まんびきかぞかく家族構成。 『万引き家族』地上波初放送!フジテレビで人気映画が続々オンエア

万引き家族 : 作品情報

まんびきかぞかく家族構成

「非家族」が照らし出す「家族」 まず、劇中の「万引き家族」を構成している「柴田家」の人々を見てみよう。 「柴田家」の人々は、互いをなんとなく家族とみなし、周囲も彼らのことを家族とみなしている。 しかし法的には家族ではないし、生物学的にも家族ではない。 つまり『万引き家族』は、「家族にあって家族に非(あら)ず」という「非家族」についての映画なのである。 これがこの映画の中心テーマとなっている、重要な仕掛けだ。 観客は、父親として振る舞う治(リリー・フランキー)と、まるで息子のように治を慕う祥太(城桧史)の「雪だるま」作りをはじめとして、説得力たっぷりに描かれる「家族らしい家族」のエピソードを次々と〝体感〟させられる。 それによって、次第に「家族らしさの源泉とは、一体なんなのか?』ということに関心を向けざるを得なくなる。 Photo by gettyimages 社会学者のJ・F・グブリアムとJ・A・ホルスタインは、(新曜社)で、「家族」という言葉の使われ方を分析し、その定義そのものの核心に踏み込んでいる。 友だちを家族と呼ぶ者もいれば、ペットを家族と呼ぶ者もいる。 さらには、多国籍企業をひとつの家族とみなす者もいる。 逆に、妻や血のつながった子ども、両親を家族と呼ぶのを拒む者もいる。 誰が正しいのだろうか…。 そもそも、わたしたちが「家族」と呼んでいる集団は、法的なものや生物学的なものだけでは捉えきれない。 では逆に、「家族に不可欠なもの」とはなにか。 社会学者のタルコット・パーソンズは「家族固有の機能」を「子どもの基礎的な社会化」と「成人のパーソナリティの安定化」の2つに絞った。 つまり、子どもを社会に適応させ、大人の精神を安定させるはたらきをもつ共同体こそ家族である、と考えたのだ。 極論すれば、この2つの機能を満たす集団なら、血縁がなくとも家族として十分機能する。 この「家族の条件とはなにか」という問題について、是枝監督はすでに『そして父になる』(2013年)で答えを提示している。

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万引き家族 : 作品情報

まんびきかぞかく家族構成

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『万引き家族』を見た。 是枝裕和監督。 僕はとっても面白かったですね。 見てよかった。 実は映画を見たのは公開後間もない頃だったのに、あれこれ考えて感想書くのをずっと先延ばしにしてきた。 タイトルの『万引き家族』というのはインターネットスラングでいうところの釣りタイトルだろう。 映画のなかでは本物の釣竿を万引きするシーンもあるけれど、もちろんそういう意味ではない。 あえて強烈な拒否反応や嫌悪感を与えそうなインパクトあるタイトルをつけることによって、本来のテーマを事前知識として、あるいは鑑賞の途中まで観客に意識させないようにしたのだ。 そしてそれは見事に成功している。 つまり万引きという題材はあくまで映画の道具立てで、それを借りてべつの何か、貧困とか福祉切り捨てとかネグレクト(育児放棄)などという社会問題と真摯に向き合っていく、いってみればいつもの是枝イズムに溢れた傑作だと思った。 冒頭にこそ父親のリリー・フランキーさんと城桧吏さん(11歳)演じる息子・祥太との華麗な(という言い方は語弊があるが)連携プレイによる万引きシーンがあるが、それ以降は万引きという行為そのものがクローズアップされるシーンは実はそれほど多くない。 だいいちリリーさんは建設現場で日雇いの仕事をしているし(あまり真面目じゃないが)、母親役の安藤サクラさんはクリーニング工場でパートをしている(客の忘れ物をこっそりネコババするけどね)。 