俳優不祥事。 「復帰して欲しくない不祥事有名人」1位はアノ人、カンニング竹山MC番組で発表― スポニチ Sponichi Annex 芸能

映画・ドラマはなぜ出演者の不祥事で“上映中止”になるのか? 弁護士に見解を聞く|Real Sound|リアルサウンド 映画部

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公開中止になった映画に罪はあるのだろうか? - iStock. 彼らの逮捕を受け、出演作品の関係者たちは苦渋の決断を強いられることとなっているからだ。 (取材・文:森田真帆) ピエールの場合、「いだてん」放映中のNHKは協議中だというが、新井の場合は2本の映画が公開中止、もしくは延期という結果となっており、今なお二人の出演した過去作品がどうなるかは予想がつかない部分も多い。 映画の上映においては、公開中止も公開延期も各作品が下した結果にSNS上でもさまざまな意見が飛び交った。 [PR] 現在のところ、日本の映画業界には「出演した俳優が不祥事を起こした映画の公開中止や延期を決定するためのガイドラインというものは存在しない。 公開中止、延期、それぞれの判断を一体誰が、どのように下すのか。 そして、今後の課題を、日本映画の現場で働くプロデューサーや監督に意見を聞いてみた。 関わった人間すべての努力が水の泡となる現実 ここで、新井が出演した作品群が現在どのような状況になっているかをもう一度整理する。 映画『台風家族』は公開延期、主演映画『善悪の屑』は公開中止が決定。 昨年公開された映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』『泣き虫しょったんの奇跡』のブルーレイ、DVD版は発売延期。 NHKで「真田丸」の配信中止を発端にオンデマンドサービスでも出演作の配信を自粛している。 また、日本テレビは、新井被告がゲスト出演したドラマ「今日から俺は!!」の3月1日以降の動画配信とDVD(発売未定)で代役を立てて撮り直したと発表した。 新井といえば、個性的な演技でバイプレイヤーとして活躍していたのは周知の事実。 少しのシーンでの出演をカウントしていくと、本当に数多くの日本映画の名作が今後、観られなくなってしまう可能性も高い。 [PR] 一本の作品には何十人以上もの沢山のスタッフや俳優が関わっており、彼らの努力が集結して映画は完成する。 こと監督に関しては、何年も前から企画を練り、準備をし、ようやく撮影が終わっても、編集作業を経てやっと上映の機会が巡ってくる。 とてつもない時間と労働がかけられていることは間違いない。 その努力が、たった一人の役者の不祥事で全て水の泡になる。 被害者感情はもちろん尊重すべきなのは言うまでもない。 だが、つい「役者の責任は当たり前だが、作品に罪はないのではないだろうか?」という思いが頭をよぎる。 最新作から過去作まで、ここまで多くの作品が「自粛」の形を取るのは何故なのだろうか。 日本独自の製作委員会システムとの関係とは? 一人の俳優が不祥事を起こした場合、一体誰がどんな話し合いを経て公開の延期を決めているのか。 もちろん、映画を公開してはいけないという法律はないが、映画関係者に話を聞いていくと、プロデューサー、そして映画の宣伝担当のほかそこには日本映画界独特の「製作委員会方式」も関わっていることが分かってきた。 現代の日本映画界で、すべての映画に当てはまるわけではないが商業映画のだいたいは映画を作るときに、複数の投資家が資金を出し合って「製作委員会」を作るしくみになっている。 多くの製作委員会は、主に制作会社、広告代理店、テレビ局、興行、芸能事務所などで成り立っており、公開中止や延期の決定には「製作委員会」が大きく関わってくる。 劇場が上映しても客が来ないと判断した場合や、テレビ局のイメージダウン、たとえ所属俳優ではなかったにしても、もし出資している芸能事務所があれば共演者のイメージダウンにまでつながるリスクも考慮される。 ある映画関係者は、「今の時代だからどうしてもネガティブな意見を尊重するんです。 この映画をかけるな! と劇場が苦情を言われたら、とか事務所のイメージが落ちるとか。 委員会が満場一致で公開しよう!という方向へとならない限り、公開はほぼ無理です」という。 [PR] ネガティブな意見に振り回される 海の向こうのハリウッドでは、 Me Too運動で告発されたケヴィン・スペイシーの主演ドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」がケヴィンの降板を発表したが、これまでの放映分は今まで通り配信されており、もちろん彼の過去作も消えることなく残っている。 この違いはなんなのか。 取材した映画プロデューサーは「映画では役者本人が積み上げてきたものが説得力を生む。 