ソ連 アフガニスタン 侵攻。 そもそも「ソ連」ってどんな国?歴史?なるべく簡単にまとめました。 │ 旅をする記

ソ連のアフガニスタン侵攻

ソ連 アフガニスタン 侵攻

はじめに RYOです 皆さんは現在の「ロシア連邦」はその前身となる「ソヴィエト社会主義共和国連邦 (=ソ連)」から出来た国ということは知っていますか? 今回はその「ソ連」は一体どんな国だったのかをまとめようと思います。 ソ連についての基礎知識 まずはソ連の基礎知識です。 いつできた?いつ終わった? ソ連は、1922年12月に成立し1991年12月に消滅しました。 ソ連崩壊と共に15か国の国家が誕生しました! ソ連の広大な領土 そもそもソ連とは一つの国ではありません。 15個の共和国で構成された連邦なんです。 ロシア• ウクライナ• ベラルーシ• モルドヴァ• ジョージア• アゼルバイジャン• アルメニア• カザフスタン• トルクメニスタン• ウズベキスタン• タジキスタン• キルギス• リトアニア• ラトヴィア• ロシア「てめーら、 カラスは白い よな?」 他14ヵ国「は、はい!ロシアさんがそう言うなら。 カラスは白いです」 という状態でした。 もう少し詳しいことは後で。 1917年3月にロマノフ王朝終了(三月革命) ピョートル大帝から始まったロマノフ王朝 1613年からずっとロシアを支配してきましたが、1905年の日露戦争では事実上敗北し、国力に余裕も無いのに調子に乗って1914年の第一時世界大戦にも参加。 何故かと言うと、我々が一般的に使っている暦は「グレゴリオ暦」、しかしロシアが使っているのは「ユリウス暦」で、暦上で呼び方にずれが生じるからです。 ですのでどちらの立場から見るかで二月革命なのか三月革命なのかが変わります。 ぼくは世界の標準的なグレゴリオ暦を尊重して、 三月革命としています。 二重権力状態発生 ロマノフ王朝が倒されたちょっと前に、ロシアでは2つの権力が出現しました。 それが ソヴィエトと 臨時政府です。 ロシアはまだ第一次世界大戦の真っ最中、『ソヴィエト』と『臨時政府』はそれぞれ 正反対の方針を示していました。 第一時世界大戦で特に血を流した二者(労働者と兵士)が結託して ソヴィエトを作りました。 なぜなら初めは ソヴィエトも新しくできた臨時政府が戦争を止めることを期待していたからです。 それに ソヴィエトは政権運営などのノウハウも乏しかったので、そういう意味でも臨時政府に期待していました。 しかし臨時政府がロシア帝国時代の方針を引き継いで戦争継続を望んだため、ロシア国民の間には圧倒的な不信感が広がります。 ボリシェビキ レーニンが所属していた「 多少手荒なことをしても結果的に国が平和になるならそれでいい」という独裁的な考えを持っていた政党。 ロシア語で「多数派」を意味する。 メンシェビキ 「 国民みんなで話し合ってちゃんと順序立てて国を徐々に良くしていこう」という穏健的な考えを持っていた政党。 ロシア語で「少数派」を意味する。 と理解しています。 十一月革命で臨時政府を倒す レーニンは 三月革命後、一度フィンランドに亡命しながらも何とか臨時政府を倒して 十一月革命 十月革命 を成功させました。 その後、 ソヴィエト政権の樹立を宣言! 人民委員会議 国会みたいなもの を設置し、レーニンがその議長となりました。 この人民委員会議長というのは、他国で言えば大統領兼首相であり、国家元首みたいなもの。 つまりレーニンがロシアのトップに。 親友のトロツキーを外交委員 外務大臣 に就けました。 1918年11月に第一時世界大戦終結が終わり、ロシア国内ではレーニンのロシア共産党に不満を持つ資本家たちが「反革命軍」を結成して内戦状態になっていました。 大戦の戦勝国も社会主義国の台頭を恐れて、反革命軍を支援していました。 焦ったレーニンは、全工業を国有化してあらゆる経済活動を国家が管理するように。 これにより 後でも書きますが 農民の生産意欲が薄れ、深刻な食糧不足に。 しかしレーニンは反革命軍を制圧し、ある程度自由な経済活動を認め、国内は再び落ち着きを取り戻しました。 って事で レーニンがソ連を作りました!!!! ソ連誕生後、 ロシア共産党は ソ連共産党に名前を変更 スターリンが後継者に ソ連成立から2年後にレーニンが死去、その後レーニンの親友のトロツキーと争って勝ち、ソ連共産党の主導権を握ったのが「大粛清」で有名な ヨシフ・スターリンです。 