ひきこもり の 高 年齢 化 を 何 問題 という。 2019年度 ひきこもり問題の理解促進と支援力向上のための研修会 ~関東地区開催~を開催しました。お問い合わせはメール(lecture@khj

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ひきこもり の 高 年齢 化 を 何 問題 という

一度、ひきこもりの状態になるとなぜ長期化するのでしょうか。 ひきこもりを考える際のポイントは特有の悪循環にあります。 ひきこもりの悪循環とは、人をひきこもり状態から抜け出しぬくくさせる構造のことです。 本人が抜け出したいと願っても、容易には抜け出せなくさせる構造がひきこもり事例の大半に共通して存在しています。 本来ならば、ゆっくりと心を休め、自分を見つめなおす豊かな営みであるはずの「ひきこもり」が、なぜ人を悪循環に陥れるのでしょうか。 それでは実際に、ひきこもりの悪循環の構造はどのような姿をしているのでしょうか。 理解の手がかりとして、まずひきこもり経験者の自己分析を紹介しましょう。 ひきこもりが自身の意図を超え、長期化してしまう様子をよく洞察した自己分析です。 語り手は神戸市に住む50代の男性で、高校時代から20代の終わりまでをひきこもり状態で過ごした方です。 小さな食堂を経営していますが、店は休みがちで長期休業することもよくあります。 彼は自身のひきこもり経験をこう振りかえりました。 「つまらない人生でした・・・・。 そう総括しなければならないことはつらいことですけれど、まぎれもない事実として僕のひきこもり人生は、つまらない痛恨の人生でした。 残すべきものも残すべき相手もいません」 自分がひきこもり状態に入った経緯について次のように説明しました。 僕のひきこもりは、ぬくもりを求めての逃避から始まりました。 怠け者のくせに、できもしない高望みをしたせいで、現実とのギャップに傷ついてしまい、現実社会に居心地の悪さを感じました、と・・・。 「ぬくもりって、たとえて言うなら冬の朝に感じる布団のなかの心地よさです。 そこへ逃避しようとすることが出発点でした。 でも、ぬくもりのなかへ一歩踏み出した瞬間、自分自身の罪悪感との闘いが始まるんです。 」学校へ行けなければならない、会社へ行かなくてはいけない・・・・自分自身の中に刷り込まれているそうした社会的規範や常識と呼ばれるものに、自分は背いてしまっている。 彼の罪悪感はそのような認識から生まれてきました。 「罪悪感からは孤立感が生まれました。 孤立感から不安感が生まれ、不安感は恐怖感につながっていきました。 そこには安住できないとわかって、外に出たい、何かしたいと思っても、身動きできないくらいに固く僕を縛りつけてきたものは、何よりこの恐怖感です。 他人の目が怖い、社会がとても怖い・・・・。 満足に泳げないのに暗い海を一人で沖へ泳ぎださなくてはならないときの感じ、といいますか・・・・。 理屈じゃない。 ただひたすら怖いんです。 」 恐怖感ゆえに動けなくなってしまう経験については、ほかにも多くのひきこもる青年たちが証言しています。 たとえば20代のある男性はそれを「歩くことをしらない赤ん坊が右足から先に出せばいいのか左足から先に出せばいいのかわからなくて、すくんで一歩も踏み出せない状態です。 」と表現しました。 この男性の話には、ひきこもりが生み出す不安感や恐怖感がひきこもり期間を長引かせ、ひきこもりが長期化してしまったことが外界への不安感や恐怖感をさらに強める、という悪循環の構造が見えます。 「こんなはずではなかったのに」という彼の実感は次のような言葉にも如実に表れています。 「心地よいはずだったひきこもりが実際にはひどく居心地の悪い世界につながっていて、袋小路か迷路のように脱出不能になっていました」 「ひきこもったことで、ちっぽけで虚弱な人間が自分自身と社会を相手に果てしなく格闘しなくてはならなくなりました。 逃避をしたはずなのに、逃げ場がないんです」ひきこもってはみたものの、社会との隔絶には成功せず、むしろひとりで社会と取っ組み合う状況に追い込まれてしまった、との訴えです。 ひきこもりをしている間にすることは自分で自分を否定し、破壊することでもあったと彼は言いました。 「ひきこもっている最中にひとりで繰り返すことは、自己批判であり、自己嫌悪であり、自己破壊です。 自分で自分をずたずたにしてしまう感じでした」 「若い頃にはひきこもりの正当性を主張しようと考えたこともあります。 でも負け犬の遠吠えだという思いはぬぐえませんでした。 悲しいことに、他の誰でもなく自分自身がひきこもりを肯定していないんです。 社会から逃げ出してひきこもりをしている人間は、ひきこもりからすら逃げ出したいのです。 それでも現実には、だれも僕にお前は不要な存在だとは言いませんでした。 言っていたのは僕自身です」・・・・。 彼は自分自身に「お前は不要な存在だ」と宣告していたのです。 ひきこもるという行為を誰よりも自分自身が正当と認められないからこそ、動けない自身の現実との間で深刻な葛藤が生じるのでしょう。 彼のこの告白は、なぜ罪悪感が不安感や外界への恐怖を生むのかという「理由」を説明しているようにも聞こえます。 