教師 いじめ。 神戸・教師いじめ暴力事件から新たな悲劇、担当職員「飛び降り自殺」の真相

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教師 いじめ

1、2019年神戸市教師カレーいじめ事件 冒頭でも記載した2019年の神戸市での教師によるカレーいじめ事件は、教師間いじめとして世間を震撼させた、公立小学校教師のいじめ問題です。 そのいじめの内容は、一人の若い男性教師に対し、先輩教師4人で無理やり激辛カレーを口に運んだり、その他被害教師が新車を購入した際には土足で屋根の上に登り嫌がらせをしたり、車内を荒らしたりと、数年にわたっていじめをしていたというものでした。 この神戸市での教師カレーいじめ事件を受けて、文部科学省で前年度の教師間いじめの実態を調査したところ、他にも全国で教師間でのいじめは定常化していたことが判明しました。 着任したばかりの新任教師を大声で何度も叱責したり、物を隠したり、送別会でグラスを投げつけ怪我を負わせたりなど、教師間のパワハラやいじめが多数報告されたのです。 2、珍しくない教師間のいじめ このように、教師間のいじめは珍しくなく、2018年の文部科学省の調査結果では、パワハラやいじめにより懲戒処分を受けた件数が32件にものぼることが判明しています。 発覚していないケースも多数あると想定されるでしょう。 また、教師が精神的な病を患って休職している数が、2007年以降継続して年間に5,000件前後で推移しています。 それら病の原因はいじめだけではありませんが、中にはいじめによるものもあった可能性も否定できません。 3、どうして「教師」なのにいじめるのか 教師がいじめる。 誰もがこのことに違和感を感じるのではないでしょうか。 その理由は、教師の職業柄、児童・生徒にいじめはいけないと教える立場であり、またいじめがあれば解決する立場であるからです。 そんな教師たちでありながら、なぜいじめをしてしまうのか。 以下で、その原因を考えていきます。 教師なのに、ではなく、教師だからこそ、がみえてくるかもしれません。 (1)ヒエラルキーの世界 教師の世界はヒエラルキー色が強い世界といえます。 役職における権限が明確であるため上下関係がつきやすく、そこから主従関係につながります。 他人間での形式的な主従関係は、ハラスメントの温床と言っても過言ではありません。 (2)「こうあるべき」が強い 教師とは、子どもたちに教えていく職業ですから、「こうあるべき」という思いの強い教師は多いもの。 後輩に対しても「こうでなければ教師ではない」「こうでなければ昇進は無理」というように、あるべき教師像を押し付けてしまうことも少なくないでしょう。 価値観が多様化する現代においてはこの発想を苦痛に感じる教師も多いでしょうが、年配教師の中には今もこのような考えを持つ人は多くいるものと思われます。 (3)必ずしも人格者ではない 実は、「教える」ことと「自分ができている」ことは、別の次元の話です。 そのため、素晴らしい人間像を道徳で教えることはできても、自分がそうかというとそうではない、というケースも往々にしてあります。 教員採用試験で人格者が採用されるわけでもありません。 教師だからといって人格者とは限らないのです。 4、教師間のいじめにあった場合の対応策 教師間のいじめにあった場合、どういった対応策があるのでしょうか。 (1)まずは理由を客観的に考えて いじめられた原因を客観的に考えてみましょう。 どんな事情があろうともいじめは加害者が悪いことは明白です。 ですが、いじめを解決するには、何が原因であったのかを置き去りにすることはできません。 そうすることで、対策が出てきます。 大きくは、• この原因の考察は、自分だけで正確に結論を出せるものではありません。 周囲への相談もし、できれば味方になってくれる人が1人でもいれば、心強くなることでしょう。 (2)ブレないこと いじめ対策において大切なのは、ブレないことです。 とはいえ、もともとブレないオーラ全開の方は、いじめられることはないのかもしれません。 ブレてしまうからこそ、加害者はいじめの手応えを感じてしまうのです。 ブレないためには、自分を信じることが大切ですが、性格や育ってきた環境によりこれをにわかにできない大人は多いと思います。 そんな方は、やはり「味方」を見つけることです。 人生において味方を見つけることは、ロールプレイングゲームの中で味方を見つけるような単純で簡単なことではありませんが、人間関係というのは自分の心の鏡でもあります。 あなたが真摯に、謙虚に信頼し、思いやりをもって接していれば、きっと相手も同じように思ってくれているはずです。 理解者に支えられることで、いじめやパワハラに屈しない気持ちになることができるでしょう。 (3)いじめの証拠を残す いじめはあってはならないことです。 とはいえ、いじめが発生している現場では、事なかれ主義もまだまだ横行しているかもしれません。 しかし適切な第三者に公表することにより、今の時代ならそのいじめは必ず叩かれることでしょう。 避けても避けても継続する、または関係上避けることができずどうしようもないときは、とにかく証拠を残しておくこと。 そうすることにより、その現場以外の人に訴えていくことができますから、必ず味方は現れます。 具体的には音声や画像などで残しておくこと。 今後必ず役立つでしょう。 