カルロス バルデラマ。 【銅】イギータ (カルロス・バルデラマ) 活躍度/使用

バルデラマに学ぶサッカーの本質 ~野生的で圧倒的なテクニック~

カルロス バルデラマ

「金髪のライオン」 カルロス・バルデラマ ( コロンビア ) ライオンのたてがみのような金髪アフロに、サルサを彷彿とさせる独特のリズム。 一度ボールを支配するや、巧みにショートパスを交換、一撃必殺のスルーパスを繰り出すコロンビアの10番が、カルロス・バルデラマ( Carlos Alberto Valderrama Palacio )だ。 87年のコパ・アメリカでその姿を現し、特異な風貌と針の穴を通す正確なパスで世間を驚かすと、以降10年以上にわたりコロンビアの顔としてプレー。 南米でもアウトサイダーだった代表チームを、90年、94年、98年と3大会連続でWカップ出場に導いた。 「組織的なサッカーに合わない」「動きが遅く他の選手に負担をかける」といった批判もあったバルデラマだが、高いテクニックとイマジネーション溢れるスルーパス、そしてあのクリエイティブなプレーは他に替え難いもの。 大ベテランになっても、コロンビアの中心であり続けた。 バルデラマは1961年9月2日、コロンビア北部のカリブ海に面する都市、サンタ・マルタで生まれた。 父親は地元クラブのウニオン・マグダレナに所属するサッカー選手で、小さい頃のバルデラマは父の同僚のアルゼンチン人選手から「エル・ピッベ(坊や)」と名付けられた。 この愛称はバルデラマが成長し人気者になると、コロンビア国民からも親しみを込めて呼ばれることになる。 10歳の時に地元の少年クラブへ入団、17歳でウニオン・マグダレナとプロ契約を結んだ。 85年、24歳でコロンビアの名門デポルティーボ・カリへ移籍、チームの中心として活躍する。 コロンビア代表としては、85年10月27日のパラグアイ戦でデビューを果たしている。 この頃のコロンビアは南米のサッカー後進国と見られており、過去Wカップに出場したのも62年のただ1回、まだ白星すら挙げていなかった。 コロンビアサッカー界は混迷と無秩序の時代が長く続いており、代表の強化どころではなかったのだ。 また国内リーグ(プリメーラA)がアルゼンチンとウルグアイの選手に頼り過ぎていたのも、コロンビア人プレイヤーの育成を妨げていた。 87年、フランシスコ・マツラナが代表監督に就任。 ここからコロンビアサッカーが、大きな変貌を遂げることになる。 マツナラは歯科医免許を持つ37歳の青年監督で、古豪ナシオナル・メデジンの指揮官も兼任していた。 まずマツナラは、不振にあえぐナシオナル・メデジンの改革に着手、GKのイギータ、DFのエスコバル、MFのアルバレスら若手の有望株を集め、彼らの能力を引き出すことに努めた。 そして力を発揮し始めたナシオナル・メデジンの選手たちを代表の中核に据え、卓越した技術とセンスを持つバルデラマを攻撃の司令塔として加えたのである。 マツラナは創造力と個人技を打ち出すコロンビアサッカーに、最先端のゾーンプレス戦術を掛け合わせ、「モダン・ラテン」と呼ばれるチームを生み出した。 87年、コパ・アメリカ大会がアルゼンチンで開催。 マツナラ率いるコロンビアは1次予選でボリビアとパラグアイを破り、グループ1位で準決勝に進出した。 準決勝でチリに敗れてしまうが、3位決定戦ではマラドーナ擁する地元アルゼンチンを打ち破り、世界を驚かせた。 バルデラマはこのときの活躍が評価され、同年の南米年間最優秀選手賞を受賞。 その名はヨーロッパに届き、フランスのモンペリエから移籍のオファーが舞い込んだ。 ちなみにヨーロッパのクラブに移籍したコロンビア人は、バルデラマが初めてとなる。 