ハイカラ カラ と は 何 の こと。 バンカラ

ハイカラとは?意味・語源・英語・明治時代&現代のはいからさん

ハイカラ カラ と は 何 の こと

の学生(2007年) 典型的な様式としては 弊衣破帽がある。 これは、着古し擦り切れた(=弊衣)・・(=破帽)・、腰に提げた、(=散切り頭に対するアンチテーゼ)などを特徴とするスタイルで、を中心としたの生徒が流行の発端である。 粗末な衣装によって「表面の姿形に惑わされず真理を追究」という姿勢を表現したものとされている。 また、ハイカラのアンチテーゼとしてのバンカラはにも通じ、「単に外見の容姿のみに留まらず、同時に内面の精神的なものも含めた行動様式全般」とも理解されていた。 つまり外見に無頓着な体裁とそれを正当化するための動機が複合した文化であると言え、単に粗末・粗野なだけの恰好を バンカラと呼ぶわけではない。 ハイカラ大学(、、、、)とは対照的とされる。 変遷 [ ] その一方で、単に粗にして野な上、卑であるに過ぎないといった「バンカラの形骸化」は早くから指摘されており、幾度となく弊衣破帽を排する教育方針をとる学校が現れた。 戦後、衣料品の質が向上するにおよび、最早自然形成された弊衣破帽は望むべくもなく、着古しにより自然な弊衣破帽が生成されるのを待たず人為的に衣服を傷めて着用する者や、古着を求める者が横行し、単なる服飾流行となった。 近年は「 番カラ」の誤記も散見されるように、少年漫画における不良少年、特にの記号(弊衣破帽はに明け暮れる結果と誤解)に変質した。 現代でも戦前からの伝統校にはが詰め襟制服や和服を着用することもあるが、近年では真新しい服としている例も多い。 なおとして、下駄による登校や男子の長髪を禁止する文言が残っていることがあるが、応援団の活動に支障が出ないように「登校時」に禁止としていることもある。 では1950年代にバンカラ精神が失われているとして「精神昂揚会」というサークルが設立されている。 バンカラな校風で知られた学校 [ ] 国公立大学 [ ]• 私立大学 [ ]• 省庁大学校 [ ]• 高等学校 [ ]• のの一部。 には現在もバンカラの風習が残されており、やなどが特に著名である。 題材としている作品 [ ]• (漫画: )• 、 、、、(漫画: )• 、、、(漫画: )• (漫画: )• (映画: )• (漫画: )• (歌: )• (随筆:) 脚注 [ ]• 夏目漱石『彼岸過迄』(1912年)より (二十一) 「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。 上はハイカラでも下は蛮殻(ばんから)なんだから」と千代子が笑った。 (二十二) 彼女は改めてまた彼の半袖姿を見て笑いながら、「とうとう蛮殻(ばんから)になったのね」と評した。 関連項目 [ ]• この項目は、に関連した です。 などしてくださる(・)。

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ハイカラとはどういう意味?具体的な使い方や、ハイカラを感じれる場所を紹介!

