中村 哲 医師。 中村哲医師の経歴・功績がすごすぎる!活動内容や家族についても

中村哲医師の家族や経歴と生い立ち数々の功績・勲章や名言も

中村 哲 医師

中村哲医師 「(難民が)想像以上ですね。 」 中村さんは、武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていたのです。 中村哲医師 「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない。 家族がみんな一緒にいて、飢きんに出会わずに安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み。 」 2003年、中村さんは貧困問題を解決しようと、新たな活動を始めます。 中村哲医師 「前より、だいぶ水量が増えている。 」 山々の氷河を源流とする、アフガニスタン有数の大河、クナール川。 干ばつでも枯れることがない、この川の水を引き込む用水路を作ることにしたのです。 緑の大地計画。 川から用水路を引き、水が届かない地域を潤します。 全長20km以上。 周辺の土地と砂漠を農地に変えていく、壮大な計画です。 次第に、現地の人たちに変化が現れ始めます。 タリバンの戦闘員だった人や、米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替え、協力するようになってきたのです。 「自分たちの手で国を立ち直らせたい。 また農業をやりたいんだ。 」 「農業ができるようになれば、子どもに食べさせることができる。 出稼ぎに行かずに、家族と一緒に暮らせるんだ。 「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。 果ては「世界平和」のために戦争をするという。 いったい何を何から守るのか。 こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。 その上空を、アメリカ軍のヘリコプターが行き交うようになりました。 中村哲医師 「攻撃用っていうんですかね。 それが旋回してきて、ここを機銃掃射したわけですね。 危なかった。 」 アメリカは、アフガニスタンへの空爆を継続。 誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増します。 一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。 治安は一段と悪化していきました。 日本は、テロとの戦いの一環として、インド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていました。 欧米の支援団体と差別化でき、安全につながると中村さんたちが車につけてきた日の丸。 かえって危険を招くと感じ、消すようになりました。 だが、今熟考すべきは「先ず、何をしたらいけないか」です。 民衆の半分が飢えている状態を放置して、「国際協調」も「対テロ戦争」も、うつろに響きます。 中村さんは、和也さんの志とともに、みずからの信念を貫くと伝えていました。 伊藤和也さんの母 順子さん 「ここでやめたら、和也の遺志とか、先生が描いていらっしゃるものが揺らぐ。 揺らいでしまったら、和也を殺した人たちとか、いろいろな人たちのことを思うと、絶対ここではやめてはいけない。 」 中村さんは、事件のあともアフガニスタンに残りました。 現地のスタッフとともに用水路の完成を急ぎ、工事は最終段階に入りました。 中村哲医師 「6年前に作業を始めて以来、あなたたちは懸命に働いてくれました。 雨の日も強い日ざしの中も。 この用水路が未来への希望となることを願っています。 」 一方、アメリカはアフガニスタンへの兵力の増強を打ち出します。 アメリカ オバマ大統領(当時) 「アルカイダは、せん滅させなければならない。 今、この地域を見捨てれば、アルカイダに対する圧力を弱め、アメリカや同盟国を攻撃されるリスクを生み出しかねない。 彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。 彼らはいかめしい重装備。 我々は埃だらけのシャツ一枚だ。 彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。 総延長25.5kmの用水路が完成しました。 かつて、死の谷と呼ばれた干からびた土地。 それが緑の大地へと姿を変えました。 ふるさとを離れていた人たちが次々と戻り始め、大地の恵みが育まれていきました。 現地の男性 「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません。 仕事がないから、お金のために戦争に行くんです。 おなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません。 」 中村さんは用水路が見える農場に、和也さんの功績をたたえる碑を建てました。 テロとの戦いが長期化する中で、中村さんが過去最悪と言うほど、現地の治安は悪化していきました。 アメリカ オバマ大統領(当時) 「アメリカにとって最良の日だ。 ビンラディンの死で、世界に安全がもたらされた。 」 2011年5月。 