プロンプター 安倍。 安部総理大臣・首相会見の横にあるガラスはプロンプター!使用方法や置く意味は?|まるっとログ

プロンプター (電気機器)

プロンプター 安倍

よくある質問• スピーチ原稿を透明なアクリル板に写しだし、聴衆の方を向かって話すことができるものです。 聴衆の方を向いてスピーチすることで、説得力あるスピーチが可能になることです。 手元に原稿を置いてスピーチした場合、話の途中で何度も下を向くことになります。 プロンプターがあれば目の前の透明なアクリル板に文字が写されるので、下を向くことがありません。 最大の特徴は、「安心感」であると考えております。 弊社は、20年以上前からプロンプター業務に関わっており、自分たちもプロンプターを使って仕事をしていました。 その現場での経験を反映して、現在のPrompter Proは製造されております。 例えば、プロンプターのハード部分である「透明なアクリル板」部分を、他社は「ガラス」で作っております。 株主総会当日に運んでいたら落として割れてしまった、、、こんなことがないよう、安全性に配慮してアクリル板で作っています。 またソフトについて、「カード方式」という機能を搭載しております。 一般的なプロンプターソフトの動きは映画の字幕のように下から上に原稿があがっていきますが、「カード方式」は1枚1枚のスライドをめくるように操作が可能です。 この為、スピーカーの方の当日の話す速度に合わせて、原稿を1枚1枚めくって進めていくことが可能です。 メール、お電話頂ければ担当者が回答させて頂きますのでご安心ください。 可能であれば、デモにご来社頂き実際に操作しながら説明させて頂くことをおススメしております。 また、実際の原稿入力や株主総会当日のオペレーションが不安な方は、 をご案内しております。 はい、可能です。 弊社にお越し頂ければデモをさせて頂きます。 遠方でお越し頂くことが困難な場合はデモ機を送付させて頂きますので、お気軽にご相談ください。

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【プロンプター】緊急事態宣言の発令を受けて安倍首相が記者会見を実施⇒プロンプターが目立ちすぎてしまう

