ディエン ビエン フー の 戦い。 ディエンビエンフーの戦い

ディエンビエンフーの戦い

ディエン ビエン フー の 戦い

志願兵のままで軍隊に残り、下士官のときサン・シール陸軍士官学校に入学。 このため他の将校より遅れて昇進し、大尉になったのが38歳のとき。 ド・ラ・クロワ・ド・カストリ家は、先祖にルイ15世の元帥と海軍大臣だった人物があり、家系のなかに陸軍元帥1人、海軍大将1人、副総督が4人、聖霊騎士団の騎士が5人、陸軍中将が8人、という名門の武門の家系 クリスティアン・ド・カストリの馬術の技術は超一流で、第2胸甲騎兵連隊中尉のとき、1933年度高障害世界選手権を獲得、2年後には飛越の世界選手権をも得た 第2次世界大戦後、のちのインドシナ派遣軍総司令官になったナヴァール将軍の下で、カールスルーエでの大演習に参加。 この時のド・カストリの大胆な作戦展開は、ナヴァール将軍の激賞するところとなる。 1953年11月20日、ディエンビエンフーの占領が完成するが、その司令官になり手がなかった。 1953年11月30日、タイピンの飛行場で、ナヴァールはド・カストリにディエンビエンフー司令官への昇進を告げる。 12月7日零時、ド・カストリ大佐がディエンビエンフーの司令官に公式に任命された しかしヴェトミン軍の攻撃の前に、途中から指揮権を放棄し、ラングレ中佐とビジャール少佐の2人の将校が戦闘の指揮を行っている。 それでも、4月15日、ド・カストリは准将に昇進する。 ラングレが大佐に、ビジャールが中佐に昇進している) 1954年3月12日〜5月8日 第1次インドシナ戦争末期の1954年3月から5月にかけて戦われた同戦争中、最大で最後の戦い。 インドシナ戦争での劣勢に悩むフランスは、ベトナム軍とラオスの革命勢力との連携を遮断するとともに、ベトナム人民軍主力をおびき出して殲滅する事を目的として、1953年11月、タイ族などの少数民族が居住するラオス国境に近いベトナム西北部の盆地ディエンビエンフーに、要塞の建設を開始し、1954年3月には、40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵力1万6200名から成る大要塞を完成させる。 この地は、南北に細長い盆地であり、最北端のガブリエル陣地と最南端イザベル陣地とでは、10キロも隔たっていたが、東西は狭く6キロ程度で、要塞はそれぞれ女性の名が冠せられたいくつもの陣地から成り立っていた。 1953年11月20日、ハノイを発進したフランス軍落下傘部隊が、小規模のヴェトミン兵が守備するディエンビエンフーに降下し、すぐにフランス軍の手中に陥ち、その後11月下旬には、まず第1外人落下傘連隊がこの盆地に送り込まれ、補修された旧日本軍のディエンビエンフーの飛行場に、後続部隊を乗せた輸送機が連日のように飛来し、作戦開始数週間のうちに、ディエンビエンフーのフランス軍総兵力は、1万名を超し、最終的に17個歩兵大隊中、7個大隊がフランス外人部隊となった。 これに対し、ヴェトミンの兵力は、ディエンビエンフーに集中されていき、ヴェトミン軍の第304、第308、第312、第316の4個師団が投入され、盆地周辺の丘陵には密かに陣地が構築されていった。 1953年12月末、偵察中の第1外人落下傘大隊が、初めてヴェトミンの待ち伏せ攻撃を受け、12月28日には、北部峡谷を視察中のド・カストリ司令官の参謀長ギュット中佐が、砲火を集中されて戦死する。 ヴェトミン軍による包囲網は急速にフランス軍陣地に迫り、1954年3月12日、ボ・グエン・ザップ将軍率いるヴェトミン軍は主滑走路への砲撃を始めディエンビエンフー攻略を開始する。 フランス軍の予想を超えた盆地周囲の山上からの砲撃のもと塹壕で接近を図り、複合陣地を順次攻め落としていった。 ディエンビエンフー要塞の東北方面にはベアトリス陣地があり、この陣地を指揮していたのが、フランス外人部隊第13准旅団長のゴーシェ中佐で、当初滑走路に砲撃が加えられていたが、3月13日17時過ぎには、ベトナム軍の砲撃がベアトリス陣地に集中され始め、ヴェトミン軍は保有していないと思われた105ミリ榴弾砲による砲撃が始まり(ヴェトミン軍が、1949年に中共軍が中国大陸を制圧すると、ヴェトミンへの軍事援助の質が改善し、ソ連製の対空機関砲や、国民政府軍から捕獲したアメリカ製の105ミリ砲もヴェトミン軍は保有していた)、ゴーシェ中佐は戦死。 夜零時過ぎにベアトリス陣地は陥落した。 このゴーシェ中佐は、1945年の日本軍による仏印処理の際、第5外人歩兵連隊の第1大隊を率い、雲南へ脱出 当時は大尉)し改編された部隊を率いて1946年インドシナに戻った人物。 1954年3月15日の早朝から、第1外人落下傘大隊の2個中隊、第5ヴェトナム人落下傘大隊によるフランス軍の反撃も開始されたが、失われた拠点の奪回はできず、その後も第3外人歩兵連隊の1個連隊が守備するラレーヌ陣地(アンヌ=マリの陣地の一角)が大激戦の末、陥落 3月25日)。 他の陣地を守備するフランス軍の中のタイ族部隊やヴェトナム兵部隊、またアルジェリア兵やモロッコ兵などの植民地兵や現地兵たちの戦意は低く、実際にフランス軍の戦力として残ったのは、外人部隊とフランス軍落下傘部隊になり、その外人部隊兵の多くは、前の大戦でのフランスの敵国だったドイツの軍人たちだったといわれる。 1954年4月に入ると、滑走路の一部はヴェトミンが占領し、フランスがおさえていたハノイから送られる増援部隊と物資の補給は空からの落下傘によるしか手段がなくなってしまう。 4月9日から10日の夜半、第2外人落下傘大隊の700名強が、リーゼンフェルト少佐に率いられ、クロディーヌ陣地に降下する。続いて第3外人歩兵連隊や第5外人歩兵連隊からの志願者が落下傘降下の経験がないのに数百名夜間に初降下する。 雨期のため水浸しの塹壕陣地での悲惨な戦いが続けれらたが、ついに1954年5月7日のヴェトミン軍による総攻撃により、最南端のイザベル陣地以外の全要塞が陥落。 5月8日の午前中、ド・カストリ将軍の司令部にヴェトミン兵が突入し、ド・カストリ以下1万人近くが捕虜となって戦いは終結し、4月26日に始まったジュネーブ会議の行方に大きな影響を与えた。 この戦いではフランス軍の損害は、戦死行方不明が2700名、負傷4400名であり、その3分の1以上が外人部隊で、一方、ヴェトミン軍の損傷は、戦死7900名、負傷1万5000名に上ったといわれる。 *引用参考文献 (柘植久慶 著) 『ベトナムの事典』 同朋舎、1999年).

