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部下3人から「今日こそ死んでくれ」 パワハラ受けたと徳島の50代女性が提訴 |事件・事故|徳島ニュース|徳島新聞

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概要 [ ] 地形的に天然の良港と言われ、古くはの一派がにしており、以降は、・の拠点となっている。 中は、帝国海軍の拠点でもあった。 に周辺の・・、・・を編入した。 これによって呉市はにある地域と、情島に加え、南の倉橋島、、、を加えて人口25万人規模の市となった。 の中核市指定と同時にに指定された。 ・・・機械・金属などを中心とした臨海工業都市として発展している。 また、・など海軍・海上自衛隊に関する博物館がある。 と共に同時に自分の街が由来の文化がある肉じゃが発祥の街を名乗っている。 市内の生産量は日本一 [ ]。 海軍・海上自衛隊とのかかわり [ ] 呉基地の夜景 明治時代には第二(、通称「呉鎮」)が開庁された。 戦前はにおいて世界最大の戦艦でもあるなどが建造され、東洋一の軍港・日本一の工廠として知られていた。 呉海軍工廠は造船技術の卓越は言うまでもなく、早くからの和鋼に着目し、特殊鋼として応用するなどの先端的な軍需鉄鋼研究の拠点でもあった。 このため、太平洋戦争末期にはにおいて米軍の空襲を受け、大きな損害を受けている。 鉄鋼関係の技術はJFEや日新製鋼などの大手鉄鋼メーカに引き継がれ、呉海軍工廠はに引き継がれ呉工場として現役、また軍事拠点の流れとしては、や練習艦などが所属する海上自衛隊があり、その敷地内には海上自衛隊が設置されている。 呉で勤務している海上自衛隊員は総員6,600名に達する。 旧海軍呉鎮庁舎は呉地方総監部第一庁舎として使用され、日曜日には一般公開されている。 呉鎮により建設されたインフラが現役で利用されており、例えば・・は軍用水道施設として建設されたものを呉市が引き継いでいる。 またやに代表されるように、2010年代現在これらの防衛・軍事関連施設は観光資源ともなっている。 2016年には「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~」としてに認定された。 からの呉市中心部 広島県の南西部に位置する。 山 : 、、(膳棚山)• 河川 : ()、()、野呂川()• 島 : 情島、、、、、 気候 [ ] 温暖なであり、夏は暑さが厳しく、冬は広島市と比べて雪が少なく積雪することは珍しい。 0 66. 2 21. 5 70. 7 23. 8 74. 8 28. 1 82. 6 30. 7 87. 3 33. 7 92. 7 36. 9 98. 4 37. 8 100 36. 1 97 31. 1 88 26. 3 79. 3 22. 7 72. 9 37. 2 48. 6 9. 8 49. 6 13. 0 55. 4 18. 4 65. 1 22. 7 72. 9 25. 9 78. 6 29. 6 85. 3 31. 2 88. 2 27. 6 81. 7 22. 5 72. 5 17. 0 62. 6 12. 0 53. 6 19. 9 67. 8 42. 4 6. 2 43. 2 9. 1 48. 4 14. 2 57. 6 18. 5 65. 3 22. 2 72 26. 2 79. 2 27. 6 81. 7 24. 2 75. 6 18. 7 65. 7 13. 3 55. 9 8. 3 46. 9 16. 2 61. 5 36. 5 2. 7 36. 9 5. 3 41. 5 10. 2 50. 4 14. 7 58. 5 19. 1 66. 4 23. 5 74. 3 24. 7 76. 5 21. 2 70. 2 15. 2 59. 4 9. 6 49. 3 4. 7 40. 5 12. 4 22. 1 19. 9 23. 5 31. 1 4. 7 40. 5 10. 1 50. 2 14. 8 58. 6 16. 4 61. 5 9. 7 49. 5 4. 4 39. 9 0. 5 22. 1 19. 2 mm inch 41. 0 1. 614 61. 2 2. 409 109. 5 4. 311 128. 3 5. 051 152. 9 6. 02 226. 7 8. 925 227. 7 8. 965 97. 1 3. 823 152. 5 6. 004 83. 6 3. 291 65. 4 2. 575 35. 6 1. 402 1,381. 3 54. 382 平均月間 139. 4 142. 4 170. 8 191. 0 203. 8 161. 9 184. 8 218. 4 163. 5 178. 3 149. 5 147. 1 2,051 出典 1: 出典 2: 気象庁 隣接している自治体・行政区 [ ]• 広島県• (海上で隣接。 で繋がっている)• 安芸郡• (海上で隣接)• (ただし、今治市に属するは()で繋がっている) 呉市 地区と町 [ ] 呉市は市域を18の地区に分けている。 後にされた市域は、編入前の各町村が地区となっており、旧町村名から「~町」または「~村」を除いた地区名になっている(「~地区」は公式には付けないことが多い)。 07 1902 朝日町・吾妻・内神町・畝原町・江原町・海岸・上内神町・上長迫町・上二河町・上畑町・上平原町・上山田町・北塩屋町・郷町・幸町・三条・三和町・清水・下山田町・昭和町・新宮町・宝町・中央・築地町・寺本町・中通・長迫町・長ノ木町・二河町・二河峡町・西愛宕町・西片山町・西川原石町・西塩屋町・西鹿田・西惣付町・西辰川・西谷町・西中央・西畑町・西三津田町・光町・東愛宕町・東片山町・東川原石町・東塩屋町・東鹿田町・東惣付町・東辰川町・東中央・東畑・東三津田町・平原町・伏原・望地町・本町・本通・溝路町・南辰川町・八幡町・山手・両城・和庄・和庄登町・和庄本町 宮原 みやはら 008192 003. 95 1902 宮原・坪ノ内町・船見町・青山町・室瀬町・神原町 警固屋 けごや 005523 004. 20 1928 警固屋・警固屋町・的場・見晴 吉浦 よしうら 011220 008. 12 1928 晴海町・若葉町・吉浦池ノ浦町・吉浦潭鼓町・吉浦新町・吉浦東町・吉浦神賀町・吉浦新出町・吉浦東本町・吉浦中町・吉浦本町・吉浦松葉町・吉浦上城町・吉浦岩神町・吉浦西城町・吉浦宮花町・・梅木町・汐見町・大山町・弥生町・長谷町・瀬戸見町・吉浦町 あが 016434 014. 56 1928 阿賀北・阿賀中央・阿賀南・阿賀町 にがた 007151 010. 51 1941 仁方本町・仁方大歳町・仁方桟橋通・仁方中筋町・仁方宮上町・仁方宮上町・仁方西神町・仁方錦町・仁方皆実町・仁方町 広 ひろ 046121 032. 73 1941 広横路・広大広・広石内・広弁天橋町・広三芦・広中迫町・広塩焼・広町田・広徳丸町・広古新開・広文化町・広多賀谷・広末広・広本町・広中新開・広杭本町・広吉松・広中町・広駅前・広大新開・広両谷・広白石・広白岳・広名田・広津久茂町・広長浜・広黄幡町・広小坪・広町 てんのう 004423 003. 94 1956 天応福浦町・天応伝十原町・天応西条・天応大浜・天応東久保・天応南町・天応宮町・天応塩谷町 昭和 しょうわ 035415 027. 76 1956 焼山ひばりヶ丘町・焼山此原町・焼山松ヶ丘・焼山桜ヶ丘・焼山政畝・焼山西・焼山中央・焼山東・焼山南・神山・焼山三ツ石町・焼山宮ヶ迫・焼山北・焼山本庄・焼山泉ヶ丘・押込・押込西平町・焼山町・苗代町・栃原町・押込町 郷原 ごうはら 004954 003. 