エホバ の 証人 輸血。 エホバの証人|嫌われる理由となる輸血問題と生死感とは

輸血拒否

エホバ の 証人 輸血

エホバの証人輸血拒否事件 エホバの証人輸血拒否事件 日本でインフォームド・コンセントが注目されるきっかけになった事件に「エホバの証人輸血拒否事件」があります。 1992年に東大付属病院で起きた事件で、患者の了解を得ないまま、担当医が手術の際に一方的に輸血をおこなった行為をめぐって、民事訴訟で最高裁まで争われました。 今回はこの「エホバの証人輸血拒否事件」を考えたいと思います。 女性は「エホバの証人」という宗教団体の信者で、肝臓ガンを患っていました。 エホバの証人というのは、アメリカに本部のあるキリスト教系の宗教団体で、聖書に記されていることを文字通りに実践することを説いています。 その教えの中には、進化論の否定、軍隊への入隊拒否、暴力や格闘技の否定といったことの他に「輸血の禁止」があります。 聖書の中に輸血を誤った行為として批判する記述があるため、輸血をしないことは、エホバの証人の信者が守らねばならない決まりのひとつになっています。 この女性はすぐにでも手術が必要な状態でしたが、信仰上の理由から手術の際に輸血ができません。 そこで、同じような肝臓ガンのケースで、輸血せずに生理食塩水の点滴のみで手術を成功させた実績のある東大病院に転院し、そこで手術を受けることにしました。 彼女は担当医に自分の信仰を説明し、どんな事態になっても輸血だけはしないでほしいと訴え、たとえ輸血をしなかったことで命を落としたとしても病院側の責任は一切問わないという内容の文書を記し、それを病院に提出しました。 一方、担当医はこの女性に「わかりました、できるだけ患者さんの信仰は尊重します」と応じましたが、もし手術中に輸血しなければ生命を救えない状況になったら、その場合には輸血するという相対的な治療方針をたてていました。 担当医は輸血が必要になる大手術になる可能性も十分予測していましたが、手術中の状況しだいでは輸血するという治療方針については、患者の女性に説明しませんでした。 まもなく、彼女の様態が急変しため、緊急手術が必要になりました。 手術は肝臓の多くを取り除く大手術となり、患者の女性は出血からショック状態に陥ったため、担当医は生命を救うことを優先し、輸血をして手術をつづけました。 手術自体は成功し、女性の生命は救われました。 しかし、彼女にとって、なんの説明もなく一方的に輸血をしたことは自分への裏切り行為です。 どうか輸血だけはしないでほしいと何度も頼み、担当医も「わかりました」と応じていたにもかかわらず、患者をだますようなやり方で輸血したのは、あまりにもひどいのではないかと考えました。 結局、この女性は担当医と病院への不信感から、再度転院し、翌年の1993年、担当医と東大病院に対して、信仰の自由と自己決定権の侵害により1200万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こすことにしました。 【課題】 もしあなたが裁判官だったら、この「エホバの証人輸血拒否事件」をどう判断しますか。 ポイントや双方の主張や新聞記事をよく読んで、あなたの考えを述べなさい。 【ポイント】 ・患者の女性は肝臓ガンを患っていた。 ・患者は「エホバの証人」の信者であり、信仰上の理由から輸血を拒んでいた。 ・患者は自分の信仰をあらかじめ医師に説明し、輸血せずに手術を行うよう担当医に依頼した。 ・患者は輸血をしなかったことでたとえ命を落としたとしても、医療機関の責任を問わないという文書も病院に提出していた。 ・担当医は輸血をしないでほしいという患者の要望に同意した。 ・担当医は、患者の要望を尊重して可能な限り輸血を行わないが、輸血以外に救命手段がない場合には、輸血の選択肢も残しておくという相対的な治療方針をたてていた。 また、緊急手術になった場合、輸血が必要になる大手術になる可能性も予測していた。 ただし、その方針を患者には説明しなかった。 ・患者の容体が急変し、緊急手術となった。 ・手術中、患者は出血からショック状態に陥り、担当医は患者の生命を救うために輸血を行った。 ・手術自体は成功し、患者は命をとりとめた。 【原告・患者の女性の主張】 医療によってあつかわれる「生命」とは患者の生命であり、どのような医療を受けるかを最終的に判断するのは、医師ではなく、患者本人でなければならない。 日本の医療現場では、医師が一方的に治療方針を決め、患者はそれに従っていればいいとするパターナリズムによる上下関係が長年続いてきたが、このような患者本人の意志を無視した医療のあり方はまちがっている。 患者は医師から十分なインフォームド・コンセントを受け、納得した上で、自ら治療方針を決める自己決定権をもっているはずである。 ところが、この事件では、担当医は「輸血しないでほしい」という患者の信仰を知り、それに同意していたにもかかわらず、緊急手術では一方的に輸血をおこなった。 これは患者の自己決定権と信仰の自由を踏みにじるごう慢な行為といえる。 また、患者の女性は重症の肝臓病だったため、輸血が必要な緊急手術になる可能性があることも医師はあらかじめ予測していた。 それにもかかわらず、その対応について、患者にまったく説明せず、一方的に医師の判断で輸血をおこなったのは、あきらかにインフォームド・コンセントが不十分である。 よって、担当医と病院は患者の自己決定権と信仰の自由を侵害しており、損害賠償を請求する。 【被告・担当医と病院側の主張】 医療の役割は患者の生命を救うことであり、医師には患者の生命を救う義務がある。 この事件の患者は重い肝臓病であり、手術では輸血をすることでしか患者の生命を救えない状況だった。 医師は、できるかぎり患者の意思を尊重するが、もしも輸血をするしか救う手段がない場合には、輸血をおこなうという方針をたてていた。 この方針は、生命を救うという医療の役割に基づいたものであり、きわめて合理的な判断といえる。 実際、この治療方針によって、手術は成功し、患者の生命も救われたのである。 出血多量による生死の境にある状況で、なお輸血を拒否するというのは自殺行為であり、すべての輸血を拒否するという患者の信仰自体、非常識で反社会的なものといえる。 そうした患者の信仰に医師や病院が同調し、患者を死亡させる危険をおかしてまで無輸血で手術をするとしたら、それは治療を放棄するのと同じであり、生命の尊重という医療の本質に反する行為である。 したがって、手術の際に輸血をおこなった担当医と病院には、なんら過失は見られない。 【判決】 第一審 東京地裁 1994 どのような場合でも輸血を拒否するという患者の信仰は「公序良俗」に反するもので無効。 