スターリンはジョージア出身で、レーニンの遺書には スターリンはあまりにも粗暴で彼に権力が集中するととんでもない事になるだろう。 もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっと丁寧で、もっと同志に親切で、彼ほど気まぐれでない人物を私の後継者にするように と書いてありましたが、スターリンが遺書の存在を握りつぶしたのでスターリンの死後になってようやく公開されました。 スターリンもレーニンの片腕としてボリシェビキ時代からの同志。 スターリンの性格を一言で言うと、レーニンの遺書にもあった通り 疑い深く独裁的で粗野な人物 と言えます。 なぜならスターリンのとんでもない失敗・悪行の数々は外部に出なかったから。 スターリン政権は1929年の世界恐慌も、1945年終結の第二次世界大戦も戦勝国として乗り越え、東西冷戦の中でアメリカと互角に渡り合い世界の大国として確固たる地位を築きました。 スターリン憲法により、ソ連共産党という「党が支配する国家」が完成し、党の指導者スターリンの権力は揺るぎないものになりました。 まさにフランスのルイ14世の 「朕は国家なり」状態で、スターリンの個人崇拝が広がっていた時代です。 スターリンの影響力を表すエピソード『スターリン・ショック』を紹介します。 スターリン「俺がルールだ」 ソ連国民「スターリン様ースターリン様こっち向いてーーーー」 「スターリン批判」をしたフルシチョフ(1953~1963) スターリンの死後、ソ連共産党の指導者になったのが ニキータ・フルシチョフ! それまで恐怖政治を行っていたスターリンとは打って変わって、フルシチョフの時代には 雪解けと平和共存が進みます。 フルシチョフは地方の労働者出身で、モスクワ市長として経験を積み、その親しみやすい風貌からも民衆に人気がありました。 その彼がやってくれました。 スターリンの死後とはいえ、当時はかなり勇気がいたと思います。 秘密会議で行った スターリン批判によって、 スターリン独裁政権時代の24年間にどんなことが起こっていたのか、決して英雄とは言えないスターリンの恐ろしい一面が後に外部に漏れ、全世界の人間が知ることになりました。 気に入らない人間や少しでも自分に反意を感じた人間は、党幹部であろうと議員であろうと農民であろうと容赦なく「 人民の敵」という名目で逮捕・銃殺されました。 第二次世界大戦でナチスが殺したソ連軍の数よりも、スターリンが粛清で殺した自国のソ連軍の数の方が多いのです。 しかしそれだけではありません。 密告制度 密告制度という言葉は僕が勝手に作りました。 が、スターリンは一般国民に 密告者を紛れ込ませてスターリン批判をした者を密告させ、尽く粛清しました。 密告者には報酬も与えられたため、密告はエスカレートし国民は互いに疑心暗鬼になり罪のない者まで密告するようになりました。 少なくとも 100万人の罪のない国民が粛清されたと言われています。 ソ連「あれー資本主義国さんたち。 世界恐慌ですって?大変ですね 笑 ぼくたちは計画経済なので関係ないよーだ。 五ヵ年計画も大成功だし社会主義ばんざーい」 資本主義国「五ヵ年計画大成功だって!!?まさか、本当に社会主義国家が最も優れた国会体制というのか?とりあえず社会主義スゴイ!!」 という状況でした。 実際は大飢饉で600~1000万人が死んでいましたが、失敗を隠して 五ヵ年計画の成功を世界に宣言しました。 以上の内容を、秘密会議でフルシチョフが報告しそれがアメリカのCIAに漏れて全世界が知るところになりました。 結局スターリンの死後、スターリンが 大粛清や ホロドモールで死に追いやったのは どれだけ少なく見積もっても800万人と言われています。 また(これは第二次世界大戦中という事もありますが)スターリンはポーランド将兵数千人を虐殺してカティンの森に埋めたとされる事件 カティンの森事件 など、虐殺も数多く行ってきました。 スターリンによる犠牲者は学者によってまちまちですが、 1200万人とか1600万人なんて言われたりもします。 フルシチョフ、対米には平和主義? フルシチョフは基本的に、 平和路線を模索した指導者として知られています。 そのいくつかを紹介しましょう。 戦後のスターリン時代を転換した スターリンの後に指導者となったフルシチョフの最大の功績は、スターリンが行った 独裁を引き継がなかったことと言われています。 