明智 光秀 家 系図。 明智光秀の家系図に天皇?なぜ裏切り?最後の死因は農民?

明智光秀の子孫は?父と母・妻と子供など家系図/出身地など出生まとめ

明智 光秀 家 系図

2020年の大河ドラマの主人公 知将・ 明智光秀の生涯を紹介したいと思います。 自分のこれまでのイメージは、(ドラマのイメージが強いですけど)織田信長に冷たくされていて、 うらみから謀反をおこし本能寺の変の中心人物。 ほかの歴史番組を見ていると本能寺の変をおこした理由も、実は 朝廷の命令説。 四国征伐回避説などいろいろあるみたいですがドラマはどの説になるのか…。 ドラマではわき役のイメージの強い明智光秀の生涯を調べてみました。 肖像画について• 人物像?どんな性格やったんかな。 生涯を年表で紹介• 本能寺の変• 家族は?娘は有名な細川ガラシャでは他の家族?• 子孫は? どのような生涯を、送ったか簡単ですが紹介していきたいと思います。 明智光秀の肖像画 明智光秀(1528~1582) よく光秀の肖像画として、この肖像画を目にすることがおおいと思いますが、 光秀の肖像画としては唯一のもとして有名です。 大阪府岸和田市にある本徳寺が所蔵しています。 なぜここに? お寺の開祖である 南国梵桂和尚は光秀の長男である 明智光慶と言われています。 もともとは貝塚市鳥羽の海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命により現在の場所に移されました。 そのとき寺号も本徳寺と改められました。 南国が描かせた明智光秀の肖像画は、唯一の肖像画として現在まで伝わっているんですね。 また、光秀自身が生き延びて開祖したという説もあるようです。 本徳寺では肖像画は、 常時公開されていないようです。 ちなみに岸和田市では、平成29年6月6日(火曜日)から日本で唯一といわれている 明智光秀公肖像画 複製(掛け軸)1点を 岸和田城天守閣で常設展示されています。 岸和田城 所在地:岸和田市岸城町9-1 開場時間:午前10時~午後5時(入場は午後4時まで) 休場日:毎週月曜日(月曜日が祝日・休日の場合は開場) 入場料:大人300円、中学生以下無料 電話番号:072-431-3251 唯一の肖像画だったんですね。 次からやっと本題。 光秀について掘り下げていきます。 それ以外に 統治者としての顔。 琵琶湖水運の重要地 坂本城や、山陰中国地方の 亀山城の支配を任されたりとさまざまな分野で活躍。 知将・明智光秀と言われる事が納得行く活躍をされていました。 ドラマのイメージだと、なんか不遇な扱いをうけて最後には主君を死においやる悪い人物。 でも、実際は優秀な人物やったんやね。 丹波平定の際、あの信長からも 「天下の面目をほどこし候」意味は、( 世間の評判になるくらい天晴れなもの)といわれるほど。 でも、 ルイス・フロイスという外国人宣教師が書いた 『フロイス日本史』の中で、フロイスは光秀の事をこの様に書いています。 「 裏切りや密会を好んでいた」 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなって、主君とその恩恵を利することをわきまえていた」 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。 友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」 「 自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」 「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らずその親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛けていた」 「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、 涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」 「 刑を科するに残酷」 「 独裁的でもあった」 「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」 「 殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」 早い話、光秀は頭がキレ狡猾だが上への おべっかは絶やさない。 信長におべっかを使いまくって、時には 嘘泣きまでしていた。 そして裏では 人を騙すための方法に長けていることを自慢し、まんまと騙された信長は光秀に多くの領地と財産を与えています。 でも、よそものだったので みんなから嫌われてもいた。 築城や建築に長け、計略家で統率力もあり指揮官としても優秀だったが、その反面 裏切りや密会を好み、刑は残酷といういやな人物。 フロイスによれば、頭はきれるけど性格は最悪な人物やったんやね。 