よう かめの せみ。 八日目の蝉

映画の八日目の蝉を見たのですが、映画は終わりましたがあの後...

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「八日目の蝉」の好き勝手感想文。 「これ、脚本と編集が秀逸すぎだわ!」 「八日目の蝉」は小説・ドラマ・映画でそれぞれ少しずつ違う! この作品は、受賞作家のさんが2007年により出版した小説を原作として、2010年にNHKでドラマ化、さらに2011年に映画化されたものです。 わたし、小説も読んだし、ドラマも映画も観ました! それぞれ少しずつ印象が違うのですが、さすが ・最優秀作品賞・最優秀監督賞(成島出)・最優秀主演女優賞()・最優秀()・最優秀・最優秀音楽賞・最優秀撮影賞・最優秀照明賞・最優秀録音賞・最優秀編集賞 と、計10冠を獲得しただけあります。 映画作品が一番素晴らしかったと思います。 小説、ドラマ、映画の細かな違いをみてみましょう。 どれも内容はほぼ同じです。 野々宮希和子は不倫相手の妻が産んだ赤ちゃんを誘拐し、日本中を点々としながら赤ちゃんが4歳になるまで共に行動します。 逃亡生活の中でも赤ちゃんは育っていき、希和子を「ママ」と呼び慕うようになります。 誘拐事件から4年後、希和子は小豆島のフェリー乗り場で警官に逮捕され、子どもは親元にもどされます。 小説では時系列順に物語が進んでいきます。 第1章では野々宮希和子が犯した事件と、その逃亡生活に焦点が当てられています。 第2章では希和子が逮捕された後、成長した 恵理菜を主人公にすえて展開しますが、こちらはやや付け足しのように思えました。 希和子がなぜこんな事件を起こしたのか、どういう逃亡生活を送ったのか、が中心に描かれているため、ジャンルとしては「サスペンス」に分類されています。 ドラマは、ほぼ原作に忠実な作りです。 希和子の逃亡劇が細かく描かれます。 たどり着いた小豆島で、希和子に思いを寄せる男性が登場し、力になってくれるのが、ドラマ・オリジナルな展開ですね。 素性の知れない希和子が職を得るのは難しく苦労する様子や、貧しいながらも必死に生きる姿が現実的に、ていねいに描かれました。 事件後、大人になった 恵理菜が小豆島を訪れようと岡山のフェリー乗り場に来たさい 、フェリー乗り場のカフェで働いている希和子とそうとは知らずに再会します。 恵理菜が立ち去った後、希和子だけがそれが薫( 恵理菜)だと気がつき、あわてて外にでて「薫!」と呼びますが、 恵理菜がそれに気がつくことはありません。 映画はかつての事件、事件直後の幼い頃の 恵理菜の生活、18歳の現在の恵理菜がクロスオーバーしながら同時進行します! 原作では1章が希和子、2章が 恵理菜のダブル主人公。 ドラマ版では希和子が主人公でしたが、映画版では 恵理菜が主人公となっています。 早い段階から現在の、18歳の 恵理菜を登場させ、希和子が起こした事件、事件後の裁判の様子、事件後の幼い恵理菜の様子を、短いサイクルでクルクル舞台を変えながらクロスオーバー進行していきます。 見どころは、3つの時間軸を自在に操った編集技術と脚本! わたしは原作も読んでいるし、ドラマも観ています。 だから内容はしっかり把握した上で映画を観ています。 でも! 映画で初めてこの作品に触れる方に、これ理解してもらえるんだろうか? と、思いましたね。 確かに主役を 恵理菜にすることで、彼女が背負ってしまった複雑な心の葛藤を描くことができる面白さはあります。 しかも、若い主役を据えることで、華も演出できます。 でも、そのためにはなぜこういう状況に陥ってしまったのかという、複雑な過去の事柄を延々と説明しなければいけません。 実のが不倫の末に愛人を妊娠させたこと。 