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文字を表示する画面が透明なだけではなく、しゃべっている本人の存在感まで薄れてしまう気がしてならない。 その代表格が安倍晋三首相だろう。 とんでもなく「便利」な道具だ。 まだ日本にあまり普及していなかった時期に、早々と導入したNHKで、試用させてもらって驚いた。 「こんなの、ずるい(楽すぎる)」。 想像を超えた使い勝手だった。 ディスプレーに原稿がデカデカと表示されるから、アナウンサーはただ声に出して読めば済む。 「まるで視力検査じゃないか」。 読み間違いを防ぐのはもちろん、ニュースの中身をしっかり頭に入れるために原稿を精読するという、アナウンサーの基本すら揺らぎかねないほどのお手軽感だった。 プロンプターとは、もともと演劇の舞台脇からささやき声で役者にせりふを教える係を意味していた。 テレビの世界では同じような役目を果たすのが「カンニングペーパー」、略して「カンペ」だ。 カメラがとらえている出演者に向けて、大きめの画用紙に手書きした指示を見せる。 出演者は指示に従って、質問を発したり、話をまとめたりする。 プロンプターとカンペに共通しているのは、主体性の薄さだ。 操り人形とまでは言えないだろうが、誰かの振り付けに従っているという、頼りなさが否めない。 その「借り物感」は不思議と言葉の響きにもにじむ。 どうも言葉が響いてこないのだ。 国会答弁では大臣の周りに官僚が陣取って、答え方に戸惑う窮地の大臣に、スッとメモを差し込む。 渡りに船といった感じで、答弁を始める大臣だが、しゃべる中身は役人の言葉だから、大臣本人の当事者意識を感じにくい。 上っ面の形式的物言いが質問者をかえって怒らせることも珍しくない。 これも一種のカンペだろう。 安倍首相の記者会見には、歴代首相と比べて、「言わされ感」が強い。 官僚の作文を、プロンプター経由で読み上げるような役割を果たしている「読み屋」のような印象を受けやすい。 持論の改憲論では、割とはっきりした口調で、声にも張りがあるから、やはり借り物の言葉には説得力が弱いと感じる。 小泉純一郎氏が首相だったころと比べれば、違いは歴然だ。 小泉氏の首相在任当時にはプロンプターは今ほどには多用されていなかったはずだ。 借り物の言葉ではない、小泉氏の演説は「劇場型政治」の台本となった。 「ワンフレーズ政治」の批判も浴びたが、今の安倍首相に舞台を躍らせる脚本家のイメージは薄い。 安倍首相の演説が響いてこない理由は、言葉に本人の「思い」が乗り移っていないからだろう。 批判を浴びたマスクも世帯別給付金案も、筋書きを書いたのは官僚とみえる。 やや平板な抑揚や字面をなぞるような発声も、「読まされている」という印象を与えがちだ。 たとえば、報道番組のキャスターが不祥事関連のニュースを伝えた後、「二度とあってはなりません」「憤りを禁じ得ません」といった、短い説教を言い添える、ありきたりのまとめ方も、「キャスター業らしいお約束」のにおいを帯びる。 人工知能(AI)が普及して、真っ先に不要となる仕事の一つにアナウンサーが挙げられていると聞くが、こういう仕事ぶりでは確かにパターン化しやすそうだ。 「役割語」というのは、話者の人物像を印象づける特定の言葉遣いのことで、博士が「わしは~じゃ」と名乗ったり、お嬢様が「ごめん遊ばせ」と言ったりするようなケースがあてはまる。 女性のせりふの語尾に「だわ」と添えるのも役割語的な使い方だ。 ステレオタイプな物言いになりがちで、言葉遣いからキャラクターや立場を逆に固定するような効果も果たしやすい。 プロンプターやカンペに頼る発語の態度も、一種の役割語的な振る舞いといえるかもしれない。 首相や大臣、経営者、キャスターなどがそれぞれの役割に応じて、「いかにも言いそうな言葉」を割り当てられている格好だ。 言い回しや語尾にとどまらず、意見そのものも用意されている点では丸ごと「せりふ」とも呼べるだろう。 振り付け係が腕利きならまだしも、そうでない場合は、先に挙げたキャスターの「ミニ説教」のように陳腐な小芝居が生まれる。 あらかじめ練り上げられた原稿を読み上げるような対応が多くなりやすい謝罪会見でも、一種の「様式美」とも映る既視感たっぷりのおわびシーンが繰り返される。 あまりにも型通りの場合、オリジナルな気持ちは伝わりにくくなる。 プロンプター&カンペ主義の欠点は、本来望ましい議論の深みに至りにくくなってしまうところにある。 