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球団の歴史 [ ] 株式会社横浜DeNAベイスターズ YOKOHAMA DeNA BAYSTARS BASEBALL CLUB, INC. 本社所在地 〒231-0015 尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 設立 (株式会社大洋松竹球団) 事業内容 プロ野球興行事業など 代表者 () () 資本金 1億円(2015年12月31日現在) 発行済株式総数 130万株(2011年12月31日現在) 純利益 15億2500万円(2019年12月31日時点) 純資産 54億0100万円(2019年12月31日時点) 総資産 154億4100万円(2019年12月31日時点) 決算期 主要株主 97. 林兼商店(後の、現・)の実業団チームとして5月に設立 され、翌1930年のでは、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。 翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、の影響などで1932年の前に休止状態となり、部だけが開始前後まで存在していた。 戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。 その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、にはで優勝し一躍名をあげる。 プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、・・ら主力選手が新球団のに引き抜かれた。 野球部に情熱を注いでいた前社長 は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。 1949年に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的に まるは球団とした。 に加盟。 を、(とは別)を本拠地球場とした。 社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、まで活動していた。 下関時代(旧・大洋ホエールズ時代) [ ] - 1950年シーズン開幕後に 大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、からベテランのと、大陽ロビンスからとを譲り受け、のスカウト活動により、からや、らを、からはやらを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、は6位、は4位と伸び悩んだ。 1951年、不採算から経営悪化したを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。 1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦()は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。 同年度から制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。 その他、主に試合は毛利球場3試合、2試合、2試合、小倉・3試合、5試合、3試合のほか、佐賀市営・・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。 その他は、浜田市設、旧松江市営、、、、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、、盛岡市営、、で開催された。 大阪時代(ロビンス時代) [ ] 、 1953年、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め の該当球団となった と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。 大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る 洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。 1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団ので並立。 球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。 主催試合は興行面の利点からで行われた。 1年目のシーズン終了後()に球団運営会社がで正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。 大阪時代の球団成績は1953年は5位。 翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝したとは55ゲーム離され、5位のに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。 川崎時代(新・大洋ホエールズ時代) [ ] 1954年 限りでは球団経営から撤退し、がオーナーとなる。 球団名を 大洋ホエールズに戻し、をへ移転した。 球団事務所は川崎市中原区に設置される。 のを本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗。 首位・巨人と61. 5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。 から、、、、の5名が入団。 同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「 明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。 エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍したが三度のを獲得。 ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。 この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった 1955年、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録。 前年までの監督だったを招聘。 三原は新人のと、シーズン中にから獲得したで二遊間を固め、秋山やを中心とした投手力を前面に押し出して監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。 でも相手に全て1点差勝利で4連勝。 日本一に輝いた。 - 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、1963年は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。 - 1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。 三原は1967年に監督を退任。 1965年から1973年にかけての巨人の中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。 当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず関係していた。 開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。 ところが7月頃から徐々に低迷、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれて前年と同じく5位に終わった。 が成績不振の責任をとって監督辞任。 チームは3年連続5位。 が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。 4年連続5位に終わる。 15年ぶり最下位。 川崎からへの移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため横浜市長の斡旋で(現)の出資を受け入れる。 2年連続最下位。 オーナーだった中部謙吉が1月に死去。 親会社の大洋漁業は長男のが、大洋球団オーナーは三男のがそれぞれ継承した。 松原やといった守備の名手に加え、、、ら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。 1980年代に入っても、、に受け継がれた。 横浜時代 [ ] 横浜大洋ホエールズ時代 [ ] 別当監督時代 [ ] 国土計画の主導で横浜市 に建設したに移転 、都市名を入れた 横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に改称。 横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置 など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。 この年、国土計画が()を買収したため、に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はとへ2:1の割合で売却された。 序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。 移転初年度の年は4位に終わるが、7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している。 8年ぶりAクラスの2位に躍進。 この年をもって別当は監督を退任。 翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。 土井監督時代 [ ] が監督就任。 初年度は4位。 この年のでは地元のを1位指名したが交渉権を獲得できなかった。 キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。 開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。 5月下旬に最下位に低迷し、6月にが月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。 優勝した巨人から31. 5ゲーム差、5位・中日にも15. 5ゲーム差も離された最下位に終わる。 関根監督時代 [ ] を監督に招聘する布石として長嶋と親交のあるを監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。 また、ジュニアと呼ばれた入団についてとの交渉が破談した。 この年は5位に終わる。 4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。 最下位に転落。 この年限りでが引退。 同年限りで関根は辞任。 近藤貞雄監督時代 [ ] が監督に就任。 、、の を売り出し注目された。 しかし、、頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず4位。 年明けにを解雇、とを獲得。 ポンセ、ローマンは活躍し、日本ハムから移籍の、近藤の若手起用もあったが、加藤、の離脱で薄さを露呈し 、4位に終わり、近藤は2年で監督を退任。 古葉監督時代 [ ] - 広島を4度の優勝に導いたを監督に迎えるが、5位、4位、最下位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、1989年にシーズン5年ぶりの最下位の責任をとり監督を辞任した。 古葉は5年契約ながら3年目で辞めたことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている。 しかしこの間、の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。 古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、、外部招聘ではの名が挙がっていたが大洋で2年間二軍監督の経験のあるが監督に就任し、投手コーチにはが3年ぶりに復活した。 須藤・江尻監督時代 [ ] 序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せた。 その後、失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。 4月は首位に立つもその後失速し、5位転落。 同年オフの12月25日には前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして(・)に・容疑で逮捕され 、年明け後の1992年1月7日に球団を解雇された。 またこの事件に伴いセ・リーグ会長はNPB全12球団に対し「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが 、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山はで球界復帰を果たした。 前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチのが監督代行。 のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。 とのダブルストッパーが確立されチームも復調し混戦だったリーグ戦で7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが5位に終わり江尻の来シーズンの契約更新はなかった。 の、親会社の大洋漁業が実施によりマルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を 横浜ベイスターズ(横浜ベイスターズ)に改称した。 翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。 球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針は導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。 しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だったの規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。 だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。 その結果、愛称は「」から取った ベイスターズとなった。 また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された [ ]。 横浜ベイスターズ時代 [ ] 近藤昭仁監督時代 [ ] 1993年 チーム生え抜きのが監督に就任。 球団名変更に伴い、ユニホーム・・・マスコットキャラクターを一新。 ベイスターズ初年度は5位に終わるが巨人には8年ぶりに勝ち越した。 この年限りで斉藤明夫が引退。 この年のオフから始まった制度により、シーズン終了後に巨人のを獲得。 長年チームを支えたや、、ら主力選手が大量解雇された。 獲得した駒田の他、やなどを起用してチームの若返りを図るが、混戦のシーズンの中、結果的に5年ぶりの最下位に終わるが優勝した巨人に唯一勝ち越した。 結果的に4位に終わるも5年ぶりに中日に勝ち越して12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。 のちにとなるが3番レフトに定着するなど若手が台頭した。 しかし、フロントからの近藤に対する監督としての評価はあまり芳しくなく、 [ ]この年限りで任期満了により退任となった。 第1次大矢監督時代 [ ] バッテリーコーチのが監督に就任。 4月を首位で折り返し、 「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速し、全球団に負け越して5位に終わる。 を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。 シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めるとチームは浮上しシーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、広島に5年ぶりに勝ち越しながらも巨人と阪神に負け越して2位で終わったが7年ぶりのAクラス入りを果たし貯金持ちでのAクラスは1979年以来であった。 大矢は2年契約を終えてオフに監督を辞任。 権藤監督時代 [ ] 権藤が監督に昇格。 抑えのを不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない 「」がかみ合い、阪神に5年ぶりに勝ち越しての対阪神戦 阪神甲子園球場 に勝利し38年ぶりのリーグ優勝 を果たした。 ではと対戦した。 下馬評は西武有利と予想されたが 、4勝2敗で日本一となる。 ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。 また前年怪我のため一軍登板がなかったが復活を果たし を獲得。 シーズンオフにはドラフトで、この年の目玉選手・地元のを1位指名したが獲得できなかった。 が153打点を記録し二冠王に輝く活躍を見せるなどこの年もマシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率. 294と当時のチーム打率の日本記録 を更新する。 しかし投手陣はが17勝 を挙げる活躍するものの、の不調や、佐々木主浩の故障などで頭数がそろわず、3位に終わる。 オフには、佐々木が大リーグ・に移籍。 ロッテからが入団。 がと首位打者の二冠に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず2年連続の3位。 オフに権藤が監督を勇退。 主力打者のローズ、駒田も退団。 この年よりファーム組織を 湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。 森監督時代 [ ] 西武を8度のリーグ優勝に導いたが監督に就任。 この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては)。 シーズンオフには、正捕手のが、森との確執もあり、 権を行使して中日に移籍した。 また、チーム最多勝投手の小宮山もメジャーリーグに挑戦するために退団した。 に親会社(筆頭株主)がマルハからに変更される予定だった。 球団オーナーは当時の東京放送社長となった(詳細はを参照)。 これに際し、1978年以降ニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していた、の中継権が復活。 横浜スタジアムからのの他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。 この年を境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。 チームは開幕から記録的な低迷を続け 、9月25日に森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる。 このシーズンでの最終勝率は. 363だった。 投手コーチには、内野守備走塁コーチにはと森の西武時代の教え子が就任したが、チーム防御率は3. 75から4. 09で、チーム防御率はセリーグ中で5位だった。 チーム失策も68から81に悪化した。 チーム打率、得点、安打、本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。 3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。 2つあったが統合し、が発足。 山下監督時代 [ ] チーム生え抜きのが監督に就任。 現役メジャーリーガーのを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で、ダイエーからをFAで獲得するなど大型補強を試みるが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。 新外国人のや新人の、若手のら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る. 324を記録。 5位・広島からも22. 5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど大きく苦しみ6勝22敗と大きく負け越した。 45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球ではのヤクルト以来実に33年ぶりだった。 佐々木主浩が年俸6億5000万円の2年契約を結び5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。 打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続けるが、最終戦に敗れて広島と勝率0. 001(1厘)差という僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定した。 一方で前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど一定の成績は残した。 山下はこの年、監督を退任した。 シーズンオフにへの金銭授受の問題の責任をとってオーナーの砂原幸雄が辞任し、TBS副社長のが新オーナーに就任。 牛島監督時代 [ ] が監督に就任。 主砲のウッズが中日に移籍するも不調だった三浦をはじめ投手陣が復活し、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。 また、巨人にはで同一カード3連勝を記録するなど一度も負け越しがなく16勝6敗と大きく勝ち越した。 エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である()を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど新しいファンサービスを試みた。 投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。 6月以降は村田の4番打者定着やら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。 球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中のにこの年限りの監督退任を発表。 、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すを、理事長を球団のとして設立した。 、子会社の株式会社ベイスターズソフトをする。 、資本金を6億5000万円から1億円へ減資する。 「チーム運営統括」という的ポジションの幹部としてで監督を務めたが就任。 この年チーム唯一の2桁勝利のが年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍した。 第2次大矢監督時代 [ ] 大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。 の若手投手・を主砲・多村仁との大型トレードで獲得し、また巨人の正二塁手だったを1選手プラス金銭のトレードで獲得した。 また、FA移籍した門倉の人的保障としてが入団。 移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。 最終戦に敗れシーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年振りに70勝に到達し、村田修一が球団日本人選手としては以来31年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。 、と業務提携することになり、調印する。 ファームの湘南シーレックスの取り組みを、スポーツビジネスの授業に取り入れていく事が決まった。 開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた一方でスウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドーム大阪で行われた阪神との3連戦の1度だけで連勝は最も長くて3止まり。 この年に飛躍しを獲得した、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村といったリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べず、四球が少ない為チーム打率. 2655の割には出塁率が低く、前年の日本シリーズを戦った中日と北海道日本ハムと並んで. 316と12球団ワースト。 しかも折角出塁しても足でプレッシャーをかける事すら出来ず盗塁は37と4年連続でリーグワースト を記録し盗塁成功率も. 552と67回の盗塁企図数と共に12球団断トツのワースト。 またセ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、168被本塁打とセ・リーグどころか12球団断トツで少なかった阪神(85被本塁打)の倍近くホームランを打たれいずれも12球団ワースト、与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりだったがチーム防御率4. 74(先発防御率が5. 09と12球団ワースト、救援防御率が4. 25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。 セーブも在籍3年間で84セーブを挙げたが巨人へ移籍した事で前年はリーグ4位の35セーブだったのが27セーブに減少とセ・リーグワースト。 9回の失点も52とセ・リーグワーストを記録する等初回に102失点、4回100失点と序盤で失点を重ねて後手後手の展開を余儀なくされ、四死球で余計なランナーを出塁させては本塁打を浴び、尚且つ三振の奪えない投手陣が打撃陣と共にリーグ又は12球団のワースト記録を量産し2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。 チームの勝率は. 338と99年のがもっていた右打者シーズン最高打率. 369を塗り替えた上での首位打者を獲得した内川の打率(. 378)よりも低く2リーグ分裂後では初となる珍事も発生する始末でシーズンオフには一軍ヘッド兼打撃コーチの、一軍投手コーチのなど4コーチが解任され、、鈴木尚典ら、チームを長年支えてきたベテランが退団した。 また、正捕手のがFA権を行使してヤクルトに移籍。 での村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど序盤から低迷。 に大矢の無期限休養(事実上の解任)が発表された。 二軍監督のが翌日から監督代行を務めたが、チームを浮上させることができず93敗喫し、2年連続の最下位に終わる。 前年同様一度も貯金はなく、田代は一軍の監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任された。 投手コーチのは一年で解任された。 チーム防御率・失点 、打率・得点 はリーグ最下位に終わった。 、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていたを迎え入れ、を周遊する「」で就任記者会見を行った。 尾花監督時代 [ ] ロッテのエースを複数人とのトレードで獲得し、同じくFA宣言をしたロッテの、日本ハムを自由契約となったを獲得するなど大規模な補強を行った。 当初の構想では、前年途中から抑えを務めたを先発に転向させ、新外国人投手のを抑えに起用する予定だったが、ブーチェックがで成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。 また、が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから急遽二軍落ちとなった。 3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。 しかし、開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。 