豊臣 秀吉 政策。 豊臣秀吉

豊臣秀吉の年表から歴史・人物・戦争・政策を簡単発見!

豊臣 秀吉 政策

太閤検地の「検地」というのは、田んぼや畑の面積、収穫量をその土地の領主が調査することを意味するんだ。 この太閤検地は、土地ごとの生産量を把握して効率よく年貢を取ることが目的だったと言われているよ。 この検地は、秀吉だけではなく、織田信長や、武田氏、毛利氏、今川氏などの他の武将も行っていたそう。 けれど秀吉が行う太閤検地以前の検地は、それぞれ自分たちの基準や方法で行っていたんだ。 だから、同じ土地の面積を計測し、収穫量を調査しているのに、結果を見せ合うと違う…ということも。 そこで秀吉は、全国で太閤検地を行うにあたって統一のルールを決めたんだよ。 【秀吉が統一した検地のルールって?!太閤検地で行ったこととは?】 太閤検地で行ったのは ・単位統一 ・水田調査 の2つ。 太閤検地で秀吉は ・面積単位の統一 ・京枡の使用 ・土地単位の統一 だよ。 の3つを単位統一を行ったんだよ。 京枡は太閤検地が行われる前まではそれぞれ違う大きさの枡が使われていたそう。 それでは正確な測量はできないため、同じ京枡を使うことになったんだ。 また数の統一をしたのも秀吉だよ。 6尺3寸=1間(約191cm) 1間四方=1歩 30歩=1畝 10畝=1反 10反=1町 という単位を統一して、田畑の等級も上、中、下、下々に分けたんだ。 さらに秀吉は、単位の統一以外に、水田の検地も行ったよ。 戦国時代の検地は農村側の自己申告だったんだけど、太閤検地では実際に計測されたんだ。 この調査は水田だけではなく、屋敷地にも及んだそう。 水田の検地を行う時には、土地の収穫高をランク分けしたの。 この土地の価値は「石高」と言って、水田検地によって割り出された石高によって村や地域の価値が決定したの。 太閤検地の以前は、測る基準をしっかりと統一していなかったのが驚きだよ! 【太閤検地を行ったことで何が変わった?】 秀吉によって行われた太閤検地によって、基準や単位が統一されたことは分かったかな? この、太閤検地を行ったことによって人々には様々な影響をもたらしたと言われているよ。 これによって、土地の価値に応じて農民は年貢を納めるようになるよ。 太閤検地が行われる前には、石高制ではなく、貫高制が行われていたんだ。 この貫高制とは土地の単位のこと。 2000貫の土地では、年貢が銭で2000貫とれる土地という意味だったんだよ。 でもこの貫高制は、その土地の実際の面積や米の生産量ははっきりと分からない大雑把なものだったんだ。 農民の中には、収穫量をごまかす者もいたとか… そこで秀吉は、実際の土地の面積を測り、単位面積当たりの標準生産高である石高を調査したんだ。 この石高制は江戸幕府に継承され、幕藩体制の主軸となったんだよ。 石高制が確立されたことで、効率よく年貢を徴収できるようになったの。 みんなは百万石という言葉を聞いたことあるかな? 石川県金沢市のことを現在でも「加賀百万石」ということもあるね。 この百万石というのはお米の総生産量のこと。 百万石は150,000,000kgで、お金に換算すると約600億円だったそう。 ・土地の権利関係が明確化 太閤検地が行われる前は、平安時代後期に成立された「荘園公領制」が採用されていたの。 この制度は、貴族や寺社が支配する荘園と、国司が支配する公領の2種類に分かれていたんだ。 秀吉はこの荘園公領制を廃止し、土地を耕す農民が所有者として年貢を納める「一地一作人の原則」を確立。 これによって、土地の権利関係が明確になって、複雑な年貢納入の流れが簡略化されたんだよ。 ・兵農分離が完成 秀吉が太閤検地を行ったとき、刀狩令や身分統制令も同時に行っていたんだ。 これらの政策が複合し、武士と農民を完全に分ける「兵農分離」が完成したそう。 太閤検地によって農民は土地の所有権を認められたものの、その代わりとして年貢を納める義務を負うことになったんだ。 不満があったとしても、刀狩令によって武器を取り上げられていた農民は、一揆や反乱を起こすことができなかったそう。 また、武士が商人や百姓になったり、百姓や商人が武士になったりすることは、身分統制令で禁止されていたの。 だから、農民は農民としてしか、働くことができなくなってしまったんだ。

