アベベ オリンピック。 三浦雄一郎氏、東京五輪のアベベは「人間の原点」

文庫 アベベ・ビキラ: 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯 (草思社文庫)

アベベ オリンピック

1908年、ロンドン五輪の男子400メートルではたった一人の決勝が行われている 1908年、ロンドン五輪の男子400メートルではたった一人の決勝が行われている 約1500年の時を経てオリンピックが復活 近代オリンピックの第1回大会は、1896年にアテネで行われた。 貴族であり教育者でもあったフランス人のピエール・ド・クーベルタンの提唱がきっかけとなり、開催に向けて世界中のさまざまな国が賛同して始まった。 当時は世界的に植民地の奪い合いが激しさを増していた頃にあたり、1893年にはハワイ事変、1894年には日清戦争、1895年にはキューバ独立戦争などが巻き起こっていた。 教育者であったクーベルタンの狙いは、スポーツの力による教育改革を地球規模で展開すること、そして、それにより世界平和に貢献すること。 そこで古代オリンピックの終焉から約1500年の時を経て、オリンピック競技大会の復活をめざしたのだった。 古代オリンピックは紀元前9世紀頃に始まったとされている。 ギリシャを中心としたヘレニズム文化圏教にまつわる行事の一つで、全能の神ゼウスらの神々を崇めるための体育や芸術の祭だった。 古代オリンピックの歴史は長い。 第1回大会は紀元前776年に行われ、紡いだ期間は1169年間。 実に293回も開催されたと言われている。 ボクシングや戦車競走、素手ならどんな攻撃をしてもいいという格闘技のパンクラティオンなどが競技として行われていた。 たった一人で行われた決勝レース 近代オリンピックが始まってから約120年。 古代オリンピックと比べるとまだ歴史が浅いとはいえ、近代オリンピックのなかでも注目すべき出来事がいくつも起こっている。 1908年、ロンドン五輪の男子400メートルでは、前代未聞の決勝レースが行われた。 7月23日のファイナルには、地元イギリスのウィンダム・ハルスウェルの他、アメリカ人選手3名が勝ち上がり、計4選手がスタートラインに並んだ。 レースは拮抗した争いとなり、アメリカのウィリアム・ロビンスとジョン・カーペンター、そしてハルスウェルという順でゴールへ向かってきた。 最後の場面では、カーペンターとハルスウェルが先頭のロビンスを抜きにかかり、最終順位は1位カーペンター、2位ロビンス、3位ハルスウェルとなった。 ところが、審判が反則行為を指摘する。 ゴール直前のシーンで、カーペンターがハルスウェルの走路を妨害したというものだ。 これによりカーペンターは失格。 なおかつこのレースは無効の判定となり、2日後の7月25日にカーペンターを除く3選手によって再レースを実施することが決まった。 しかし、アメリカ陣営はこの判定を不服として再レースへの参加を拒否。 その結果、決勝の再レースはハルスウェル一人が走ることになった。 もちろん金メダルはハルスウェルが獲得し、銀メダルと銅メダルは該当者なしと記録されている。 2000年のシドニー五輪の水泳でも一人のレースが行われている。 100メートル自由形予選で3人中2人がフライングで失格。 水泳経験が1年にも満たないエリック・ムサンバニ(赤道ギニア)がたった一人で懸命に泳ぐ姿が多くの感動を呼んだ。 2000年のシドニー五輪では、ほぼ「水泳初級者」のエリック・ムサンバニがたった一人のレースに臨んだ 2000年のシドニー五輪では、ほぼ「水泳初級者」のエリック・ムサンバニがたった一人のレースに臨んだ サッカー王国ブラジルは母国開催で初の金 1948年のロンドン五輪には、日本人選手による「幻の金メダル」というエピソードがある。 当時の日本競泳陣には、古橋廣之進や橋爪四郎ら世界に誇るスイマーがそろっていた。 ロンドン五輪でも金メダル獲得が期待されていたものの、日本はドイツとともに、この年のオリンピックに招待されなかった。 第二次世界大戦の責任を問われたためだ。 悔しさを抑えられない日本水泳連盟の田畑政治会長は、ロンドン五輪と同時期に意図的に全日本水上選手権大会を開催する。 すると1500メートル自由形で驚きの成績が出た。 古橋は18分37秒0、橋爪は18分37秒8をたたき出し、当時の世界新記録を樹立する。 ロンドン五輪の金メダリスト、ジェームズ・マクラーレン(アメリカ)の19分18秒5大きく上回るタイムで、古橋と橋爪は「幻の金メダル」を獲得した。 1960年のローマ五輪では、一人のマラソンランナーが注目を浴びている。 裸足で走り抜いたアベベ・ビキラ(エチオピア)だ。 中間地点を過ぎて先頭集団に入り込んだ当時無名のランナーは、40キロを超えたところでラストスパートを仕掛ける。 2時間15分16秒の世界新記録を生み出すとともに、エチオピアに初めての金メダルをもたらした。 レースで履く予定だったシューズは大会直前に壊れてしまい、ローマで新たな一足を買おうとしたがどれも足に合わない。 そのため、靴を履かずに42. 195キロを走破することを決断。 子どものころから靴を履かずに走ることに慣れていた裸足のランナーは、記録にも記憶にもその名を刻むインパクトを残した。 サッカー王国のブラジルは、2016年リオデジャャネイロ五輪が実は初のオリンピック制覇だった サッカー王国のブラジルは、2016年リオデジャャネイロ五輪が実は初のオリンピック制覇だった オリンピックにおける日本サッカー界の奮闘 オリンピックの歴史という観点においては、長らくサッカー後進国だった日本の奮闘も見逃すことができない。 1936年のベルリン五輪で初めてサッカー競技に出場した日本は、1回戦で優勝候補筆頭のスウェーデンと対戦する。 ところが後半、のちに「ベルリンの奇跡」と言われるような劇的な試合を披露した。 日本はショートパスで攻撃を組み立て、後半半ばまでに同点に追いつき、終了間際に逆転ゴールをマークする。 1968年のメキシコシティー五輪では、オリンピック史上最高位となる3位に輝いた。 当時、サッカー後進国の一つだった日本にとっては文字どおり快挙と言っていい成績だ。 グループリーグ突破すら困難と見る向きもあったなか、日本はナイジェリアを下し、ブラジルとスペインとドローを演じて、1勝2分けで決勝トーナメントへと駒を進める。 エースストライカーの釜本邦茂は合計7得点を挙げる活躍で、世界中にその実力を知らしめた。 1996年のアトランタ五輪では、優勝候補と目されていたブラジルとグループリーグの初戦を戦い、大金星を挙げた。 両チームのシュート数が試合の展開をよく表している。 90分を通して日本が4本しか打てなかったのに対し、ブラジルはその7倍に当たる28本ものシュートを放ってきた。 ブラジルのゴール前にこぼれたボールを伊東輝悦が蹴り込み、決勝点をマークしたのだ。 残念ながら決勝トーナメント進出は果たせなかったものの、マイアミのオレンジボウルで演じられたこの歴史的勝利は「マイアミの奇跡」として語り継がれている。