ちなみに祥太は「小学校は家で勉強できないやつが行くところ」というリリーさんがうそぶく言葉を信じて学校には行っていない。 一家が住むボロ家の持ち主であるおばあちゃんの樹木希林さんは、月に6万の年金を貰って昼間はパチンコをして暮らしている(ときどき他人の出玉をくすねて)。 要するにふだんの生活で不足する物資、シャンプーとかカップラーメンとかのこまごましたものを万引きで補う暮らしには違いないが、それでもって「万引き家族」とまで表現するのはちょっとオーバーかなあという気が僕はしました。 ただ彼らの生活信条の根底には、「店の売り場にあるものはまだ誰のものでもないから盗んでいい」というリリーお父さんの理屈や、「店がつぶれない程度になら(万引きするのは)いいんじゃない」というサクラお母さんの言い分があり、どちらもそうとう自分勝手で誤った無茶苦茶な理屈だけど、当人たちはそれを免罪符のようにしているのは確かだ。 「万引きは立派な犯罪です」というより、自分たちのような社会からこぼれ落ちた人間が、その社会からのほんのちょっとおこぼれを頂戴するだけの行為のいったいどこかいけないのか、という憤りとも開き直りともつかない気持ちが彼らのなかにはあれど、なにか社会に復讐してやろうとかいう壮大な覚悟はおそらくないし、スリルを求めてとかいうゲーム性も感じられない。 でまあ、そんなふうにそれなりにしあわせに暮らしていた家族に、親に虐待されアパートのベランダで隠れるように身を潜めていた佐々木みゆさん扮する女の子を不憫に思ったリリーさんが家に連れてきて、一緒に暮らすようになる。 そこから、この一家のありようが微妙に変化してくるという話だ。 映画的には、この出来事で一家の隠された秘密が徐々に明らかになってくるという仕掛けだった。 万引きという行為、誘拐まがいの行為を除けば(そういうのを除くというのもアレなんですけどね)、おんぼろで小さな平屋建ての家で共同生活を送っている一見どこにでもいそうな貧乏だけど明るく楽しい家族(サザエさん一家みたいな)の、ありふれた日常が淡々と綴られる映画なのだった。 そこのところを退屈と感じるかどうかがひとつ、映画をどうこう判断する分かれ目になるだろうなあ。 『万引き家族』の骨子は、僕は祥太の成長の物語だと思っている。 ある日突然りん(先刻の女の子のこの家族内での名前)という妹が出来、彼女に兄として慕われるようになるにつれ祥太は自分でも気づかないうちに変わっていく。 ひとつ転換点となる象徴的なシークエンスが、りんと駄菓子屋で万引きをしようとしたところを柄本明演じる店のおじさんに見つかり、「妹には、これ(万引き)やらせるなよ」と駄菓子をくれて見逃してもらうくだりだ。 サザエさんの例でいえば、伊佐坂先生みたいな懐かしい感じの町内会のおじさんが出てくるあたりに是枝監督の真骨頂があると僕は密かに思っているんだけどもね、この社会というのはもはやどこにも救いがないように見えるけれど、案外柄本明さんのような大人が(数は少なくなったが)まだまだいて、ルールを外れた行為をときには見過ごしてくれたり思いやりある忠告を与えてくれることによって、懐の深い社会を形成しているのだというふうなね。 ちょっとあそこいいシーンでしたよね。 祥太も柄本明さんの言葉で、自分がこれまでなにも考えずくり返してきた行為を、妹であるりんにまではやらせちゃいけないのではないかと思いはじめる。 あるいは「店のもはまだ誰のものでもないから(万引きしても)いいんだ」と言っていた父親が、工事現場で怪我をして働けなくなり皮算用していた労災も下りず、万引きもままならない身体になった途端、再び車上荒らしを始めるのを見て、それもどこか腑に落ちないものを感じてくる。 手垢のついた表現でアレなんですけど、ちょっとエディプスコンプレックスのような、「父親殺し」というほど過激なことまではいかないまでも、父親越えのような。 これまでずっと盲信してきたリリーさんに対する信頼が揺らぎ始めるようになるのだった。 小さな家の縁側から家族で花火を見上げるシーン。 