御簾よりなかば出でて。 第62回 「賢木」より その5

第62回 「賢木」より その5

御簾よりなかば出でて

竹屋が焼けた• ダンスが済んだ• わたし負けましたわ などのように、上から読んでも下から読んでも同じになる文句を回文と言います。 もっと短い単語では、シンブンシ(新聞紙)、ヤオヤ(八百屋)などがそうです。 三十年以上も前のことですが、修学旅行の引率で関西へ行った時に、観光バスのガイドさんが、途中の慰みに、「人のからだの中で、上から読んでも下から読んでも同じになるものは何。 」と質問しました。 たぶんミミと答えるのを期待したのでしょう。 それをずらしてやろうと、わたくしがメと言ったものだから、生徒たちはそれに乗って、テだのイだの、最後にはヘまで出てきて、ガイドさんは、笑いが止まらず、収拾がつかなくなってしまったことがあります。 昭和二年に出た「小学生文庫」というシリーズの一冊『面白文庫』に、• 冬の夕(ゆふ)• 塀のあるあの家(いへ)• 失せましたいかが致しませう は歴史的仮名遣いでないと回文にはなりません。 昭和初期の少年少女の読み物や雑誌には、こんなお楽しみコラムがよく載っていました。 天明五年(一七八五)に出た唐来三和作の『莫切自根金生木』という黄表紙があります。 漢字の字面はむずかしそうですが、「きるなのねからかねのなるき」という回文の題名です。 これは題名だけですが、泡坂妻夫氏の『喜劇悲奇劇』(昭和五十七年)は、ウコン号というショウボートの中で連続殺人が起こるミステリーです。 題も舞台設定も回文なら、登場人物の芸名も、たんこぶ権太、森まりもなど回文、各章は「1 豪雨後」から「18 大敵が来ていた」まですべて回文、序章と終章は「今しも喜劇」「奇劇も仕舞い」で合わせて回文、書き出しの一文は「台風とうとう吹いた」、最後の一文は「わたしまた、とっさにさっと欺(だま)したわ」、文中にもしばしば回文が見られるという凝ったものです。 マジシァンでもある泡坂氏には、ストーリーとは関係のない仕掛けがある作品がいくつもあります。 これもその一つです。 泡坂氏には、『意外な遺骸』(昭和五十四年)という短編もあります。 佐野洋氏の『盗まれた嘘』(昭和五十三-四年)というミステリーでは、丹下玄太と小並木美奈子というカップルが主人公です。 岡嶋二人氏の短編集『三度目ならばABC』(昭和五十九年)では、「この人の名前、愉快でしょ? 織田貞夫っていうんです。 上から読んでも、おださだお、下から読んでも、おださだお、あたしは土佐美郷、やっぱり、上から読んでも、とさみさと、下から読んでも、とさみさと、ね」という二人が探偵役で、「山本山コンビ」と呼ばれます。 この二人は長編『とってもカルディア』(昭和六十年)にも登場します。 山本山コンビというのは、海苔店のコマーシャルから取ったもの、こちらは漢字で回文です。 三笑亭笑三、三遊亭遊三という落語家の名もそうです。 奥山真由子さんという知人がいます。 仮名で書いても回文にはなりませんが、OKUYAMAMAYUKOとローマ字で書くと回文になります。 これは親御さんが意図して付けた名だそうです。 ローマ字は単音文字ですから、声に出して言ったのを録音して逆回しすると、オクヤママユコと聞こえます。 