キャンディーズ 年 下 の 男の子。 年下の男の子 (キャンディーズの曲)

年下の男の子 キャンディーズ [ニコニコあっぷる]

キャンディーズ 年 下 の 男の子

解説 [ ]• デビュー以来、で歌唱していたキャンディーズが、テレビ出演等ではスタンドマイクで歌唱した。 この曲でキャンディーズは、1975年末の『』に正式な紅組歌手として初出場を果たした。 キャンディーズ初のヒットとなり、トップ10に初めてランクインした。 解散コンサート時点でのシングル売上は累計50万枚(CBS・ソニー調べ)。 当初は「私だけの悲しみ」がA面用、「年下の男の子」がB面用として製作されたが、発売時には「年下の男の子」がA面、「私だけの悲しみ」がB面となった。 「年下の男の子」「私だけの悲しみ」ともに4月リリースのアルバム『』に収録された。 「年下の男の子」にはドラムスに、ベースにを起用した没バージョンが存在する。 デビュー曲の「」から前曲「」まで、リードボーカルはがセンターだったが、この「年下の男の子」からがリードボーカルを務め、歌唱する位置もセンターに変更する。 なおスーはランの向かって右位置に、はランの左位置にそれぞれ移り、以降キャンディーズの三人はこの位置でほぼ定着となった(但し「」はミキがセンター、ランは向かって右に、スーは左に移動)。 公開の、が舞台の映画『』では、物語のキーとなる楽曲として使用され、シングル盤も小道具として登場。 サントラ()にも収められた。 2019年にソロ活動を再開した伊藤蘭が発売したソロデビューアルバム「My Bouquet」には「ああ私ったら! 」(作詞・作曲:)が収録された。 また、伊藤が出演した『』(2019年7月24日放送)ではのとと、『』(2019年12月30日放送)ではとともに「年下の男の子」を披露した。 収録曲 [ ]• 全作詞: 作曲・編曲:• 年下の男の子• 私だけの悲しみ 参加ミュージシャン [ ] 年下の男の子 [ ]• - カバー [ ] 年下の男の子• (1994年、最終クールED曲)• (2002年、アルバム『The BEST HOTCH POTCH STATION』)• (2004年、アルバム『COVER GIRL』)• 2005年、アルバム『One sweet day』• (2007年、アルバム『Cover Song Dolls』)• (2012年、アルバム『アイドルKAY』)• (2016年、カバーアルバム『恋愛小説2〜若葉のころ』に収録) すたーふらわー盤 [ ] 「 年下の男の子」 の リリース 2012年8月1日 2012-08-01 規格 録音 チャート最高順位• 62位() シングル 年表 年下の男の子 (2012年) に、(・)の1枚目のとしてから発売された。 初回限定盤には「年下の男の子」のPVが収録されたPV付き。 収録曲 [ ]• 年下の男の子• ファイトっ!!! 年下の男の子(カラオケ)• ファイトっ!!! (カラオケ) スタッフ [ ]• プロデューサー:貝原一平 FlyingStar Racords• レコーディング:阿部博 stdio fine• ミキシング:コバヤシタカシ High Kick Entertainmant• マスタリング:川崎洋 FLAIR• 振り付け:宮間祐佳 宝映テレビプロダクション講師• プロダクトコーディネート:松本文 High Kick Entertainmant• デザイン:佐藤雅恵 High Kick Entertainmant• スタイリング:植田瑠里子 Corazon• ヘアーメイク:平塚美由紀 MASHmanagement• カメラ:羽田誠 Koike Office ・伊藤信之 High Kick Entertainmant• 小林星蘭マネージャー:佐古田修平 テアトルアカデミー• 谷花音マネージャー:豊嶋稔 テアトルアカデミー• プロモーション:Victor Entertainment Promotion Staff• セールスプランニング:赤塔直美 Victor Entertainment• デスク:佐藤智子 FlyingStar Racords ・相生卵壁 テアトルアカデミー• 週間11位(オリコン)• 概要 [ ]• 振り付けは原曲でも振り付けを担当したに教わった。 初回限定盤には、「年下の男の子」のPVとメイキングが収録されたDVD付き。 収録曲 [ ]• 年下の男の子• Survival 作詞:森月キャス、作曲:大西克巳、編曲:THE ROG• 年下の男の子(Instrumental) ジャケットBにのみ収録。 Survival(Instrumental) ジャケットBにのみ収録。 Teamキャンディーマキアート ここだけの話!!! ジャケットCにのみ収録。 週刊 62-65頁 早世のマドンナたち• 、、2011年4月21日23時0分。 大本の出典は『』1978年4月5日付。 キャンディ・ベース. 現実になったビジョン. 2005年5月10日時点の [ ]よりアーカイブ。 2008年1月27日閲覧。 オリコンニュース 2019年5月28日• 音楽ナタリー. 2016年4月4日. 2016年7月5日閲覧。 「」、「」を含めた場合、8・9・10作目。 ただし、いずれの数字も「Music Ribbon」イベント無料配布シングルである「Celebration 〜Music Ribbon ver. 〜」は含んでいない。 2013年11月24日. 2013年12月3日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年11月28日閲覧。 関連項目 [ ]• ファーストコンサート〜超絶少女が止まンないっ! 〜 - 2. - 6.

