沖田 総司 写真。 沖田総司の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介

沖田総司の写真や肖像画について

沖田 総司 写真

sachihime725が投稿した写真 — 2016 11月 19 3:41午前 PST 時代劇モチーフのゲームやマンガでは、主人公をしのぐ程の美形に描かれている 沖田総司。 愛想が良く、良く笑っていたなどの人当たりの良さをよく評され、若き天才剣士が結核で早世してしまうというドラマ性が「 薄幸の美青年説」へと繋がったとされています。 東京都港区で白河藩士・沖田勝次郎の子として誕生しました。 2人の姉を持つ 末っ子で、惣次郎と呼ばれていました。 9歳になると試衛館に内弟子として預けられ、 10代で免許皆伝を取得。 20歳頃には試衛館の塾頭を務めるまでになりました。 この頃から名前を惣次郎から総司と改めたようです。 その後、 近藤勇ら試衛館の仲間たちと共に浪士組に参加するため京都へ向かい、京都では 新選組として数々の活躍をしています。 その新選組での中でも、 筆頭に名があげられる程の腕の持ち主でした。 有名な池田屋事件では、勇らと共に4人で切り込みその 戦闘中に吐血しました。 池田屋から運び出され、療養のため大阪へ下ります。 驚愕!沖田総司は美形じゃない!? 本人じゃない肖像画 旅記さん youxi9519 が投稿した写真 — 2016 12月 17 7:03午前 PST 新選組隊員・ 山南敬助脱走事件では、山南を連れ戻し介錯を務めました。 総司は、山南の事を兄のように慕ってしたそうなので、 脱走したこと自体がショックだったことでしょう。 普段は隊員の剣術指導を行っていましたが、「この人は自分の出来る割に教え方が 乱暴で、おまけになかなか 短気であったから、門弟たちは勇よりはずっと恐ろしがっていた。 」といわれています。 永倉新八にいたっては「竹刀を持っては、みんな子ども扱いされた。 本気で立ち合ったら勇もやられるだろう」と語っています。 非番のときには壬生寺の境内で近所の子供たちや子守を相手に、よく鬼ごっこなどして遊び、冗談ばかり言って笑っている 陽気な性格の人だったといわれています。 素顔は不明!でも剣技はピカイチ! 天然理心流免許皆伝 鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)。 — 幕末~激闘 そして激動~ tweetjoker012 その頃江戸には3大道場といわれる有名な剣術道場があり、1つは千葉周作の 北辰一刀流(坂本龍馬が免許皆伝)・桃井春蔵の 鏡新明智流・斎藤弥九郎の 神道無念流の3つです。 江戸時代後期に近藤内蔵之助という剣術家によって創始された「 天然理心流」は、無名で農民たちが門下生に多いため「芋道場」と呼ばれていました。 そんな「天然理心流」が一躍歴史の大舞台に出てきたのは、幕末に維新志士を震撼させた 新撰組の登場でした。 新選組には北辰一刀流の使い手や新道無念流の使い手たちもいましたが、近藤勇や土方歳三、沖田総司など新選組の核となる人物が支持していたのが天然理心流であったことから世に広まっていきます。 総司は 免許皆伝を得ており、 道場に入れば人が変わったようになる。 と言われていたほど剣術に土込んでいました。 ただ、竹刀を使った練習はスポーツであり実戦とは違います。 総司は町中での見回り中に実戦を積み、経験を重ね実力を付けていったのでしょうね。 愛刀は「菊一文字則正」? 叉騎さん ukjsaki0569 が投稿した写真 — 2016 11月 27 3:19午後 PST 総司の愛刀として名前が挙がる「 菊一文字則正」 刀工・則宗が製作した刀です。 則宗の本物で現在も残っているものは大変少なく、そのほとんどが御物、国宝、重要文化財に指定されています。 そのような名刀を実戦で使うでしょうか?しかも当時の新選組、沖田総司といえば人を斬った人数は相当な数になりますし、実際に総司は池田屋事件で刀の先の部分を折っています。 価値を考えると、実用的な刀では無いようですよね。 では、実際の愛刀はなんだったのでしょうか?