毛利 庭園。 六本木の毛利池(毛利庭園の池)と灯篭 ~西浦和也氏の怪談~

毛利庭園と全国の桜の開花状況 東京都他週末の外出は自粛

毛利 庭園

赤穂浪士の切腹、乃木大将の誕生と激動の時代を見てきた庭園 復元庭園ながら大名庭園時代の雰囲気を残しています 1650(慶安3)年、長府藩初代藩主・ 毛利秀元(もうりひでもと)が長府藩上屋敷とした地。 長府藩毛利家は、長州藩の支藩でありながら幕末まで存続。 麻生日ヶ窪に上屋敷(現・六本木ヒルズ)、白金早道場(現・港区白金4-15周辺)に下屋敷を構え、芝の増上寺を菩提寺にしました。 3代藩主・毛利綱元の治世だった1702(元禄15)年、赤穂浪士が吉良義央を討つ 赤穂事件が勃発。 47士のうち岡島常樹、吉田兼貞、武林隆重、倉橋武幸、村松秀直、杉野次房、勝田武尭、前原宗房、間光風、小野寺秀富の10士を長府藩上屋敷の預りとなり、幕府の沙汰(さた)を待つことに(細川、毛利、松平、水野の四家に分けて預けられました)。 1703(元禄16)年2月4日、長府藩上屋敷で切腹。 幕末の1849(嘉永12)年11月11日には、映画『二百三高地』、ドラマ『坂の上の雲』でも有名な、陸軍大将・ 乃木希典(のぎまれすけ)が邸内の侍屋敷で生まれ、10歳まで、長府藩上屋敷で暮らしています。 そのため、毛利庭園内には「 乃木大将生誕之地」碑も立っています。 幕末には、長州藩が京で幕府側と武力衝突した禁門の変、さらには長州征伐に対する仕置きとして、藩邸を没収、建物も破却されています。 (近くにあった長州藩下屋敷=現・檜町公園周辺も没収、破却されています) 明治20年、英吉利法律学校(のちの中央大学)の初代校長となった増島六一郎が土地を取得し、自邸を建築。 大名庭園の名残を有した庭園を「芳暉園」と名付けています。 昭和27年、ニッカウヰスキーが買収。 同社東京工場に。 さらに昭和52年にテレビ朝日が買収。 当時、池は ニッカ池と通称されていました。 平成15年4月に六本木ヒルズがオープンし、毛利庭園となって大名庭園ゆかりの庭が復活しています。 乃木希典陸軍大将 大名庭園をルーツに、現代の技術を活かして池を再建 現在の敷地は、4300平方メートル。 池を中心にし、滝、渓流、川のせせらぎを配した回遊式の日本庭園で、桜なども植栽され、春には花見も楽しむことができます。 大名庭園時代の名残だった「ニッカ池」は、現存しません。 六本木ヒルズ建設の際に、庭園部分を永久に保存するため、ニッカ池の池底を固めての「埋土保存」が行なわれました。 つまり、以前あった「ニッカ池」は、現在の 毛利池の下に隠れているのです。 楠(クスノキ)、榎(エノキ)、 大銀杏(大イチョウ)などは、往時のものを残しています。 高さ20m、幹周り4m66cmという銀杏の巨木は、保存移植に細心の注意が払われました。 毛利池には、NASAスペースシャトル「コロンビア」(Columbia)内で、脊椎動物として初めて宇宙で誕生したメダカの子孫(向井千秋さんらが行なった実験)、通称「 宇宙メダカ」が泳いでいます。 宇宙メダカを一般の河川に放流することは厳禁ですが、毛利池は外部河川とつながっていない隔絶された池なので、「宇宙メダカ」が放流されたのです。 最近では カルガモ親子が話題となっています。 テレビ朝日のニュース番組でも報道されて有名になったカルガモですが、「平成16年、どこからともなくやってきた」(テレビ朝日社員の話)とのことで、以来、毎年のようにやってくるため、六本木の春の風物詩となっているのです。 日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・代々木公園)において明治43年12月11日〜20日に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功しています。 