フロイス日本史に書かれている信長は凄くいい人だったと書かれているようなので、光秀に騙されてる事に気づいていなかったんやろうな…。 年表で見る光秀の生涯 1 1528年 美濃国の斎藤道三の家臣で土岐家の一族であった、明智氏の子として生まれました 1535年 父が死没したため家督を相続 まだ、8才だったため、叔父で明智城主の明智光安の後見を受けます 1556年 斎藤道三と争い始めた斎藤義龍に明智城を攻められ、一家は離散、浪人となります 浪人時代 その後仕官先を探して諸国を放浪します。 その間に、 鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝とも知り合います その後、越前国の朝倉義景に仕える事になります。 1565年 松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が13代将軍義輝を暗殺。 (永禄の変) 義輝の弟・足利義昭の身も危ないことから、細川藤孝が足利義昭をかくまいます。 将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と細川藤孝は再会します。 早くに父親を亡くし、苦労した時代もあったんですね。 年表で見る光秀の生涯 2 織田家の家臣として 1568年 朝倉義景には上洛の意思がないことから、尾張国の織田信長を頼ることを足利義昭に提案します。 信長に会い上洛の承諾を得ると、光秀も朝倉義景を見限り、織田信長に仕えるに。 信長に担がれて 上洛した足利義昭が15代将軍の座に就きました。 信長が京都を離れる際は、村井貞勝らとともに京都に残り政諸務を行います 本國寺の変では足利義昭を守り切りました。 1570年 傀儡将軍に過ぎないことを知った足利義昭が、信長打倒を決意する 織田信長に浅井家攻略のための構想を提案します。 (姉川の戦となる)戦後はこの功績により、京都警備を任せられます。 1571年 織田信長に従い比叡山焼き討ちを実行する 1572年 近江国志賀郡5万石を与えらる。 織田家家臣の中では新参ながら、一番の出世頭になります。 琵琶湖岸に居城になる 坂本城を築城します。 1573年 越前国の一乗谷攻めで功績をたてる 1575年 丹波方面の攻略を命じられ侵攻するが、波多野秀治の裏切りにより敗退する。 1577年 信貴山城の戦に参陣 再び丹波方面の攻略を開始 1578年 丹波国に 亀山城を築城して、二つ目の居城に。 1579年 丹波国、八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻め落城させる 丹後国守護で弓削城主の一色義定を攻め降伏させて、丹後国を織田家の支配下に置きます 信長に背いた荒木村重や松永久秀らの討伐に貢献します。 この頃斎藤利三を家老に迎える 信長から丹波国一国(29万石)を与えられる 丹後国の細川忠興、大和国の筒井順慶らを指揮下に置き、織田家の近畿方面司令官となります。 福智山城(福知山城)を築城 1582年 織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める 毛利方と対峙していた中国方面司令官の羽柴(豊臣)秀吉から出馬要請を受けた織田信長が、大軍を派遣することを決定し、光秀も出馬命令を受ける 居城、亀山城(亀岡城)に戻り、出陣準備 愛宕神社に里村紹巴らを招き、連歌会「愛宕百韻」を開催する。 軍を京都に転進させ、織田信長のいる本能寺を急襲し自害させる。 (本能寺の変) 与力である娘婿細川忠興やその父細川幽斎(藤孝)、組下の筒井順慶らから支持を得られず孤立し、中国から大返ししてきた羽柴(豊臣)秀吉と、摂津国と山城国の国境山崎で対決し敗戦。 (山崎の戦) 敗走途上、伏見小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没 1582年7月2日 享年55歳 1582年には死んでおらず、延暦寺に逃げ込み僧となり、天海として生きながらえたという説があります。 主な出来事だけ取り上げて見ました。 いろいろな功績を残してるんですね。 主人公明智光秀の目線から見てみると、けっこう波乱万丈な人生やったんですね。 本能寺の変を起こした理由は? 明智光秀と言えば避けてとれないのが本能寺の変ですよね。 なぜ彼は主君である織田信長を裏切る事になったのか? 光秀単独・主犯説 積極的謀反説 「 天下が欲しかった光秀の単独犯行」 とするこの説は、変直後から語られています。 消極的謀反説 謀反は光秀の本意ではなく、何らかの理由があって止むを得ずに決起したという説の総称。 怨恨説。 信長の横暴な振る舞いに怒り、個人的な恨みが積み重なって原因として光秀が謀反を起した。 不安説。 光秀が自らの将来や一族の行く末に不安を覚え、信長に粛清されると考えてその先手を打った。 ストレスなどから精神的に追い詰められて、冷静な判断が出来ず謀反を起こしたとされる説など 名分存在説 光秀が謀反を起こした理由を、野望や怨恨などの感情面ではなく、信長を討つにはそれだけの 大義名分があったとする説の総称。 神格化阻止説。 