か の よう に の 法 哲学。 法哲学

法哲学

か の よう に の 法 哲学

生きることは、考えること。 では、考える力を養うにはどうすればいいのでしょう。 「コピペはいけないこと?」など8つの具体例を挙げて哲学の活用法を解説した啓発書、『哲学の世界へようこそ。 著者で哲学者の岡本裕一朗 おかもと ゆういちろう さんに伺います。 このように、常識とされていることが本当に正しいのかを問う、それが「哲学」なんですね。 岡本さん: 哲学と申しますのは、基本的に私たちが常識として前提していること、あるいは自明だと思ってそれ以上疑わないことを根本から疑うというのが、何千年にも渡って哲学という形で理解されてきました。 岡本さん: そうですね。 ただ、最初から疑おうと意図的にやるというよりも、自然な形で疑いが出てくるというのが基本ではないかと思います。 哲学者の岡本裕一朗さんは1954年、福岡県生まれ。 九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了、九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、現在は玉川大学文学部名誉教授でいらっしゃいます。 著書に『いま世界の哲学者が考えていること』『フランス現代思想史』『ヘーゲルと現代思想の臨界』などがあります。 岡本さんは、本書を「『考え抜く力』を養うためのレッスン」とお書きになっています。 岡本さん: 基本的に申しますと、哲学というのはもともと自分自身の考えを疑い、それがどれだけの根拠があるのかを何度も何度も考えながら、どこに正しいことがあるのかを問い直すのが、哲学という学問で始まったと考えています。 岡本さん: 具体的な状況に私たちが出合ったとき、「一体どうしたらいいのか」を恐らく問い直すと思います。 ですからまずは直感に従いながら、自分の1つの立場を決めるっていうのが第1です。 その直感を考えたときに、根拠が一体何かということを改めて考え直さなくてはいけない。 その根拠を探るというのが、2番目に必要なことになります。 直感だけで「私はこう思う」と述べても恐らく相手は納得しないし、自分の考えそのものを相手に伝えることも恐らく失敗すると思います。 3番目は、自分自身の根拠をもう1回別の視点から考えてみて、そして根拠そのものの根拠といいますか、あるいはその根拠を突き崩すような反論を自分で考えてみる。 これが第3ステップです。 最後の第4ステップは、差し当たってこの場面で、一体自分としてはどういう結論を出しうるのかを、改めて考えるということです。 歴史をどう使っていくということでしょうか。 岡本さん: パスカルの『パンセ』だとか、シェークスピアのさまざまな戯曲だとかを考えたときに、例えばパスカルの『パンセ』に関しましては、モンテーニュの『エセー 随想録 』を、彼自身がある程度写し取って書き換えながら彼のテキストを書いていくということがあって、これは非常に有名なことです。 もし現在の学生がそうしたことをやったならば、恐らく先生たちから「これはコピペだから、こんなレポートは受け取れない!」という形で批判される可能性があります。 ところがパスカルの『パンセ』は、「コピペだから作品として非常に重要性が低い。 哲学書として、それは彼の作品とは言えない」という批判はまずないわけですね。 シェークスピアの作品に関しましては、必ず「種本」というかネタになっている本があって、もともと何百年にも渡ってネタになっているストーリーを使いながら戯曲を書いたということになっています。 ほとんどの作品でネタ本があるというのは常識になっていますので、そうするとじゃあ、ネタ本があるからといって彼の作品の評価が低いかというと、そうしたことに全くならないわけです。 そうすると、何かを引用する、何かをコピペする、そうした形で行うことが、ただただ悪いということにはならないし、むしろ、コピペすることによってすばらしい作品が生まれたということを一体どう理解したらいいのか、と。 歴史的なさまざまな作品を考えながら、改めて考え直す必要があるというふうに思います。 岡本さん: そうですね。 では、コピペは悪くないという立場を、ステップ3の「別の観点から問い直す」、ステップ4の「使える結論を導き出す」と順序立てて考えるには、どのようにするのでしょうか。 岡本さん: ステップ3で考えますのは、「オリジナルはよくて、コピーが悪い」という、これが前提になってさまざまな形でコピペが否定されるということがあります。 パスカルにしてもシェークスピアにしても、先立つ作品をさまざまな形で自分の中に吸収しながら、書き換えながらオリジナルをつくっていったことを考えますと、「コピーよりもオリジナルのほうがいいんだ」というような考え方は、果たしてできるのかどうか。 逆に私たちは、もしかしたらコピーを繰り返すことによって、いつしか自分自身のオリジナルを確立するのではないか、と。 小林秀雄なんかが「模倣は独創の母である」という言い方をしていますのはそのような意味で、最初から誰にもまねできないようなオリジナルをつくるとなると、恐らくオリジナルはできない、と申しますか、むしろ先立つ人たちのすばらしいと思うものをある程度自分でまねをしながら、その中でいつしか自分のものとして、自分のオリジナルの形で発信できるようになる、と申しますか。 そう考えていくと、単純にコピーとオリジナルというものをきっぱりと分けてしまうよりも、むしろ私たちがオリジナルと考えているものはコピーによってこそ初めて可能になると申しますか、そうした形で考えるのがいいのではないかと思います。 これが、3番目のステップですね。 こう言ってしまうと例えば気の早い学生は、「じゃあ、コピーしていいんだ」ということになりますので、「いや、それはちょっと待って!」ということになりましてですね 笑。 私は、「バカなコピペ」と「賢いコピペ」という言い方をしています。 「バカなコピペ」は、極端な場合では100%をコピペする、ネットに載っている情報をそのままコピペすると。 「上手なコピペ」と申しますのは、さまざまな情報を利用しながら、それをいかに自分の中で組み立てて他人に発信するかが重要で、そうした形でのコピペの方法というか、あるいは逆に言うと、情報の集め方や組み立て方を自分の中でどうシャッフルしながら自分のスタイルとして打ち出していくかを訓練するのが、重要なことだと思います。 哲学を学べば、答えのない今を生き抜くことができるとお考えでしょうか。 岡本さん: はい。 一番大きい問題は、ただ1つの考え方だけで進めていくと、この考え方では立ち行かなくなったときに、「じゃあ一体どうしたらいいのか」と絶望する可能性があります。 もともと哲学として考えるときには、さまざまな観点、さまざまなものの見方を提示するというのがポイントですので、その形でものを考えたときには、少なくとも現代の置かれている状況に出合ったときも、絶望したり、「この先、一体どうしたらいいか分からない」というようなことにはならないだろうというふうに思います。