原告の訴えを棄却。 控訴審 東京高裁 1998 患者の自己決定権は保障されるべきものであり、医師は患者に治療方針を十分に説明しておらず、インフォームド・コンセントをおこたっている。 損害賠償として55万円の支払い命令。 上告審 最高裁・小法廷 2000 高裁判決を支持。 インフォームド・コンセントをおこたっており、55万円の損害賠償の支払い命令。 稲葉威雄裁判長は「医師には、ほかに救命手段がない事態になれば輸血する、という治療方針の説明を怠った違法がある」と述べた。 こうした判断に基づき、原告敗訴の一審判決が変更され、病院を運営する国と医師の3人が合わせて約55万円の支払いを命じられた。 この裁判は、輸血拒否者への輸血をめぐり、患者が医師の責任を問う初めてのケースとして注目された。 高裁判決は、エホバの証人の信者が輸血を承諾した治療ケースがあることや、この主婦と担当医のやりとりなどを踏まえ、「絶対に輸血はしない」という合意はなかったと判断した。 ただし、こうした合意があった場合の効力については、「公序良俗に反して無効」とした一審判決とは反対の判断を示した。 判決はさらに、医師の説明義務違反の有無について検討。 「今回のような手術を行うに際しては、患者の同意が必要であり、それは尊厳死を選択する自由も含めて、各個人が有する自己の人生のあり方は自らが決定するという自己決定権に由来する」との判断を示した。 そのうえで、「医師団は場合によっては輸血をして手術を行う必要が出てきたと判断した時点で、輸血を行うことを説明すべきだった」と結論づけた。 被告側は「輸血の必要性を説明すれば、手術を拒否されると思ってあえて説明しなかっただけで違法性はない」と主張していたが、稲葉裁判長は「被告の主張は患者の自己決定権を否定するものだ」と退けた。 判決によると、この主婦は悪性の肝臓血管腫と診断された1992年6月、エホバの証人の信者の医師から、東大医科研を「無輸血手術をする病院」として紹介された。 この主婦と家族は同年9月に手術を受けるに際して、信仰上の理由から輸血はできないと医師に伝えたが、医師は手術時に出血性のショック状態にあったことを理由に輸血を行った。 当時余命1年とみられていた主婦は、手術後約5年たった昨年8月に死亡した。 主婦は93年6月に提訴し、昨年3月に東京地裁が請求を退ける判決を言い渡し、控訴していた。 医療現場で築かれてきたインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の考え方を、司法の場で正面から取り上げ、患者の側に立って後押しする意味を持つと言える。 一審判決は「生命を救うためにした輸血は、(同意がなくても)社会的に正当な行為で違法性がない」という立場をとった。 しかし、こうした考えは、「救命のためという口実さえあれば、医師の判断を優先させることで、患者の自己決定権を否定することになる」(高裁判決)ともいえる。 専門家の間では「インフォームド・コンセントの考え方を大きく後退させる」との批判があった。 医療現場では、「どんな場合でも輸血を受けない」というエホバの証人の信者への対応が、患者側に立って進められてきた経緯がある。 日本医師会の生命倫理懇談会は1990年、輸血をしないことを条件にした手術を行うこともやむを得ないとする見解を示した。 患者の意思を尊重して緊急時でも輸血しないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった。 今回の高裁判決は、こうした医療現場の動きに沿うものと言える。 患者の自己決定権から同意の必要性を導き出した判決は、さらに踏み込んで、「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できる」として、「尊厳死を選択できる自由をも持つ」との判断も示した。 医療現場への影響が注目される。 その上で、医師らの説明義務違反を認定、国や病院側に計55万円の支払いを命じた2審判決を支持し、上告を棄却する判決を言い渡した。 これにより、女性信者側の勝訴が確定した。 【資料】 子供の治療を拒む親達 TBS「CBSドキュメント」1998 キリスト教原理主義といわれる宗教団体の中には、輸血だけでなく、すべての医療行為を否定している宗派も存在する。 このレポートで紹介されているアメリカ・ペンシルベニア州にあるフェイス・タバナクル教会もそうした宗派のひとつで、信者はインタビューで次のように述べている。 「私たちはたとえアスピリンでも薬を体に取り入れることができません、私たちの肉体は神様の宿る神殿なのです、神殿を汚すことはゆゆしき問題だからです」。 アメリカではほとんどの州で、信仰に基づいて自らが医療を拒否する権利だけでなく、信仰に基づいてこどもを医師に診せない親の権利も認められている。 しかし、フェイス・タバナクル教会信者の家庭では、十数名のこどもが、十分な医療を受けられれば治ったはずの病気で死亡している。 そのうちの五人は麻疹であった。 こうした事態を受けて、ペンシルベニア州は四組の夫婦をこどもの過失致死罪で起訴した。 裁判では夫婦の信仰が考慮され、彼らを刑務所へ送ることはしなかったが、ただし、五歳の息子を中耳炎で亡くし、つづけて十六歳の娘を糖尿病で亡くした夫婦については、その後の裁判で二度目の過失致死という点が重視され、懲役五年の判決とされた。 父親はそれについて次のように話している。 「治療を受けるかどうかは娘が決めることです、私たちじゃなくね、娘はすべてを神様におまかせしていたのです、神様が治してくださるとね」「人間は寿命を延ばすことはできません、治療はただ命をもてあそぶだけです」。 今後、州当局は、フェイス・タバナクル教会信者のこどもが生死にかかわる病気になった場合には、強制的に治療を受けさせる方針を出している。

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「エホバの証人」輸血拒否事件 控訴審

エホバ の 証人 輸血