アメリカは、10年越しで追ってきた同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害しました。 3年後の2014年。 アフガニスタンの治安維持などにあたってきた、アメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退しました。 その後、力の空白が生じたアフガニスタンでは、タリバンが勢力を盛り返し、過激派組織ISの地域組織も台頭。 軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は、去年まで5年続けて年間1万人を超えるようになりました。 ことし10月に取材した際の中村さんです。 このころには、銃を携えた警備員を同行させるなど、安全管理に細心の注意を払わなければいけなくなっていました。 中村哲医師 「これからも、みんなと手をつないでアフガニスタンのために努力していきます。 」 蓮岡さん:現地で活動していまして、中村先生が現地の人たちに対して威張った姿を見たことがない。 自分たちの活動を誇らしげに語った姿を見たことがない。 常に現地の人たちに敬意を払って、また、ワーカーだけではなく、家族の人たちにも心を砕いて、計画を立てられて、作業を進められていたなと、そういうのをすごく思い出します。 武田:蓮岡さんにとっては、どんな存在でいらっしゃいましたか? 蓮岡さん:なんといいますか。 亡くなって初めて、改めて分かるんですが、やっぱり、自分の今の、生きている1つの指針を与えてくださった方だなというのを思います。 武田:悲しみや憤りを禁じえないわけですけど、ただ、中村さんの言葉を聞いていますと、悲しみや怒りという感情にとどまっているだけでもいけないというふうに言われているような気がするんですね。 どういうふうに受け止めていらっしゃいますか。 蓮岡さん:大統領が中村先生の棺を運んだり、また、世界中の人たち、現地の人たち、都市だけではなく小さい村々でさえ、日本国内もそうですけど、追悼式を行っておられる。 このこと自体が、あの水路の水というのは、砂漠を潤しただけではなかったんだということを非常に実感いたします。 武田:そのアフガニスタンですけれども、1979年のソビエトによる侵攻以降、大国の思惑に翻弄され、混乱が続いてきました。 そうした中で、中村さんは緑の大地計画として、用水路の建設などに力を尽くしてきました。 ことし10月には、アフガニスタン政府から外国人として初めて名誉国民の表彰も受けています。 田中さん:まず1つは、ご自身がお医者さんでいらしたこと。 それから、ある意味、まことの人道主義者だったんだと思いますね。 やはり負傷している者がいれば、それは敵、味方関係なく治療するんだということもおっしゃっていました。 それは確かに正しいんだと思うんですが、いわゆる戦闘員を助ける、ないしは、戦闘員の面倒を見るということは、別の観点から見れば、内戦をさらに長引かせることになるので、私のような立場でアフガニスタンに関わっていた人間からすると、やや対応が違うなという感じはしたんですけども。 それはそれとして、ほかの人には全くできないこと、及びもつかないことを、ずっとなさっていたんだなと改めて思いますね。 武田:その中村さんが、これだけ尽くしてこられたのに、なぜ、命を失わなければならなかったのか。 どういうふうに理解したらいいんでしょう。 田中さん:不幸なことに、アフガニスタンの治安がどんどん悪くなっているということもあります。 その背景には、外国軍の存在がだんだん希薄になってきたというのも1つなんですが、外国軍が退去したときも、決して治安はよくならなかった。 背景を見れば、外国軍と外国人によって、現在のアフガニスタンの政権は支えられている。 言葉を変えれば、かいらい政権であると。 だからこそ、外国軍の撤退、あるいは追い出し、さらには、外国人を援助関係者であろうとなかろうと攻撃の対象とすれば、彼らがいなくなる。 そうなったら、カブールの政府を倒すのは赤子の手をひねるよりも簡単だと、タリバンをはじめ武装勢力は考えているからにほかならないんですね。 武田:なんともやりきれない構図になっているということなんですね。 蓮岡さん、平和は戦争に勝る力があるという言葉を実証したい、というふうに訴えていらっしゃいました中村さんですけれども、その遺志をどう受け継いでいくのか。 私たち一人一人にも突きつけられている気がするのですが、今、どのように受け止めていらっしゃいますか。 蓮岡さん:先生の仕事というのは、現地のもともとあった作業というのに敬意を払って、そして、それにちょっと手を加えて、また、自然と尊い生活をあまり壊さないように、ちょうどいいようなものを残すと。 そういう配慮というのは、自分の色を押しつけるようなものではなかったような気がするんですね。 国際的に見て、そのような支援も必要ですし、また、我々の生活の中でも、そういうことは必要になってくるんじゃないかなと思います。 武田:相手の立場に立って、相手のことを尊敬して。 蓮岡さん:敬意を払うということだと思うんですね。 私は、あの方の活動、生きざま、そのものが平和だったような気がします。 武田:それが、まさに平和の在り方。 私たち一人一人がもう一度、自分にも問い直さないといけないことですね。 中村さんが貫いた志は、現地の人たちの心に生き続けます。

