「桶狭間の戦い」日時と場所 桶狭間の戦いは、 1560年6月12日(永禄3年5月19日)に起こった合戦です。 桶狭間での衝突自体は、午前11時ころに始まり2時間ほどで決着がついたといわれていますよ。 そして、その場所ですが、現在の 愛知県名古屋市緑区と 愛知県豊明市にまたがる地域と考えられています。 狭間のくせに、えらく広い地域だな~と思いませんか? 一般に、狭間と呼ばれる場所は、山と山などに挟まれた狭いくぼ地を指しますね。 ですから、実は桶狭間というのは、「桶狭間山」という丘陵地帯一帯を指す地名なのではないかとも、考えられているのです。 そうすると、実際に織田軍と今川軍が衝突したのは、桶狭間山から少し離れた 「田楽狭間」という狭いくぼ地だったんじゃないの?といわれています。 そうなると、桶狭間ではなく 「田楽狭間の戦い」になりますね。 つまり、桶狭間の戦いは、場所の特定自体、はっきりしていないということなのです。 織田家の事情 当時の織田家の当主は、織田信長です。 このとき、彼はまだ25歳でした。 織田信長の父・信秀は、当時は、守護代の一家臣に過ぎませんでした。 尾張国の守護は 斯波(しば)氏で、尾張を2国に分けその下にそれぞれの守護代が置かれていました。 その1つの守護代が 清州織田氏で、織田信秀は、その守護代・清州織田氏の家臣だったのです。 「守護」の下の「守護代」に仕える家臣ということなので、身分はそんなに高くないですね。 1551年に織田信秀が亡くなると、嫡男・信長と弟との間に後継者争いが始まります。 最終的に争いに勝ったのは、もちろん信長様でした。 そのころには、守護代の清州織田家は滅ぼされており、守護の斯波氏も弱体化していました。 それから、信長は、尾張全部を織田家のものとするべく奮戦し、これを平定するのに約8年の月日を費やします。 そして、その翌年、 1560年に「桶狭間の戦い」が起こったのでした。 今川家の事情 今川氏の当主は今川義元でした。 義元は、桶狭間の戦いのとき41歳です。 彼は40歳のときに息子の 氏真に家督を譲り隠居している立場だったのですが、まだまだ総大将として大きな存在感がありました。 今川氏は駿河(静岡県)の守護で、戦国時代になってもそのまま勢力を保ち戦国大名となります。 義元の時代に、今川家の領地は最大になりました。 1554年には 武田、北条と政略結婚で縁戚関係を築き、三国同盟を締結した後、南尾張の三河の当主・ 松平元康(徳川家康)を人質にし、三河の属国化にも成功していました。 今川家の領地と接する国で敵対関係にあるのは、北尾張の織田家だけとなっていたのです。 桶狭間の戦い 1560年5月12日、今川義元は織田信長が治める尾張国への侵攻を開始し、織田側の砦を次々と落としていきました。 義元は上洛の途中に織田を攻めたといわれています。 一方、織田軍は出撃するか本拠地の清州城で籠城するか、意見がまとまらない状態でした。 しかしそれから約7日後、信長は突然清州城から出撃して、義元の本陣へ奇襲攻撃をしかけたのです。 今川軍2万5,000(4万の説もあり)に対し、織田の軍勢は約5,000人といわれます。 この戦で今川義元は討たれ、多勢に無勢にも関わらず奇襲で大将の首を取ったという、信長の見事な勝ち戦となったのでした。 一方、信長は決戦当日、5月19日の深夜に突如出発します。 家臣もびっくりですが、織田の専業兵士たちは若い!元気いっぱいです。 (2)勝利を確信した今川軍が、のんびりお昼ご飯を食べていた。 これ、いくら兵の数が圧倒的だったとしても、本当に「狭間」のような場所でお弁当食べてたら、ヤバすぎますよ。 (3)今川軍の兵力や兵の動きを、簗田政綱 やなだまさつな ら諜報部員が察知して、信長に報告していた。 (4)たまたま嵐のような豪雨となり、今川軍が織田軍の接近に気づくのが遅れた。 信長に運が味方しましたね。 (5)織田軍は「兵農分離」の兵士で、若くて士気の高い者が多かった。 ですから、戦は農閑期に始めて農繁期には終了させ、その後は農業に従事させるというのが一般的な戦国大名の戦い方だったのです。 兵士と農民を完全に分離させた専業兵士の軍隊(親衛隊のような軍団)を作ったのは、信長が最初といわれます。 これで、いつでも戦いができる体制が整い、農民は農業に専念できました。 桶狭間の戦いで、最終的に今川義元を討ち果たしたのは、 毛利新介という人物です。 でも、信長が一番の功績者と認めたのは、 簗田政綱でした。 これは、やはり勝因(3)で、今川義元が桶狭間で休息していることを調べ、信長に奇襲攻撃を進言したからと推測されています。 でも、確証はありません。 また、桶狭間の戦いは、奇襲攻撃ではなく正面攻撃だったのではないかという説もあります。 でも、いずれにせよ、 信長が諜報活動をものすごく大事にしていたというのは、これで分かりますね。 私は、個人的には(5)の専業の兵士でできた軍隊だったというのが大きいと思います。 指揮官の信長も25歳という若さですが、毛利新介も簗田政綱も若武者です。 他の多くの武将も、信長の下に自発的に集ってきたやる気のある若者が多くいました。 それらが精鋭部隊として活動したのです。 軍の士気は、戦において、勝敗を分かつ非常に重要なものです。 戦に駆り出されて、しかも一週間徒歩の旅で疲れている農民の今川軍と信長の親衛隊の士気は、比べ物にならなかったでしょう。 結果 (1)今川家(駿河・遠江) 桶狭間の戦いで今川義元は討死しました。 でも、今川家は、息子の 今川氏真が継いでいるので、このときは領地は維持されています。 三河国は独立しましたが、駿河と遠江は残りました。 この息子は、武将としてはかなり残念な息子だったらしく、義元の弔い合戦はしませんでした。 氏真のその後の無能ぶりは家臣たちをかなり幻滅させ、今川家の多くの武将が、離反します。 本来、戦に完敗すれば、武将は自害するのが武士の道と考えられていました。 でも、氏真は、そうしなかったのです。 1569年に、武田信玄と徳川家康に攻め込まれて、戦国大名としての今川氏が滅亡すると、彼は妻・早川殿の実家、北条氏のところに逃げ込みます。 その後、彼は、なんと、もともと敵方だった徳川家康に保護されています。 私は、氏真は 公家の価値観を持っていたんじゃないかなと、思うんですよ。 生母の寿桂尼が公家出身ですし、氏真が子供の頃、今川家は、応仁の乱の混乱で身の危険を感じた多くの京の公家たちをかくまっていたのです。 その中には、 和歌の名門・冷泉家や蹴鞠の名門・飛鳥井家の者もいました。 氏真は、勉強や武術にはとても熱心で、和歌、蹴鞠、武術は、すべて特技といえるレベルでした。 家康に保護されていたとき、彼は織田信長に京に呼び出され、蹴鞠を披露したことがあるのですが、そのとき、なんと京都観光を満喫しています。 今の観光客が必ず行くような、清水寺や東福寺などで、和歌を詠んで楽しみました。 そのとき詠んだ和歌の数は、 約250首もあります。 もう、武士というより文化人です、この人。 だから鈍感なのかもしれません。 上司の意向がすべてというような組織に縛られない自由人です。 あの信長と会見するために行った京で、のんきに名所観光を楽しむ鈍感力が素晴らしい! すごい度胸ですよね。 とにかく、武将らしくない、とても興味深い人です。 文化人らしく子供にはバッチリ 公家的教養を身につけさせ、それが今川家の救いとなっていきます。 そして、守護大名だった今川家は、 明治維新まで生き残るのです。 武士らしく滅亡した武田氏と、すごく対照的でおもしろいなーと思うのでした。 (2)松平家(三河) 今川家の人質だった 松平元康 後の徳川家康 は、桶狭間の戦いに今川勢として参加していました。 彼は、三河国の領主で、当時は、今川家の属国のようになっていたので、この戦いの後、独立に成功します。 