君の膵臓を食べたい 感想。 【アニメ映画】『君の膵臓をたべたい』感想:何気ない“日常”の日々で胸がいっぱいに。

小説『君の膵臓を食べたい』感想~ありのままの自分でいたい

君の膵臓を食べたい 感想

僕もそうです。 でも全然違いましたね(笑) 今回はたまたま実写映画の公開にほどなく被りました。 必ず確認しようと思っていて最近漫画だけど読むことが出来ました。 物語序盤でヒロインが、 昔の人は体の悪い部分があったら 他の生き物のその部位を食べることで病気が治ると信じられていた、と説明してます。 そして、その言葉はまるで2人だけのまるで暗号!? のようなものになっていきます。 それを 桐原いづみの絵によってコミカライズされました。 そして2017年の夏に実写映画化ということですね。 映画『君のすい臓を食べたい』 映像によるリアル感、オリジナルストーリー。 — パピヨン ナツ夫 papnutso この作品に関してはどこから入っていっても問題ないように思えますよ。 まあ、僕は漫画やアニメ派なんで今回も漫画のご紹介ですけどね(笑) 2人の出会い 主人公である 「僕」が病院で偶然拾った1冊の「共病文庫」というタイトルの文庫本。 それは「僕」のクラスメイトである 山内桜良 やまうち さくら が綴っていた、 秘密の日記帳であり、彼女の余命が膵臓の病気により、もう長くはないことが記されていた。 「僕」はその本の中身を興味本位で覗いたことにより、身内以外で唯一桜良の病気を知る人物となる。 対するヒロイン、桜良はクラスでも人気のある女子。 そんな真逆な2人を繋いだのは1冊の 「共病文庫」だった。 「僕」は最初、桜良に関わろうしたわけではないが、 桜良のほうから「僕」に積極的に絡んでくる日々。 次第に「僕」は桜良のペースに引き込まれていく。 互いへの憧れ 「山内桜良の死ぬ前にやりたいこと」に付き合うことにより、「僕」、桜良という正反対の性格の2人が、互いに自分の欠けている部分を持っているそれぞれに憧れを持ち、次第に心を通わせていきながら成長していく。 そして「僕」は「人を認める人間に、人を愛する人間になること」を決意。 桜良は恋人や友人を必要としない僕が初めて関わり合いを持ちたい人に選んでくれたことにより「初めて私自身として必要されている、初めて私が、たった一人の私であると思えた」と感じていく。 Wikiより 桜良のやりたいことに付き合っていくうちに、 「僕」は人に興味がなかったはずなのに そうでなくなっていく自分に気づいていきます。 そう、「僕」は彼女によって少しずつ変っていけてると。 そして、もう桜良がいない生活は非日常ですらと感じ始める「僕」だった。 そして、そこには主人公の「僕」がヒロインに送った最後のメール… 「君の膵臓を食べたい」 2人にとって暗号のような言葉になっていたこの言葉。 果たして死んでしまった彼女に届いていたのか? それが読んでいる人を引き込んでいくのは間違いないでしょう。 てか、膵臓を食べるってなんだよって思いません? だから気になって先を読んじゃうんです。 主人公の表記の仕方 この作品の主人公の表記は他のものと違って少し 特殊です。 と言うのも読んでいる僕たちには 主人公の名前がわかりません。 本当の名前は物語の終盤で明かされます。 しかも表記の仕方がちょっと面白い。 恐らくこれは原作である小説の手法なのだと思います。 実写映画はここをどうしたのでしょうかね。 人への興味と憧れ この物語の1番大事な部分それはお互いへの 興味と強い憧れ。 が、桜良の主人公のぼっち姿は 他者に影響を受けない強さと捉えるんです。 逆に桜良自身はクラスの人気ものではあるが、 他者と常に繋がっていないと不安、それが弱さという評価をしています。 まあ、こういう考え方もあるのだなと感心しちゃいましたわ。 マイナスは見方を変えるとプラスになるみたいなものかな? そして、他者に興味を持ってこなかった「僕」は、 桜良の死後になってからようやくその興味と強い憧れに気づき号泣します。 最初は桜良から一方通行に近い興味と憧れが、ようやくこの時「僕」にも追いつくのです。 恭子は桜良の死後まで病気を知らずにいたこと、 「僕」にそれを教えてもらえなかったことを強く非難します。 でも「僕」は桜良の親友である恭子とどうにかして友達になろう努力をする。 それがようやく1年掛かって実現します。 これが映画だと… なんと 12 年の歳月を掛けています。 映画では「僕」と恭子の苦悩を割り増しさせたんでしょうね。 あと気になるのは上でも書いたけど、 「僕」の呼び名を映画ではどうしているのか?ですね。 公式の紹介では一応、名前でなく「僕」になっています。 うーん、どういう風にしたのか「私、気になります!」 この記事のあとがき 他にも、終盤に出てくる『彼』って誰のこと? っていう疑問など出てくるんだけど気になった人は確認してみてください。 あとこの作品、 2018年には アニメ映画化が決定しているようですよ。 コミカライズされ、実写映画にもなり、アニメ映画にもなるなんて やはり人気がある証拠ですね。