外傷や手術による出血や血液疾患等の治療において、必要な場合には輸血により救命を図るというのが医師にとっては常識である。 しかし信仰上の理由から輸血を拒否する患者がその意思に反して輸血された場合に、患者と医療機関の間で訴訟となることがある。 すなわち、医療上の救命行為と信仰とのいずれが優先されるかという問題である。 医師と患者の倫理観あるいは価値観に相違があり、それが医療行為そのものに直接影響する場合、医師あるいは医療機関はどのように対応することが求められるだろうか。 1 絶対的無輸血と相対的無輸血 信仰上の理由による輸血拒否は、その代表的な宗教として挙げられる「エホバの証人」の信者が国内だけでも約21万人(2009年)いることからみても稀ではなく、どこの医療機関においても生じうる事例である。 実際には、エホバの証人の信者の間でも輸血についての解釈には幅があり、目の前の患者の意思確認が重要となる。 輸血拒否といっても、たとえ生命の危機に陥るとしても輸血を拒否する絶対的無輸血の場合と、生命の危機や重篤な障害に至る危機がない限りで輸血を拒否する相対的無輸血の場合がある。 実際に医療現場で問題となるのはいうまでもなく前者の場合である。 2 待機的手術における輸血拒否への対応 絶対的無輸血の事例について最高裁判所は、手術に際して救命のために輸血をする可能性のあるときには、医師は、そのことを患者に説明し、手術を受けるか否かは患者の意思決定に委ねるべきであるとし、その説明を怠った医師には、患者の人格権侵害について不法行為責任があるとの判断を示した(最高裁第三小法廷判決 2000年2月29日)。 この事例は待機的手術時の輸血に関する手続きが問題とされており、判決文では医師は輸血を拒否する患者の自己決定権を尊重し、患者に自己決定権行使の機会を与えなければならないとしている。 しかし、医師が患者の意思に従い無輸血下での手術をしなければならないとは命じていない。 したがって、このような場合の医師や医療機関がとり得る選択肢は以下の2つとなる。 後者の場合には、手術時に一般的な注意義務を尽くしている限り、患者が出血死しても医師は法的責任を免れると考えられる。 3 救急医療など緊急時における輸血拒否への対応 待機的手術に際しては患者への説明と同意に時間をかけて対応することが可能であるが、さらに問題となるのは、救急医療など事前に患者の意思が確認できない状況での緊急輸血時である。 具体的な症例を目の前にしてからでは対応が困難であり、緊急時の対応については、あらかじめ医療施設として方針を定め、それを院内掲示やインターネットのホームページ上などさまざまな手段・機会を通じて患者や周辺の一般市民に示しておくことが望ましい。 つまり、事前の対策が重要ということである。 実際に、緊急かつ必要なときには輸血をする相対的無輸血の方針で対応することを表明する医療機関が増えている。 相対的無輸血の方針が明示された医療施設において、患者がこれに応じなければ診療を断ることも許される。 ただし、医療施設は輸血拒否の患者に対する、すべての医療を拒否することは相当でない。 疾病の種類、処置の方法、内容などを勘案して、輸血なしに治療可能なものは治療に応ずることが適切である。 また、これらの対策を講じていても実際に患者の意思に反して輸血が施行された場合には法的責任は免れず、人格権の侵害として訴訟で敗訴する可能性は残る。 4 未成年者や意思確認ができない患者への対応 患者が未成年者の場合、親権者が必要な輸血を拒否することがある。 原則的に、判断能力がない場合を含めて患者本人に明確な輸血拒否の意思表示がない場合には、必要な輸血を行わない理由は見当たらない。 2008年2月の関連学会の合同委員会報告「宗教的輸血拒否に関するガイドライン」では、患者の年齢による対応を示し、15歳以上で自己決定能力がある場合には患者の輸血同意書により輸血を実施することとしている。 問題は自己決定能力がない幼少の患者への必要な輸血を親権者が拒否し、相対的無輸血や転院の勧告などの方策がとれない場合には、当該親権者について親権の濫用として児童相談所等を通じて裁判所に親権喪失の申立を行うことも考慮される。 実際に、緊急輸血を必要とした幼児が病院、児相、家裁の連携により救命された例がある。 5 まとめ 医師と患者の倫理観あるいは価値観の相違が医療行為そのものに大きな影響を与える場合には、お互いの立場や考えを明らかにし、合意点を見出す努力が求められる。 しかし、患者と家族の意向が異なる場合、救急時など意思確認が困難な場合や、患者が事故や犯罪の被害者であるなど他の要因が複雑に関与する場合などのように十分な理解を求めることが困難な場合があるが、このような場合にはそれぞれの状況により判断せざるを得ない。 しかしながら、事前に当該医療機関としての方針を策定・公開すること、関連ガイドラインを周知することが助けとなるものと考えられる。

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輸血に代わる良質の医療

エホバ の 証人 輸血

輸血拒否を示す継続的委任状。 全てのエホバの証人が携帯している。 13歳の少女が交通事故のために入院した。 医師は、手術をすれば助かると判断して、少女にそのことを話した。 ところが少女は、「私はエホバの証人なので、輸血をしないでほしい」と申し出た。 医師は「手術をすれば治る。 輸血はどうしても必要な時だけしかしない」と話し、少女も納得し、手術を受けることにした。 翌日、手術の準備に入ると事態が変わっていた。 昨夜、どこから聞きつけたのか、エホバの証人の仲間が少女のところに来て、輸血を受けないように彼女を説得したのである。 少女は輸血を拒んだ。 その日、医師は再び少女の説得をはじめた。 少女には身寄りがなかった。 医師は、子どもであっても、本人の意志は尊重しなければならないと考え、本人の了解を取ろうと努力した。 長い話し合いの末、彼女は必要であれば輸血を受けてもよい、と了承した。 ところが、その日もまた、エホバの証人たちが病院に押しかけ、彼女に輸血を受けるのを思いとどまらせてしまった。 医師は、私の友人の宣教師に電話をした。 その宣教師はエホバの証人のことをよく知っていたので、少女が輸血を受けるよう説得してほしい、と依頼されたのである。 宣教師は、その少女を訪問することを医師に約束した。 しかし、その日の夕方、医師から宣教師に再び入った電話は、その少女が先ほど息を引き取った、というものだった。 その医師は、友人の宣教師に言った。 「エホバの証人は少女の生きる権利を奪った。 13歳の少女に『死ね、死ね』と言ったのだ。 あれはどういう信仰なのだ。 あなたがたキリスト教の宣教師や牧師は何をしているのか。 これは、1996年7月、埼玉県の病院で、実際に起こった出来事です。 ものみの塔協会の主張するとおり、神が本当に、今日のクリスチャンに輸血を拒否するよう求めておられるのであれば、少女の姿は信仰の勇者として称えられるべきものなのかもしれません。 しかし、神の意志がその逆なのであれば、この出来事は悲劇以外の何物でもありません。 13歳という若さでこの世を去った少女の命を考える時、また彼女を助けることのできなかった医師の怒りを考える時、この問題の確かな答えを聖書から論じることは、クリスチャンの責務だと言えるのではないでしょうか。 