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裸足のランナーアベベは、東京オリンピックでも裸足で走ったの?どんな生涯を送った?

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アベベ・ビキラ オリンピックの花形競技の一つ、マラソン。 この マラソン競技で2大会連続金メダルをとった「アベベ・ビキラ」というエチオピアの選手をご存知だろうか。 「裸足のアベベ」といったほうが聞いたことがあるかもしれない。 その名のとおり、裸足でオリンピックを走って金メダルをとり、世界中で有名になったアベベは、その次のオリンピックで前人未到の二連覇を果たし、まさに マラソン王者となった。 当時のマラソンランナーの目標となっただけではなく、エチオピアでは 英雄となり、名声も地位も手にいれた矢先…アベベに 残酷すぎる運命が待ちうけていたのだ。 アベベを襲った悲劇とはいったい!? 今回の雑学記事では、そんな彼の人生の一部を取り上げていこう。 どうしてそんなことになっちゃったんっすか…? 【雑学解説】マラソンの王者となったアベベは、交通事故で下半身不随になった アベベがマラソンをはじめたきっかけは、エチオピアの皇帝を護衛する 「親衛隊」に入隊したことだった。 親衛隊には身体能力の高い優秀な人材が集まり、スポーツの国際大会にエチオピアを代表して出場する選抜メンバーが多くいたようで、アベベもそのうちの一人になったのだ。 元々マラソンに興味があったわけではなく、 「除隊後に畑がもらえるから…」という理由で親衛隊に入隊したアベベ。 目立つ選手ではなかったようだが、 国内の大会で2位になり、 オリンピックに出場することになったのだ。 1960年、 第17回ローマオリンピックの男子マラソン競技に初出場し、なんとアベベは 金メダルをとってしまったのだ! しかも 裸足で…。 代表には選ばれていたものの、実はアベベ氏はトレーニング中に左ひざを痛めてしまっていたんだ…。 走れなくなったアベベ そして、アベベに 悲劇がおとずれる…。 メキシコオリンピックの半年後、アベベは 親衛隊から贈られたフォルクスワーゲンを運転中、事故をおこしてしまったのだ。 1969年3月23日の夜11時頃練習の帰り道、 カーブを曲がりきれず、道から大きく飛び出してみぞに落ちるという大事故だった。 対向車のライトに目がくらんでハンドルを切りそこねたことが、事故の原因だったといわれている。 この事故で首の第七頸椎がはずれ、 下半身不随に。 アベベは走るどころか 二度と歩けない体になってしまったのだ。 体の痛みはもちろんのことだが、走ることで栄光をつかんだアベベにとって、足を動かすことすらできないという精神的つらさを思うと、言葉を失う…。

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東京オリンピックの際に、アベベは本当にはだしで走ったのでしょうか。 2013年10月29日の読売新聞...