95 1956 郷原学びの丘・郷原野路の里・郷原町 下蒲刈 しもかまがり 001809 008. 72 2003 下蒲刈町下島・下蒲刈町 川尻 かわじり 009380 016. 85 2004 川尻町岩戸・川尻町柳迫・川尻町才野谷・川尻町後懸・川尻町板休・川尻町要垣内・川尻町大原・川尻町小畑・川尻町真光地・川尻町小用・川尻町小仁方・川尻町東・川尻町西・川尻町森・川尻町小用・川尻町久俊・川尻町久筋・川尻町原山 音戸 おんど 013164 018. 75 2005 音戸町坪井・音戸町引地・音戸町鰯浜・音戸町北隠渡・音戸町南隠渡・音戸町高須・音戸町波多見・音戸町畑・音戸町有清・音戸町先奥・音戸町藤脇・音戸町早瀬・音戸町田原・音戸町渡子・音戸町大字音戸・音戸町大字渡子 倉橋 くらはし 倉橋島 006439 054. 46 2005 倉橋町 蒲刈 かまがり 002198 018. 90 2005 蒲刈町大浦・蒲刈町田戸・蒲刈町宮盛・蒲刈町向 安浦 やすうら 011894 063. 54 2005 安浦町大字赤向坂・安浦町大字安登・安浦町大字内海・安浦町大字内平・安浦町大字女子畑・安浦町大字下垣内・安浦町大字中切・安浦町大字中畑・安浦町大字原畑・安浦町大字三津口・安浦町安登西・安浦町安登東・安浦町中央ハイツ・安浦町中央北・安浦町水尻・安浦町三津口・安浦町内海北・安浦町内海南 豊浜 とよはま 001764 011. 68 2005 豊浜町大字豊島・豊浜町大字大浜・豊浜町大字斎島 豊 ゆたか 大崎下島 002338 014. 08 2005 豊町御手洗・豊町大長・豊町久比・豊町沖友 計 241908 353. 76 歴史 [ ] 市名の由来 [ ] いくつかの説がある。 呉一帯をつつむ連峰を「九嶺(きゅうれい)」と呼び、それがなまって「くれ」になった。 なお、市章はこれにあやかり、の「レ」9つで星形をかたどったものである。 灰ヶ峰から伐採したくれ(榑、板材の意)が特産品として有名になったことに由来する。 昔、この地方の周辺に住んでいた古代朝鮮半島からの渡来人を「くれ人」と呼んでいて、それが時代を経て「くれ」になったという説。 沿革 [ ] 1945年戦災概況図• ( 03年) 00月00日 - の呉浦を呉町と呼ぶようになる。 (19年) 0 - 第2の位置を安芸郡呉港に設定。 (明治22年) 0 - 広島県に施行。 安芸郡、宮原村、、成立。 1889年(明治22年) 0 - 開庁。 (明治25年) 0 - 安芸郡和庄村が町制施行し安芸郡和庄町に。 (明治35年) 04月 01日 - 安芸郡吉浦村から安芸郡が分立。 1902年(明治35年) - 安芸郡和庄町、宮原村、荘山田村、二川町が対等合併し安芸郡 呉町となり、即日施行し 呉市に。 (明治36年) - 設立。 ( 03年) 04月 01日 - 安芸郡、、を編入。 (昭和16年) 0 - 賀茂郡、を編入。 (昭和18年) 00月00日 - 人口(当時の市域の)が最大の40万4257人となる。 (昭和20年) 0 - への爆撃が行われる。 1945年(昭和20年) 0 - 呉海軍工廠への爆撃が行われる。 1945年(昭和20年) 0 - のが市街地を空襲。 1945年(昭和20年) 0 - - 米軍によって呉軍港の残存艦艇に艦載機攻撃()。 1945年(昭和20年) 0 - により市内で土石流が発生。 多数の死傷者が出る。 1946年(昭和21年) 00月00日 - の司令部が置かれ、中国四国地方の占領任務を米軍から引き継ぐ。 (昭和25年) 0 - 施行。 (昭和26年) 0 - 警固屋棚田町で土砂災害。 17人生き埋め(のちに3人救出)。 (昭和29年) 07月 01日 - が置かれる。 (昭和31年) - 安芸郡、、賀茂郡を編入。 (昭和35年) - の韓国テロ工作員が呉港から潜入。 (昭和50年) 00月00日 - 人口(当時の市域の)が戦後・平成の大合併前で最大の24万2655人となる。 (12年) - 特例市に昇格。 (平成13年) 0 - 発生。 市内では宝町地区・広地区で震度5強。 焼山地区では震度5弱を観測した。 (平成15年) 04月 01日 - 安芸郡を編入。 (平成16年) 04月 01日 - を編入。 (平成17年) 0 - 安芸郡・・、豊田郡・・を編入。 (平成28年) 04月 01日 - 中核市に昇格。 行政 [ ] 市長 [ ]• - 2017年11月19日就任(1期) 歴代市長 代 市長名 任期 任期数 官選 初 1903年(明治36年)2月4日 - 1903年(明治36年)6月8日 1 2 - 3 1903年(明治36年)8月27日 - 1911年(明治44年)8月28日 2 4 - 5 1911年(明治44年)11月28日 - 1917年(大正6年)7月6日 2 6 1917年(大正6年)8月17日 - 1921年(大正10年)8月16日 1 7 1922年(大正11年)2月2日 - 1925年(大正14年)1月16日 1 8 1925年(大正14年)4月24日 - 1927年(昭和2年)3月11日 1 9 1927年(昭和2年)6月13日 - 1930年(昭和5年)11月25日 1 10 1930年(昭和5年)11月25日 - 1932年(昭和7年)12月21日 1 11 1932年(昭和7年)12月26日 - 1935年(昭和10年)5月12日 1 12 1935年(昭和10年)6月13日 - 1936年(昭和11年)9月1日 1 13 - 14 1937年(昭和12年)5月4日 - 1941年(昭和16年)12月13日 2 15 1942年(昭和17年)1月11日 - 1946年(昭和21年)1月10日 1 16 水野甚次郎 1946年(昭和21年)1月14日 - 1946年(昭和21年)11月15日 1 公選 17 - 18 1947年(昭和22年)4月5日 - 1954年(昭和29年)3月21日 2 19 - 20 1954年(昭和29年)4月18日 - 1961年(昭和36年)10月31日 1 21 - 24 1961年(昭和36年)11月19日 - 1977年(昭和52年)11月18日 4 25 - 28 1977年(昭和52年)11月19日 - 1993年(平成5年)11月18日 4 29 - 31 1993年(平成5年)11月19日 - 2005年(平成17年)11月18日 3 32 - 34 2005年(平成17年)11月19日 - 2017年(平成29年)11月18日 3 35 2017年(平成29年)11月19日 - 現職 3 立法 [ ] 市議会 [ ]• 定数 - 32人• 任期 - 2019年5月20日から2023年まで 会派名 議員数 誠志会 8 仁友会 6 同志会 6 呉市議会議員団 4 市民フォーラム 3 1 呉市議会議員団 1 呉市議団 1 自然共生党 1 政友会 1 広島県議会(呉市選出) [ ] 詳細は「」を参照• 定数:5名• 任期:2019年(令和元年)5月13日~2023年(令和5年)5月14日 議員名 会派名 備考 奥原信也 広島県議会議議員連盟 坪川竜大 自由民主党広島県議会大志会 下西幸雄 広島県議会議員団 城戸常太 自由民主党広島県議会広志議員会・つばさ 犬童英徳 広島県議会民主県政会 党籍は無所属 衆議院 [ ]• 任期 : 2017年(平成29年)10月22日 - 2021年(令和3年)10月21日(「」参照) 選挙区 議員名 党派名 当選回数 備考 (呉市など) 5 選挙区 公共施設 [ ] 官公庁 [ ]• 裁判所• 呉支部• 呉支部• 国の官庁• 呉支局• 法務省呉拘置支所• 呉支部、呉• 呉出張所• 財務省呉税関支署• 呉税務署• 厚生労働省広島労働局呉• 厚生労働省広島呉出張所• 広島国道事務所呉国道出張所• 国土交通省中国地方整備局広島港湾・空港整備事務所呉港出張所• 国土交通省呉海事事務所• 呉海上保安部• 広島呉地域事務所• (等) 文化施設 [ ]• 博物館• (愛称:大和ミュージアム)• (愛称:てつのくじら館)• 図書館• 呉市中央図書館• 呉市広図書館• 呉市昭和図書館• スポーツ施設• - 内• 美術館• 主要な公園• 水道施設 [ ]• 呉市上下水道局 主要な医療機関 [ ]• 商業施設 [ ] 呉れんが通り デパート・大規模商業施設 [ ] 以下に記載する商業施設は大規模で広域集客力のある物に限定し、店舗の大まかな説明も記載している。 - が運営する呉市最大のショッピングセンター。 2F自体がペデストリアンデッキの一部を形成している。 - 呉駅の操車場を再開発して建てられた商業ビル。 館内には温泉施設もある。 - 呉駅の駅ビル。 ポポロ - 商業ビル。 館内には映画館『呉ポポロシアター』もある。 呉れんが通りにある。 呉駅前に市内唯一の百貨店があったが、2013年1月に閉店した。 商店街 [ ]• 呉れんが通り 中通 メディア [ ]• (呉報道室)• (呉支社) 1949年までが存在した。 ・月刊くれえばん(呉のタウン誌)1987年創刊 経済 [ ] 産業 [ ] 戦後はにより、呉海軍工廠跡を中心とした造船、機械、鉄鋼、金属などの製造業が発達した。 主な産業一覧• (、)• (、)• 製品()• (、)• (中国木材)• () 姉妹都市・友好都市 [ ]• 姉妹都市• ()、(昭和45年)• ()、(平成2年)• ()、(平成11年)• ()、(平成29年)• 友好都市• (、現)、(平成7年) 人口 [ ] 呉市と全国の年齢別人口分布(2005年) 呉市の年齢・男女別人口分布(2005年)• 幼稚園 [ ]• 特別支援学校 [ ]• 学校教育以外の施設 [ ]• コード [ ] 市外局番 [ ]• 0823(呉MA)エリア:呉市・(黒瀬地区)・ 郵便番号 [ ]• :737-00xx、737-08xx、737-09xx、737-85xx、737-86xx、737-87xx• 音戸郵便局 :737-12xx• 倉橋郵便局 :737-13xx• :737-01xx• 下蒲刈郵便局:737-03xx• 蒲刈郵便局 :737-04xx• 川尻郵便局 :737-26xx• 安浦郵便局 :737-25xx• 御手洗郵便局:734-03xx、734-01xx 交通 [ ] 鉄道 [ ]• (JR西日本)• 路線バス [ ]• 呉駅前から21号焼山・熊野方面、22号平原方面、1・2号音戸・倉橋島方面、3・4号宮原方面、11号広方面、34号東畑方面、31号辰川、32号長の木長迫、33号三条二河、34号天応方面などの一般路線バスと、を結ぶ高速路線バス「」、リムジンバスを運行する。 ・郷原・黒瀬・()方面行きの一般路線バスと、を結ぶ高速路線バス「」を運行する。 大崎下島、豊島、上蒲刈島、下蒲刈島と呉市広地区の中国労災病院を結ぶ• 大崎上島(大崎上島町)・大崎下島・豊島(呉市)を運行する。 急行バス「とびしまライナー」も運行する。 かつては(呉市営バス)が市内を運行していたが、2012年4月1日に廃止され、路線は広電バスに譲渡された。 船舶 [ ]• 道路 [ ] 江能倉橋と、とびしま海道• - 終点• - 起点• - 起点• - 起点• (国道375号バイパス)• (国道31号バイパス)• (安芸灘とびしま海道)• - 烏帽子岩山ルート、ルート、ルート、内海・仁賀ルート。 名所・旧跡・観光スポット [ ]• 三之瀬御本陣芸術文化館(江戸時代の外交使節団・朝鮮通信使の案内役を務めた対馬藩の宿泊所として使用)• (蔵本通り)• (旧司令長官官舎)• 呉地方総監部庁舎(旧庁舎)• (旧海軍墓地)• (旧呉海軍工廠本部前)• 音戸の瀬戸公園()• ロマンチックビーチかるが(狩留賀海浜公園)• 両城の階段住宅、七曲り• 二百階段 - 映画「」ロケ地• 蘭島閣美術館• 県民の浜• 二河公園 - ほか• 長門の造船歴史館• 二級峡・• () - 、江戸時代寄港地として栄えた当時の建築物が残っている。 旧宅(俊山荘) - 新宮町 2010年12月解体される• 生家 - 焼山町 2018年解体される• 呉みなと祭 または• 呉海上花火大会• 亀山神社大祭 — 出身者 [ ] 政治 [ ]• (、)• (、元)• (元・)• (元・)• (元・選出)• (元・選出)• (元呉市長、元会長)• (呉市長、元理事長) 行政、司法 [ ]• (部総括判事、元長)• (元)• (副会長) 学者 [ ]• (・出身)• (元学長)• (社会学部教授)• (経済研究所教授)• (元学長)• (元医学部助教授)• (名誉教授、法学部教授)• 元学長、オペラ歌手• () 実業家 [ ]• (4代目、創業者)• (創業者)• (初代社長)• (・フェリカネットワークス社長)• (第8代社長、元副会長)• (会長)• (初代社長、会長)• (・の創業者)• (増岡組2代目社長・鉄鋼ビルディング3代目社長)• (増岡組3代目社長)• (元日商岩井社長)• (戦前台湾のインフラ建設に携わった実業家、慈善家。 賀茂郡広村出身) マスコミ [ ]• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (ドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家)• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (フリーアナウンサー)• (元NHKアナウンサー)• (アナウンサー)• (中国放送アナウンサー) 音楽 [ ]• 小川順子(歌手)• (ミュージシャン・元)• (演奏者)• (・編曲家)• (作曲家)• (作曲家)• (歌手)• (元歌手)• (元歌手)• (ミュージシャン)• (ミュージシャン)• (ミュージシャン)• (歌手・声優) 芸能関係 [ ]• (タレント)• ( お笑いコンビ 磁石)• (タレント)• (映画監督)• (タレント)• (女優)• (俳優)• (俳優)• (、元女優)• (映画監督)• (俳優)• (映画プロデューサー、)• (美術デザイナー、美術プロデューサー、)• ( お笑いコンビ アイデンティティ)• 片岡公生(映画プロデューサー) 文学・漫画 [ ]• (詩人)• (漫画家)• (漫画家)• (漫画家)• (漫画家) 美術 [ ]• (日本画家)• () スポーツ [ ] 野球 [ ]• (元プロ野球選手、)• (元プロ野球選手・達朗の実兄)• (元プロ野球選手、監督・)• (元プロ野球選手・)• (元プロ野球選手・広島東洋カープ)• (元プロ野球選手・広島東洋カープ)• (元プロ野球選手・ - )• (元プロ野球選手・広島東洋カープ)• (元プロ野球選手・ - - )• (元プロ野球選手・広島東洋カープ)• (元プロ野球選手・)• (元プロ野球選手・)• (元社会人野球選手、監督、監督)• (元プロ野球選手・広島東洋カープ)• 金本浩司(元プロ野球選手・)• (元プロ野球選手・監督)• (元プロ野球選手・富美男の実弟)• (元プロ野球選手・)• (元プロ野球選手)• (元プロ野球選手)• (元プロ野球選手)• 石橋秀幸(元プロ野球トレーニングコーチ)• プロ野球選手・読売ジャイアンツ• (プロ野球選手・)• (元女子硬式野球監督・代表理事) バスケットボール [ ]• - (元プロ)• - (プロ、仲摩純平の実弟) 競馬 [ ]• - 日本中央競馬会調教師 その他 [ ]• (江戸時代のへの漂流者)• (建築家)• (、及び設立者)• (・旧豊町出身)• (空手家)• (元)• 僧侶、呉で私塾• 架空の人物。 