現在確認されているのは「 加州清光」「 大和守安定」です。 刀工・清光の作加州清光。 総司以外に愛用していた人物は 東条英機が有名ですね。 大和守安定の方も幕末の実力者に愛され、同じ新撰組の「 人斬り鍬次郎」と恐れられた 大石鍬次郎も使用していました。 残念ながら「加州清光」「大和守安定」も現存はしていませんが、今も残っていたらすごい数の怨念が宿っていそうで恐ろしいですね。 沖田総司の魅力って? 周りにいた人たち Manami Fujiwaraさん mana. rapico1230 が投稿した写真 — 2016 12月 11 2:24午前 PST 新選組・ 近藤勇:総司が9歳の頃天然理心流三代目近藤周助に内弟子として預けられます。 この頃には、勇は周助の養子になっていました。 小さいころから雑用で走り回っていた総司の事を、養父母に内緒で握り飯などを食べさ せ身の回りの面倒を見ていたようですね。 弟のような感情を持っていたのではないでしょうか? 総司は勇を先生と呼び、新選組の中でもその関係は別格だったようです。 土方歳三:総司の方が先に天然理心流へ入門をしていますが、歳三の方が10歳年上だったため 兄貴分のような存在でした。 無口で頑固な所がある歳三は、総司との会話ではいつもやり込められていたようですね。 鬼の副長もかわいい弟分にはかなわなかったようです。 永倉新八・ 斎藤一:両者とも、総司と同じ組長です。 新選組の中では、 剣術の腕が際立っていたベスト3になります。 3者とも組長という立場の中、認め合っていたようですね。 気になる女性関係 JPKimonoさん jpkimono が投稿した写真 — 2016 12月 20 10:40午後 PST 沖田総司は生涯独身でした。 女性関係の記録は総司側からは見つかっていませんが、周りの人や女性側からの証言が残っています。 どんな恋をしていたのでしょうか? 身分違いの恋。 総司は医者の娘に恋をしていました。 「普段は無駄口ばかり利いてる男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです」と勇の甥・近藤勇五郎が語っています。 叶わなかった大きな理由が、身分の違いであったといわれていますね。 勇に諭されきっぱりとあきらめています。 叶わなかった初恋。 旅籠の娘キン。 一説ではキンは人妻だったともいわれていますが、離縁して独り者になっていたともいわれています。 不倫は江戸時代中期までは死罪に値する罪だったので、剣術を志しているような「漢」達からみれば大事です。 離縁後の恋だったか、ただの女友達だったのか?真相は不明です。 自殺未遂までした女性。 江戸の試衛館で修行をしていた頃、1人の女性から求婚されています。 総司は「修行中の身なので」と断りを入れました。 すると彼女は懐剣で喉を突き自殺未遂を図ります。 一命をとりとめ勇の口利きで他家へと嫁いでいきましたが、女性への恐怖が残ってしまう出来事ですよね。 まとめ 愛星 写真垢さん alice8pooh が投稿した写真 — 2016 11月 22 5:33午前 PST 沖田総司は池田屋で倒幕派の1人の志士を斬った後、吐血して倒れています。 その後新選組と親交があった松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入りました。 その頃新選組では勇が捕らえられ、闘病中の総司は 死ぬ間際まで師の勇の安否を気遣っていたと伝えられています。 重くなった結核の症状は、相当辛いそうです。 今の医学なら治る病気も、当時は不治の病とされていたので総司本人も死期は悟っていたことでしょう。 総司は勇の処刑を知らぬまま1人で最期を迎えました。 周囲の者は勇の死に関して固く口止めされていたからです。 この事柄だけでも、総司は仲間から愛されていたことがうかがえますね。 勇の死後1か月という時期に逝ったのも、勇が「 お疲れさま」といいながら迎えに来たのではないでしょうか?大好きな兄貴分が迎えに来れば、喜んで走り出すと思います。 沖田総司が美形だったかは分かりませんが、明るく子供好きな 性格美人だったということは言えるでしょう。