自尊心が壊れ、自分が世界に存在することの意義を信じられなくなった状態にあっては、人は自身の姿を他者や外界に平常心でさらせるものではありません。 たとえ周囲の人から具体的な非難をあびなくても「まわりは自分のことを悪く思うのではないか」と思いこんでいるひきこもりの青年は少なくありません。 その人の行動を責めているのはおそらく内面化された社会規範であり、だからこそその人はひとりで際限なく自身を責め続けるのだと思います。 ひきこもることで「他人」と離れることはできますが、「自己」とまで離れることはできないからです。 まさに「逃避したはずなのに、逃げ場がない」というひきこもりの実情が、ここにあります。 これに関連して、ひきこもる人たちによく見られる感情の一種に恥ずかしさや引け目の感情がある、とわたしには思えます。 「いい大人が昼間にぶらぶらしていては近所の人に変に思われて恥ずかしい」「働いていないことがばれると嫌なので、親戚が遊びに来たとしてもずっと自分の部屋に隠れていたい」「いま何をしているのかと聞かれるのが嫌なので、知り合いからの電話には出たくない」と自分の思いを語る人が少なくありません。 他者の目から自分を隠すことで、揺らぎそうな自尊心を必死で守ろうとしている様子に見えます。 ひきこもりを恥ずかしいと思えば思うほど、人はひきこもっている事実そのものを隠したい心理に支配されがちです。 しかし、他者の目からひきこもりの事実を隠す手段は現状では、より深くひきこもることでしかありません。 そこは蟻地獄のような悪循環への入り口です。 「ひきこもりは甘えだ、ぜいたくだ」という偏見を周囲が強めれば強めるほど、人が蟻地獄から脱出できる可能性は低くなります。 わたしは、ひきこもる人たちの多くはむしろ一定の規範意識を持つ人たちだという印象を持っています。 彼らや彼女らは心のなかに「働かなければならない」「経済的に親に依存していてはならない」という意識を持っているように感じられます。 逆にもしこうした規範意識がなかっとしたら、実はひきこもりの悪循環構造も成立しないのではないか、とわたしは考えています。 ひきこもることにまったく規範的な引け目を感じない人がいたら、その人はおそらく罪悪感や孤独感による葛藤に苦しめられることもなく、「自分はだめな人間だ、恥ずかしい人間だ」という自尊心の著しい低下に陥ることもないはずだからです。 ひきこもる人たちが「自分はダメな人間だ、恥ずかしい人間だ」と判断するときの基準は、この社会で作り出されたものです。 当然ながら、同じ行動でも日本では「恥ずかしい」と思われ、他国ではまったくそう思われないという事態はあります。 たとえば障害者の自立問題に詳しい谷口明広氏は朝日新聞の座談会で、障害者の意識と社会環境の変化について次のように語っています。 「日本人は何でも自分のせいにする。 駅で階段を上がれないと歩けない自分が悪いということになります。 アメリカ人はエレベータがない駅が悪いというふうに考えます。 」 自分はダメだと決めつけてひきこもっている人と「大人のくせに働かずにひきこもる人など許せない」と憤っている社会人は、おそらく同じ規範意識を共有しています。 そうした共有の状況下では「規範そのものに無理があるのではないか」と疑う方向には意識が向きにくいともいえます。 さて、ひきこもりから抜け出しにくいわけとして考えられる別の理由に、ひきこもっている人が孤独な状態にあることもあげられます。 たとえば哲学者の鷲田清一氏は、著書で次のように指摘しています。 「自分のうちをいくら覗き込んでも、何がこれが自分だ、といえるようなものに出会えるわけではない。 (略)自己の同一性、自己の存在感情というのは、日常的にはむしろ、(眼の前にいるかいないかとは直接は関係なしに)他者によって、あるいは他者を経由してあたえられるものであって、自己のうちに閉じこもり、他者から自分を隔離することで得られるものではない。 他者から隔離されたところでは、人は自己を求めて堂々めぐりに陥っていく」(「聴く」ことの力・TBSブリタニカ) ノンフィクション作家の柳田邦男氏はひきこもりがちだった次男と向き合うなかで、この問題に直面していました。 次男の洋二郎さんはひきこもりがちな青年時代を送った末に、自殺しました。 柳田氏は次のように語ります。 「洋二郎は僕は誰の役にも立てない、誰からも必要とされないといっていました。 生きる意味の問題です。 「自分が生きて人生を作るなかでしか、その答えは出てこない。 答えは結果として出てくるんだ」と僕は言いました。 でもそういいながらジレンマに陥ってしまう感じもしていました。 世の中に出て行かないと、明確な答えは出てこない。 けれど彼の悩みは、世の中に出られないことなのですから」・・・・・。 孤独のかなで成長することの難しさです。 こうした孤独が長引けば長引くほど、「人との交流経験や社会経験のなさ」というハンディは重くなりがちです。 このことは、ひきこもる人たちが社会に一歩を踏み出そうとするときにしばしば、無視できない重荷となります。 ある長期間ひきこもりを続けている男性が言っていた「同世代の人がどういう服を着ているのかテレビ以外では見たことがなかった」というほどではないにしても、超えなければならないハードルは通常かなり高いのが現状です。 