でもそれが真逆のことをしてしまった場合、観客は騙されたと思ってしまい、そこから作品自体が嘘になってしまうんです。 劇場にクレームの電話が来たり、SNSで叩かれれば正義はそこに作られてしまうのが現実です。 最近はSNSのマイナスの言葉に引っ張られるようになっている傾向はますます強くなっています。 被害者感情はもちろん大切だが、映画には観る、観ないの選択肢ができるコンテンツだからこそ、なんとか作品を残したいという気持ちは声に出せずとも誰もが持っていると思います。 海外の映画業界は映画の文化的な価値が優先されますが、日本では、世論や体裁へのプライオリティがクリエイティブ面よりも高いんです」と話す。 海外では、個人的な問題として対処されることも、日本は一人の責任は映画全体の責任になってしまうのが現状なのだ。 執念で追撮を敢行したケース 作品の完成前に、不祥事が起きた場合は、ほとんどが撮影中止の事態に追い込まれることとなる。 撮影中に出演俳優が逮捕されるという前代未聞の事態となり、1年をかけて再撮影をして昨年ついに公開へ繋がった映画『』はプロデューサーの「執念」で出来上がった映画といっても過言ではない。 逮捕のとき、すでに7割が撮影済みで「いい画が撮れていたことは確信していた」という伊藤主税プロデューサーは、がっくりと肩を落とす監督の藤井道人に「必ず撮り直そう」と誓ったという。 「約束はしましたが、本当にしんどい時期でした。 ビジネスの面で考えれば、再撮影はリスクが非常に高い。 それでもやろうと思えたのは、監督、キャスト、スタッフとの友情と、出来上がった作品が観たいという気持ちだけです」と伊藤は当時を振り返る。 しかし、その決断に支払うことになった代償は大きかった。 すべての出資者に会いに行き追加の出資を願う。 もし一人でも出資者が追加の出資を決めると、出資比率も変わるためその度に全員のアプルーバルを取らなければならず、かかる時間は膨大となる。 約1年の歳月をかけ、美術、衣装、全てを再現して追撮を実現した。 だがこのケースはかなり稀で代役を立てて最初から撮り直すことなど大きな予算の作品であればあるほど厳しくなることは容易に想像ができる。 [PR] スキャンダル作戦金銭面への補償制度は 金銭面で、再撮影などを試みる場合、そこには多額の追加予算が必要となることはいうまでもない。 映画が完成するまでの間に予測不能な事態が起きた時に、補償がおりる撮影保険というものがあるにはある。 だが、撮影中の事故に対しては補償されるが、一連の出来事のような役者やスタッフが不祥事を起こしてしまった場合に補償はされない。 ある映画関係者は「でも、もしあったとしても、キャスティングの時点で「あいつは何かを起こしそうだ」と予測できると思いますか? 誰もそんなこと起こると思わないでしょう。 刑事事件にまで至らなくても、不倫問題などのスキャンダラスな一発のニュースで全てが飛ぶ恐ろしさは十分ある。 みんなビクビクしながら映画を作っているのが現状です」と話す。 クリエイティブへの価値観を改めて考える 最後に考えるべきなのは、日本におけるクリエイティブへの価値観だ。 ハリウッドがなぜ、作品重視でいられるかというと成功報酬や俳優の権利が守られていることが日本との大きな差になっている。 日本は、映画の予算が低い分、俳優はCMなどのギャランティが収入の大きな割合を占めることとなる。 もしもスキャンダルな映画に出演した場合、イメージが悪くなることでCMの仕事に影響する。 共演者がどんなに公開を望んでいたとしても、事務所としても厳しい決断を下すことになってしまう。 映画の製作費や俳優の成功報酬が上がり、権利も守られるようになれば、イメージを考えずに映画に集中できるが、現状、日本の俳優たちはイメージに囚われながら仕事をしていくしかないのが現状だ。 何か起きた時のガイドラインや補償はもちろん、業界全体の変革も今後の課題だ。 新井浩文の逮捕は、日本映画界に大きな打撃を与えたが、その分、問題点も浮き彫りになった。 多くの日本映画関係者が改めてシステムを見つめ直し、変革を始める機会になることに期待したい。

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遠野なぎこが激怒!未成年で共演し干された俳優Kは誰?どんな不祥事?|waonのブログ