このシーンはいつまでも心に残る……。 クライマックスはある夏の日。 リリーさん一家は電車に乗って日帰りで海へ遊びに行く。 そこで祥太は、母親サクラさんの妹の亜紀の水着からこぼれおちるおっぱいに思わず見惚れてしまうのだった。 祥太の成長がもはや飽和点に到達したことを強く印象づける面白いシーンだった。 この海水浴のシークエンスは全編、ことに海ではしゃぐ家族の様子を砂浜から静かに見つめる樹木希林さんの見事な演技もあいまって、奇跡のように素晴らしいシーンの連続だった。 あたかも家族の最期の晩餐みたいな。 ついさっき亜紀のおっぱいなんていきなり説明もなしに書いたけど、映画見てない人には亜紀って誰? ってことだよね。 亜紀は安藤サクラさんの妹でこの役は松岡茉優さんが演じている。 祥太からすれば叔母さんに当たることになるのか。 亜紀は女子高生がエッチな行為を見せてくれるという風俗店で働きながらリリーさん一家と同居しているのだ。 話は逸れるが(でも重要なこと)、僕が気になったのは家族のなかで亜紀だけがちょっと独特のポジションにいるというか、彼女は風俗で稼いだお金を一家の生活費に入れなくていいことになっていて、それになにより亜紀だけがなぜか万引き家族のなかにあって唯一万引き(およびそれに類する盗みのたぐい)をしないのだ。 『万引き家族』なのに万引きしない。 それはなぜなんだろうと、僕は映画を見てる最中も見終わった後もずっとそのことを考えていた。 父親がいて母親がいておばあちゃんがいて子どもが二人いて、家族と名乗るにはもうそれだけでも十分過ぎる構成なのに、わざわざお母さんの妹の亜紀まで同居させる理由はいったいどこにあるのだろうと。 話をこれ以上ややこしくする必要があったのかと。 結論から書くと、ひとつは先ほどの祥太やリリーさんの「性」の問題を浮き上がらせるためのアイコンとして。 家の中でリリーさんと亜紀がふたりきりになるシーンがあって、あそこちょっとドキドキしたもの。 で、そのあとのソーメンからの例のくだりに繋がるわけだからね。 それとこっちが本意だろうけど、亜紀がある意味「傍観者」の立場にいるからなんだと思ったんですね。 あるいは観察者と言い換えてもいい。 彼女は一家と共に暮らしながらも、つねに客観的にこの家族を見ていた。 後述するが事件がすべて明るみになったあと、亜紀ただ一人があの一家の住んでいた元の家に舞い戻り、懐かしそうに家の隅々まで見て回るのが亜紀だった。 こういう考え方はどうだろう。 誰からも見つからないように世間と隔離するようにひっそり暮らしているリリーさん家族と、反対に誰かに見つかりたがっている、というか実は特定の誰かに自分の存在を見つけてほしい(認めてほしい)と願望している存在の亜紀、という構図を監督は意図して作りだしたのではないかと。 観察者を内部に抱えることによって、この万引き家族の特異さがよりいっそう際立ったのは間違いない。 言ってみれば亜紀は観察者であり物語の語り手のような存在だったのだ。 世間から目立たないように暮らす特異な家族の物語の(ちょっと信用できない)語り手。 あるいはこの物語のすべてが亜紀の妄想であり、彼女が作りだしたファンタジーだったといってもいいかもしれないとさえ僕は思う。 映画を見た人はすぐわかると思うけど、あの「4番さん」を膝枕しながらそっと話して聞かせたようなファンタジーなのかもしれない。 祥太が劇中でリリーさんに話して聞かせる『スイミー』という小学校の国語の教科書にも出てくる物語がある。 小さな魚たちが群れを作り大きな魚のふりをして巨大なマグロから身を守ろうとする話。 振り返ってみるとリリーさん一家を象徴するとっても重要なメタファーなんだけど、亜紀はあのスイミーの群れには含まれない。 なんとなれば彼女には、群れを作ってでも生き延びてやろうという逞しさも熱量もないからだ。 亜紀はそれほど儚い存在なのだった。 自分よりかよわいりんと出会うまでは完全に亜紀はそんなふうだった。 