それまでの恐怖政治とは打って変わって、フルシチョフの時代では割とソ連領内の雰囲気も柔らかくなり、それまでのスターリンが作っていた流れを変えた!エライ ソ連首相として初めて渡米した スターリンが主導していた東西冷戦のさなかに、フルシチョフは1959年にソ連内部の対米強硬派を抑え、 ソ連指導者として初めて渡米しアイゼンハワー大統領と会談しました キューバ危機の際の妥協 キューバ危機とは、東西冷戦のさなかに米ソの核戦争の緊張が最高に高まった出来事のことです。 カストロがキューバ革命によってキューバの指導者になり、それまで仲の良かったアメリカと喧嘩し、それ以降は逆にソ連と仲良くしました。 ソ連はキューバにミサイル基地を設置しました。 核戦争の危機が高まったキューバ危機において、 フルシチョフは交渉の末にキューバからミサイル基地を撤去しました。 しかし対内的には厳しいこともやりました。 同じ社会主義国に民主化運動を求める暴動があると、これらを厳しく弾圧しました。 これをポーランド事件、 ハンガリー事件 ハンガリー動乱 と呼ぶ。 第二次世界大戦後にソ連によって占領され、そのままソ連共産党の後押しを受けて成立した社会主義政党が国を動かしていたので、その他の国もソ連共産党の言うことを聞いていた。 ナルシスト、ブレジネフ登場(1964~1982) フルシチョフの弱腰外交が批判され一方的に解任され、次にソ連共産党の指導者になったのが レオニド・ブレジネフです。 フルシチョフに見出された ブレジネフですが、そのフルシチョフを蹴落として指導者になりました。 これからソ連は冬の時代を迎え、経済などが長期停滞に入るからです。 なぜナルシストなのか? これ、ぼく的にはめっちゃ面白いんですけど このブレジネフ、めちゃくちゃ勲章を胸に付けてますよね? どんだけ功績ある人なんだ!!? と思いますが、この勲章は誰から授与されたと思いますか? ソ連共産党の指導者に勲章を授けられるくらい偉い人、はい、それはソ連共産党の指導者しかいません。 1970年代、アメリカもソ連もベトナム戦争期に軍備拡張を進め過ぎたため、経済が圧迫されて停滞気味に、なので逆に「これはお互い損するだけやな」と対立解消の流れになりました。 現在はチェコ共和国とスロバキア共和国ですが、1948年以来この二国は「チェコスロバキア社会主義共和国」として一国でした。 もちろん共産党政権が実権を握っていたので、ソ連の言いなりでした。 しかし1968年春、チェコスロヴァキア共産党は「民主主義を否定する社会主義」に疑問を感じ改革に乗り出し、民主化運動を始めました。 チェコスロヴァキアの首都「プラハ」では百花斉放状態! 様々な人々が自由に創作し、自由に批評し合える社会を目指しました。 首都プラハでは西側の文化ミニスカートまで流行り出してまさにプラハは 自由化の爆発状態でした。 これを「 プラハの春」と呼びます。 しかしブレジネフはこの民主化運動を軍事弾圧し、市民の抗議を踏み越えてプラハの中心部を制圧しました。 これにて「プラハの春」終了 これを「 チェコ事件」と呼びます。 新冷戦スタート ブレジネフの功績 皮肉 としてもう一つ挙げられるのが「 新冷戦のスタート」です。 緊張緩和によって米ソの東西冷戦が治まりかけていた中、1979年に ソ連がアフガニスタンに侵攻しました。 これにより、米ソが元の緊張関係に戻ってしまいました。 これを 「 新冷戦」と呼びます ソ連のアフガニスタン侵攻 1979年、ソ連のブレジネフ政権がアフガニスタンの親ソ政権を支援し、社会主義政権の維持とイスラム原理主義ゲリラを抑えるためにアフガニスタンに侵攻した。 短期的な介入の予定が、結局10年間にも渡る泥沼の戦いを強いられることになり、経済が停滞していたソ連にとっては大打撃。 結局これがソ連崩壊の基点となり、また崩壊の大きな一因になった。 ブレジネフ死去、後継者は? そしてとうとう ナルシストブレジネフ様がお亡くなりになりました。 次の後継者は アンドロポフ様です。 しかしすぐに死去。 そこで次の後継者が チェルネンコ様です。 しかしアンドロポフに続いてすぐに死去し、次に登場するのがあの人です!! ソ連の最後の指導者、ゴルバチョフ登場 (1985~1991) ゴルバチョフ、本名「 ミハイル・ゴルバチョフ」 一言で言うとソ連を改革したなかなかヤル奴です。 