日本においても、過去に輸血拒否を巡る事件や裁判が起きたことから、メディアでも広く取り上げられ、その認知度は高まりました。 エホバの証人の輸血拒否の具体的な基準とは、全血、あるいは血液の四つの主要成分(赤血球、白血球、血小板、血漿)を避けることを意味します。 旧約聖書には「血を食べてはならない」という禁令がありますが、それを今日の輸血という医療行為に適用したために、「輸血拒否」の教理が生まれることとになったのです。 (創世記9:3、レビ記17:10) エホバの証人の社会において、輸血をすることは、神の命令に対する明確な違反行為と見做されます。 そのため、輸血行為は永遠の命を失う可能性のある深刻な罪として信じられ、実際に輸血を行う信者は多くの場合、組織から排斥されます。 こうした問題を踏まえ、輸血拒否を巡り、倫理的な観点から、多様な議論がなされてきましたが、エホバの証人が宗教的な理由で輸血を拒否している以上、彼らに対して最も重要で効果的な説得方法は、聖書的な観点から説明することだと言えるでしょう。 医療に関する継続的委任状:全てのエホバの証人は、万が一の時の輸血を拒否するため、この委任状を携帯している。 輸血拒否の歴史と背景 輸血の歴史 輸血拒否の教えの歴史は、実はそう長くはありません。 「大危急の中で、付いていた医者の一人は、1クォート(約1リットル)の自分の血液による輸血を患者に施した。 しかし、ものみの塔協会の会長がラザフォードからノアに変わった後、組織は輸血を禁止する方向性を徐々に示していきました。 種痘とは、天然痘の予防接種のことですが、協会は信者が「種痘」を受けることを、1931年から正式に禁止していました。 ところが、その禁令によって被害者が続出した結果、最終的には認めざるを得ない状況になり、解禁となったのです。 その時の経緯と輸血拒否の教えとの関連については、新世界訳研究会発行の『組織が輸血を禁止している』の中で、次のように説明されています。 「むろん、それは、種痘禁止を解除する動きと連動していた。 協会が、種痘を禁止したのは、1931年だった。 そして、その禁止を撤廃したのは、1952年である。 協会が、20年間にわたって禁止してきた種痘を認めなければならない立場に立たされたからである。 アメリカ合衆国の連邦政府の査察を受けねばならない状況に追い込まれたのである。 協会のリーダーたちは、エホバの証人の間に動揺が起こることを鎮める必要があった。 そこで、種痘問題をカモフラージュできる新たな禁止令を考えたのである。 それは『輸血禁止』という教えだったのである。 この見事な人心掌握術は、さすが、カルト集団のリーダーたちである」(22頁) 種痘の解禁と、輸血拒否の提唱の時期が重なっていることを考えれば、この指摘はあながち間違ってはいないように思われます。 協会は、分が悪い教理の訂正をする時には、なるべき目立たないようにことを進めることが多いからです。 いづれにしても、聖書的な理由により輸血を拒否すると公言する一方、その始まりが「組織の体裁的な理由だった」とすれば、それは見過ごすことのできない重大な問題だと言えるでしょう。 ものみの塔の主張 協会が輸血を禁止するにあたり、よく引き合いに出す聖書箇所は、創世記9:3-6(ノア契約)、レビ17:10-12(モーセの律法)、使徒15:20(エルサレム会議の決定事項)の三つです。 「ただし,その魂つまり その血を伴う肉を食べてはならない。 」(創世記9:3) 「だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ 血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。 肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。 血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである」(レビ17:10) 「ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと 血を避けるよう彼らに書き送ることです。 21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:20) これらの聖句から、協会は次のような論理展開で、輸血拒否が聖書の教えであると説明します。 これらの聖句の「血の禁令」は、輸血にも適用される、 神は 魂 つまり 命 を,血 の 中 に ある もの と みなさ れ た。 そして,魂 は 神 の ものである。 この 律法 は,イスラエル 国民 に だけ 与え られ た と は いえ,血 を 食べ て は なら ない と いう 律法 を 神 が どれ ほど 重視 し て おら れ た か を 示し て いる。 また、血を食べてはならない、という命令は、人体に他の者の血を摂り入れるべきではない、ということを意味するため、輸血にも適用される。 ノアの時代から使徒たちに至る全時代を通して、神は血の禁令を一貫して示してきた。 旧約時代だけでなく、エルサレム会議の決定事項においても(使徒勅令)、「血を避ける」べきであることが聖書に記録されている。 このように、創世記、レビ記、使徒、の三つの書において、血の禁令が一貫して示されてきたという事実は、「血を食べてはならない」という定めが、普遍的な教えであることを意味している。 以上のものみの塔の主張を踏まえ、「血の禁令は輸血にも適用されるべきなのか」「エルサレム会議の決定事項は、普遍的な教えなのか」という二つの点を、聖書的視点で論じていきたいと思います。 なお、公式サイトのJW. ORGでの「聖書は輸血について何と述べていますか」という記事でも、エホバの証人の側の主張の要点が、以下のように簡潔にまとめられています。 聖書 は, だれ も 血 を 摂取 し て は なら ない,と 命じ て い ます。 ですから, 全血 を,あるいは どんな 形態 の もの に せよ その 主要 成分 を,食物 と し て も 輸血 と し て も 受け入れる べき で は あり ませ ん。 以下 の 聖句 に 注目 し て ください。 創世記 9:4。 神 は ノア と その 家族 に,大 洪水 後,食物 と し て 動物 の 肉 も 食べ て よ い と され まし た が,血 を 食べ て は なら ない と お命じ に なり まし た。 神 は ノア に,「ただし,その 魂 つまり その 血 を 伴う 肉 を 食べ て は なら ない」と お告げ に なっ た の です。 