ハイカラ カラ と は 何 の こと

最近ではあまり耳にしなくなった言葉ですが、皆さんはご存知でしょうか? 筆者は、ハイカラという言葉はもちろん聞いたことがあるし、今聞くとなんだか懐かしいような、そんな印象も受けます。 頭の片隅にあった言葉を引っ張りだされたような…そんな感じもしちゃいますね。 筆者の場合、ハイカラという言葉を聞いて思い出されるのが、『はいからさんが通る』なんですよね。 今の若い人は、知らない人が圧倒的に多いかな?笑 『はいからさんが通る』はマンガなのですが、筆者が覚えているのは南野陽子さん主演で放映された映画なんです。 小さい頃の事なので記憶は曖昧で、内容もあまり覚えていません。 でも、ハイカラという言葉を聞いて連想されるのがこれってくらい、題名だけはとても記憶に残っています。 今調べてみたら、映画の公開は1987年。 筆者が7歳の頃でした。 テレビアニメにもなっていたり、単発ドラマとして何度か放送されているようで、2002年にはモーニング娘。 の皆さんが演じる形でもドラマ化されたよう。 もしかしたら、それを知っている!という人も多いかもしれませんね。 また、なんとなく色鮮やかな服装などをハイカラっていうのかな?って…その程度。 この機会にぜひ皆さんも、ハイカラについてお勉強しておきませんか? ️ハイカラの意味って? 最近ではあまり聞かないし、知らない人も多いのではないかと思うハイカラという言葉。 まずは、この言葉の意味から確認していきましょう。 西洋風を気取ったりしている人やその様を、ハイカラと表現するということですね。 また、流行を追ったり、目新しいものを好んだりする人やその様に対してもハイカラという言葉が使われるようです。 この意味で言えば、今でも流行の服を着ていたりする人をハイカラだと言えそうですが…今はそんな言い方はしませんよね。 筆者が記憶にある映画が放映されたのは1987年だったわけですが、原作であるマンガは、1975年からマンガ雑誌に連載されていたそうで、筆者が生まれる前のこと。 その当時はまだ、流行のことをハイカラと言っていたのかもしれませんね。 でも、そもそもこのマンガの舞台は大正時代。 この時代背景に、ハイカラという言葉が生まれたヒントも隠されているみたいですよ。 その由来を知ると、今の時代に西洋風なことや流行のことに対してハイカラを使うのは、やはりちょっとズレているのかもしれないなって思います。 だからこそ、今は使われなくなったのだろうなって…。 その時代だからこそ生まれた言葉であって、その時代だからこそぴったり当てはまる言葉ってありますもんね。 つまりハイカラも、時代背景が大きく関係している言葉だということです。 ハイカラという言葉は、言葉の意味だけを知っておくよりも、由来を知ることの方が重要になるようです。 そのほうが、ハイカラという言葉の意味も的確に捉えることが出来そうですよ。 明治時代は、「幕末・明治」とも言われ、日本の歴史上においても大きく流れが変わった、時代の転換期なんですよね。 長く政権を握ってきた江戸幕府が政権返上をし、天皇を中心とした新しい体制が築かれて始まったのが明治時代。 西洋文化がどんどん日本に入ってきて、近代化が加速していった時代でもあります。 因みに…皆さんは、映画『ラストサムライ』はご覧になりましたか?この映画は、明治初頭、ちょうどこの時代の転換期が舞台になったお話でしたよね。 時代に取り残されている侍達と、近代化を進めようとする日本が描かれていて…この映画をイメージすると、ハイカラという言葉が生まれた背景も、分かりやすく見えてくるような気がします。 日本文化と西洋文化が入り乱れていく日本。 その中で、ハイカラという言葉も生まれていったのです。 石川半山がつくった ハイカラという言葉にも生みの親がいるそうで、それが石川半山(本名:石川安二郎)という人。 石川半山は、明治大正時代に生きた、ジャーナリストであり代議士だった人のようです。 