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テイラーの「科学的管理法」の「哲学」は現在でも通用する

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法と正義についての哲学的思考とはどのようなものか、それにはいかなる意義があるのかについて概説し、法哲学の基礎的知識を得ることを目的とする。 授業は、大きく「第1部 現代の正義論」と「第2部 法の概念」という二つのパートに分かれる。 第1部では、リベラリズムと呼ばれる考え方とそれに対する批判を軸に、現代の法哲学者による正義論の展開を検討する。 家族・親密圏における正義や国境を超える正義等の個別の論点に対する考察も織り交ぜる。 第2部では、法の概念について、権利、自由といった他の法学における基礎的概念との関係に留意しつつ考察する。 自然法論と法実証主義の対抗関係や法と道徳の関連性といったトピックについて基本的な見通しを得ることを目的とする。 全体を通じて、正義という理念への信頼と懐疑の双方に十分目配りしつつ、法に対する柔軟で主体的な考察のための機会を提供したい。 【授業の到達目標】 テキストは使用しない。 参考書〔授業内でも適宜紹介する。 図書館に所蔵しているものを中心とするが、仮に所蔵がない場合も教員が所有している場合があるので、遠慮せず問い合わせてほしい。 〕 (全体を通じて)深田三徳・濱真一郎編『よくわかる法哲学・法思想〔第2版〕』(2015年、ミネルヴァ書房)、瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕『法哲学』(2014年、有斐閣)。 (第1部について)マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(2011年、鬼澤忍訳、ハヤカワ文庫)。 (第2部について)森村進『法哲学講義』(2015年、筑摩書房)、中山竜一『二十世紀の法思想』(2000年、岩波書店)。 【その他】 ・学生へのメッセージ.

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第1回 哲学ってなんだ?|はじめての哲学的思考|苫野 一徳|webちくま

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それがアメリカのロナルド・ドゥオーキン(1931~2013)だ。 ニューヨークで弁護士として活動した後、イェール大学やオックスフォード大学、ニューヨーク大学、ロンドン大学で教授として教鞭をとった。 イギリス学士院のフェローやアメリカ芸術科学アカデミーの会員も務めた。 輝かしい経歴をもつ人である。 このドゥオーキンは、ロールズ(第3章を参照)のいう原初状態、つまり人々がゼロから政治社会を作るその出発点について、ロールズよりも平等を優先的に考える解釈を与えている。 曰く、原初状態の基礎には自然的かつ抽象的な権利があって、それは 1. 基本的自由(思想・信仰、言論・集会・結社など)への権利と、 2. 「誰もが平等に配慮され尊重されたいと求める権利」である。 しかし、原初状態の人々は、特定の階級のメンバーや特定の思想、能力を持つ人々を、それ以外の人々以上に配慮し尊重するような社会をけっして望まないだろう。 ということで、それらの人々は、まずは何よりも前述2つの権利のうち、2が必ず配慮されるような政治機構を作ろうとするはずだ、という。 そしてドゥオーキンはこう述べる、「平等に尊重されることへの権利は、原初状態への参加が許されるための条件である」。 どんな社会であれもちろん自由権も大事だが、それよりも優先されるべきなのは政府が人々を平等に配慮し尊重することなのだというのである。 photo by iStock 政府が人々に対してなすべき配慮とは、人々に苦痛や挫折を感じさせないように扱うことであり、尊重とは、人々が自分で選択した生き方を貫けるようにすることである。 ドゥオーキンが強調するのは、政府は人々が、所得の高低、性別・人種の違い、技能や心身障がいの有無・程度などの事情によって、 他人より劣った扱いを受けていると感じ苦しむことがないようにしなければならない、ということである。 ドゥオーキンが、前項でふれた 「不当に他人よりも悪い扱いを受けたくない感情」にとりわけこだわっている意味がわかるだろう。 こうして彼は、この感情にたえず気配りしながら、さらに人々が各自の自由選択に従って生きうるために必要な資源の分配の平等について考える。

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