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沖田総司

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sachihime725が投稿した写真 — 2016 11月 19 3:41午前 PST 時代劇モチーフのゲームやマンガでは、主人公をしのぐ程の美形に描かれている 沖田総司。 愛想が良く、良く笑っていたなどの人当たりの良さをよく評され、若き天才剣士が結核で早世してしまうというドラマ性が「 薄幸の美青年説」へと繋がったとされています。 東京都港区で白河藩士・沖田勝次郎の子として誕生しました。 2人の姉を持つ 末っ子で、惣次郎と呼ばれていました。 9歳になると試衛館に内弟子として預けられ、 10代で免許皆伝を取得。 20歳頃には試衛館の塾頭を務めるまでになりました。 この頃から名前を惣次郎から総司と改めたようです。 その後、 近藤勇ら試衛館の仲間たちと共に浪士組に参加するため京都へ向かい、京都では 新選組として数々の活躍をしています。 その新選組での中でも、 筆頭に名があげられる程の腕の持ち主でした。 有名な池田屋事件では、勇らと共に4人で切り込みその 戦闘中に吐血しました。 池田屋から運び出され、療養のため大阪へ下ります。 驚愕!沖田総司は美形じゃない!? 本人じゃない肖像画 旅記さん youxi9519 が投稿した写真 — 2016 12月 17 7:03午前 PST 新選組隊員・ 山南敬助脱走事件では、山南を連れ戻し介錯を務めました。 総司は、山南の事を兄のように慕ってしたそうなので、 脱走したこと自体がショックだったことでしょう。 普段は隊員の剣術指導を行っていましたが、「この人は自分の出来る割に教え方が 乱暴で、おまけになかなか 短気であったから、門弟たちは勇よりはずっと恐ろしがっていた。 」といわれています。 永倉新八にいたっては「竹刀を持っては、みんな子ども扱いされた。 本気で立ち合ったら勇もやられるだろう」と語っています。 非番のときには壬生寺の境内で近所の子供たちや子守を相手に、よく鬼ごっこなどして遊び、冗談ばかり言って笑っている 陽気な性格の人だったといわれています。 素顔は不明!でも剣技はピカイチ! 天然理心流免許皆伝 鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)。 — 幕末~激闘 そして激動~ tweetjoker012 その頃江戸には3大道場といわれる有名な剣術道場があり、1つは千葉周作の 北辰一刀流(坂本龍馬が免許皆伝)・桃井春蔵の 鏡新明智流・斎藤弥九郎の 神道無念流の3つです。 江戸時代後期に近藤内蔵之助という剣術家によって創始された「 天然理心流」は、無名で農民たちが門下生に多いため「芋道場」と呼ばれていました。 そんな「天然理心流」が一躍歴史の大舞台に出てきたのは、幕末に維新志士を震撼させた 新撰組の登場でした。 新選組には北辰一刀流の使い手や新道無念流の使い手たちもいましたが、近藤勇や土方歳三、沖田総司など新選組の核となる人物が支持していたのが天然理心流であったことから世に広まっていきます。 総司は 免許皆伝を得ており、 道場に入れば人が変わったようになる。 と言われていたほど剣術に土込んでいました。 ただ、竹刀を使った練習はスポーツであり実戦とは違います。 総司は町中での見回り中に実戦を積み、経験を重ね実力を付けていったのでしょうね。 愛刀は「菊一文字則正」? 叉騎さん ukjsaki0569 が投稿した写真 — 2016 11月 27 3:19午後 PST 総司の愛刀として名前が挙がる「 菊一文字則正」 刀工・則宗が製作した刀です。 則宗の本物で現在も残っているものは大変少なく、そのほとんどが御物、国宝、重要文化財に指定されています。 そのような名刀を実戦で使うでしょうか?しかも当時の新選組、沖田総司といえば人を斬った人数は相当な数になりますし、実際に総司は池田屋事件で刀の先の部分を折っています。 価値を考えると、実用的な刀では無いようですよね。 では、実際の愛刀はなんだったのでしょうか?