ドラマ、の主人公。 ゆかりのある人物 [ ]• (タレント) - 16歳から18歳まで、父親の転勤の関係で2年半在住。 でデビューした頃は呉市出身としていた時期もある。 特産物・名物 [ ] メロンパン• :蜜屋• : 天明堂• :松田屋• 椿まんじゅう : 博美屋、献上銘菓• : 小型の。 の揚げ菓子にも似ている。 近くの「福住」の作るものが有名。 : 雨後の月・大内山・水龍・・千恵盛・日章冠・白天龍・不二寿・宝剣・満潮・・白鴻・三谷春・音戸の瀬戸• : 全国的な"メロンパン"と形が違いが入っている。 全国的な"メロンパン"のことは呉市では「コッペパン」と言う。 大長みかん・。 旧豊町地区特産。 呉市を舞台にした作品 [ ]• 文学作品• 『ビフォア・ラン』• 『自然と人生』 音戸町の記述がある• 『朽ちゆく望楼』 倉橋島が舞台となっている• 『煤煙の臭ひ』『放浪者富蔵』• 『死の器』• 『焼け跡のユディトへ』• 『』シリーズ• テレビドラマ• 『約束の旅』(1987年)• 『』(1993年:フジテレビ)• 『』(2008年:NHK広島)• 『』(2009年:NHK広島)• 『』(2011年:日本テレビ)• 『』(2014年:NHK広島)• 『』(2018年:TBSテレビ)• アニメ、ゲーム• 『』OVA第3話で下蒲刈島を舞台としたエピソードがあるほか、テレビシリーズ第1期である『たまゆら~hitotose~』(2011年)第8話は呉の市街地、第4話・第6話・第11話およびテレビシリーズ第2期である『たまゆら~もあぐれっしぶ~』(2013年)の第10話は大崎下島が舞台となっている。 なお、メインキャラクターの1人である桜田麻音は大崎下島の出身という設定である。 『』メロンパンなどの特産物や美術館通りなど、呉をイメージさせる描写が存在する。 ・『』シリーズ、『』シリーズに呉を舞台としたエピソードがある。 「THEME OF 」と呉市天応の官舎で過ごした頃を回想した歌• 「」歌詞の中にが出てくる。 呉市歌 [ ] 呉日日新聞社から寄贈され、1928年に指定された呉市歌がある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 気象庁. 2012年10月20日閲覧。 気象庁. 2012年10月20日閲覧。 (面積)• - 呉市(地図あり)• くれナビ なんでも質問箱. 呉市産業部観光振興課 2009年1月27日. 2013年5月1日時点のよりアーカイブ。 2012年7月28日閲覧。 市の概要. 2017年2月11日閲覧。 広島県総務局統計課• 「明治21年法律第1号市制第126条ニ依リ広島県安芸郡呉町ヲ市制施行地ニ指定シ明治35年10月1日ヨリ市制ヲ施行ス」• 「17名生埋め 呉の土砂崩れ」『朝日新聞』昭和26年7月16日 3面• 2011年4月30日. 2011年4月30日閲覧。 『全国市町村要覧 令和01年版』(第一法規) p. 337• 『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1985年。 2019年5月6日閲覧。 2019年5月17日閲覧。 - 広島県• - 広島電鉄(2010年12月20日付)• 中国新聞. 2012年4月1日. 2012年4月2日閲覧。 中国新聞. 2012年4月2日. 2012年4月2日閲覧。 - 国生さゆりオフィシャルブログ 2016年11月16日• - 広島ニュース食べタインジャー 2014年1月26日• - 呉市• 、() ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• - 呉市• ウィキトラベルには、に関する旅行ガイドがあります。 に関連する地理データ -.

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25年前の大ヒット作、「愛していると言ってくれ」が5月31日(日)から4週にわたり関東地区で再放送中(日曜午後2時~)である。 女優を目指す水野紘子(常盤貴子)と聴覚障害をもつ画家・榊晃次(豊川悦司)の声でコミュニケーションできない純愛は回を増すごとに視聴者を巻き込んで、本放送当時、高視聴率を獲得した。 そして2020年の今、25年前の作品にもかかわらず、再放送もSNSを中心に大きな盛り上がりを見せている。 貴島は自身の作品をヒットさせていくだけでなく、のちに「逃げるは恥だが役に立つ」(以下「逃げ恥」)の演出家・土井裕泰や日曜劇場「半沢直樹」の演出家・福澤克雄、「SPEC」シリーズのプロデューサー植田博樹を育てた。 「SPEC」も6月11日から深夜に再放送されることが発表されるとSNSが沸いた。 「愛している~」も「SPEC」もたくさんの視聴者に愛されるドラマなのである。 貴島のもとでプロデュースのノウハウを学んだ植田が弟子として師匠に90年代のドラマ制作の裏側について聞くスペシャル企画。 貴島のおかげで「ケイゾク」ができたという意外な真実も……。 愛されるドラマはどうやってできるのか 25年ぶりの再放送、メンツがすごい 植田博樹(以下 植田):「愛していると言ってくれ」の再放送が決まった経緯はどういうものですか。 貴島誠一郎(以下 貴島):ゴールデンウイーク明けーー5月8日ぐらいですかね。 編成部(放送する番組を決める部署)から連絡があって、12本全部再放送したいから、脚本家の北川悦吏子さんの了解を取ってくれというところが始まりですね。 植田:95年に生まれた「愛していると言ってくれ」という名作を、今この2020年にかけるとは粋な計らいだなと僕的にはうれしかったです。 貴島:「四半世紀前のドラマでいいの?」と僕も驚きましたよ。 コロナ禍のご時世で、再放送できる比較的新しいドラマがすでに放送されてしまったことと、メインの出演者が法に触れるような行為をした場合再放送し辛いということなど、諸条件を考えたとき、たまたまのご指名だったのでしょうけれど、せっかくそう言われたのなら、何としても各所了解を取ってやるしかないと。 植田:今見ると、そうそうたるメンツですよね。 当時、豊川悦司さんはまだ知る人ぞ知る存在でしたよね。 貴島:豊川さんは「NIGHT HEAD」(92年 フジテレビ系)や映画「12人の優しい日本人」(91年)で頭角を現してきたところで、「愛していると言ってくれ」でブレイクというか、幅広く認知されたと思います。 キャスティングの妙みたいなことで言うと、当時は、新しい人を入れたいという思いは強かったです。 自分のチームというか自分の家を建てるためには、新しいキャストでやっていきたくて、フジテレビに頻繁に出ている俳優、あるいは、先輩の八木康夫プロデューサーのドラマに多く出ている俳優とは違う人を探しました。 例えば、矢田亜希子さん。 彼女の役は当初、大学生の設定だったんですよ。 豊川さんが演じる榊晃次の設定が32~33歳だとすると、妹役があまりに年齢が離れているわけにはいかないと思って、女子大生や社会人1年目のOLができる俳優を探しました。 そこへたまたま、内田有紀さんをスカウトした敏腕のマネジャーさんが「貴島さんに紹介できるような子が見つかった」と連絡をくれまして。 それが矢田さんだった。 原宿でスカウトしたらしく、ルーズソックスを履いていました。 16歳、高校3年生くらいだったでしょうか。 