実の母親は夫の不倫を知っていて、希和子をストレスのはけ口に嫌がらせを続けていたこと。 希和子が起こした誘拐事件。 希和子との逃亡生活は 恵理菜にとって幸せな時間だったこと。 いきなり実の両親のもとに帰された 恵理菜は馴染めず、希和子のもとに帰りたがって母親のヒステリーを増長させていたこと。 時系列順にいけば、これらを説明したうえで、はじめて18歳の 恵理菜の現状が語られるべきなのです。 でも、そんなことをすれば、18歳の恵理菜が登場するのはいつになってしまうのでしょう? 映画が半分以上すぎてからでしょうか? それでは観客は退屈すぎますよね! そこで、時系列を無視して、18年前の希和子が起こした事件とその後の逃亡生活、 恵理菜が実家に戻ってから後のこと、18歳の現在の恵理菜の生活が、短いスパンで切り替えながら同時進行していくという力業に出たのですね! 同時進行することで、早い段階から主人公を出すことができるし、過去の説明ばかりで観客を退屈させずにすみます。 でも、とても複雑で分かりにくい作品になるリスクはかなり大きいです。 それをやってのけたところが、この作品最大の見どころでしょう! この構成で十分伝わるものに仕上げた編集と、脚本が秀逸だったからこそなしえた偉業だと思います! 脚本家は奥寺子さん。 監督のアニメーション映画作品「」、「」、「」を書き上げた方です。 角田さんは、「自分の描く作品のテーマがいつも分からない」という話をされてました。 書き終えてやっと「あぁ、わたしはこういうことが描きたかったのだな」と理解できるのだと。 小説「八日目の蝉」のテーマは「母性」だろうと思うのです。 逃亡者目線の逃走劇が見どころのようになっている印象があり、によると作品ジャンルは「サスペンス」となっていますが、筆を置いてみたときに作者が感じた本作のテーマはきっと「母性」だったろうな、と。 「八日目の蝉」という意味深なタイトルも、そのまま産卵をするためにオスよりも長く生き残ったメスの蝉という意味合いのようです。 オスの蝉は7日で死んでしまうけれど、メスは産卵のためにもっと長く生き残るのだそうです。 「八日目の蝉」=「母」ですよね! 小説では愚かな産みの母親と、犯罪者ではあるけれど優しい育ての母親を対比させることで、「母親」とは何なのかを読者に深く考えさせる作品構成になっています。 その狭間で揺れる娘の存在も描かれていますが、こちらは十分に描き切れなかったような印象があります。 ドラマでは、逃走劇の方に力点が置かれていて、テーマ性はあまり前面に出ていなかったように記憶しています。 確かにハラハラする展開なのですが、この作品は本当に逃走劇だけで終わっていいのだろうか・・・と、わたしですら少し不満に思った覚えがあります。 映画ではヒステリックな本当の母親と、自分勝手な犯罪者の育ての母親という二人の、どちらも好きになれない母親をもつ「 恵理菜の心の葛藤と昇華」がテーマになっています。 最後に心情が吐露されますが、恵理菜からすれば、産みの母親も、犯罪者ではあるけれど4年間育ててくれた希和子も、どちらも憎みたくなかったのです。 さらに、すべての原因を作ってしまった、世間的にはもっとも責任を問われるべきも憎みたくはなかったのです。 生まれたときから親を憎む子どもはいません。 子どもは、親であれば間違いなく愛し従います。 でも、そうしないのは、そうできないのは、生まれた後からの理由づけがあってのことです。 恵理菜の場合は、の不倫の末に希和子が起こした誘拐という犯罪でした。 そのために実の母親との信頼関係が築けないでいるのです。 もちろんにも愛情を感じることができません。 それは、とても不幸なことです。 結局、大人の感情のもつれの末に起こした事件の、一番の被害者は子どもの 恵理菜なのです。 