筆者は全く存じ上げなかった人ですが…。 石川半山がハイカラという言葉を発信したのは、毎日新聞の紙面の『当世人物評』の中。 今でいうと、「メガネ派コンタクト派」「甘党辛党」のように、傾向や流儀を表わす言葉としてハイカラという表現方法を発明したのだそうですよ。 つまり、ちょんまげのことです。 ハイカラーが省略されて、ハイカラになっていったという訳ですね! 明治時代、西洋風の文化が入ってきて、着る服も洋装へと変化していきました。 その時に流行った高襟が特徴的で、西洋風の象徴として捉えられていたんですね。 もちろん対比するちょんまげも、西洋文化から見たらとても特徴的なもの。 今でこそ洋装中心となり、ちょんまげの人がいたら逆に違和感を感じますけど、当時はまだその狭間にいたということが、よく分かりますよね。 石川半山が書いていた『当世人物評』は辛口な文章だったそうで、つまりハイカラア党もチヨン髷党も、揶揄表現として生み出されたのだそうです。 筆者が記憶にある『はいからさんが通る』は、明治の後、大正時代が舞台となっていますから、この物語の中ではすでに、肯定的な意味合いとしてハイカラが使われていたのだと思いますし、筆者もそう記憶しています。 でも、カラーは襟のことだったんだって 笑 しかも、主に男性を表現する言葉だったんだって思うと、ハイカラの意味を全然分かっていなかったんだなぁって、自分の無知さ加減に恥ずかしくなっちゃいます。 誕生当初のハイカラの意味 ここまでもお話してきたように、ハイカラは日本古来の文化と西洋文化が入り混じっていく最中に生まれた言葉。 先ほどもお話したように、ハイカラという言葉を発明した石川半山は、ハイカラを揶揄表現として使っていたわけで、褒め言葉でも何でもなかったんですよね。 言葉って、時代の変化と共に意味合いが変わっていくことも大いにあります。 特に時代を反映させた言葉は、その時代が過ぎれば使われなくなっていくこともある。 それに、使われ方が変化していったりもするんですよね。 このハイカラという言葉が生まれた時代背景を考えても、今の時代に生まれた私たちの感覚では思いもよらないような、様々な意味合いが込められていることが分かります。 それに、ハイカラという言葉の使われ方の変化と共に、人々の価値観が変化していったことも、ハイカラという言葉ひとつから想像出来てしまいますよね。 皮肉っぽい意味だった ハイカラという言葉が誕生した当初は、揶揄表現のひとつ。 つまり、皮肉を込めた言葉でした。 明治時代は、時代が入れ替わっていく中で、西洋帰りの人や西洋文化の服装を好む人が、少しずつ増えていきました。 でも当然、その姿を受け入れられない人も大勢いたんですよね。 だって、それまでの日本は着物が主流、少し前までちょんまげ姿の侍がいた時代だったのですから。 そういった西洋文化やその考え方を受け入れられない人にとっては、海外の文化に侵されていくことへの反発心や、目新しいものへの怖れなんかもあったのでしょうね。 そんな気持ちの人達にとっては、自国の文化を捨てて西洋文化に洗脳されていく人達を、冷ややかな視線で見ていたはずです。 その心理が、ハイカラという皮肉を込めた表現が生まれるキッカケにもなっていったのだと思います。 日本人なのにハイカラーのワイシャツなんか着て、すっかり西洋風を気取っている輩達だと…。 西洋かぶれ つまり、「西洋かぶれ」だという皮肉を込めた表現が、当初のハイカラの意味だったんです。 「すっかり西洋風にかぶれちゃって」と、冷ややかな視線を送っている人の方が、最初は多かったということですよね。 一方西洋にかぶれていたハイカラな人たちは、きっと時代の最先端を行っているんだって、自慢げに思っていたのではないでしょうか。 この気持ちも分からなくはないですよね。 今ではすっかり洋服が主流になった日本ですが、それでもまだまだ、海外の文化への憧れの気持ちを持つ人がいますよね?