この 命令 は 全 人類 に 対する もの です。 人類 は 皆 ノア の 子孫 だ から です レビ 記 17:14。 「あなた方 は いかなる 肉 なる もの の 血 も 食べ て は なら ない。 あらゆる 肉 なる もの の 魂 は その 血 だ から で ある。 すべて それ を 食べる 者 は 断た れる」。 神 は 魂 つまり 命 を,血 の 中 に ある もの と みなさ れ まし た。 そして,魂 は 神 の もの です。 この 律法 は,イスラエル 国民 に だけ 与え られ た と は いえ,血 を 食べ て は なら ない と いう 律法 を 神 が どれ ほど 重視 し て おら れ た か を 示し て い ます。 使徒 15:20。 『血 を 避け なさい』。 神 は,ノア に 与え た の と 同じ 命令 を クリスチャン に も お与え に なり まし た。 歴史 は,初期 クリスチャン が 血 を 飲も う と は せ ず,たとえ 医療 目的 で あっ て も 血 を 用い なかっ た こと を 示し て い ます。 神 は なぜ わたしたち に,血 を 避ける よう 命じ て おら れる の です か 輸血 を 避ける こと に は,しっかり し た 医学 的 理由 も あり ます。 しかし,より 重要 な こと と し て,神 は, 血 の 象徴 する 命 が ご自分 に とっ て 神聖 な もの で ある が ゆえに,血 を 避ける よう 命じ て おら れる の です。 コロサイ 1:20。 血の禁令は輸血と関係があるのか? 聖書的原則を適用する時の注意点 聖書の中には、輸血の是非に言及している箇所は一つもありません。 なぜなら、の説明によれば、輸血という医療行為が一般的に行われ始めたのは、1900年以降だからです。 したがって、聖書に明確に禁止されていない以上、それを禁止事項として断言することには注意が必要です。 しかし一方で、ある事柄が聖書の中で明確に禁止されていないからといって、それを安易に容認することもできません。 このような場合、聖書の中で示された原則や命令の本質を理解し、それを該当する事柄に適用できるかどうかを、慎重に考慮しなければなりません。 では、「血の禁令」は、現代の輸血という医療行為に適用すべきなのでしょうか? 血の禁令の本質的な意味 禁令の本質は「血」ではなく「魂」にある 「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。 緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。 4 ただし, その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。 」(創世記9:3) 創世記9章における血の禁令は、大洪水の後に、神がノアをはじめとする人類に肉食を許可する文脈で与えられました。 それまでの世界では草食が中心でしたが、肉食の許可にともない、食事のために動物の命を断つ必要性が生じたことから、「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」という禁令が与えられたのです。 この禁令の本質や意図を、もう少し掘下げて説明しているのが、モーセの律法下で語られたレビ記17章の禁令です。 「だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ 血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。 肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。 血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである」(レビ17:10) この聖句によると、神が血を食べないよう禁止した背景として、「肉の魂は血にある」「血が、その内にある魂によって」という理由を挙げています。 つまり、血を食べてはならないのは、その内に魂があるからであり、もしも血の中に魂が無いのであれば、血を食べることは禁止されない、ということになります。 ですから、この禁令の本質は、「血を食べてはならない」というよりは、「 魂を食べてはならない」という点にあることがわかります。 血が魂を表すのはどんな状況か では、どういう時に、「血」が魂を表すのでしょうか?ここで、旧約聖書における血の禁令は、全てのその動物の命を断つことと関係していた、という点を考える必要があります。 ノアが血の禁令を与えられたのは、肉食によって動物の命を断つ必要が生じたことがその理由でした。 また、レビ記の禁令においても、犠牲の動物の血に宿る命によって、罪人の命を贖うことがその目的でした。 ですから、動物の体に少しの傷をつけて、そこから流れる血を祭壇で用いたという事例は聖書中に存在しませんし、そのような行為は贖いとして何の意味も無かったことでしょう。 他にも、血の禁令の本質が、血液にあるのではなく、「命の犠牲」にあることを示す興味深い事例が、第二サムエル記に記録されています。 それは、ある時ダビデが「水を一杯飲みたい」と言った時に、その渇望に応えるために、三人の勇者が命がけで水をくみにいった出来事です。 ダビデは自分の渇望を表わして言った,「ああ,門の傍らにあるベツレヘムの水溜めの水を一杯飲めたらよいのだが」。 16 そこで,三人の力ある者たちは,フィリスティア人の陣営に無理に突入して,門の傍らにあるベツレヘムの水溜めから水をくみ,それを運んで,ダビデのところに持って来た。 彼はそれを飲もうとはせず,それをエホバに注ぎ出した。 17 次いで彼は言った,「エホバよ,このようなことをするなど,わたしには考えられないことです! 自分の魂をかけて行った人々の血を[ わたしは飲めるでしょうか] 」。 それで彼はそれを飲もうとはしなかった。 (サムエル第二23:15-17) ダビデが飲もうとしなかったのは「血」ではなく「水」でした。 ところが、その水が命がけで得られた水であったことを理解したダビデは、それを「水」ではなく、「血」だと見做したのです。 もしも、その水が普通に得られたものだったとしたら、彼はそれを血だとは見做さなかったでしょう。 つまり、血の禁令の本質に関するダビデの理解は、「食べる液体の種類」にあるのではなく、「その液体に命の犠牲が伴っているかどうか」という点にあったのです。 輸血には命の犠牲が伴わない 輸血で用いる血液を用意するために、命の犠牲が伴うことはありません。 