一度も浮上することもなくの対巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定し、の対中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定。 の対ヤクルト戦で敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、の対阪神戦の敗戦で130試合制だった以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。 前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。 一軍ヘッドコーチのが不振の責任を取り1年で辞任。 オフに内川聖一がFAでソフトバンクに移籍した。 8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。 、が保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ 、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。 結局10月下旬、東京放送ホールディングスは住生活グループとの交渉を打ち切り 、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った。 交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている ものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。 横浜から出て、、()、と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした。 また同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。 (球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた。 FAで日本ハムのを獲得。 の発生時は横浜は横浜スタジアムで対ヤクルトオープン戦の試合中だったが、球場全体が揺れて試合は打ち切り、選手や観客がグラウンドに避難している。 当初の公式戦開幕予定が、この震災の影響によりに延期された。 4年ぶりに本拠地での開幕となり、中日と対戦し3連戦を勝ち越し、2000年以来11年ぶりに開幕カードを勝ち越したが、5月以降低迷状態に陥り、交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わり 、7月は一度も連勝できないまま 、オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す。 後半戦も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)に敗れたことでBクラスが確定し 、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れたことで4年連続の最下位が決定している。 最終的に47勝86敗11分で首位から27. 5、5位広島と11. 5ゲーム差がついた。 チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。 オフに村田修一がFAで巨人に移籍。 10月19日、東京放送ホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半を(DeNA)へ譲渡することで大筋において合意。 10月22日、最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された。 11月4日、東京放送ホールディングスが所有する株式の一部(東京放送ホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49. また、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」として申請される。 11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が発表された。 12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された。 翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により 横浜DeNAベイスターズとして新たにスタートを切った。 球団GMには巨人OBのが就任したが、一方で監督人事は難航した。 当初はやらの名が候補に挙がったが、最終的に横浜OBでもある工藤公康が候補とされた。 だが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督等の人事を巡って工藤と球団が対立し、に高田GMが破談になったことを会見で述べている。 翌6日には当初からの候補であったの名前が挙がり、に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表されている。 東京放送ホールディングス時代は 10年間で8回最下位という戦績を残して幕を下ろした。 これは、プロ野球市場で一定期間以上参入した親会社としては他に類例のない惨憺たるものである。 しかも 5年間連続Aクラスという好調から一転しての暗黒時代であり、親会社としての経営能力に強い疑問符がつけられた。 横浜DeNAベイスターズ時代 [ ] 中畑監督時代 [ ] 改修された横浜スタジアム シーズンスローガン:「熱いぜ!横浜DeNA」 親会社変更に伴いユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。 、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行う。 には、これまでの球団マスコット、ホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。 の開幕戦でDeNAとしての初陣となった対阪神戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし 、の同カードにおいて6対2で球団名称変更後初勝利を挙げるが 、続く4月4日から10日、同月22日から5月1日にかけて2度に渡り6連敗するなどした。 交流戦は9勝14敗の10位に終わり、7月7日の対中日戦に敗れ借金20として、自力優勝が消滅している。 前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初の同一カード3連勝するものの 、前半戦を最下位で終える。 後の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、Bクラスが決定。 9月29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)するものの 、136試合目のの対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続の最下位が決定した。 10月7日、対巨人戦(東京ドーム)で敗れたことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり 、東京ドームにおいてはセ・リーグ初の記録となった。 最終的に首位巨人とは40ゲーム、5位阪神に9. 5ゲーム差、46勝85敗13分、セ5球団に全て負け越している。 シーズンスローガン:「勝」 中日を自由契約になった 、、の3人を獲得した。 またかつてのチームの主力打者であったソフトバンクの多村仁志を含む3選手が、吉村裕基、ら3選手とのトレードで入団。 多村は7年ぶりの古巣復帰となった。 交流戦は7勝17敗で最下位に終わる。 の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、進出の可能性が消滅し、8年連続のBクラスが確定 したが、にヤクルトが巨人に敗れたことで、6年ぶりの最下位脱出が決定。 最終成績は5位に終わったものの、ヤクルト・阪神・中日の3球団に勝ち越し。 セ3球団に勝ち越したのは実に12年ぶりのことであった。 オフに阪神のをFAで獲得。 シーズンスローガン:「心」 シーズン途中に大砲のをキューバから獲得。 シーズンは4月に7勝18敗 勝率. 280と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、5月に、6月に、8月にと球団史上初めて1シーズン3度の月間MVPを獲得し (9月にも山口が獲得し最終的に1シーズン4度 )、5月から8月まで勝率を5割以上をキープし9月までクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の9月にチームは失速にAクラス入りの可能性がなくなり 、の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ5位が確定した。 結果は2年連続で5位。 オフに巨人から、グリエルの弟、を獲得した。 また、ドラフトでは、後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる、()を1位指名した。 シーズンスローガン:「導 TO THE GLORY TOGHTHER」 に球団オーナーがから親会社・DeNAの創業者でもあるに交代したことを発表、初の女性球団オーナーが誕生した。 また、ユニフォームも濃紺から、青色 (通称:横浜ブルー)に変わった。 、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。 10試合以上消化後の単独首位は、横浜ベイスターズ時代の以来約8年、2898日ぶり、DeNAが親会社となってからは初の単独首位につく など、序盤好調な滑り出しを見せた。 しかし、交流戦では、全6カードをすべて負け越し 、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。 勝率・176は交流戦歴代ワースト記録。 交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう。 しかし、6月23日の巨人戦で2-7で勝利し、連敗を12で止めた。 7月に、元メジャーリーガーのを獲得した。 交流戦後の混戦の中6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。 前回優勝の1998年以来となる、前半戦首位ターンとなった。 しかし、後半戦に入るとじわりじわりと順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。 直後に最下位を脱出するも、終盤は中日との最下位争いとなり、の中日戦に敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅。 、シーズン最終戦(巨人戦)で敗れ3年ぶりの最下位が決定した。 前半戦を首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった。 また本塁打数こそリーグ最多の112だったものの、リーグワーストのチーム防御率3. 80、総失点598、ワイルドピッチに至っては1990年のの日本プロ野球タイに並ぶ68個を記録するほどだった。 また、、、を起用するなど捕手も固定されず、11個のパスボールも記録。 観客動員数は好調で球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑監督は低迷の責任を取る形で退任。 これにより4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた。 後任監督には球団史上初の外国人監督となるが就任することが発表された。 神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。 、ラミレス新監督の就任が正式に発表された。 合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表。 ドラフトでは、即戦力として期待された左投手の()を1位指名。 課題であった捕手にものを迎えた。 ラミレス監督時代 [ ] シーズンスローガン:「WE PLAY TO WIN」 前年に開始されていた、本拠地であるの運営会社・のがひと段落し、付けで運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71. このため、運営会社は同月28日付で、横浜DeNAベイスターズの子会社(の孫会社)に名義を変更。 キャンプ前に新外国人として、を獲得するも、 キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発。 が左膝靱帯断裂で今季絶望 となったほか、、、といった主力選手が故障により開幕に間に合わず、開幕直後にとを相次いで獲得したが、4月は投打に渡り戦力不足の結果9勝18敗と大きく負け越した。 5月に入ると梶谷など怪我で離脱していた主力選手も戻り、、が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど時点で11あった負け越しをには完済した。 交流戦は負け越したもののが加入し、7月にはが月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど大爆発。 にはが世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(に認定され、、で認定証が授与)するなど勢いを取り戻し、17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決める。 すると後半戦はに4位阪神に0. 5差まで詰められるも最後までAクラスを守り抜き、、25回戦にて勝利、11年ぶりのAクラスが確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。 最終結果は69勝71敗3分。 CS進出を決めた翌日に三浦大輔が現役引退を表明し、の対25回戦(レギュラーシーズン最終戦)が引退試合として行われた。 三浦の引退により、大洋ホエールズ時代に在籍した選手と、1998年のリーグ優勝・日本一を経験した選手が全員引退した。 では公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位のと対戦、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの1勝4敗で敗退した。 