「どうやって他人と話せばいいのだろうか」「集団のなかでは一体どう過ごすのが妥当なのだろうか」「職場の上司や後輩とは、どう付き合うべきなのだろうか」「どの程度仲良く、またどの程度距離を置くべきなのだろうか」などと悩み、社会への入り口で立ちすくむ人たちが少なくありません。 孤独がもたらす影響については精神科医の斉藤環氏も著書で触れています。 ひきこもることで人は、挫折経験による精神的外傷から回復する機会を失ってしまうといいます。 それは「対人関係によって補われるはずの治癒の機会が奪われて」しまうことによるもので、そうなるとひきこもっていること自体が「外傷に等しい影響」を持ってしまうと氏は指摘しています。 これもまた「外傷が外傷を生み出していくような」悪循環のシステムなのです。 ここまでの話は主に、ひきこもる当人の内面の問題に注目してきました。 しかし、「ひきこもり特有の悪循環」には通常、周囲の家族も深く関係しています。 家族を含めた悪循環の構造について、精神科医の近藤直司氏はおおむね次のように説明しています。 青年のひきこもりは「(親をはじめとした)家族の不安や焦り」を呼び起こしやすいのです。 このまま子どもが外出しなかったらどうしようといった不安や、何とか早く就職してほしいという焦りです。 そうした不安や焦りのため家族は、本人につい「外出刺激」を与えがちになります。 車の免許を取りに行ってはどうかとか、アルバイトならできるのではないかと、外出や就労を促すことです。 しかしこれらの刺激は、しばしば本人の「劣等感・被害感」を強めるだけの結果に終わりやすいです。 実際には行動できないことが多いため、「親にもわかってもらえなかった」といった精神的な挫折体験に終わるのです。 劣等感や被害感が強まることによって、本人はますます深く「ひきこもり」状態に入っていきます。 その強化された「ひきこもり」を見て、親はさらに「不安や焦り」を強めてしまう・・・・。 わたしの支援経験に照らしても、この説明はかなり納得のいくものです。 逆に「親が外出刺激をやめたら子どもが部屋から出てくるようになった、親とコミュニケーションをするようになった」といった事例は枚挙にいとまがありません。 もちろん、すべての外出刺激がいけないのではありません。 親がまったく何の刺激もせず、自身の振る舞い方を点検することもしないという姿勢は、単なる放任と変わらないでしょう。 外出刺激は当人の心理的な負荷を増しやすいという仕組みを理解した上で、ではどのタイミングでどのように働きかけるべきかを検討していくのが基本です。 なお近藤氏は前述の悪循環のほかにも、二つのパターンの悪循環が見受けられると語っています。 ひとつは自分の問題に向き合うことを放棄した本人と「放っておいてやるのがいちばんいい」と考える親がペアになるパターンです。 ひきこもりが長期化している家族に見られやすいもので、本人は将来を考えると不安になるため、親は「問題を突き詰めていくと子どもを壊してしまうのではないか」という不安があるために、長期化するほど不安も増大する悪循環に入ってしまいます。 もうひとつは、「こうなったのは親のせいだ」と考える本人と「わたしのせいだ」と思い込む親がペアになるパターンです。 この場合、子どもは親の子育てが原因だと考えるため、ひきこもりが自分の問題だとは認識されにくいといいます。 医師の視点から見ると、いずれのパターンも援助を求めようという動機を持ちにくい点で共通しており、親子ともども社会的援助との接点を失って孤立の悪循環に入り込みやすい、と氏は警告します。 一方、関東自立就労支援センターは、親子間の認識のすれ違いに注目しています。 わたしたちは、ひきこもりの子を持つ親の多くが「そんなことをしていて社会に通用すると思っているのか」といった説教をしがちなことに目を向けています。 「社会代表のような説教のしかた」です。 そうした親に共通しているのは「お前はわかっていないからわたしが教えてやる」という認識でした。 他方、言われた側の子どもたちには「やはり親はわかっていない」という失望感が見られます。 そこには親子のすれ違いを見ることができます。 「ひきこもる子はわかっているのにできないから葛藤しているのですが、親は子どもはわかっているという事実に気づきにくいのです」 つまり子どもたちが「親はわかっていない」という言葉で表しているのは「僕がわかっているという事実を親はわかってくれない」との失望感なのです。 こうした経験が重なるうち、失望感が「わかってもらえるはずがない」という絶望感に変質してしまうのです。 親がよかれと思ってした説教が、親子間の心理的な溝を深めてしまうという悪循環です。 また子どもがひきこもった場合、親も地域とのかかわりをなくして孤立し、いわば家族ぐるみでひきこもりにはいってしまう傾向が強いです。 子どもがひきこもっていることを親類にも近所の人にも言いにくく、相談に乗ってくれる援助の場も少ないため、親たちも孤独に悩みがちになります。 特に母親は孤立に悩む傾向が強いです。 子育ての責任を一手に引き受けさせられる場合が多いためであり、そのうえ夫から「お前の育て方が悪いからひきこもったのだ」などと責められるようなものなら孤立感は倍増します。 「わたしが悪かったのだ」と自責して精神的にまいってしまう母親も少なくありません。 多くの親に共通して見られるのは、「子どもを社会に送り出すことが親の責務である」という考え方です。 