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キャンディーズショー2

キャンディーズ 年 下 の 男の子

解説 [ ]• デビュー以来、で歌唱していたキャンディーズが、テレビ出演等ではスタンドマイクで歌唱した。 この曲でキャンディーズは、1975年末の『』に正式な紅組歌手として初出場を果たした。 キャンディーズ初のヒットとなり、トップ10に初めてランクインした。 解散コンサート時点でのシングル売上は累計50万枚(CBS・ソニー調べ)。 当初は「私だけの悲しみ」がA面用、「年下の男の子」がB面用として製作されたが、発売時には「年下の男の子」がA面、「私だけの悲しみ」がB面となった。 「年下の男の子」「私だけの悲しみ」ともに4月リリースのアルバム『』に収録された。 「年下の男の子」にはドラムスに、ベースにを起用した没バージョンが存在する。 デビュー曲の「」から前曲「」まで、リードボーカルはがセンターだったが、この「年下の男の子」からがリードボーカルを務め、歌唱する位置もセンターに変更する。 なおスーはランの向かって右位置に、はランの左位置にそれぞれ移り、以降キャンディーズの三人はこの位置でほぼ定着となった(但し「」はミキがセンター、ランは向かって右に、スーは左に移動)。 公開の、が舞台の映画『』では、物語のキーとなる楽曲として使用され、シングル盤も小道具として登場。 サントラ()にも収められた。 2019年にソロ活動を再開した伊藤蘭が発売したソロデビューアルバム「My Bouquet」には「ああ私ったら! 」(作詞・作曲:)が収録された。 また、伊藤が出演した『』(2019年7月24日放送)ではのとと、『』(2019年12月30日放送)ではとともに「年下の男の子」を披露した。 収録曲 [ ]• 全作詞: 作曲・編曲:• 年下の男の子• 私だけの悲しみ 参加ミュージシャン [ ] 年下の男の子 [ ]• - カバー [ ] 年下の男の子• (1994年、最終クールED曲)• (2002年、アルバム『The BEST HOTCH POTCH STATION』)• (2004年、アルバム『COVER GIRL』)• 2005年、アルバム『One sweet day』• (2007年、アルバム『Cover Song Dolls』)• (2012年、アルバム『アイドルKAY』)• (2016年、カバーアルバム『恋愛小説2〜若葉のころ』に収録) すたーふらわー盤 [ ] 「 年下の男の子」 の リリース 2012年8月1日 2012-08-01 規格 録音 チャート最高順位• 62位() シングル 年表 年下の男の子 (2012年) に、(・)の1枚目のとしてから発売された。 初回限定盤には「年下の男の子」のPVが収録されたPV付き。 収録曲 [ ]• 年下の男の子• ファイトっ!!! 年下の男の子(カラオケ)• ファイトっ!!! (カラオケ) スタッフ [ ]• プロデューサー:貝原一平 FlyingStar Racords• レコーディング:阿部博 stdio fine• ミキシング:コバヤシタカシ High Kick Entertainmant• マスタリング:川崎洋 FLAIR• 振り付け:宮間祐佳 宝映テレビプロダクション講師• プロダクトコーディネート:松本文 High Kick Entertainmant• デザイン:佐藤雅恵 High Kick Entertainmant• スタイリング:植田瑠里子 Corazon• ヘアーメイク:平塚美由紀 MASHmanagement• カメラ:羽田誠 Koike Office ・伊藤信之 High Kick Entertainmant• 小林星蘭マネージャー:佐古田修平 テアトルアカデミー• 谷花音マネージャー:豊嶋稔 テアトルアカデミー• プロモーション:Victor Entertainment Promotion Staff• セールスプランニング:赤塔直美 Victor Entertainment• デスク:佐藤智子 FlyingStar Racords ・相生卵壁 テアトルアカデミー• 週間11位(オリコン)• 概要 [ ]• 振り付けは原曲でも振り付けを担当したに教わった。 初回限定盤には、「年下の男の子」のPVとメイキングが収録されたDVD付き。 収録曲 [ ]• 年下の男の子• Survival 作詞:森月キャス、作曲:大西克巳、編曲:THE ROG• 年下の男の子(Instrumental) ジャケットBにのみ収録。 Survival(Instrumental) ジャケットBにのみ収録。 Teamキャンディーマキアート ここだけの話!!! ジャケットCにのみ収録。 週刊 62-65頁 早世のマドンナたち• 、、2011年4月21日23時0分。 大本の出典は『』1978年4月5日付。 キャンディ・ベース. 現実になったビジョン. 2005年5月10日時点の [ ]よりアーカイブ。 2008年1月27日閲覧。 オリコンニュース 2019年5月28日• 音楽ナタリー. 2016年4月4日. 2016年7月5日閲覧。 「」、「」を含めた場合、8・9・10作目。 ただし、いずれの数字も「Music Ribbon」イベント無料配布シングルである「Celebration 〜Music Ribbon ver. 〜」は含んでいない。 2013年11月24日. 2013年12月3日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年11月28日閲覧。 関連項目 [ ]• ファーストコンサート〜超絶少女が止まンないっ! 〜 - 2. - 6.

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キャンディーズ「年下の男の子」の振り付けを覚えたいのですが、DVD...

