出雲阿国 文化。 出雲阿国と歌舞伎

『出雲大社の周辺徹底散策~ここはまさに神話の舞台。神々と隣り合わせで暮らす街には、出雲阿国や出雲そばから旧家のコレクションまで、豊かな文化が匂います~』出雲市(島根県)の旅行記・ブログ by たびたびさん【フォートラベル】

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奥出雲地方で盛んに行われていた「 鉄穴流 ( かんななが )し」は、山を切り崩して土砂を流し、それに含まれる砂鉄を採取する方法です。 この鉄穴流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すことから、流域の環境に大きな影響を与えました。 川底が上がり洪水を起こしやすい「 天井川 ( てんじょうがわ )」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水路が埋まることなどは負の側面です。 その一方で、先人達は鉄穴流しの跡地を棚田に造成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利用してきました。 私たちの慣れ親しんだ出雲地方の景観は、たたら製鉄によって育まれたものだったのです。 鉄穴流し 再現模型[和鋼博物館 蔵]• 上流で鉄穴流しが行われた影響で天井川となった 斐伊 ( ひい )川(島根県東部) 奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観 奥出雲町には、鉄穴流しの跡地につくられた 棚田 ( たなだ )が広がっています。 鉄穴流しの際に削り残された残丘が島のように点在する独特な風景は、「 奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されています。 その代表的なものとしては、奥出雲町 馬木 ( まき )の「 大原新田 ( おおはらしんでん )」が挙げられます。 『鐵山記』より描かれた鉄穴流し風景[和鋼博物館 蔵]• 鉄穴流しによって拓かれた広大な水田• 大原新田(奥出雲町馬木) 農林水産省による「日本の棚田百選」にも選ばれた大原新田は、江戸時代の鉄穴流しの跡地を鉄山師である 絲原 ( いとはら )家が棚田として再生させたものです。 美しく手入れされた大原新田は近年の 圃 ( ほ )場整備によるもののように見えますが、江戸時代から変わらぬ姿を残す36枚のカンナ田です。 あたかも現代の技術で整えたかのように大規模かつ整然と整備された棚田からは、当時の優れた技術が見てとれます。 ブランド米として有名な「 仁多 ( にた )米」は、奥出雲の棚田で作られています。 鉄穴流しが生んだ出雲平野の景観.

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風水芸人・出雲阿国が教える「リビングの開運風水&NG風水」(出雲阿国)

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歌舞伎を作った出雲阿国とは? まずは阿国の人物像や、歌舞伎の原型ともいえる「かぶき踊り」がどのようにして生まれたのかについて見ていきましょう。 もともとは出雲大社の巫女だった 出雲阿国です。 元は出雲大社の巫女でした。 元亀3年(1572)阿国は出雲国(現在の島根県)の鍛冶屋・中村三右衛門の娘として生まれました。 そして、日本を代表する神社である出雲大社の巫女(みこ)となります。 巫女だった彼女が踊るようになったのは、出雲大社の修繕費用を寄付してもらうことが目的でした。 文禄年間に出雲大社勧進のため各地を踊りながら興業巡業したところ、阿国の踊りが評判になったのです。 ヤヤコ跳からかぶき踊りに変化 宮中での様子が描かれた『時慶卿記(ときよしきょうき)』では、慶長5年(1600)「クニ」という人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録が残されており、この人物が慶長8年(1603)に「かぶき踊り」を始めたと考えられています。 もともと阿国が踊っていた「ヤヤコ跳」は、幼子の遊びのようなかわいらしい踊りでした。 しかし興業を続けていくうちに、だんだんと人々が求めている踊りに変化していきます。 こうして誕生したのが「かぶき踊り」です。 この「かぶき踊り」は後に遊女屋にも取り入れられることとなり、男性から人気を得ました。 人気を博した阿国のかぶき踊り 京都四条大橋にある出雲阿国の像です。 阿国が始めた「かぶき踊り」は諸国で人気を博します。 そこまで人々を沸かせた「かぶき踊り」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。 異性装を特徴としていた 「かぶき踊り」は、名古屋山三(なごやさんざ)役の男装をした阿国と、茶屋の娘役の女装をした阿国の夫が濃密に戯れるという内容でした。 彼ら以外の踊り手も異性装を売り物としており、それを見た観客は倒錯感に高揚したといいます。 踊りの最後には出演者と観客が入り乱れて全員で踊るなど、かなりの熱狂ぶりだったようです。 また、阿国が「かぶき踊り」を始める際に念仏踊りを取り入れたという見方が一般的ですが、その可能性は低いと指摘する説もあります。 諸国を巡業した一座 もともと阿国の一座は四条河原の仮設小屋で興業を行っていましたが、後には北野天満宮に舞台を張るほどになりました。 『当代記』によると、京で人気になり秀吉のいる伏見城に参上して踊ることもあったのだとか。 また、公家の近衛家や皇室の女性が住む御所でも踊りを披露していたようです。 阿国の一座は京都での人気が衰えると、江戸を含む諸国を巡業してその芸を見せていきました。 もともと仮設小屋で始まったことを考えると、驚くほどの大出世といえるでしょう。 こうして世間を熱狂させた阿国でしたが、慶長12年(1607)江戸城で勧進歌舞伎が上演されたあとは消息が途絶えています。 ただし慶長17年(1612)に御所で「かぶき踊り」が演じられており、これを阿国の一座だとする説もあるようです。 女人禁制の歌舞伎になるまで 世間で話題となった「かぶき踊り」は、徐々に「歌舞伎」へと変化していきます。 それと同時に、現代のスタイルに近い女人禁制へと変わっていったのです。 遊女歌舞伎の発展 遊女の品定めの場になっていった遊女歌舞伎。 阿国が広めた「かぶき踊り」は遊女屋で取り入れられ、 「遊女歌舞伎」として広まっていきました。 当時はさまざまな土地の城下町に遊里がつくられていたため、この遊女歌舞伎はわずか10年ほどで全国に広まったといわれています。 遊女歌舞伎は、男装した遊女と遊女の濃密な掛け合いに、三味線による囃子(はやし)を追加したものです。 これはお客にとって、遊女の品定めの場になっていたようです。 幕府が風紀を取り締まった こうして阿国の一座による「かぶき踊り」は遊女屋でも広まっていきましたが、あるときから女人禁制となってしまいます。 というのも、寛永6年(1629)江戸幕府は女性が芸能の舞台に立つことを禁止したからです。 この背景には、風紀の乱れを取り締まるという理由以外にも、江戸時代以降に強くなり始めていた男尊女卑の傾向が関係していたようです。 もともと女性によって広まってきたことを考えると、これは大きな、そして、なんだか無慈悲な変化といえますよね。 傾奇者だった阿国 当時、女性ながら武士の姿に扮した阿国は「傾奇者(かぶきもの)」として知られています。 阿国が作った「かぶき踊り」は、やがて大胆で過激な女性だけの「女歌舞伎」や、若い美少年による「若衆歌舞伎」といったものに姿を変えていきました。 しかしこれらも、風紀が乱れるという理由で禁止されてしまったのです。 歌舞伎が現在の形に近づいたのは元禄時代になってからのことです。 この頃には男性中心の演劇へと形を変えて、広く民衆に親しまれるようになりました。 <関連記事>.