だからこそ子どもがひきこもった場合、親は自身に「責務を果たせないダメな親」という評価を下すのです。 こうした自己評価の低さが「対人関係からの回避」に向かう傾向は、子どもの場合と同じです。 いろいろ話を聞いていますと、「親が態度を変えたらひきこもっていた本人が元気になり、家族とコミュニケーションをするようになった」という話や「親が亡くなったり病気で倒れたりしたら本人が外へ向けて動き出した」という話に出会うことがあります。 前者はかなり頻繁に出会う事例で、語られる場合も肯定的に語られることが多いです。 後者の話はまれにしか出会わない事例で、世間から「やはり親に寄生していただけではないか」と否定的な視線を向けられがちです。 しかしわたしは、どちらの事例も悪循環の構造が変化したことによる結果として、ある程度説明できると見ています。 家族ぐるみの悪循環のなかでは、家族の一人ひとりが何らかの「働き」をしており、そうした働きの総体としてある悪循環構造が成り立っている、と考えられます。 先にあげた「親が態度を変える」行為は、親の果たしていた働きに変化が起こることを意味します。 個々の働きに変化が起これば当然、構造全体にも(大なり小なり)変化が生じます。 本人が元気に変わったことは、そうした構造の変化によるものと考えられるのです。 同様に親が死亡することは、ある構造のなかで重要な働きをしていた構成員が欠けることを意味します。 そのことが構造全体に与える影響はきわめて大きいでしょう。 結果として悪循環構造が一種の機能不全に陥り、本人が抜け出しやすい環境が突如現れたのではないか、とも推察しうるのです。 ただし当然ながら、個々の「働き」が変わることは必ずしもプラスの変化につながるとは限りません。 ひきこもりの深刻化を招くような変化もありうるでしょう。 補足しておきますが、ひきこもりに特有の悪循環が見られるということは、かなり以前から多くのひきこもり援助者によって注目されていたことです。 それぞれの援助者がそれぞれの表現で悪循環的な構造の存在を指摘しています。 細部の違いはありますが、ひきこもりに悪循環が見られること自体は大方の共通認識になっているといっていいでしょう。 またわたしは、悪循環を形作る要素のひとつに、履歴書の「空白」問題を加えたいと思います。 ひきこもり期間が半年、一年、二年と長期化するにつれて空白は大きくなり、就職する際の難しさも増していく現実があるからです。 ここには、ひきこもりが長引くほど、職業社会への入り口は狭まるという社会ぐるみの悪循環の構造があります。 近年は不況も加わり、ひきこもり経験のある青年たちはきわめて厳しい条件下での再挑戦を強いられています。 ひきこもり状態の長期化は、心理や精神病理だけで説明のつけられる問題ではないのです。 青年たちの再挑戦がどれだけ社会的に保障されているか、青年が社会的に成熟していくための場が学校と会社以外にどれだけ用意されているかといった観点からの見直しが求められていると思います。 なお念のためですが、ここに示した悪循環の構造は必ずしもすべてのひきこもり事例に見られるものではありません。 ここに示した悪循環の構造は説明のためのモデルに過ぎず、現実のひきこもりのかたちは十人十色です。 ですから当事者の方々にはこのモデルを、自分が悪い流れにはまり込んでいないか自己診断するための一材料として利用してもらえばいいし、第三者の方々にはひきこもりが特定の問題青年や問題家族に起こる現象というわけではなさそうだとの認識に近づくためのひとつの手がかりとして利用してもらえばいいと思います。 ある現象を理解するには、それがこの社会でどの程度広がりを持つものなのかを把握する作業だ大事になります。 ですから「ひきこもりの人は全国に何人ぐらいいるのか」という問題を考えることには意味があります。 ただしひきこもりという現象は、広がりを数的につかむことがきわめて難しい現象でもあります。 その主な理由は二つあげられます。 まず明確な定義を作ることの難しさがあります。 現状ではひきこもりと非ひきこもりを分ける明確な線引きがありうるかどうかについてさえ、援助者の間で意見が分かれています。 また思い切って便宜的に線引きをするにしても、何をひきこもりとするかという定義が異なれば当然、人数も大きく変わってきます。 二つ目の理由は、実証的な調査を行うことの難しさです。 もしひきこもりの人数が明らかになることがあるとすれば、それは全戸を対象にした詳しい実態調査を行えた場合に限られます。 その場合も全国調査を実施できるとは思えないので、地域などを限定したうえで推定の全国値を出す手法が現実的です。 しかし実際には、この種の調査は個人のプライバシーに触れることなどから実施が極めて難しいです。 特に日本では、精神病の詳しい実態調査も満足に実施できていない現状があります。 つまりは当面、ひきこもりの人の実数が明らかになる見通しはほとんどないのです。 現在まではひきこもりの人が全国に何人いるかを把握していませんが、その調査をすること自体が現実にはほぼ絶望的なのです。 もし数的に把握できる可能性があるとすれば、それは本人や家族が援助の場に足を運んだ数としての「相談件数」だけでしょう。 