「いかにも与党らしい答弁」対「いかにも野党らしい糾弾」は、型にはまっていて、構図や展開の意外感を欠く。 国会論戦が盛り上がりにくい理由は、与党と野党がどちらも一種の「役割語」に慣れすぎているからではないだろうか。 バーチャル(与党っぽい)対バーチャル(野党っぽい)の対立なのだから、真剣勝負の熱気をはらみようもない。 国民はあまりに見慣れた、国会内の永田町的「儀式」よりも、芸能人や著名経営者の率直な政治批判のほうに興味を覚えるようだ。 「芸能人が何を言う」といった批判は的外れもいいところだが、一般の匿名批判者のなかには「こういう批判を言っておけば、意識の高い識者っぽくみえそう」「とりあえずかみついて存在感を示さなきゃ」などの計算から、ポジション(立ち位置)を選んでいるような態度も透けてみえる。 自ら進んで「役割」を引き受ける態度とも映る。 役割語的な議論のまずい点は、本音が隠されてしまい、表面上の「ポジション取り合戦」に陥りやすいところだ。 上っ面の応酬がヒートアップして、揚げ足取りやあら探しが増え、論調がとげとげしくなりやすい。 正義感を振りかざす、不寛容な振る舞いも横行しがちだ。 企業内での会議でも、しばしば役割語的なやりとりが起きる。 議題と正面から向き合うのではなく、「ここは担当部長として一言、発しておかないと」といった役割意識に駆られて、部長らしい意見を述べてしまうことがあるだろう。 プロジェクトそのものの意義を検討する会議に、役割意識に基づく発言が混じり込むと、議論の方向性がねじ曲がりかねない。 「とにかくいったん冷や水を浴びせるのは、役職者の威厳を保つ」と思い込んでいる上席者がいると、せっかくの提案がつぶされてしまうことも起こり得る。 もっとまずいと思われるのは、役割語に身をゆだねてしまうと、自分の頭で考えるとか、フラットに発想するという思考が難しくなる点かもしれない。 プロンプターやカンペを読むような行為ともいえそうだが、原稿の読み上げと違って、本人には「借り物」の意識は薄い。 立場にふさわしい言葉を選んでいるだけだと、発語者当人は思い込んでいるからだ。 だが、「対面式会議」というリアル空間での儀式が減り、リモート環境下での会議が増えてくると、発言は絶対値で評価されやすくなる。 コロナ禍が呼び込んだテレワークとテレビ会議は、発言の中身がこれまで以上に重視されるきっかけになった。 反対に、役割意識に基づく発言は底浅さや形式主義が目立ちがちだ。 さらに、画面の平等な分割は、肩書の価値をぼかし、参加者の立場をフラット化する。 「読み上げ係」のようなアナウンサーがAIに仕事を奪われるリスクが現実味を帯びるのは、別の業界・職種でも、他人の不幸とばかりはいえないはずだ。 自分の頭で考え、自分らしい言葉を紡ぎ出そうとしない人は、どんな立場であっても、価値が目減りするおそれがある。 ちょっと目新しいマーケティング用語を取り入れて、トレンドの目利きを印象づけるような立ち回りも難しくなりそうだ。 中身が借り物だからだ。 プロンプターはよどみなく読み上げるというメリットに加え、発言者が原稿に目を落とさず、視線を上げて話しやすいという、ビジュアル面の利点が大きい。 政治家の場合、机上の原稿を読むときの見え具合は、小物感が出やすく、リーダーシップを欠く。 プロンプターは常に顔が前を向く見栄えになる点で、堂々としたイメージを出したがる政治家に好まれる。 だが、プロンプターは「声の力」を奪う。 人を動かしたり巻き込んだりするうえで、このデメリットは無視できない。 原稿を棒読みするリーダーには、「別の支配者・権力者が陰に存在する」という印象がつきまとう。 ビジネスの世界でプロンプターを使う機会はあまりなさそうだが、他人の考えを押し付けられるケースは珍しくない。 見えないプロンプターに囲まれているような状況ともいえる。 たかが道具ではある。 しかし、使い方を誤ると、見た目重視に偏り、言葉の力を損ねかねない。 新たなビジネスツールに昇格したテレビ会議やチャットツールは、ぜひともプロンプターやカンペとは異なる、言葉の力を強める使い方が広まってほしいものだ。 次回は2020年6月11日の予定です。 梶原しげる 1950年生まれ。 早稲田大学卒業後、文化放送のアナウンサーに。 92年からフリー。 司会業を中心に活躍中。 東京成徳大学客員教授(心理学修士)。 「日本語検定」審議委員。 著書に「すべらない敬語」「まずは『ドジな話』をしなさい」など。