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【出雲阿国が作った歌舞伎】かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで

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ややこ踊りとかぶき踊り 西洞院時慶によって宮中の様子などが記された『時慶卿記』には慶長5年(1600年)に 「クニ」と名乗る人物と「菊」と名乗る人物が 「ややこ踊り」を踊ったという記録が残されています。 この3年後の慶長8年(1603年)に「クニ」という人物が「かぶき踊り」を始めたと考えられ、またこの「クニ」こそが出雲阿国と考えられています。 ややこ踊りとは ややこ踊りは初め、幼い少女2人によって踊られていたものとされています。 その幼さが協調され「ややこ」と名付けられました。 かぶき踊りとは 当時、常識から外れた派手な服装や髪型、また大きな刀を持ち歩いた若い男性は傾き者と呼ばれていました。 傾き者が 当時流行していた茶屋遊びを楽しむ様子を演じたものが、かぶき踊りとされています。 かぶき踊りでは出雲阿国は名古屋山三と呼ばれる男性を演じ、出雲阿国の夫・三十朗が茶屋の娘を演じました。 男装の出雲阿国、女装の三十朗が舞ったかぶき踊りは多くの評判を呼び、庶民の間で人気を博すこととなったとされています。 北野天満宮 京都で人気を得た出雲阿国は、伏見城でも演じたとされています。 また当初は四条河原に設置された仮設小屋で上演していたとされていますが、やがて京都の北野天満宮で定舞台を張るようになりました。 江戸での上演 京都で人気を得た出雲阿国やその一座はその後、京都で人気が衰え始めると江戸でも舞を演じたとされています。 江戸で演じた出雲阿国やその一座でしたが、慶長12年(1607年)江戸城で勧進歌舞伎を上演したのを最後に、出雲阿国の記録は残されていません。 しかし慶長17 1612年 4月に御所でかぶき踊りが演じられている記録があり、このかぶき踊りは出雲阿国によるものではないか。 と考えられています。 出雲阿国の最期と墓 出雲阿国の晩年や最期は分かっていません。 また没年は慶長18年(1613年)または正保元年(1644年)、万治元年(1658年)などの推測があり、没年も明確には分かっていません。 墓について 出雲阿国の墓とされる墓は2つ存在します。 1つ目は出雲大社の近くにある墓です。 出雲阿国は晩年、尼になるため出雲に戻ったと考えられ、そのことから出雲大社の近くにある墓は出雲阿国と考えられるようになりました。 出雲阿国の墓とされる2つ目の墓は京都大徳寺の高桐院に存在しています。 若衆歌舞伎、元禄歌舞伎 また他にも12歳から17歳の少年によって演じられる若衆歌舞伎が誕生しました。 遊女歌舞伎とは違い、若衆歌舞伎は京、大阪、江戸の三都で演じられました。 遊女歌舞伎と同様に若衆歌舞伎も禁じられることとなりましたが、元禄時代にはいると元禄歌舞伎が誕生します。 その後も変遷を繰り返し、現在の歌舞伎が出来上がりました。 まとめ 出雲阿国は安土桃山時代に活躍した女性芸能者でした。 出雲阿国が演じた「ややこ躍り」は「かぶき踊り」へと変化し、その後、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、元禄歌舞伎など変遷を繰り返すこととなります。 現在目にすることのできる歌舞伎は様々な変遷を経てできたもので、その基となるのが出雲阿国が演じた「ややこ踊り」でした。

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