次の

中村哲医師の生涯に迫る! 凶弾に倒れるまでアフガン支援に尽力した信念とは?

中村 哲 医師

筆者も、中村医師が通った西南学院中学校の一後輩として参列した。 あらためて、中村哲医師が私たちに遺したものはなんだったのかを振り返ってみたい。 午後12時40分、開場20分前の段階で私が会場に到着した頃には、すでに1000人を優に超える人が行列を作っていた。 会場となっているチャペルの席はすでに満席で、モニターで同時中継される隣接の一号館の教室をフルに使ってもなお続々訪れる弔問者は入りきれず、『毎日新聞』の報道によると最終的な参列者数は5000人を超えたという。 中村医師を危険に陥れた「アフガン空爆支持」を誇る日本政府関係者 挨拶に立ったアフガニスタン特命全権大使は、時折ハンカチを目や鼻にあて、感極まって何度も声を詰まらせながら「中村先生はアフガニスタンの偉大な友人であり英雄でした」とその死を悼んだ。 その姿に、会場のあちこちではもらい泣きの姿がみられ、挨拶を終えた大使に会場全体から暖かな拍手が送られた。 あとを受けた独立行政法人国際協力機構(JICA)の北岡伸一理事長の挨拶は、それとは対照的だった。 曰く、2001年のいわゆる9. 11同時多発テロを受けた小泉政権下の対外関係タスクフォースの一員となり、アフガン情勢をウォッチしていたという。 同タスクフォースが出した結論に、以下のような文章がある。 首相官邸ウェブサイトより引用) 小泉政権は、9. 11後即座にアフガン空爆に踏み切った米国の姿勢を一貫して支持し、2003年のイラク戦争でも多大な支援をした。 南アジアから中東にかけて、現在まで続く情勢の不安定化に一役買ったことは疑う余地がない。 中村医師は当然、そのことに最も悪影響を受けた一人である。 それまでは「日本人である」ということ自体が、アフガニスタン人やパキスタン人から信頼される一因となっていた。 日本政府が米国のアフガン侵攻を支持した後は、それが通用しなくなった。 中村医師や、彼が代表を務めていた現地団体であるPMSのメンバー、そして多くのアフガニスタン人の命を危険に晒す後押しをしたということに他ならない。 遺族や関係者の前で、よくもそんな経歴を誇らしげに語れるものだ。 中村医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え その後も北岡氏は、江戸時代に作られた福岡県朝倉市の山田堰にヒントを得て中村医師がアフガンの灌漑事業を進めたことに関して、「日本の素晴らしさを証明した」という趣旨の発言を展開した。 確かに、灌漑プロジェクトにはJICAも一役買っている。 しかし、ここはそれを誇る場所ではない。 中村医師の偉業を「日本スゴイ論」にすり替えるその論法には、誰もが閉口した。 実際、筆者がいた会場では彼の挨拶だけ誰一人として拍手もしなかった。 ちなみに北岡氏は、対外関係タスクフォースのメンバーを経たのち国連大使となり、その後JICAの理事長に就任して現在に至っている。 このような人物が外交の全面に出て日本は大丈夫なのか、心配になるのは筆者だけではないだろう。 30年以上前から、中村医師の功績は我々に影響を与えていた 筆者が中村医師の話を初めて直接聞いたのは、1986年のことだった。 筆者と同じ西南学院中学校の出身で、帰国時に中学のチャペルでその活動について後輩の中学生にその話を聞かせてくれたのだ。 ペシャワール会の発足が1983年、中村医師がペシャワールのミッション病院に赴任したのが翌1984年。 そのわずか2年後のことだった。 ペシャワール会報(号外:2019年12月25日)によると、ちょうど彼がアフガン難民の治療を始めた頃である。 偉大なる大先輩の話を聞いた筆者は言葉もなく、ただただ圧倒されるだけだった。 同じように、感じ入った私の同級生はその場で「俺、医者になる」と宣言した。 実際、彼は医学部を卒業して勤務医を経て独立し、開業している。 