5、行き過ぎたハラスメントの相談先 教師間で行き過ぎたハラスメントを受けている場合は、証拠をもって教育委員会に相談しましょう。 公立の学校なら異動ができますし、私立の学校なら転職も視野に入れることが大切です。 いじめやパワハラを我慢してまで働き続ける必要はありません。 あなたの理想に叶う現場がどこかにあるはずです。 もしも教育委員会に相談しても解決できないなら、警察に訴えることも視野に入れるべきです。 厚生労働省が推奨しているこちらの相談先の利用もご紹介いたします。 6、いじめに対しては損害補償を考えよう いじめにあうと、人は、相当な精神的苦痛を受けます。 人は、人との関係において生活しているからです。 大勢の人と関わって生きていても、たった1人からいじめを受けるだけで、人生が真っ黒に染まります。 人間とは、そんなものなのです。 この苦痛は、「人生の勉強になった」とプラスに取ることもできるかもしれませんが、できるならきちんと補償されるべきです。 「苦しみ」はお金に変えられるものではないかもしれませんが、あなたの苦痛が少しでも報われることを願います。 (1)公務災害として補償請求 教師間のいじめは職場である学校で行われているでしょうから、これにより精神的疾患などを負った場合は、公務災害として補償の請求ができる可能性があります。 なお、臨時職員や非常勤の場合は、公務災害ではなく労働災害として労災保険が適用されます。 いずれにせよ、なんらかの公的請求が可能ではありますが、精神的疾患の場合はいじめとの因果関係が問題となり得ますので認定されるかには注意が必要です。 (2)加害者や学校、市町村に対する損害賠償は弁護士へ相談を もし公的補償の対象外とされた場合でも、加害者の加害行為によって損害を受けたひとは、加害者に対し、その損害の賠償を請求することができます(民法709条、710条)。 加害者や学校、市町村に対する損害賠償請求を検討するなら弁護士に相談してください。 今証拠がなくても、まずは相談してみましょう。 上手に証拠を見つける手段もアドバイスしてもらえる可能性があります。 そして何よりも、弁護士が味方になり、精神的な支えになってくれるでしょう。 まとめ 教師間いじめは実は全国でも珍しくありません。 教師という職業だからこそいじめが発生するとも言えるわけです。 教師は子どもを導くことには一生懸命であっても、同僚や後輩、部下に対しても人格者であるのかどうかはまた別の話。 やはり「人間」なのです。 もしも教師間いじめでお悩みの場合には、理解者を見つけて支えてもらいましょう。 その上で証拠を取得し法的措置を取るべきです。 教育委員会や校長に相談しても埒があかない場合には、勇気を出して警察や弁護士に相談しましょう。 教師だからと我慢する必要はありません。 教師だからこそ、この異常事態を正していきましょう。 あなたがいじめのない環境で理想の教師として働けることを願います。 カテゴリー• 101• 153• 190• 129• 118• 135• 361•

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しかも、その証拠画像を撮影して送るよう指示したのだが、指示した送り先が、動画が拡散している「激辛カレー強要事件」の被害者で、最近兵庫県警に被害届を出した20代の男性教師だという。 「(証拠画像は)汚いからオレの携帯には送ってくんなよ」と命じて、被害教師の携帯に画像を送らせたらしい。 後輩教師に性行為を強要した男性教師は、いじめ行為を繰り返していたようだ。 被害教師が社会人になって初めて購入した新車の屋根に土足で立ったのもこの教師だ。 そのうえ、足でドアを閉めたり、車内にたばこの吸い殻が入ったペットボトルの水をこぼしたりしている。 また、女性教師にひどいあだ名をつけ、「お前、嫌いやん、マジで無理や」と暴言を吐いたり、プライベートや胸のサイズを執拗に尋ねたりもしている。 この加害教師の高校時代の同級生によれば、反抗してきそうもないクラスメイトに「ウンコまみれ」というあだ名をつけ、周囲にもそう呼ばせようとしていたという。 また、偏差値の低い私立大学に推薦入試で合格したクラスメイトが教室に入ってくると、「負け組が来たぞ」とつぶやいたこともあるらしい。 一連の報道が事実とすれば、この加害教師は、他人が困ったり苦しんだりする姿を見たいというサディスティックな欲望、そして他人が恥ずかしがったり嫌がったりすることを強要して自分の力を誇示したいという支配欲求が強そうだ。 しかも、サディスティックな欲望と支配欲求を満たすことに快感を覚え、いじめをやめられなくなっている可能性が高い。 低い自己肯定感 このようにいじめを繰り返す人は、虐待を繰り返す人と同様に、多くの場合自己肯定感が低い。 自己肯定感が低いと、自分より弱い者を攻撃して、自分のほうが優位に立っていると感じることによってしか、自らの存在価値を確認できないのだ。 自己肯定感が低いのは、さまざまな原因によるが、この加害教師の場合、学歴が影響しているように私には見える。 彼は高校時代「東大を目指す」と豪語していたようだが、二浪の末に入学したのは大阪教育大学だった。 国立大学を出て小学校教師になり、安定した収入を得ているのだから、それなりに恵まれた人生のように傍目には見えるが、本人としては不本意だったのかもしれない。 その結果、欲求不満がたまり、鬱憤晴らしのためにいじめを繰り返した可能性もある。