すぐ台本の読み合わせをしたら、テレビドラマの台本を初めて見たと言うほど初々しかった。 そこが良くて、北川悦吏子さんに年齢設定を4つ、5つ下げてもらいました。 植田:その抜てきの話を僕は初めて聞きました。 常盤貴子さんは話題になった「悪魔のKISS」(93年 フジテレビ系)でちょっと汚れ役をやっていたので、「愛していると言ってくれ」の水野紘子のようなピュアな役で起用することも新鮮でした。 貴島:常盤さんのことを初めて知った番組は、フジテレビの深夜番組「シャンプータイム」(92~93年 日本テレビ系)でした。 そこに「誰にも言えない」(93年)でそのまんま東さんの奥さん役だった中村綾さんも出ていた縁で、1回TBSで擦れ違ったとき、中村さんから「一緒にやっている常盤さんです」と紹介してもらったんです。 その後、「悪魔のKISS」の1話を見て、即、事務所に電話しました。 北川悦吏子がTBS で連ドラを初めて書いた 植田:緑山スタジオで、僕、貴島さんと「悪魔のKISS」を一緒に見ていて。 そのとき、貴島さんが常盤さんを絶賛していたことが記憶に残っています。 ほかに、貴島さんは、バイプレーヤーとして余貴美子さんや段田安則さんや相島一之さんなど舞台系の個性派を起用していますよね。 貴島:当時、舞台俳優をメインにマネージメントしている事務所があって。 その5人くらいの優秀なマネジャーたちとよくご飯を食べていたんです。 植田:ありました。 貴島会。 貴島さんを囲むマネジャー会(笑)。 貴島:僕自身は演劇にはあまり詳しくなかったけれど、その会で「今度のドラマにこんな役があるんだけど合いそうな俳優はいないかな?」とよく聞いていて、そこから出てきたのが余貴美子さんや深浦加奈子さんでした。 植田:「愛していると言ってくれ」の制作にあたって、脚本家の北川悦吏子さんがTBSで連ドラを書くのは初めてだったと思います。 当時、フジテレビはブロックというか、ガードが堅かった印象があって、北川悦吏子がTBSで書くことになったのは印象的でした。 貴島:確かに、北川さんはフジテレビの秘蔵っ子で他局では書かないというイメージがありました。 そんな北川さんがTBS でも書くようになった理由のひとつは、フジテレビずっと書かれていた野島伸司さんがTBSの伊藤一尋プロデューサーと「高校教師」(93年)をやってヒットしたことも大きかったかと思います。 フジテレビとは違うテイストのドラマもやってみたいという作家の欲求と合致したのではないでしょうか。 北川さんはまず、「ユーミン・ドラマブックス」(91年)というユーミンの曲をドラマ化したシリーズで書いていましたね。 「ずっとあなたは~」を書いた君塚良一さんもそのドラマに参加していました。 その流れで「僕と仕事してください」とオファーしたのだったかな。 豊川悦司の大きくきれいな掌が決め手に 植田:「愛していると言ってくれ」では最初、豊川さんと常盤さんの役柄が最初逆のイメージだったみたいなことを聞いたことがありますが……。 貴島:元の企画では、常盤さん演じる紘子が聴覚障害者でした。 でも、主人公が手話のみだとドラマとして伝わりづらいだろうと思っていたところ、豊川さんに、北川さんと一緒に出演交渉したとき、「僕が聴覚障害者ではいけませんか」と提案されたんです。 そのときは即答しませんでした。 そんなに簡単には変更しますとは言えないから(笑)。 でも、そのあと打ち合わせを終えて豊川さんと別れるとき、手を振った彼の掌が大きくてきれいで、あの手で手話をしたら魅力的じゃないかと思って「これは北川さん、やってみませんか」という流れだったような気がします。 「LOVE LOVE LOVE」は「長男の嫁」が縁 植田:昔のインタビューでそういう話を読んだ記憶があって。 それはほんとだったんですね。 歴史的なその瞬間という感じがしますね。 貴島さんは、主題歌の選び方もすごく特徴的というか、八木康夫さんも主題歌の抜擢には定評がありましたが、その八木さんとはまた違う使い方をされるじゃないですか。 ユーミンだったりドリカムだったり。 「愛していると言ってくれ」の「LOVE LOVE LOVE」はいまだにドリカムの代表曲として認知されています。 曲の発注は、どういうふうにされているんですか。 貴島:90年代は、テレビドラマと主題歌がいい関係性を築いている時代でした。 まず、1話から3話まで北川さんが書いた脚本をドリカムのみなさんに読んでもらって、そのうえで僕と北川さんと演出家の生野慈朗さんとでドリカムの事務所に伺って、当時は3人組だった彼らと打ち合わせしました。 植田:ご本人たちと直ですか。 貴島:ええ。 サザンやユーミンなどビッグアーティストに直にお会いできることは、当時、プロデューサーの特権みたいなものでした(笑)。 それも、テレビドラマと主題歌のいいコラボレーションの時代だったからですよね。 ドリカムに関しては、中村正人さんに「長男の嫁」(94年)の主題歌を一緒にやっていただいた縁がありまして。 中村さんが「LOVE LOVE LOVE」とB面の「嵐が来る」と2曲書いてくれました。 個人的には「嵐が来る」のほうが好みでしたし、当時のドリカムとはちょっと違う方向の曲だったと思いますが、ドラマには「LOVE LOVE LOVE」のイントロが印象的で、ドラマにふさわしかったですよね。 250万枚の大ヒットになりました。 貴島さんは、松任谷由実さんとダイレクトに打ち合わせして意見も出されたりして、強い信頼関係を結んでいましたよね。 貴島:「誰にも言えない」の主題歌「真夏の夜の夢」をユーミンに書いていただいたとき、当時はまだ固定電話でしたけども、ユーミンから「貴島さん、曲ができたよ」と電話がかかってきて、その場で歌ってくれたんですよ。 シェークスピアの「ハムレット」をモチーフにした歌詞で、「オフィーリア」「誰も探さないで」というような歌詞が出てきまして。 でも私、浅学非才なもんですから、「オフィーリアを僕は知らない。 シェークスピアで知っているのは『真夏の夜の夢』ですかね」と言ったら、ユーミンが「それ頂き」と、あの曲になりました。 植田:すごいですね。 歴史が動いたみたいな瞬間ですね。 貴島:ほんとうに幸せな時間でした。 写真提供:TBS アダムとイブのイメージで 植田:「愛していると言ってくれ」ではリンゴだったりファクスだったり小道具が印象的です。 貴島さん、北川さん、チーフ演出家の生野慈朗さん、豊川さんが、毎晩のようにファクスで、台本のイメージ交換みたいなことをされていた記憶があります。 貴島:25年も前のことなので、元々北川さんの台本にあったのか、誰かが言いだしたのかっていう記憶が定かではないですが。 たとえばリンゴ。 表参道にあんなふうにリンゴがなっている樹はないであろうということはさておき(笑)、常盤さんがリンゴを取ろうとしていると、背の高い豊川さんが代わりに取るという出会いの場面は、「チッチとサリー」のような身長差があるふたりを印象的に表現したものです。 さらに、生野さんがつくった黄金の海のタイトルバックの最後のバックショットはまさにアダムとイブで、リンゴがタイトルバックのふたりにつながっているんです。 そういうイメージの共有を常にみんなで行っていました。 ファクスのやりとりは、北川さんのアイデアです。 今だったらLINEなどのネットツールで聴覚障害の方もやりとりできますが、当時はそういったツールが全くなく、ファクスくらいしかありませんでしたが、当時、ファクスはまだ高価で、12万5,000円もしたんですよ。 今は2~3万円でしょ? 貧しい劇団員の紘子にはとても買えないものを思いきって買って、ファクスで手紙のやりとりをする。 ほんとだったら一緒にいたいけれどいられないので、せめてファックスでつながっていたいみたいなね。 