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豊臣秀吉さんの政権を幕府と呼ばないのはなぜなのでしょう

豊臣 秀吉 政策

貿易に立ちはだかる海賊に秀吉は? 豊臣秀吉は朱印船貿易、南蛮貿易など貿易に力を入れていました。 しかし、時にはその貿易に障害が立ちはだかることも。 例えば、豊臣秀吉が貿易を行う上で立ちはだかった障害の一つが当時瀬戸内海に多くいた海賊でした。 その海賊の正体は島や沿岸の一部を支配する領主たちで、通行料を払えばよし、もし拒めば荷を奪うなどの行為で、貿易を行う上でどうしても解決しなければならないものとなっていたのです。 そんな海賊に対し、豊臣秀吉は1588年に海賊停止令を出すことで対応します。 これは海賊に豊臣政権に大名として入るか、武力解除して陸で働くかを迫るものでした。 これにより、豊臣秀吉は海上の安全を確保、豊臣秀吉の大きな財源の一つである貿易を守ったのです。 さらに、このことにより、豊臣秀吉は海上支配も行いました。 貿易をしたい、ではキリスト教はどうする? また、豊臣秀吉は織田信長の時代から続いて南蛮貿易を進めていました。 しかし、キリスト教が徐々に力をつけはじめ、警戒した豊臣秀吉はキリスト教を禁止し始めます。 一方で、豊臣秀吉は京都や酒井、そして長崎に博多などの豪商たちに南北との貿易を奨励していました。 しかし、豊臣秀吉が推奨する貿易はキリスト教の布教と強く結びついており、キリスト教を禁止すれば貿易に滞りが生まれ、貿易を優先させればキリスト教の布教が進みます。 そのため、豊臣秀吉によるキリスト教の取り締まりは徹底的に、とはいかなかったようです。 豊臣秀吉は貿易を優先させたのです。 豊臣秀吉と貿易 ここで説明したように、豊臣秀吉は南蛮貿易などを進めていました。 しかし、貿易を進めるには越えなければならない障害がありました。 それが海賊やキリスト教です。 そこで豊臣秀吉は、貿易に影響する海賊に対しては自分の配下に組み入れ、貿易を安全に行えるようしたのです。 そして海賊を水軍として自分の力にしたうえ、海上支配にまで手を伸ばしました。 一方、キリスト教の力を警戒し、取り締まりながらもそれでは貿易がうまくいかなくなるという難問に対しては、貿易を優先させ、キリスト教に対する取り締まりを徹底させてはいませんでした。 豊臣秀吉にとって、それほど貿易は大事な財源だったのです。 そして、この対応からもわかるように、貿易を行うときに現れた海賊などの障害に対しては、うまく自分の利益になるようにかわしつつ、より将来のためになるような対策を行っているのです。

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太閤検地とは?豊臣秀吉が行った目的と理由をわかりやすく解説