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安倍晋三からプロンプター取り上げたらどうなるの

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プロンプターに目をやり原稿を読み上げる安倍首相(画像は首相官邸より) 新型コロナウイルスの感染者増加とそれへの対策が、国民生活に大きな影響を与えている今、 安倍晋三首相は、国民のためにも、自身の政権の安定的維持のためにも、「広報」のやり方を抜本的に考え直し、それに携わる人員も全面的に入れ替えた方がいいのではないか。 また、首相を取材する政治記者たちも、自分たちの存在する意味や取材のやり方を根本から問い直すべきではないか。 2月29日、新型コロナウイルス対策で安倍首相が初めて開いた記者会見に出席して、つくづくそう思った(記者会見については、 も参照)。 「国民が知りたいこと」より「自分が言いたいこと」 まず、安倍首相及び首相官邸の問題。 政府は(1)全国的なスポーツ・文化イベントの中止や延期の要請(2月26日)、(2)全国すべての小中高校の臨時休校の要請(27日)と、国民生活や経済・文化・スポーツなどに多大な負の影響を及ぼす大胆な対策を相次いで打ち出した。 いずれも、安倍首相自身による「政治決断」であると強調されている。 ただ、この問題に関する専門家会議では臨時休校については議論されておらず、多くの患者が出た中国のデータでも、肺炎を発症する子どもの患者は少なく、10歳未満では死者もいない。 安倍首相が、「政治決断」に踏み切った根拠はよくわからない。 また、準備をする時間もないまま休校を実施すると、小さな子どもを持つ親が仕事に出られなくなったり、給食の食材を納入している農家や業者が困ったり、学童保育のスタッフが足りなかったり、さまざまな問題やリスクが発生する。 このため、多くの人や自治体が不安を抱え、対応に追われ、混乱を来した。 すると、翌日になって、萩生田光一文科相が記者会見で「期間や実施の方法は学習の遅れなどが生じないように学校設置者で工夫をしてほしい」と柔軟な対応を求めるなど、方針の変更ともとれる発言をした。 また、イベントの中止についても、主催者や地域は大きな損失を抱える不安を抱いている。 にもかかわらず、決断をした安倍首相はなかなか国民に対して説明の機会を設けなかった。 29日にようやく記者会見を開いたが、19分にわたってスピーチを行った後の質疑では、記者からの質問は幹事社2社(朝日新聞、テレビ朝日)以外は、NHK、読売新聞、AP通信の3記者に限られた。 ほかに挙手をしている記者が何人もいるのに、会見を打ち切ってしまった。 私は「まだ質問があります」と声をあげたが、司会の長谷川榮一内閣広報官は「予定の時間を過ぎておりますので」とにべもなかった。 「首相動静」によれば、首相はこの後、私邸に帰っている。 他国の首脳との会見や晩さん会などの行事があったわけではなく、家に帰るだけなのだから、「時間」はたっぷりあったはずだ。 この国難に当たって、国民生活にも負の影響がある対策を実行するなら、十分意を尽くして説明する責務もある。 「黙って俺について来い」は独裁国家のやり方だ。 民主主義国家であるならば、どれだけ対応を急ぐ時でも、「かくかくしかじかなのでついてきてほしい」と、その根拠や理由、あるいは効果や見通しなどを、誠意を持って説明し、国民の協力を求めるのが筋だ。 それをできるだけ効果的に、効率よく行うのが、首相の広報対策であるべきだろう。 今回、私が「まだ質問があります」と声を上げた時に、安倍首相が司会者を制して、こう言ったらどうだろうか。 「わかりました。 今日は、国民の皆さんの疑問に答えるため、質問が尽きるまで受けましょう」 イベント中止や全国休校に必ずしも賛同していなくても、誠実に国民の不安や疑問に向き合う首相だと感じ、とりあえず信頼してついて行こうと思った人もいたのではないか。 おそらく内閣支持率は跳ね上がっただろう。 政府の対応を、できるだけ効果的に行うためにも、国民の協力は不可欠なのだから、普通に考えれば、このような対応をとるはずだ。 にもかかわらず、そうならなかったのは、ひと つは安倍首相自身が、「国民が知りたいこと」ではなく、「自分が言いたいこと」を言うのが広報であると勘違いしているからだ。 彼の情報発信はいつもそうである。 昨年11月、安倍首相はこの問題で、2回にわたり、立て続けにぶら下がり取材に応じた。 2回目は30問を超える質問に約20分間かけて答え、さらに「この点に関して質問ありますか」と促すサービスぶり。 「前夜の夕食会の費用は、安倍事務所の職員が1人5000円を集金してホテル名義の領収書を渡し、集金した現金はその場でホテル側に渡した。 事務所にも後援会にも、入出金は一切ない」という「言いたいこと」があったからだ。 しかしその後、オーナー商法で行政指導を受けたジャパンライフ元会長が招待されていた疑惑が持ち上がると、記者団がぶら下がり取材を申し込んでも、応じなかった。 「桜を見る会」は、公文書の取り扱いや首相の答弁の信頼性など、国政を巡る重要な問題をいくつも含んでいるとはいえ、国民生活と直結するわけではない。 多くの国民は、首相の説明に疑問を感じ、世論調査などでは「首相の説明は十分でない」と答えながらも、政権に背を向けるほどの反応はなかった。 首相も、いずれ国民はこの話題に飽きると思っていたかもしれない。 けれども、新型コロナを巡る対策は違う。 国民の生活、さらには日本経済の浮沈に直結する問題だ。 こうした危機的な状況にはなおのこと、内閣総理大臣が行うべき広報とは、「自分が言いたいこと」ではなく、(1)「国民が知りたいこと」を(2)「迅速に」伝えるものでなければならない。 今回、首相の対応は、どちらの要件も満たさなかった。 国民生活や経済に多大な負の影響を及ぼす判断をしながら、説明が遅れた。 メディアの「首相動静」によれば、全国一斉の臨時休校の要請をした日には、午後6時40分には官邸を出て、その後の来客もなく、翌日夜は作家の百田尚樹氏らと会食を行っている。

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