でも彼女だって変わりはじめる。 自分よりうんとかよわいりんと出会ってから。 そして少し残酷な言い方になるが、自分の思いを声に出して誰かに伝えることが物理的に叶わない「4番さん」と出会うことによって。 まあ総じてこの物語の登場人物たちは、老い先短いおばあちゃんと絶賛能天気なリリーさん以外(リリーさん本人じゃなくて役柄)、みんな成長するのだ。 祥太は言うに及ばず幼いりんも、母親のサクラさんも母性に目覚め、もちろん亜紀にもそんな兆しが見える。 話を元に戻します(どこに戻せばいいのやら)。 樹木希林さん演じるおばあちゃんが海への日帰り旅行のあと唐突に死ぬ。 それから妹みたいに祥太に懐いていたりんが、祥太の真似をしてスーパーでお菓子を盗もうとして見つかりそうになる。 それを庇ってわざと見つかるようなヘタな万引きを打った祥太が、店員に追いかけられ、道路から下のアンダーパスへ飛び降りて怪我してしまう。 たんたんと進んできて物語はここにきて急展開を迎えるのだった。 祥太は警察に補導され、そこからリリーさん一家の意外な真実が次々と明らかになる。 実は彼らは誰一人として血縁関係にない、寄せ集めの家族だった。 そんな家族に警察や司法や福祉の手が、ある意味形式的に、ある意味無造作に、無遠慮に入ることによって貧乏ながらあれほど幸せに暮らしていた家族が、皮肉なことにバラバラになってしまうのだ。 世間の目から逃れるように生きていた「誰も知らない」家族が、ゆえに社会のどこからも誰からも救いの手が差し伸べられること適わなかった家族が、一夜にして今度は世間の誰もが知るところとなった途端、無残に解体されてしまうというこの矛盾。 このつらい現実を僕らは容赦なく見せつけられる。 是枝監督が映画をとおして伝えたかったことは、つまりこのことだったと思う。 人間として社会のルールから若干逸脱した人たちであっても、彼らを受け入れる社会の温かさ懐の深さがもう少しあってもいいのではないかということ。 そして家族として必要なことは血縁なのか、それとも愛情なのかというテーゼも同時に僕らはつきつけられたわけだ。 この問いに対する解がもちろん映画のなかで明確にもたらされることはないが、それは観客ひとりひとりが考えていくべきことだろう。 祥太役の城桧吏さんは『誰も知らない』の柳楽優弥さんを彷彿とさせる目力がある素晴らしい俳優さん。 松岡茉優さんはこの映画でいちばん厄介な役を見事に演じていた。 佐々木みゆさんのけなげさ。 リリー・フランキーさんはしょぼくれたおやじをやらせたらいまこの人の右に出るものがいないと思う。 僕的には田中邦衛さんの域にまで到達した印象。 リリーさんで『北の国から』の続編が撮れるなあと。 安藤サクラさん、樹木希林さんの演技が見事なのはいまさら言うまでもない。 樹木希林さんが玄関先で、やてきた老人福祉員を前に、歯のない口いっぱいにみかんかなにかを頬張るシーンの得も言われぬ凄み。 前述した海のシーンの静かな感動。 安藤サクラさんはラスト近くで取り調べの警察官に、「子供たちは、あなたのことなんて呼んでたの?」と訊かれて曖昧につぶやく。 「なんだろうね。 なんだろうね」 自分たちが盲目的に信じる正義を振りかざす警察官を前にして、怒るでもなく、黙秘を決め込むでもなく、ただあふれる涙を両手で何度も何度も目尻に擦りつけるようにして拭う。 ありとあらゆる感情が入り混じった震えるくらい感動的な演技だった。 もっともっと言いたいことがある。 言いたいことがありすぎて困る。 前述したシーンは言うに及ばず、名前(というか呼び名)にこだわった映画でもあった。 リリーさんは祥太との永遠の別れとなるかもしれない再会の夜、カップ麺にコロッケを浸しながら、「おじさんに戻るわ」とあっさり告げる。 あれほどお父さんと呼んでほしがっていたリリーさんなのにね。 せつない。 翌朝、祥太ひとりを乗せたバスが無情に走り去っていく。 祥太がなにかをつぶやく。 「お父さん」と呼んだようにも見えるけれど、その声はリリーさんにも僕ら観客にも届かない。 