明智 光秀 長良川 の 戦い。 長良川の戦いとは?斎藤道三・義龍親子最大の戦い明智光秀はどちらについた?

明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

明智 光秀 長良川 の 戦い

《明智光秀》 「引用元より」 【 1556年】に「美濃国」から逃亡したと言われている「明智光秀」。 その【 1556年】から、光秀が参戦した戦いを、年表形式でご紹介いたします。 ただ、光秀が参戦した戦は、まだまだ無数にあると考えられます。 歴史に記された有名な戦いのみをピックアップしておりますので、何卒ご理解くださいませ。 【 1556年】 「長良川の戦い」 光秀、「斎藤義龍(高政)」に「明智城」を攻められて、「明智秀満」や妻「煕子」とともに「越前国」へ逃亡。 このとき「明智光安」戦死。 【 1568年】 「織田信長・上洛戦」 「織田信長」が「足利義昭」を連れて京都へ進軍(上洛) 光秀もこれに参戦。 【 1569年】 「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」 「三好長逸」「三好政康」「岩成友通」の「三好三人衆」が京都「本圀寺」にいた「足利義昭」を襲撃。 光秀は少数の軍で、防戦。 「細川藤孝」「織田信長」の援軍により、勝利 【 1570年】 「金ケ崎の戦い」 信長からの「上洛命令」に逆らった「朝倉義景」を攻撃し「天筒山城」「金ケ崎城」を陥落させる 「金ヶ崎の退き口」 同盟者であった「浅井長政」が裏切り、織田軍を襲撃。 光秀は「羽柴秀吉」「徳川家康」とともに、殿軍となって信長を逃がす 1571年「石山本願寺挙兵」~1575年「長篠の戦い」 【 1571年】 「石山本願寺・挙兵」 「本願寺顕如」がひきいる「石山本願寺」と、四国から進軍してきた「三好三人衆」が織田信長にたいして挙兵。 光秀も出陣 【 同年】 「比叡山焼き討ち」 光秀は先陣をきって比叡山を攻撃した。 この功績により「坂本」の領地5万石を与えられ、「坂本城」を築城 【 1572年】 「河内国」へ出兵 【 1573年】 足利義昭が信長に対して挙兵 「石山城の戦い」 「今堅田城の戦い」 「槇島城の戦い」 光秀も参戦し、「足利義昭」を京都から追放。 「室町幕府」が滅亡する 【 1575年】 石山本願寺との「高屋城の戦い」 武田勝頼との「長篠の戦い」 石山本願寺との「越前国一向一揆殲滅戦」 「丹波国攻略戦」開始 この「丹波国攻略戦」の初戦で「黒井城」を包囲するものの、見方だったはずの「丹波国・八上城」の城主「波多野秀治」に裏切られて、光秀が敗走する 1576年「天王寺の戦い」~1582年「山崎の戦い」 【 1576年】 石山本願寺との「天王寺の戦い」 光秀が守っていた「天王寺砦」が、本願寺の軍団に包囲される。 絶体絶命の危機に、織田信長が自ら先陣をきって光秀を救出しに向かい、負傷しながらも光秀救出に成功。 【 1577年】 紀州「雑賀攻め」 「信貴山城の戦い」で「松永久秀」を討伐 【 1578年】 「播磨国攻略」を行っている「羽柴秀吉」へ援軍として「神吉城(かんきじょう)攻略」に参戦 この「神吉城攻略戦」には、「織田信忠」「荒木村重」も参戦していた 【 同年】 「荒木村重」が突然裏切り、居城「有岡城」に籠城。 「有岡城の戦い」に光秀も参戦。 【 1579年】 「丹波国攻略戦」完了 「八上城」「黒井城」が陥落したことで、4年におよんだ戦いが終わり、「丹波国」を平定。 翌年、光秀は信長から丹波国を与えられる 【 1582年】 「甲州征伐」に信長とともに従軍するも、「織田信忠」が武田勝頼を討ち果たしていたため、光秀が戦うことは、ほとんどなかった。 【 同年】 【 天正10年(1582年)6月2日】 光秀が「本能寺の変」を起こし、「織田信長」と討ち取る 【 同年】 【 天正10年(1582年)6月13日】 「山崎の戦い」 羽柴秀吉の軍「4万」VS明智光秀軍「1万3千」 光秀・敗北 明智光秀、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩り」の襲撃を受けて亡くなる。 「明智光秀」がもしも「山崎の戦い」に勝利していたら、歴史はどうなっていた? 明智光秀が敗北した「山崎の戦い」で、もしも「光秀」が「秀吉」を倒していたら、歴史はどのように変わっていたでしょうか? 「山崎の戦い」で光秀が勝利していたとしても、光秀の天下はそれほど長く続かなかったと思います。 各地には、「柴田勝家」「滝川一益」「徳川家康」らの軍団が、まだまだ残っていました。 「北条」や「上杉」と協力したとしても、これら「織田」と「徳川」の軍を、明智光秀が倒すのは、難しかったと考えられます。 光秀は「羽柴秀吉」を倒したとしても、「柴田勝家」「滝川一益」「徳川家康」のうちの誰かに討たれていたのではないでしょうか。 光秀を倒せる可能性がもっとも高いのは、「徳川家康」でしょう。 「柴田勝家」は「上杉景勝」との戦いで動けませんでした。 「滝川一益」は「神流川の戦い」で北条軍に大敗北。 それに対して「徳川家康」だけは、「信長の仇討ちをする」と言って、実際に明智軍に向けて出撃しています。 家康が光秀を倒せなかったとしても、時間が経過すれば経過するほど、家康の味方は増えたはずです。 「織田信雄」が家康の味方をしたでしょうし、大和国の「筒井順慶」や「細川藤孝」も家康の味方になったはず。 「山崎の戦いで、光秀が秀吉に勝利していたら、徳川家康が明智光秀を討ち果たしていた」のではないでしょうか。 明智光秀の末裔にあたる作家「明智憲三郎」さんは、こんなことをおっしゃっておられます。 「徳川家康は、明智光秀と協力して、織田信長を本能寺で討ち果たした。 家康は、光秀に援軍を送るために、三河から出陣した」 もしもこの説が本当なら、「家康が光秀を討っただろう」という推測はなりたたなくなります。 明智憲三郎さんの説によると「細川藤孝・明智光秀・徳川家康が協力して織田信長を討った」のだそうです。 そして「細川藤孝」が光秀を裏切ったため、秀吉に討たれたと・・・。 しかし、「家康が光秀に援軍を送ろうとした」など、本当にありえるのでしょうか? もしもその通りなら、これまでの歴史の常識がくつがえることになりますが・・・。