この数字に一定の意味はありますが、「どこにも相談していない」という当事者・家族が少なくないことを考えると、その数字はひきこもりの実数とはかけ離れたものである可能性が強いです。 また相談件数をいくらさかのぼって調べても、ひきこもりの人が増えたという裏づけにはなりません。 たとえばわたしが新聞連載である保健所のひきこもり援助事例を紹介した後、その保健所には一ヶ月で約10倍の問い合わせが殺到しました。 報道などでひきこもり現象や援助の情報が知られれば知られるほど相談件数は増えるのです。 もし仮に相談件数が十年前より大幅に増えたとわかっても、それがひきこもり事例の増加によるものなのか、ひきこもり現象が知られたことによるものなのか、までは知りようがありません。 それゆえわたしは「ひきこもりの人が増えている」という言い方を使わないようにしてきました。 現在の人数も過去の人数も知りようがない以上、誰も「増えている」「増えてきた」という根拠を持っていないのです。 とはいえ、ひきこもりの実数に関する言及が今までなかったわけではありません。 毎日新聞は1994年5月29日付の朝刊一面トップでひきこもりを大々的に報じました。 「ひきこもる大人」という見出しの下に大きく「全国に1万人以上」という見出しが躍っています。 記事には「カウンセリングの専門家らの調査では、その数は全国で少なくとも1万人以上に上ると見られる」と書かれ、社会学研究者である森田洋司氏の「成人のひきこもりは1万人を超えているだろう」というコメントが紹介されています。 ただし記事では、なぜ1万人以上いると算出されたかについての具体的な根拠は示されていませんでした。 いずれにしても、1万人という数字は、当時の感覚としてはかなり衝撃的なものでした。 それから4年後、精神科医の斉藤環氏は著書「社会的ひきこもり」で、社会的ひきこもりの状態にある青少年の数について「実態は、調査がきわめて難しいためもあって、いまだに正確な把握はなされていません」としつつ、「一説には数十万人ともいわれている」と記しました。 同書では、誰がどのような根拠で算出した数字かについては触れていません。 2000年になると氏は、社会的ひきこもりの人の数についてテレビや雑誌で「わたしの推定では、ごく控えめに見ても数十万人、個人的印象からはとうに100万人は越えたと考えている」と発言するようになりました。 100万人以上という算出の根拠らしい根拠は示されませんでしたが、複数のマスコミや一部のジャーナリストがそのまま世間に紹介したことによって、この巨大な推測数値はあっという間に既成事実化しました。 しかし100万人以上とはどういう数字でしょうか。 先に述べたとおりひきこもりの人の実数は誰にもわからないので、100万人以上はいないと証明する根拠は誰も持っていません。 それでもわたしはこの数字への違和感を感じずにはいられません。 もし本当にひきこもりが100万人以上いるとすれば、その存在が社会に与えるであろう影響はあまりに甚大だからです。 斉藤環氏の見解によれば、ひきこもりの人のうち、不登校の経験者は約9割であり、不登校事例のうち、慢性的なひきこもり状態へ移行するのは約3割とされています。 ひきこもりが100万人以上存在するためには、90万人以上の「不登校経験者を持つひきこもりの人」が必要になる計算です。 ちなみに文科省によれば、99年度の不登校の子の数は約13万人でした。 このうち中学3年生は4万人台と見られ、その規模の子どもたちが毎年新たに不登校経験者として社会に現れてくることになります。 氏の見解に従えばそのうちひきこもりに移行するするのは3割、つまり1万人あまりです。 この規模の数字が一体何年積み重なると90万人以上という数字に近づくのか、わたしには疑問に感じてしまうのです。 また10年前には今の半分程度しか不登校の子どもがいなかったことを考え合わせるとき、この疑問はますます強くなります。 仮にひきこもりの推測総数を50万人に減らし、不登校経験者の割合を7割に落として計算しても、同様の疑問は消えません。 さらに言うと全国に100万人以上のひきこもりの人がいるということは、100万以上の世帯でひきこもりが起きていることとほぼ等しいことになります。 ひきこもりが起きている世帯の構成人数は、ほとんどの場合が3人以上であるとみていいと思います(両親らと同居している場合がほとんどだからです)が、国勢調査に基づく総務省の最新統計によれば、3人以上の世帯数は全国で約二千二百五十万世帯しかありません。 そのうち100万近い世帯がひきこもりに悩んでいるという状況は、発生率が高すぎるように思えてわたしには想像しがたいのですが、いかがでしょうか。 いま大事なことは、いたずらに人数の推測を試みることではないと思います。 「実数は知りえない」という事実を受け入れたうえで、定義をめぐる専門的な討議や相談件数の把握など、地道な営みを重ねていくことだと思います。 幸い、これ以上巨大な「人数」を提示しなくとも、ひきこもりは無視できない問題だという共通理解はすでに作られています。 厚生労働省は2000年から、ひきこもりに対する援助の方法を探るための調査を始めました。 18歳以上のひきこもりについていえば、国によるはじめての本格的な取り組みです。 メニュー• Copyright C 2020 All Rights Reserved.

