スポ根ドラマの金字塔「スクール・ウォーズ」。 今もなお熱烈な支持を集め続ける本シリーズの名ゼリフを振り返ってみた。 かつて全日本の名フランカーとして名を馳せた氏をモデルに、京都伏見工業高校ラグビー部が全国大会優勝を果たすまでをつづったの小説「落ちこぼれ軍団の奇跡」をドラマ化した本作。 1984年10月6日から1985年4月6日まで、TBS系にて毎週土曜21時に放映された本作は、校内暴力・学園荒廃が社会問題となっていた当時猛反響を呼び、続編となる「スクール・ウォーズ2」(1990~1991)が放送され、2004年には照英主演の映画『』が公開された。 そして、恩師・藤山()の「相手を信じ、待ち、許す」や、大木大助()、森田光男()、水原亮()、イソップこと奥寺浩()ら生徒たちの胸アツの名ゼリフの数々は30年以上経っても色あせない。 (編集部・石井百合子) [PR] 元オールジャパン監督・大北達之助の名言(回想シーン):ラグビーにおいて最も基本的な心がまえは、「one for all、all for one」。 一人一人がチームのために己を捨て、各々の責任を全うしてこそ初めて勝利がうまれてくる。 そのために最も必要なものは勇気である。 その勇気の源は使命感であり、仲間への連帯感。 使命感と仲間を信じる心から奇跡は生まれてくるのだ(第1回『それは涙で始まった』より) 森田光男の名言:制服は嫌いだけどさ、先生だけは信じられる。 俺、なんとか耐え抜いてみせる。 勇気を出すのに金はかかんねぇもん(第3回『謎の美少女』より) イソップの名言:毎朝海から昇る太陽をみているうちに思いついたんです。 僕らもこの太陽のように真っ赤に燃えて昇っていきたいと思って(第10回『燃える太陽』より) [PR] 滝沢賢治の名言:俺たちを裏切るのはかまわんが、お前は、お前は自分を自分で裏切ろうとしているんだ(第11回『死と友情と』より) 滝沢賢治の名言:人間は誰でも死ぬんだ。 残された時間を燃焼しろ。 そこにお前の命の輝きがあるんだ(第12回『愛は死線を越えて』より) 滝沢賢治の名言:俺はたとえお前の中間テストの点が悪くて、ラグビー部の一つや二つ潰れたところで一向に構わん。 俺たちはな、一人のお前が大事なんだ。 これまで一緒にボールを追ってきたお前がな(第16回『学校とはなんだ』より) [PR] 滝沢賢治の名言:お母さんの手術代を出してくださったのは名村さんだ。 名村さんは十分苦しまれた。 その名村さんを殴れば、試合が終わった相手を殴るのと同じだ。 大木、もうノーサイドにしろ(第20回『我ら花園に立つ』より) 滝沢賢治の名言:ラグビーは人生そのものだ。 ボールに対する執着心が勝利を呼ぶように、最後まであきらめない執着心が人生には必要なんだ(第22回『勝ってから泣け』より) の名言:確実にミスしない方法が一つだけあります。 何もしないことです。 でもそれは死んでるのと同じことです。 生きてて何かすればミスをするのは当たりまえです。 人間には失敗する権利があります。

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