キャンディーズ 年 下 の 男の子

メンバー [ ]• (は ラン、(30年) - )• (愛称は ミキ、(昭和31年) - )• (愛称は スー、(昭和31年) - (平成23年)) 略歴 [ ] デビュー当時 [ ] キャンディーズのメンバーは、3人ともの出身。 最終選抜で3人が選ばれたが、彼女ら以外にやのボーカルであったコニーもいた。 (47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組から「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。 3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。 しかし『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。 松崎が音楽学院の担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。 (昭和48年)に「」で歌手デビュー。 またデビュー前からは、人気『』にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。 デビュー当時のメインボーカルは、当時最も歌唱力が高かった田中が起用された。 人気歌手へ [ ] だが当時のである諸岡義明が、3人の中で伊藤だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「」で方針を転換。 「お姉さん」的の伊藤をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又でも初のベストテン入りを果たした。 翌(昭和51年)発売の「」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。 その後1977年(昭和52年)にも「」「」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばす。 それ以降のシングルでは、「」が藤村のセンターである以外、全て伊藤がセンターを務めた。 その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ! 全員集合』や、『』などのバラエティ番組でまでこなす積極的な出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。 キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したとは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。 それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、田中となどはとても仲がよかった。 セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで怪物とまで呼ばれたピンクレディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあってバラエティへの対応力など活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的な形で70年代末のアイドルシーンを牽引した。 人気絶頂時の解散 [ ] しかし1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如を発表する。 同年、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、3人は涙を流しながら、伊藤が「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」、藤村が「ごめんなさい」、田中が「許してください」と、それぞれファンに対して謝罪。 それから「私たち、今度の9月で解散します」と突然の解散宣言。 そのとき伊藤が泣き叫びながら発言した「 普通の女の子に戻りたい! 」は非常に有名になり、当時にもなっている。 翌日の午後、キャンディーズは銀座メイツ において緊急記者会見を行い、また同日夜には系列『』へ生出演の際、改めて陳謝する。 当初3人は、2か月後の同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に渡辺プロの正式な了承を得ずに発表したこともあり、渡辺プロからの説得と話し合いの末、解散はその後約半年間先送りされることになった。 この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「」では、最初で最後のオリコン1位を獲得する。 それまでのシングルが1位を獲得したことが無かったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった(後述)。 キャンディーズは解散によって、さらに人気を盛り上げたと言える。 (昭和53年)、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め 、マスコミが歌謡界史上最大のショーと呼び、日本でも『』以来2例目となるお別れコンサート(『ファイナルカーニバル』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。 センター寄りの観客席からはセカンドベース後方に設置された舞台の様子が見えず26インチ程の街頭テレビが幾台か設置され観客はそれを見つつ公演を堪能した。 なお、後楽園球場でコンサートを開いたのは女性歌手(グループ)において、キャンディーズがはじめてである。 この模様は3日後のにTBS系列で全国に録画収録でテレビ放送され、32. 最後に述べた「 本当に私たちは、幸せでした!! 」の口上も有名。 コンサートの最後に歌われた「」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌へのとして伊藤が作詞したものである。 歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。 なお、解散直後もTBSテレビ『』内では「微笑がえし」が引き続きランクインしたため、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがテレビ出演をしたことがある。 解散後 [ ] 解散後は一度も再結成を行わなかった。 