信長が神格化されることを嫌った光秀が謀反を起して阻止しようとした。 暴君討伐説。 信長は暴君であるとしてそれを討った説。 朝廷守護説。 信長が天皇やそれを凌駕する権威を目指していたとする仮説に基づき、国体を維持するために変を起した。 四国説。 信長の四国征伐を回避するために光秀が謀反を起こした。 主犯存在・黒幕説 主犯存在説(主犯別在説)• 羽柴秀吉実行犯説。 秀吉が配下の武将・蜂須賀正勝を刺客として京に派遣して信長を暗殺させたとする説、光秀の関与を否定する無罪説の1つ。 この説は完全なフィクションとされています。 斎藤利三実行犯説.長宗我部元親に兄石谷頼辰の義理の妹を嫁がせた斎藤利三が、信長の四国政策の転換を防ぐために、主君光秀を唆して変を起した説。 など 従犯存在説• 長宗我部元親関与説。 または長宗我部元親黒幕説。 古くは『改正三河後風土記』にも長宗我部元親の関与を疑うような記述があるが、具体的にはよくわかっていない。 濃姫関与説。 濃姫(帰蝶)が斎藤利三または光秀と共謀または説得して、裏で操っていたという説。 黒幕存在説(黒幕説)• 朝廷 黒幕 説。 信長と朝廷との間には緊張状態があったという前提で、朝廷が光秀に信長を抹殺させたという説。 足利義昭 黒幕 説。 足利義昭が旧家臣である光秀にその権力を奪い返すために黒幕となって信長を倒すように命じたとする説• 高野山 黒幕 説。 当時、高野山攻めが行われており、高野山真言宗門徒が畿内で信長に逆らう最後の勢力でした。 本能寺の変によって攻撃は中止され、変で利益を得た勢力の1つとして黒幕説があります。 黒幕複数説(共謀説)• 毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説。 近衛前久・徳川家康黒幕説。 堺商人・徳川家康黒幕説。 上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説。 徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説。 足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説。 それぞれ複数の共謀者を想定した説。 今回調べただけでも諸説がさまざまあり、どの説が本当なのか今現在でもはっきりしてないんですね。 簡単に本能寺の変についてまとめてみましたが、フィクションなど後々の小説などで書かれているものもあってどの説が有力なのか、光秀の有名なセリフで 「敵は本能寺にあり」。 実際は言ってなかったとか、今となっては本当の事がわからないから、歴史の面白い部分だと思います。 当時の人間関係、出来事などから考察するといろんな説が出てくるんだなと、光秀が三日天下で終わって無ければ理由も伝わってたかも知れないし歴史も大きく変わってたんやろうな…。 明智光秀の子孫は?家系図を見てみる 光秀の出自を明智氏としない俗説も多いようです、また前半生が謎がおおく、家族構成においても諸説伝わっているようです。 では今現在伝わっている家族はどの様になっているのか見ていきたいと思います。 父親は? 光綱が父親と伝わっていますが (江戸時代の諸系図などにより) 明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説があります。 父親の名前も伝わらない程 低い身分の土岐支流とも言われています。 『明智物語』では、光秀の養父は 明智頼明。 母親は? 若狭武田氏の出身で(武田義統の妹)名を お牧の方と伝わっています。 兄弟は? 『明智物語』では、 定明、定衡の義兄がいたとされています。 奥さんは? 正室は『明智軍記』などに記載のある 妻木煕子(ひろこ)。 豆知識 逸話は後世の創作ともいわれていますが、(1545年)頃、明智光秀と婚約、婚約後しばらくして煕子は疱瘡 ほうそう にかかってしまいます。 美しかった顔に痘痕(とうそう)が残ってしまったため、破談にしたくなかった父親である妻木氏は、煕子と瓜二つの妹(芳子)に姉の身代わりに光秀のもとにいかせましたが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えます。 その後、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、その跡を継いだ斎藤義龍に攻められ、本拠を失い浪人になります。 困窮する生活の中で、連歌会を催すがお金が無かったため、煕子は自分の黒髪を売ってそのお金で席を設けて、光秀を助けました。 光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名です。 が、側室はいたという説もあるようですね。 この話は、歴史番組で見た事があったのですが凄い良い話やなって思ってみてたんやけど、本当かどうかわからないんですね…。 本当やったら優し人やったんやろうなと思うですけどね。 子息・子女 『明智軍記』では3男4女がいたとされています。 