実の妹の名前を源氏名にして風俗で働く亜紀というのも、その感情が複雑すぎて怖いなあ。 りんも本名ではない新しい名前で家族の一員として迎え入れられる。 もちろん(たぶん)家族のみんなが、祥太も本名ではないのだろう。 新しい名前、この家族の中でだけ通用すればいい名前。 「4番さん」という風俗のお客さんの存在もそうだ。 彼にも本当の名前があるだろうが、亜紀の前では今は「4番さん」でいいのだ。 自分ひとりの世界では自分の名前などいらない。 ところが自分以外の誰かを呼ぶのにはその人の名前(呼び名)が必要になる。 他人から自分をなんと呼んでほしいかは、その人との距離感によっても違ってくるだろう。 あるいは自分が集合体のなかでどういうポジションでいたいのか。 そういうふだんあまりにも当たり前のこととして深く考えてもいないことが、ときにはとっても大事な意味をもってくることをこの映画は教えてくれる。 あと最後になるが、祥太が補導されたことを知って、リリーさんサクラさんは翔太を見捨てて逃げようとするのだけれど(酷いシーンだけどちょっと可笑しくて笑っちゃった)、あれ僕はね、見捨てたというより未来ある翔太やりんを自分たちとは違う日の当たる社会にもう一度戻してやりたいと思ったからじゃないかなあ、と僕は思いたいですね。 と思う一方で、家族は血縁か愛情かなんて白か黒かの二者択一じゃないし、どっちにしたってそんなきれい事ばかりで家族が成り立っているわけじゃないんだよ、という監督が投げかけた問いに対する監督自身のひとつの解答(メッセージ)みたいなものが示された場面でもあったのかなあと思った。 追記) Amazonプライムビデオでは7月8日より『万引き家族』を見放題独占配信中。 加えて是枝監督の『誰も知らない』('04年)『歩いても歩いても』('08年)『空気人形』('09年)も同日に見放題配信を開始した。 なお『そして父になる』('13年)『海街 Diary』('15年)『海よりもまだ遠く』('16年)『三度目の殺人』('17年)も現在配信中。 (2019. 9現在).

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映画「万引き家族」感想 類い稀なる傑作 今の日本の縮図がここにある

まんびきかぞかく家族構成

もくじ• 「万引き家族」のあらすじ 是枝監督の映画「万引き家族」のあらすじは STORY 高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。 彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。 足りない生活費は、万引きで稼いでいた。 社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。 冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治が家に連れ帰る。 体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。 出典: 「万引き家族」の家族構成は• 柴田初枝・・・樹木希林さん• 柴田治・・・リリー・フランキーさん• 柴田信代・・・安藤サクラさん• 柴田亜紀・・・松岡茉優さん• 柴田祥太・・・城桧吏くん• 凛(じゅり)・・・佐々木みゆちゃん です。 予告動画はこちらです。 今日一日のことしか考えれないような、悲しい家族になった人たちの話です。 貧しさから抜け出せなくなったこの家族は、どのみち崩壊するしかなかったのでしょうが、虐待を受けていた少女を連れて帰ってしまったことから、急な坂を転げ落ちるように壊れ始めます。 では映画の最後はどんな結末になるのでしょうか? スポンサーリンク 「万引き家族」の結末 映画「万引き家族」の予告動画でもあったように、凛の虐待からの保護は誘拐となってしまい、祥太は万引きで捕まってしまいます。 