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映画感想「君の膵臓をたべたい」で最後まで好きと言わなかった理由 ※ネタバレあり

君の膵臓を食べたい 感想

「君の膵臓をたべたい」一発目のインパクトにやられた。 なんの本なんだろう。 カニバリズム的な類なのか。 それにしては桜色の淡い色調の表紙につかず離れずの高校生の男女がふんわりと描かれている。 完全なるジャケ買いだった。 金額や手に収まるサイズ感などから文庫本が好きな私としては珍しい買い物だった。 きっと恋愛ものだろう。 でも恋愛の中で膵臓が食べたくなる感情って? なんとなくいつもはしてもらわないブックカバーを店員さんに頼み、多少過激とも思われる表題を隠した。 帰宅までそわそわとした気持ちを抑えられず、私は電車の中でそっと表紙を開いた。 そして共病文庫の持ち主であり、膵臓に疾患を患い僅かな余命を満喫しようとしている山内桜良。 「僕」は病院でふと目にしたノートを見つけた。 表紙には共病文庫。 なんとなく開いたそこにはクラスメイトである山内桜良は余命が残りわずかだということを知る。 思いがけず秘密を知ることになった僕は、半ば強引に彼女の「死ぬまでにやりたいこと」を遂行する相棒として振り回されることになる。 少し引っかかったのはとても大人びた言葉を使う高校生達だな、ということである。 僕、は他者とのコミュニケーションを極力避け本の世界に没頭していただけに論理的かつ冷静。 彼が大人びた ある意味古めかしい 言葉を使う事にはなんら疑問はなかったが、気になったのは山内桜良である。 自身の疾患や死を自虐的に、きっとこれ以上ないレベルのジョークにして飛ばす。 そしてドヤ顔をかます程である。 これこそブラックジョークというのかと感服した。 それに対して僕は死に対する軽々しい言動に逆に戸惑ってしまう反応すらある。 そしていつも明るく、死というものに独特な価値観を持つ。 この年代に余命宣告をされれば完全にうろたえ泣きわめく日を過ごしそうだが、そうではない。 この子、本当に死ぬのかな? と思わされるぐらい活発なのである。 しかし、後半になって感じる明るく活発な彼女の背中から見え隠れする死への恐怖。 ああ、やっぱり怖いよね。 ここでなんとなくホッとした自分がいた。 死が怖くないわけがない。 ましてや高校生、これからの生活がキラキラ輝いている年代だ。 彼女はひとりが、そして忘れられることが怖いのだ。 彼と一緒にいることで心を蝕む恐怖を払拭しようとしているのだ。 そう考えると切なくて仕様がなかった。 死ってすぐ傍にある。 明日、明後日、何年後、ゴールとして確かにある。 しかしそこまでのプロセスがよく見えないがために蔑ろにしてしまう。 考え直そう。 明日あたりにでも出不精な彼を誘って、ホルモンを食べながら「私が病気ならどうする?」と聞いてやるのだ。 きっと彼はうろたえるだろうがそれでいい。 お互いをもっと大事にしよう。 いつ死ぬか分からないなら必死に今を生きて、君を大切にして愛を語る。 読んだあとはそんなほんのり寂しい気分だった。 少し自分に触れる人を大切にさせてくれる、そんな気持ちにさせられる本だった。 (20代女性) 固定ページ: 1.