筆者はといえば、その後国際関係学、哲学、平和学を学んでいくことになる。 中学生時代に中村医師の話を聞いたことが筆者の背中を後押ししていることは間違いない。 それが、1986年の中学生たちに与えた影響だった。 その後、中村医師はアフガニスタンで井戸を掘り始め、さらには灌漑にまでその事業を広げる。 あれから30年以上、さらにどれだけ積み上げていっていたのか、想像を絶する。 一人ひとりの命をすくい上げる「点」の活動を「面」まで広げる 中村医師は、一人ひとりの命をていねいに取り上げて救っていった。 その累積が65万人とも言われているが、実際にはもっと多いのではないだろうか。 何十万人を対象とするようなプロジェクトは、面的に展開する。 でなければ「大規模救済は不可能だ」とされるからだ。 だが彼は、常に点をひとつひとつ積み上げていってこの数字に達したのだ。 本当に途方もないことである。 「効率的」にプロジェクトを進めるにあたって効果的なのは間違いない。 しかし、それだとどうしても、最もマージナルな(辺境にいる、中央から遠い)人たちが常に排除されてしまう。 中村医師はそれを知っていて、むしろよりマージナルな部分から点で接していって、面を凌いだのだ。 点的アプローチを貫く人びとこそ、最も尊敬に値するひとだ。 逆説的のようだが、国際関係論(国際援助論、国際協力論など)を軸にした社会科学的アプローチは面的アプローチに傾きがちであり、筆者もその例に漏れない。 しかし同時に、それとは真反対の点的アプローチこそ、より深く人を救えると筆者は確信するからだ。 彼は、目の前の命をひとつひとつすくい上げるように治療を施していった。 患者に必要なものは医者である。 この当たり前のことが、先進国の大都市の真ん中ですら機能しない中、それが地球上で最も機能しなさそうな場所に単身乗り込んで、一人ひとりの「落とさずに済むはずの命」をすくい上げていっていたのだった。 戦場で武器を持たずに平和を説き、それを実践する 中村医師から学ぶことは、非常に多くある。 平和学者として筆者が何よりも彼に感謝したいのは、やはりこれだ。 「最も勇敢なものは戦場に赴きてなお武器を持たず平和を説き、それを実践するもののことである」 このテーゼを完璧に証明してみせたこと。 当然、これと対になるテーゼは以下のようなものだ。 「最も卑劣なものは戦場から遠ざかって平和を口にしながら他人に武器を持たせ、それを撃たしめるもののことである」 誰のことか、あえて言う必要もないだろう。 このテーゼは遥か昔から唱えられ、万人の得心するところだった。 しかしそれを実行する人は希少であり、そのような人が現れるたびに聖人化されることが続いてきた。 「私たちには彼のようなことはできない」と、むしろ平和構築への関与を他者化してしまうような言説を、中村医師のケースにおいてもしばしば耳にする。 しかし、本当にそうだろうか。 中村医師はクリスチャンだった。 新約聖書・マタイによる福音書第5章9節は、こう説く。 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(新共同訳) 2000年も昔から、わかっていたことなのだ。 そろそろ実行に移せるようになっていることが、人類が進化したという証なのではないだろうか。 その意味で、中村医師は私にとって「人類の進化の証」だった。 「進化した人類の、生きたモデルケース」だったのだ。 人類が進化を運命づけられた種だとしたら、私たちは哲先輩のフィロソフィーを追って生きていかねばならないのだ。 中学のはるか後輩たる私の目から見た中村哲医師とは、そういう人である。 < 文・写真/足立力也> 【足立力也】 コスタリカ研究者、平和学・紛争解決学研究者。 著書に『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略~』(扶桑社新書)など。 コスタリカツアー(年1~2回)では企画から通訳、ガイドも務める。