ただし、プライベートでは時々3人で集まっていたという。 伊藤は、(55年)に芸能界へ復帰。 ・のと(元年)に結婚し、の母となる。 現在は女優・などでも活動中である。 (元年)にアルバム『My Bouquet』(マイ・ブーケ)をリリースし、キャンディーズ解散以来41年ぶりにソロ歌手としてデビュー、ソロ・コンサートを東京と大阪にて開催。 田中は、1980年に復帰後、主に女優として活動。 その間一時ソロ歌手として、音楽活動も行いシングル「カボシャール」などをリリース。 (平成3年)に結婚(夫はの兄)。 (平成23年)4月21日にのため55歳で死去。 藤村は、(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰、春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表。 にも取りあげられ、『ザ・ベストテン』に「今週のスポットライト」で出演、日本テレビ『』で10位にランクインしスマッシュ・ヒットとなった。 間もなく結婚して以降芸能界の表舞台は出ていなかったが、2011年4月に田中の葬儀に出席、28年ぶりに公の場へ姿を現した。 3児の母。 年表 [ ]• (47年): 『』のマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)として「キャンディーズ」誕生• (昭和47年): 『』の冒頭で、多数のスクールメイツメンバーとは別の色の衣装を着て舞台中央で踊る。 またが歌唱した『』でバックコーラスを務めた(出場歴に数えず)。 出場者入場時に画面に流れたテロップに、「スクールメイツ」と並んで「キャンディーズ」とクレジットされていた。 (昭和48年): 『』のアシスタントとしてレギュラー出演• (昭和48年): 「」でレコードデビュー(当時のメインボーカル・センター位置は田中が担当)• (昭和49年)3月: で初出演• (昭和49年): 代々木・で初(800人)• (昭和50年): シングル「」リリース・初の大ヒットで9位を記録(メインボーカル・センター位置を同曲以降田中から伊藤に交代)• (昭和50年): 「年下の男の子」で初出場• (昭和51年): シングル「」リリース・オリコン3位を記録• (昭和51年): 『キャンディーズ10000人カーニバル Vol. (昭和51年): 「春一番」で『』出場(通算2回目)• (昭和52年): でコンサート中、突然の宣言• (昭和52年): NHK『 墓場の島』で歌手役でゲスト出演する• (昭和52年): シングル「」リリース(メインボーカル・センター位置は藤村が同曲唯一の担当)• (昭和52年): 「」で『』に出場(通算3回目、最後の紅白出演)• (昭和53年): シングル「」リリース・初のオリコン1位を達成(付)• (20年): 跡地に建つにて『全国キャンディーズ連盟2008大同窓会』開催(参加者2000名)• (平成23年): 田中が乳癌により死去• (平成25年): キャンディーズの伝説的コンサートである『ファイナルカーニバル』をほぼ完全収録した「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」が、Sony Musicから5枚組で限定販売された。 オリコン音楽DVD週間チャートで初登場第1位を獲得した。 (CDジャーナル)• (平成28年): 「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」のDVD発売を記念して、東京・赤坂BLITZにてフィルムコンサートが実施された。 (平成30年): 解散40周年を記念して、ファン主催による「キャンディーズ・フォーエバー ~伝説から40年~ ファン・全員集合!」が旧後楽園球場にほど近い水道橋WORDSにて行われた。 イベントは寄付金でまかなわれ、「キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM」のフィルムコンサートが無料で開催された。 (読売新聞2018年4月5日) ディスコグラフィ [ ] シングル [ ] 発売順 A面タイトル 発売日 作詞 作曲 編曲 備考 1 1973年9月1日 デビュー曲、当時センター(メインボーカル)は田中が担当 2 1974年1月21日 山上路夫 森田公一 3 1974年4月21日 森田公一 竜崎孝路 4 1974年9月21日 穂口雄右 穂口雄右 5 1975年2月21日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右 センターを伊藤に変更、キャンディーズ初のBEST10入り 6 1975年6月1日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右 7 1975年9月1日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右 8 1975年12月5日 森田公一 竜崎孝路 9 1976年3月1日 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右 アルバム『』収録の人気曲をシングル化。 既発ヴァージョンとヴォーカルが別テイクになっている 2 キャンディーズ・デラックス 1975年 06月 01日 24 「年下の男の子」を含む2枚組 3 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1975年版- 1975年11月 01日 12 「その気にさせないで」「内気なあいつ」収録 4 Best of Best キャンディーズのすべて 1976年 06月 01日 24 「春一番」「ハートのエースが出てこない」を含む2枚組第2弾 5 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1976年版- 1976年11月 01日 12 「ハート泥棒」「夏が来た! デビュー20周年記念作品 2 CANDIES HISTORY 〜Best Selection Box 1973-1978〜 1998年 09月 09日 第2回「10,000人カーニバル」の未発表LIVE音源、 未発表曲「暑中お見舞い申し上げます Part 2」(「暑中お見舞い〜」の別作曲ヴァージョン)などを収録。 デビュー25周年・解散20周年記念作品 3 CANDIES PREMIUM 〜ALL SONGS CD BOX〜 2004年 06月30日 デビュー30周年記念作品 4 2008年 09月 03日 スタジオ・アルバム10作、LIVE3作、『1676日』の新録盤を最新マスタリングし、 『ヒット全曲集(1974)』をSACDで初CD化。 