しん せつな ともだち。 歌の曲名検索 日本語歌い出し歌詞から

しんせつなともだち|絵本ナビ : 方 軼羣 (ふあん いーちゅん),村山 知義,君島 久子 みんなの声・通販

しん せつな ともだち

内容紹介 1時間100円で友だちになる〈ともだちや〉。 おかしな思いつきからはじまった、キツネとオオカミの「おれたち、ともだち!」絵本。 著者紹介 1941年福岡県大牟田市生まれ。 個性的な文体で独自の世界を展開。 『さかさまライオン』で絵本にっぽん賞受賞、『がたごとがたごと』『すやすやタヌキがねていたら』で日本絵本賞受賞、『うそつきのつき』で小学館児童出版文化賞受賞。 詩集『ぼくたちはな く』で三越左千夫少年詩賞受賞。 ほかの主な作品は「ワニぼう」シリーズ、『十二支のおはなし』、「おれたち、ともだち!」シリーズなど多数。 1961年東京生まれ。 スロヴァキア共和国のブラチスラヴァ美術大学で石版画を学ぶ。 和洋両方の味を合わせ持った独特の画風。 主な作品に『めっきら もっきらどおんどん』『きょだいなきょだいな』『おっきょちゃんとかっぱ』『まゆとりゅう』『いそっぷのおはなし』、「おれたち、ともだち!」シリーズなど多数。

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この作品が含まれるテーマ• 冬、雪が降り積もり、食べる物がなくなった子うさぎが食べ物を探しに出かけ、雪の中で2つのかぶを見つけます。 子うさぎは1つを食べ、1つをろばの家に持って行きますが、留守だったのでそっと置いて帰りました。 食べ物を探しに出ていたろばが家に戻りかぶを見つけます。 かぶがどこから来たのか、そしてどうしようか考えて、やぎに届けることにしました。 ろばから山羊へ・・・。 そのあと山羊から鹿へとかぶは届き、鹿は子うさぎに届けることにします。 鹿がうさぎの家に行くとうさぎはぐっすり寝ていたので、そっとかぶを置いて帰りました。 目を覚ましたうさぎはビックリ! でも、すぐにわかったんです。 親切な友達がわざわざ持って来てくれたってことが…。 食べる物のない雪のある日。 1つのかぶが、うさぎからろばへ、ろばからやぎへと、友達への思いやりの心をのせて届けられていきます。 ぐるぐる話の傑作です。 食べ物のない冬、雪に中で2つのかぶを見つけた子うさぎ。 1つはすぐに食べ、もう1つは自分のために置いておくのではなく、友だちの所へ持って行ってあげます。 自分と同じように友だちもきっと寒さに震え、お腹をすかせているだろうと心配して、雪の中かぶを届けに行くんですね。 他の動物たちも同じ気持ちで同じことを・・・。 他人を思いやるやさしさにあふれたお話しです。 かぶを見つけた動物たちが「どこからきたのかしら?」と考え、次の友だちのところへかぶを持って行くくり返しを、子どもたちは単に楽しいお話しと思うかもしれません。 年齢によって受け止め方も違うでしょうからそれでいいと思います。 何度も読むうちに、友だちを思うやさしい気持ちが、自然と子どもたちに伝わると嬉しいですね。 中国の軍で実際にあった出来事を元に、子供向けのお話にしたと聞いています。 なかなか 現在の日本では 身近にありえないエピソードかもしれません。 けれど、忘れてはならない大切な気持ちを、可愛らしい動物の絵とともに、子どもたちに静かに語りかけてくれる気がします。 小さい子供には、そこまで読み取ることは出来なくても、いつかまた大きくなって手に取った時、感じることが出来るはず。 いま、3歳を向かえ、これから社会へ飛び出そうとする娘が、おともだちっていいな…そう思って聴いてくれていたら嬉しいです。 (soyosoyowindさん 40代・ママ 女の子2歳).