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愛と戦火の大地

ディエン ビエン フー の 戦い

1955 アメリカ 監督:デヴィット・バトラー 出演者:ジャック・セルナス、ペーター・ヴァン・アイク、クルト・カッツナー、パット・ブレイクほか 93分 モノクロ JUMP INTO HELL 1954年、インドシナのディエン・ビエン・フーを巡るベトミンとフランス軍の戦いを描いた戦争アクション映画。 当事国ではないアメリカが制作したもので、ややヒーローアクション的要素があるものの、比較的シリアスな佳作である。 ディエン・ビエン・フーの戦いは植民地支配国であるフランスが大敗を喫した歴史的な戦闘だが、「 1992仏 」「 2004越)」など数は決して多くない。 前者は著名な作品だが、後者はちょっとピントはずれな作品である。 そういう意味でも貴重な作品だが、何と言っても制作年が1955年と実にリアルタイムなのが興味深い。 戦闘の考証がまだなされているとは思えない時期で、ストーリーや設定的にはいささか?な箇所もあるが、それを超越する新鮮さがそこにはある。 ディエン・ビエン・フーの戦いは1954年3月に行われた激戦で、フランス植民地インドシナ(現ベトナム領内)のフランス軍防衛拠点であるディエン・ビエン・フーを巡ってベトミンと 57日間の戦いを行っている。 ベトミンはフランス軍の防衛拠点を包囲して補給線を絶ち、フランス軍は危険な空輸に頼らざるを得なくなっていく。 基地内には多くの外人傭兵を含む約16,000名が駐屯し奮戦するが、圧倒的な人海戦術に勝るベトミンの大攻勢により多くが戦死し捕虜となった。 その問題点にはフランス軍上層部の無能さと政治的・外交的ミスなど色々あるのだろうが、ディエン・ビエン・フーの戦いでは孤立無援で玉砕覚悟の奮戦が光っている。 この戦闘は自由陣営対共産陣営の戦いでもあり、ベトミンの支援に中国人民軍将校やソヴィエト軍兵器が描かれている。 この辺りは朝鮮戦争で苦渋をなめたアメリカの反共産的な意味合いが強く表れている様な気がする。 ストーリー的にはやや設定が甘い箇所が多いのが気になる。 防衛拠点の状況や、追加派遣のシステムや理由がややわかりづらいので、緊迫感にやや欠ける。 また、登場する主役級の兵士は4人のフランス人士官で、個々の兵士らの性格付けはなかなか面白い設定ながら、いざ戦場となると心情描写が中途半端になってしまい、ラストに向けての心情移入がしずらかった。 さらに、最前線での緊迫した雰囲気という点では、主たる兵士である外人傭兵が余り登場せず、フランス人士官との互いの考え方の違いや確執はほとんど描かれていないのが残念。 それに加え、アメリカ映画らしく意味のないラブロマンスを絡めてしまっているために、ストーリーの盛り上がりや起承転結のバランスが悪い。 内容的には玉砕覚悟の鬼気迫る奮戦なだけに、かなりもったいない感じがした。 映像はモノクロでちょっと見にくい箇所もあるが、戦闘シーンは米軍所有と思われる実機が登場するなど迫力はある。 記録映像も入っているかも知れないが、グラマンF8Fベアキャット、C-47スカイトレイン輸送機、C-124グローブマスターII輸送機、シコルスキーH-19ホワールウインドヘリなどの航空機のほか、M4シャーマン戦車も登場している。 このあたりの兵器類は実際にインドシナ戦争で使用されていたようだから、映像的にはかなりリアルなのだと言えよう。 作品のトータル的な出来具合から言うと、まあまあなのだが、その評価以上に本作はレア性を持ち合わせている。 