89年、マツナラ監督率いるナシオナル・メデジンは、コロンビアのクラブとして初めてコパ・リベルタドーレス杯(南米クラブ選手権)を制する。 そして同年のトヨタカップに出場、ヨーロッパチャンピオンのACミランと戦い、延長で敗れたものの0-1と互角の勝負を演じた。 コロンビア代表もその勢いに乗り、28年ぶりとなるWカップの出場を果たす。 そして 1次リーグの初戦は、UAEと対戦。 前半こそタイトな守りに苦しんだが、50分にレディンのヘッドで先制する。 そこからはコロンビアのペース、心憎いばかりのパスワークで中東の王者を翻弄した。 もちろんその中心にいたのは、バルデラマである。 コロンビアのあらゆる攻撃はバルデラマを経由して始まり、変幻自在のパスはたちまち相手を混乱に陥れた。 シンプルなインサイドキックでチームを操る風格は、まさに百獣の王ライオンを彷彿とさせるものだった。 UAE相手にWカップ初勝利を挙げたものの、第2戦はユーゴスラビアに0-1と敗北。 ベスト16進出は、最終節ドイツとの戦いで決まることになった。 試合はコロンビアの「モダン・ラテン」に優勝候補のドイツが大苦戦、終盤まで0-0の展開が続いた。 しかし88分、リトバルスキーにラインの裏を突かれて失点、コロンビアは万事休すとなった。 ところがロスタイムに入った後半の47分、4本のダイレクトパスが繋がり、最後はバルデラマがスルーパス。 フリーになったリンコンが、右足インサイドで鮮やかな同点弾を決めた。 土壇場で1-1と引き分けたコロンビアは、初めての決勝T進出を果たす。 決勝T1回戦はカメルーンとアウトサイダー同士の対戦。 だが世界に衝撃を起こした「老ライオン」 に2得点を許し、コロンビアのベスト8入りは叶わなかった。 91年、マツナラがスペイン・バリャドリッドの監督に就任。 モンペリエで不遇を囲っていたバルデラマも、アルバレスやイギータと一緒にバリャドリッドへ移籍し、「コロンビア・コネクション」を形成した。 活躍を期待された「コロンビア・コネクション」だが、チームは開幕から低迷。 ヨーロッパ流に馴染めなかったバルデラマは、バルセロナ戦で退場処分を受けるとそのまま帰国、92年に退団となった。 コロンビアに戻り輝きを取り戻したバルデラマ、代表でその真価を発揮する。 93年Wカップ南米予選の敵地で行われたアルゼンチン戦。 司令塔バルデラマのパスが冴え渡り、快足のFW陣が相手陣営を切り裂いた。 そしてアスプリージャの2ゴールなどで、アルゼンチンに対し5-0と圧勝を収めたのだ。 こうして復活したバルデラマは、この年2度目となる南米年間最優秀選手賞を受賞する。 、奔放なパスサッカーとハイプレスの戦術で「最も魅惑的なチーム」と注目されたコロンビアだが、初戦で 擁するルーマニアに3-1と完敗してしまう。 第2戦は開催国アメリカと戦うが、DFエスコバルのオウンゴールなどで1-2と連敗を喫してしまった。 国民の期待を裏切り、1次リーグ敗退となってしまったコロンビア。 帰国したエスコバルが大会期間中に射殺されてしまうという悲劇も起き、バルデラマ2回目のWカップは失意のうちに終了した。 バルデラマは96年からアメリカMLSでプレー。 にも出場する。 だが37歳となったバルデラマを始め高齢化したコロンビアには、もはや1次リーグを勝ち抜く力がなかった。 02年、MLSのコロラド・ラピッズでのプレーを最後に、バルデラマは41歳で現役を引退。 現在はコメンテーターとして活躍している。 バルデラマの引退後は再び低迷したコロンビア代表だが、14年のWカップ・ブラジル大会に16年ぶりの出場を果たす。 そしてコロンビアサッカーのDNAを受け継ぐ若き司令塔、ハメス・ロドリゲスが活躍、過去最高となるベスト8入りを果たした。