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「万有引力とは/ひき合う孤独の力である/宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」 『二十億光年の孤独』より 現代詩にほとんど触れたことのない人でも、きっとこのフレーズには聞き覚えがあることでしょう。 谷川俊太郎作 『二十億光年の孤独』の一節です。 谷川俊太郎の作品には、学生時代、国語の教科書や合唱コンクールの課題曲として出合ったという記憶のある方も多いのではないでしょうか。 1952年に『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たした谷川は、85歳のいまもエッセイや絵本の執筆、翻訳といった多彩な活動を行いながら、精力的に詩を作り続けています。 彼の詩に対してもしも、難解、暗い、わからない……なんてイメージを思っているとしたら、それは大間違い。 谷川俊太郎は、 言葉遊びのような詩から ほのぼのとした詩、時には 怖い詩まで、カメレオンのようにいくつもの作風を使い分ける異色の詩人なのです。 ( 合わせて読みたい: ) 1. 2007年に詩集『私』の中の1編として発表されたこの詩からは、谷川俊太郎の持ち味である控えめなユーモアが感じられます。 「言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから/どちらかと言うと無言を好みます」という1行には、思わずクスッと笑ってしまう読者も多いのではないでしょうか。 飄々と進む『自己紹介』は、 「私の書く言葉には値段がつくことがあります」というハッとするような言葉で終わります。 彼は自分のホームページ上の文章でかつて、詩の値段についてこんな風に語ったこともあります。 詩は金融市場とは無縁ですが、詩をお金の力が届かない聖域に祭り上げるのも、誤魔化しのように思えます。 もう死んでしまった「俺」が自分の葬式を眺めながら語るという、奇妙な1編です。 知人が白いベンツでやってくる、近所の子どもが自分のパソコンをいじっている……といった残酷なまでに現実的なシーンを、語り手である「俺」はさして気にする様子もなく見つめています。 最後の連の、 「俺はおとつい死んだから/もう今日に何の意味もない/おかげで意味じゃないものがよく分る」 という3行からは、もうこの世に未練のない死者の視点だからこその空虚さと、強い説得力が感じられます。 谷川俊太郎は詩の中で触れられている「意味」というものについて、2005年のインタビューの中で、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りながらこう語っています。 無意味なことも、意味あることと同じように大事だって思えると、僕はいいと思う。 (哲学者の)鶴見俊輔さんが、nonsenseは世界の肌触りだって言うんです。 人間は世界の意味を一所懸命つけようとしてるけど、意味だけでは追求しきれないものが世界であって、それを肌触りって言ってるんだと思うんだけど。 『baby mammoth』2号より 『ふくらはぎ』の中で「俺」が語る「意味じゃないもの」とは、まさにこの「世界の肌触り」のようなものなのでしょう。 生への執着を一切感じさせない「俺」が、唯一の未練のように 「もっとしつこく触っておけばよかったなあ/あのひとのふくらはぎに」という本能的な願いをポロリとこぼすのは、実はとても正しく、馬鹿にできないことのようにも思えてきます。 「何ももたずに私はあなたとぼんやりしにいく」(『川』)、「だが何にもまして幸せなのは/かたわらにひとりのひとがいて/いつでも好きなときにその手に触れることができるということ」(『足し算と引き算』)……など、谷川俊太郎の詩には、好きな人とただ一緒にいることが至上の幸せである、という素朴な感覚が色濃く表れています。 最後の 「ここがどこかになっていく」というフレーズには、共感を覚える方も多いでしょう。 恋人や親しい友人と一緒に読んで、しみじみと味わいたい詩です。 「ひもにむかってわごむはさけぶ/おまえはもうじだいおくれだ/せろてーぷはだまってきいている/それぞれにやくにたてばそれでいい/それがせろてーぷのたちば」 『ひも また』より 他の近代的な道具に「じだいおくれだ」と馬鹿にされる「ひも」。 