長女:明智光春の妻• 次女:明智光忠の妻• 三女:細川忠興の妻( 細川ガラシャ)• 四女:津田信澄の妻• 長男:光慶 本徳寺の開基とする 南国梵桂)• 次男:光泰(十次郎)• 三男:乙寿丸 光秀滅亡の際に死亡したとされていますが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を名乗り、 荒深小五郎と名を変え生き延び光秀とともにこの地に土着したと伝わっているんですね) 大阪府岸和田市にある 本徳寺の開基とする 南国梵桂は、長男・ 光慶。 一説によるため定かではない) 宣教師のルイス・フロイスは、「 非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」と、光秀の子息・子女のことを伝えています。 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女いたとされています。 マメ知識2 光秀の子女の中で有名なのは細川ガラシャですよね。 ガラシャについて簡単に紹介。 明智光秀 の三女で 細川忠興 の正室。 キリスト教 信徒(キリシタン )。 明治期に入ってからキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれています。 1578年、15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎます。 本能寺の変の後、「 逆臣の娘」となる。 忠興は1584年まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に 隔離・幽閉(逆臣として狙われるのを防ぐため)する。 1584年3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視。 そして、 キリシタンへ• 忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれてゆきます。 洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいきました• 秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けました。 彼女は気位が高く怒りやすい性格でしたが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかな性格になりました。 バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしましたが、、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになったのです。 壮絶な最期 1600年8月24日、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣します。 忠興は屋敷を離れる際はいつも 「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていきました。 この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川家の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶。 その翌日、三成が実力行使に出ました。 屋敷に兵を囲ませたのです。 そして、家臣たちがガラシャに全てを伝えました。 ガラシャは少し祈った後に、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「 わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ逃がしました。 その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。 ガラシャの死は、他の大河ドラマの中でみた事がありますが、戦国時代ってこんな感じやったんかと思うと常に死と隣り合わせというか、今の時代に生きる自分からするとどこか絵空事のようにも思えます。 いろんな時代を経て今の時代があるんですね。 子孫は? 子孫は、どのような方達がいるのか気になりますね。 何年か前にフィギュアスケートの織田信成さんと、明智光秀の子孫の方と対面するのをテレビでみました。 その時は女性の方が出演されていたと思いますが他にどのような方がいるのか調べてみました。 織田昌澄 光秀の外孫にあたり、大坂の陣で豊臣方に加わるが助命される。 子孫は旗本となっています。 細川忠隆 細川忠興の嫡男。 後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となる (ガラシャの血を継いでいる)。 細川隆元・細川隆一郎・細川珠生は子孫。 細川綱利 ガラシャのガラシャのひ孫。 討ち入り後の赤穂浪士を預かる。 細川忠利 細川忠興の三男。 熊本藩初代藩主。 