現在確認されているのは「 加州清光」「 大和守安定」です。 刀工・清光の作加州清光。 総司以外に愛用していた人物は 東条英機が有名ですね。 大和守安定の方も幕末の実力者に愛され、同じ新撰組の「 人斬り鍬次郎」と恐れられた 大石鍬次郎も使用していました。 残念ながら「加州清光」「大和守安定」も現存はしていませんが、今も残っていたらすごい数の怨念が宿っていそうで恐ろしいですね。 沖田総司の魅力って? 周りにいた人たち Manami Fujiwaraさん mana. rapico1230 が投稿した写真 — 2016 12月 11 2:24午前 PST 新選組・ 近藤勇:総司が9歳の頃天然理心流三代目近藤周助に内弟子として預けられます。 この頃には、勇は周助の養子になっていました。 小さいころから雑用で走り回っていた総司の事を、養父母に内緒で握り飯などを食べさ せ身の回りの面倒を見ていたようですね。 弟のような感情を持っていたのではないでしょうか? 総司は勇を先生と呼び、新選組の中でもその関係は別格だったようです。 土方歳三:総司の方が先に天然理心流へ入門をしていますが、歳三の方が10歳年上だったため 兄貴分のような存在でした。 無口で頑固な所がある歳三は、総司との会話ではいつもやり込められていたようですね。 鬼の副長もかわいい弟分にはかなわなかったようです。 永倉新八・ 斎藤一:両者とも、総司と同じ組長です。 新選組の中では、 剣術の腕が際立っていたベスト3になります。 3者とも組長という立場の中、認め合っていたようですね。 気になる女性関係 JPKimonoさん jpkimono が投稿した写真 — 2016 12月 20 10:40午後 PST 沖田総司は生涯独身でした。 女性関係の記録は総司側からは見つかっていませんが、周りの人や女性側からの証言が残っています。 どんな恋をしていたのでしょうか? 身分違いの恋。 総司は医者の娘に恋をしていました。 「普段は無駄口ばかり利いてる男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです」と勇の甥・近藤勇五郎が語っています。 叶わなかった大きな理由が、身分の違いであったといわれていますね。 勇に諭されきっぱりとあきらめています。 叶わなかった初恋。 旅籠の娘キン。 一説ではキンは人妻だったともいわれていますが、離縁して独り者になっていたともいわれています。 不倫は江戸時代中期までは死罪に値する罪だったので、剣術を志しているような「漢」達からみれば大事です。 離縁後の恋だったか、ただの女友達だったのか?真相は不明です。 自殺未遂までした女性。 江戸の試衛館で修行をしていた頃、1人の女性から求婚されています。 総司は「修行中の身なので」と断りを入れました。 すると彼女は懐剣で喉を突き自殺未遂を図ります。 一命をとりとめ勇の口利きで他家へと嫁いでいきましたが、女性への恐怖が残ってしまう出来事ですよね。 まとめ 愛星 写真垢さん alice8pooh が投稿した写真 — 2016 11月 22 5:33午前 PST 沖田総司は池田屋で倒幕派の1人の志士を斬った後、吐血して倒れています。 その後新選組と親交があった松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入りました。 その頃新選組では勇が捕らえられ、闘病中の総司は 死ぬ間際まで師の勇の安否を気遣っていたと伝えられています。 重くなった結核の症状は、相当辛いそうです。 今の医学なら治る病気も、当時は不治の病とされていたので総司本人も死期は悟っていたことでしょう。 総司は勇の処刑を知らぬまま1人で最期を迎えました。 周囲の者は勇の死に関して固く口止めされていたからです。 この事柄だけでも、総司は仲間から愛されていたことがうかがえますね。 勇の死後1か月という時期に逝ったのも、勇が「 お疲れさま」といいながら迎えに来たのではないでしょうか?大好きな兄貴分が迎えに来れば、喜んで走り出すと思います。 沖田総司が美形だったかは分かりませんが、明るく子供好きな 性格美人だったということは言えるでしょう。