誰かが輸血をしたとしても、その血液の所有者の魂は、変わらず所有者の元に留まり続けるからです。 ですから、旧約聖書で禁止された動物の血の本質的な意味は、輸血という医療行為で用いられる血とは大きく異なります。 ですから協会は、輸血という問題を扱う際に、「血液」という液体に過度に拘る表面的な見方を持つのではなく、より本質的な側面も慎重に考慮して、最終的な判断をしていくべきです。 そうしたプロセスを経ずに、「神の霊の導かれる唯一の組織」と主張する団体が、全世界の信者にそれを絶対的な神のご意志だと安易に示すことには、大きな問題があると言えるでしょう。 補足すべき点として、今日でもモーセの律法を守るユダヤ教のグループは世界中に存在していますが、私の知る限り、ものみの塔と同じような解釈を血の禁令に適用し、輸血を拒否するユダヤ教のグループは存在しません。 神の命令が「用いないこと」ではなく「食べないこと」だった点を考慮すると、これは実に奇妙なことだと言えるかもしれません。 献血には命の犠牲は伴わない 輸血をする人を排斥するのは正しいのか 死体となっていたものを食べた場合の規定 仮に、輸血に関するものみの塔の解釈が正しいとしても、輸血を「深刻な罪」と見做し、それを行った信者を「排斥」するのは、聖書的に正しい方法なのでしょうか?この点に関するヒントが、レビ記17:15に記されています。 「すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。 その者は夕方までは汚れた者とされる。 そののち清くなるのである。 」(レビ記 17:15) ここでは、「死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたもの」を食べた場合の規定が記されていますが、ユダヤ人にとって「死んでいた動物」は、汚れをもたらすため、基本的に食べてはならないものでした。 「あなた方は,何にせよ死んでいたものを食べてはならない。 あなたの門の内にいる外人居留者にそれを与えてもよい。 その者がそれを食べるのである。 あるいは,それは異国の者に売られるかもしれない。 あなたは,あなたの神エホバにとって聖なる民なのである。 」(申命記14:21) この禁令には、「死体に触れた者は汚れる」という原則が関係していると思われますが、見逃すことのできないもう一つの側面があります。 それは、死体となっていた動物を食べる人は、誰でもその肉を血と共に食べることになる、という点です。 動物の体から血を抜くためには、屠殺後に速やかに血抜きの処理をしなければなりません。 そうでなければ、血管内で血液が凝固して、血抜きができなくなるからです。 しかし、野獣に引き裂かれる等の理由で死んでいた動物の場合は、この血抜きができません。 ですから、 死んでいた動物の肉を食べることは、その動物の血をも食べることを意味したのです。 では、「死んでいた動物を食べる時の規定」と、「通常の血の禁令」との間に、このような罰則の程度の違いがあるのはなぜでしょうか? また、このような軽い罰則規定は、輸血を重い罪とし、それを行う信者を排斥してきた協会の対応とも大きく異なりますが、協会はそれについてどんな説明をしているのでしょうか? なぜ罰則が軽いのか 1983年のものみの塔誌では、協会はその理由について、死体となっていた動物に血が含まれていたことを認めつつ、次のような説明をしています。 「ですから,神を崇拝する者はだれも,自然死した動物の(あるいはその肉に含まれる)血であろうと,人の手で殺された動物の血であろうと,血を食べることはできませんでした。 では, レビ記 17 章15 節に,自然死した動物や獣に殺された動物などの,血の抜かれていない肉を食べても,単に汚れるだけであると述べられているのはなぜでしょうか。 レビ記 5章2節に一つのかぎがあります。 そこにはこう述べられています。 「ある魂が,汚れた野獣の死体であれ……何か汚れたものに触れたなら, そのことが当人からは隠されていたとしても,その者はやはり汚れた者であり,罪科を持つ者となっている」。 このように, 神はイスラエル人が不注意から過ちを犯すことがあることを認めておられました。 ですから,レビ記 17章15節はそのような過ちのための規定として理解することができます。 例えば, あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ,食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合,その人は罪のあるものとされます。 しかし,それが不注意から起きたものであるゆえに,その人は清くなるための処置を講じることができました。 この点で注目に値するのは,当人がそうした処置を取らなかった場合に,「その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない」という点です。 このように、レビ17:15の罰則規定の軽さの理由について、協会は「不注意から生じた過ち」であるとし、具体的な例として、「あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ,食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合」という状況を挙げています。 このような説明は、レビ記17:15の妥当な解釈といえるのでしょうか? 再度該当の箇所を確認すると、「 すでに死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば」となっており、特に「不注意から生じた過ち」であることに言及しているわけではありません。 どちらかと言えば、ここでの罰則規定は、文脈上、死体となっていた動物を発見した人がそれを食べた場合の状況を想定していると考えるのが自然な解釈です。 ですから、「不注意で知らないで食べた」という特定の状況のみを想定して理解することは、やや不自然な印象が残ります。 また、引き合いに出されたれレビ記 5章2節は、「知っていて死体に触れる場合」も、「知らないで触れる場合」も、どちらも同じ罰則規定が適用されると教えている聖句です。 ですから、この聖句を引き合いに出しながら、「知らないで血抜きのされていない肉を食べた場合は罰が軽くされる」とする説明には、十分な説得力がありません。 では、死んでいた動物を食べた場合の罰則はなぜ軽いのでしょうか?その理由について、新世界訳研究会の中澤牧師は次のように説明をしています。 