ゴルバチョフは考えました。 ブレジネフの負の遺産、ソ連経済の停滞を打破しよう!! と。 そして「 グラスノスチ(情報公開)」と「 ペレストロイカ(改革)」を掲げて社会主義計画経済を修正しました。 ゴルバチョフが行ったペレストロイカ(改革) ゴルバチョフはソ連の改革を目指しており様々な政策を掲げました。 グラスノスチ(情報公開) グラスノスチとはロシア語で「 情報公開」という意味 ブレジネフ時代、マスメディアは 報道の自由が無くソ連共産党に認められた内容しか報道できませんでした。 それをゴルバチョフが改革しました。 皆さんに報道の自由を与えます! そして原則として今まで機密事項とされていた軍事関係を含めた国家情報を公開します!!! チェルノブイリ原発事故 しかし チェルノブイリ原発事故には間に合いませんでした・・・ ゴルバチョフが指導者になってからおよそ一年後、ソ連領内でチェルノブイリ原子力発電所の事故が起きました。 史上最悪の原発事故と呼ばれており、北半球一帯を汚染しました。 チェルノブイリ原発事故の際、まだグラスノスチが始まったばかりでゴルバチョフに報告がいかなかったと言われています。 やはり今までずっと秘密主義を続けていた人間にとって、急にグラスノスチで全て正直に報告せよと言っても無理だったんです。 結局、この最悪の事故でグラスノスチが行われなかったせいで多くの罪のない人民の命が奪われ、恐ろしい後遺症を持ち、それが子供に受け継がれることになりました。 この事故で、情報公開がいかに重要かという事を再認識したゴルバチョフでした。 ゴルバチョフ「いや、この人悪くなかったやん。 ん、この人も。 この人もこの人もこの人もや!スターリンもブレジネフも無茶苦茶過ぎるやろ!!!」 大規模な人事異動 いくらゴルバチョフ書記長が「グラスノスチをやる」と言っても、なかなか一人だけでは政策を進められません。 そこで大規模な人事異動を敢行し、ゴルバチョフと同様に「ソ連を改革したい」と本気で思っている人間をどんどん採用し、今まで通りの既得権益しか考えていない官僚たちをどんどん役職から外していきました。 新思考外交 またゴルバチョフ政権はブレジネフ政権が残した負の遺産「新冷戦」への平和的な対応も模索し、それまでのソ連の立場を一転して 一気に東西冷戦を終わらせました。 中距離核戦力 INF 全廃条約 1987年、アメリカのレーガン大統領とINF 中距離核戦力 全廃条約に合意して、 米ソの二大大国が核軍縮を約束しました。 第二次キューバ危機が起きないように! 冷戦の終結 1989年、アメリカのブッシュ大統領と ヤルタ会談で 冷戦終結を宣言しました。 これにより、翌年の1989年は東欧各国で民主化の嵐が起きました。 中ソ関係正常化 中国ともずっと仲が悪かったのですが、それもゴルバチョフが訪中して 中ソ対立を終結させました。 アフガニスタン撤退によりノーベル平和賞 そしてブレジネフ政権が残した負の遺産「 アフガニスタン侵攻」もやめ、1990年にアフガニスタン撤退を決めてノーベル平和賞を受賞しました。 ゴルバチョフが監禁され、エリツィンの登場 ゴルバチョフの ペレストロイカ(改革)を受けて「このままではソ連は崩壊する」と考えたソ連共産党幹部たちがクーデターを起こし、休暇で別荘にいたゴルバチョフを監禁しました。 しかし、そこでクーデター軍を倒してゴルバチョフの後を継ぐのが ボリス・エリツィンです。 エリツィンはクーデター軍を制圧してゴルバチョフを解放しました。 この事件を経てゴルバチョフからエリツィンへと人気が移ってしまい、ゴルバチョフは ソ連共産党の解散を宣言し、そのままソ連邦自体も解体してゴルバチョフは表舞台から姿を消しました。 さようなら、ゴルバチョフ! さようなら、ソ連邦! 独立国家共同体の創設を宣言し、ソ連を解体 エリツィンはソ連から独立しようとした国々を 独立国家共同体 CIS を創設することを条件に、1991年12月26日に ソ連の消滅を宣言しました。 つまりソ連という「支配」的な構図ではなくなったけど、「これからも友達でいようね」という高圧的な意味でCISを創設した。 ロシア連邦「え、先生。 いじめちゃいますよ。 おれら親友っすよ!な?」 その他の国々「う、うん。 」 こうして1922年から続くソ連が1991年に解体され69年の歴史に幕を閉じました。 