第8代で男子なく分家より養子を迎える。 熊本藩主家における光秀の血は途切れています。 孝明天皇 幕末に皇位にあった第121代天皇。 彼の生母は細川ガラシャの生んだ忠隆の娘・徳の末裔です。 今現在• 明智 憲三郎さん 「本能寺の変 431年目の真実」という本を書かれています。 それ以外にも「光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見」「「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求 」などの著書があります。 クリス・プぺラーさん。 ナレーターでおなじみの彼はなんと明智光秀の子孫です。 日本人である母方の祖母から聞いたそうです。 内田青虹(うちだせいこう)さん 日本画家で、明智憲三郎氏のブログにて、内田氏が明智一族であると打ち明けられたそうです。 明智ハナエリカさん ミュージシャンをされているようです。 日本とイタリア系メキシコ人のハーフです。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣 細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主。 8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えているため、ここで光秀の血は一度途絶えていますが、 護煕氏の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔にあたるため、明智光秀の血が流れていることになります。 現在も子孫の方達も活躍されているようですね。 光秀自体まだ謎がおおく、子供の人数もいろんな説があるので日本のどこかや世界のどこかでそれぞれ活躍されているかもしれないですね。 やはり細川家に嫁いだ娘・ガラシャからの血筋をひいた子孫は幕末まで続いているので、光秀の子孫としては一番はっきりしているのではないのかなと思います。 調べていてびっくりしたのが、 今上陛下は明智光秀、細川忠興、前田利家の子孫ということ。 何故なら、関ヶ原のときに、 嫡男忠隆の正室はガラシャとともに自決せずに、実家である前田家に避難しています。 これが気に入らなかった忠興は、忠隆を廃嫡しました。 その後に生まれた娘の 徳が京都の公家である西園寺家に嫁いでいます。 これがのちに皇室へとつながるきっかけに。 正親町雅子 細川ガラシャの生んだ忠隆の娘・徳の末裔)が孝明天皇の母となり、 孝明天皇の第一王子が明治天皇です。 この系統からみると、 今上陛下は明智光秀、細川忠興、前田利家の血筋をひいてることになるんですね。 天皇家まで子孫とは、自分からしたら次元が違いすぎる世界です。 まとめ 2020年の大河ドラマに先駆けて明智光秀の生涯を簡単に調べてみました。 が、自分の率直な感想からすると、奥さんとの話が本当ならめっちゃいい人。 やけど他の部分をみると性格悪いなというかある意味世渡り上手な人物だったんでしょうね。 本能寺の変の際も味方になってくれる人がいなっかということは、娘婿とか…。 上にはこびへつらって信頼されてたかもしれないけど仲間から嫌われていた所をみると嫌な奴やったんかな。 信長に気に入られて出世頭になってたことが、信長一筋で使えてきた家臣からしたら面白くなかったはずですからね。 武将としては長けていたことは間違いないと思います。 本能寺の変に関してはまだまだ謎が多いみたいですね、当時書かれてる歴史関係の話など、自分の一族が不利な話より英雄的扱いで後世にのこしり、後世の人が伝え聞いた話をまとめて本にしたり、その間に脚色されたり感性で書かれてる事もありますからね。 明智家側、織田家側から出た話など当時の噂など…。 いつか本当の理由がわかる日がくるかもしれないですね。 子孫にかんして活躍されている方もいて、光秀も自分の子孫が天皇家に嫁いぐとは思ってなかったやろうな。 血族も途切れることなく今も続いてるんですね。 ドラマではどんな人物像で描かれるのか、そして、本能寺の変はどの諸説が使われるのか楽しみですね。

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クリス・ペプラー、明智光秀の直系子孫だった 専門家が太鼓判― スポニチ Sponichi Annex 芸能