そして結末はどうなるのでしょうか… 子どもたちはどうなる? 「万引き家族」の柴田家の子どもたちは• 柴田亜紀・・・松岡茉優さん• 柴田祥太・・・城桧吏くん• 凛(じゅり)・・・佐々木みゆちゃん ですが・・・亜紀は長女役だけど子供じゃないので、ここでは祥太と凛についてネタバレします。 祥太は万引きで逃げる最中に、橋の上から飛び降りて大怪我をし、警察に捕まります。 わざと、飛び降りたのです。 それがきっかけになって、血の繋がりのない、偽名で生きている柴田家の秘密が明らかになっていきます。 祥太は小さい時、真夏のパチンコ屋の駐車場にいました。 車内の温度が上がる中、親がパチンコが終わるのを待たされていたのです。 そのまま放っておいたら、幼い命は失われてであろう祥太。 そんな祥太を見つけてしまった車上荒らし中の治。 本当の親はどこかにいて、車のナンバーも記憶していたので、探そうと思えば探せるのです。 でも、最終的に祥太は、施設で暮らすことになります。 その後実の両親を探すかどうかはわかりません。 凛は、虐待する実の両親のところに返されてしまします。 そして再び虐待は始まり、ベランダから外を見つめる凛でした。 治と信代夫婦はどうなる? 治(リリー・フランキーさん)は、祥太(城桧吏くん)が橋から飛び降りた時、逃げました。 祥太は実の父親ではない治の気持ちを試したのでしょうか。 祥太は拾われた子供でした。 全てが明らかになり、信代が全ての罪を被り、祥太は施設に行くバスに乗ります。 そのバスを祥太を、治は走って追いかけます。 大切な息子を失うまいと、必死で走るのです。 信代(安藤サクラさん)は、初枝と本物の親類でした。 実は信代は夫からDVを受けていて、その夫をこの世から消してくれたのは治だったのです。 治は刑務所に入ることになり、信代は治が出所するのを初枝と一緒に待っていたのです。 凛とはDVと虐待を受けて育った者同士でしたが、最後はしっかり母として娘を愛していました。 取り調べで警察官が放った言葉を聞いた信代は、演技を超えた涙を流すのです。 スゴイですね、安藤サクラさん。 祖母・初枝と長女・亜紀はどうなる? 初枝は、年齢も年齢なので・・・亡くなります。 それは家族にとって、収入源が無くなるということでもありました。 だから・・・亡くなったことは秘密に。 庭に・・・遺棄するのです。 一見、年金のために初枝が亡くなったのを隠蔽したように見えますが、存在を明らかに出来ない治たちには、葬式を上げることも、墓を作ることも出来なかったのかもしれません。 元々家出少女だった亜紀。 亜紀は初枝に利用されていたのです。 形としてはですが。 亜紀は、初枝を捨てた元夫の孫でした。 家出してきた亜紀を面倒見る代わりに、初枝は亜紀の両親からお金をもらっていました。 信頼していた初枝に裏切られていたと知り、絶望する亜紀。 でも、亜紀は最後に、誰もいなくなった家に帰ってきます。 何を思って帰ってきたのか、帰ってきて何を思ったのか・・・。 スポンサーリンク 最後に 偽りの家族だったけど、本当の家族より家族になってたんですよね。 でも家族に本物も嘘もないと思うので、血のつながった家族では作れない形の家族だとも思いました。 家族は血縁関係より、一緒にいた時間で出来るものだし。 ちょうど1年前に、同じようにやるせない映画があったな…と思ったら「昼顔」ですね。 今年の「万引き家族」は、「昼顔」と別の次元で重いです。 そもそも学がないとか、稼げないとか、貧困から脱出できないのは本人のせいもあるんだけど、やっぱり本人たちのせいだけじゃなくて。 貧困から抜け出すための知識が必要なのか、とか日本中で話し合えればいいですよね。 特に行政や教育に携わる人が、「万引き家族」をフィクションとして終わらせずに話し合うと良いと思います。

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