エリツィンがロシア連邦初代大統領に ソ連が解体し、ロシア共和国はロシア連邦に名前を変えて エリツィンが初代のロシア連邦大統領になりました。 エリツィン大統領が真っ先にやった事、それがロシア連邦の民主化でした! 価格の自由化でロシアがガタガタに エリツィンがロシア連邦を民主化し、価格の自由化を始めたら何が起こったのか? 1992年だけで2600%のインフレが進行しました 何故だかわかりますか? 今までソ連時代はずっと、企業は国有化して計画経済で他社競合による価格の自由化を認めていませんでした。 それが突然、 競合他社もいないのに好きに値段を決めていいと言われれば? 超ハイパーインフレが起きますよね。 ソ連からの流れをくんだロシア連邦の初代大統領エリツィンが様々な国際的批判を経て、遂に プーチン大統領を後継者に指名して引退しました。 エリツィンは民族紛争があればこれを武力で鎮圧し、価格の自由化で国民を窮地に陥れて、あげく汚職まみれで引退したので、後継者に指名したプーチンとは密約があったと言われています。 おわりに いやー長かったですね。 レーニンからスターリン、フルシチョフからブレジネフ・・・と最後はナウで話題のプーチン大統領まで。 ロシア連邦の前身はソ連、ソ連の歴史を知ることで現在の世界の紛争の原因を少しは理解しやすくなると思いますし、ソ連がまいた紛争の種は現在でも世界の至る所で民族紛争として花を咲かせています。 ソ連の歴史を知ることは世界の歴史を知ることだと思います。 中高でチラッと耳にした事のある用語が頻出して、今更ながら「あーそういうことやったんか!」と思う事も多いです。 もし大きな間違いがあれば、コメントかお問い合わせ欄で教えてください ダズビダーニャ ロシア語でさようなら• 1992年11月生まれ 京都在住 旅する空手家 大好物は「旅」「自然」「カメラ」「空手」 そして「鶏天」と「麻婆豆腐」も... 顔に似合わずロマンチスト 関連する記事• 世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。 今日のテーマは「中国の古代史(夏から秦まで)」です。 一緒に頑張りましょう![…]• 紀元前753年、オオカミに育てられた双子のロムルス兄弟(兄ロムルスと弟レムス)によって伝説上のローマ帝国が建国された。 『ローマ』はこのロムルスに由来[…]• 目次 1. はじめに2. 人類の誕生と進化(400万年前~1万年前)2. 化石が語る人類の進化2. 猿人から原人、旧人へ2. 猿人2. 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ソ連のアフガニスタン侵攻/アフガニスタン撤退

ソ連 アフガニスタン 侵攻

このソ連の行動を非難した西側諸国は、モスクワオリンピックをボイコットし、軍縮交渉・デタントも停滞、東西は再び緊張状態に戻ってしまう。 10年後、ソ連軍はアフガンから撤退するも、この長い戦争が、 ソ連解体の遠因となるのである。 イスラム主義の台頭で不安定化したアフガニスタン 戦後の冷戦構造の中で、非同盟中立を維持してきたアフガニスタンでは、1973年に王族の ダーウドがクーデターを起こして、王政から共和制に移行した。 しかし、78年には親ソ連派の アフガニスタン人民民主党が革命を起こし、 タラキー書記長が首相に就任。 土地改革や男女平等などの改革を行った。 こうした社会主義的改革に対し、イスラム主義を掲げた ムジャーヒディーンと呼ばれる反体制派が各地で蜂起する。 ムジャーヒディーン ムジャーヒディーンとは「ジハード 聖戦 を行う者」を指し、反政府組織や対ソ連軍ゲリラの各組織が名乗った。 イスラム世界から多くの志願兵が集まり、後に アルカイダを率いる ウサマ・ビンラディンも参加している。 ソ連の軍事侵攻に際し、アメリカがソ連を疲弊させる目的から、ムジャーヒディーンを支援している。 不安定なアフガニスタン政権 新たに政権を取った人民民主党政権も内部での対立がやまず、79年9月には副首相の アミンがクーデターで政権を奪った。 しかし、アミン政権がソ連から距離を置こうとすると、同年12月、イスラム主義の台頭を恐れたソ連はアフガニスタンに正規軍を派遣し、親ソ連派の カルマルを支援してアミン政権を打倒した。 ソ連の軍事行動と、西側諸国の非難 このソ連のアフガニスタン侵攻に対し、西側諸国は激しく反発してソ連軍の撤退を要求する。 