豊川さんもすごく気に入ったアイデアでしたよ。 植田:障害者を描くことで気を使ったことはありますか。 貴島:取材をかなりしたなかで、NHKの手話講座の丸山先生から聞いた話が印象に残っています。 ある時、僕が井の頭線か何かに乗っているときに、聴覚障害のカップルが手話をしていたんですよ。 ちょうどドラマの準備をしていたから、ついついじろじろ見ちゃったら、向こうも気づいて僕のほうを見ながら何か手話で話しだしたんです。 それを丸山先生に話したら「貴島さんのことを『何だあいつ、じろじろ見て』などと手話で言っていたんだと思います」と言われ、「なるほど」と思ったんですよ。 つまり、障害がある人も感じることは僕らと同じであるということです。 実際、カップルが僕を批難したかはわからないですが、不躾に見られたら誰だっていやな気持になるし、文句を言うこともあるだろうと。 生涯があろうがなかろうが同じ人間です。 障害をもった人を過剰にピュアで善人であるというふうに描くことはやめようと思いました。 植田:ハンディキャップを描くドラマはともすると極端な企画に寄せていくこともあった時代、ハンディは個性だという哲学を初めて打ち出したのが「愛していると言ってくれ」で、その後のいろんな作品の規範になっているように思います。 手話で声を出さない豊川さんが、ある瞬間、声を発することもインパクトがありました。 貴島:聴覚障害者の方に取材をしたときに、先天的な障害と後天的な障害があって、後天的な場合、声が出せると知ったんです。 だから、北川さんと僕のキーワードは「声出し」。 「いつ声出す?」「声出し、ここ早いよね」とかそんなふうに話し合っていました。 だからこそ純愛 植田:当時、僕は「ジューン・ブライド」(95年)というドラマを金ドラでやらせてもらっていたんですが、あの年(95年)はサリン事件、オウム事件が起こって。 阪神淡路大震災もその年でした。 確か「私の運命」(94~95年)の放送クール中に震災が起こりましたよね。 貴島:そうです、95年の1月ですよね(それで一週、休止になっている)。 植田:今は、コロナでドラマの撮影が止まっていますが、あの当時、ドラマづくりにおいて、現場のプロデューサーとして、何か大きく変わったことというか、センシティブになったことはありますか。 貴島:だからこそ「純愛」っていいますかね。 震災やオウム事件など、日本にとっていい事のなかった時の7月、たまたまバッターボックスに立つなら、すごくピュアなものをやろうと。 ドラマのなかだけでも、不幸な事件が忘れられるような、そういうものをつくりたいという思いはありましたね。 貴島式ヒットの法則 植田:「愛していると言ってくれ」のみならず、貴島さんの作品は、最初はそんなに高い数字じゃないけれども、後半になって20後半、30%に上がっていき、さらには40%にもなる作品が多いですけれども、そういうふうになる起爆剤は、貴島さん的には何だったと分析されてらっしゃいますか? 今のようなSNSの時代だと、勝者と敗者が二極化するというか、何かバズったら物見遊山のお客が一杯やってきて、数字が取れるみたいなところがありますが、当時はほんとにドラマ好きが見たっていう印象がしますが。 貴島:皆さんに見ていただけたり視聴率が取れたりする方法が最初から分かっていたら苦労しないですよ。 だからこそ、今ある素材の中に何を投入したら爆発するかっていうことは常に考えています。 成功パターンはないとはいえ、ただひとつ言えるとしたら、人より努力するっていうことでしょうか。 常にプラスアルファできることはないか考え続けることが秘訣というか、僕のやり方ですね。 そのなかには失敗もありますし、やり始める前は成功するか分からないし、やっているときも分からないですが、何を足せばいいのか常に考え続けます。 さっきお話した晃次がいつ声を出すかも最初から決めていなくて、台本の打ち合わせ中に「声出し、声出し」って北川さんとずっと考え続けた末に、ここだ!という最適な場所を見つけたわけです。 植田:貴島さんはいつも「アイデアの総量が作品の質を決める」からと「全てのスタッフは、毎日1つずつアイデアを持ってきてください」とおっしゃっていましたよね。 貴島:ふざけたやつだね(笑)。 植田:いやいや。 それが良かったんですよ。 プロデューサーとしては台本どおりに撮ることが一番効率いいと思いがちだし、そういうプロデューサーが殆どだけれど、貴島さんだったらこのアイデアを聞いてくれるんじゃないかといろんなスタッフがたくさんのアイデアを提案していました。 例えば、「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さんのコレクションである蝶の標本は台本ではエロ本だったんですよね。 それを美術プロデューサーが色んな提案をされて、その中に木馬や蝶の標本のアイデアがあり、それをその場で採用されていた…。 貴島:そうそう、そうそう。 僕と脚本の君塚良一さんの発想だとエロ本なんですよ(笑)。 それがやっぱり文殊の知恵っていうんですか、スタッフのアイデアが集まってどんどん盛り上がっていった。 植田:プロジェクトリーダーの鑑ですよね。 ストーリーを作る仕事は、ディレクターじゃなくてプロデューサー 植田:貴島さんがドラマプロデューサーをそもそも目指された、その入り口みたいなものは何なのでしょうか。 貴島:僕は、プロデューサーとしてちょっと特殊な育ち方をしているんですよ。 TBSに入った時、ドラマ志望ではなかったんです。 最初は営業にいて、その後編成部。 ドラマに触れたのは編成部で再放送の担当を2年ぐらいしていたとき、「天皇の料理番」(80年)や「茜さんのお弁当」(81年)など、自分が見たいドラマを再放送作に選んでいたときですね。 当時、再放送作を選ぶときは、視聴率はさほど関係なかったんですよ。 その後、ドラマ部に配属になりまして。 そのときすでに31歳と年齢もいっていたし、非常に不安でした。 ADましてやディレクターの仕事もできなくて、まずは先輩の八木康夫さんや遠藤環さんのAPを経て、ほかにできることがないからプロデューサーになったようなものなんですよ。 植田は最初からプロデューサー志望だったの? 植田:最初からですね。 連続ドラマの場合は、企画を立てるとかシナリオを作るとか、ストーリーを作る仕事は、ディレクターじゃなくてプロデューサーのものじゃないですか。 それを知ってからプロデューサー志望一本やりです……。 いや、しかし、貴島さんがたまたまドラマのプロデューサーになったということにはびっくりしました。 それが、その後、大ヒットメーカーになられるっていうのは、何か歴史の妙ですよね。 貴島:営業、編成と経験した者としては、ドラマ部のやり方には面食らいました(笑)。 例えばキャスティングするとき、僕はこちらから事務所にお願いに上がるということなのだと思っていたんです。 ところが、当時は、事務所のマネージャーたちが局に訪ねて来ていた。 でも僕はそれが恐れ多くて、ほとんどの事務所に自ら足を運んでいたと思います。 植田:プロデューサーが事務所に足を運んで、いろいろ話をするようになるのは貴島さんの時代からですね。 貴島:そうですね。 90年代は芸能事務所と局の関係性が変わるその端境期ぐらいだと思います。 TBSといえばホームドラマ 植田:貴島さんは、ホームドラマもつくられれば、ラブストーリーもつくられますが、創作の根っこはなんですか。 貴島:僕、91年に「結婚したい男たち」で初めてプロデューサーやって、これは視聴率的には惨敗でした。 この頃は、フジテレビのトレンディードラマの時代で、「結婚したい男たち」も、当時のフジテレビの後を追うような内容でしたが、それじゃ勝てない。 