ディエン・ビエン・フーでのフランス軍の大敗を違った角度から見ることが出来る作品なのであった。 前線でフランス軍のダーブレイ大尉は捕虜を捕らえてハノイの司令部に送る。 尋問の結果、うち一名がベトミン第17対空連隊付の中国人民軍の中尉であることが判明する。 彼はベトミンのザップ将軍ら4万人が囲んでいることを語り、フランス軍の内部についての情報も持っており、内通者がいることがわかる。 内通者はアジア系の傭兵タック中尉で、タック中尉は「腐ったリンゴ作戦」として空中から敵陣に落下傘効果させられる。 いよいよ大攻勢が迫っていることがわかり、兵員増派のためディエン・ビエン・フー最前線の指揮官クリスチャン・デ・カストル大佐はボネ少佐に命じて、4名の士官を写真持参で呼ぶように命じる。 フランス軍の前線防衛拠点はそれぞれ女性の名前が付けられていたのだ。 フランス本国で事務についていたガイ・ベルトラン大尉は、第二次世界大戦の復員兵だったが、ドイツでの捕虜生活を2年送っただけだった。 インドシナ派遣の情報を聞き、自ら志願する。 ハノイには恋人のジゼルがいたのだった。 ベルトラン大尉は米軍機に乗りハノイに向かうが、途中で小太りで美しい妻のために志願したジャン・カロ大尉、モロッコで軍隊経験があり恋人のジャクリーヌを置いてきたハインリッヒ・ヘルマン中尉、全くの未経験だが共産主義に怒りを覚えるアンドレ・モーパン中尉が合流する。 ハノイでは敵の攻撃により着陸時に炎上。 危険なために荷物だけが先に前線のディエン・ビエン・フーに降りる。 そこで開けられた荷物の中から妻のジゼルの写真が出てきてボネ少佐は驚く。 ハノイ司令部では増派部隊の落下傘降下を決定。 4人も迷わず志願する。 その晩ベルトラン大尉はジゼルと会うのだった。 落下傘降下では敵の攻撃を受け、カロ大尉が肩に軽い負傷を負う。 ベルトラン大尉はモネ少佐と面会し、口論となる。 モネ少佐は妻を愛していないのに離婚せずにいるのだ。 カロ大尉は救護所で瀕死の負傷兵リゴールを見て、自分の怪我が恥ずかしくなる。 モーパン中尉は早速孤立した拠点マドレーヌへ救援に行くことに。 モーパン中尉は拠点に着くもマドレーヌのダーブレイ大尉は重傷を負っていた。 モーパン中尉は機転をきかせてなんとか脱出に成功する。 敵の大攻勢を前に運よくモンスーンが来る。 しばらくの間時間を稼ぐことが出来るのだ。 この奮戦により大佐以下の12,000名に戦功十字章が与えられ、大佐にチャーチルやアイゼンハワーから電話が入り、准将に昇進する。 お祝いに空輸でシャンパンを届けさせるが、敵陣に落ち、なんとか取り戻す。 准将のいる基地内にフランス兵に化けた偽物のベトナム人が潜入。 爆弾を仕掛け銃撃してくるが、ヘルマン中尉が身を張って爆弾を処理し、准将は助かる。 ヘルマン中尉はレジオン・ド・ヌール勲章を得る。 また、献身的な軍医リロイ大尉にも名誉勲章が与えられる。 基地内の水不足が顕著になり、基地の外に水を確保する任務にカロ大尉が志願する。 カロ大尉の妻シモーヌは浮気をしており、それを知ったカロ大尉は死亡保険の受取人を妻から、死んだ兵士リゴールの6歳の娘の名義に変えようとする。 それが昇任されるためには書類が無事に基地からハノイに届くことが必要であった。 カロ大尉は水を汲みに行くが撃たれて死亡する。 死に際に書類を乗せたヘリが飛び立っていくのを確認する。 ボネ少佐の隊は孤立し、ボネ少佐は降伏しようとする。 しかし、敵に撃たれて負傷。 ベルトラン大尉がそれを救出するが、基地に着いたときには事切れていた。 いよいよベトミンの大攻勢がはじまり、掘られたトンネルから次々に出てくる。 拠点は次々に陥落し、最後の抵抗を続けるのだった。