でも、恵理菜は、ただの可哀想な被害者ではありません。 その複雑な思いを共有できるからこそ、観客はラストで涙するのです。 すべては希和子のせいだと母親は言い、理性的に考えれば確かにそうだと 恵理菜自身も思います。 でも、抑圧し忘れるよう努力してきた幼い頃の思い出にふれるにつけ、恵理菜は希和子に愛され慈しんで育てられた日々を確信します。 犯罪はこの際置いておいて、自分が間違いなく溢れんばかりの愛情を受けて育てられたのだと信じることで、それまでの迷いが消えたのです。 ただ、 恵理菜は愛され、愛したかった。 それだけだったのです。 自分は愛されて育ったのだと確認できた 恵理菜はもう迷いません。 他の人と少し違った状況で子どもを得た希和子だけれど、他の人と同じように自分を愛し抜いて育ててくれたのです。 愛情において、他の母親と少しも違いはないのです。 恵理菜は、間違いなく愛されて育ったのです。 さまざまな事情から、親を愛せない罪悪感を抱いている人は多いと思います。 そんな人々の心の叫びをこの映画は癒します。 みんな、本当は親を愛したかったし、親に愛してほしかったのです。 そんな、心の奥底に隠した本音を 恵理菜がスルリと口にするから、心揺さぶられるのです。 小説やドラマでの「八日目の蝉」は「母親」を象徴していましたが、映画での「八日目の蝉」は、少し意味合いが異なるように思えます。 他の人と少し異なる状況で子どもを得た母親、または他の人と少し異なった状況で育てられた子ども。 つまり誘拐で子どもを得た希和子や、誘拐犯に育てられた 恵理菜をさしているように思えるのです。 どちらも異端者です。 映画での「八日目の蝉」は、異端者をさしていると思えます。 誘拐は決して許されないことだけれど、希和子の薫への愛情は他の母親と同じ本物。 そして、たとえ誘拐犯であっても母親として慕って育った 恵理菜が希和子に感じる愛情も他の子どもと同じ本物。 たとえ異端者であっても、親子の愛情に嘘偽りはないのだ ということではないでしょうか。 誰だって、存在していていいんだよ 罪を犯した希和子は、普通の7日で死んでしまう蝉とは異なる異端者です。 誘拐犯に育てられ実母を愛せない 恵理菜もまた異端者です。 恵理菜の子ど「不倫の子」または「父なし子」のレッテルが張られた異端者になることでしょう。 彼ら異端者には存在価値がないのでしょうか? 皆と同じでなければ存在価値がないのでしょうか? 行く末は、どうせろくでもない人生と決まっているのでしょうか? いいえ、希和子が小豆島で短いけれど美しいときを得たように。 薫( 恵理菜)も青い海と空と愛情にあふれた優しいときを過ごせたように。 異端者だって世界じゅうの美しいものを見、愛情に包まれて育つことはできるのです。 誰だって、存在していいはずなのです。 恵理菜は最後、自分が心から愛されて育ったことを実感することで、自分の存在が許されたように感じたのでしょう。 異端者でも、こんなに愛情を注いでもらえる、美しいものに包まれて育つことができる。 だから、 生まれてきてよかった! 、と。 恵理菜はここに至りようやく心が満ちて、愛したい人を愛そうと思えたのでしょう。 事件のせいで上手く自分を愛せないでいる実母も、すべてのきっかけを作ったやや頼りないも。 もちろん希和子も。 自分にとって家族とも言える皆を愛そうと。 恵理菜が変わることで、両親の心の氷も時間をかけて溶けていくのではないでしょうか。 どうでしょう? そう簡単にはいかないでしょうか? 現実には、そう簡単に行かないでしょうね。 でも、確実に 恵理菜は前に向かって歩き出しました。 わたしたちは、皆その目撃者なのです。 満点です! 長くなってしまうので省略しますが、映像や役者さんの演技も素晴らしかったですね! ponpontev68.