代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本航空発始之地... カテゴリ: ,• 徳川幕府の終焉の時代と、広く世の中が認識した幕末の大事件が『桜田門外の変』。 江戸城西の丸入口、外桜田門で、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩からの脱藩者らが、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を殺害するという事件が起こります。 その現場は、今も往時... カテゴリ:• 「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしもじん)。 びっくり下谷の広徳寺。 そうで有馬の水天宮」というのは江戸っ子の洒落。 入谷は山手線鶯谷界隈の地名。 恐れ入るということを洒落て、入谷の真源寺に祀られる鬼子母神を掛けたものです。 境内と門前で7月に開かれる『朝顔市』は、東... カテゴリ: , ,• 東京都公園協会が管理する葛西臨海公園。 その中心施設である葛西臨海水族園の海側にあるのが同じ東京都公園協会が運航する東京水辺ラインの葛西臨海公園発着場です。 葛西臨海公園とお台場海浜公園、さらには浅草(二天門)、両国を結んで、水上バスが発着しています。 カテゴリ: , ,• 東京都文京区本郷、東京大学本郷キャンパスにあるのが夏目漱石の長編小説『三四郎』のモチーフとなった三四郎池。 東大本郷キャンパスは、江戸時代には加賀藩上屋敷だった地で、三四郎池もかつての大名庭園「育徳園」の一部。 正式名は育徳園心字池ですが、漱石の小説の影響で三四郎... カテゴリ: , ,• 東京にはいろいろな原点、元標がありますが、日本橋の橋の上にあるのが日本国道路元標(Kilometer Zero)。 その名の通り、道路の起点となるポイントを示したものです。 日本橋にあるのは、徳川幕府が定めた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の... カテゴリ: ,• 東京都板橋区赤塚にある乗蓮寺は、徳川家康から10石の朱印地を寄進された浄土宗の寺。 8代将軍・徳川吉宗は、鷹狩の際の「御小休・御膳場」に使っています。 境内に鎮座する東京大仏は、東京大空襲、関東大震災などの悲惨な戦災・震災が起きないように願いを込めて、昭和52年に... カテゴリ: , ,• 昭和11年2月26日〜2月29日、北一輝らの影響を受けた天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指す皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが起こしたクーデター未遂事件が有名な「二・二六事件」。 二・二六事件慰霊碑は、昭和11年7月12日に東京陸軍刑務所敷地(現・東京... カテゴリ: ,• 御前山、三頭山と並び、奥多摩三山に数えられる大岳山(1266. 4m)を源に、北に流れて海沢渓谷となって多摩川に合流する海沢谷の上流部に懸かる滝が海沢三滝。 三ツ釜の滝、ネジレの滝、大滝の総称で、本来は、大滝のさらに上流に落ちる不動の滝を含めて海沢四滝とも呼ばれて... カテゴリ: , ,• 江戸時代に築かれ、多摩川を水源に、北多摩郡和泉村(狛江市)から世田谷領(現・世田谷区)を経て六郷領(現・大田区)へと流れる用水が六郷用水。 用水としての機能は昭和20年に終えていますが、大田区田園調布の丸子橋近く(田園調布本町34)から下流部(鵜の木3丁目2番... カテゴリ: , ,.