全作ともで復刻。 未発表曲「霧のわかれ」を収録。 デビュー35周年・解散30周年記念作品 5 キャンディーズ伝説 CD-BOX 2008年12月11日 96 スクール・メイツ時代の楽曲 [ ]• 愛するハーモニー(アナログシングル盤) (1972年)• 作詞:長恭子/作曲:R. Davis, R. Greenaway, R. Cock, W. Backer/編曲:森岡賢一郎• B面「夜明けの海へ」• コカ・コーラCM曲。 ベスト・オブ・スクールメイツ~若いってすばらしい(CDベストアルバム) (2002年8月24日)• 上記二作のジャケット写真に、伊藤蘭・藤村美樹・田中好子・太田裕美が写っている。 キャンディーズの曲をカバーした歌手 [ ] CDとして発表されたもののみ。 C n-dols(あなたに夢中、年下の男の子)• (あなたに夢中、危い土曜日、そよ風のくちづけ)• (あなたに夢中)• (あなたに夢中)• (あなたに夢中、暑中お見舞い申し上げます)• (あなたのイエスタデイ)• Unity Crew(危い土曜日、アンドゥトロワ、その気にさせないで、そよ風のくちづけ、年下の男の子、夏が来た! 、ハートのエースが出てこない、春一番、微笑みがえし、やさしい悪魔)• (危い土曜日)• 、、(危い土曜日 ) - 『』エンディングテーマ• (アン・ドゥ・トロワ、やさしい悪魔) - 作曲者自身による• (銀河系まで飛んで行け!)• (銀河系まで飛んで行け!)• (暑中お見舞い申し上げます)• (暑中お見舞い申し上げます)• (その気にさせないで)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (年下の男の子)• (ハートのエースが出てこない)• (ハートのエースが出てこない)• (春一番)• (春一番)• (春一番)• (春一番)• (春一番)• (春一番) - ミニアルバム『』収録• マキ凛花(微笑がえし) - DJ SASA with ISLAND LOVERS『ザ・ベストテンレゲエ』収録• (やさしい悪魔)• (やさしい悪魔、ハートのエースが出てこない)• (やさしい悪魔)• (やさしい悪魔)• (春一番、アン・ドゥ・トロワ) - アダルトゲームおよびOVA『』主題歌• The Nolans(年下の男の子、ハートのエースが出てこない、やさしい悪魔英語カバー) ビデオ・DVD [ ]• キャンディーズ CANDIES FOREVER 後楽園球場ファイナルカーニバルライブ1978. 1982年発売。 二重紙箱製、オールカラー16頁小冊子封入付属。 キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM(DVD)- 5枚組DVDボックス。 ディスク1はレッツゴーヤング、ひるのプレゼント(ともにNHK)、ディスク2は夜のヒットスタジオ(フジテレビ)、キャンディーズ カーニバル Vol. 2(1976年10月11日・蔵前国技館での公演で現存する24分間)、ディスク3には8時だョ!全員集合、歌のグランプリ、ザ・ベストテン(全てTBS)での楽曲を収録。 ディスク4と5には、解散コンサート「キャンディーズ ファイナル・カーニバル For Freedom」を初めて全曲収録。 2015年11月4日発売。 主な出演作品 [ ] テレビドラマ [ ]• 第3話「㊙ギャー! 恐怖の狼男あらわる!! 第3部・第2話「墓場の島」(1977年11月26日、) - 原作。 演じる主人公の人気歌手、戸部竜作が突然引退を決意。 舞台上でマネージャーを出し抜き引退宣言をするかどうか最後まで迷うという内容のこのドラマの中で当時人気絶頂であったキャンディーズが出演。 彼女らが歌う姿が数回はさまれる。 バラエティ番組 [ ]• () - レギュラー (1973年4月 - 1977年9月)• (TBS) - レギュラー (1975年4月 - 1976年9月)• 解散1年!! 特写・キャンディーズ最近の素顔(1979年4月4日、TBS) 音楽番組 [ ]• 歌謡グランドショー() - レギュラー (1972年4月 - 1973年3月)• (NHK) - レギュラー(1976年4月 - 1977年10月)• BSエンターテイメント わが愛しのキャンディーズ(2006年7月17日、NHK-BS2)• (1974年12月28日、松竹)• (1975年8月2日、松竹)• (1975年12月27日、松竹) ラジオ [ ]• 全員集合」終了後にTBSホールへ移動するため、出番は23時ごろからであった。 (、1975年10月 - 1976年4月) - レギュラー• (文化放送、1976年6月 - 1978年4月) - レギュラー• キャンディーズ情報局(日本短波放送、1976年7月2日-) - レギュラー CM [ ]• 旭化成工業(現・)「レオナ66」(1974年・75年)• 「シャインリップ」(1976年)• 「キャンディーズ・ステージオンマイク」(1976年)、「キャンディーズ・フラッシュマイク」(1977年)• ハウス食品工業(現・)「ククレカレー」(1976年・77年)、「ククレミートマーボ」(1977年)• 「チョコフレーク」(1976年)、「チョコスナックトリオ」(1976年)、「ラブチャット」(1976年)、「チョコぼうし」(1976年)、「チョコモナカ」(1977年)、「森のどんぐり」(1977年)• 東京電気化学(現・)「TDK『D』」(1977年)• (現・)「」(後の通称「かもめ〜る」)(1977年) ミュージカル [ ]• 青春の真中 (1974年12月24日、東銀座・中央会館。 クリスマスコンサート『クリスマス・イヴの調べ 〜 白いコンサート』の第1部の中で披露された約30分のミニミュージカル)• 春一番 〜 スタンバイOK (1976年3月29日 - 31日、)• ROCKY (1977年7月17日 - 8月31日、・・日本劇場・他。 コンサートツアー『サマージャック'77』の中でのミニミュージカル。 エピソード [ ] キャラクター [ ]• 全盛期当時、既に大学生世代であったメンバーではあるが、週刊誌の対談などではであることを強調していた。 1960年代のアメリカで始まり、1970年代に日本にも伝播してきたフリーセックス(性別からの解放運動)に対するだったという。 3人それぞれのイメージに関しては、のが『』誌上で連載していたエッセイ「男性自身」において「私はスーちゃんを妻にし、ランちゃんを恋人にし、ミキちゃんを秘書にしたい」と評していた。 