DeNAがCSに進出しファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にして、12球団すべてがCSに出場するとともに 、セ・リーグ全球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。 シーズンオフ、新外国人選手に、、、の4名を獲得。 ヤクルトを自由契約となったと、FAでが巨人へ移籍したとしてを獲得した。 シーズンスローガン:「THIS IS MY ERA. 」 新スローガン:「OUR TIME IS N. 」 5月30日の交流戦初戦で3位に浮上する。 8月22日から同月24日の対広島3連戦。 22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から(2ラン)、、の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。 本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。 翌23日も5-6で迎えた9回裏2死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏にのサヨナラタイムリーで連勝。 24日の第3戦は9回、二死二塁から打者の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。 同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。 3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である。 9月に入り巨人が持ち直してきた為、巨人との間で激しい3位争いとなり順位が入れ替わることもあったが、10月1日の対広島戦で勝利し3位を確定させた。 73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりのシーズン勝ち越しを決めた。 では、1stステージで2位阪神を2勝1敗で破り、ファイナルステージでは第1戦を落としたのちに4連勝し4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位広島を破り日本シリーズに進出した。 3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。 またこれにより、セ・リーグでは2010年代で、CS制度導入後11年目にして全球団が日本シリーズに進出した。 ソフトバンクとのでは3連敗で王手をかけられたのち2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身含め3度目となる日本シリーズで初めて敗退。 日本一を逃した。 これに従い、1950年に出場し、1952年に消滅した松竹ロビンスと、2004年に消滅したを含む日本シリーズの参加経験のある・誕生の13球団が日本シリーズを敗退したことになる。 オフの補強の目玉として、阪神から宣言したを獲得した他、元ソフトバンクの、自由契約となった選手では中日から、楽天からを獲得。 新外国人ではが加入した。 シーズンスローガン:「VICTORY is within US. 」 新スローガン:「VICTORY is within US. 熱く、熱く、立ち上がる。 」 2011年以来、球団が横浜DeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。 開幕投手は2年連続でが務めたが試合は3-7で敗れ、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から同8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝した。 翌4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると 、からにかけて以来17年振りとなる8連勝を記録した。 しかしここから急降下を見せ、7月、8月と2ヶ月連続で負け越し最下位に沈む。 9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスとなる4位でシーズンを終え、12球団で唯一のクライマックスシリーズの球団の主催試合を開催せずに平成を終えた。 、が現役を引退、ウィーランドやが自由契約となり退団した。 トレードで7月にや、が、オフにはをとなった、かつてDeNAに所属したが加入した。 また7月18日、のと戦略的パートナシップを締結したことを発表した。 シーズンスローガン:「Go Beyond the Limit. 」 新スローガン:「一生残る、一瞬のために。 FOR THE MOMENT THAT WILL LAST A LIFETIME. 」 球団創設70周年を記念し、この年 限定の球団プライマリーロゴが登場した。 従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。 中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る。 1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた。 3月14日、のと業務提携を締結した。 4月に約4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。 5月30日の中日戦に勝利し最下位を脱出し、オールスター前には首位巨人と9. 5ゲーム差の2位で折り返す。 一時は首位巨人との差を0. 5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、結局一度も首位に立つことなく優勝を逃した。 9月24日の中日戦に勝利したことでシーズン2位が確定し、初となるCS本拠地開催を決めた。 これによりNPB全球団がCSを本拠地で開催した経験を持つことになった。 2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年振り。 が43本塁打を放ち、二年連続の本塁打王と打点王を獲得。 CSファーストステージで3位の阪神と対戦。 1勝2敗で球団初のファーストステージでの敗退となった。 10月29日、がを利用しての挑戦を正式に発表した。 シーズンスローガン:「NEW GENERATION IS HERE. 」 1月25日、筒香嘉智の米大リーグ・への移籍に伴って空席となっていたキャプテンにが就任することが発表された。 春季キャンプでは、過去にMLBでを11度受賞した守備の名手であるを特別コーチとして招聘し 、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスより と がコーチ研修目的で参加し 、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝 2回 (1960年、1998年)• クライマックスシリーズ優勝 1回 (2017年)• 日本一 2回 (1960年、1998年)• Bクラス 52回 (1950年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1968年、1972年 - 1978年、1980年 - 1982年、1984年 - 1989年、1991年 - 1996年、2002年 - 2004年、2006年 - 2015年、2018年)• 最多勝 80勝(1964年)• 最多敗 99敗(1955年)• 最多引分 17分(1979年)• 最高勝率. 585(1998年)• 最低勝率. 238(1955年)• 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)• 連続イニング無得点 46(2012年)• 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年 - 2001年)• 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年)• その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 1. 0ゲーム(1964年)• 最大ゲーム差 61. 5ゲーム(1955年)• 最多本塁打 194本(2004年)• 最少本塁打 51本(1955年)• 最高打率. 294(1999年)• 最低打率. 208(1956年)• 最高防御率 2. 31(1971年)• 最低防御率 4. 94(1977年)• 68暴投(2015年、ロッテオリオンズ〈1990年〉と並びプロ野球タイ記録) チームの特徴 [ ] 球団名 [ ] 1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。 1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ) 、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・)の事例が存在する。 前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在したは名前が同じだけで、繋がりは全くない。 以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業がを主要業務にしていたことに由来する。 現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。 日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。 大洋・洋松時代は略称をパ・リーグのや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。 2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。 略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、 従来通り「横」を使用することが承認されたが 、NPBの公式サイトでは「横」でなく「 ディ」あるいは「 デ」との表記も使用されている。 また、 、 では「D」と表記している(中日は「中」)。 テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元が「横」、が「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のが「デ」、の自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。 1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既に(略称・BW)と(略称・Bu)の2球団存在していたため「 Yokohama BayStars」の「 YB」を略称としていた。 なお2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「 DB」へ変更された。 マスコット [ ] この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 球団は、「 DB. スターマン」。 ずんぐりむっくり としたユニホーム姿の。 元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。 2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。 また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB. ライダー」。 球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。 2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。 翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「 DB. キララ」が登場した 2015年以降、関東圏球団以外のマスコット交流はオールスター以外ではなくなっている。 スターマン(通称・スターマン) 年齢不詳。 横浜市生まれ。 性格は食いしん坊でおちゃめ。 趣味はボール集めと「食っちゃ寝」。 好きなものは丸いもの・美味しいもの・。 身長はボール5個分、体重はボール10個分(理想は5個分)。 横浜スタジアム在住。 名前の「DB. 」は「DeNA BayStars」のイニシャルであると同時に「大好き・ぼくらの(Daisuki・Bokurano)」の意味も込められている。 ベルトには後述の「Bibon」が付いている。 ライダー 性別:男、年齢:非公開、血液型:非公開、身長・体重:非公開、出身地:非公開、活動場所:横浜スタジアム内、およびその周辺 「球場の守り神」として横浜スタジアムの内外で活動していたキャラクター。 2012年8月から球場内のスタンドやコンコースなどに出没し、ファンが快適に試合を観戦できるよう自主的にパトロールを実施し、観戦マナーの啓蒙活動を続けた。 この事に敬意を払い、DeNAは球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認した。 2016年4月6日、球団公認キャラクターとしての契約の終了を発表し、今後は再び「球場の守り神」に戻るという。 キララ(通称・キララ) 年齢不詳。 横浜市生まれ。 性別は女の子。 チャームポイントは大きなリボン。 性格は明るくて元気いっぱい。 趣味はキラキラしたもの集め。 好きなものはキラキラしたもの・。 身長はポンポン5個分、体重はポンポン10個分。 背番号はなし。 「ベイスターズを応援するために横浜スタジアムへ通い、グラウンドやステージでキラキラ輝くdianaに憧れ、夢を叶えるために、ダンスを一生懸命練習したことで、2013年から横浜DeNAベイスターズを応援する仲間として加わることになった」という設定。 スターマンから想いを寄せられているが、当の本人は全く興味が無い。 チアリーディングチームの "diana"。 