次の

中村哲医師の「原点」に迫る TNCがドキュメンタリー番組|【西日本新聞ニュース】

中村 哲 医師

中村哲医師の名言【アフガン画像】 中村哲医師は素晴らしい言葉を沢山残してくださっていますね。 「誰もそこへ行かぬから。 我々がゆく。 誰もしないから我々がする」 中村哲医師は医療従事者としてアフガニスタンへ到着後、医療以前に食べ物や飲み物そのものが足りていない現実にぶつかったと言います。 そこで着手したのが井戸の建設だったそうです。 医師であるから医療しかしないのではなく、必要とされている活動のためならば垣根を超えて自ら突き進んでいく方なのだということが分かります。 この言葉をまさに表しているアフガンの画像がこちら。 左は中村哲医師たちの活動前、右が活動によって緑化され発展したアフガンの土地です。 「鍬も握っていない外国人が農業支援を行うことはできません」 中村哲医師が医療従事者である枠組みを超えて、現地で 「白衣を脱いで泥まみれになって井戸を掘った」という話は有名ですね。 多くの国が「支援」といいながら、実際には寄付金を渡すところまでで留まっているのが現状です。 また、自国の技術者とテクノロジーだけを現地に持ち込んで施設だけを建設するケースも多いようです。 そうすると、多額の寄付金は現地の有力者の手に留まり、実際に必要としている人たちの元まで届かなかったり、現地の住民に使いやすい構造にならなかったりと色々は二次問題を生み出す可能性も秘めているそうです。 つまり、 現地のニーズに合わないお金の使い方で不要な構造物をつくってしまう危険性があるそうです。 アフリカなどでも同じような問題が生じているとのこと。 中村哲医師はそのことが身に染みて分かっている方だったのでしょう。 「鍬を握る」という表現には一歩一歩、地道でも現地の人たちと目線を同じにして支援を考えて行こうとする姿勢が見えてきますね。 「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」 イラク戦争が勃発した時、日本はアメリカに軍事費として支援を行いました。 日本は戦争に参加したわけではないけれど、アメリカとイギリスから攻撃を受けたアフガニスタンの人たちは、日本も同じ敵のように感じたそうです。 現地の人たちと同じ目線で考える中村哲医師には日本の歩み方は軍事協力を「国際協力という言葉で覆い隠しただけの戦争参加」とイコールに感じていたのかもしれませんね。 9条がリアルで大きな力だったという現実。 中村哲医師は「憲法9条が僕たちを守ってくれている」と仰っていました。 ネットでは「銃撃されたじゃないか」「やっぱり守ってくれてないじゃないか」、、、などなど、 「中村哲医師が銃撃を受けた=憲法9条は無力」というような声も多く上がっています。 しかし、筆者は今回の中村哲医師が銃撃を受けられたことよりも、 中村哲医師が現地で感じてこられたアフガニスタンの人たちの親日感情の由来にこそ、目を向けた方が良いのではないかと思っています。 中村哲医師の名言として、 「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすこと誓う」。 伊藤和也さん ペシャワール会スタッフ が2008年に殺害された時の追悼の言葉です。 今回、中村哲医師ご本人だったら、、、、恐怖や怒りではなく、私たちに同じ内容の追悼を願うのではないかと思います。 中村哲医師のインタビューの一部抜粋を貼っておきます。 昨年、アフガニスタンの外務大臣が日本を訪問しましたね。 そのとき、彼が平和憲法に触れた発言をしていました。 アフガンの人たちみんなが、平和憲法やとりわけ9条について知っているわけではありません。 でも、外相は「日本にはそういう憲法がある。 だから、アフガニスタンとしては、日本に軍事活動を期待しているわけではない。 日本は民生分野で平和的な活動を通じて、我々のために素晴らしい活動をしてくれると信じている」というようなことを語っていたんですね。 僕は憲法9条なんて、特に意識したことはなかった。 でもね、向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。 体で感じた想いですよ。 