地名の赤坂もこれと同じになります。 先の泡坂氏の『喜劇悲奇劇』にも、岡津唄子(OKATUUTAKO)、ノーム・レモン(NOME LEMON)という人物が出てきます。 外国にも同じような遊びがあり、英語ではpalindromeと言います。 Able was I ere I saw Elba. エルバ島を見る前は私は有能であった。 ナポレオンが晩年に過去を回想したことばというものです。 エルバ島はイタリアの海岸にあり、ナポレオンが戦いに敗れて最初に流された所です。 よくできていますが、フランスのナポレオンが英語で回想するはずはないでしょう。 Madam, I'm Adam. 奥様、私はアダムです。 アダムというのは単なる男の名前と思っていましたが、エデンの園でイブに言った言葉としたほうがおもしろいように思います。 中国文学にもこのような詩があります。 梁の簡文帝(503-551)の作という「詠雪(雪を詠む)」という詩は、 なつなみな野なはなはなのなみなつな つつつ つ つ つ つ つ つつつ なつなみな野なはなはなのなみなつな み みみみ み み み みみみ み なつなみな野なはなはなのなみなつな の の 野のの 野 ののの 野 野 なつなみな野なはなはなのなみなつな は は は ははははは は は は なつなみな野なはなはなのなみなつな は は は ははははは は は は なつなみな野なはなはなのなみなつな 野 野 野の野 の 野の野 の の なつなみな野なはなはなのなみなつな み みみみ み み み みみみ み なつなみな野なはなはなのなみなつな つつつ つ つ つ つ つ つつつ なつなみな野なはなはなのなみなつな とものきつとかめむめかと月のもと もも も も もも の の の の の の 月 来つ 月 月 月 とものきつとかめむめかと月のもと か かか かか か め め め め め め む む む む む め め め め め め か かか かか か とものきつとかめむめかと月のもと つ つつ つ 月 つ き 来 き き き の の の の の の もも も も もも とものきつとかめむめかと月のもと のように、視覚的にも楽しめる回文が五句載っています。 こういう形式を八重襷(やえだすき)と言います(原本では字が横向きになったり斜めになったりしています)。 明暦二年(1656)刊の皆虚編『せわ焼草』には「回文詞」として、 折るな枝鶯低う妙(たえ)なるを というもの、「妙」は歴史的仮名遣いでは「たへ」ですが、当時としては仕方のないところでしょう。 回文は短いほうが作りやすいのは言うまでもありません。 かなり長く作った例もありますが、そういう作品は、なるほど回文だと感心させられるだけです。 記憶されるのは、せいぜい短歌の長さくらいまででしょう。 その短歌は五七五七七ですから、第三句の四字目を真ん中にして回転し、七七五七五が五七五七七にもならないと成り立たないのですから、かなり難しい。 連歌や俳諧では、五七五あるいは七七の句で回転すれば良いので、ずっと作りやすくなります。 連歌俳諧に回文が多いのは、そんな事情もあるのでしょう。 最後にちょっとエッチな句。