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八日目の蝉(ようかめのせみ)撮影場所はどこ?映画と原作の違いもチェック

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もくじ• 人はなぜ子供を残すのか この小説から感じた真実の愛とは 角田光代さんの小説、 「八日目の蟬(ようかめのせみ)」、蝉が鳴く時期、特にお盆過ぎから9月中頃までの時期に読むのにぴったりの小説です。 蝉しぐれの音を聞きながらの読書がとても物語の情緒を感じることができます。 夏の独特な季節のなかで、逃亡者の 「希和子(きわこ)」と娘の 「薫(かおる)」、短い時間でしたが、少しでも一緒に幸せに暮らした 小豆島(しょうどしま)の風景が浮かんでくる、とても美しい描写がたくさんあった小説でした。 物語の中では、とうぜん、他の季節のシーンもありますが、タイトルに 「蟬(せみ)」が入るように小豆島の舞台を背景に夏の季節の印象がとても強い作品です。 小説 「八日目の蟬」を読んで考えたところ、感想を記します。 (以下、蟬は蝉と記載いたします。 ) ドラマ化、映画化もされておりますのでタイトルを知っている方が多い作品ではないでしょうか。 この小説を読んで考えたところは、一言で言うと、 「人間のもった真実の愛情」になります。 文字にして書くと、とてもありきたりで薄っぺらい言い方です。 しかし、文字を通して真実の愛情、感情が随所に散りばめられた「八日目の蝉」はほんとうに素晴らしい小説でした。 そして、あわせて読んで考えたところ、 なぜ人は子供を持つ(生む)のだろうか、人間にとって子供とは何かを考えた部分も記したいと思います。 (子供がいないので、いないもの目線で感じたことになります。 ) 「八日目の蝉」あらすじ 誘拐犯、野々宮 希和子(ののみや きわこ)と連れ去られた薫(かおる)の切ないまでに愛情でつながれた逃亡劇 「八日目の蝉」のあらすじを簡単におさらいいたします。 登場人物は、 野々宮 希和子(ののみや きわこ)と 生後6ヶ月で希和子に連れ去られた、薫(かおる)、この二人が物語の中心人物になります。 二人の登場人物、 希和子(母)と 薫(娘)の関係性をおさらいします。 希和子と薫は実の母子ではありません。 希和子(きわこ)は大手下着メーカーK社に就職、同僚の秋山丈博と 不倫と知りながらも付き合います。 希和子は不倫相手の丈博の子供を妊娠しますが、丈博より説得され堕胎します。 堕胎の結果、希和子は子供を産めない体になってしまいます。 幼いこども、 薫(かおる)は希和子(きわこ)の不倫相手、丈博と、その妻の恵津子の間に生まれた娘でした。 ある時、 希和子はどうしても不倫相手の子供を見たい、ただ見たいという気持ちにかられ、丈博と妻の恵津子が一瞬家を空ける時間帯に、丈博のアパートに入り、寝ている薫の姿をみる。 衝動的に薫を連れ去り、希和子(きわこ)と薫(かおる)の逃亡劇が始まる。 おそらく、希和子が薫を衝動的に連れ去ってしまったのは、堕胎を経験し子供が生めなくなってしまったという部分が一つはあります。 無意識で子供を欲する部分。 あわせて希和子は、不倫相手の妻、恵津子は薫に対しての愛情が薄いことを気づいていた。 希和子は堕胎をするように恵津子からも何度も嫌がらせを受けていたので、本能的にそのような母親から幼い純粋無垢な、薫を一目(ひとめ)見た時に守りたいという気持ちになったのだと思います。 「八日目の蝉」のストーリーはとても良くできております。 逃亡する人間の心理、見つからないように隔離された場所(宗教施設)に至るまでの過程、その施設の背景、小豆島(しょうどしま)という絶妙な地理、とても自然に話が進み、希和子がもう、そうなるしかなかったのだとすんなりと受け止めてしまう展開でした。 ドラマ、映画の「八日目の蝉」もとても素晴らしいのですが、 私は小説の中から感じる、刻々と変化する、逃亡する希和子の心情、希和子をずっと本当の母親と信じて育ってきた、少し人見知りでおとなしい娘、薫の成長を感じるのが好きでした。 希和子の逃亡は薫が4歳の時に幕を閉じます。 見つかると察知しフェリーを使って小豆島から別の場所へ逃げようとした時に捕まります。 