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沖田総司の写真や肖像画について

沖田 総司 写真

1.沖田総司が「ブサイク」という可能性を高める写真や証言 まず、初めに世間で語られている沖田のイメージとは真逆の、「沖田はイケメンではない」ということを裏付けるような証言や史料をみていきましょう。 1.現存している写真がブサイク… 上記を裏付けるものとして有名なのは、「沖田総司」で検索すると真っ先に出てくるこちらの肖像画でしょう。 私も他人の顔をとやかく言えるような人間ではないのですが、客観的な評価としてこの顔を「イケメンだ」と評するのはよほどの物好きでしょう。 少なくとも、万人がイケメンであると認識する顔でないのは異論がないと思われます。 しかし、結論から言えばこの写真は生前の沖田を映したものではありません。 この写真は沖田の姉であるミツが、自身の孫にあたる要という人物の容姿を「どこか総司の面影がある」として書き取らせたものとされています。 そのため、直接的に沖田の容姿を描いた肖像画というにはあまりにも不十分です。 2.容姿に関する証言もイマイチ… 次に、沖田の容姿に関しては同時代を生きた人物たちによるいくつかの証言が残されています。 例えば、小説家の子母澤寛が小説で沖田を扱うために、生前の新選組を知る「八木為三郎」なる人物に取材したところ、沖田の容姿については 「丈が高く肩の張りあがった色黒な人であった」 と証言しています。 「色黒」というのは我々のイメージとはだいぶ異なりますね。 さらに、郷土史家の谷春雄が新選組の後援者だった佐藤彦五郎のひ孫に取材した際には、 「背が高く、色黒で猫背のよく笑う人だった。 ひら顔で目が細く、ひらめのような人だった。 」 と証言しています。 zukan-bouz. このあたりの反論は研究書では確認できず、情報源がというなんとも心もとないものですが、参考程度にこういう意見もあると紹介しておきます。 2.沖田総司が「イケメン」という可能性を高める証言や史料 さて、次は世間で語られているイメージ通り「沖田はイケメンである」ということを裏付けるような証言や史料をみていきましょう。 ただ、私の個人的な意見を先出ししておくと 「沖田はイケメンではなかった可能性が高い」と考えています。 そう考えるに至った根拠として、イケメン説を裏付ける根拠があまりに乏しいことが理由として挙げられます。 そのため、この項で触れる内容は多少無理があることをご理解ください。 1.子孫・沖田哲也氏の証言 総司の子孫にあたる人物に、明治大学政経学部で教授を務める沖田哲也氏がいます。 彼は上記の「ヒラメ顔」説について否定的な意見をもっており、 「沖田家では色白の小さな男として伝わっている」 沖田イメージとしてはこんな感じでしょうか。 volks. しかし、この反論にはいくつか問題点があると個人的にはみています。 問題点1.複数人から真逆の証言が出ている まず、沖田の容姿については複数人から「色黒で背が高い」という証言が出ている点は無視できません。 もちろん上記は単なる証言であり、その信ぴょう性は決して高いとは言えません。 しかしながら、信ぴょう性という点で議論するならば「沖田家に伝わっている」という沖田哲也の証言の根拠もそれほど信ぴょう性は高くないでしょう。 そう考えていくと、単純に複数人から寄せられている証言を重視したいものです。 問題点2.子孫という立場は客観的な立場とは言えない また、「沖田哲也氏が沖田総司の子孫である」という事実にも問題があると考えています。 これは単純な話で、仮に自分が哲也氏の立場であった場合、偉大な先祖を貶すような証言を残すとは思えないからです。 先祖の名誉を汚すという事は、彼にとってまさしく百害あって一利なしです。 したがって、客観的な立場から寄せられている証言とはいえないと感じています。 2.沖田は女性に人気があった可能性が高い これは直接的に容姿と結びつくかは疑問ですが、生前の沖田は何人かの女性に愛されたということを示すような痕跡も見つかっています。 歴史作家の森満喜子は、沖田が町医の娘と恋に落ちたことがあると書き残しています。 ただ、これについてはあくまで伝聞に過ぎず、それを裏付ける明確な史料は見つかっていません。 また、新選組の支援者であった小島鹿之助の長男が記した『慎斎私言』では、気の強く腕っぷしの良い女に求婚され、沖田がそれを拒否すると女が自害を図ったというエピソードが紹介されています。 ただし、これも二次史料のエピソードなので信ぴょう性が高いとは言えません。 さらに、壬生寺には「沖田氏縁者」と刻まれた墓標があり、この「縁者」を娼婦であるとする仮説も提唱されています。 このように沖田にはいくつも浮名を流した形跡があり、それぞれの説話自体は信ぴょう性が高くないものの、彼がモテていたという可能性は決して低くないと言えます。 もっとも、当然ながらこうした女性との浮名が「イケメンである」こととは直接的に関係しないのも事実です。 剣術の腕は確かであり、人柄も優れていたという沖田は、顔は多少大目に見られていた可能性もあります。 3.沖田の顔に関する個人的な意見 さて、ここまでは「イケメン説」と「ブサイク説」の双方をみてきました。 両者の主張を鑑みた結果、私個人の結論としては先ほども触れたように「沖田総司はイケメンではなかった」という説を提唱したいです。 その理由は先ほども説明したように「反論の根拠が相対的に弱い」という点が大きいです。 加えて、個人的には姉ミツの 「肖像画のモデルとなった孫の容姿はどこか総司の面影がある」という証言を重視したいです。 wikipedia. しかし、仮にそうであったとしても、「大きなイメージ」まではあいまいにならないのではないか、と考えられます。 つまり、一応親戚にあたりおぼろげな記憶ながらも沖田に似ていると証言された孫の姿は、生前の彼の姿とそれほど大きくは乖離していないのではないかと思うのです。 もちろん、この証言だけを根拠にするには問題が多すぎるのも事実です。 あくまで面影があるという程度の証言・ミツの記憶がどれほど正確か・「似ている」の定義があいまい…etc ただ、このミツの証言と他に同時代を生きた人々から得られた証言には、一致するところがあるのも事実です。 そのため、それらの証言を組み合わせていくと、くだんの肖像画は決してそれらの証言を大きく外していないことがわかります。 したがって、「現状分かっている情報だけ」を根拠とするならば、沖田総司は不細工寄りだったと考えるのが自然でしょう。 しかしながら、それを事実と断定するにはあまりにも情報が少なすぎます。 そのため、今後の史料調査で彼の顔写真が見つからない限りは、この問題が解決されることはないのではないでしょうか。 【参考文献】• 木村幸比古『新選組と沖田総司:「誠」とは剣を極めることなり』PHP研究書、2002年。 新人物往来社編『沖田総司のすべて』新人物往来社、1973年。 伊東成郎『幕末新選組拾遺帖』新人物往来社、2004年。 宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2017年。

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