武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。 それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。 それを、現地の人たちも分かってくれているんです。 だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。 むしろ、守ってくれているんです。 9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。 それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。 日本は、軍事力を用いない分野での貢献や援助を果たすべきなんです。 現地で活動していると、力の虚しさ、というのがほんとうに身に沁みます。 銃で押さえ込めば、銃で反撃されます。 当たり前のことです。 でも、ようやく流れ始めた用水路を、誰が破壊しますか。 緑色に復活した農地に、誰が爆弾を撃ち込みたいと思いますか。 それを造ったのが日本人だと分かれば、少し失われた親日感情はすぐに戻ってきます。 それが、ほんとうの外交じゃないかと、僕は確信している 中村哲医師のアフガンでの活動に対する家族の気持ち 中村哲医師には ご子息が5人いらっしゃるそうです。 銃撃戦が繰り広げたられる戦場に飛び込む中村哲医師の事を奥様とご子息はどのように感じておられるのでしょうか? 奥様は中村尚子さん66才。 奥様はやはり家にずっといて欲しかったそうです。 今回のような事件が起こるのではないかと気が気ではなかったようで、事件が起こらないことを祈り続けておられたということです。 しかし、 中村哲医師の志を考えると引き留めることはできなかったのでしょう。 福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師の訃報を受け、妻の尚子さん(66)は、福岡県大牟田市の自宅で取材に応じ「悲しいばかりですよ。 残念です。 きょうみたいな日がこないことだけを祈っていた」と涙を拭いながら語った。 「場所が場所だけにあり得ると思っていた。 家にずっといてほしかったけど、本人が(活動に)懸けていたので……」とも述べた。 中村氏が11月下旬まで2週間ほど帰省していたことを振り返り「家では厳しくなかった。 いつもさらっと出て行ってさらっと帰ってくる人だった」としのんだ。 中村哲医師のアフガンでの活動に対する海外の反応は?【アフガン画像】 中村哲医師の悲報を受けて、ネットでは悲しみの声が沢山上がっています。 まず、自爆テロの実行犯として最初に頭に浮かんでくる「タリバン」ですが「自分たちの犯行ではない」と関与を否定する声明をだしました。 タリバンが出した声明は以下。 「今回、ジャララバードで起きた事件について関与を否定する。 日本のNGOはわれわれの土地でこれまで復興支援に取り組んできており、攻撃の対象にしたことは一切ない」 現時点で誰がやったのかについての犯行声明は出ていない状態です。 中村哲医師の名言と活動まとめ 中村哲医師の名言• 「誰もそこへ行かぬから。 我々がゆく。 誰もしないから我々がする」• 「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」• 「戦争協力が国際的貢献とは言語道断である」• 「9条がリアルで大きな力だったという現実」• 「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすこと誓う」 中村哲医師の家族の気持ち 奥様は家にいて欲しかったが中村哲医師の志を考えると引き留めることはできなかった。 今回のような事件が起こるのではないかと気が気ではなかったようで、事件が起こらないことを祈り続けておられた。 海外の反応 タリバンが事件への関与を否定し、「日本のNGOはわれわれの土地でこれまで復興支援に取り組んできており、攻撃の対象にしたことは一切ない」と中村哲医師らの活動を受け入れていたことに言及している。 などなど、ご紹介してきました。 中村哲医師の貢献は計り知れないものがあり、ペシャワール会では中村哲医師の思いを今後も受け継いでいくということです。 ご冥福をお祈りします。

次の