では、TBSらしいものはどういうものかと考えた末、「ホームドラマ」に行き着いたんです。 それが「ずっとあなたが好きだった」で。 あれは「冬彦さんブーム」が起きましたが、そもそもは息子と嫁と姑のひとつの家庭を描いたドラマです。 また、「愛していると言ってくれ」でも恋愛が中心ではあるとはいえ、吉行和子さんが演じる母親をはじめとして、家族や家庭を手厚く描きました。 それがTBSらしさではないかと思ったんです。 植田:当時、フジテレビのラブストーリーにはほとんど家族は出てこなかった。 貴島:そう言われていましたね。 植田:ええ。 結婚式にも家族が出てこないという独特な描写でした。 TBS は意図的にホームドラマの延長線上にラブストーリーを作ったということですか。 貴島:恐らくフジテレビのトレンディードラマは、ラブストーリーというよりラブコメを目指されていたように感じますが、それと違う色を出すとしたら、やっぱりホームドラマだろうと思い、ホームドラマを軸にいろんな要素を組み合わせて企画を立てていきました。 ラブストーリーにホームドラマが付いているのか、ホームドラマにラブストーリーが入ってくるのか。 それは小さな違いかもしれませんけど、それは結構大きな違いで。 僕がホームドラマを意識したのは、心の師匠である久世光彦さんの作品の影響があります。 久世さんの「ムー一族」(78~79年)などのプラスアルファのあったホームドラマを参考にしました。 一度、久世さんとお話したことがあって、そのときは嬉しかったですよ。 植田:貴島さんと久世さんがどんな話をしたのか気になります。 ……ものすごく下世話な質問ですけど、冬彦さんブームや「愛していると言ってくれ」や「ビューティフルライフ」(00年)の話題で世の中が沸騰しているときに、渦中にいる人物としては、どういう心情でしたか。 貴島:冬彦さんブームときは、ラス前の11話かな。 視聴率が29%で。 そのときは「うれしい。 ああ良かった」と思ったのは午前中だけで、午後になったら、「これ、30%を期待されているだろうから、次に30いかなかったら、今までのことがなしになるのかな」などと割とネガティブになりました。 プロデューサーの資質のひとつに、ネガティブと言うとおかしいですが、あまり楽観的じゃないほうがいいのではないかと僕は思います。 植田:「打ち上げが終わって、二次会のボウリング大会が終わって、帰りの車の中ではじめてほっとする」みたいなことをおっしゃっていた記憶が、僕にはあるんですよ。 数字よりも、スタッフとキャストが、全部無事にある種の旅を終えられることを目指すものですか。 貴島:植田さんにも「打ち上げまでが仕事だ」と僕は言っていましたよね。 スタッフ、特にADチーム、演出部に関してはね。 やはりキャスト・スタッフを迎えて、最後まで送り届けることは大事ですよ。 キャストに限らず、スタッフもみんな、他局でも仕事をしていますから、「TBSのドラマをやって良かったな」と思って打ち上げを終えたいという思いはありました。 若手スタッフを育てる 植田:僕も貴島さんのところで育ちましたが、TBSの今の2大看板演出家、土井裕泰さん(「逃げ恥」や「カルテット」など)と福澤克雄さん(「半沢直樹」「下町ロケット」など)のふたりも貴島さんが最初に抜擢したんだと思います。 彼らは「愛していると言ってくれ」にも参加していますが、最初から「こいつら、できるな」と思いましたか。 貴島:福澤さんにしても、土井さんにしても、優秀でしたよね。 僕は、大先輩の下で長らく修業していくよりも、いい事も悪い事も含めて、早いうちから独り立ちして、厳寒を歩いたほうが力が付くと思うんです。 植田さんにも早く一本立ちするよう勧めましたよね。 当時の感覚だと「プロデューサーもディレクターも、30代前半で当てるもの」みたいな気持ちはありました。 30代前半だと、若い人の気持ちも分かるし、ちょっと上の世代の気持ちも分かります。 これが20代だと、「『水戸黄門』って面白くないよね」と思ったりするし、僕ぐらいの年になると、「このドラマ、よく分かんねえな」ということになってしまう。 その意味で、30代前半は、特にテレビドラマという今を扱う仕事をするクリエーターにとってはいい時期だなと思うんです。 植田:こうやって面と向かって申し上げるのは何ですけれど、最初に貴島さんに25歳の時に「今から3年後にプロデューサーをやれ」と言っていただいたあと、シナリオの作り方から手取り足取り教えてもらって、脚本家さんも沢山紹介していただきました。 本当は貴島さんが大事にしないといけない脚本家さんを僕なんかにオープンソースにされたというか。 さらに言えば、貴島さんが「植田、作家打ち合わせの店に行こう」「ここはこういうふうな打ち合わせに向いているんだ」みたいに言っていろいろなお店に連れていってくださって。 しかも、「お店の名刺をもらって帰るといい。 いつかお前が作家打ち合わせするときには、ここの店を使うといいよ」みたいなことまでおっしゃってくださって、今でもすごく感謝しているんですよ。 福澤監督も土井監督も、貴島さんの庇護(ひご)がなければ若いうちから芽を出せなかったと思うんですよ。 当時は年功序列主義で「若い芽は摘め」みたいな風潮があったような気がしますが(笑)、貴島さんにはそれがまったくなかった。 貴島:いや、僕はそんなに立派な人間じゃないですよ(笑)。 植田さんが僕のことを「師匠」と呼んでくれますが、僕からしたら、いつも言っていますが、植田さんをはじめとして、いい後輩たちに恵まれたと思います。 当時、フジテレビのドラマは絶好調で、フジテレビに対して点で戦っちゃ勝ち目がない。 面で戦うべきだと思っていました。 フジテレビの方がどう思っているか知りませんが、僕は、やっぱり僕の時代でフジテレビと対抗していかないといけないというか……「僕がフジテレビに勝たないとTBSは一生勝てないんじゃないか」と生意気にも思って、それで秘密兵器の植田プロデューサー、土井さん、福澤さんなど、新しいこれからの人と一緒にやっていこうとしたんです。 常盤貴子さんや矢田亜希子さんなどの俳優さんもそうですよね。 そもそも、野際さんはすごく知的なイメージがあったので、イジワル姑みたいな役はおやりにならないと思っていたのですが、「愛さずにいられない」(91年 フジテレビ系)というドラマで吉田栄作さん演じる主人公のお母さん役で出て誰かを虐める演技をされている姿を見て「これだ!」と思い、即電して快諾頂きました。 やっぱり、ずっと何かを考え続けていると、ドラマの神様が囁いてくれるんですね。 植田:野際さんは僕らみたいなADにも優しくしてくださいました。 貴島さんと野際さんの間にある母子のような、それ以上のようなえも言われぬ信頼関係がすごく目に焼き付いています。 貴島:離婚されたときも、TBSで会見をされましたし。 何ですかね。 お母さんでしたね、ほんとに。 芸能界の母っていいますか、母親のような存在の方に出会えたことはやっぱり運ですね。 運だけど、努力もちょっとしているということですかね。 マニアックな作品が得意だった植田にラブストーリーを任せた理由 貴島:話は尽きないですが、ここではっきりさせておきたいのは、「ビューティフルライフ」は僕が企画したことになっているようですが、あれは僕は全くやってないですよ。 植田:そんなことないですよ。 最初の打ち合わせに参加されていましたよ。 貴島:やる予定ではありましたが、最終的な企画の内容は全部植田さんが考えたものですよ。 だから僕の作品歴には入れてないんです。 植田:僕、最初、「氷の世界」というサスペンスに貴島さんに呼んでいただいたんですよ。 貴島さんが「サスペンスだったら植田だろう」と言ってくださって。 