ソ連が拒否すると、日本を含む西側諸国は翌80年に開催されたモスクワオリンピックをボイコットして抗議した。 さらに、81年に就任したアメリカの レーガン大統領は、 ソ連を「悪の帝国」と呼んで激しく非難。 米・ソ間の軍縮交渉を通じて進んでいたの雰囲気は吹き飛び、東西は再び緊張状態に突入してしまう。 アフガンは泥沼化し、ソ連も疲弊 また、親ソ連派政権樹立後も、アメリカの支援を受けたムジャーヒディーンの攻撃は続き、 アフガニスタン情勢は泥沼化する。 ソ連軍は89年に撤退するが、この間に進んだ経済・社会の疲弊が、 ソ連解体の遠因となってしまう。

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ソ連崩壊|原因と崩壊後までをわかりやすくまとめて解説

ソ連 アフガニスタン 侵攻

1979年、ソ連の政権が社会主義を掲げる親ソ派政権を支援するためににソ連軍を侵攻させたこと。 ソ連軍に対しイスラーム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗、ソ連軍の駐留は10年に及んで泥沼化し、失敗した。 ソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカなど西側諸国が反発し、70年代のが終わってといわれる対立に戻った。 これを機にソ連の権威が大きく揺らいで、ソ連崩壊の基点となった。 共産政権の維持。 アフガニスタンのアミン軍事政権が独裁化し、ソ連系の共産主義者排除を図ったことへの危機感をもった。 ソ連が直接介入に踏み切った口実は、1978年に締結した両国の善隣友好条約であり、またかつて(1968年)に介入したときに打ち出したであった。 イスラーム民族運動の抑圧。 同年、隣国イランでが勃発、イスラーム民族運動が活発になっており、イスラーム政権が成立すると、他のソ連邦内のイスラーム系諸民族にソ連からの離脱運動が強まる恐れがあった。 影響 アメリカ(大統領)は、ソ連の武力侵攻を批判し、経済制裁を発動するとともにアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供した。 またアメリカは、西側諸国に対し1980年の モスクワ=オリンピックのボイコットを呼びかけ、などが同調した。 は調印されていたが、アメリカ議会が批准を否決し、実施されなかった。 次の政権はソ連を「悪の帝国」と述べて対決路線を復活させ、SDI構想を発表、米ソは「」期に入った。 アフガニスタン内戦 1979年12月、ソ連軍10万の大部隊がアフガニスタンに侵攻した。 当初は隣接する中央アジアのソビエト連邦構成国であるトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンなどが主力として投入された。 大義名分は共産主義政権を守ることであったが、その戦う相手は民族的にも近く、またソ連兵のなかにもイスラーム教徒が多かったから、初めから戦闘意欲は強くなく、次々とゲリラ側に寝返った。 そのため1982年ごろからはロシア兵が直接投入されるようになった。 アフガニスタン民衆はゲリラ戦で抵抗、政府およびソ連軍は点と線だけの支配しかできなかった。 ゲリラ兵は「ムジャヘディン(聖戦士)」と呼ばれ、当初は政府=ソ連軍の武器を奪って戦った。 1984年にアメリカ議会が武器援助法を可決してから、アメリカ製の武器が反政府ゲリラ側に支給されるようになった。 アメリカはアフガニスタンではイスラーム教徒ゲリラに武器を与え、ソ連軍と戦わせた。 やがてその中から反米に走るイスラーム過激派が成長するという皮肉な結果になっていく。 難民発生とアメリカによるゲリラ支援 この内戦中にアフガニスタンの全農村の約半分が廃墟と化し、200万人ちかくが死亡したと見られている。 全土で600万人、北西辺境州(パキスタン隣接地域)だけで270万人にのぼる難民が発生した。 ソ連の国力を消耗させるために、アフガン住民を「生かさず殺さず」戦争を継続させる戦略は誰の目にも明らかだった。 ペシャワール郊外には「ゲリラの訓練所」が設けられ、中国から大量に買いつけられた武器が続々と搬入された。 のちには地対空ミサイル「スティンガー」が供与され、犠牲をさらに拡大した。 