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回文

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東京都府中市の大学受験プロ家庭教師『逆転合格メーカー』のコシャリです。 いつも独学受験. jpにお越しいただきましてありがとうございます。 助動詞: 薄緑のマーカーです 敬語: 緑のマーカーです 係り結び: オレンジのマーカーです。 歌合の歌人に選ばれた小式部内侍をからかった定頼の中納言!返り討ちに! 歌人として有名な和泉式部さんの娘、小式部内侍さんは当時、自分の歌がうまいのは母の和泉式部が代わりに詠んでいるからではないか?と人々から疑われていたという。 そんな中、自分をからかった定頼の中納言をみごとな詠みっぷりで返り討ちにした小式部内侍さんに当時を振り返ってもらった。 前から自分の実力がちゃんと評価されてないなとは思っていたんです。 有名な歌人の母の七光なんじゃないの?代わりに読んでもらってるんじゃないの?って。 今回いい機会だと思って、ちょっかいを出してきた定頼の中納言の袖を掴んで聞かせてやったの。 私が詠んでるのよって。 そしたらどうなったと思う? 定頼の中納言ったら返事もしないでどっか行っちゃったの。 しつれーな奴だと思わない?。 ていうかダサすぎるわよね? 心の中で中指を立てていたわ。 あらいけない、ついつい本音が出ちゃったわね。 今のはオフレコでよろしくね。 まあこれを機会に私も有名になったから、定頼の中納言には感謝しているわ。 彼はいい踏み台になってくれたわね。 では後半のコシャリの空想は置いておいて、内容に入っていきましょう。 和泉式部、保昌が妻 にて丹後に下り けるほどに、 京に歌合あり けるに小式部の内侍歌詠みにとら れて詠み けるを 現代語訳 和泉式部が、夫の保昌の妻として(保昌の任国の)丹後の国に下っていた頃に、 都で歌合があったが、(和泉式部の娘の)小式部内侍が歌人に選出されて、歌を詠んだが、 品詞分解 和泉式部 名詞 保昌 名詞 が 格助詞 妻 名詞 にて 格助詞 丹後 名詞 に 格助詞 下り ラ行四段活用動詞「下る」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 ほど 名詞 に 格助詞 京 名詞 に 格助詞 歌合 名詞 あり ラ行変格活用動詞「あり」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 に、 格助詞 小式部の内侍 名詞 歌詠み 名詞 に 格助詞 とら ラ行四段活用動詞「とる」未然形 れ 受身の助動詞「る」連用形 て 接続助詞 詠み マ行四段活用動詞「詠む」連用形 ける 過去の助動詞「けり」連体形 を、 接続助詞 定頼の中納言戯れに、小式部の内侍に、 「(歌人として有名な母和泉式部のいる)丹後に派遣した人はもう帰って参りましたか。 「踏み」=足で踏む=行く• 「文」=手紙 の掛詞になっています。 このパターンを覚えておこう! 品詞分解 大江山 名詞 いくの 名詞 の 格助詞 道 名詞 の 格助詞 遠けれ ク活用形容詞「遠し」已然形 ば、 接続助詞 まだ 副詞 ふみ 名詞 も 係助詞 み マ行上一段活用動詞「みる」未然形 ず 打消の助動詞「ず」終止形 天の橋立 名詞 と詠みかけ けり。 思は ずにあさましくて、「こはいかに。 」 とばかり言ひて、返しにも及ばず、袖を引き放ちて逃げ られにけり。 小式部、これより、歌詠みの世おぼえ出で来 にけり。 現代語訳 と(小式部内侍は定頼の中納言に)詠みかけた。 定頼の中納言は思いがけず(小式部内侍のみごとな歌の詠みに)驚いて、 これはどうしたものだ とだけ言って、小式部内侍への返歌も出来ず、小式部内侍の掴まれた自分の袖を引き離してお逃げになった。 小式部内侍は、この時から、歌人として世間の評判になることになった。 品詞分解 と 格助詞 詠みかけ カ行下二段活用動詞「詠みかく」連用形 けり。 過去の助動詞「けり」終止形 思はずに ナリ活用形容動詞「思はずなり」連用形 あさましく シク活用形容詞「あさまし」連用形 て、 接続助詞 「こ 代名詞 は 係助詞 いかに。 過去の助動詞「けり」終止形 小式部、 名詞 これ 代名詞 より 格助詞 歌詠み 名詞 の 格助詞 世おぼえ 名詞 出で来 カ行変格活用動詞「出で来」連用形 に 完了の助動詞「ぬ」連用形 けり。 過去の助動詞「けり」終止形 この記事を読んだ人は下の記事も読んでいます お役に立てましたらランキングをクリックしていただけると大変うれしいです。

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小式部内侍が大江山の歌の事・ 現代語訳・品詞分解・読み方