薫が今まで本当の母親と思っていた希和子との突然の別れ、母、娘としてつながった愛情、切なく、儚いまでも娘の薫を想う希和子と純粋に「母」の希和子を想う薫の姿が好きです。 〇月〇日と日記のように淡々と綴る描写も、逃亡する希和子の心情を覗いている気持ちになりました。 読んでいてとても惹き込まれます。 希和子の母親として、薫を想う気持ち、それを感じたところが以下の描写です。 八十八カ所、ひょっとしてまわり終えていればこんなことにはならなかっただろうか。 それに写真。 お守りになるはずの写真をまだ受け取っていない。 薫と二人で撮ったたった一枚の写真。 いや、写真ならまたどこかで撮れるはずだ。 逃げおおせれば、どこだって。 ~中略~ どうか、どうか、どうかお願い、神様、私を逃がして。 蟬の声が追いかけるようについてくる。 (「 八日目の蟬」P218より抜粋いたしました。 ) 何か罪の意識があったり、少しの、しかし取返しのできない失敗をした時に、ひとは些細なことを理由にしなければ、心を保てない。 それほど希和子の切羽詰まった気持ちをここで感じました。 小豆島の風習、行事、「虫おくり」を島の人たちと一緒に行った時、偶然にもアマチュアカメラマンが撮った、希和子と薫を映した、母、娘の姿の写真が新聞の佳作に選ばれてます。 ざわめく希和子の心、娘の薫と周った八十八カ所めぐりがまだ残っていたこと、大切な薫と撮ったたった一枚の写真を受け取ることができずに、小豆島から逃げないといけない、どれも全て希和子の強烈な後悔と悲しみ、娘を想う気持ちを感じた部分でした。 小説のタイトルにもある、 「蟬」の声が追いかけてくるという描写は、切ないのですがとても美しい表現です。 スポンサーリンク 「八日目の蝉」から考えた、どうして人は子供を持つのか 人はなぜ子供を持つのか。 子供がいない私が考えたところ、子供の存在というのは、できた時点で自身がこの世に生まれた証明、「証(あかし)」を残せたこと、と個人的に考えることがあります。 生まれた後で子育ての大変さなどあると思いますが、生物学的な観点でいうと、遺伝子を残せた時点で、自分の生まれた役割を果たせた気がします。 子供を持つ(生む)意味を考える、とこの記事で触れようとしておりますが、もともと人間がもった本能、理屈ではない生命としての必然、さだめ、自然界に存在する動物もおなじく、種の保存のさだめで生きている。 人間ほどの感情を持っていないであろう自然界の動物ですら、自らの「証」である子供がいて、危険にさらされれば必死に守る。 簡単に書くと、本能です。 「八日目の蝉」を読んで感じたところで、話が戻りますが、 どうして人間、ひいては自然界の動物もふくめて子供を生み、残すのか。 すこし深く考えた部分です。 「八日目の蝉」に限らず、著者、角田光代さんの書いた小説には「生」はきれいで美しいものであるというメッセージが隠されていると読んでいて感じます。 物語では、希和子は不倫した相手の娘を誘拐し自分の子供として育てる。 それは、とても倫理的には許されるものではないのですが、そういうことではなくもっと、ほんとうに伝えたい部分です。 「八日目の蝉」にあるのは、人間のもった種の保存、性欲、そのような先天的な欲求をこえて、ひとりの子供への大切な想いを描いた、暖かくて、そして切ない愛情の物語でした。 単純に生まれながらにある、性欲で子供を残したい。 そういう部分は、もちろん人間も動物なので理由のひとつとして誰もがあるとは思います。 なぜ人は人間は子供を生み、残そうとするのか、 それは、希和子が薫を連れて逃亡し行き着いた、小豆島の景色に触れた時のように、 人が人生の中でみてきたもの、映った景色、感じたものが綺麗だったからだと思うのです。 希和子と薫が目にした小豆島の夏の景色、 小説を読むだけで伝わってきます。 穏やかでのんびりしていて、海が眩しくて綺麗で・・・。 目にした景色、抱いた心情を残したい、ずっとこの先も未来に渡って残したい。 映った景色がとても美しかったから、人は感じた気持ちを残したい。 もしかしたら動物だってあるかもしれません。 動物がどう感じているかなんてほんとうのところは、人間はわかりませんから。 