だが米国は「アングレーズ(米英)」を宿敵とする根強い住民感情を承知しつつ武器援助をしたはずである。 当然、分離統治の原則が貫かれた。 <中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p. 89-90> アフガニスタンの現地で医療活動を続けていた中村哲医師は、200万人もの死者と多数の難民を出したこの状況は「あまりに遠い日本には、ついにこの状況は伝えられることがなかった。 ベトナム反戦でわいた日本の平和勢力も「アフガニスタン」については一般に無関心だった」と述懐している。 それはソ連による情報統制だけのせいではない。 ゲリラ勢力の勇壮な姿のみが大きく伝えられ「情報」が「売れる商品」と仕立てられる風潮があった、と指摘している。 1979年の意味 アフガニスタンに侵攻したソ連は、国際的な非難を浴びただけでなく、現地の激しい抵抗を受け、手詰まりとなり解決に苦慮することになる。 内政・外交に渡るソ連体制の硬直化が明らかとなり、80年代後半に改革が必須となる中でゴルバチョフが登場し、結局はにつながっていく。 しかも、ソ連軍に抵抗するゲリラ組織から,イスラーム原理主義集団が生まれ、後のなどイスラーム過激派のテロが世界を動かすこととなっていく。 この年の、中国のの改革開放政策、イギリスのによるの導入と並んで、1979年はあるひとつの時代が終わったことを示す転換点となったと言える。 Episode ブレジネフは知らなかったアフガニスタン侵攻決定 1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻決定は、その後のソ連の運命を決したことだけでなく、イスラム原理主義運動の世界的な活動の基点となった点でも、重大な決定であったが、その時点ではことの重大さは認識されていなかったようだ。 ソ連の介入決定は12月12日の政治局会議でなされたが、そのときすでには病気がちでアフガニスタンで何が起きているか知らず、まかせっきりであった。 実質は5名で決定された。 短期介入を主張したのは、アンドロポフKGB議長であり、軍のウスチノフ、グロムイコ外相が支持し、決定された。 しかし短期解決の見込みはもろくも崩れ、以後10年にわたる泥沼の戦いとなり、結局ソ連の命取りとなったのだった。 ゴルバチョフはこの時はまだ政治局員ではなかったので決定には関わっていなかった。 <下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p. 199 による> ソ連軍の撤退 1979年の以来、の事態の収拾に失敗、長期化した駐留は当初の予測を裏切って10年に及び、その間、イスラーム勢力の激しい抵抗を受けると共に、国内の経済情勢の悪化をもたらした。 ソ連経済を圧迫し、またイスラーム原理主義ゲリラとの戦闘は犠牲者を増加させていった。 ソ連兵の死者1万5000人、負傷4万人以上とされるが正確には不明である。 ゲリラ側の死者は約60万と推定されている。 1985年に登場したは、に転換し、膠着した状況を打開することにつとめ、アフガニスタンの人民民主党カルマル議長を退陣させ、ナジブッラーを新たに政権に据えた。 1986年にはゴルバチョフはウラジオストックで演説して、アフガンからの8000名の兵力撤退を表明した。 ついで1988年に国連の仲介でジュネーブ和平協定の合意を得て完全撤退を決定し、5月から撤退を開始し、翌89年までに全部隊の撤退を完了させた。 アフガニスタン侵攻のもたらしたこと ソ連のアフガニスタン侵攻とその失敗は1991年のもたらしたのみならず、を精神的支柱にした新しい民族主義が台頭し、につながることとなった。 またアメリカにとっても、アメリカが援助した武器で武装したイスラーム反ソ勢力が、後はその武器で反米闘争を展開することになるのはアメリカにとって皮肉な結果であった。 このように、ソ連のアフガニスタン侵攻は、1990年代以降の現代史に向けての重要な転換点であった。 しかしアフガニスタンにおいては、ソ連軍の撤退は平和をもたらすことはなく、無秩序状態が深刻化して、部族対立が激化、パキスタン、イランなどの介入もあってが深刻化していった。 その中でイスラーム原理主義のが急速に台頭し権力を掌握することとなる。 しかしこのヘリコプターによる大規模空爆にも弱点があった。 