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神戸・教師いじめ暴力事件から新たな悲劇、担当職員「飛び降り自殺」の真相

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今回は非常に重いテーマについて話します。 いじめはいじめでも「教師間いじめ」です。 子どもたちのいじめを減らすべく、本来手を取り合っていくべきの教員同士がいじめて、いじめられているのがいまの現場なのです。 現場で苦しまれている先生方は、私の経験から少しでも何かヒントをつかんで、ちょっとでも楽になってくれたらうれしいです。 また、教師を志す未来の先生はこんな話を聞くと幻滅してしまうかもしれません。 しかし、教師間いじめを減らすことができるのも教師であること、そしてそれを上回る喜びと輝きにあふれているのもまた教育現場であることも分かってほしいのです。 いじめは人の集まるところ、これからもおよそ無くなることはないでしょう。 でも、いじめを少なくしていくことはみなさんの考え方次第でできると思うのです。 職員間いじめにこの先、実際あうかもしれません。 その時、自分だったらどう考え、行動していくか~を今から考えておくことは決して無駄なことではないでしょう。 「いじめ」についての認識を改める~これがスタート! 私は常勤、非常勤講師、教諭として公立私立、通信制高校、専門学校で通算13年以上勤めてきましたが、そこでそれぞれの立場から感じられた「差別」については、「 」で話しましたので、ここでは講師差別について深入りは避けます。 ただ、この「区別」ではなく「差別」というやっかいなのが、いじめの根っこの深いところにあるような気がしてなりません。 教師間いじめは、何も職階によるものだけでなく、講師同士であったり、果ては教諭・専任同士だって当然あるでしょう。 そこにあるのは、違いを認めようとしないで、自分たちの意にも添わないし、一銭も益をもたらさないから攻撃、排他してやろう~という実になさけなく且つむなしくもある、実に大人げない貧弱な発想です。 その私の狭い経験から言わせてもらいますと、~学校だからこそ、「教師間いじめ」は起こる~と言えます。 何ら成果を求められず教員の身分、利益だけは手厚く保護保障され、教職員を除けば相手にしているのは、成長途上のこどもたちのみ・・・ このような環境下に置かれては「勘違い」してしまう教員が続出してしまうのも無理はないでしょう。 教員が偉いというのは幻想に過ぎないというのに、「自分はエラい!」と。 寝る暇削って身を粉にして日々奮闘されている「偉い」先生方も、たくさんいることももちろん知ってはおりますが、こういった恥ずかしい勘違いをしている人がたくさんいるのもまた学校という場なのです。 本気で自分の指導が児童生徒を成長させている~と信じているのですからコワいです。 土台、日々こどもたち、学校のため、自己成長のために寸暇惜しんで精進している教師は、いじめなどしている暇なんかありませんし、このような教師の人格が、いじめをする自分を許せるはずがありません。 そうなのです。 いじめをする教員などは、学校以外の世界を知らない人間的に非常に未熟でかわいそうな人たちなのです。 そして、昨今の職員室いじめは大分、変わってきているようです。 ベテランが若手をいじめる~力のあるものが弱いものをいじめる~もちろん、こういったいじめも勿論見聞きし、私も実際受けてきましたが、この真逆のパターンを何度も現場で見てきました。 それほど、現在の職員室いじめは多様化し、陰湿さを増していると私は思います。 私は、学校に勤める前と辞めた後で通算30近くの学校以外の職種を経験しましたが、学校ほどいじめは多くはなく、そのすさまじさ、陰湿さでは学校にはどこの職場もかないません。 そもそも、生産性、費用対効果が重視されますので、いじめなどお互いのメンタル、フィジカルにダメージを与えるような暇で非生産的なことをするという発想自体がないのでしょう。 (もちろん、こまごまとしたトラブルはありましたが、それも全体を考えてのことから起こったことでした。 ) 生徒に「いじめは恥ずべき情けない、決して許されないことだ!」と説教垂れている、いい年こいた「大人」であるはずの人が実際、自分で人を傷つけているのですから笑うに笑えません。 こどもの問題の前に、まず一等はじめに、教師同士のいじめをなくし、職員室の雰囲気を明るいものとすることが先でしょう。 繰り返しになりますが、学校、職員室こそいじめの温床なのです。 学校だからこそ、職員室でもいじめが起こりうるのです。 Sponsored Link 恐怖・・・教師間いじめの実態・・・ 私が経験した学校で、1学年10クラス以上の大規模校がありました。 学校長は当然1人でしたが、教頭2人体制が敷かれていました。 片方の教頭はいかにもキレ者という雰囲気で仕事も早く確実、助言、指示も的確。 そして、もう一方の教頭ですが、この先生があまりにも対照的でかわいそうすぎました。 おっとり型でやさしく、いつも笑顔であたたかな雰囲気を醸し出しています。 しかし、どこかいつもおどおどした感じで、すべてにおいて自信ががないオーラを出しまくっているのです。 実際、職会での進行、発言等もおぼつかなく、仕事上でのミスも連発のようでよく、机を並べていた片方の教頭に怒られていたのでした。 教頭が教頭に怒られている(叱られている雰囲気ではありませんでした、感情に任せての怒声、罵声です。 )声を聴くのは、同じ職員室にいて本当に忍びありませんでした。 彼の名誉のために言っておきますが、彼は努力を惜しみなくしてきた人でした。 誰よりも早く学校に来て、帰りは一番最後。 よく一緒に午前様になった後、24時間営業のお店でごはんをご一緒させてもらったものでした。 このようなことが日常になってくると、若い教師たち(初任、講師の方々も含めて)も彼を小馬鹿にするような言動が目立つようになっていったのです。 今では決してそのようなことはないでしょうが、昔は教職録という分厚い職員データ(住所、電話番号、所有免許、出身大学)があって、個々のプライバシーが丸裸だったのです。 彼はいわゆる無名大学出身だったのですが、超有名私学出の若いお兄さんが職会で噛みついた時にはビビりました。 職会用に彼が作った文書の内容と脱字の誤りを指摘されしどろもどろになったうえ、「能力的に劣っている上、パソコンが苦手なものでして・・・」などと言ってしまって、さらにお兄さんが増長します。 「好きでなったんだろうが、パソコンできないなら寝ないでやれよ、四流が!」と来たのです。 これには一同騒然となり、私も含めて「いきすぎだ!」と若造に非難を浴びせたのでしたが、司会進行を代わったもう一人の教頭がなんと信じられないことに「まあ、彼の声にも一理あることですから・・・」で片付けてしまったのでした。 校長は黙って聞いているだけです。 かわいそうな教頭先生が今どんな顔してるだろうか~見たいけど怖くて見れない~いまでもあの時のことを想い出すと胸がつぶれそうです。 個人的な付き合いもあり、いろいろ教えていただいた大好きな先生でしたが、私よりちょっと先に道半ばで辞めていかれました。 「なんで、私、教師になったのか分からなくなったんですよ・・・」今でも胸に響きます。 学校は能力が劣っている人がいては許されないところなのでしょうか?あからさまに能力的に劣っているならまだしも、こどもたちだっていろんな児童生徒がいて当たりまえです。 教職員だってさまざまな人間がいていいはずです。 それが学校のはずです。 どこか、間違っていないでしょうか? Sponsored Link 実際、私が体験した「職員室いじめ?」 先の実例とは逆のパターンを紹介しましょう。 いまでいう「パワハラ」でしょうか。 私の場合、教諭で奉職していたころは「いじめ」らしいいじめは経験しませんでしたが、退職後通信制高校に非正規として入職した時分に「いじめ」を経験しました。 本当にに得難い貴重な経験でした。 まさに「力」を持ったものがやる「弱いものいじめ」です。 ステージが変わったとは言え、同じ「学校」でこうも教諭でなくなったとたんに扱いが変わるとは思いませんでした。 その通信制高校は株式会社立であり、民間の考えを取り入れてていたユニークな、学校でありながら株式会社でもありました。 学年ユニットごとに分掌が分かれていて、所属長(上長と呼んでいました)は学年主任です。 その学年主任がこの学校では絶対的な権限を持っていたのです。 この学校は学校でありながら「タイムカード」で管理されており、残業するには事前に上長の許可が必要だったのです。 その日は残業せずにあがるつもりでおりましたので、上長に残業の許可をもらってはいませんでした。 しかし、突発的な仕事が入ってきてしまったので、上長の許可を得ず残業をしてしまいました。 後から事後報告をし、伺いを立てるつもりでいたのです。 あいにくその日、上長は出張で席を終日空けていたのでした。 このことが後から実に陰湿な「職員室いじめ」のきっかけになるなどとは、予想だにしませんでした。 帰ってきてこの事実を知るいなや、上長はその場で私を大声で罵倒し始めたのです。 その場だけで済むなら~と何ら反論することもせず、ひたすら黙って聞いて、そして謝り続けました。 しかし、何度も何度も呼び出され同じことで大声で罵倒される日々が続いたのです。 この罵倒の日々がやっと終わったかと思ったら、今度は「一切無視」のいじめの始まりです。 あいさつをしても顔さえ向けない。 そこにいるのに、いないように振る舞う。 連絡事項を私だけに伝えない。 そのために起きた失敗を「待ってました!」と言わんばかりにこれまた罵倒、イヤミの連発。 本人に、状況的に仕方なかったが、事後報告になってしまったことを何度も謝罪しようとしましたが、取りつく島がありません。 この状況が延々と続いたためこの学校を思い切って辞めることにしました。 と言いますのも、この学校にこれ以上、礼を尽くす義務は何もないと思ったからです。 こういったいじめを平然と行う者が彼だけだったのなら、まだ我慢のしようもあります。 普通、学校でしたら年度終わりに退職が当たり前でしょう。 周りに迷惑がかからないように。 しかし、この学校の場合、このような理不尽な振る舞いを平気で行う人間が一番大きい顔をしているのです。 学校全体が力のあるものが弱いものを従えている~という構図が見えてきてしまったのでした。 周りも誰も見て見ぬふり、助けてくれなんかしません。 彼に目を付けられるのが怖いから・・・後々、どうして彼の怒りがこれほど凄まじかったのか教えてくれた同僚がいました。 やはり、自分の許可なしに残業をしたことが許せなかったとのことでした。 確かに私も悪いです。 しかし、その突発的な仕事はどうしてもその日に終わらせなければいけない仕事だったのです。 上長の許可がないからと断っていたら、これまた学校全体に迷惑がかかるものだったが故なのです。 