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天下布武を掲げ戦国乱世を終息させようとした織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽柴秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます・いちます)とともに 織田家五大将の一人に数えられた明智光秀(あけちみつひで)。 日本の中心であった京都を抑え、畿内から東海、北陸に巨大な領土を保有し、地方平定戦に乗り出した直後の織田信長を明智光秀は戦力的空白を突いてこれを自刃に追い込み、わずかに11日間ながら天下人になりました。 謀叛人、裏切り者などのありがたくない呼び名で知られることも多い光秀ですが、その卓越した軍事的才能、公明正大な行政手腕、攻守ともに手堅い戦場での采配、和歌や連歌に通じた文化人でもあったと伝えられる一流人物・明智光秀の子供たちや子孫は本能寺の変以降、どのような運命を辿ったのでしょうか? まずは光秀と 正室・煕子(ひろこ)の子供たちから見ていきましょう。 『明智軍記』に基づく家系図 明智光秀の出自は謎に包まれていますが、子女もまだ謎が多く、明智光秀に何人の子供がいたのか明確に分かっていません。 ここでは、江戸時代中期に記された明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』をもとに簡単な家系図をご紹介いたします。 明智光秀と正室・煕子の娘たち 明智光秀には江戸元禄時代に書かれたと言われる「明智軍記」では 三男四女、「明智系図」では 六男七女(二人は養女)の子供がいたと言われています。 反逆者として敗北し、後の天下人によって完全に悪人とされた光秀には、勝者の歴史である戦国、江戸時代の文献に正確な歴史的史料が残ることは難しかったのでしょう。 このため史料に記述が残る人物について、具体的に紹介しておきます。 息子・明智光慶 明智光秀の嫡男(正室との間にできた年長の子供)は光慶(みつよし)と伝えられていますが、 生年不詳の上に元服や初陣の記録もなく、唯一光秀主催の歌会で光慶が結句を詠んだ記録があるだけです。 このため最期も亀山城での病死、坂本城での自害など諸説があり、また山城国の妙心寺や和泉国の本徳寺の僧となったと言う生存説も存在します。 次男・明智自然 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」で田中レイくんが演じた明智自然(あけちじねん)。 可愛い演技で視聴者の心を一瞬のうちに鷲掴みにしたようですが、この明智自然とは誰のことなのでしょうか? 明智軍記では光秀の次男・十次郎光泰(じゅうじろうみつやす)の幼名が自然だと記されており、山崎の合戦ののち明智秀満らが坂本城で自害したときに死去したと伝えられています。 他にも明智系図、明智軍記に仏門へ帰依した者の名が何人か記されていますが、その行く末が確認されている者はいません。 現代の子孫 クリス・ペプラーさん 山崎の合戦の敗戦で光秀の血をひく人物を多く失いましたが、その中からしぶとく生き残り、現代に光秀の血を受け継いでいる人物がいます。 ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つクリス・ペプラー さんです。 テレビ番組のナレーションやFMラジオでのDJなどのレギュラーを多く持ち、落ち着いた美声で最近は声優の仕事もされています。 クリス・ペプラー さんの母方の祖母が美濃守護大名・土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝えられており、 この頼勝には光秀の実子説があります。 真偽のほどはともかく、母方が土岐氏を名乗っているのであれば、光秀と同じ土岐氏の血筋であることは間違いなさそうです。 細川隆元、細川隆一郎 明智珠ことガラシャが嫁いだ細川家にはその血を受け継いだ末裔の人物が存在しています。 細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。 歯に衣を着せぬしゃべりで時事、政治についての対談や記事で人気があり、天下のご意見番の異名もとっていました。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙(ほそかわもりひろ)は細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主で、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員も勤めた政治家です。 肥後細川家は8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えたため、ここで光秀の血は途絶えたのですが、 護煕の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔になるため、護煕にも明智光秀の血が流れていることになります。 坂本龍馬も? 他には 幕末に活躍した土佐藩士の坂本龍馬の家紋も桔梗紋のため、明智光秀の子孫ではと小説や解説書などで取り上げられました。 これは坂本城で自害したとされる明智秀満が落ち延びて、土佐の長宗我部家を頼りここに定住し、その子孫が坂本家と言う伝承があります。 しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。

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明智光秀の実像②~明智光秀は美濃の土岐氏の一族か~