ところが、 「せんそうがはじまると/ひももわごむもせろてーぷも/てきみかたのくべつなく/にんげんのためにはたらいた/そのささやかなはたらきが/へいわをもたらすことにはならなかったが」 『ひも また』より 他の道具に混じって唐突に「せんそう」に駆り出され、「にんげんのために」働かされるひもたち。 『ひも』シリーズは、そんな結末で唐突に終わります。 ラブレターをくくらされるのと同じ「ひも」が戦争の道具にも用いられる、という描写からは、人間の営みの多様さだけでなく、その身勝手さも感じずにはいられません。 谷川俊太郎は、押しつけがましくないやさしい言葉で、人間のエゴイズムをこんな風にして説くのです。 「ひも」は果たして、生まれ変わったら「へび」になれるのでしょうか。 「ひも、よく頑張ったね」と声をかけてあげたくなるような、いじらしく切ない作品です。 丘、空、花といった大自然に対し、見境なく欲情して「やれたらやりてえんだよ」などという「おれ」は、一見、ただふざけているだけのようにも思えます。 谷川俊太郎は、特に若い頃、『二十億光年の孤独』や『春』といった作品に代表されるような、宇宙(コスモス)や自然をテーマにした詩を多く作りました。 彼はかつて、哲学者である父・谷川徹三との対談で、自分の中の「コスモス」という感覚についてこう語っています。 コスモスというふうなものを感じ取れたのは、青年のころ、この北軽井沢の中にいたからだと思うのですけれども、十代の終りから二十代の初めにかけて、自分が自然というものと一体になっちゃっているような状態、一体になっている状態がそのまま生きるということで、そこで自分がほんとうに幸せで完全だったような状態があったんですよ。 『対談』より まさに、彼の語る「自然というものと一体になっちゃっているような状態」を描いたのが、この『なんでもおまんこ』なのでしょう。 私たちはこの詩に向き合うとき、生と死は密接不可分であるという事実について思いを馳せずにはいられません。 小学校の国語の授業で読んだ、という方も少なくないかもしれません。 この詩はただ眺めるだけでなく、まず音読をしてみてほしい詩です。 前半の3行(「かっぱかっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた」)と後半の3行(「かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった」)の音数が揃っており、自然とリズミカルに読み上げられることが分かると思います。 それはぼくはよくないと思うんですよ。 (中略) 基本的な日本語を美しく発音してね、その言葉に内在しているリズムみたいなものをちゃんと声に出せる訓練をしてるかっていうと、そういうものはすこしもないわけでしょう。 『FORK REPORT』「歌にいたる詩」より と語っています。 これらの詩について、後に彼は 「これは普通の詩よりはるかに書くのが難しいわけです。 ひとつ書くのに一ヶ月かかるのはざらなわけですよ。 」と解説しています。 「きみ」を女性と捉え、幼い男の子の切ない恋心を歌った詩と読むこともできます。 ……しかし谷川は自ら、この『きみ』という詩について、 オレはこれが出たときに、小学生のゲイの詩があるんだっていばったんですけどね。 なんかみんなピンとこなかったみたいなんだけど、これは明かに男の子同士の愛情の話なんですよ。 『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』より と語っています(谷川は同著の中で、かつて自分も中学生のときに同性愛的な傾向があった、とも言っています)。 「ねむってるのではなくてしんでるのだったら/どんなにうれしいだろう」という1行からは、決して自分だけのものにはならない「きみ」への、屈折した愛情が伝わってきます。 同性愛に限らず、叶わない恋をしたことのあるすべての人にとって『きみ』は、突き刺さるような1編なのではないでしょうか。 おわりに 谷川俊太郎は、自分のことを「デタッチメント」の人間だとたびたび評します。 「他人とは浅い付き合いだから、相手を肯定できるんです」(『考える人』2016年夏号より)という言葉のとおり、彼の詩にはあまり他人への執着や、ベタベタとした感傷は感じられません。 これまでに、子ども向けの詩集から大人のための愛の詩集まで、数多くの作品を発表してきた谷川俊太郎。 読みやすく、高尚すぎない彼の詩は、日常生活のどんなシーンにも馴染みます。 ちょっと疲れたときにはひとりで、あるいは大切な人と、詩集のページをめくってみてはいかがでしょうか。

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