はじめて、まわりに迷惑をかけての退職でした。 これも後になって分かったことですが、短期で非常に離職率の高い職場であることが分かりました。 金銭的な待遇では公立顔負けの「会社」でありましたから、その理由は言うまでもないと思います。 どこの学校にだって本当にさまざまな教職員がいます。 それはある意味、仕方のないことです。 自分の努力ではどうにもこうにもすることができませんから。 これから教師を志すみなさんのために前に でも話しましたが、人事異動の固定された私立で一度、このようなことになってしまったら悲惨です。 たとえ休職して現場復帰しても当該人物はまだまだ退職まではいるのですから。 この意味でも私は人事交流のある「公立」を私は強く勧めているのです。 もちろん、私立ならでは独自性、キャラクターを打ち出し、素晴らしい教育&職場環境であるところもあるでしょう。 しかし、みんながみんなそのような恵まれた学校であるとは限りません。 この意味でも自分が奉職する「場」選びは慎重に慎重を重ねたほうがいいと私は思います。 スポンサーリンク 職員室いじめにあってしまった場合・・・の対処法とストレスの逃がし方 まず、はじめにやらなければならないことは「状況の正確な把握」です。 「なぜ、自分がいじめを受けることになったのか?」このことについて、様々な角度からアプローチし、その原因、理由を探ります。 そのうえで、自己に落ち度、誤りがあったならば謝罪したり、改善していくことが当然求められるでしょう。 しかし、いじめのほとんどは言われなき理不尽な理由から来ていることがほとんどです。 たとえ解決に至らなくとも自分のことを思ってくれる人が一人いるだけで、人はやさしく、そして強くなれます。 教師という人種は仕事柄、生徒から「相談される」ことには慣れていますが、自分が「相談する」のはとっても苦手なようです。 教師のプライドが邪魔をして、相談しにくいかもしれませんが、意外な突破口が見てきたりして気持ちがラクになれるものなのです。 実際、上の件の時、友人に相談して「職場にしがみつくことなんかないんじゃない?!」と言われてスゴく軽くなれました。 あのまま勤めていたらどうなったか~考えると怖いです。 友人、同僚がイヤでも家族はどうでしょう。 きっと一番親身になって考えてくれますよ。 なんてったて一番最後に頼りになるのは家族なんですから。 この際、「恥ずかしい」「情けない」などと言っている場合ではありません。 いまは問題解決が第一優先で、あなたの心身をダメージから救ってあげることが何より大事なはずです。 相談されてイヤがる家族などいませんよ。 しかし、そのような職場ではない~と判断し私は諦めたのでした。 管理職に相談する。 職会等で思い切って問題提起し、すべてを暴露する。 退職までを考えていてもいなくとも考えてみる価値はあります。 管理職に相談してからは、全体に問題を投げかけるのはストップがかかるでしょうから、暴露は管理職飛び越して~がいちばん強烈かもしれません。 しかし、こちらも慎重にいかなければなりません。 と言いますのも公立におりました頃、同僚が悩んでいた時に私がかわりに電話でいろいろ聞いてみたのですが、あまり親身になってくれず、どうでもいいような対応をされたからなのです。 「身内なんだからなかよくやって~」みたいなことを言われ、終いには「本人に電話させてよ~」これです。 本人が電話できない状況を察することのできない、その無神経さにはあきれました。 たまたま私の電話を受けてくれた人がまったくの他人事で高圧的だったのかもしれませんが、正直よく分かりません。 教育員会の事務職員の半数以上は、教員免許を持った指導主事などの管理職予備軍です。 こういったところではやはり身内をかばう傾向にあるのではないでしょうか?かばうまではいかずとも、深入りしたくない、あまり積極的にかかわりたくない~ということなかれ主義がいまだ根強いのでしょう。 ダメモトで試してみる価値はありそうです。 その他、いまの時代、あるものは何でも利用したほうがいいです。 こちらもダメモトでSNSを利用して、情報発信し、救いの手を求めてもいいかもしれません。 きっと同じような経験をした人、いまツライ目にあっている人たちからの声が聞けることでしょう。 この他にもさまざまな解決策があると思います。 その方法も自分ひとりで悩んでいては何も見えてこないものです。 ツライ時はSOS発信してもいいのです。 助けをぜひ!求めてみてください。 間違っても死を選ぶ~ということだけは考えないでください。 それだったら、思い切って長~く休んだり、極端な話、辞めちゃえばいいことなのですから。 そして、自分を悪者にして自分をさらにいじめることも、悲劇の主人公になることもダメダメです。 何の解決にもなりません。 私は創作活動をしているので、自分の歌が救いでした。 人によって犬、猫、本などなんだっていいと思うのです。 癒されることにふれてみましょう。 学校だけが「すべて」じゃないことを私は辞めてはじめて知りました。 学校でしか得ることのできない価値は確かにあります。 でも、 学校の外にだってすばらしい世界が開けているのです。 いざとなったら、「辞めることもできる!」この選択肢もあることを頭の片隅にそっと入れておいてほしいのです。 全く同じことが海外の日本人学校でも起こっています。 パワハラ、モラハラの温床です。 年配の教員1人を、管理職を含めた若手が20人、毎日のように無視・陰口・嘲笑しています。 