の著書には「ランは気丈なタイプ、スーはおっとりしたタイプ」と書かれていた。 各仕事によりかなり違ったキャラクターを見せていた。 歌番組やゲスト出演では、お行儀の良い優等生的アイドルらしく、清潔感のあるハキハキした受け答えをすることが多かったが、ラジオ番組ではくだけた言葉遣いで、台本どおりとは言えも口にするなどかなり弾けたキャラクターの一面を見せていた。 バラエティ番組では体当たりでコントに徹するコメディエンヌぶりも厭わず発揮し、番組関係者からの評判も良かった。 コンサートでは、客席に向かって「皆さん、ノってくださーい!」「楽しんでいますかー?」と言った具合に、砕け過ぎない丁寧な言葉を使っている。 これは下積み時代からの方針である。 特にわざわざ会場まで足を運んでくれるファン(お客様)に対し、一期一会の気持ちで礼を尽くすよう教育され、本人たちも納得していたという。 唯一例外として、後楽園球場における『ファイナル・カーニバル』の後半のMCで少々くだけた口調になっていた。 最終公演も半ばを過ぎ、緊張が解けてリラックスしたためだという。 3人は公私ともに非常に仲が良い。 仕事で常に一緒の行動が多いグループなどでは、宿泊先のホテルの部屋を別にしてもらい、個人の時間を確保する向きが多い中、キャンディーズの3人は一緒に過ごす環境を望んでいたという。 ツアー中のホテルではツインルームにエクストラ・ベッドを入れてもらい、同じ部屋で寝ていたという。 休日も一緒に過ごすことが多く、まれに連休が取れると、3人で旅行に出掛けた(3人に加え、友人も同行することがあった)。 インタビューなどで「ケンカをしないのか? 」「ずっと一緒でイラついたり、ストレスを感じることはないのか?」という質問に、伊藤は「2人の気持ちが分かりすぎるから」と答え、藤村は「感情的に姉妹以上になっている」と語っている。 「現在でもプライベートでたまに集まる事がある」と田中が2006年・2007年のテレビ番組で、伊藤がラジオ(2007年)で語っている。 伊藤の夫の水谷豊が『』に出演した際、「現在でも年に数回は3人で集まって、食事や会話をよくしている。 ただし、3人揃って外出することは不可能だから、集合場所はいつも決まって水谷家」と話している。 に田中が死去した際も2人は病室に駆けつけ、最期を看取ったという。 衣装 [ ]• 同じ事務所に所属していた、双子のから着用した舞台衣装をされたことがある。 その際、同じデザインのものをもう1着作成し、3人分揃えてくれた。 感激したキャンディーズはその衣装を身に着けてステージに立ったことが幾度もある。 のは『ファイナルカーニバル』の際の藤村の衣装の制作を手伝っていた。 コンサート [ ]• 当時のコンサートでは客席から多数の紙テープが投げられていた。 ファンはキャンディーズが怪我を負わないように、予め紙テープの芯を抜いていたが、それでもステージ上に大量に蓄積された紙テープが足に絡まり、細かい切り傷が絶えなかったという。 『ファイナルカーニバル』の舞台となったは当時大型モニターがなく、客席のほとんどからキャンディーズの3人は点状にしか見えなかったが、このライブはもともとキャンディーズの最後を目に焼き付けるというよりは、ファンも一体となって完全燃焼する趣旨が強く、まさに「 カーニバル」の名に相応しいものであった。 また、同球場には天井が無かったため、場外でも歓声ははっきりと聞き取れた。 『ファイナルカーニバル』においては入場できなかったファン数万人が球場を取り囲み、球場内から漏れる音声を伝手に一緒に歓声をあげていた。 当然こうなることは事前に予測できたため、主催者側はカーニバルのプログラムを予め警察に提出していた。 ところが実際の進行が予定より大幅に押してしまったため、警察は主催者側に幾たびも予定時間内に終わらせるよう指示を出した。 そのため、公演後半に予定していた楽曲「」は、現場での判断により、やむなくカットされてしまった。 解散までの期間に全国をコンサートツアーした(『ありがとうカーニバル』)。 これはいわゆる解散記念興行であり、これは後のを始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行はのが最初と言われる。 を参照)。 リリースするレコードも、刻々と迫る解散を視野に入れた内容になっていった(「わな」はその例である)。 この時、ずっとメインボーカルの機会がなかった藤村に、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。 ファン [ ]• 日本初の、全国組織型「」(「全キャン連」)を持ったアイドルとしても知られる。 アイドルのコンサートで行われているの原形もメジャーなアイドルの中ではキャンディーズが元祖である。 デビューから数曲の間は『8時だョ! 全員集合』等で新曲を披露しても殆どメンバーの名前などを叫ぶコールがなかったが、「」辺りからコールが激増した。 所属のであるはキャンディーズの大ファンであり、伊藤がお気に入りだったことを公言しており、キャンディーズの曲を熱唱したことが報じられたこともある。 解散後女優に転向した田中が死去した際には「 本当の同時代を生きた私たちの青春そのもの。 大事な友達を亡くしたような思いだ」とコメントした。 なお、に行われた朝霧高原バスツアーの際に撮影された記念写真において、の隣に若き日の石破が写っている、という話がで語られているが、該当の写真に写っている人物は別人である、と石破本人が否定している 当該記事の中で石破は「 コンサートには行っていません。 僕は陰からそっと見守るほうだった」「 私はミキちゃんですね」と答えている。 『ファイナルカーニバル』で見られた「男性の群集が号泣する」というシーンは、当時としてはショッキングな現象と見られている。 1978年付『』では、解散コンサートの記事で「集団で、しかも人目をはばからずに泣くなんて、キミたち、どういう育ち方をしてきたんだい!? 」とも記していた。 1980年12月27日、映画「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(マドンナ役:伊藤蘭)と、「土佐の一本釣り」(主演:田中好子)が二本立てで封切りされた。 上映館には往年のキャンディーズファンが多く来場し、話題になった。 1978年4月4日の『ファイナルカーニバル』から30年の時を経て、当時の代表的なファンであった全国キャンディーズ連盟の有志が、解散当時キャンディーズのマネージメントをしていた・現相談役に協力を要請し、2008年4月4日に『』と銘打って、約2000名の参加者の下、記念の地である後楽園球場の跡地に同年3月オープンしたにて、フィルムコンサートが開催された。 