ここまで生きてきてやっと目に触れた美しい景色、肌をなでるやさしい風、人は理屈でなく、心で感じた 生に対しての綺麗で前向きな感情を持った時に、 ずっとその気持ちを残したい、伝えたい、 「つなげていきたい」 子供を持つ、生むとは、そういった美しい背景があるのではないかと、少なくとも「八日目の蝉」を通して感じた希和子の心情を思うと考えてしまうのです。 きっと、子供を生んだ時の気持ちって、美しい肯定的な気持ちを大切な人に伝えたいからだと、「八日目の蝉」を読むと、子供がいないながらにそう感じてしまったのです。 それは、たとえ実子でなくても。 希和子が不倫相手のアパートに行き、薫をみたときに衝動的につれさった。 それは、恵津子という情緒不安な不倫相手の実母から薫を守りたいという母性もあったと思いますが、薫を通して、もっとこの先、美しい世界を教えたいというピュアな気持ちだったのではないでしょうか。 スポンサーリンク 真実の愛情とはなにか もうひとつ、角田光代さんの小説で感じるのは、最初にすこし触れましたが 「真実の愛情」です。 この物語の中には宗教的な描写もふくまれておりますが、全財産をなげうってでも、ほんとうの子供ではない、薫を守りたいという希和子の気持ち。 そして逃亡の末、辿り着いた小豆島で希和子が見た景色を、ほんとうに大切な人(薫)に残したいという気持ち。 そう考えると例え、血縁など関係なく、誰か大切な人に気持ちを残すことができれば、それもひとつの種の保存なのではないかと、「八日目の蝉」を読んで考えたところです。 最終的に、実の子である、ないに関わらず。 人が誰かを愛する気持ちの根底にはとても美しい背景があるのだと感じる作品です。 たとえば、うちの親はなんで子(私)を生んだのか、 それは、生んだ時はとても美しい、それこそ、希和子が薫に見せたい景色があったように、私にも見せたい景色があったのではないかと考えるのです。 うちの家は、残念ながら母はアルコール依存に走り、それで、父は幼少の頃の離婚で離れてしまいました。 「きっと世の中が全て悪いんだ」という成長期の子供のような気持ちを、いまさら大人になって抱きませんが、 そうなってしまった背景には、経済での競争社会、学歴での競争社会、世の中から押し付けられた無言のプレッシャーのようなものが母あるいは父にも知らずに向けられてしまっていたのかと思うところはあります。 それこそ、時代背景にある価値観などにいつのまにか親も、もしくは私も飲み込まれ、子供を生んだときの気持ち、私も生まれた時の気持ちをしだいに失ってしまったのではないかと感じました。 おそらく、いまさらになって思う「たら、れば」なのですが、うちの家庭の場合は、 もっと牧歌的でのんびりとした、ひっそりとした暮らしならもしかしたらうまくいったのではないかと思いました。 希和子と薫が過ごした、小豆島の生活のように。 あまりにも情報量が多く、大切に抱いていた気持ちがいつの間にか淘汰され、いつかみた景色さえ忘れてしまうそんな日常を感じてしまうことがあります。 美しく感じた心も、いつだか世の中の色々な価値観と重ねて、いつの間にか当てはめて、本人の中での大切な感覚がなくなっておかしくなっていった。 うちの母親の場合はそうだったのではないか。 子供に対して勉強しなさいなど言うことも、学歴なども、きっと、では、なんでそんなこと言うのか、言う側もいつの間にかよくわからなくなってしまっていた気もするのです。 そうして、よくわからなくなったまま、彷徨ってしまい、いつか見た子供を生んだ時の大切な景色を忘れてしまう。 私だって、当てはまることがあります。 「八日目の蝉」に登場する誘拐犯、希和子は、決して綺麗なこころだけでなく、どうしてもあらがえない本能というものがあるんだと感じた場面がありました。 希和子は大切な薫を失い刑務所で時を重ねます。 懲役を終え、世の中に戻ってきた時、もう全てを失ったと希和子は感じておりました。 いくあてもなく辿り着いた薄暗い、おそらく小さなさびれた食堂に入った時の描写です。 ここが印象に残りました。 それでもよかったのだ、薫がいさえすれば。 その薫ももういない。 永遠にいない。 外の世界に出されたからといって、何を目指してどこに向かえばいいのか、希和子はまったくわからなかった。 それなのに、そんな状況にいるというのに、みすぼらしい食堂で出されたラーメン一杯をおいしいと、まだ自分は思うのだ。 