「触らぬ神に祟りなし」なのか、周囲も見て見ぬふりです。 さらには、「イジメの正当化」が横行しています。 イジメている側が「強い自己肯定感」を持っており、弁もたつため、自己の振る舞いを正当化しているのです。 こんな状況で、「生徒のイジメ撲滅のため道徳教育を導入」、、、とは笑うしかありません。 道徳を教える側の教師および教頭・校長が、いじめを正当化し、行っているのですから。 学校における生徒間のイジメが起こっても、表向き(当該生徒の保護者に)は真摯に対応しているふりをしつつ、裏では「面倒だな、あいつの方が悪いのに」と不登校の生徒を非難しているのが実態です。 そんなケースを1年間に5件も目の当たりにしました。 いじめられっこさん、コメントありがとうございます。 もしかしたら、いじめられっこさんがこのツライ思いをされたご本人なのでしょうか?(間違っていたらごめんなさい。 ) さぞかし、辛かったでしょう。 「1対20」は辛すぎます。 私も同じような気持ちで本稿で話しましたが、仰る通りだと思います。 彼らは周りが見えなくなってしまって、自分たちのことだけです。 アタマの中にあるのは・・・ モノサシは自分たちの意に添うかどうか、実益になるかどうか、これだけです。 実につまらなく、くだらないです。 大人になりきれていないのかもしれません。 やはり、教師たるもの我が身を振り返る余裕と謙虚さを持ち合わせたいものです。 そして見逃していけないのは、いじめを取り囲む周りの存在ですよね。 まさしく、子どものいじめの図式とそっくりです。 まずは、たった一人で声を上げることから始め、傍観者を巻き込んでいくしかないのではないでしょうか? 子ども同士のいうめ以上に根が深くやっかいなのが、この大人のいじめ、教員間いじめです。 先生方はもっともっと悲鳴を上げ、他者にさまざまな援助を求めるべきだと私は思います。 また貴重なご意見等ありましたら教えてください。 おむらい線に飛び込む夢を何度もみて、管理職にも、同僚、学年主任のパワハラについて相談しましたが、かえって私が悪いみたいにいわれ、もう、どうにもなりません。 先週の金曜日には、学年会で、ポロポロ涙をこぼしながら参加しました。 組合にも相談しましたが、みんな、ストレス解消法をみつけなよ、とか、ヒーリングみたいなことをすすめるだけです。 いい天気でせっかくの土日なのに、死にたいなんて、悲しすぎます。 思い出すと涙が止まりません。 私が悪者になり、笑われているかと思うと、耐えられません。 あなたは、もっと若い頃に、なぜ、ワードやエクセルをマスターしなかったんだ、とか、いうんです。 それって、モラハラ? 玄関で、下校指導をしないと、学年にいる意味がない、とか、存在を否定するような言葉、とか。 私が気をきかせてなにかすると、やるなら一言声をかけてよ、といって、この箱が開けっぱなしになっていたが、これは、あなたがやったのですか、と、やってもいないことを、私のせいにしたり、気に入らないことを、次から次へと言うんです。 毎日が辛いです。 まりん さん コメントありがとうございます。 文面から、まりんさんのつらすぎる心境が痛いほど伝わってきました。 おむらい線とは東武の小村井線のことでしょうか? 死にたい、ポロポロ涙、耐えられない、悲しすぎる、辛い・・・これらすべてまりんさんが語ってくれたことばですが、 私たち教師はいったいぜんたい何のために教師を目指したのでしょうか? 子どもたちにさまざまな人間がいるように、教師もまたいろいろな人間がいて許されるのが学校ですよね。 児童・生徒あってこその学校であるはずなのに、いつの間にか教職員が主人公のようになってしまっている現状はほんとうに嘆かわしいです。 本来手を携え合って子どもたちのために進まなくてはいけない我々同士が、お互いの足を引っ張り合ってどうするのでしょうか? 大人であるはずの教員同士がこれでは、子どもたち間のいじめなど減るはずもありませんね。 まりんさんの話からは、くわしい問題の根っこの部分は見えてはきませんが、このような問題は通常、自助努力でなんとかなる問題とそうでない問題とに分かれています。 まりんさんに何ら問題はなく、受けるいわれのない扱いを今、受けているのであれば、堂々と出るところに出て、問題を公にしてもいいのではないでしょうか? 私もまりんさんと似たようなケースで出張相談を受けたことがありましたが、彼女の場合、学校にもう未練はなくなったようでキッパリと教壇を去りました。 いまは学童保育で毎日がんばっているようです。 彼女も同僚、父兄との人間関係に疲弊した挙句、睡眠時間確保もままならない激務に見切りをつけ、思い切って辞めてしまったのです。 彼女には休職でもしてじっくり心身を休めて、他校に異動することもちょっとすすめたのですが、経済的な心配もないことから断を下したわけなのです。 私自身も身体を壊したことにより、学校を去りましたが、学校には今でもやはりちょっとの未練はあります。 でも、学校の外にだっていろんな世界が開けているのです。 自営で独り立ちするようになるまでは、それは辛酸舐めつくしましたが、いまではそれもいい想い出です。 学校という、ある意味社会から隔離された閉塞的な空間に長いこと身を預けてしまうと、それが、そこがすべてという非常に危うい感覚に陥ってしまうものです。 学校でなくてはできないこと、教壇からしか見れない風景というものは絶対、確実にあります。 しかし、心身を壊してまで、命を失くしてまでやる仕事でしょうか? 