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【山口】防府天滿宮、毛利氏庭園散策賞紅葉

毛利 庭園

六本木ヒルズ 毛利庭園 港区六本木6-10-1 六本木ヒルズの憩いの場、毛利庭園。 面積4,300㎡の敷地に、池を中心とした回遊式の日本庭園が広がる。 遊歩道をのんびり一周すれば、サクラ、モミジ、滝、渓流など、コンパクトながら見所いっぱい。 都会の華やかさの中に静かに広がるオアシス的スポットだ。 迷路のような造りの建物内にお店が並ぶ「ヒルサイド」エリアを地下2Fへ降りると、目の前に姿を現す毛利庭園。 記念撮影の場所としても親しまれている。 毛利池を覗いてみると、水面をツーっと進むアメンボたちの下で薄茶色の小さな魚が所々に泳いでいるのを発見。 2003年、六本木ヒルズが開業した時に放流された宇宙メダカだ。 1994年にスペースシャトル「コロンビア」内で向井千秋さんらが行った実験で、脊椎動物で初めて宇宙で孵化したメダカの子孫になる。 一般の川への放流や、野生のメダカとの交配は禁止されている宇宙メダカだが、毛利池は外部河川と繋がっていないため、放流が実現したのだとか。 池の中の島では春になるとカルガモが飛来して子育てをする。 散歩のときは警備員がつくことも 庭園の歴史はなんと江戸時代まで遡る。 1650年に毛利家の上屋敷が建造され、その大名屋敷の庭園がルーツなのだ。 明治には、中央大学の創始者で法学博士の増島六一郎の自邸となり、昭和にはニッカウヰスキー工場、テレビ朝日社屋を経て、現在の姿に。 池を囲っている石の中には、大名屋敷の庭園時代からずっと庭石として使われてきた年代物の石もあるとか。 長閑な景色の中に、長い歴史とその解明への深い思いが隠れていると思うと、目に映る風景がグッと味わい深いものに見えてくるから不思議だ。 遊歩道から一歩入ったプライベート感のあるベンチも 周辺の樹木でも、朝日社屋時代からのものが何本か。 春の風物詩として広く親しまれているソメイヨシノ、道路に面した入口に立つ大イチョウ、滝上でトンネル近くに植わるエノキ、「Kin no Kokoro」の側で圧倒的な存在感を放つクスノキなどがそれに当たる。 特に高さ25mの大イチョウは、別の場所にあったものを木の形を変えることなく、傷つけないように保護しながら移植したため、大規模な作業となって当時は注目を集めたようだ。 これらの保存樹木を探しながらのそぞろ歩きも宝探しのようで楽しい。 クスノキは2003年の六本木ヒルズ開業から15年を経た今、高さ20mとなって大人二人でも手が届かないほどの太い幹になっている。 枝葉を広げ、天に大きく伸びたクスノキは一際目立つ 池を囲む遊歩道を歩くと、所々木立が途切れて池を見渡せる景観ポイントがある。 そこから眺めると、少しずつ趣の異なる池が楽しめ、庭園が一層身近に。 野鳥も多く飛来しており、2004年から毎年やってくるカルガモはもちろん、セキレイ、メジロ、カワセミ、ヒヨドリなどが見られる。 庭園の樹木は、森ビルの担当スタッフや専門業者、樹木医が見回りをして成長度合いや、病気の有無をチェック。 芝生のベンチ脇にある2本のソメイヨシノのうち、1本はニッカ池時代から残る保存木。 数年前に一部が罹病し、枯死することも考えてベンチの反対側に新しい桜の木を植えたが、腐朽部分を切除したところ復活して、今では2本とも美しい花を咲かせるようになったという。 サクラは幹に穴をあけるコスカシバや葉を食害するモンクロシャチホコなど病害虫に弱く、こまめなお世話が欠かせないのだとか。 池の中央の石にセキレイが。 カワセミは水辺に張り出した木の枝先にとまることが多い 春は一面のサクラやカルガモ親子の姿を愛で、夏は滝の側で一涼み、秋は紅葉や実のなる木を探索、冬は枝越しに少し広く見える庭園でロウバイなどの冬の花を見つけてみる。 どの季節でもそれぞれの見所がある。 大イチョウの枝がしなるほど銀杏がなる様子や、3カ所に植わっている柿の実が鈴なりな光景も面白い。 うら寂しい冬も木枯らしは寒いけれど、雪景色は格別だ。 