「死体となった動物の肉」を食べることは、ユダヤ人にとっては緊急事態にしか起こらない出来事だったからである。 彼らは、その肉がどのような種類の肉か知らなかったわけではない。 知っていたが、それを食べる以外、ほかにどうすることもできなかったのである。 普通の状況であれば、ユダヤ人は「死体となった動物の肉」を食べることはない。 しかし緊急事態は、予期しないときにやってくる。 神は、そのような場合に限って、「死体となった動物の肉」を食べるのを許されたのである。 軽い罰則規定が、死んだ動物を発見した人が食べた場合を想定したものであることを考慮すれば、この中澤牧師の解釈が、もっとも妥当な説明だと言えるのではないでしょうか。 そして、血の禁令を輸血に適用する協会の解釈が仮に正しいとしても、緊急事態を想定したレビ記の罰則規定の軽さを考えるならば、輸血をする信者を排斥にする協会の対応は、聖書的に正しいものとは言えないでしょう。 医学的な視点における矛盾 エホバの証人は血を食べている エホバの証人の輸血拒否の教理においては、全血だけでなく、赤血球や白血球等の血液の主要成分も拒否するわけですが、禁令の本質を理解せず、成分にこだわった結果、医学上の矛盾が生じています。 実は、人間の幼児が飲む母乳は、母親の乳房の中の毛細血管に取り込まれた血液から作られています。 その際母乳には、赤血球は取り込まれないため、血液のような赤色にはなりませんが、主要成分である白血球や血漿の成分は、依然として含まれているのです(もちろんこの事実は、牛乳を飲む時においても同じです)。 ですから、 母乳は「白い血液」とも呼ばれているのです。 ものみの塔は、赤ちゃんに母乳を飲ませないように、あるいは牛乳を飲まないようにとは指示しませんが、一方で血液の主要成分を拒否するよう指導します。 これは、完全に矛盾した教えです。 母乳を飲むことを許可するなら、血液の主要成分も許可すべきなのです。 母乳は「白い血液」と呼ばれており、赤血球以外のほとんどの成分が含まれている。 牛乳についても同様の事が言える 一卵性双生児による血液の交換 ものみの塔は、「血液の主要成分」と定めていない「血漿たんぱく」(分画)を摂取することについては、個々のクリスチャンの良心の問題だとしていますが、その理由として次のような点を挙げています。 「ものみの塔」誌,1990年6月1日号の「読者からの質問」は,血漿たんぱく(分画)が妊婦の血流から,独立した胎児の循環系へ移動することに注目しました。 母親はそのようにして免疫グロブリンを自分の子に渡し,貴重な免疫を与えるのです。 ・・・それで,クリスチャンの中には, 血液分画はこうした自然の営みの中で別の人間へ移動するのだから,血漿や血液細胞に由来する血液分画は受け入れることができる,と結論する人もいることでしょう。 この説明によれば、「血液分画は自然の営みの中で別の人間へ移動する」ということが、分画を許可する理由となっていることがわかりますが、これと全く同じことが、輸血に関しても言えるのです。 実は、一卵性双生児の場合は、両方の胎児の血管が一つの胎盤で繋がることが多く、その場合は互いの血液が行き来することになります。 ですから、「血液分画が、通常の営みの中で別の人間へ移動する」ことを理由に、血液分画の摂取を許可するのであれば、輸血も同じように許可するべきなのです。 結局のところ、血の禁令の本質への無理解が、これらの矛盾の原因となっているのでしょう。 エルサレム会議の目的は何か 使徒勅令の解釈 「ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ, 偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。 21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:19-21) 使徒15章のエルサレム会議で決定された内容を使徒勅令といいますが、エホバの証人の輸血問題を論じる上で、鍵となる聖句だと言えます。 なぜなら、エホバの証人が輸血を禁止する重要な根拠が、この聖句の解釈にかかっているからです。 エホバの証人は、使徒勅令を普遍的定めと解釈し、今日のクリスチャンも「血を避けるよう」にしなければならない、と教えます。 もしその解釈が正しいのなら、輸血禁止の聖書的根拠として、この聖句は考慮に値するかもしれません。 しかし、世界中のほとんどの聖書学者は、使徒勅令は普遍的な定めではなく、イエスを信じる「ユダヤ人信者への配慮」として、異邦人クリスチャンに課されたものだと理解します。 どちらの主張が聖書的根拠のあるものなのか、文脈に沿って確認をしてみましょう。 一世紀の統治体 by JW ORG|ものみの塔はエルサレム会議によって血の禁令の普遍性が確認されたと主張する 歴史的文脈の確認 当時、異邦人世界でたくさんの異邦人が福音によって救われていく中で、「異邦人も救いのためには割礼を受けるべきか」という点が問題となりました。 そこで、パウロとバルナバはエルサレムへ派遣され、使徒たちとエルサレム教会の長老たちを交えた会議が開かれました。 激しい論争の後、最後はイエスの弟のヤコブが、二つの点を重要な決定事項としてまとめました。 「ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。 21 モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」(使徒15:19-21) 使徒勅令の意味 (1)異邦人は救いのために割礼を受ける必要が無い:「諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず」とは、救われる異邦人に対して割礼やモーセの律法を守るよう要求しない、ということです。 この決定によって、「救いは信仰と恵みによる」という福音(良いたより)の本質が確認されました。 (2)異邦人は四つの禁止事項を守る:ヤコブは、異邦人が律法を守る必要が無いとする一方、その律法の要求である「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血」は避けるよう異邦人クリスチャンに求めました。 ここで挙げられた四つの事項は、おおよそ「在留異国人」に求められた聖潔の定めに該当するもので、当時ユダヤ教に帰依した人々に、最低限の要求として課せられていたものと考えられます。 (レビ記17~18章) さて、これら四つの禁止事項を挙げた後、ヤコブはそれらを異邦人信者に求める理由として、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいる」と加えています。 