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君の膵臓をたべたい

君の膵臓を食べたい 感想

「選んでくれてありがとう」 <「違うよ。 偶然じゃない。 私達は、皆、自分で選んでここに来たの。 君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。 運命なんかでもない。 君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。 私達は、自分の意思で出会ったんだよ」> 人生に偶然はない。 すべてその人の選択の結果である。 桜良はそのような考えを持っています。 それは「僕」が「春を選んで咲く桜という花の名前は、人生を偶然じゃなく選択だと考えている君の名前にぴったりだ」と指摘するように、「桜良」という名前と密接にリンクしています(このセリフは「春を選んで」というところが「僕」の名前である「春樹」とも関係していますけど、それはまた別の話)。 この桜良の人生観はそのまま受け取ることもできますけど、私は別の意味も含まれているのでは、と思いました。 それは「この本を読むことを選んでくれてありがとう」です。 読書をしていて「この本はすごい。 読んでよかった。 まさに、私のために書かれたものだ」と思う本に出会う機会はまあまああります。 それがよいことかよくないことかはいったん置いておいて、そういう気持ちはたいがい、読者の片想いです。 だって常識的に考えて、私ひとりのためだけに書かれた本は、きっと存在しないからです。 本に対する思いは、たいてい一方通行です。 でも、まれにそんな読者の思い込みと呼応するように、本の側からも「読んでくれてありがとう」というメッセージを発信している本があります(ほんとうに珍しいですけど)。 この『君の膵臓をたべたい』という小説はそんな「珍しい本」です。 「よく選んでくれたね。 ありがとう」のメッセージを読者に向けて掲げてくれている、とてもレアな本です。 私はそう感じました。 私の今までの読書経験を顧みると、小説のほうからメッセージを発してくる作品を書ける作家は、太宰治とサン=テグジュペリしか知りません。 たとえば太宰治は『桜桃』の出だしでこう書いています。 <子供より、親が大事、と思いたい。 子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 > 第二文の「何」というところが、まさに読者を意識した言葉です。 「だよね? 子供より親が弱いって、君も思ってるよね、きっと」という作者の気持ちがとても伝わってきます。 太宰治とサン=テグジュペリは私が知っている中でこのような「読者に対して語りかけてくれる作品」を書くことのできる特別な才能を持った作家です。 そしてそれは偶然にも、『君の膵臓をたべたい』の作中で名前が出てきた作家のうちのふたりです。 <「ふーん。 一番好きな小説家は名前と一緒?」「違う。 一番は、太宰治」> <「『星の王子さま』、知ってる?」「サン・テグジュペリ?」> 「人生に偶然なんてない」という桜良の言葉を借りると、小説の中に彼らの名前が出てきたのは偶然ではないと考えるべきでしょう。 「あなたが今読んでいるこの『君の膵臓をたべたい』という小説も、太宰治やサン=テグジュペリの本のように、あなたに語りかけていますよ」というメッセージです。 それは「メッセージを発していることを伝えるためのメッセージ」です。 「これからあなたに語りかけるから、聴き逃さないでね。 いい?」というメッセージです。 その直後に、桜良は上に記したような「人生に選択はない」というようなことを言います。 それは「だから、この本を選んでくれてありがとう」というメッセージと受け取るべきだと私は思いました。 私が「この本に出会う選択をしてよかった」と思うと同時に「選んでくれてありがとう」と語りかけてくれる。 『君の膵臓をたべたい』はそんな贅沢で幸福なコミュニケーションができるとてもすばらしい小説です。 (100行,原稿用紙5枚ぴったり) 原稿用紙5枚(2000字,100行)その2 「ガムいる?」が可視化すること 私が『君の膵臓を食べたい』で注目すべきだと思っているのは「ガムをすすめてくる男」です。 このキャラクターは事あるごとに主人公に「ガムいる?」と声をかけます。 私が数えたところによると4回(74頁、137頁、138頁、177頁)。 たった4回ですが、とても私の注意を引きました。 私の経験上、こういう何回も同じ行動をとるキャラクターは、大切な役割を担っていることが多いからです。 案の定、エンディングで彼についても後日談が語られています。 どうしてただの「ガムをすすめてくる男」が『君の膵臓をたべたい』でこんなに重要なポジションを与えられているのか。 それを考えてみたいと思います。 主人公は「ガムいる?」の問いかけに対して何度も「いらない」と答え、ガムをすすめてくる男はめげずに何度もガムをすすめます。 これは主人公が「贈り物を受け入れる準備」ができていなかったことを表しています。 私たちが贈り物を受け取るときに気まずい気持ちになるのは、返礼の準備ができていないときです。 たとえば忙しすぎて「ありがとう」の気持ちを充分に伝える時間・手段がないとき。 人は何かをプレゼントされると、無意識に「返礼の義務感」を抱くものです。 年賀状だって、出していなかった相手から届くと、あわててハガキを買いに走るということがあります。 それと同じです。 振り返ると、ガムをすすめられたタイミングというのは、主人公がなにか「問題」を抱えているときに限ります。 桜良と付き合っていると疑われたとき、上履きがゴミ箱に捨てられていたとき、桜良のストーカーだと噂されていたとき。 主人公はガムを受け取らないことを「選択」します。 でも最後に彼はガムを受け取ります。 直接的な描写はありませんが「あのさ、君達は僕が飴とガムを主食にして生きてるとでも思ってるの?」から推察することができます。 彼は桜良のように「生きる」ために「誰かと心を通わせること」(192頁)をガムを受け取ることを通して「選択」したのです。 言い換えると「ガムをもらうこと」の「返礼」として「彼と友だちになる」ことを選びました。 それは彼が「成熟」した証左にほかなりません。 桜良の言葉を借りるまでもなく、人は独りでは生きていけません。 物語のはじめ主人公は「僕は人に興味がない」と発言します。 彼はこの時点では「独りぼっちでも僕は生きていける」と思い込んでいる「子ども」です。 でも、桜良との触れあいを通して彼は魂ごと「大人になる」ことができました。 <彼女の存在そのものといえる言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。 >(192頁) それは志賀直哉が『城の崎にて』で生き物の生死を見せつけられた後で「生きていく」意欲が芽生えなかったことと対照的です。 志賀直哉は「生きていることと死んでいることはそんなに変わりがない」と思いました。 『君の膵臓をたべたい』の主人公は違います。 桜良と出会ったことで「誰かと関わる」という「生きる」「選択」をしました。 そのように彼が「未熟」な状態から「成熟」したことがはっきりわかる効果測定装置として、「ガムをすすめてくる男」は配置されていたのだと私は思います。 彼は「ガム」というアイテムを通して主人公の成長を可視化してくれました。 だから彼は主人公にとって、桜良の次に(恭子と並んで)大事なキャラクターであると断言できます。 (84行,原稿用紙4枚と4行) おわりに.

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