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ひきこもりの長期化と悪循環

ひきこもり の 高 年齢 化 を 何 問題 という

最近深刻化しているのは、ひきこもりの高年齢化です。 すでに現在、ひきこもったまま30代、40代を迎える人が増えつつありますが、年齢が高くなるほど、お金の問題が無視できなくなっています。 特に経済的に逼迫してきて、それでも自分から働くことができない状態でいるひきこもりの一部の人は、しばしば心中を考えがちです。 最悪の場合、「親を殺して自分も死のう」などと考えます。 そういう事件がここ数年だけでも、数件報道されています。 まだ表に出ないだけで、その何倍もの家族が似たような状況に置かれていることでしょう。 そういう悲惨な状況、極限状況に追い詰められないためにも、お金の取り扱いをそうするかを話し合っておくことは、生き延びることを考えるうえでもとても大切なことです。 「追い詰められれば何とかなる」と考える人もいます。 確かに、そういうこともあるでしょう。 しかしその一方で、追い詰められるほど体がすくんで動けなくなる場合もあります。 ある程度、確実にいえることは、一部のひきこもりの人は、稼ぎに出るくらいだったら飢え死にするほうを選ぶということが本当にありえるということです。 こちらも、すでにそういう事件が何件か報道されています。 長期間ひきこもっていて餓死した状態で発見されたというニュースを記憶している人もいるでしょう。 ひきこもり生活というのは、年齢が高くなるほど、そういう危険な方向に傾いていく危険性を秘めているのです。 それだけに、意思やがんばりではどうにもならないお金の問題を軽くみるべきではありません。 いよいよ経済的に行き詰まった場合に、どのように動くべきかということについても、あらかじめシミュレーションしておくことが重要です。 具体的には、どうすれば生活保護などの福祉を利用できるか、相続の場合にどういう手続きをすればいいのか、困ったときは誰に相談すればいいのかなど、そういうリアルな話を早い段階でしておくことは、直接にはひきこもりの人にとっての救済措置といえますし、間接にはそういう話題によって意欲を取り戻す人もいるでしょう。 今後の課題 ひきこもりは、他人とのコミュニケーションをあきらめた人たちです。 その背後には、感情と個性を否定する日本的なしつけと教育、共依存、本音と建前を使い分ける二重構造という日本文化の本質的な問題があります。 ところが、戦後復興を遂げ、日本という国がその歴史上初めて飢えから解放されたとき、親子のつながりの弱い家族、世間体を第一に考える家族のなかで、ひきこもりが発生するようになりました。 ひきこもりの人にとっては、日々の生活そのものがトラウマです。 同級生たちが就職して結婚し、楽しく暮らす姿を横目で見、しかし自分は何もできない苦しみが毎日続きます。 この「ふつうの生活をできない苦しみ」が彼らの感情を麻痺させてしまいます。 ある年齢を過ぎるとひきこもりは感情がなくなり、社会復帰できる可能性が限りなく低くなります。 この現実を厳粛に受け止めないと、ひきこもり本人も家族も社会も、さらに傷つくことになります。 ひきこもりは社会復帰支援が困難なので、社会的にはまず、その発生の防止に力を入れる必要があります。 ひきこもりの発生の防止とは、「子供が感情表現できない状況を取り除く」ことです。 子供が自由に感情表現できる場があれば、他の問題が発生してもひきこもりにはなりにくくなると思います。 他の問題とは、非行やアルコール依存症などです。 これ以上、ひきこもりを発生させないために、以下のことに注意しなければならないと私は考えています。 日本人とアメリカ人のしつけの最も大きな違いは、子供の罰し方です。 アメリカ人は子供が悪いことをすると、「家の外に出さない罰」を与えます。 これに対して、日本人は「家の外に出す罰」を与えます。 アメリカのしつけは、一時的に子供の自由を奪うだけです。 ところが、日本のしつけは子供に根深い「見捨てられる恐怖」と「外の世界への恐怖」を与えます。 多くの日本の親は、無意識に「おまえなんかうちの子ではない」「おまえは橋の下から拾ってきた」「家を出て行け」などと言いますが、これは子供が親への不信感を持つきっかけになります。 デパート等のおもちゃ売り場では、言うことをきかない子供を置きざりにしてしまう母親をときどき見かけますが、こんな些細な事と思えることでも、子供に「見捨てられ恐怖」を与えてしまいます。 子供を家の外に出す罰を止めましょう。 特に、夜間に子供を家の外に放置するとトラウマになり、子供は親を信用しなくなります。 さらに良い子を演じて、自分の感情を否定するようになります。 また、親とのつながりが弱い状態で、親が子供を叱責したり、学校のいじめから守らないと、アタッチメント・トラウマが発生します。 こうした小さなストレスの積み重ねで、親子関係は崩れていってしまうのです。 また、子供をペットのように扱うと、感情表現が抑圧されてしまいます。 ペット扱いとは、子供の人格を無視して愛玩動物のように扱うことです。 コミュニケーション能力のない大人が子供を可愛がると、気づかないうちにペット扱いになってしまいます。 外部から見ると可愛がっているように見えますが、大人が一方的に自分の楽しみのためにやっているだけです。 このため、ペット扱いする大人は、子供の反抗的な態度や口答えを嫌います。 また、子供は自由な感情表現をしなくなり、可愛いいふりをしたり、受け身のまま大人に身を任せるようになります。 日本人は子供っぽく振る舞って大人を喜ばせる子供がいることに気づく必要があります。 一部の母親は子供を意図的に無視します。 こうした無視は子供に恐怖感を与え、自由な自己表現を不可能にします。 また、親が怒りを隠しながら不機嫌になると、子供は絶えず親の顔色をうかがうようになります。 これも、子供の感情表現を阻害します。 怒るときははっきりと怒り、怒った理由をしっかりと説明することが大切です。 その後で抱いてあげれば、子供は傷つきません。 無視する母親は、子供と向き合って話し合うのが苦手です。 母親も自分の親から無視されたからだと思いますが、そうした親は子供の目を見て会話をするのが苦手です。 しかし、子供を健康に育てるためにも、この問題に真正面から取り組まなければなりません。 意識して、無視を止める努力をしなければなりません。 多くの日本人は、無視の恐怖を子供の頃から抱えています。 児童虐待の連鎖は、わたしたちの世代で終わらせましょう。