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検地の図 安藤博編『徳川幕府県治要略』より 天下統一を果たした秀吉 関東の北条家を破った秀吉は、かつての主君であったも果たせなかったの夢を見事に実現させた。 奥州のも秀吉にとっては脅威であったが、既に臣従の姿勢を見せていたので、刃を交える事はなかった。 この時点で既に、秀吉に逆らう大名はいなくなった。 徳川家康も秀吉に臣従する 小牧・長久手の戦いの戦いでとは、戦の後に和睦したものの、翌年に関白となった秀吉が家康に上洛を求めたが、家康は承諾しなかった。 そこで秀吉は関白就任の翌年となる天正14年 1586年 に、妹に当たる朝日姫を家康に嫁がせ、さらには母である大政所を人質として家康に送った。 この秀吉の政略により、家康は上洛を承諾し、実質、秀吉の臣下となったのである。 家康をも従え、 天下統一を成功させた秀吉は、次に太平の世を作り、その 支配力を日本全国へ及ぼす為の 政策を実行した。 惣無事令 関白となって国政を行うようになった秀吉は、天正13年 1585年 に「惣無事令」を全国各地の大名に発した。 法令の主な内容は「 大名間の領土紛争」「 村同士の水論・山論」を 禁止する事であった。 世の中の争いを無くす事が目的の政策だ。 秀吉は、この政策に従わなかった事を大義名分に、関東の後北条氏を滅ぼしている。 太閤検地 秀吉が執った政策の中で特に有名なモノが「太閤検地」だ。 太閤検地とは、その 土地が どれだけの量の米を生産出来るかを吟味して調べる事だが、秀吉は支配地となった土地を隅々まで綿密に調べていった。 石高制 そして各所に有る田が米をどのくらい生産出来るかを示す単位を決める為に「 石高制」を導入した。 その際に度量衡の一本化を行い、米の量を計る秤の単位まで統一させた。 刀狩り 当時の農民は、戦が在れば農具を刀に換えて戦場に馳せ参じるというような農民が多かった。 その為に武士との境目が非常に曖昧だったが、豊臣秀吉はこれを是正し、 農民を完全に支配できる様に「刀狩り」という政策も執った。 刀狩りの目的 刀狩りという政策は、文字通り農民たちが独自に隠し持っていた武器を接収する事である。 農民が武器を持っていては、武器を取って反乱しかねない、という事から、この政策が施行されたのだ。 全ての武器を回収できた訳じゃない 秀吉は刀狩りを行う際に、その名目として「大仏建立の材料に使う為に武器を差し出せ」と命令した。 相当量の武器が回収されたが、実際のところ農村に隠されていた武器類は膨大な量であった。 いくら秀吉の命であっても、全てを回収させる事は出来なかったという。 そもそも、田畑を荒らす害獣などを駆除する為には武器が必ず必要であり、全ての武器を回収すれべ、農耕に支障が出るのだ。 人掃い令-戸籍登録 「人掃い令」は関白を譲った豊臣秀次が発令した法令ともされるが、秀吉が発した「 身分統制令」にも同様の内容が在った。 これはいわゆる 戸籍調査の実施で、一村の人数や性別、職業を書類に明記する事を義務付けたモノ。 これによって、士農工商の基礎が出来上がり、身分制度はさらに進化した。 バテレン追放令 当初、秀吉は南蛮文化に寛容だった 民衆の宗教政策においても、秀吉は「伴天連追放令 ばてれんついほうれい 」を発布している。 当初、秀吉は信長と同様にキリスト教文化 カトリック には寛容な姿勢を見せていた。 むしろ秀吉は 南蛮渡来の調度品や先進技術などには、かなり興味を見せており、その価値も認めていた。 秀吉が九州を訪れ事態が動く しかし、キリシタン大名が多かった九州で、秀吉がキリシタン達の信仰を目の当たりにした事で事態が変わった。 キリスト教は 日本にとって危険な宗教であると判断し、突如「伴天連追放令」を発布したのである。 キリシタン大名の高山右近はこの秀吉の命に逆らった為に、所領を没収されている。 南蛮貿易は続く キリスト教の布教を禁止した秀吉だったが、相変わらず南蛮品には関心を示していた。 結果として秀吉は、南蛮との貿易そのものは中止せずに続けた。 秀吉の茶道 秀吉は武人としての才覚も確かであったが、同時に雅 みやび の世界にも心を傾けていた。 秀吉は和歌や連歌、または茶会や能などを盛んに開催した。 特に茶の道については、「茶聖」と呼ばれる 千利休を重用し、利休が創始した「侘茶」を身に着けていた。 だが、実際は「 茶室は密談の恰好の場所」と配下の黒田官兵衛にも話している事から、 茶道を政治の場の道具として扱っていた事も事実だ。

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