横浜スタジアムにて 過去 [ ] ホエールズ時代• クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。 グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。 マリン君(1978 - 1992) - 横浜に本拠地を移転した時に、として登場。 以来、1992年までペットマークとして使用。 2016年にDeNAベイスターズの5周年企画の一環として復刻。 ベイスターズ時代• ホッシーファミリー(1993 - 2011) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。 以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託すことで表舞台から姿を消すことになった。 2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。 ホッシー hosshey - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。 を含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。 優しげな口調で喋る良い子キャラ。 ホッシーゾ:横浜スタジアムにて(2010年8月8日)• ホッシーナ hossiena - ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。 明るい口調で喋る元気な女の子。 ホッシーゾ hossiezo - ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。 語尾に「YO!! 」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!! 」)を付けた言葉を多用する系キャラ。 ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。 TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。 中の人()は以前にマスコットの「」のアクターとして派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。 球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「」がの「非公認」マスコットの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。 この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、(トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や、若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。 その後、横浜スタジアムで開催された第2戦、公式戦ではの本拠地開幕戦(対巨人)、の対阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。 また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。 ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。 文字どおり2001年シーズンに登場。 視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。 以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。 2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。 背番号2001。 球団のマスコットではないが、が親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「(ブーブ)」と『』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。 応援スタイル [ ] 「」も参照 トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。 応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。 また、一部ファンにおいての掲揚が行われている。 また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。 一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある。 イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。 もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「」を飛ばすことである。 これは横浜スタジアムにおいて、当時の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。 以下は現時点(2013年以降)のもの• このスタイルは相手チームも同様に行う。 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。 相手投手交代時には応援団主導のもと、タオルマフラー・フェイスタオルを広げながら作の「勇者の遺伝子」を歌う。 代打登場時には1回だけ「代打のテーマ」が演奏される。 応援歌前のファンファーレが存在する選手(かつて在籍した、、、など)については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。 ただしコールが固有のものである選手(など)については、固有のコールが優先される。 投手の打席では投手用応援歌が演奏されるが、過去には、、、などに対しては専用の応援歌が演奏された。 この内、野村の応援歌は新たに左投げ投手用の汎用応援歌として使われている。 以前はプロの作詞家・作曲家により製作され、ポップス調やロック調の編曲で収録された選手別応援歌CDが発売されており、球場でのトランペット演奏でもこれらの応援歌を用いていた。 しかし、2000年頃以降に新規製作された楽曲は諸々の事情により、実際に球場で使用されることは少なくなった ことから2003年を最後に制作されなくなった。 2000年頃以降に応援歌が設定された選手では、応援団が新規に製作した楽曲や、過去に他の選手用として製作された応援歌 を流用している。 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「」が応援団により演奏される。 多くの球団で行われているは2012年まで通常時はで使用禁止 であったため、原則として長らく使用されることはなかった。 2013年から「スタージェット」(球場外へ飛び出す可能性が低く、球場周辺のの環境面やポイ捨て禁止条例遵守、近くを走る電車への影響という安全面でも優れた風船)のみ使用可能となった。 同年より横浜ファンも風船の使用を開始し、7回表終了後に青色の風船、勝利時には水色の風船を飛ばしたが、2015年より発売されているものには青色のみが入っており、水色のものは使われなくなった。 ただしこの以前にも他球場において、例外的に横浜ファンが大々的にジェット風船飛ばしを行った事例がある。 2006年5月27日のでの戦でスポンサーの神戸トヨペットが先着2万人に配った創立50周年記念のジェット風船を横浜ファンも飛ばしていた。 2011年6月12日の(当時同球場でジェット風船の使用は禁止されていたが、この試合のみ実験的に解禁。 問題がなかったことが判明し、2012年シーズンより全面使用解禁)での戦において、横浜ファンも青色のジェット風船を飛ばした。 2007年より試合時、初回先頭打者に対して「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期はビジターのみ)。 の本拠地・ではトランペットおよび笛の使用が禁止されているため、メロディー部の口ラッパを含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。 宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。 ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。 2010年、2011年に在籍したには、交流戦でのみ日本ハム時代の応援歌と横浜での応援歌 を交互に演奏することがあった。 2010年7月に、当時在籍していたの応援歌(過去1993年にの応援歌として製作し使用されたもの)をサビに使用した楽曲「」が、同年5月にデビューしたアイドルグループ・によりリリースされた。 同曲は、内川本人の登場曲として、実際に球場で使用されたことがあった。 2016年以降、四球、ホームラン、勝利時のファンファーレにの一部のメロディが使用されている。 私設応援団 [ ] DeNA球団ではを受けた以下の団体が応援を指揮する。 以下の2つの団体は、現存しない応援団である。 湘南海坊主 SHONAN SEABOSE• 横浜ベイスターズ下関ファン集いの会 戦いぶり [ ]• で横浜スタジアムでの胴上げ(は毎日大映オリオンズの本拠地・)を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年・1998年ともに)である。 2017年終了時点で日本シリーズ出場は3回。 現存するセ・リーグ6球団の中では最少だが、2016年まで敗退がなく(2005年発足で敗退のない楽天を除けば)現存11球団で最も日本シリーズの敗退が遅かった。 また試合勝率. 625は出場全球団のうち最高の記録である。 の第3戦での黒星は日本シリーズで本拠地での初黒星となった。 それまでは一度も本拠地で負けたことがなかった。 現存するセ・リーグ6球団の中で唯一、球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本シリーズ制覇を一度も達成していない。 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。 現存するセ・リーグ6球団の中ではAクラス入り回数が最少(2019年終了時点で18回)。 3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。 2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去にやが記録)。 3シーズン連続90敗はこれまで延べ5チームが喫した2シーズン連続を上回るプロ野球ワースト記録。 また、この球団のシーズン90敗以上は6回。 2008年から2012年まで5年連続で勝率. 399以下を記録し、これは1957年から1961年までの近鉄パールス以来50年ぶりの記録である。 シーズン最下位23回は、消滅した球団も含めて日本プロ野球全球団で最多。 2007年シーズンから導入されたに2016年に初出場を果たしたが、これは12球団で最も遅いCS初出場であった。 また、同年のファイナルステージ進出および2017年のCS初突破はセ・リーグでは一番遅い。 また、2019年で初めてCSを主催ゲームで開催したが、こちらも12球団で一番遅い。 セ・リーグ6球団では唯一に選ばれた野手が1人もいない球団である。 打者有利な横浜スタジアムをホームにしているため、伝統的に打線は98年のマシンガン打線に代表されるようにバントや盗塁等の小技が苦手でヒットやホームランで打ちまくり、投手は先発勝ち投手の権利を得ると5 - 7回で降板し中継ぎに託す大味な戦いが得意なチームだったが、親会社がDeNAになってからはチームカラーを一新し、GMにを招聘し日本ハム時代に採用した「BOS」(ベースボール・オペレーション・システム)を本にしたチーム作成、スカウトに着手している。 BOSについて詳しくはを参照。 営業・ファンサービス [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。 2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの() の意向で、の可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。 選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。 この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、試合以外のイベントも楽しめることができる。 から・との合同で『 』を立ち上げ、ファンクラブ会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問やファンクラブ会員に限り巨人・ヤクルト主催のDeNA戦で来場ポイントの付与を行っている。 以下は2016年時点のもの• スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。 各社(読売新聞・日本テレビ・スポーツ報知)の記者に対してはまたは野次が飛ぶこともある。 BAYスマイルショット(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)• ベイスターズスーパーバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に2回)• ドッカーン! FLY CATCH(試合によって異なるが1名か2名がフライキャッチに挑戦、成功すればホットドッグのトッピング量2倍などの特典)• ハッピースターダンスコンテスト(5回裏終了後。 オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。 賞品は2006年がグローブ、2007年が提供の年間指定席ペア招待券、2016年が提供のベイブルーシートペア招待券)• サインボールの投げ入れ(ヒーローインタビューに出た選手のもの)• 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。 株主構成 [ ] 2016年3月31日現在• 株式会社 127万株(97. 