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長期・高齢化するひきこもり その実態と解決のヒントとは|ひきこもりクライシス“100万人”のサバイバル|NHK NEWS WEB

ひきこもり の 高 年齢 化 を 何 問題 という

長期化したひきこもり かつては、若者の問題として注目された「ひきこもり」。 しかし今年、内閣府は初めて40歳から60歳の実態調査に乗り出すことを発表しました。 背景にあるのは、ひきこもりの長期・高齢化の問題です。 40代、50代になったひきこもりの人が、高齢化した家族と共に追い詰められ、社会的に孤立している深刻な事態が全国で相次いで報告されているのです。 ひきこもりの定義は、 ・自室からほとんどでない ・自室からは出るが、家からは出ない。 ・ふだんは家にいるが、近所のコンビニなどには出かける ・ふだんは家にいるが、自分の趣味にかんする用事のときだけ外出する という状態が、6ヶ月以上続いていることとされています。 (内閣府より) この定義にあてはまるひきこもりは、全国で54万人。 しかし、この数に含まれるのは39歳までの人たちだけです。 40歳以上も含めると、100万人以上と推計する専門家もいます。 田中さん(仮名)46歳も、ひきこもりが長期化しているひとりです。 ひきこもり歴は14~15年。 以前は家から一歩も出られませんでしたが、最近は1週間に1度ほどなら家から出られるようになりました。 ひきこもりのきっかけは、15年前会社を辞めたことでした。 「普通の人だったらできるようなことが、ちょっとできなかったり、ちょっと違っちゃったりとか、まあ会社の方から辞めるように言われて、辞めることになりました。 いつの間にか、あまり外へ出ることはなく、ひきこもるような状態になってしまったと。 」(田中さん) しかし、こんなに長くひきこもるとは思っていなかったといいます。 なぜ、長期化したのでしょうか。 「失敗に対する恐れが大きいんだと思います。 前に働いてた所を辞めてから長いこと、外に出て働く経験を、ほとんどしていませんから、これだけブランクのある私でも、やっていくことができるのかという不安と、スキルとか技能の面で、かなり劣っている部分。 なにぶん相談できる機関がなかったし、結局、誰にも話すことができないまま、時が過ぎたという感じですかね…」(田中さん) ひきこもりが長期化すればするほど、抜け出すことが難しくなり、焦りが募るという田中さん。 今心配なのは、親も高齢化していることです。 「やっぱり親が亡くなったあとは心配ですね。 だからそれを考えると、すごい不安になっちゃうっていうのがあります。 今のままだったら絶対、経済的にやっていけないと思いますので、そこが非常に不安というか、怖いと言いますか。 」(田中さん) 出口を求めて 当事者同士の語り合いの場 田中さんのように、ひきこもりが長期化している中高年が不定期に集まる当事者の会があります。 「ひ老会(ひきこもりと老いを考える会)」。 中高年のひきこもりが、老いについての不安や悩みを共有します。 7月に開かれた会には、田中さん以外に38歳から56歳までの12人が参加していました。 親の死後について、経済的な不安についてなど、3時間、悩みを打ち明け合いました。 「いろいろ意義のある話を聞けたかなとは思います。 今までひきこもってたのもありますし、あんまり外出するのはちょっと疲れちゃうのもありますし、できるところから始めようじゃないですけれども…。 自分なりには良い方向に向いているのかなとは思ってるんです。 」(田中さん) 解決のためには家族間の対話が重要 当事者だけではなく、その家族も、長期化するひきこもりの解決策を求めています。 そんな家族が集まる会があります。 「OSD」親が死んだらどうしよう よりそいネットワークです。 参加者の1人、ひきこもりの息子がいる70代の母親はこう話します。 「一番心配してる、親が死んだらどうするって、息子のことが気がかりで参加しました。 息子は、本当は心配してるんだけど、触れてもらいたくない、聞かれたくないという心境じゃないかなと思います。 」 この日、会合では、ひきこもりの治療・支援に取り組む精神科医の斎藤環さんが家族の関わり方について語りかけました。 「ひきこもりに関しての支援の8割は、なんとか家族間で対話を成功させること。 ほとんどこれに尽きていますね。 そもそも不登校、ひきこもりがこじれるのはこの対話の欠如。 双方向性のある対話がないから、もともと大した病気じゃないのに、どんどんこじれていくことが多いわけです。 私が対話をして下さいと言うと、もうさんざんやったけどだめです、とおっしゃる方がいますが、よくよく聞いてみると、対話していないんですよ。 その方がしていることは、おしつけ、議論、説得、正論なんですよ。 それは対話と呼ばず独り言と呼びます。 なぜ独り言と呼ぶかというと聞いてもらえないからです。 」(斎藤さん) 家族間の対話の重要性を説く斎藤さん。 それはどのような思いからなのでしょうか。 「原因すべてが家族のせいとは思いませんけれども、長期化に関してはやっぱり家族関係が主だという風に言わざるを得ないと思います。 ひきこもっている人にとって家族というのは環境そのものなんです。 だからその家族との関係がいいか悪いかで、全然経過が変わってくるわけです。 