御簾よりなかば出でて

----- 福岡民謡「黒田節」に唄われた家臣の母里太兵衛が天下の名槍を呑み獲った故事も、実は中津時代(1587年〜1600年)のことだぞって主張がある。 1596年(文禄5年)正月、主君長政の使者として伏見の福島正則のもとへ遣わされた際、正則に大盃の酒を強いられて一旦は断る。 なおも正則に「呑み干したならば望みの褒美を取らす」、さらには「全く黒田武士こそ酒に弱い役立たず」などと煽られ、ついに大盃を取って数献見事に呑み干す。 これ、どっちかっつうと挑発を受けて一線を越えてしまったというアカン話ではないか。 でもここからの駆け引きがちょっと面白い。 太兵衛はとりわけ槍術に長けており、正則が秀吉から拝領した名高い槍を所望する。 状況一転、「武士に二言あるまじ」の追い討ちをかけられ、正則は家宝を差し出す不覚を取った。 この槍、銘を「日本号」といい、現物が今も福岡市博物館にある。 黒田節の歌詞に「日の本一のこの槍を」とあるのはこの銘から来たもの。 天下三名槍の一つにして究極の大身槍とされているそうな。 以上はいわば大酒呑みのおっさんたちのはしたないオハナシであって、特に粗暴粗野なイメージの固定している福島正則にはよくある「酒の上の失敗」。 家臣と酒を飲んでいて、何に激昂したか切腹を命じ、翌朝その首に取りすがって泣きながら詫びたなんて逸話もあるらしい。 しかしこの手の雪辱話、他にもいろいろある気がする。 最も人口に膾炙しているのは「十訓抄」に見える小式部内侍の話だと思う。 ----- 和泉式部、保昌が妻にて丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに、小式部内侍、歌よみにとられてよみけるを、定頼の中納言、たはぶれに小式部内侍に「丹後へつかはしける人は参りにたるや」と言ひ入れて局の前を過ぎられけるを、小式部内侍、御簾よりなかば出でて直衣の袖をひかへて 大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天橋立 とよみかけけり。 思はずにあさましくて、「こはいかに」とばかり言ひて、返しにも及ばず袖をひきはなちて逃げられにけり。 小式部、これより歌よみの世おぼえ出で来にけり。 ----- 小式部が宮中の歌合に召されることとなった際、母親の和泉式部が夫藤原保昌とともに任国丹後に下っていたため、同じく歌合に召されていた藤原定頼が「母上に頼んだ代作の返事は来たか」と言い掛けたその袖を捕らえ、即座にこの歌を返して大いに歌名を高め、一方定頼卿は思わぬことに驚き呆れて礼儀も忘れ、返歌さえ詠み得ず赤恥をかいた、という逸話。 さしずめ、セクハラおやじをやり込めてしまった才気煥発新人OLってとこ。 華やかな技巧に満ちた歌と当意即妙の切り返しはウケる要素たっぷりだぜ。 この歌は小倉百人一首にも採られているし、中学か高校の教科書にも載ってたっけ。 「思はずにあさましくて」のフレーズが妙に頭に残ってるんだよね。 黒田節と共通しているのはいわれなき侮蔑と我慢、一転して才覚で見返すってとこだろう。 能の「草紙洗小町」にも似たところがある。 この絵を描いた上村松園の随筆集「青眉抄」から。 ----- 稀代の美女小野小町を題材にした謡曲はいくらかあって「七小町」と呼ばれているけれども、「卒塔婆小町」をはじめ、歳を取り落魄した姿を描くのが通例で、若く美しい小町が出てくるのはこれだけではないか。 時代の異なる六歌仙が一堂に会しちゃうし、いにしえの大切な歌集を水洗いしちゃうし、そしたら新しい墨だけ流れ落ちちゃうしという、時代考証とかリアリティとかはまるで気にしてない豪放磊落荒唐無稽譚だけど、やっぱり汚名を雪ぐスカッと感で人気ある演目のはず。 松園は当時、金剛流の草紙洗を観て感銘を受け、これを面と演者が一体となった姿に描いて文展に出した。 「序の舞」の翌年、昭和12年のこと。 似た雰囲気のあるものをもう一つ。 「伊勢大輔集」から。 ----- 女院の中宮と申しける時、内におはしまししに、奈良から僧都の八重桜を参らせたるに、今年のとりいれ人は今参りぞとて紫式部のゆづりしに、入道殿きかせたまひて、ただにはとりいれぬものをと仰せられしかば いにしへの奈良の都の八重桜 けふここのへににほひぬるかな ----- これも百人一首に採られた歌。 技巧に走って、大して深い内容ではないけれど、舞台装置が華やかに平安絵巻。 今を時めく宮廷一の才媛から大役を譲られたプレッシャーが新人にのしかかるという設定も効いている。 ここでも周囲の期待と不安を背負いながら、咄嗟の機転で大面目を施すわけ。 中 勘助の短編集「鳥の物語」の巻頭にある「鶴の話」も挙げておこう。 聖武帝紀伊行幸の際、山部赤人が一首の和歌を詠み上げるまでを描いた珠玉の掌編。 和歌の浦に着いて帝の命により「鶴」を題に歌を詠みかかったものの着想が湧いて出ず、じりじりと時間ばかりが過ぎていくうち、いつの間にか満ちてきた潮が群れ居る鶴に波と打ちかかり、不意を突かれた鶴たちが御場所柄をも忘れずかうかうと鳴き連れて飛び立ったその時、赤人夢から覚めた如くはっと我に帰り、たちどころに 和歌の浦 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴 たづ 鳴き渡る と詠み上げた。 帝も御感ななめならず、「やよ赤人、今まではそちを歌の上手とばかり思うていたがまことにそちは歌の名人じゃぞ」との仰せごと。 鶴たちにも褒美をとて連れ戻させ、やおら御手をのべさせられて一羽一羽頭を撫でられたところ、さすが日の御子の御手に触れて彼らの白い頭がみるみる日の出の色に染まった。 「これがめでたい丹頂のいわれでございます。 」 危機一髪と逆転満塁ホームラン、劇的に効いている。 こういう趣向も、歌舞伎あたりになると乱発しそうだよなあ。 あんまし詳しくないけど。

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