自国の文化よりも、海外の人気モデルやセレブのファッションやライフスタイルを真似る方がオシャレ!なんて感覚を持っている人が多いと思います。 今でいう海外文化に憧れている人たちが、明治時代で言えばハイカラな人だったのでしょう。 ただ当時は、目新しいものをどんどん取り入れる人たちのほうが少数派。 今でこそ形勢逆転して、日本古来の文化を守ろうとする人たちのほうが苦労していますが、当初は変化を嫌う人のほうが多かったわけです。 今の日本でももしかしたら、日本古来の文化を守っている人たちは、すっかり西洋風に取り込まれた私たちを、冷ややかな目で見ているのかも?しれませんよね。 キザったらしい そして西洋かぶれの人たちは、キザッたらしい人達とも思われていたようです。 ハイカラは、そんな意味としても使われていたわけです。 「西洋風を気取っちゃって、キザッたらしい!」と…。 キザというのは、その気取った態度や言動が不快感を与える場合に使われる言葉です。 キザな人は今でも嫌われますが、ハイカラという言葉が生まれた当時は、西洋かぶれの人達が総じて、不快に思われていたということです。 このことからもやはり、明治時代当初は、西洋風なことを受け入れられない人が多かったということが分かりますよね。 また、キザというのは男性に使われる言葉ですから、ハイカラは元々は男性に使われる言葉だったということも分かります。 これもやはり、時代と文化が入れ替わっていく、明治時代だからこその意味合いなんですよね。 今では、新しい文化をどんどん取り入れていくことは、むしろ良いこと。 でもハイカラという言葉が生まれた時代は、西洋文化に取り込まれていくのを、嫌がった人のほうが多かったことが想像出来ます。 そんな中、西洋にかぶれていき、むしろ気取っている男性たちは、軽々しい人達にも見えたのでしょう。 自国の文化や伝統をあっさり捨ててしまうその姿勢は、武士道精神からも外れてしまっているのではないか。 日本人としての美学は持っていないのか…と。 軽薄にさえ見えてしまったことは、何となく想像出来ますよね。 この転換期のことを想像するとやはり、『ラストサムライ』が思い浮かんできちゃいます。 ラストサムライとして生きた人たちが貫き通そうとするサムライスピリットや、それでも敵わない時代の流れの中での葛藤。 日本人の血が流れている私たちとすれば、少なからずその精神は受け継いでいるし、ハッとさせられることも多い映画でしたよね。 もしその中に自分がいたのなら、きっと西洋かぶれの人を、ハイカラだと揶揄する側に居たような気がします。 今で言う、「神ってる」とか「ディスる」とかと似た表現かな?と思います。 皮肉を込めた言葉だったわけで、馬鹿にもしていますけど、「ハイカる」なんて言うと、何だか愛着も沸いてきそうな表現ですよね。 それも、時代の変化と共に少しずつ、ハイカラが受け入れられてきたからなのかもしれませんよね。 すっかり西洋にかぶれた今の日本では、洋服を着た人をハイカラとは呼ぶのはおかしなことになってしまいますが、明治という激動の時代の人々の、心の奥底を表現するにはふさわしい言葉なんですよね。 時代が日本文化から西洋文化へと取って代わっていくとともに、次第に皮肉を込めた言葉から、近代的で華麗などの肯定的なニュアンスの表現として使われていくようになったんです。 そして、ハイカラという言葉が使われなくなっていった背景には、すっかり近代化して洋服が主流となった、今の日本の姿があるんですよね。 死語と言われてもいるハイカラですが、この言葉は今も、その時代を表わす言葉として時々登場し、古い激動の時代を呼び起こすキッカケをくれているようにも思います。 そして今、ハイカラという言葉が使われる場合には、皮肉という意味は全くと言っていいほど無いのだと思います。 むしろ、とても良いニュアンスの言葉として使われているんですよね。 そんな現在の「ハイカラな…」というと、どんな意味合いになるのでしょうか。 