教師という仕事は・・・ 心身共に健康でなくては、教職と言う激務に真正面から向き合うことはむずかしいのではないでしょうか? それが困難なのであれば、自ら学校から距離を置いてみる・・・という選択肢もあり、だと私は思います。 私たちは誰も皆、命失くすために生まれてきたわけではないはずです。 生まれる前からの約束であった、「何らか」の使命を全うするまでは決して死ねないのです。 まりんさんも、いまは学校のことなどしばし、忘れて(忘れるようにして)、思いっきりのんびりしてみてください。 何かまたありましたら、ご連絡ください。 ありがとうございます。 まめきちさんは、何年前に、教壇にいらしたのですか? 私は音楽科ですが、副校長が2年前から変わり、その方が音楽科で、まわりの先生たちが、わたしより、その副校長を花をもたせて、合唱コンクールの伴奏者を決めるのに、わざわざ副校長にもきてもらいたい、といったり、こんどの卒業式では、歌がなくなってしまうから、校長に歌わせて、副校長は、伴奏をお願いします、と、私のいる前で話していて、副校長も、やりますよ、水戸黄門くらい、と答えたり、そんなことが、この2年間、多々ありました。 特に、昨年の3月に、今の学年主任とは、一緒にしないでください、と、学年、分掌などの希望を書いたのに、ふたをあけたら、その人が学年主任をやる学年にされました。 そこから、地獄の日々が始まりました。 学年だよりを書けば、その主任に、やり直せと何度もいわれ、やっとOKをいただき、げたばんをハンコ押して、机上に置いておいたら、次の日に、昨日OKをいただいたものを、さらに表にしろと言ったり、私の仕事の予定がたちません。 いい加減に、だったら最初から言ってください!といって、昨日OKをいただいた部分は直しません!と言ったら、仕事を放棄するのか!と怒り、もう出さなくていい、と言いました。 直されたくないなら、完璧な学年だよりを作ってください、と言いました。 でも、彼が作った避難訓練の要項は、私の名前が違っていました。 その人と関わるたびに、私のストレスが増して、食事がまったく食べられなくなったり、眠れなくなったりしました。 おむらい線に飛び込む夢をみた、と副校長に言っても、まるで私の受け取り方が悪い、みたいに言われ、何度言ってもらちがあきません。 まわりの同僚は、その方がOKといえば、俺らはそれでいい、という感じです。 英語科なので、ほかの英語科は、みんな頭がよいので、当たらず触らず、です。 そういうひとだから、と割り切っています。 私は一度、休職したことがあり、そのとき、復帰するのに、校長の具申書とかあり、かなり面倒だったし、退職まであと7年ほどなので、まっとうしたいです。 なぜなら、教員になるまで、7年講師をして、苦労したからです。 ご連絡ありがとうございます。 学校での人間関係・・・むずかしいですね。 複雑なような人間関係、いたってシンプルにすることもできたのです。 私の場合。 こちらのサイトでも「苦手な人・嫌いな人が頭から離れないあなたへの処方箋~ストレスの逃がし方~」等の記事で詳しく話しましたが、 相手を変えようとか、分かってもらいたい~などと思ってはゼッタイダメです。 神経をすり減らすだけで何もいいことなんかありません。 こちらがいかに悩もうが、あれこれ考えを巡らしていたって相手は露知らず、これっぽっちも こちらのことなんて考えてくれやしないのです。 自分の努力でどうにもならないことに無駄に注力することは、まったくをもって賢明ではないですよね。 それであったら、私ならいまの自分にできること、やるべきことに専念しまくります。 やることやって、協力しなければいけない部分だけの接触に極力おさえ、あとは何を言われても「流す」だけです。 まともに付き合っていたら身が持ちません。 まりんさんの周りの人たちは、相手の尊厳を踏みにじるような言動を取っているようですが、許容範囲、限度を超えた暴言などには毅然とした態度で臨み、場合によっては出るとこに出るくらいの気構えが必要でしょう。 どちらがよくて、どちらが悪い・・・なんて実はあってないようなものなのかもしれません。 それぞれにこれまでの人生の歴史があり、考え方、生き方がある。 土台、うまくいく、分かり合える・・・ということ自体が幻想なのかもしれません。 私の場合、生来ものごとに深く執着しないサバサバした性格だったことも手伝ってか、人間関係に悩んだのは教諭時代十数年間で、わずか2件だけでした。 一つは先述した記事にもある、「どうしても分かり合えない人」、そして学年主任をやっていたころのはじめて担任を持つことになった異常な性格の若者・・・ この2人だけでした。 このお二方については、前に記事にしていますので、ご覧になってみてください。 特に「流す方法」については、私なりに悩んで得ることができた極意みたいなものですので、おすすめです。 そして、学校退職後勤めた、私立高校、通信制高校でこちらの記事のような「特別待遇」に遭遇しました。 人間肩書が変わるだけで、このように扱いまで変わってしまうものなのだといい勉強になりました。 たいへんな苦労をされて上り詰めた教壇、あと少しですね。 これまでお疲れさまでした。 退職のその日まで残された日数は、悩みに悩んで悩みぬいてもわずか「3,000日弱」・・・ そして何より公立であったら異動がありますもの。 もっともっと、短いことでしょう。 私の場合、この「受けては流す」「許す」「相手にしない」技術?