つまり、「モーセを宣べ伝える者がいるから」それを守る必要があるのであり、「宣べ伝える者」がいない場所では、それを守る必要はない、ということになります。 歴史的背景として、紀元一世紀には、ユダヤだけでなく、異邦人世界全体の都市にユダヤ人の共同体とシナゴーグ(会堂)があり、そこで安息日ごとにモーセの律法が朗読されていました。 そして、使徒たちが未開拓の地に福音を伝える時はいつでも、まずその都市の会堂へ行き、ユダヤ人にキリストを宣べ伝えました。 ですから、当時のほとんどのクリスチャン会衆の中には、ユダヤ人信者と異邦人信者の両方がいたのです。 しかし、週ごとに律法の朗読を聞き、伝統的にその教えを守ってきたユダヤ人にとっては、いくらキリストの恵みによって救われたとはいえ、血の入った肉を食べる異邦人と食事をすることには抵抗がありました。 そこでヤコブは、教会の平和と一致のために、「普遍的な定め」としてではなく、「ユダヤ人信者への配慮」として、最低限の事項を守るよう異邦人信者にお願いしたのです。 これが、「モーセを宣べ伝える者がどの都市にもいるから」という理由の重要な意味になります。 なお、どういうわけか、ものみの塔の最近の出版物でも、この解釈の妥当性が明らかにされています。 「ヤコブの提案は良いものでしたか。 確かに良いものでした。 ・・推薦された方針は,一方では,モーセの律法の要求を課して異邦人のクリスチャンを『煩わす』ことや『困らせる』ことのないものでした。 (使徒 15:19; 新国際訳[英語]) 他方では,『モーセが安息日ごとに諸会堂で朗読される』のを長年聞いていたユダヤ人のクリスチャンの良心を尊重するものでした。 (使徒 15:21)その方針は,ユダヤ人のクリスチャンと異邦人のクリスチャンとのきずなを強めるに違いありません。 また、ユダヤ人信者が教会にいたとしても、異邦人信者に律法への配慮を求めることはほぼありません。 したがって、エルサレム会議の決定事項は、今日のクリスチャンが気にする必要のあるものでは無いのです。 なお、使徒勅令に対するこの解釈は、筆者だけでなく、今日のあらゆる聖書教師たちの間で一貫する見解となっています。 ある聖書教師の優れた注解 最後に、エルサレム会議に関する優れた注解を残している、ある聖書教師のコメントをご紹介させていただきます。 「それから、彼らは、律法としてではなく、『必要なこと』としてまとめあげた。 ・・これらのものを避けるようにというアドバイスには、ユダヤ人たちが、そのような肉を食べることが異教徒の偶像礼拝に参加することであると考えたからである。 偶像なるものは木や金属や石に過ぎない、という物事にとらわれない見方をすれば、偶像は食物を益したり、害したりするものではない。 にもかかわらず、異邦人クリスチャンは、これらのことを行う自由を捨て、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、弱い兄弟たちの良心を傷つけないのは懸命なことである。 と考えた。 血の使用の禁止についても同じことである。 これらの禁止事項は律法のもとで生活していなかった異邦人にとっては無縁なものだった。 しかし、ユダヤ人の思いには深く根ざしていた。 したがって、教会の平和を保つためには、異邦人がこれらのことを守る必要があった。 ・・・もし、彼らが争いを好まず、分裂を避けようとするのであれば、これらのことに関する事由を喜んで犠牲にしたであろう。 彼は、エルサレム会議の決定事項の意味については、それを正しく理解していたようです。 ところが、後のものみの塔協会が文脈を無視した解釈を適用したことによって、組織はますます真理から後退してしまったのです。 結論 血をたべてはならない」という旧約聖書の命令は、血を流す動物の命の犠牲が伴っている、という前提があるため、それを安易に輸血に適用することはできません。 またその点は、母乳に血液の主要成分が含まれている、という医学的な観点からも指摘することができます。 そして、エルサレム会議の決定事項は、「普遍的定め」ではなく、「ユダヤ人信者への配慮」であったことは、歴史的文脈を考慮した時に明らかです。 一連の考察から、今日のクリスチャンが、「血を避けるように」という聖書の教えを、「輸血拒否」に適用する十分な聖書的根拠は無い、と結論できます。 ものみの塔は、今でも変わらず輸血拒否を主張し続けており、毎年多くの信者が命を失っています。 なぜなら、輸血の危険性(感染症・合併症)ばかりを強調した医学的に偏った情報が、輸血拒否の正当性を補強する目的で、繰り返し信者に教え込まれてきているからです。 そのような場合は、輸血を受けて助かった人の体験談に触れて肯定的な情報を取り入れることや、「献血」という行動を通し、理解したこと体験的に知ることによって、その恐れから解放されたという事例があります。 脚注 『ものみの塔』2000年6月15日号、29-31頁「」。 中澤啓介『輸血拒否の謎』(いのちのことば社)38頁。 『エホバの証人の年間』1976年、223頁。 『ものみの塔』1961年5月1日号。 種痘とは、天然痘を予防するため、痘苗(とうびよう)を人体の皮膚に接種すること。 1796年、ジェンナーが牛痘ウイルスによる人工的免疫法を発見。 植え疱瘡。 [[7]] ただし、たとえ食べたのが「死んでいた動物」であったとしても、必要な清めを行わなければ、その人は自分の罪に対する責めを負う必要がありました。 「しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない」(レビ17:16) 一卵性双生児は、一つの胎盤を共有する場合と、そうでない場合(胎盤が二つになる)とがあります。 良かったら教えていただきたいのですが、輸血でなくても、点滴には「逆血」という現象があります。 点滴用のルートを確保すると、自分の血圧によってルート内に僅かながらでも血液が逆流する現象です。 この逆流した血液は、点滴を投与する事によって体内に戻っていく事になります。 物理的にこの逆血を0にする事は不可能なはずで、体内に戻る血液を0にする事も不可能だと思います。 そもそもルートを確保する際は、正しく血管内にルートを留置出来たか確認する時に、この逆血を利用します。 エホバの証人の方々はこの逆血についてはどう考えておられるのでしょうか。 全血輸血や自己血輸血は駄目でも、血液分画製剤や人工心肺、人工透析は受け入れる事の出来る方々もおられるようなのでそこは気にしていないという事なのでしょうか?.

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