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ヴェトナム戦争

ディエン ビエン フー の 戦い

ラオスとの国境の山に囲まれたこの盆地の街が、世界史に名を残すことになったのは、 1954年、この地でベトナム軍がフランス軍を奇跡的に打ち破ったからです。 第1次インドシナ戦争で、劣勢に悩むフランスは、この地に落下傘兵を中心とした精鋭部隊のたてこもる要塞を築きました。 この地を選んだのは、フランスがベトナムの所持しない航空機を駆使できること、ベトナム軍とラオスの革命勢力との連携、補給路を遮断できるからでした。 目的は、ベトナム人民軍主力をおびき出して全滅させることでした。 フランスは、ベトナム側には要塞攻撃可能な大砲がない、あっても山岳地帯まで多数の大砲を運ぶことは困難、盆地の山の傾斜角度から山の向こう側からの射撃は不可能だとベトナム人民軍の力量を軽視したのです。 しかし、ヴォー・グエン・ザップ将軍率いるベトナム人民軍は、車の通れないような険しい山道を、自転車による補給部隊や山岳民族等の協力を得て武器や物資を運びあげました。 そしてフランス軍に数倍する兵力と優勢な火砲を要塞周辺に集結、隠蔽することに成功しました。 フランス軍は 56日間の悪戦苦闘を余儀なくされ、ついに 1954年 5月 7日、フランス軍は降伏し、カストリ司令官を含む 16,200名が捕虜となります。 こうしてベトナムは、歴史的な勝利を勝ち取ったのです。 現在見学用に整備されている陣地跡は、D1の丘、A1の丘、ド・カストリ司令部です。 その他、戦争関連の見学地として、博物館や戦没兵士墓地、橋などがあります。 (以下の写真は、2012年9月1日、2日に撮影。

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