を身につけてからとにかくラクになりました。 人間、生きてられる年数、日数はほんのわずか・・・そして死へのカウントダウンは生まれたての赤ちゃんだって始まっているのです。 それなら、私はそのような相手のために、自分の貴重な時間をつかって思いを巡らしたり悩んだりは絶対したくないです。 相手を憎む、嫌うという感情は精神的なストレスになるだけでなく、「負」の気を体内にためこむことになりいつか自分に帰ってくるという まさしく負のスパイラルに陥るそうです。 なかなかそう簡単に流せるようにはならないかもしれませんが、人間考え方一つで案外変われるものなのかもしれません。 そして、どうしてもこの辛い状況から脱することができない場合、専門医に相談することを強くおすすめします。 命あってこそ、悩むことができると思うからです。 ありがとうございます! 私は、母が変な人で、すべてにおいて、私を支配しようとしたので、何を食べたいか、飲みたいか、何色の服がいいか、成人式の着物ですら、勝手に選んであてがったような人でした。 たぶん、成長過程で、人間関係の作り方が、わからなくなっていたのだと思います。 今回に限らず、5校ぐらいまわりましたが、だいたい私に対して、いやか人は、いましたから。 流す、許す、忘れる、みたいなことができたらな、と思います。 いま、母は82歳で、チューブを入れて、入院中ですが、かわいそうとも思えず、どう接したらよいか、わからなくなっています。 口を開けば、お母さんは、私が何をしても、一切、私の努力を認めなかったよね、とか、言ってしまいます。 だから、他人に対しても、20年以上、恨みをもったままだったりします。 でも、自分の人生、恨みを晴らすのを目標にしていたら、時間がもったいないですよね。 昨日も、心理学の本を読み、自尊心の育て方を読みました。 まめきちさんの記事にもあったように、能力が低くても、しゃべりが下手でも、子供の教育のために、一肌ぬごう、という気構えはあったわけだから、 なにかしらの使命や、活用される能力が、あるはずですよね。 それを、年齢に関係なく、誹謗中傷や、嫌がらせをし続けるのは、おかしいひとたちです。 A先生に、意見を言うひとはいません。 みんな、どんな人かわかっていて、適当にやっています。 バカなのは、わたしだけです。 すでに、2週間に一度はカウンセリングにいってます。 こんにちは、ご連絡ありがとうございます。 まりんさんも家族との関係にいろいろ悩まれてきたのですね。 私も「父親とうまくいかない息子、娘でいいのか?父親が嫌いで尊敬できなくともよいのか?~親子関係は許し許され~」 でも話しましたが、これまでずっと親子関係に悩んできました。 いちばん近いところにいて、一番うまくいってほしい関係なのに、いつもこじれてお互いに悪感情を持っていて・・・ そんな関係が長く続きましたが、こちらの記事のように歳を重ねることによって、親の気持ちもまた分かるような気がしてきたのでした。 不思議な感覚でした。 いまでも完全に「ぜんぶ好き!」「全部許せる!」とまではいきませんが、「仕方ないよね」「なんとなくわかる」・・・ こんな感じになってきたのです。 こちらの「終活」の記事でもはなしましたが、親が死んだとき(自分の方が早いかもしれませんが)、「あれもしておけばよかった、もっと~してあげればよかった、 もっともっといろんな話がしたかった・・」などのような後悔だけはしたくないです。 後悔の気持ちだけはなかなか忘れ去ることができないのですもの。 きっとまりんさんのお母さんも、ご自身なりの考えがあってのことではないのではないでしょうか? 私の父も支配的、高圧的、傲慢な人でした。 幼少期における親の子に対する関わり方というものについて、最近本当に考えさせられます。 帰ることのできない、そして変えることのできない「昔」のことをなじっても、後悔しても、先には進めないような気がします。 やはり変えることのできるのは、「いまの自分」、そして今と未来・・・と思って私は日々生きています。 まりんさんが言われたように、「なんらかの使命、活用される能力」というのは絶対あるでしょう。 「子どもたちのために一肌脱ごう!」そんな気概、教師としての矜持一つさえあれば十分なのではないでしょうか? どのような教師であれ、子どもたちのことを思い、努力し続けれる人間であればそれは真正教師なのではないでしょうか? たとえどんなに話が拙くっても、挙動不審であっても、同僚に馬鹿にされていようと「心は錦」ですよ。 胸に秘めたアツい想いと心意気・・・わかってくれる同僚、そして何かを感じる子どもたちがいるはずです。 (こちらに関しては「教師の人としてのあり方、生き方、姿勢が生徒を救う~何かを教えたりしてあげることだけが教育ではない~」 でも話しています) 失くしたもの、つらい現状を嘆くのは容易いかもしれませんが、 いま、ここに「ある」ものに私たちは感謝すべきだと私は思うのです。 まりんさんは、いま教壇に立てるではないですか? 辞めてしまったもの、免許を持っていないものは立つことさえ許されない神聖なステージなのです。 たいへんな苦労をされて教師になったまりんさん、教師にしか立つことが許されていない教壇から見える景色は やはり学校でしか味わえません。 お身体を大事にして、まりんさんらしく・・・それがいちばんなのではないでしょうか?.

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