明智 光秀 家 系図

大河ドラマ「麒麟がくる」では、上記のように明智光秀と帰蝶はいとこの関係になっています。 しかし、明智光秀の出生について書かれた資料は「本能寺の変」以降に書かれたものだけで、この家系図が本当に正しいかどうかは意見が分かれるところです。 明智光秀はいつから織田信長の家臣になるのか?妻となった帰蝶は関係があるのか? 明智光秀がのちの主君となる織田信長と対面したわけですが、いったいいつから家臣になるのでしょうね? 親戚関係にあたる帰蝶は何か関係しているのでしょうか?それに、現在仕えている斎藤道三(利政)とはどうなってしまうのか気になりますよね。 これらのことについて解説していきます。 明智光秀は斎藤道三 利政 を裏切って織田信長の家臣になったのか? 現在、明智光秀が仕えている主君は美濃の斎藤道三(利政)です。 明智光秀が織田信長に仕えるとなると「斎藤道三との関係はどうなってしまうのか?」「もしかして裏切るのか?」と気になるかもしれませんね。 結論から言うと、明智光秀は斎藤道三に最後まで仕えます。 というのも、実は斎藤道三と息子の斎藤義龍(高政)との関係が悪化してしまい、親子で合戦をするまでに至り、そこで斎藤道三は敗れて死んでしまうのです。 この親子の戦いは「長良川の戦い」と呼ばれ、明智光秀は主君の斎藤道三側について、最後まで裏切ることはありませんでした。 明智光秀が織田信長の家臣になった背景に帰蝶は関係があるのか 先程もお伝えしたように、明智光秀と織田信長は帰蝶を通じて親戚関係にあたります。 となると、明智光秀が織田信長に仕えるようになった背景には、親戚関係にある帰蝶がなんらかの影響があったのではないかと考えられます。 それを裏付けるものとして「細川家記」という細川家の書物に興味深い一節があります。 拙者は信長の室家に縁があるためしきりに招かれているが、大禄をあたえんと言われたのでかえってためらっている。 引用:文春文庫「武将列伝」 海音寺潮五郎 著 これは細川藤孝と会見した際に明智光秀が言った言葉として書かれており、「私は信長の妻の家系に縁があるから(家臣として)しきりに招かれているが、報酬をたくさん出すと言われた為かえってためらっている」という内容のものです。 つまり、帰蝶を通じて織田信長は明智光秀のことを元から高く評価していたことがわかるわけです。 斎藤道三に仕えていた時代の明智光秀のことは謎に包まれていて、ほとんど記録として残されていません。 ただ、織田信長と斎藤道三の間にいる帰蝶にとっていとこの明智光秀の存在は頼りになり、光秀はその意向を汲んで影で二人の間を取り持つ仕事をしていたのではないでしょうか。 そしてそれが織田信長に高く評価されていたと考えられますね。 明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか解説 では明智光秀はいつ織田信長に仕えるようになったのでしょうか。 前述の斎藤道三が亡くなった後すぐに織田信長に仕えたのかというと、実はそうではありません。 なんとそれから約10年後の1568年頃だとされ、その時明智光秀はすでに40歳を過ぎていました。 これは将軍・足利義昭が京都で三好三人衆に襲われた「本圀寺(ほんごくじ)の変」で、うまく防戦したことが織田信長に認められ、それから仕えるようになったとするものです。 ただ、正式にいつ仕えるようになったは定かではなく、その後1571年の「比叡山延暦寺焼き討ち」での功績が認められてから、とする説もあります。 いずれにせよ、明智光秀が織田信長に仕えるようになったのは40歳を過ぎてからのことのようです。 なお、道三の亡き後斎藤家を離れた明智光秀は、織田信長に仕えるまでの約10年間どうしていたかというと、越前の朝倉義景のもとに仕えていたとされ織田信長との接点は薄れています。 ちなみに「比叡山延暦寺焼き討ち」については、実は明智光秀は積極的に関与していたとする説もあります。 この事件はいずれ「麒麟がくる」でもでてくると思いますが、はたしてどのように描かれるのかも見ものですね。 大河ドラマ「麒麟がくる」での今後の展開はどうなるのか? 大河ドラマ「麒麟がくる」でいよいよ明智光秀と織田信長が対面しました。 今後の展開としては、斎藤道三と織田信長の間に挟まれた帰蝶と親戚にあたる明智光秀が、二人の間を奔走して活躍するシーンが多くなるのではないかなと思います。 また、織田信長と帰蝶の夫婦の関係や母である土田御前との関係など、織田家の家中がどうなっていくのかも見どころですね。 ちなみに、織田信長と帰蝶との関係や、母・土田御前との関係についてもまとめていますので、「麒麟がくる」の今後の展開を占う意味でこちらも読んでみて下さい。 さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。 登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

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