株式会社 3万株(2. ところが10日以上も経ったところでのオーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるがの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。 最終的に第3位株主のに譲渡された。 この際、東京放送がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。 この判断により当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円 の支払いは不要とされた。 唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。 横浜ファンでもあるのは「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。 球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。 2005年10月、が東京放送の株式を大量購入して筆頭株主となった。 しかし、楽天がすでにを運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。 11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、東京放送が東京放送ホールディングスに移行したことから楽天は買収を断念して反対株主のを使い、東京放送ホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。 東京放送ホールディングス時代以降の放映権 [ ] 「」も参照 東京放送ホールディングスが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であった時代も、傘下()の放送局である・では、週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継は、大洋漁業からマルハ保有時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。 巨人戦以外はとが取れないことにも起因していた。 テレビ中継は通常が単独放送し 、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社か(対中日戦は、対阪神戦は)の中継で補っていた。 フジテレビもニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は、対ソフトバンク戦は)制作中継のために使っていた。 CS放送については、2002年にマルハから東京放送ホールディングスに譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみで放送するも、当時フジテレビ系のCSであった(のちにとの合併の際、東京放送も資本参加)で中継していたが、以後TBSニュースバードに放送チャンネルが移行している。 シーズンよりに移行された。 ラジオ中継はTBSラジオがを務める、ニッポン放送が基幹局を務めるで裏送りも含めて中継していた。 主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された。 東京放送ホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。 しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみ中継している。 DeNAが親会社となった2012年以降は、上記放送のほか、各サービスでの主催試合生中継も展開している。 展開状況は以下のとおり。 (2012年 - )• (2015 - 2018年)• (2017 - 2018年)• 球団関連会社からファンマガジン『』を発売(毎月25日)していた。 2010年12月号を持って休刊。 東京放送時代まで横浜スタジアム側から、選手強化費用として毎年3億円を球団に還元していた。 株式会社煙草屋安兵衛が展開する食料品店チェーン「ベイスターズマート(旧名:ホエールズマート)」が神奈川県内に40店ほど存在する。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 一軍 [ ] 下関時代(旧・大洋ホエールズ時代) [ ]• - 白は「WHALES」。 グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。 白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についた型。 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。 同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。 この年監督に就任したが当時ののビジター用ユニフォームを参考にしたものである。 このフルレターユニフォームはシーズンオフにと合併したため1年間しか使われなかったが、に1年間だけ復活している。 1950年 - 1951年のホームユニフォーム 2019年に球団創設70周年を記念して復刻された。 大阪時代(ロビンス時代) [ ]• 松竹ロビンスと合併し、球団名が大洋松竹ロビンスに変更。 帽子は黒地にTとSの組み合わせ(Tが銀糸、Sが金糸)。 黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。 ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用であった。 ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。 球団名が洋松ロビンスに変更。 ホーム用とビジター用は同じデザイン。 川崎時代(新・大洋ホエールズ時代) [ ]• 松竹が球団経営から撤退し、球団名が大洋ホエールズに戻る。 同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。 左袖に「KANAGAWA」の印が入る。 左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。 この年に新しい本拠地に定めたの4文字がいずれも「あ」をとする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている。 1955年 - を参考にしたユニフォームに変更。 左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、から親会社・大洋漁業の「まるはマーク」に変更。 1959年 - クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。 1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。 翌から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。 この1960年から白地となり、胸番号が入る。 およびには左袖にチャンピオンマークが入る。 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。 ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、線がオレンジ色から赤に変更される。 - 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。 に帽子の印が筆記体の「W」となる。 この「W」の書体は、の帽子と同じ。 背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。 ホーム用は「KAWASAKI」と本拠地のを意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた。 その後、ホーム用は選手名のものと併用される。 白地でオレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活。 背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。 ホーム用は選手名)もこれが最後。 帽子の色は黒にオレンジ色のW。 アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズの色は黒。 (スパイクシューズはラインなし)ユニフォームはホーム用の地色が白でビジター用がライトグレー。 ホーム用の筆記体のWhalesロゴとビジター用のTAIYOロゴ、胸背番号、背番号の上のネームがオレンジを黒で囲んだものとなり襟袖ズボンラインもオレンジを黒で囲んだものとなる。 帽子のWマークはそれまでの筆記体から斜体がかったデザインに変更。 - 基本色がカラーと呼ばれたものになる(経緯については)。 帽子はグリーン地にツバ・天ボタン・空気穴がオレンジ。 マークはオレンジに白で囲われた「W」。 ホーム用は、白地でないものを採用。 オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴ(白い縁取り入り)が入ったユニフォームを使用。 ビジター用は緑地に橙色「TAIYO」ロゴ(白い縁取り入り)となっている。 パンツはホーム用・ビジター用ともベルトレス。 後半から、袖の「丸に『は』(まるは)」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。 また、ビジター用の胸マーク、背番号、背ネームの白縁取りがなくなり、背番号が若干小さくなる。 横浜時代 [ ] 横浜大洋時代 [ ]• - 本拠地が川崎から横浜へ移転し、球団名が横浜大洋ホエールズに変更され、チームカラーが紺一色になる。 帽子は紺色でマークは白で「W」。 ホーム用は、白地にマリンブルー(紺色)のライン。 胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。 ビジター用は、上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。 「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。 パンツはグレー。 スパイクは、(日本での発売元は)を使用し、当時の12球団では唯一の採用であった。 、ヘルメットの横に自分が打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を貼る制度を導入。 横浜ベイスターズ時代 [ ]• - 球団名が横浜ベイスターズに変更され、ユニフォームも一新。 チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青 を基調とし、スパイクも青地に白線となる。 ユニホームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。 背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。 途中若干のマイナーチェンジはあったが、球団史上最長の16シーズン採用されたデザインとなった。 ホーム用は白地に青のピンストライプ。 青地に白の縁取りの「 BayStars」のロゴ。 胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。 ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。 色は白)。 - スパイクの色が白地に青線になる。 - パンツの2本線が細くなる。 - 袖の2本線が細くなる。 ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。 - 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。 胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。 プロ野球では2001年の以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。 胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。 アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。 両肩に銀色の星マークが入る。 「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。 背ネームは幅狭。 ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。 ビジター用のみ帽子のツバの色が青色。 背ネームはホームに比べて幅広。 主催ゲームの初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。 ただし、実際には初戦以外でも使われ、事実上「金星タイプ」がデフォルトとなった。 主将ののユニフォームに「C」と「」を組み合わせたキャプテンマークをつけた。 ホーム用は右袖、ビジター用は左胸に装着。 2009年 - 2011年のビジターユニフォーム 横浜DeNA時代 [ ]• - 球団名が横浜DeNAベイスターズに変更され、新しい球団としてスタートしたことに伴い、ユニフォームのデザインを一新。 新しいユニフォームのデザインコンセプトは、チームロゴ、プライマリーマークと同様に、「継承と革新」。 「ワクワク感」「強さ・かっこ良さ」等、ファンが球団に期待する要素をイメージしてデザイン。 帽子のマークがホーム用とビジター用で違うなど、斬新なアイデアが盛り込まれた。 ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年から2008年まで使われたデザインを踏襲、4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時のユニホームを彷彿とさせるデザインとなった。 白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。 胸には新球団のロゴを据えられたほか、脇下には濃紺、袖口・首回りにはライトブルーのラインがそえられた。 帽子は濃紺を地色にチームのシンボルマークの「B」。 ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回り、ラケットラインには薄い青。 ズボンは白と濃紺の二種類を用意、上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。 背番号・胸番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、白と水色のグラデーションがかかったデザインとなった。 帽子には濃紺を地色にチームの象徴でもある「星」をあしらった。 主将に任命されたのユニフォーム左胸上部には、キャプテンマークの「C(ホーム用は白縁に赤、ビジター用は黒縁に金色)」の文字が入る。 7月3日から5日の対巨人戦では、本拠地の横浜スタジアムでビジター用ユニフォームを着用するイベントを開催。 ただし、ソックスはイベント用に作られたもの(紺色地にブルーの二本線)を使用。 - 現在使用しているホーム用・ビジター用ユニフォームに加えて、新たに「第3のユニフォーム(サードユニフォーム)」が登場。 3月29日の中日戦から年間を通して週末のビジターゲームを中心に着用する(月曜日の試合も着用)。 デザインは1993年から2008年まで使用していたビジターユニフォームを彷彿とさせる「ベイスターズブルー」をメインカラーに採用、首回りと袖口に水色が据えられた。 左袖にチームロゴ、胸に「 YOKOHAMA :DeNA」のロゴ、:DeNAの文字の下に胸番号。 ロゴ・胸番号・背番号・背ネームは、白字でネイビーと水色で縁取り。 ズボンは白で、水色の線が入る。 帽子は青地に白字で「 :De」(ネイビーと水色で縁取り)。 なお、現在使用しているユニフォームの背ネームに関して、 INOH や S. 2014年 - 前年使用したサードユニフォームの勝率が. 575のハイアベレージを記録したことで、このサードユニフォームを新ビジターユニフォームとして導入。 デザインは、胸ロゴが「 :DeNA」に変更になり右袖に「 YOKOHAMA」で、それ以外は前年のサードユニフォームと同じ。 - ホームユニフォームを変更。 デザインは前年まで使用したホームユニフォームと同じで、メインカラーを「海と港の街」横浜をイメージした鮮やかな「横浜ブルー」に変更。 また、ユニフォームの首元の裏に選手自身が大事にしているスローガンや目標を言葉にした「Personal slogan」が記される。 帽子は「横浜ブルー」にチームのシンボルマークの「B」。 が星に照らされて輝く海をイメージした「横浜ブルーメタリック」。 - 親会社がDeNAとなって5周年を記念し、ビジターユニフォームを変更。 「海と港の街、横浜」をコンセプトに、これまで、ビジターユニフォームの胸に配していた「DeNA」のロゴを「横浜に根づき、横浜と共に歩む」という想いから「YOKOHAMA」に変更。 球団のメインカラー「横浜ブルー」をベースに、青色の濃淡のストライプを使って、横浜の澄み渡る青い空と海を表現したデザイン。 - ビジターゲーム用のキャップデザインを変更。 - ホームユニフォーム、ビジターユニフォームの袖についているプライマリーマークを2019年シーズン限定で70thプライマリーロゴに変更。 - ビジターユニフォームを一新。 コンセプトは、「より青く、より強く。 カラーは、球団のメインカラーである「横浜ブルー」を中心に、港町・横浜の海のように鮮やかな4種類の青色を使い、全て青色で構成。 さらに、上部へ大きく拡がる「ストライプ」の動きを加えることで、選手の力強さを引き立て、無限に広がる可能性を表現した。 ビジターユニフォーム(2018年) 二軍 [ ]• 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「 湘南シーレックス」に変更し、ユニフォームも独自のものを使用。 帽子は紺色を地色に白の「S」マーク、ツバはエメラルドグリーン。 ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。 ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Shonan」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。 これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ野球球団に於いては唯一のケースである。 交流戦限定ユニフォーム [ ]• 左袖にTBSのロゴのワッペン。 ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニフォーム。 両脇にはをイメージした臙脂色が用いられる。 2009年以降は登場していない。 交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている。 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時ののデザインとよく似ていた。 両年とも期間終了後に選手のサインをいれてファンにプレゼントされる。 背番号の氏名ローマ字は記載されていない。 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。 「ベータ・キャップ」と称される。 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニフォームが登場した(2011年も同デザイン)。 デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。 キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。 2013年8月2日からの対中日3連戦にて、選手プロデュースのスペシャルユニフォームを着用。 「横浜の街もチームも星のように輝いて」という選手の思いから青を基調に空に輝く星空をイメージして肩や胸、背中などにかけて白い星がちりばめられたデザイン。 胸には「YOKOHAMA」の文字が入る。 帽子はサードユニフォームと同じもので、青地に白字で「 :De」(ネイビーと水色で縁取り)。 2014年8月8日からの対ヤクルト3連戦にて、夜空を彩る流れ星をイメージしたデザインのユニフォームを着用。 プロ野球で一番輝く星になりたいという選手・ファンの思いを表現して青を基調にチームカラーの青や勝利の白星を意味する白で描かれた星をデザインし、キャップはビジター仕様のものを用いた。 2015年8月18日からの対ヤクルト3連戦にて、「海と港の街・横浜」を象徴する港の光きらめく水面をモチーフとしたデザインで、水色、青、濃紺の爽やかな迷彩柄で、小さく12選手のシルエットも描かれている。 キャップには、この3試合限定で勝利を意味する「白星」が刺繍されたものを用いた。 2016年8月5日からの対中日3連戦にて、夜の横浜に輝く星空をモチーフとしたデザインで、横浜ブルーの夜空に煌めく星を幾何学模様のグラデーションで表現したものとなった。 キャップには通常のホームゲームで着用するものの左つばにDeNAへの球団移管5周年に合わせ「5th ANNIVERSARY」と刺繍されたものを用いた。 夜の横浜を空から見下ろした、きらめく街明かりをモチーフとし、横浜ブルーをメインカラーに星空の煌めきをドット表現による幾何学デザインで表した。 「横浜スタジアム」や2017年3月にオープンした球団の複合施設「」をはじめ、横浜の名所がデザインの中に隠されている。 キャップはホームユニフォームと同じ物を使用。 2018年7月31日からの対巨人3連戦では、「スパンコールのように輝く横浜の星空」をテーマとしたユニフォームを着用。 また、レプリカユニフォームにはより輝きを表現するために、光沢感と凹凸のある素材を球団として初めて採用し凹凸を活かしたテクスチャーにこだわり、本物のスパンコールがついているような立体感のあるデザインとなった。 キャップは通常のビジターゲーム時の物を使用。 2019年7月30日からの対ヤクルト3連戦にて、「宇宙への航海」をテーマとしたユニフォームを着用。 復刻ユニフォーム [ ]• 2010年8月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「」では横浜大洋時代のホーム用ユニフォームを使用した。 2012年8月 - 9月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「」では横浜ベイスターズ時代の1993年 - 2008年まで使用され、1998年の優勝・日本一時のビジター用ユニフォームを使用した。 横浜DeNAベイスターズとなってからは初の大洋ホエールズ復刻ユニフォームである。 2019年3月10日にオーヴィジョンスタジアム下関で開催される予定だった「球団創設70周年記念試合」の広島東洋カープとのオープン戦では、1950年のホーム用ユニフォームを復刻したものを着用 して試合をする予定だったが、試合開始直前の降雨により中止となった。 この記念試合と復刻ユニフォームの着用は、改めて2019年3月21日の北海道日本ハムとのオープン戦(横浜スタジアム)にて行われた。 この他、のファン感謝デーには、大洋・横浜大洋時代の復刻ユニフォームを着用してアトラクションをこなしている。 その他 [ ]• 2019年4月12・13日の対広島戦、6月22・23日の対楽天戦、8月10・11日の対中日戦を対象に球団創設70周年を記念した「70th ANNIVERSARY GAME」にて、横浜ベイスターズ時代の初代ビジターユニフォームを踏襲した青色とロゴ配置、大洋ホエールズ時代の初代「W」マークを横にしたBマーク、袖とパンツ横に1959年の二本線を踏襲した上で1974年からの湘南電車カラーのオレンジと緑、右胸と背の「YOKOHAMA」を初代大洋ユニフォームをイメージしたフォント、横浜大洋時代を踏襲した背番号ロゴタイプとショルダーデザインといった歴代のユニフォームデザインをモチーフとした「70th ANNIVERSARY UNIFORM」を着用。 ユニフォームのスポンサー [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 全てホーム用。 太字は現在掲出中のスポンサー。 左胸 [ ]• - 袖部分 [ ]• ・ TBS(。 マーク入り)• 「アサヒ富士山のバナジウム天然水」• - ノジマ ズボン [ ]• 2007年 TBS(ジ〜ンマーク入り)• 2008年 ()• - 2011年 TBS(〈2009年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〉。 ととの)• 2012年、2015年、2017年• 2013年 - 2014年、2018年• 2019年• 2020年 - ヘルメット [ ]• 2007年 - 2008年、 - 2011年 、2013年 - 2014年 リスト• 2009年 TBS、• 2012年• 2015年 - 2017年• 2018年 - 球団旗の変遷 [ ] 一軍 [ ]• 1950年 - 1953年:白地に赤文字で大洋漁業の(通称・まるはマーク)。 1954年:球団名が洋松ロビンスに変更され、紫地に赤字で大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。 上半分がまるはマーク、下半分が松竹の社章。 1955年 - 1963年:球団名が大洋ホエールズに戻り、合併前のデザインに大洋の社名が入る。 「大(は)洋」• 1964年 - 1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。 「TAIYO(は)WHALES」• 初期にはKAWASAKI(川崎)という文字が入るバージョンも存在した。 「KAWA(は)SAKI」• 1978年 - 1992年:紺色地に白文字で「W」。 その下に同じく白文字で小さく「YOKOHAMA TAIYO」• ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。 二軍 [ ]• 2000年 - 2010年:湘南シーレックス時代のもの。 白地に渦潮を模したグラデーション、中央に「SHONAN Searex」ロゴ、その下に一軍のものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。 歴代本拠地 [ ]• 1950年 - 1952年• 1955年 - 1977年• 1972年8月30日まで指揮、残り試合はとが代行。 1981年9月24日まで指揮、残り試合はが代行。 2002年9月25日まで指揮、残り試合はが代行。 2009年5月17日まで指揮、残り試合はが代行。 歴代オーナー [ ]• (1950年 - 1953年)• (1953年 - 1977年)• (1977年 - 1990年)• (1990年 - 2001年)• (2001年 - 2004年)• (2004年 - 2011年)• (2012年 - 2015年)• (2015年 - ) 永久欠番 [ ] 球団のは次の通り。 マルハ経営時代の1997年より、 100を 永久欠番として 球団に対して貢献のある複数の著名人に与えていたが、に育成ドラフト1位で入団したが着用した。 準永久欠番 [ ]• 18:• 横浜大洋ホエールズ時代の プロ入りは1992年 からにかけて横浜一筋で活躍した投手。 球団は引退に際し、1998年以降 三浦が着用し続けた「背番号18」を「 プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき選手がつける番号」(通称「 横浜ナンバー」)とした。 ふさわしい後継者が現れるまで「横浜ナンバー」は欠番とし、ふさわしいと思われる選手が現れた場合には三浦と球団が協議したうえで決定する、としている。 現在は、2019年からチームの投手コーチ(2020年からは二軍監督)に就任した三浦が着用している。 25:• プロ入り3年目のからまで 着用。 同年オフの挑戦の際に「 彼が帰ってくるまで空けておく。 現役の間は、ほかの選手がつけることはない」(三原球団代表)として、準永久欠番として扱うことが決まった。 沢村栄治賞受賞者 [ ]• :1回(1970年)• :1回(1983年) 顕彰 [ ] DeNA球団では、球団在籍時にの入会条件である通算・通算・通算のいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。 2020年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(以降。 