さらに、名を 徳川家康(元康の「元」は今川義元の一字をもらっていた)と改め、織田信長と同盟を結びます。 (3)織田信長(尾張) 桶狭間の戦い後、織田信長と徳川家康は同盟を結びます。 また、信長は武田信玄には、貢物などを贈って友好状態を保とうと努力しました。 そして、上洛を目指し、天下布武への道を突き進むことになるのです。 実際には、彼は「本能寺の変」で倒れ、天下統一は果たせませんでしたが、その下地を作ったことは間違いないでしょう。 おわりに 戦国時代の多くの合戦がありましたが、その真相の解明は難しいです。 桶狭間の戦いは、振り返ってみると、織田信長にとって大きなターニングポイントとなる勝ち戦ですが、その当時者たちは、そのように俯瞰してみることはできません。 今回は、定説を中心にまとめましたが、戦の流れや勝因については、いくつかの異説があります。 でも、結局真相がわからないところが、歴史の興味深いところですね。
次のねらい 桶狭間の戦いをきっかけにして信長の勢力が大きくなっていったことがわかる。 内容 戦国時代、その名をとどろかせた武将(ぶしょう)・織田信長。 織田家は強敵に囲まれた小さな国の大名にすぎませんでした。 その織田家をついだ信長の運命をかえたのが、1560年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」です。 敵は、勢力を広げていた戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)です。 今川義元は、25000の大軍を引き連れ、信長の領地にせめこもうとしました。 とちゅう、はげしい雨の中、今川軍は「桶狭間山」で兵を休めていました。 そこにすきをついて織田軍二千の兵がせめこみます。 敵の数は10倍以上。 それでも信長率いる軍には勢いがありました。 今川軍は総くずれとなり、義元は討(う)ち死に。 信長の勝利となりました。 この時、織田信長27歳(さい)。 大きな力を持っていた今川義元を討ったことにより、その名は、またたく間に天下に知れわたりました。
次の『いっきに学び直す日本史』は「教養編」「実用編」合わせて20万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします) 永禄3(1560)年5月、京都への上洛を目指して駿府(静岡市)を出陣した今川義元は、当時すでに駿河・遠江・三河(伊豆を除く静岡県と愛知県東部)を領有する大大名でした。 これを阻止しようと立ち上がった織田信長は、まだ尾張(愛知県西部)のうちの北部をやっと確保していた小大名。 今川軍は大軍を率いて尾張国桶狭間(愛知県豊明市付近。 田楽狭間とも)まで進軍します。 そこへ先発隊による緒戦での勝利が報じられ、気をよくした義元は、この細い窪地で行軍を停止し、酒宴を催し始めます。 しばらくすると雨が降り出し、やがて豪雨に変わると突然、背後の山から喚声がとどろきます。 迂回路からひそかに布陣していた信長軍が、義元の本陣に向けて怒濤の奇襲をかけてきたのです。 雨の中を右往左往する義元。 この、私たちがよく知る桶狭間の戦いでのクライマックスシーンは、江戸時代初期の作家、小瀬甫庵(おぜほあん・1564~1640)が書いた『信長記(しんちょうき)』に記されたストーリーで、長く一般に信じられてきました。 現代のドラマなどでもしばしば再現されてきたおなじみの展開ですが、近年の研究では、信長が行った作戦は、「迂回からの奇襲」ではなく「正面からの突撃」だったとされ、義元の酒宴も俗説の可能性が高いといわれています。 ただ、それでは兵力に勝る優勢な今川軍に、なぜ寡兵の信長が勝利できたのか説明がつきません。 今回は、現在、解明が進んでいる「桶狭間の戦いの真の姿」と「信長、本当の勝因」について解説します。
次の