その最初の会議で、僕が恐れを知らずに「主人公の持っている銃はリボルバーですか、オートマチックですか」と聞いたら、そこにいたスタッフ全員がシーンっとなってしまって。 会議が終わって中華を食べに行っても誰もしゃべらなかったという大惨事があって。 その次の打ち合わせのときに「ビューティフルライフ」の企画書が来て……。 「ラブストーリーだったら、僕には居場所ないな」と思いながら打ち合わせに臨んだ記憶があります(笑)。 そんな僕に「ビューティフルライフ」を任せてくださったのは、「おまえは『ケイゾク』みたいなコアな作品だけじゃなくて、メジャーな作品にもトライしたほうがいいよ」という意味だったと僕は思っているんですよ。 貴島:そうだったかもしんないですね。 僕は割と自分の日常の中でドラマの素材を拾ってくるタイプですが、植田さんはすごく勉強していて、サスペンス系は既に「ケイゾク」(99年)で実績もあった。 「ビューティフルライフ」で北川悦吏子さんや木村拓哉さんや常盤貴子さんなどのキャストを預けられるのは植田さんしかいないと思ったんです。 植田さんは「ビューティフルライフ」や「GOOD LUCK!! 」などのメジャー作品もやりつつ、「SPEC」みたいな連ドラから発展して映画化もされる作品も作って。 もう何年ぐらい続いているんですか。 「ケイゾク」のタイトルを守った 植田:「ケイゾク」を入れて20年ですね。 貴島さんがいなければ、「ケイゾク」はなかったんですよね。 貴島:当時、僕は編成で企画総括をやっていました。 植田さんのやるミステリードラマの企画自体は成立していたものの、「ケイゾク」というタイトルが編成会議で引っかかった NGになった。 タイトルとして受け入れにくいと感じる人や、警察ではこんな用語は使わないなどと報道出身の方々の意見もあって、タイトルを再考したほうがいいと一回戻したんですよね。 ところが植田さんは諦めずにまた同じ「『ケイゾク』でお願いします」と提出してきた。 それで、「植田がこれほどこのタイトルでやりたいと言っているのだから、このタイトルでいきましょう」と提案して、ようやく異論がなくなったという感じでしたかね。 植田:その話、はじめて聞きました。 いやあ、ありがとうございました。 ほかにも、「ケイゾク」の1話ができたときに、貴島さんと、当時部長だった大物プロデューサーに見てもらったら、その部長に「これはドラマじゃない」と否定されたんですよ。 「笑えもしないし泣けもしないし、音楽を全部つけ直せ。 編集も全部やり直せ」と言われたとき、貴島さんが「いや、このクオリティーがすごいんだ」と言ってくださって、やり直さずに済んだんです。 ほんとうにすごく感謝しています。 貴島:言ってみれば、自分に分からないことは、よけいな意見を言わず、そのまんまでいけみたいなところはありましたね。 やっぱり植田さんは、僕にはとてもないような想像力があって、普通のテレビドラマの枠を壊してくるところは、後輩ながらすごくうらやましいと思っているところがあるんですよ。 貴島:再放送にあたって、常盤貴子さんと豊川悦司さんの25年ぶりのリモート同窓会という企画が実現しました。 この間、映画「20世紀少年」シリーズの現場で会ったりはしていたらしいですが、25年前の撮影当時のエピソードを語ってもらうことは、多分初めてだと思うんです。 僕も知らなかったような事を、豊川さんも常盤さんも話されています。 ほんとは全部見ていただきたいぐらいの面白いリモート同窓会だったんですけども、本編をノーカットでいくという方針があったので、ある程度の分数にまとめています。 当時を振り返って懐かしく思われるお母さんと、初めてこのドラマを見られるお嬢さんとが、親子二代でこのドラマを見て会話をすることができたらいいんじゃないかなと思います。 植田:本物のクオリティーのラブストーリーが、この時代に見られることはこの上もなくぜいたくなことです。 おふたりはどう思われていますでしょうか。 植田:これから、予算がシュリンクしていくとか、撮影方法が制限されるとか、いろんな障害は出てくるとは思いますが、逆に4Kなどにこだわらなくてもいいんだっていうことを学んだという意味では非常にポジティブに捉えています。 ただ僕は、パソコンの画面だけでやるドラマはつくらないつもりです。 もう結構やりつくされちゃったので。 貴島:東北の震災のときは「絆」という言葉がキーワードになって、ドラマの傾向も変わりました。 あのときは震災の被害を受けていない地域もあったから、助け合おうということでしたが、今回は日本全国、全世界が同じように被害を受けているので、またドラマの傾向にも変化があるように思います。 10月以降に制作する現代劇はコロナ禍があった前提のドラマになってくるでしょう。 テレビドラマの撮影現場は「3密」なものですが、だからといってキスをしないドラマはないだろうと思うんです。 昔、「君の名は」ではガラス越しにキスしていて、今度はスマホ越しになるのか分かりませんが、表現の仕方が工夫されていくでしょうし、「STAY HOME」を経て、より家庭の中に軸足を置いた、夫婦の子育てのドラマなどが見たくなるのではないかなというふうに思っています。 profile 貴島誠一郎 1957年、鹿児島県生まれ。 TBSエグゼクティブプロデューサー。 一般企業勤務を経て1982年にTBSに入社。 営業、編成を経て89年よりドラマ制作に携わる。 主なプロデュース作に『ずっとあなたが好きだった』(92年)『愛していると言ってくれ』(95年)、『理想の結婚』(97年)、『青い鳥』(97年)、『Sweet Season』(98年)『肩ごしの恋人』(2007年)、『LEADERS リーダーズ』(2017年)などがある。 植田博樹 1967年、兵庫県生まれ。 京都大学法学部卒業後、TBS入社。 ドラマ制作部のプロデューサーとして、数々のヒットドラマを手がける。 代表作に『ケイゾク』『Beautiful Life』『GOOD LUCK!! 写真提供:TBS 取材を終えて 「愛していると言ってくれ」を筆者が久しぶりに見たのは、脚本家・北川悦吏子さんの朝ドラ「半分、青い。 」(18年)の放送中だった。 北川さんのラブストーリーと豊川悦司さんの魅力を代表作から改めて確認しようと思ってのことで、実際見返して、その熱量にかなり圧倒された。 キュンとしっぱなしのストーリー、豊川さんは色っぽいし、演出もエモーショナル、駅などのロケの風景や音楽のかけ方などすべてが洗練されていた。 ついつい朝ドラはロケ不足だし恋愛場面の盛り上げ方が物足りないなんて記事を書いてしまったこともあった。 90年代のTBSのドラマのクオリティーが高く、それは00年代、10年代と年月を経ても着実に受け継がれ、アップデートしている。 だからこそ、最近の「逃げ恥」や「恋はつづくよどこまでも」なども盛り上がっているのだろう。 90年代のTBSドラマはドラマ史において重要と思った私は、「愛していると言ってくれ」の再放送に当たって、キーパーソン・貴島プロデューサーの話を聞くことにした。 貴島さんと植田さんにはオンラインで取材した。 ふたりは長年、師弟関係にあるだけあって、遠隔でも阿吽の呼吸で会話していた。 どれも興味深い話題ばかりだったが、他局と違うTBSならではのドラマにあるもの、それがホームドラマであるという話は印象的だった。 たしかに、「ケイゾク」や「SPEC」なども登場人物たちにどこか家族的な関係ができていくし、「逃げ恥」も「恋つづ」も家族が描かれている。 これからのドラマは新しい家族の形が描かれていくであろうか。 楽しみである。

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