次の

コロンビア代表はどれだけ強いのか?【サッカー】

カルロス バルデラマ

独特の風貌をした司令塔、狭小地域をすり抜けていくスタイルの衝撃 第一印象は、それなりに重要なのだろう。 コロンビアという国についてなんの知識もなかった私にとって、カルロス・バルデラマという第一印象は強烈だった。 ライオンのたてがみのようなヘアスタイル、しかも金髪。 髭をたくわえ、がに股で歩く。 あの巨大ゴールド・アフロヘアは海岸の太陽光線のせいだというが、他にあんな選手はいなかった。 ぶっ飛んでいたのは見た目だけではない。 半身で敵をブロックし、巧みにボールをスクリーンする。 体は大きくないし、リーチもそれほどないのに、ボールの置き方が抜群に上手い。 寄せている敵からすると、けっこう近くにボールがあるのに奪えない。 ステップワークが素早く、下手に足を出せばかわされてしまう。 バルデラマは金色のアフロヘアをなびかせながら、ショートパスを通す。 そしてパス&ゴーでリターンを受け、またボールを守りながらショートパスを繰り出す……さらにこれを繰り返す。 受けて、キープして、パス。 動いて受けて、キープして、パス。 これの連続。 サッカーの基本といえば基本で、例えば1970年代の名手、西ドイツのヴォルフガング・オベラートもこんなプレーだったのだが、見た目のせいかロックンロールで破天荒に見えた。 路地裏でやっているサッカーの、もの凄く精度のいいバージョン。 遊んでいる、あるいは踊っている。 勝つためにプレーしているというより、プレーするためにプレーしている。 生きている実感を得るためにプレーしている、そんなふうに見えた。 もちろん、そうではなかったと思う。 バルデラマはコロンビア代表のキャプテンで、献身的に勝利を目指して戦っていた。 ただ、そのやり方があくまで彼のやり方を貫いていて、あまりにも独特だった。 それしかできなかったのかもしれない。 1990年イタリア・ワールドカップに、インディアンのマントのようなイエローのジャージを纏ったコロンビアとバルデラマは、30年も昔からタイムスリップしてきたようなプレーぶりだった。 技術の粋を尽くして狭小地域をすり抜けようとするスタイルは、進んでいるのか遅れているのかよく分からなかった。 All Rights Reserved.