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第3回は、現在は人形町の寿司店で店主を務める 油井隆一さんが、 選手村食堂でアルバイトをしていた頃のことを振り返ります。 なかでも大活躍したのが 帝国ホテル新館料理長だった 村上信夫である。 NHKの「 きょうの料理」に出演し、全国に名前を知られていたシェフだ。 彼が担当した代々木選手村の 富士食堂は約1万人の選手が利用する食堂だった。 ただし、いずれもアスリートだから、食べる量が違う。 1日に必要なカロリーは6,000キロカロリーで、成人男子の平均1,800から2,200キロカロリーの、ほぼ3倍。 つまり、選手村にいる1万人に食事を作ることは、3万人の一般人に食事を用意することと同じだった。 その村上がいた選手村食堂でアルバイトをした男がいる。 油井隆一。 現在は人形町の寿司店「 喜寿司」の主人である。 油井は1964年当時、 立教大学経済学部の4年生で、ホテル研究会に所属していた。 その年の秋のこと、所属していた 立教大学ホテル研究会の先輩から「選手村食堂で働いてみないか」と声がかかったのである。 「僕だけでなく、ホテル研究会の仲間が40人くらい参加しました。 選手村食堂はカフェテリア (*セルフサービス式の食堂)だったんです。 いまでこそ、自分たちでプレートを持ち、並んで料理を取るスタイルは当たり前ですけれど、当時はそれも珍しかった。 選手村にいた日本人選手が食堂に入ってきて、まごまごしていた様子を覚えています」 「喜寿司」店主の 油井隆一さん 「料理を作るのは 村上料理長を始め、ホテルや町場のコックさんたちでしたけれど、サービスの人間が足りなかったのです。 何といっても、ホテル自体が稼働しているわけだから、多くの人数を割けない。 そこで、私たちホテル研究会の学生に白羽の矢が立ったのでしょう。 それに私たちもアルバイト目的というわけでもなかったんです。 ホテル研究会にとってはサービスの実践の場でした。 お金がもらえるというより、海外の人にサービスできるという喜びが大きかった」 ホテル協会が学生に依頼したのには理由がある。 選手村食堂は前述のようにいずれもカフェテリアだ。 フルサービスのレストランではないし、酒も出さない。 ワインのソムリエなどは必要ない。 選手はそれぞれ好きなものを選んで席に座る。 サービス係がやるのは食事が終わった選手の皿を下げたり、テーブルを拭いたり、食堂の掃除をすることだ。 だから、本職のサービスマンを動員しなくても、学生アルバイトで充分にオペレーションできたのである。 油井たちが働いた 富士食堂は24時間営業だった。 学生たちも三交替のシフトを組み、食器を下げ、テーブルを拭き、周りを掃除したのである。 油井は「楽しかったですよ」と言う。 「選手村は代々木公園のまんなかにありました。 食堂は仮設でしたけれど、総ガラス張りで高床式の建築でした。 まわりは樹木と芝生です。 陽の光が入って明るいし、風は通るし……。 アメリカ映画に出てくる大学の構内みたいな感じでした。 雰囲気のいい選手村だった。 しかも、やってくる人はすべて外国人でしょう。 詰襟の制服を着た学生が毎日、外国人に囲まれて仕事をするなんて、あの当時は夢のような話だったのです。 『 コカ・コーラ』も運びましたよ。 僕は小学生の時から飲んでいる。 ジョー・ディマジオが来日して神宮球場で試合をやった時にスタンドで飲んだことも覚えている。 それに、僕は東京オリンピックの年に船でヨーロッパに行ったんです。 ヨーロッパでは『 コカ・コーラ』を飲んだ。 シフトが終わった深夜勤務の学生とは朝食前に交替した。 朝の仕事が終わると、サンドウィッチの入ったランチボックスを用意し、それを選手に渡す。 昼の弁当を持っていく選手の数は多い。 間違ってはいけないから、実は食事サービスよりもランチボックスを用意する方がはるかに緊張したという。 夕方から夜にかけて競技を終えた選手たちが帰ってきて、夕食が始まる。 終わる時間は競技によって異なる。 サッカー、ホッケーのように競技時間が決まっている種目もあれば、走り高跳び、棒高跳びのように、誰かが勝つまで延々と続く競技もある。 そのため深夜まで帰ってこない選手もいる。 夕食は始まる時間は早く、終わる時間は遅かった。 深夜の時間帯はさすがに食堂を利用する選手はいなかったが、早朝の4時を過ぎると、練習前に食べる選手や、また、代々木公園から離れた競技会場へ出発する選手がやってきた。 世田谷の馬事公苑でやっていた馬術、八王子でやっていた自転車、戸田漕艇場で行っていたボートなどの選手は、それぞれ朝早く出発しなければならない。 