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斎藤義龍 (斎藤高政) 1分でわかりやすく紹介

明智 光秀 長良川 の 戦い

明智光秀はどんな人だったのかをわかりやすく解説 明智光秀は1528年に現在の岐阜県に生まれました。 はじめの頃は斉藤道三に仕えていましたが、道三が滅ぼされたのちは浪人となり、いろいろな場所を転々とする生活を送ります。 光秀はこの時に鉄砲などの最新の技術や、和歌といった教養を身に着けました。 光秀は頭がよくて品のある人だったと言えそうですね。 1569年からは織田信長の部下になります。 信長34歳、光秀40歳のときでした。 信長は光秀の頭のいいところや、物知りなところを気に入ったようです。 ただし、光秀は信長にとって子どもの頃を一緒に過ごしてきたほどの部下ではなかった(いわゆる「新参者」だった)という点は見逃せませんね。 そんな中、光秀は比叡山延暦寺焼き討ちや長篠の戦いなどの有名な戦に加わるとともに、政治の面でも活躍し、信長の部下の中でもどんどん出世していきます。 しかし、1582年に信長を本能寺で襲い 本能寺の変 ますが、そのわずか十数日後に同じ信長に仕えていた羽柴秀吉 後の豊臣秀吉 に山崎の戦いにて敗れ、死亡しました。 スポンサードリンク 明智光秀の年表をわかりやすく解説 続いて、 明智光秀の年表をわかりやすくご紹介します。 まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。 おじの光安は戦死。 一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。 その後、越前 今の福井県 の大名、朝倉義景に仕える。 光秀は実行部隊として武功を挙げる。 琵琶湖の近くに坂本城を建てる。 進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う 本能寺の変。 信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北 山崎の戦い。 逃げる途中に襲われて死亡。 信長の主だった戦いに参加し、新参者の中では出世頭であった光秀ですが、どうして主君である信長を襲う決意をしたのでしょうか。 次の章でくわしく見てみましょう。 本能寺の変をわかりやすく解説 本能寺の変とは、1582年に明智光秀が主君である信長を裏切りった事件のことを言います。 近畿地方を支配下におさめつつあった信長は、中国地方を自分のものにしようと考え、羽柴秀吉らを向かわせます。 光秀も秀吉とともに戦うため自分の軍隊を丹波 兵庫県あたり まで進めますが、突然軍隊を引き返し、信長がいる本能寺に襲いかかります。 この時、本能寺に向かう途中の光秀が言ったとされるのが「 敵は本能寺にあり!」という有名な言葉です。 光秀に襲われた信長は自ら槍を持って戦いますが、勝ち目がないと分かった後に自害しました。 なぜ光秀が信長を襲ったのか、その理由は明らかにはなっていません。 そのため、 ・光秀は日頃から信長に恨みを抱いていた ・自分が天下人になりたかった ・秀吉や家康と手を組んでいた ・足利家や朝廷などに頼まれた こうした色々な説が考えられています。 光秀が信長に仕えるまでに色々な人のもとを渡り歩いていたことや、信長軍の中では新参者だったことを考えると、どの説も当てはまりそうですね。 スポンサードリンク この記事のまとめ 明智光秀はとても頭がよい人物で、信長にもそこを見出された人でした。 目立った活躍を見せるのも信長に仕えてからのことであり、光秀が歴史の舞台に出てきたのは、信長のお蔭なのかもしれません。 そんな明智光秀が最も有名になったのは、やはり本能寺の変で信長を襲ったからでしょう。 なぜ、光秀は信長を襲ったのでしょうか。 光秀がどんな人だったのか、どんな人生を歩んできたのか、今回ご紹介した情報を頼りに、あなたなりに推理してみると面白いかもしれませんね。 これを機に、光秀や本能寺の変に関する研究も進むのではないかと、個人的には期待しています。 ドラマは勿論ですが、今後どのような新説が出てくるか、今から楽しみです! 関連記事(一部広告含む).