その様子は、各マスコミにも取り上げられ話題となった。 歌謡界・事務所関連 [ ]• の著書には、公式に渡辺プロが手がけた最初のアイドルはキャンディーズであると記されている。 また前述のとおり初期のころの売出しにはNHKの『歌謡グランドショー』の協力も大きく貢献しているという。 それまで日本の歌謡界では「3人組は当たらない」と言われていたが、それを覆した。 また、センターポジションを曲によって入れ替えるということを、最初に行ったのもキャンディーズである。 また、は田中の訃報に際し「キャンディーズがいなければやもなかった」とコメントしている。 同じスクールメイツに所属していたも、キャンディーズのオーディションに参加していた。 キャンディーズの妹分として結成されていたというグループがあったが(同じ事務所)、レコードデビュー時に に改名した。 キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったため、あるいは敬意を表して、「キャンディーズ」の名称を半ば扱いとしたため、と諸説ある。 他の作品への影響 [ ]• からまで、で放映された公開『』のオープニングクレジット映像のバックに流れたテーマ曲は、キャンディーズが歌う「ラッキーチャンスを逃がさないで」(サブタイトルは「プロポーズ大作戦のテーマ」)である。 この曲は、4月4日にキャンディーズが解散してからも、3月に番組が終了するまでの間、オープニングクレジット映像でのテーマ曲として使用された。 から同年までで放送された『』のオープニングテーマ曲は、キャンディーズが歌う「クイズ! 家族ドレミファ大賞のテーマ」である。 この曲は、1976年に番組が『』にリニューアルすると、タイトルも「クイズ・ドレミファドンのテーマ」と改題して引き続き使用、司会・のパートナーがに変更後は、歌も石川に変更され、の最終回まで使用された。 (平成10年)に放送された主演のテレビドラマ『』のサブタイトルには全て、キャンディーズの楽曲のタイトルが使われた。 (平成19年)に公開された映画『』では、劇中「」が物語の重要なキーとなる楽曲として登場し、シングル盤も小道具として用いられた。 「年下の男の子」は同作品のサントラCD()にも収録されている。 『』にキャンディーズそっくりのグループ「チョコレイツ」が登場したことがある 25巻、1981年初出。 「」でチョコレイツの解散コンサートを知ったのび太がスネ夫宅でテレビを見ると、前ページに小さく書かれた女性3人組及び、「とつぜんですが・・・ここでみなさんにおしらせがあります」というコマでテレビの枠に3人がそろっているのが唯一の人物描写で、次いで「わたしたち解散します」「ファンの皆さんにはすまないと思いますけど、わたしたち決心したんです」というセリフが書かれているがそれらはテレビを背中から描いているだけである。 同年代のアニメ関係者は後に『』(1983年)の主人公・クリィミーマミの衣装をデザインする際、キャンディーズの衣装を参考にしたという(特に78年頃の白のミニドレス)。 15thシングル「アン・ドゥ・トロワ」は、作曲者のがセルフカバーしている。 このカバー版では、曲の終わりに「さよなら、キャンディーズ」と歌っている。 『』・・・キャンディーズファンの男子高校生が大学合格を目指すという物語。 1979年より『』に連載され、全三巻+別巻一冊が刊行された 現在絶版。 解散への軌跡 [ ]• 「キャンディーズ」とは本来伊藤・田中・藤村のグループユニット名であるが、これに3人を支えた関係者、および全国のファンが一体となったこそが「キャンディーズ」だったという見方もある。 メンバーの解散の意思を最初に伝えられたのは当時のマネージャーであった。 1977年4月9日、でのコンサート終了後の食事の席でのことだったという。 大里は自身の渡辺プロ退社が既に決まっていたことと周囲に与える衝撃が大き過ぎるとの判断から、「今の話は俺の胸にしまっておくから、これからのことはおいおい話し合おう」と言ってその場を収めた。 言葉通り、大里は渡辺プロを退社するまで他の誰にもメンバーが解散の意思を持っていることを知らせなかったという。 日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9か月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。 当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの3人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。 後に、それは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり(後述のの証言によれば、その5年も前からレッスンの場で「一番いい時に解散しようね」と誓いあっていたという)、そのためには今まで獲得していなかった1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。 このような状況下で、事実上のラスト・シングル「」の作詞を担当したは、キャンディーズの集大成となるように、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔、アン・ドゥ・トロワなど)を各歌詞の随所にちりばめていた。 作曲を担当したはレコーディングの際、「キャンディーズに敬意を表し、 アイドルではなく ミュージシャンとして処遇したい」と提案し、スタッフもこれに同意した。 この穂口案は、「コーラスのパート譜を当日の、しかもレコーディングの時点で譜面台に用意する」、即ち初見でレコーディングを行うというものである。 これほど厳しい条件にもかかわらず、譜面を手にした3人はミュージシャンとして難なくこれを歌いこなし、レコーディングは僅か3回のテイクで完了した。 この一部始終を見ていた穂口は後年、以下のように懐古する。 「あの(「微笑がえし」)コーラスは絶品であった。 デビュー当時、音程を掴むのに苦労していた3人がここまで成長した。 そこにいた3人はアイドルではなく、まさにプロのミュージシャンだった。 あまりの嬉しさに私(穂口)は、涙を拭くことも忘れて3人のコーラスに聴き入った。 ふと周囲を見ると、周りのスタッフも全員が泣いていた。 「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では1人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。 