オシャレな 現在、ハイカラという言葉には、オシャレという意味合いがあります。 とはいえ、お洒落な人に今「ハイカラだね」と言っても、ちょっと変な感じになってしまうと思いますけどね 笑 ハイカラが、現在オシャレの意味と言われているのは、きっと大正時代の名残なのでしょう。 明治時代は揶揄表現として発信されたハイカラですが、大正になる頃には肯定的な意味で使われるようになります。 西洋文化を取り入れ、時代の最先端を行くお洒落な人。 主にそんなニュアンスで使われるようになった大正時代のイメージのまま、今もハイカラというと、オシャレという意味になるのでしょう。 もしくは、今も残る明治大正時代あたりのデザインなどに対しては、「ハイカラなデザインだね」というと、しっくりくる褒め言葉になるかもしれません。 レトロな また、現在ハイカラという言葉を使うシーンとして、特にしっくりくるのはレトロという意味合いで使うことなのではないでしょうか。 レトロとは、懐古的や、懐古趣味など、古い時代や物を懐かしんだり、好んだりすることです。 今現在から言うと、昭和30年代とかの時代をよく、レトロなんて言いますよね。 古い時代を懐かしむという意味合いで言えば、本来その時代を知っていることが前提です。 でも、見聞きして知っていたり、現在とは違う古き良き時代のものに興味があったりする場合にも、その時代を生きたわけでは無くても、なんだか懐かしい感じがするものですよね。 やっぱり、先祖代々受け継がれる魂のようなものがあるからなのかな? 古いけど懐かしい、そしてそれが、今はオシャレに映ったりもする。 そういったものをレトロと表現するのですが、特にそれが明治や大正時代のものであれば、ハイカラという言葉を使ったほうがぴったりなのかもしれません。 ハイカラという言葉ひとつから、時代背景やその時代に生きた人の心の奥まで見えてくる。 言葉って、本当に面白いですよね! 現在では、会話の中では登場しなくなったハイカラですが、そんなハイカラを感じられる場所というのがあるのです。 明治大正、昭和初期などの、古き良き時代。 そんな時代を感じられたり、懐古的になれたりする…そんな場所が日本各地に残っているんですよね。 今回ハイカラという言葉の背景を知っていく中で、その時代に触れてみたい!ハイカラをもっと知りたい!と思った方も多いのではないでしょうか?筆者はこの記事を書きながら、ハイカラな場所や物に触れてみたい気持ちが沸いてきました。 というわけでここからは、ハイカラを感じられる場所についてご紹介していきたいと思います。 観光スポットとしても有名ですよね! 筆者は何気にまだ行ったことがないんです。 でも、ちょっと懐かしい時代の風情を感じられるのが、浅草ですよね。 有名な雷門や浅草寺、その周辺には日本古来の良き時代を感じさせる空気が、そこかしこに残っているのでしょう。 近代化と、古き良き時代が入り混じっている雰囲気も、まさにハイカラが使われた時代のイメージにもぴったりなのではないでしょうか。 浅草には人力車なんかもあったりしますしね。 懐古的になれる場所の代表と言ってもいいのかも。 三菱財閥岩崎家の本邸として、明治29年に建てられたのだそうです。 今、その敷地の広さは当時の3分の1になっているそうですが、今でもその敷地内に3棟が現存しているそうです。 そのうちのひとつである洋館は、近代日本住宅を代表する西洋木造建築なのだそう。 写真で見ても、繊細なデザインや装飾は、おしゃれでいてどこか懐かしい雰囲気を感じさせます。 明治時代に建築された、ハイカラな建物だったわけですね!一見の価値あり。 ぜひ筆者も行ってみたいです。 東京都・旧古河庭園 旧古河庭園も、今は観光名所のひとつとなっているようですが、かつては古河虎之助男爵の邸宅。 大正8年に建築されたそうですよ。 こちらもハイカラの時代の建築物なんですね! 古川虎之助は、実業家だったそう。 