当時の道長は絶大な権力を持っていて、頼通も若くして道長の権力掌握に協力させられています。 元々は兄の影に隠れているような性格だったとされていますが、26歳で道長の後を継ぎいで摂政となり、後に関白に任じられています。 しかし頼通が関白になっても、実権は道長が握っていたため、頼道は思い通りに政治を行うことができず、重要なことは全て道長に相談していたようです。 道長が頼通を公衆の面前で罵倒したという話もあるので、関白とは言っても、実際には権力を持たず、道長の思い通りに動かされていたといったほうが良いのかもしれません。 また、頼通には正妻がいましたが、道長が強制的に他の女性を連れてきて娶らせようとしたという逸話もあります。 最終的に頼通が体を病むほど拒否したことで取りやめになりますが、何事も自分の思い通りにしたい道長の存命中は、頼通も苦労をしたようです。 若年で関白に就任して以来、およそ60年にもわたって権力を掌握し続けた頼通は1074年に83歳で亡くなります。 頼通は政治のリーダーであると同時に文学・芸術の保護者であり、自らも歌を詠むなど、芸術家、文化人としての一面も持ち合わせています。 平等院鳳凰堂を立てた理由 奈良時代に仏教が伝わって以来、日本では独自の発達を遂げていました。 当時、仏教の教えには末法思想というものがありました。 仏教には、正法 しょうぼう ・像法 ぞうぼう ・末法 まっぽう という三時の時期があると考えられています。 末法思想を超簡単に表現するとこんな感じ。 実際に都では災害や戦乱が続き、社会全体を通じて末法思想に満たされていました。 そこで貴族達はせめて来世で極楽浄土に行きたいという気持ちを持ち、それを実現するために仏にすがろうと考えました。 こうして作られたのが平等院鳳凰堂です。 平等院の不思議な形には理由があるの? 平等院は藤原道長時代までは邸宅でしたが、頼道は自分が隠居することを考えて、この邸宅を寺院として改築します。 これが平等院鳳凰堂の始まりで、この寺社全体を平等院といい、鳳凰堂はその中に置かれた阿弥陀如来像の堂を指します。 ちなみに、鳳凰堂は後世の呼び名で、本来の名は阿弥陀如来堂 あみだにょらいどう と言います。 鳳凰堂は中堂と東西に並ぶ翼廊に分かれ、池の中島に東を向いて建てられました。 中堂には本尊があり、翼廊は中堂に向かってL字に曲がるように設計されています。 平等院鳳凰堂はこの翼廊が特徴的な建物ですが、平等院の公式ページによると、阿弥陀如来の宮殿をモチーフにしたデザインというだけで、実用性があってこの作りになっている訳ではないそうです。 頼通は平等院鳳凰堂を建立して、現世に極楽浄土を表現したかったのでしょうね。 10円玉の裏に平等院が描かれているのはなぜ? では、何故平等院鳳凰堂が10円玉に描かれているのでしょうか? 京都は古くから戦乱の土地でもありました。 そのため多くの寺院・宝典がそれに巻き込まれて焼失しています。 実は、平等院も戦の被害を受けて大半の楼閣が焼かれてしまっています。 しかし、そんな中でも鳳凰堂は難を逃れて現存しています。 この平安時代から残る日本の特徴的なの建築物を守っていきたいという願いが込められて、昭和26年に現行の10円玉が発行された際に平等院鳳凰堂が選ばれています。 まとめ 芸術品・建築物というのはその時代を象徴するとても重要なものです。 なぜなら創建者にとってはこれが最大の表現方法であったからです。 これだけ科学が発達した現代でも芸術を嗜む感性を持った我々人間は、やはりかなり特殊な生き物なのかもしれません。 しかし個人的には芸術が発達する時というのは世の中がちょっとおかしい不穏な時期を迎えた時だと思うのです。 それは頼通の頃と同じように、現実世界の中に空想というか頭の中の世界を実現させそこに住もうという思いが現れているからです。 平等院鳳凰堂からは、暗い影が見え始めた摂関政治と世の中に対するせめてもの反抗のような気持ちが見えるような気もします。