標高5000mを超える山々が連なるアフガンでは、主要都市の標高も高く、カーブルでは1800mもある。 このため地上からの攻撃を避けるには3000m以上の高度を飛行したいところだったが、空気密度の関係でヘリコプターは低空飛行を余儀なくされた。 またアフガンの気候は一年の大半が乾期で、特有の砂嵐がヘリコプターの操縦を難しくしたり、計器類の故障をもたらしたりした。 ソ連の最新鋭ヘリコプターを持ち込んでも、アフガンの空を完全に自由にすることはできなかったことになる。 その一方で、戦闘の中盤からは、中東諸国や西側諸国からゲリラに対する武器援助が拡大し、射程距離の長い機関砲やミサイルが導入されることになった。 なかでもヘリコプターや航空機がエンジンから発する熱を追尾する米国製スティンガー・ミサイルをゲリラが入手したことで、ヘリコプターが相次いで撃墜され始めた。 ゲリラに渡ったミサイルは、ソ連軍にとって大きな脅威となり、ソ連軍によるアフガンの空の支配が崩れ始めたのである。 <渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p. 123-4> アフガニスタン難民のその後 1988年の「和平協定」成立、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退開始は、平和と同時に難民の帰還を実現させるであろうと大いに期待された。 難民キャンプをかかえるパキスタンのペシャワールにも世界中からジャーナリストが集まった。 しかし平和と難民帰還は完全な錯覚だった。 引用 難民帰還計画はあまりに性急であった。 実効よりは予算消化が急がれた。 国家の再建は元来UNDP(国連開発計画)の仕事であるが、「正式な交渉相手がいない」と見なされる中、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の手でいわゆるクロスボーダー・オペレーション(越境活動)が奨励され、欧米のNGO(非政府協力団体)が殺到した。 ソ連軍撤退以前に40をこえなかった難民援助団体は、1989年には200団体に上り、復興援助ラッシュが始まった。 例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。 人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。 <中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p. 114> このような「援助」のまやかしを見抜いた現地の難民は、西欧系支援団体に疑惑の目を向け、動かなかった。 1989年2月にソ連軍の撤退は完了したが、世界の目はルーマニア政変などの、、へと移り、アフガニスタンと難民は再び忘れられた。 その間、ペシャワールでは難民とパキスタン人の間に亀裂が生じ始め、世界的にもムハンマドを揶揄した『悪魔の詩』出版に対するイスラーム教徒の反応を異常なものと捉えて恐怖心が高まっていた。 1990年に4月26日にはペシャワール市内で暴動が発生、アフガン難民1万人がイギリス系NGOを襲撃し略奪した。 このNGOは女性解放プロジェクトを掲げていたので他の欧米NGOはイスラーム教徒を非文明であると一斉に反発、各地でも衝突が起こった。 「女性解放」は西欧社会では理解されるテーマであったが、イスラーム社会ではそれを強制されることは「文化侵略」であると受けとられた。 アフガン難民救済から撤退を始めた団体が続出したが、とどめを刺したのが1991年の湾岸戦争勃発であった。 ユニセフ、UNHCR、UNOCA(国連アフガニスタン救援委員会)などのペシャワール事務所が次々と閉鎖された。 ようやくペシャワールのアフガニスタン難民が帰還を開始したのは、1992年4月の首都カブールの政変(親ソ派政府が倒れ、ゲリラ勢力による暫定政権が樹立された。 国名もアフガニスタン=イスラーム共和国に改められた)を受けて、パキスタン政府が18ヶ月以内の帰還勧告を行い補助金3000ルピー(約1万5千円)を難民証と引き替えに支給すると発表、難民は一斉に帰還を開始していった。 アフガニスタン内部でも戦闘を停止する動きが出て、帰還は順調に進んだ。 <中村哲『同上書』p.

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