次の

【銅】イギータ (カルロス・バルデラマ) 活躍度/使用

カルロス バルデラマ

「金髪のライオン」 カルロス・バルデラマ ( コロンビア ) ライオンのたてがみのような金髪アフロに、サルサを彷彿とさせる独特のリズム。 一度ボールを支配するや、巧みにショートパスを交換、一撃必殺のスルーパスを繰り出すコロンビアの10番が、カルロス・バルデラマ( Carlos Alberto Valderrama Palacio )だ。 87年のコパ・アメリカでその姿を現し、特異な風貌と針の穴を通す正確なパスで世間を驚かすと、以降10年以上にわたりコロンビアの顔としてプレー。 南米でもアウトサイダーだった代表チームを、90年、94年、98年と3大会連続でWカップ出場に導いた。 「組織的なサッカーに合わない」「動きが遅く他の選手に負担をかける」といった批判もあったバルデラマだが、高いテクニックとイマジネーション溢れるスルーパス、そしてあのクリエイティブなプレーは他に替え難いもの。 大ベテランになっても、コロンビアの中心であり続けた。 バルデラマは1961年9月2日、コロンビア北部のカリブ海に面する都市、サンタ・マルタで生まれた。 父親は地元クラブのウニオン・マグダレナに所属するサッカー選手で、小さい頃のバルデラマは父の同僚のアルゼンチン人選手から「エル・ピッベ(坊や)」と名付けられた。 この愛称はバルデラマが成長し人気者になると、コロンビア国民からも親しみを込めて呼ばれることになる。 10歳の時に地元の少年クラブへ入団、17歳でウニオン・マグダレナとプロ契約を結んだ。 85年、24歳でコロンビアの名門デポルティーボ・カリへ移籍、チームの中心として活躍する。 コロンビア代表としては、85年10月27日のパラグアイ戦でデビューを果たしている。 この頃のコロンビアは南米のサッカー後進国と見られており、過去Wカップに出場したのも62年のただ1回、まだ白星すら挙げていなかった。 コロンビアサッカー界は混迷と無秩序の時代が長く続いており、代表の強化どころではなかったのだ。 また国内リーグ(プリメーラA)がアルゼンチンとウルグアイの選手に頼り過ぎていたのも、コロンビア人プレイヤーの育成を妨げていた。 87年、フランシスコ・マツラナが代表監督に就任。 ここからコロンビアサッカーが、大きな変貌を遂げることになる。 マツナラは歯科医免許を持つ37歳の青年監督で、古豪ナシオナル・メデジンの指揮官も兼任していた。 まずマツナラは、不振にあえぐナシオナル・メデジンの改革に着手、GKのイギータ、DFのエスコバル、MFのアルバレスら若手の有望株を集め、彼らの能力を引き出すことに努めた。 そして力を発揮し始めたナシオナル・メデジンの選手たちを代表の中核に据え、卓越した技術とセンスを持つバルデラマを攻撃の司令塔として加えたのである。 マツラナは創造力と個人技を打ち出すコロンビアサッカーに、最先端のゾーンプレス戦術を掛け合わせ、「モダン・ラテン」と呼ばれるチームを生み出した。 87年、コパ・アメリカ大会がアルゼンチンで開催。 マツナラ率いるコロンビアは1次予選でボリビアとパラグアイを破り、グループ1位で準決勝に進出した。 準決勝でチリに敗れてしまうが、3位決定戦ではマラドーナ擁する地元アルゼンチンを打ち破り、世界を驚かせた。 バルデラマはこのときの活躍が評価され、同年の南米年間最優秀選手賞を受賞。 その名はヨーロッパに届き、フランスのモンペリエから移籍のオファーが舞い込んだ。 ちなみにヨーロッパのクラブに移籍したコロンビア人は、バルデラマが初めてとなる。 89年、マツナラ監督率いるナシオナル・メデジンは、コロンビアのクラブとして初めてコパ・リベルタドーレス杯(南米クラブ選手権)を制する。 そして同年のトヨタカップに出場、ヨーロッパチャンピオンのACミランと戦い、延長で敗れたものの0-1と互角の勝負を演じた。 コロンビア代表もその勢いに乗り、28年ぶりとなるWカップの出場を果たす。 そして 1次リーグの初戦は、UAEと対戦。 前半こそタイトな守りに苦しんだが、50分にレディンのヘッドで先制する。 そこからはコロンビアのペース、心憎いばかりのパスワークで中東の王者を翻弄した。 もちろんその中心にいたのは、バルデラマである。 コロンビアのあらゆる攻撃はバルデラマを経由して始まり、変幻自在のパスはたちまち相手を混乱に陥れた。 シンプルなインサイドキックでチームを操る風格は、まさに百獣の王ライオンを彷彿とさせるものだった。 UAE相手にWカップ初勝利を挙げたものの、第2戦はユーゴスラビアに0-1と敗北。 ベスト16進出は、最終節ドイツとの戦いで決まることになった。 試合はコロンビアの「モダン・ラテン」に優勝候補のドイツが大苦戦、終盤まで0-0の展開が続いた。 しかし88分、リトバルスキーにラインの裏を突かれて失点、コロンビアは万事休すとなった。 ところがロスタイムに入った後半の47分、4本のダイレクトパスが繋がり、最後はバルデラマがスルーパス。 フリーになったリンコンが、右足インサイドで鮮やかな同点弾を決めた。 土壇場で1-1と引き分けたコロンビアは、初めての決勝T進出を果たす。 決勝T1回戦はカメルーンとアウトサイダー同士の対戦。 だが世界に衝撃を起こした「老ライオン」 に2得点を許し、コロンビアのベスト8入りは叶わなかった。 91年、マツナラがスペイン・バリャドリッドの監督に就任。 モンペリエで不遇を囲っていたバルデラマも、アルバレスやイギータと一緒にバリャドリッドへ移籍し、「コロンビア・コネクション」を形成した。 活躍を期待された「コロンビア・コネクション」だが、チームは開幕から低迷。 ヨーロッパ流に馴染めなかったバルデラマは、バルセロナ戦で退場処分を受けるとそのまま帰国、92年に退団となった。 コロンビアに戻り輝きを取り戻したバルデラマ、代表でその真価を発揮する。 93年Wカップ南米予選の敵地で行われたアルゼンチン戦。 司令塔バルデラマのパスが冴え渡り、快足のFW陣が相手陣営を切り裂いた。 そしてアスプリージャの2ゴールなどで、アルゼンチンに対し5-0と圧勝を収めたのだ。 こうして復活したバルデラマは、この年2度目となる南米年間最優秀選手賞を受賞する。 、奔放なパスサッカーとハイプレスの戦術で「最も魅惑的なチーム」と注目されたコロンビアだが、初戦で 擁するルーマニアに3-1と完敗してしまう。 第2戦は開催国アメリカと戦うが、DFエスコバルのオウンゴールなどで1-2と連敗を喫してしまった。 国民の期待を裏切り、1次リーグ敗退となってしまったコロンビア。 帰国したエスコバルが大会期間中に射殺されてしまうという悲劇も起き、バルデラマ2回目のWカップは失意のうちに終了した。 バルデラマは96年からアメリカMLSでプレー。 にも出場する。 だが37歳となったバルデラマを始め高齢化したコロンビアには、もはや1次リーグを勝ち抜く力がなかった。 02年、MLSのコロラド・ラピッズでのプレーを最後に、バルデラマは41歳で現役を引退。 現在はコメンテーターとして活躍している。 バルデラマの引退後は再び低迷したコロンビア代表だが、14年のWカップ・ブラジル大会に16年ぶりの出場を果たす。 そしてコロンビアサッカーのDNAを受け継ぐ若き司令塔、ハメス・ロドリゲスが活躍、過去最高となるベスト8入りを果たした。

次の