リラックスしたり、飛び石を伝いながら考え事をしたり、芝生が開放されている時はごろりと寝ころんでみるのも一興。 数百年の歴史を抱えながらも、現代アートなど都会的なものを巻き込んで進化する、古くて新しい庭園で年月を感じながら贅沢な時間を過ごしてみたい。 歴史ある地を生かした日本庭園 自然に近い植生をコンパクトに楽しめる Interview 森ビル株式会社 設計部 技術顧問 山口博喜氏 大名庭園から続く由緒ある庭石を再利用 毛利庭園は、ニッカ池を埋土保存した上に、池泉回遊式の日本庭園として整備されました。 滝をつくり、渓流から穏やかな流れがやがて池に注ぐ、「縮景」といわれる伝統的な手法で作庭されています。 日本庭園としてはコンパクトな方ですが、滝や渓流の音を楽しめる場所があるほか、池をさまざまな角度から眺められ、ソメイヨシノの下のベンチやアート作品といった見所も多く、回遊する楽しみの多い庭園にまとまっています。 江戸時代の庭園で使われていた庭石もいくつか残っている点も特徴の一つです。 神奈川県真鶴付近で産出され、ブランド化している本小松石や、茨城県で採石される筑波石ではないかと考えられています。 自然な植生を再現するため、草本、低木、高木と階層構造になっている植栽 関東の奥山をイメージし、自然に近い植生で広がるモミジ林 2003年の開業以来、春になるとニッカ池時代のサクラが咲き乱れてお花見の名所になっていますが、個人的にお勧めしたいのは対岸のモミジです。 滝が流れる渓谷に沿ってモミジや常緑樹を混植することで、自然な植生を再現。 関東の奥山の風景をイメージして造られました。 根元に水辺があることで周辺よりも気温が下がりやすく、12月頃には紅葉が楽しめます。 モミジの種類もイロハモミジ、ウリハダカエデ、ハウチワカエデなど、複数の種類を植えて葉の色や形の違いで変化が出るようにしました。 常緑樹の緑、モミジの黄や赤が織り交ざった自然のグラデーションが楽しめます。 また、できるだけ自然に近い植生を再現するため、ササなどの草本層、ヒイラギなどの低木層、モミジなどの高木層と階層構造も意識して植栽を植えています。 内原智史氏がデザインした風を感知してゆらぐ電灯 66プラザへと至る滝の横の階段は清涼スポット モミジの林の中にいくつか設置されている白く丸い筒型の機器は、照明デザイナーの内原智史氏が考案した風によって明かりが揺らぐ電灯です。 下のセンサーで風を感知して、明るさが変わり、揺らぎが生まれます。 ろうそくのような明かりは、水辺の緑地をしっとりと演出して夜の散歩を盛り上げてくれるに違いありません。 一方、遊歩道沿いの明かりは目立たない造りながら、防犯を兼ねて足元をしっかり照らす物を設置。 植栽だけでなく、照明もさまざまなポイントに意識が向けられています。 滝も1本の渓流にせず、階段状にしてあちこち小さな滝ができて、水音が重なるように工夫されています。 できるだけ山地のような複合的な景観を再現するためです。 滝の横に、66プラザへと繋がる階段がありますが、木々のトンネルの中を流れる水音を聞きながら、登っていくと渓谷にいる気分になって気持ちが良いです。 あまり知られていない道ですが、ぜひ毛利庭園に来たら通ってみてほしいと思います。 山口氏のおすすめ、滝の横の階段はモミジがつくるトンネルが清々しい 毛利庭園の歴史 1650(慶安3)年 麻布日ヶ窪の地(現在の六本木6丁目他)に毛利家の上屋敷を建造し、庭園を造園 1887(明治20)年 中央大学の創始者で法学博士の増島六一郎の自邸に。 庭園を「芳暉園(ほうきえん)」と名付ける 1919(大正8)年 「乃木大将誕生地」として旧跡指定を受ける(現東京都旧跡) 1943(昭和18)年 「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定を受ける(現東京都旧跡) 1952(昭和27)年 ニッカウヰスキー東京工場になる 1977(昭和52)年 テレビ朝日が当地を取得 2003(平成15)年4月 六本木ヒルズ開業.