このように一部に「内輪受け」の要素があったのは事実だが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得した。 ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのはメンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで関係者やファンまで全てが一体となって、即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したためとの一考がある。 主な共演者 [ ]• 主な関係者 [ ] 「春一番」「年下の男の子」「微笑がえし」等代表曲の作詞や作曲を担当した。 元GSのメンバー。 16歳の時に、プロとしての活動を開始。 その後日本大学芸術学部在学中に、作曲・編曲家のに抜擢され、19歳で最年少のスタジオミュージシャンとなり多くのレコーディングセッションに参加。 23歳で作曲・編曲家に転向。 MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ) キャンディーズ全盛期のライブを支えたバックバンド。 リーダーはでキーボード担当の「チャッピー」こと。 後の「」のメンバーも数多く在籍していた。 当初は「ロックンロールサーカス」の名前で、のバックバンドを務めていたが、のバックを努める際に「ビート・オブ・パワー」と名前を変え、その後編成を変えMMPとなった。 大里マネージャーの意向により1975年8月の日劇ウエスタンカーニバルや10月の蔵前1万人カーニバルで一部サポートに起用される。 ホーンセクションをフィーチャーしたロックバンドであるMMPは、当時流行していたソウルミュージックのカバーに力を発揮。 またオリジナル曲に於いてもフルバンドでは生み出せないノリをもたらした。 ライブに於ける、MMPオリジナル曲「SUPER CANDIES」で客席を煽り、「ハートのエースが出てこない」でキャンディーズが登場するメドレーは名物のひとつとなった。 1977年、キャンディーズ解散前にホーンセクションが「ホーンスペクトラム」として独立(ライブのサポートは解散まで継続)。 バンド自体はキャンディーズ解散後にシングル「悲しき願い」を発売するなどの活動もあったが、ほどなくして解散。 後にリズムセクションの一部とホーンスペクラムの主要メンバーが合流して「スペクトラム」を結成した。 《MMPおよびそのメンバーによる楽曲》「SUPER CANDIES」「ダンシィング・ジャンピング・ラブ」「さよならのないカーニバル」「つばさ」等 諸岡義明 当時渡辺プロダクション社員、現在は顧問。 ザ・ピーナッツ担当後、1973年より初代キャンディーズ担当マネージャーに就任。 前述のランのセンター指名など、キャンディーズを大ヒットアイドルに育てた。 常に3人と行動を共にし、的確に指導を行っていた。 また諸岡以下のキャンディーズを支えた裏方達は「花の諸岡班」とも言われていた。 マネージャー交代時には伊藤はあまりのショックに相当落ち込んでいたと言われている。 当時渡辺プロダクション社員、現相談役。 1975年夏より1977年6月に渡辺プロを退社するまで約2年間、2代目キャンディーズ担当マネージャーを務めた。 渡辺プロ退社後にアミューズを設立するも、解散時には契約プロデューサーとしてキャンディーズに協力していた。 後になどをスターに育て上げた。 2008年4月には『全国キャンディーズ連盟2008大同窓会』(ビデオコンサート)のプロデュース(演出・構成)を担当。 上述の通り、キャンディーズが解散を決意したとき、所属事務所の関係者は誰一人その事実を知らない中で、唯一メンバーから相談・報告された人物。 その当時、ショービジネスの研究のため渡米していた。 大里は事務所のトップの地位にいた渡辺晋・美佐夫妻にキャンディーズのメンバーが直接話ができるように何度もステージの視察を依頼したがついに実現に至らず、「せめて、一度でもキャンディーズと私を食事に誘い、話を聞いてくれていたら流れは変わっていただろう」と後に語っている。 キャンディーズをサポートしていたファンの団体。 アイドルのファン団体としては稀代な組織力を誇り、キャンディーズをバックアップしていた。 一部のメンバーは解散後も2009年4月4日に「日本キャンディーズ協会」を発足させている。 脚注 [ ]• 当時渡辺プロが経営していたライブハウス。 跡地はライブハウスレストラン「」となっている。 ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 、1991年、1161頁。。 2005年9月30日の『』の「ザ・ベストテンの真相」• NHK『わが愛しのキャンディーズ』(2006年7月17日放送)にて当時の映像を紹介• 中国新聞 2013年7月27日. 2013年7月29日閲覧。 このカヴァーにおける表記は「危ない土曜日」• 中国新聞1974年4月23日朝刊14ページ全面広告、1974年4月21日朝刊4ページ・1974年4月26日朝刊12ページ部分広告などには、「キャンディーズ(専属タレント)」の表記がされていた• 田中好子さんの最期 蘭さん・美樹さんみとる• 「石破大臣が歓喜のキャンディーズ熱唱-守屋喚問、久間、額賀実名暴露の夜に」『』2007年11月29日号、、 26-28頁。 MSN産経ニュース 産経デジタル. 2011年4月22日. の2011年4月26日時点におけるアーカイブ。 2014年9月21日閲覧。 インタビュー: 2018. 『ナベプロ帝国の興亡』、P305-307。 『ナベプロ帝国の興亡』、P314。 穂口雄右 - 現実になったビジョン 第6回(最終回)「微笑がえし」• (2002年7月9日時点の)。 『』「の芸能デラックス」(2011年4月22日放送分)、『ナベプロ帝国の興亡』P314にも記述あり。 『ナベプロ帝国の興亡』、P315。 参考文献 [ ]• 『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』ベップ出版、1978年• 『CANDIES HISTORY』(CD-BOX)付録ブックレット 、1998年• 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』、1995年• 野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代』、2006年• 松下治夫『芸能王国 渡辺プロの真実』 外部リンク [ ]• (2012年11月12日時点の))•

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