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明智光秀生誕の城⁉明智城‼そして長良川の戦いの末に落城したが、その後光秀が再興することはなかった…

明智 光秀 長良川 の 戦い

明智光秀 の生誕には諸説あるが、最も有力とされているのが、美濃の土岐氏支流明智光綱(みつつな)の子として1528年 享禄元年 頃に美濃明智城に誕生したという説だ。 1556年 弘治2年 にが息子の斎藤義龍に討たれた長良川の戦いで、明智光秀は道三に味方したため、明智城を攻められ一族離散の憂き目に遭う。 その後、浪人として諸国を流浪したのだとか。 浪人時代はもちろん苦しい生活を強いられる。 正室である煕子(ひろこ)が、自分の黒髪を売って明智光秀を支えたと言う話も伝わるほどだ。 ちなみに、明智光秀は一途な男として知られ、生涯、正室である煕子以外に側室を持たなかったとも言われている。 浪人生活を経て、母方のつてから越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕官する。 そのとき、朝倉家に将軍である足利義昭が亡命してくることに。 それがきっかけで、足利義昭(あしかがよしあき)の幕臣となる。 1568年 永禄11年 頃、その義昭の使者として織田信長と接見。 織田信長の家臣にもなり、1571年 元亀2年 の比叡山焼き討ちで功を上げ、織田信長より近江坂本5万石を与えられる。 これを機に義昭と袂を分かち、正式に織田信長の家臣となる。 織田家中では、北陸方面軍の、次席家老の丹羽長秀、関東方面軍の滝川一益、中国方面軍のと並ぶ実力者として存在感を発揮。 その才覚はのちに織田信長をも脅かす存在となっていくのだ。 織田信長から度重なるパワハラを受けてしまうのも、明智光秀の才覚あってこそのことであったのだろう。 南光坊天海 前述の通り、山崎の戦で自害したと言われている明智光秀だが、その遺体は発見されていない。 そして、天海が歴史の表舞台に顔を出すのは、1608(慶長13年)、で徳川家康と対面したとき。 このとき徳川家康は65歳、天海は72歳。 徳川家康はこの遅すぎた出会いを嘆いたともされる。 それでは、明智光秀と天海同一人物説の一部をご紹介しよう。 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。 それぞれ明智光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。 それぞれ明智光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。 日光東照宮 そして最も気になる説が、江戸幕府初代将軍・徳川家康が眠る「」にある。 天海は日光東照宮に深くかかわっていた。 日光東照宮には、なぜか明智家の家紋である桔梗紋が多く見られるのだ。 また日光東照宮の近くには「明智平」(あけちだいら)と呼ばれる地があるのだが、その命名をしたのが天海だと言われている。 他にも、筆跡鑑定を行なうと、明智光秀と天海の文字は非常に似ているという。 明智光秀と天海。 二人とも謎の多い人物という意味では間違いなく共通点があるようだ。 明智光秀が優れた武将であったならば、政治の表舞台に立つのではなく、天下人のサポートをするという立場で裏から天下を動かし、自分の手腕を試したというのもやぶさかではないだろう。

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