男爵なんてつくところからも、時代を感じさせますよね。 旧古河庭園は、今は国有財産となっていて国の名勝に指定されているのだそうです。 一般公開もされていて、バラの名所ともなっているそうなので、ハイカラな建物と共に、バラの庭園も楽しみたいですね。 写真で見る限り、シックでオシャレな洋館。 そして何より西洋庭園と日本庭園が同居していて、見ごたえのある庭園になっているようです。 他にも見所が沢山あって、興味深い場所です! 北海道・函館 ハイカラを感じられる場所としては、函館は有名かもしれませんね。 観光スポットとしても皆さんが知る場所ですから、行ったことがあるという人も多いのでは?そういう筆者は憧れつつもまだ行けていません。 函館と言えば五稜郭が有名ですよね。 しかしながらどんな場所なのか、筆者はよく分かっていませんでした。 五稜郭こそ、ハイカラという言葉が生まれた激動の時代を見守ってきた、まさにその場所ということなんですね。 その歴史は江戸末期から始まり、江戸幕府が築造したのだそう。 その後江戸幕府が崩壊し、箱館戦争の中心地になったそうです。 開国から幕末、そして現在まで時代の流れを見守ってきたわけです。 五稜郭を訪れる際には、歴史をしっかり勉強していった方が、より楽しめそうですね。 そして函館には、明治時代や大正時代に建築された建物が、街並みの一部として、多く現存しているというのも魅力のひとつとなっているようです。 それらがカフェとして利用されていたりもして、古き良き時代の建物の中で、時代に想いを馳せながら…ゆっくりお茶を飲んだり出来るのも楽しみのひとつとなりそうですね。 福岡県・門司港 ハイカラを感じられる場所は、北九州にも! 門司港は、門司港レトロとして観光スポットにもなっていて…レトロになっていますけど、ハイカラという名にふさわしい場所になっています。 ここにも人力車がいまして、人力車に乗って観光案内してもらっちゃいましたよ 笑 門司港は、名前の通り港なわけですが、この港が開港したのが明治初期なのだそう。 当時は日本の三大港として数えられていたのだそうですよ。 このエリアには、明治から大正にかけて作られた建物が現存し、ハイカラな雰囲気がそこかしこに漂っていました。 レトロ…いやハイカラな建物が沢山あり、街全体が懐かしくもありおしゃれな雰囲気。 もはや古いというより、お洒落!そんな言葉がぴったりな街並みでした。 筆者はもちろん行ったことはありませんが 笑 異人館が立ち並ぶ街並みは、異国情緒が漂う街として有名ですよね。 異人館街が作られたのも明治の頃だそう。 開港してから来日外国人が増え、居留地が必要となり整備を行ったそうです。 外国人の居留地は一定の区域内に限られていたため、異人館街として外国人用住宅が集まることになったというわけです。 ですが、こうして整備され建築された異人館の多くは、太平洋戦争による空襲で失われていったのだそう。 そんな中でも戦火を免れた一帯があり、それが今も異人館街として建物と共に残されているというわけです。 戦火を免れて残った異人館は、本当は今よりも沢山あったそうですが、高度成長期のビルやマンションの建設用地として壊されたものも多かったそう。 歴史的建造物として残す意識があったなら、もっと多くの異人館が残っていたのかもしれませんね…。 そんな時代を経て、異人館がようやくスポットを浴びるようになったのは1975年。 その後NHK連続テレビ小説の舞台としても取り上げられたことで、観光地として人気になっていったんだそうです。 激動の時代を見守ってきて、かろうじて生き延びることが出来た建物たち。 異人館はとても貴重なものなんですね。 そんな異人館ですが、今では結婚式が行われたりすることもあるようで、異国情緒あふれるハイカラな雰囲気の楽しみ方も、広がりを見せているそうです。 異人館が建てられた時代、そしてその後の激動の時代に想いを馳せながら、異人館めぐりをしてみたいものですね!.