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【毛利氏庭園】アクセス・営業時間・料金情報

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怪談トークライブやゲーム、DVD等の企画も手掛ける。 イラストレーターとしても活躍する。 単著に「現代百物語」シリーズ、『実録怪異録 死に姓の陸』『帝都怪談』などがある。 溝ノ口のマンション 玉田のゲームセンターにUFOキャッチャーを納入している会社の社長さんが 中学生であったときの話です。 その方は母子家庭で育ったそうで母親が看護師をされてました。 務め先に近いということもあり、神奈川の病院に近い溝ノ口にマンションを借り 生活していました。 そのマンションは斜面を切り崩して平地にした場所に立っており立地こそ悪いが 当時にしては綺麗なマンションだったそうです。 ある日の夜、母が夜勤で一人で部屋で寝ているときに 何か胸やけを感じて夜中に目を覚ますと部屋が重々しく気持ち悪さを感じました。 金縛りなのか体が動かない状態でした。 部屋のつくり自体は和式で襖で仕切られており夜寝るときは襖を開けて寝ていました。 体は動かないが首だけが動く状態でフッと玄関側を見ると誰かが立っているのが 見えました。 泥棒かと思いましたが体は動かないし、夢かどうかもわからないため そのまま放っておいたそうです。 母が夜勤の際にこのことが発生していました。 しかし3か月経ったある日いつものように夜中目を覚めてた際に いつもは玄関に立ってた人が襖の部屋に入ってきていました。 そしてよく見るときれいな軍服をきた人であることがわかり 馬乗りになって首に手を掛けた状態で 「ここから出ていけ!お前の居ていいところじゃない!」 と言われ脅されました。 そういうことが何度が続いたために状況を説明し看護師の母に相談し引っ越すよう 催促しましたが受け入れてもらえませんでした。 そんな最中彼ら母子が住んでいる階の側面の部屋だけ異様に 引っ越しが多いことに気が付きます。 もしかすると他の住民も同じ怪現象が起きているのでは?? そう考え繰り返し母を説得し続けたところ仕方なく承諾してくれたそうです。 そして部屋を引き払う際に風呂場の掃除中に「ぎゃあ!!」と母の叫び声がしました。 風呂場へ向かうと母が 「お前の言ってたことは本当だ! 軍服を着た人が現れてそのまま排水溝に吸い込まれていった!」 溝の口のマンションではそういった出来事があったそうです。 六本木の毛利池 同じ時期西浦和也氏は六本木ヒルズにある毛利池について調査していました。 この地は元々毛利藩邸があり、その後明治政府練兵場となり ニッカウヰスキーが購入後にテレビ朝日、六本木ヒルズへと各時代によって 変貌を遂げてきた場所でした。 六本木ヒルズの建設で大規模な工事の手が入る際に事前調査を行う予定だったそうです。 というのも江戸幕府が大政奉還したのちに薩長がなんとか戦争に持ち込む 大義が欲しく挑発を繰り替えしていたところに幕府方が 毛利藩邸を一晩で焼き討ちにされたことを 発端に明治維新が始まった場所ということ。 さらにとらえられた赤穂浪士10名が切腹した際に返り血を浴びた血塗られた灯篭、 そして池の水で首を洗ったとの逸話が残っている。 文化財としての価値があるものがこの池から出てくる可能性が高いと踏んでいましたが 池の水を抜いたところで調査は中止されました。 何か予期せぬ事態が起こったことは明らかでした。 この内容を裏付けるかのようにニッカウヰスキーが土地を購入した経緯として 池から湧き出る天然水でウイスキーを作ることが目的だったのですが 結局それをせずに土地を手放します。 当時の社長が手記でこう言い残しています。 「あそこは由緒ある池で、必ず主がいるに違いない。 だから池を潰した奴には祟りがあるぞ。 本人になければ子孫にあるぞ」 (『父・マッサンの遺言』KADOKAWAより) 結局、毛利池は水が抜かれた状態で池底を防護シートで敷き、 その上に1mにもなる防水コンクリートを埋めてその上に現在の池 毛利庭園 を造ったそうです。 毛利池と溝ノ口のマンション このようなを調査している最中UFOキャッチャーの社長から 以前住んでいた溝ノ口の幽霊マンションがまだ空き家となっているとの連絡があり 西浦和也氏はそのマンションへ向かいます。 対象の部屋を内覧後に近くを歩いていると近くの児童館脇に「おばけ灯篭」の看板があり、 当時軍部施設の名残がある擁壁・高射砲跡の傍に設置さていました。 但し書きを見てみると実は元々は毛利池に設置されていたものが この地に移されたと但し書きに記されていたために好奇心を擽られたそうです。 「おばけ灯篭」の由来は明治天皇の近衛兵が軍部の暴走を抑えきれないため クーデターを起こした2・26事件が発端とされています。 クーデターが失敗後、六本木にある毛利池で近衛兵の将校が自害したのですが、 その場所にあった灯篭が彼らを憐れんで夜な夜な六本木で歩き回っているとのことで 市民から陸軍に陳情した結果、基地のある溝ノ口に送られたとの記録がありました。 近衛兵は軍部に反逆したものたちと捉えられたために戦争の最前線に送られ ほぼ戦死したのですが、稀に生き残った人は実践を積んだ人材ということで 軍部の教育係として溝ノ口の基地に移送されました。 実は、市民から陸軍への陳情と相まって移送の際に自害した将校を憐れんで思い出と共に 「お化け灯篭」も一緒に持ってきたのがどうやら真相らしい・・・。 しかしながら当時灯篭を設置したのは場所のどこなのか?? 現在の児童館脇にあったのか?? 昭和20年に米軍が基地を世襲したときの航空写真と現在地図を合わせると 実は当時マンションが建つ前は斜面に軍事教官専用門があり その場所に灯篭は設置されていたそうです。 丁度UFOキャッチャーの社長が住んでいた マンションの部屋の真上に位置する場所だそうです。 果たして近衛兵の亡霊は未だマンションにいるのでしょうか? 最後に 六本木ヒルズといえば、過去、六本木ヒルズのテナント企業が立て続けに 不祥事を起こしたり、ボヤ騒ぎがあったりと・・・ マッサンのいう通り毛利池の主が引き起こした現象なのでしょうか? 以上最後までご拝読いただきありがとうございました🎵.

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