麵の切れ端までのみこもうとしているのだ。 そのことに希和子は打ちのめされた。 まだ生きていけるかもしれない。 いや、まだ生きるしかないんだろう。 (「八日目の蝉」P363より引用いたしました。 ) この文章がとても印象に残っております。 結局、全てをなげて、罪を背負って、逃げ通してまで守りたかった大切な薫を失った希和子。 読んでいる私までもが、感情移入し、何もかも失ってしまったような気になったのですが、希和子のラーメン一杯を食べた時の感情の描写、 人間というのは、全てを失ったようでも、全てが終わりになったと感じてしまっても、生存欲、極端に言えば、動物としての本能に支配されているのだと、 食欲、性欲、これは人間が、いや動物が背負った業のようなものだと思います。 たとえ希和子のように自分が生んだ子供ではない薫を愛し、理性を持って、薫を守ろうと生きた、希和子の薫に対しての生き方は、人が持った欲求にさらかうほどに強く、無償の愛情を与えていたのです。 そんな希和子でも「どうやってもあらがえないもの」に支配されているのだとそう感じる描写でした。 人間は、感情で考える部分、理性と本能の間に揺れ動いて、バランスを保ってなんとか生きているんだと考えてしまいました。 スポンサーリンク 薫を誘拐し四歳まで育てた希和子の行動は、表面的にみたらとても許されることではないのですが、薫の本当の母親、不倫相手の妻、秋山恵津子(あきやまえつこ)は、希和子からしたら おそらく薫という子供を幸せに育てることができないだろうと直感で理解した。 結局、大人になった薫は、希和子と離され、実の家族と暮らしますが、実親 恵津子 との家族関係は良くありませんでした。 薫にとっては希和子とずっと一緒に過ごせた方がきっと、もっと綺麗な、それこそ希和子がいつか薫に見せたかったものを見ることができたのではないかと考えてしまします。 「八日目の蝉」は、実母、実子の関係を超えた、こころでつながった感情があるんだと知ることができる作品です。 長い間土の中にいて、七日しか生きれない蟬は生の無情さを感じます。 きっと一日でも長く生き延びた蟬がみることができた光景のように、無情でも人生は美しくて、 人間の持った欲を色々とあげますと、愛欲、色欲、性欲、物欲、食欲、そのような人間にそなわった本能にあらがってでも、人に感情を向けることができるこころ、 それが 「真実の愛情」なのではないかと、この作品を読んで考えたところになります。 ほか、睡眠欲などもありますが、ここに上げた欲は、なんとかできる、理性でコントロールできる部分かもしれないと思うのです。 (食欲は完全には厳しいですが、たとえば贅沢なものを食べないとかです。 ) きっと、子供を生むことは、希和子のように、何に変えても、その人が生きてきた中でみた綺麗な景色、気持ち、こころが、きっと誰の根底にもあるのだろうと、 そう信じることができる作品でした。 「八日目の蟬」のなかで、小豆島での生活は短かったですが、質素でも、希和子と薫が二人でいきいきと毎日過ごした場面が好きでした。 ほんとうに豊(ゆたか)な暮らしってなんだろう、そう考える生活です。 小説を読んで、ところどころ、小豆島から見る海の景色、島々、醤油のにおい、夏の光、蟬の鳴き声、オリーブの木、読んでいて景色のようにみえてきました。 希和子が薫と一緒に写真をとる行動、きっと希和子はどこかで、薫との生活が長く続かないと感じていたのでしょう。 その写真が希和子の手に渡らなかったところに胸が苦しくなります。 ずっと、希和子と薫の小豆島での生活が続けばと切に願ってしまいました。 どうして真実の愛情が否定されて、希和子と薫は離されてしまうのか、ほんとうの真実ってなんだろうかと、この物語には途中、この誘拐劇について、裁判の様子もでてきますが、考える部分でした。 実母の恵津子は、戻ってきた薫とうまくいかず苦しみますが、彼女も不倫をされた被害者であり、薫を生むときにはきっとみせたい景色があったと思います。 何が善で何が悪となるのだろうか、いったい物事の物差しってなんなのだろうか、裁判の話をするとまた話がずれてしまいそうなのでここでは、この話はあまり触れません。 「八日目の蝉」この小説を読み返すと、 いつか、希和子と薫がみた景色、夏の蟬の鳴き声が聞こえる季節の小豆島に訪れたい、そのような気持ちになります。 「八日目の蝉」から感じた、人の愛情、真実の愛について考え、書いてみました。 とても長くなってしまいました。 ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。 追記:映画版もとてもおすすめです。 ただ、希和子と薫の別れのシーンがあまりにも切ないので、私は希和子と薫の二人の小豆島での短い生活を読書で味わう方が好きな作品です。