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「ハイカラ」とは?株の一日信用取引の仕組み、手数料を解説

ハイカラ カラ と は 何 の こと

「ハイカラ」 の由来についてまとめたエッセイです。 由来だけ手っ取り早く知りたい人は下のほうまで飛ばして読んでね。 私はわざと古い言葉を使ってボケるときがあります。 ただ、このボケも面白いところがあって「ちょっと厠 かわや 行って来ます」も同年代が相手だと、「おまえフッるいなぁ~。 ありえへんぞ。 」苦笑 となりますが、もしおばぁちゃんが相手だと、普通に「あ~行ってらっしゃい。 」となるわけです。 更に、「腰巻におしっこついてもうた」と言ってみたなら、「おいおいバッチいなぁ~。 ていうかお前、男だし。 いやその前にまたまた古っ」とノリのいい関西人の友人なら突っ込んでくれることでしょう。 中でも私のお気に入りの言葉は、「ハイカラ」。 ハイカラとは、目新しく西洋的でしゃれていること。 またそのような様。 西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、事物などを表す言葉です。 西洋気取りの軽薄な人というニュアンスを含むこともあるそうですが、これはきっと武士道の重んじられた時代に、すぐにそれを捨てる人に対する嘲笑の意味もあったのでしょう。 もちろん「ハイカラ」とは服装などのことを言うことが多いはずで、身だしなみに敏感なのはいつの時代も女性のほうであったことでしょう。 私の「ハイカラ」は、やはり「はいからさんが通る」であり、時代として南野陽子さんの映画でありました。 「はいからさんが通る」(はいからさんがとおる)は、大和和紀による日本の漫画作品で、「週刊少女フレンド」(講談社)に1975年7号から1977年10号まで連載。 これを原作として製作されたアニメおよび映画、舞台、テレビドラマが多数あります。 大正時代、「はいからさん」こと花村紅緒(はなむら べにお)は跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘。 ひょんなことから知り合ったハンサムで笑い上戸の青年将校である伊集院忍(いじゅういん しのぶ)が祖父母の代からの許嫁と聞かされます。 忍に心ときめくものを感じながらも素直になれない紅緒は必死の抵抗を試み、て数々の騒動を巻き起こすといった物語。 この物語から推測すると、「ハイカラ」は服装はもちろんのこと、文明開化の時代に物事がお洒落で時代の最先端である生き方そのものを指し、それまでの女性の立場、生き方の変化を象徴した言葉なのかもしれませんね。 対極は「やまとなでしこ」でしょうか。 今の時代なので、私はどちらかといえば後者のほうが好みです。 当時、西洋から帰国した人や西洋風の文化を好む人が高い丈の襟のシャツを着ていたことから意味が転じて生まれました。 ハイカラーは明治時代の男子洋装の流行であったそうです。 毎日新聞の石川半山が紙面の「当世人物評」において1899年~1900年(明治32~33年)頃から「ハイカラア派」「ハイ、カラア党」などと使い始めたのが流行のきっかけだといわれています。 いつの時代も同じですね。 新聞、雑誌は流行を作りたがります。 また、当時は「ハイカル」という動詞も同時に生まれました。 「おまえ、ハイカッてんなぁ~」みたいな渋谷のギャル男のノリかもしれません。 「ハイカった人」などのようにも用いられたそうです。 袴や襦袢、白衣にフンドシから大きな変化を迎えた時代です。 それを受け取った当時の人々は困惑したのでしょうか? 私はその便利さに心揺れながら、世間の動向を見つつ流行を迎えた瞬間一気に染まっていったのではないかと推測します。 その根拠として、機能性、耐寒性、フィット感を挙げます。 着物は重ね着などの融通が利きにくく、色で遊ぶこともままならないですからね。 それでも日本人の記録・記憶として、その必要性は否定しません。 その価格もピンきりの幅が広く、特に冠婚葬祭での気品の高さは揺るぐことがなく重宝されます。 しかし、現在ではズボンにシャツにパンツにジャケット、西洋の服装が当たり前となっています。 日常着としてはやはり、西洋に分があるといえましょう。 それと共に「ハイカル」も「ハイカラ」も死語になってしまいました。 それでも私は90近いおばあちゃんとコミニケーションをとるために 「そのシャツハイカラだね。 」 「出かける前に厠によったら?」 「今日は髪結いさん乗せていこうか?」と声をかけるのでした。 一言コメントする メールアドレスは公開されません。 一言コメント You may use these HTML tags and attributes: ニックネーム 上に表示された文字を入力してください。 (スパム対策).

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