次の日本に仏教が伝わったのは 6世紀、 飛鳥時代で、 平安前期に広まりました。 当初は 現世での救済を求めるという考え方が一般的でした。 生きている間に災いがないようにと願っていたのです。 平安時代後期になると、日本では「 末法思想」が広く信じられるようになりました。 末法思想とは、 お釈迦さまが亡くなってから2,000年経つと世は廃れてしまうという思想です。 その時がまさに1052年だったのです。 ちょうどその頃都では天災が続き、人々の不安は高まり、この世の終わりを予感させるような出来事が起こりました。 そんな状況の中、仏教の思想も 現世利益から来世での救済へと変わっていったようです。 平等院が創建された当時、 人々は極楽往生を強く願いました。 そして西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来を祀るお堂・鳳凰堂を創建したわけです。 この鳳凰堂は 可能な限り極楽浄土をリアルに表現して建てられたと伝えられています。 堂内には金箔、螺鈿、宝石が使用され、極彩色を使った装飾が施されています。 まさに当時の貴族が憧れる来世の世界をこの世に実現したのが平等院鳳凰堂なのです。 空想の世界を現実の世界に存在させたわけです。
次の平等院(Byodoin)• 平等院鳳凰堂へのアクセス(行き方)• 平等院鳳凰堂の開館時間、拝観料金• 鳳凰堂(Phoenix Hall)• 鳳翔館(Hosyokan) についてまとめています。 平等院(Byodoin) 1052年、藤原道長の別荘を息子頼通が寺院に改めて創建しました。 翌年、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その阿弥陀堂が現在鳳凰堂と呼ばれている建物です。 平安時代の多くの文化財が収められています。 平等院は、「 古都京都の文化財」の一つとして、 世界文化遺産に登録されています。 平等院鳳凰堂へのアクセス(行き方) 京都駅から最寄りの宇治駅まで電車( JR奈良線)で 約20分です。 宇治駅から平等院までは徒歩 約12分です。 平等院鳳凰堂の開館時間、拝観料金 庭園:8:30〜17:30(受付終了17:15) 鳳翔館(ミュージアム):9:00〜17:00(最終受付16:45) 庭園と鳳翔館の拝観料:大人600円、中高生400円、小学生300円 鳳凰堂内部拝観:9:30〜16:10(20分毎、各回定員50名)、受付時間は9:00〜で先着順で定員になり次第終了です。 鳳凰堂内部の拝観料:一人300円の志納金 受付場所は、鳳凰堂近くの庭園内の内部拝観受付にて行っています。 チケットを購入したら、開始時間5分前に鳳凰堂へ渡る橋の前に集合します。 ガイドさんと共に鳳凰堂内部へ行き、日本語での説明があります。 鳳凰堂(Phoenix Hall) 鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をモデルに池の中島に建てられました。 美しい宮殿のような姿が水面に映されています。 中堂、左右の翼廊、背後の尾廊から成り立っています。 本尊阿弥陀如来坐像をはじめとし、雲中供養菩薩像52躯、9通りの来迎の壁扉画などの平安時代・浄土教美術が集約されています。 1053年に収められた国宝阿弥陀如来坐像は、像高277. 2cmあり、木造と漆箔で造られているそうです。 雲中供養菩薩像も1053年に制作され、様々な楽器をや物を持っていたりする52躯が阿弥陀如来を囲んでいます。 屋根の上には、南北両端に鳳凰が1対据えられており、鳳凰堂と名付けられたそうです。 現在掲げられている鳳凰像は2代目であり、初代は錆などにより取り外されて鳳翔館に展示されています。 この鳳凰は、2004年から一万円札に描かれています。 鳳翔館(Hosyokan) 鳳翔館は、平安彫刻などの平等院に伝わる様々な宝物がコレクションされている博物館です。 梵鐘(ぼんしょう)、鳳凰一対、雲中供養菩薩像26躯、十一面観音立像などが展示されています。 鳳凰堂内部を再現した展示室やデジタル映像もみられます。 阿宇池といわれる平等院鳳凰堂を囲う庭園池も美しかったです。 住所:京都府宇治市宇治蓮華116 電話番号:0774-21-2861 ホームページ: まとめ 時折雨が降ったり天気には恵まれなかったのですが、晴れた日に行ければもっと素敵な写真が撮れると思います。 少しでも参考になれば嬉しいです。 平等院鳳凰堂観光時のランチやデザートにおすすめの「中村藤吉 本店」について ホテル予約時に便利なのは あなたにおすすめの記事.
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