大江山の歌 訳。 百人一首の意味と文法解説(60)大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天橋立┃小式部内侍

古典解説「小式部の大江山の歌」~気に食わない上司の撃退法~

大江山の歌 訳

「十訓抄:大江山」の現代語訳 和泉式部、保昌が妻 めにて、丹後 たんごに下りけるほどに、京に歌合 うたあはせありけるに、小式部内侍、歌詠みにとられて、詠みけるを、 和泉式部が、保昌の妻として、丹後に下った頃に、京で歌合せがあったところ、小式部内侍が、歌詠みに選ばれて、(歌を)詠んだのを、 定頼中納言戯 たはぶれて、小式部内侍ありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。 いかに心もとなく思 おぼすらむ。 」と言ひて、 定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いた時に、「丹後(の母のもと)へおやりになった人は(帰って)参りましたか。 どんなにか待ち遠しくお思いのことでしょう。 」と言って、 局 つぼねの前を過ぎられけるを、御簾 みすより半 なからばかり出 いでて、わづかに直衣 なほしの袖をひかへて、 局の前を通り過ぎられたのを、御簾から半分ばかり(身を)乗り出して、ほんの少し直衣の袖を引っ張って、 大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立 大江山を越え、生野を通って行く道のりが(京から)遠いので、(母がいる丹後の)天の橋立はまだ踏んでみたことはありませんし、(母からの)手紙もまだ見ていません。 と詠みかけけり。 と(歌を)詠みかけた。 思はずに、あさましくて、「こはいかに。 かかるやうやはある。 」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて、逃げられけり。 (定頼は)思いもかけぬことに、驚いて、「これはまあなんとしたことだ。 こんな(=当意即妙に歌を詠む)ことがあろうか、いや、あるはずがない。 」とだけ言って、返事もできず、(引っ張られている直衣の)袖を引き払って、お逃げになった。 小式部、これより歌詠みの世に覚え出で来にけり。 小式部(内侍)は、この時から歌詠みの世界に名声が広まったということだ。 これはうちまかせての理運のことなれども、かの卿 きやうの心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知られざりけるにや。 こうしたことは(小式部内侍にとっては)ごく普通の当然のことであったけれど、あの(定頼中納言)卿の心の中には、これほどの歌を、すぐに詠み出すことができるとは、おわかりにならなかったのであろうか。 (十訓抄) 脚注• 和泉式部 生没年未詳。 平安時代中期の名高い歌人。 歌合 歌人が左右二組に分かれ、歌の優劣を競う催し。 直衣 男性貴族の平服 出典 十訓抄 参考 「国語総合(古典編)」三省堂 「教科書ガイド国語総合(古典編)三省堂版」文研出版.

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大江山・十訓抄 現代語訳・品詞分解

大江山の歌 訳

小式部内侍の母は当時の有名な歌人であった和泉式部。 「和泉式部日記」の作者としても知られていますね。 当時、小式部内侍が歌が上手なのは、この母親の代作ではないかと疑われることもあったようです。 そして、ある時、小式部内侍は歌合の歌人として選出されます。 このことは、当時の歌人にとっては大変名誉なことでした。 そんな中、定頼中納言がおもしろがって、今度の歌合で詠む歌は、お母さんからもう教えてもらったのかという意味合いのことを言って、小式部内侍をからかいます。 すると、小式部内侍はすぐさま歌を詠んでやり返しました。 「お母さんがいるところは、ここから遠いから、まだ会いに行ったこともないし、もちろん手紙ももらってないわ。 (歌はお母さんから教えてもらっているんじゃないんだから。 )」 この歌が、掛詞の技法を用いつつ、すばやくその場にふさわしい内容を詠み込んだすばらしい出来栄えだったんですね。 してやられた感のある定頼中納言は、何も言い返すこともできずに逃げていくしかなかったわけです。 ですが、この一件が、小式部内侍の歌人としての名声を上げるのに一役買うことにもなったようですね。 鎌倉時代中期の説話集で、十の教訓の説話を集めています。 なお、この話は教科書によっては、「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」から出典されているものもあります。 内容はほぼ同じものになっていますが、多少違いがありますので注意してください。 それでは、原文と現代語訳と注釈です。 いかに心もとなく思(おぼ)すらむ。 」 と言ひて、局の前を過ぎられけるを、 6 御簾(みす)より半(なか)らばかり出(い)でて、わづかに直衣(なほし)の袖(そで)を控へて、 7 大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天(あま)の橋立(はしだて) と詠みかけけり。 8 思はずにあさましくて、 「こはいかに、かかるやうやはある。 」 とばかり言ひて、 9 返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。 10 小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出(い)で来(き)にけり。 11 これはうちまかせて、理運のことなれども、 12 かの卿(きやう)の心には、これほどの歌、ただ今詠み出だすべしとは、知られざりけるにや。 どんなにじれったくお思いになっていることでしょう。 」 と言って、部屋の前を通り過ぎなさったが、 6 (小式部内侍は)御簾から半分ほど身を乗り出して、かろうじて(定頼の)直衣の袖を引き止めて、 7 (小式部内侍の歌)大江山を越えて行く、生野の(丹後までの)道が遠いので、まだ(丹後の)天の橋立は踏んだこともありませんし、(母からの)手紙も見ていません。 と詠みかけた。 8 (定頼は)思いがけないことに驚いて、 「これはどうしたことか、このようなことがあろうか(いや、あるはずがない)。 」 とだけ言って、 9 返歌をすることもできず、袖を引き離してお逃げになった。 10 小式部は、このときから、歌人としての世間での評判が立つようになった。 11 これは普通一般に、道理にかなっていることであるが、 12 あの卿(定頼)の心の中では、これほどすぐれた歌を、今すぐに詠み出すことができようとは、ご存知ではなかったのであろうか。

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【現代語訳】大江山/1分でわかるあらすじ|古典の現代語訳

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小式部内侍 小式部内侍(こしきぶ の ないし、元年()頃 - 2年()11月)はの女流。。 の一人。 父は、母は。 母の和泉式部と共にの中宮・に出仕した。 そのため、母式部と区別するために「小式部」というで呼ばれるようになった。 経歴 [ ] 母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の湖山へと戻っていた。 和泉式部は安産祈願の為、現在の鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされる。 住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っている。 母同様恋多き女流歌人として、・・・など多くの高貴な男性との交際で知られる。 教通との間には、範永との間には娘をもうけている。 万寿2年、の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。 この際母の和泉式部が詠んだ歌 「教導立志基」より『小式部内侍』 筆 当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言()は歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。 使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。 意味としては「大江山()を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠いの地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みなを使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。 四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。 脚注 [ ] [].

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