朝食を食べるのは明け方になってしまう。 しかも、彼らは昼食用にサンドウィッチを持参する。 料理人、学生ともども3交替でサービスしたのだった。 村上信夫は「メダルを取るようなスポーツマンは食べ過ぎはしなかった」と語った。 なかでも 村上が感心したのが アベベだった。 「マラソンで優勝した アベベにはローマオリンピックの時にサインをもらっていましたから、代々木の選手村でも話をしました。 アベベは食事の仕方が上手でした。 野菜、果物を多く摂るのです。 満腹になるまで食べることもなかった。 唯一の気晴らしが『 コカ・コーラ』で、おいしそうにゆっくりと飲んでいました。 優秀な選手は食べ方が上手で、みんなコントロールして食べていました」 村上は選手村で アベベが食事をしている姿を陰から見ていた。 ゆっくり、しかも、コントロールしながら食べる様子に感心していたのである。 「マラソン中継は全部、見ていました。 アベベ選手の2連覇がかかっていたのですから」 優勝した日、 アベベはいつものように自転車に乗って選手村食堂にやってきた。 その夜、 村上は席まで行って、 アベベに「おめでとうございます」とあいさつをした。 アベベは「ありがとう」と言って、静かに頷いた。 村上は アベベが「 コカ・コーラ」好きなのを知っていた。 アベベが、いつも1本だけおいしそうに飲んでいたのを見ていたのである。 そして、優勝した日の夜、 村上は アベベに「宿舎で飲んでください」と「 コカ・コーラ」を6本渡した。 アベベは微笑して、もう一度、「ありがとう」と言った。 アベベは1本だけ飲みほして、あとは片手に提げて宿舎に戻っていった。 そして、学生たちが鮮明に覚えているのは 村上のリーダーシップだ。 「 村上シェフは立派でした。 決して怒ったりせずに、料理人、学生アルバイトに指示を出して……。 全部、自分でやってみせて、みんなをまとめていく。 リーダーシップとはああいうものだと思いました。 そして、これは仲間の 松田から聞いた話ですが、選手村が解散する時のことでした。 村上シェフは全国から集まった300人のコックさんに、 帝国ホテルのレシピをコピーして渡したんです。 これは考えられないことです。 帝国ホテルのレシピというのは門外不出のもの。 仮に 帝国ホテルに10年勤めてやめたとしても、レシピをもらえるなんてことはありえない時代でした。 それなのに 村上さんはコックさんたちに平等に配った。 あのことによって日本におけるレストランの西洋料理の水準は上がったと思います。 いま地方へ行くと、本格的なフランス料理を出すレストランが残っていることがある。 そのなかには、『東京オリンピックの時に 村上さんからレシピをもらった』という料理人がいるんじゃないでしょうか。 村上シェフの大英断だと思います」 選手村食堂でアルバイトをしていた 油井隆一たち 立教大学の学生は、三交替で仕事をしていたからテレビで競技を観戦した記憶はない。 むろん、国立競技場のチケットをもらったこともなかった。 「オリンピックが終わる時が僕らの仕事の終わりでもあるんです。 選手村食堂は各国の選手たちに好評だったから、料理人もアルバイトの僕らも組織委員会から表彰されました。 表彰状と記念品はいまも立教大学のなかの記念館に展示されているはずです。 僕たちスタッフだけが集まった打ち上げパーティも覚えています。 大きなケーキに『メキシコ1968』とクリームで文字が書いてありました」 それから半世紀が過ぎた。 油井はいまも人形町の 「喜寿司」のカウンターに背筋を伸ばして立っている。 「また東京オリンピックが始まるわけでしょう。 2020年ですね。 選手村食堂も必ずやるわけです。 僕はそれまで元気で働くつもりです。 そうして、皿洗いでも何でもいいから、もう一度、選手村食堂で働いてみたい。 僕だけじゃなく、『やりたい』と言っている元気なやつが20人はいるよ。 早稲田大学卒業。 出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。 著書に『 キャンティ物語』『 食の達人達』『 プロフェッショナルサービスマン』『 高倉健ラストインタヴューズ』『 トヨタ物語』などがある。 『 TOKYOオリンピック物語』で ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。 *連載「東京オリンピックと『 コカ・コーラ』」.

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