それ以前は現在リボンビジョンが設置されている外野フェンス上部の右翼部分)に設置されている。 2020年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。 背番号 選手名 守備位置 選手歴 顕彰理由 通算成績 25 一塁手• 大洋 1962 - 1980• 1981 2000安打達成 2095安打 27 投手• 大洋 1967 - 1984 200勝達成 201勝 10 一塁手• 巨人 1981 - 1993• 横浜 1994 - 2000 2000安打達成 2006安打 22 投手• 大洋・横浜 1990 - 1999• 2000 - 2003• 横浜 2004 - 2005 250セーブ達成 381セーブ 5 遊撃手• 大洋・横浜 1989 - 2008• 2009 - 2012 2000安打達成 2432安打 3 左翼手• 1998 - 2000• 2000• 2001 - 2007• 巨人 2008 - 2011• DeNA 2012 - 2013• 2014 2017安打 99 三塁手• 1992 - 2004• 2005• 2006• 2007 - 2008• 2009 - 2010• 背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。 主な歴代の球団歌・応援歌 [ ]• (球団歌) 1993年、球団名が「横浜ベイスターズ」となったのを機に製作。 メインボーカルは、横浜出身の歌手・、作曲・朝倉紀幸()、作詞・秋谷銀四郎。 本拠地横浜スタジアムの最寄駅であるでは、JRは2011年6月2日から 、横浜市営地下鉄は2012年4月3日から、それぞれとして使用されている。 みなとみらい線では2013年4月2日から2019年3月28日まで使用されていた。 DeNAベイスターズとなった2012年、歌詞のうち球団名部分が「横浜ベイスターズ」から「DeNAベイスターズ」に変更され、中畑清監督以下5選手(三浦大輔・A. ラミレス・森本稀哲・高崎健太郎・石川雄洋)がヴォーカルを担当した「熱き星たちよ・2012年ヴァージョン」を発表。 曲調は以前のものとは大きく異なるものとなった。 なお、ベイスターズの得点時・勝利時にも応援団によりトランペット演奏が行われるが、この際の歌詞は従来通り「横浜ベイスターズ」のままである。 2014年の新バージョンでは、中畑監督、三浦、金城、久保、ブランコ、、石川、黒羽根、三嶋の9名が参加。 旧バージョンで、ラミレスがアドリブでコールしたセリフは、ブランコとバルディリスによるスペイン語のコールとして継承されている。 2015年以降は毎年のように新バージョンが制作されている。 2015年-中畑監督、山崎憲晴、ロペス、梶谷、黒羽根、山口、三浦、筒香、、バルディリス 2016年-A. ラミレス監督、山口、三浦、石川、梶谷、筒香、山﨑康晃、嶺井 2017年-A. ラミレス監督、筒香、石田、山﨑康晃、今永、倉本、戸柱、桑原• 勝利の輝き(応援歌)• 横浜ベイスターズ球団テーマ(公式テーマ。 曲) 1998年の優勝を記念して製作。 主に横浜主催ゲームでの、横浜のスタメン選手発表時にBGMとして使用されていたが、横浜DeNAとなってからは一軍戦のスタメン発表では使用されていない模様。 なお、二軍戦のスタメン発表時には従来通り使用されている。 勇者の遺伝子 3月に作詞・、作曲・によって制作された応援歌。 この応援歌のレコーディングには抽選で選ばれたDeNAファン50人が参加した。 からは、横浜スタジアムの最寄り駅であるの発車メロディに使用されている。 過去 [ ] 大洋・横浜大洋時代• (球団歌)(歌:とチャッピーズ)• 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ) 横浜時代• (イメージソング)(歌:)• WINNING(応援歌)(歌:CoCo) 「横浜Boy Style」のカップリング曲。 コーラスには当時現役だった・・・・・の6選手が参加していた。 CoCoの解散や選手の退団・移籍が重なり公式ではほとんど使われなくなったが、2019年現在でも応援団により演奏されている。 BayStarsを観にいこうよ(イメージソング)(詞・曲・歌:)• BE A HERO(公式ソング)(歌: feat. 若き王者たち(公式ソング)• Searex Horizon(公式テーマ。 インストゥルメンタル曲) 主なキャンプ地 [ ]• 山口県・:1950、1952• 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951• 兵庫県・:1953、1960 - 1961• 長崎県・:1954• 鹿児島県・:1955、1957 - 1958• 千葉県・銚子球場:1956、1962• 岡山県・:1956• 静岡県・三保東海大グラウンド:1959 - 1961• 愛媛県・:1959• 静岡県・島田球場:1972 - 1973• ・:1963 - 1971、1974 - 1979、1981 - 1986の一軍キャンプ、(1981・1987 - 1989の二軍キャンプ)、他• ・・:1980 - 1981• 静岡県・熱海スタジアム:1980年代、秋季キャンプとして使用• ・:1987 -(春季キャンプ。 2020年に全面の屋内練習場を新設 )• ・:1990 - 2019• ・:2020 -(秋季キャンプ。 2020年新設 )• ・:二軍キャンプ• ・名瀬運動公園野球場:2010 - 2019(秋季キャンプ。 ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。 このユニフォームが採用される契機になったのはの入団である。 当時の大洋はでキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。 そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチのが「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーのに提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。 その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。 具体的なデザインは、の当時のユニフォームを参考にしている。 2001年と2005年の順位 [ ] では以前まで勝率順で順位を決定していたが 、は勝利数順で順位を決定する方法が採用された。 2001年、横浜は69勝67敗4分け、は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。 勝率は横浜. 507、広島. 511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。 しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された。 にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、よりも勝利数の少ない横浜が(横浜 69勝70敗7分け、ヤクルト 71勝73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は. 496、ヤクルトの勝率は. 493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。 なお、セ・リーグでは以降、現在に至るまで勝率順で順位を決定している。 地方球場での開催 [ ] 大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、、などで、1980年代後半からは神奈川県内のやや北関東の、でも開催したことがある。 以降は地方開催を(HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。 沖縄で公式戦 [ ] 横浜時代の6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した(沖縄セルラースタジアム那覇)で対2連戦を主催開催した。 大洋ホエールズ時代の5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対2連戦を主催開催したが、ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。 また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦 としては史上初のナイター(19時開始)となった。 それ以降も同球場では、、、に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。 はが同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年はを帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。 ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。 しかし、7月8日の試合についてはが最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した。 またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。 グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている。 なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦はの球団が持ち回りで主催試合を行っている。 新潟との関係 [ ] では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。 DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となるを1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。 先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。 ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが 、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった。 他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。 新潟県の野球少年へ5周年ロゴ入り野球帽の贈呈• 「うまさぎっしり新潟」DAY in ハマスタBAYガーデンの開催 下関開催の復活 [ ] 初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においてはを最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」 を設立し、その手始めとして、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、とのを誘致、球団最初の試合日に合わせて同年にデーゲームで開催することを決めた。 しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。 この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームはに横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。 将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいる が、は公式戦開幕がの関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階 では予定されていない。 アツいぜ! チケット [ ] 2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!? アツいぜ! チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。 このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。 この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。 金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め 、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。 この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ! 』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた。 なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ! チケット」が企画・発売された。 これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、(CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった。 実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった。 2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった。 キーワード [ ] 明大五人衆 [ ] にから、、、、の5名が入団。 同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「 明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。

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横浜DeNAベイスターズ : べえ速

横浜ベイスターズ 速

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