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八日目の蝉のレビュー・感想・評価

よう かめの せみ

角田光代さん原作の映画 『 八日目の蝉』(ようかめのせみ)。 「どしゃぶりの雨の中で起きた誘拐事件。 犯人は父の愛人。 連れ去られたのは、私。 私はその人を、本当の「母」だと信じて生きてきた。 」というキャッチフレーズが衝撃的です。 この映画の 撮影場所は香川県の小豆島(しょうどしま) がメインですが、 小林聡美主演のBSドラマ「山のトムん」で、美しい風景が写し出された 長野県の諏訪町も撮影場所「(ロケ地)にあるんですよ。 映画版はアカデミー賞を受賞したことでも話題になりました。 映画とドラマでは撮影場所が異なっているようなので、ここでは永作博美さん、井上真央さん出演の映画の撮影場所について調べてみました。 室町時代から江戸時代にかけて造られたと言われる棚田は 「日本の棚田百選」に選ばれています。 標高150~250mの山肌沿いに、大小733枚の田が連なる様はまさに圧巻です。 住所:小豆郡小豆島町中山 重岩(かさねいわ) 小豆島に数多く残る石切丁場跡の一つ、小瀬の丁場でひときわ存在感のある巨大な石「重岩(かさねいわ)」は、映画版のエンドロールに映し出されます。 どんな経緯でここに座するようになったかは未だ謎のままですが、小瀬石鎚神社のご神体として祭られ、大切にされています。 住所:小豆郡土庄町甲 寒霞渓(かんかけい) 香川県の小豆島にある渓谷。 国指定の名勝のひとつ。 住所:小豆郡小豆島町神懸通 「金丸座」を模して造られた芝居小屋 希和子と薫が芝居見物をした中山農村歌舞伎舞台は、中山春日神社の境内にあります。 地元の人々や子どもたちによる農村歌舞伎は、毎年秋に上演され、大勢の観客でにぎわいます。 住所:小豆郡小豆島町中山1487 エンジェルホーム 希和子(永作博美)が不倫相手の子(薫)と逃げ込んだ、事情を抱えた女性だけが暮らす施設 『エンジェルホーム』。 このシーンの撮影が行われたのが、長野県諏訪市の木造校舎の旧南中学校(現在は廃校になっています)。 jimdo. 自給自足している女性たちの施設を表現するため、美術さんによる作り物ではなく、実際の畑を作り、ニワトリやヤギも現地で用意するなど細部にまで監督がこだわったほど。 同じくこのあたりで撮影が行われた「山のトムさん」でもヤギや鶏がドラマのために飼育されていましたね。 suwafc. html 小豆島町長の「八日目の蝉」というブログがあるのですが、間違ってか意図してか未来記事になってます(笑)。 時代背景などもあるのでしょうが、原作と映画は若干内容がちがっているようです。 描かれない話 最初の逃亡先、名古屋で匿ってくれた中村とみ子との交流。 一人っ子との設定。 恵理菜の妹、真理菜の存在は無しにされている。 誘拐時、希和子の放火未遂容疑もしくは出火過失の有無。 小豆島に逃亡した当初、ラブホテルでの住み込み勤務。 小豆島で、実質的にお見合いした役場の職員、大木戸一(はじめ)との交流。 物語の終盤、新岡山港における希和子と恵理菜の互いの相手を認識しないすれ違い。 設定の変更 恵理菜と千草が再訪した時点のエンジェルホームは運営されているが、映画では廃虚化。 原作では恵理菜と千草が小豆島に渡った直後で終わるが、映画では実際に島を巡り過去を辿る。 美しい風景をイメージしながら、本を読むのもまた、映画を見るのとは違った楽しみがありますね。 人気ブログランキングにも参加しています。 よろしければ応援よろしくお願いします!.

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