」(斎藤さん) では、家族はどう関わるべきなのでしょうか。 「まずひきこもり状態を非難・批判しないことです。 批判から入ったらもうおしまいですから、とりあえずそこら辺は不問にして脇に置いておいて、お互いの思いを共有したいということを大事にして、話し合いを進めてほしいと思います。 」(斎藤さん) 家族と向き合う当事者 親の参加者が多い中、OSD会に1人で参加するひきこもり当事者がいました。 ひろきさん(仮名)38歳、ひきこもり歴13~14年です。 部屋からたまに出ることができるようになってまだ半年だというひろきさんに話を聞きました。 「ちょっと大学の先生とトラブルがあったので。 今でいうアカハラなのか、ちょっと分からないんですけど…。 ちょっと疲れたから休もうぐらいの感じで、とりあえず社会活動を遮断したら、そのままズルズルみたいな。 ひきこもってると…欲望が枯渇していく。 もう何もいらない、みたいになる」(ひろきさん) ひろきさんの父親は、去年亡くなりました。 経済的な不安、仕事への不安もあります。 「遺族年金と母の年金に頼る状態になってて、十分な使えるお金がないとか、焦りがありますね。 年齢で雇用状況って厳しくなって来ますから、そっちの方が差し迫ってますよね。 」(ひろきさん) なんとかこの状態から脱却したいと考えたひろきさんは、半年前から精神科医による治療を親子で受け始めました。 治療の一環として行われるのは、月に2度、精神科医の立ち会いのもと、親子で対話をするということです。 「そもそも自分の内側から出てくる考えで、ドツボにはまっていたところがあるから。 専門家とか識者の意見に従って、自分の状態をよくしていこうということ。 」(ひろきさん) しかし、対話は簡単ではありません。 ひろきさんの手元の本には、このように書かれています。 「基本的な考え方が違うように感じる。 だから、私としては将来の話もしたいなと思っているんですが。 」(ひろきさん) ひろきさんから家計の話を持ち出しても、母親との話し合いは平行線のままです。 母親「毎月生きていくのは私の年金のみだから、それがよく分かってないかな」 ひろきさん「家計の明細を見せてくれないから…」 母親「金銭的な管理とか、そういうのはまだできる年代、私が。 そういう感覚をこの年代から取ってしまったら、私は明日にでも認知症になってしまいますよ」 お互いの思いをぶつけ合ううちに、母親の役割について話がおよびます。 母親「あなたが回復に向かうためには、一体家で私の役割はどうあるべきと。 」 ひろきさん「安心感を与える。 で、共感すると。 」 母親「共感とか安心感なんか、悪いけど、私の得意分野じゃない。 」 ひろきさん「私が感じてない以上は、それは失敗してるっていうことですよ。 」 工夫と理解を重ねて感じられる変化の兆し 難しいひきこもりの人と家族の対話。 しかし、対話を重ねた結果、変化の兆しを感じている人がいます。 ひきこもりの妹がいる野中さん70歳。 40年以上ひきこもっている妹は、家から一歩も出ないといいます。 その様子から、家族は、妹が統合失調症ではないかと感じていました。 「多分、統合失調症だなって自覚が芽生えてたのは、1980年代ぐらいのことでしょうかね。 お医者さんにつながってるわけではなかったので、正式名称は知らないけれども。 」(野中さん) しかし家族は医療機関や支援機関に相談することはありませんでした。 「一生懸命、仕事した父なので、家系的に、そういう障害の子が生まれるよっていうことを、周りに思われるのが嫌だったっていうのもあるでしょうし、隠してたとしか言いようがないですけれど、あえて言わないっていうのはあったんでしょう。 」(野中さん) 転機は、5年前に母が亡くなり、野中さんが隔週で妹の元へ通い始めたことでした。 孤立させないため、訪問診療を受けてもらおうと考えましたが、妹を説得することが課題でした。 そこで、野中さんはある工夫をしました。 「妹は部屋の中にいろんな所に張り紙をして、言葉を書いておくのがあったので、それを眺めてるうちに、そうか、大事なことをメモ書きみたいな形にして伝えれば、伝わるかな?っていうのがヒント。 今までもいきなりの訪問だと興奮しちゃうっていうのを見てきたりもしてますし、前もって奇襲と思わせないようにするためには、何度も何度も言っておく。 」(野中さん) 「これは病院の先生が見えるっていうことで、妹さんに説得しといてくださいっていうお話があったので、書いたような感じですね。 」(野中さん) その結果、妹は医師により統合失調症と診断され、ヘルパーによる生活介助や地域による見守りなどの支援につながりました。 「私自身は自己開示することが一番の早道って思ってるので、ご近所さんにも、詳しく妹の説明をさせていただいて、だから皆さんのまなざしがあたたかいんです。 おせっかいはしないけれど、排除されてないっていう空気感っていうんですかね。 」(野中さん) 野中さんの妹を見る目も変わってきました。 「とにかくいろんな容器を、彼女は綺麗に洗うんですよ。 本当に洗うんですよ、ココアでもなんでも。 もう『こんなことしなくて良いわよ、洗剤の無駄!水の無駄!』という感じだったんですけど。 ある人に言われたんだけど、『丁寧に生きようとしてるのね』って言われて、そういうことかってすごく腑に落ちて。 より丁寧に、地球に丁寧に生きているんだなって思えた。 今まで自分が正しいと思ってたけど、もしかして私の方が間違ってるのかもしれないっていう視点の転換ですかね、思い切って。 その目でもって妹を見るようになったらば、妹の気持ちを理解してあげることができたって感じました。 」(野中さん) 40歳以上のひきこもりについての内閣府の調査は、今年秋をめどに行われる予定です。 ひきこもりが長期化している本人も、家族も孤立させないための支援が求められます。 情報は放送時点でのものです。

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