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井沢八郎さんは、中学卒業後に演歌歌手を目指し東京に上京し、26歳のときにようやく演歌歌手としてデビューできました。 デビュー曲である「男船(1963)」は 30万枚を売り上げるほど大ヒットでした。 料亭経営者のご令嬢と結婚したことで、公私ともに幸せな日々となり、一男一女を授かりました。 料亭は「八王子うかい亭」ではないかと言われています。 知る人ぞ知るステーキの名店ですね。 その後、八王子に建てた大豪邸はテレビでも紹介されることが多いほど、立派な豪邸であり、誰もが憧れる生活を送っているかと思われていました。 金銭的には裕福な家庭に生まれた娘の工藤夕貴さんでしたが、その幼少期の生活は壮絶なものだったと言います。 工藤夕貴の幼少期:酒乱な父親と意地悪な家政婦 工藤夕貴さんは、世間的には超大物演歌歌手を父にもっており、裕福で誰もが憧れるような環境で育ったのかと思えば、その幼少期は 「壮絶な日々」だったことを工藤さん本人が後に語っています。 なんでも、工藤夕貴さんの父である井沢八郎さんは 「酒に酔うと別人格にあり、たびたび暴力的に」なる人だったそうです。 母親には物を投げつけて怒り狂い、母親は井沢さんの怒りがおさまるのをただ耐える日々。 工藤さんも3歳のときに井沢さんからソファーに投げつけられた記憶が大人になるまでずっとトラウマだったそうです。 父親は「怖い」存在であり、家でそばにいいる時も緊張が休まることはなかったと後に語っています。 外からは幸せな家庭に見えていた「工藤家」も工藤夕貴さんが小学3年生になる頃には、 ご両親が不仲となり、母親が家から追い出されてしまったそうです。 その結果、家事全般を全く他人の「家政婦」が家に来てやってくれたそうですが、 工藤夕貴さんはその家政婦からも「いじめ」を受けていたそうです。 原因は、家を追い出された「母親」を思って、その母親を思い続ける工藤夕貴さんが気に食わなかったからだそうです。 夕食がハンバーグのはずが、家族の中で工藤夕貴さんだけ「目玉焼き」が出てきたこともあったそうで、 栄養不足のせいか当時は「クラスの中で1,2位を争うほど激ヤセしていた」そうです。 もはや、 「いじめ」というより、「虐待」ですよね。 家の中では居場所のない工藤夕貴さんは、そこから中学生まで地獄の日々に耐えていたそうですが、 12歳のときに渋谷で芸能事務所にスカウトされ、アイドルとしてデビューしたことをキッカケに、人生が好転していきました。 当初は「七光と思われたくない」と、父親が井沢さんであることを公表していなかったのです。 工藤夕貴さんは、日本でも絶大な人気を誇るアイドルとなったあと、1995年にハリウッドで女優活動を始め、同年には ハワイ在住のサラリーマンと結婚したものの3年で離婚、2005年には父の病気をキッカケに日本に帰国し、晩年は井沢八郎さんと和解できたそうです。 プライベートでは、 2010年に公務員で武闘家の7歳年上の男性と再婚し、現在は幸せに暮らしているようですね。 最近は、テレビドラマ「下町ロケット」にも出演していましたね! 井沢八郎の不祥事とは|再婚と病の晩年 酒乱な井沢八郎さんは、家庭内での暴力的な振る舞いだけでなく、その他にも「不祥事」を起こしていたことがわかっています。 1983年には、 交通違反を起こしたにもかかわらず不出頭、1985年には デートクラブで16歳の女性を買収して淫行に及んだと言われています。 デートクラブが売春防止法で摘発された際、逮捕された少女がお客の中に井沢さんがいたと供述したことで発覚しました。 井沢さんは少女に対して「私にはアンタと同じくらいの年の娘がいる。 タレントの工藤夕貴だ」などと話したといいます。 井沢さんは「そんな若い人と思わなかったものですから」と釈明し、愛知県警の取り調べを受けたものの、オトガメなしで終わりました。 さらに、その2年後には 「隠し子」の存在も明らかとなり、スキャンダルのため一時期は芸能活動を休止せざるを得ない状況でした。 結局、1989年には別居中だった奥様とも離婚に至りました。 1992年、工藤さんの母は工藤さんの事務所社長と再婚したようです。 また、1994年には青羽美代子(あおばみよこ)さんと再婚し、晩年に侵された食道がんで2007年に逝去するまで連れ添いました。 青羽美代子さんは、声優さんであり、井沢八郎さんとは25歳も年が離れていました。 工藤夕貴さんは、当時、再婚相手の青羽美代子さんと面会拒否したそうです。 ドラゴンボールや北斗の拳などにも声優として出演していたようですね。 現在は、朗読の仕事をメインでやられているようです。 青羽美代子さん 2005年の67歳のときには、井沢八郎さんに「食道がん」が見つかりました。 手術を受け、治療に励みましたが、2007年1月17日にお亡くなりになりました。 命日は、娘の工藤夕貴さんの誕生日であり、もはや声を出すのもやっとの状態で、絞り出したのが「お誕生日おめでとう」という言葉だったそうです。 思いもよらぬ父の言葉に「そのために生きててくれてたんだ。 私の誕生日まで頑張ってくれたんだ」と「たまらない気持ちになった」と工藤夕貴さんは当時を振り返えっています。 まとめ 工藤夕貴さんの父親である井沢八郎さんの壮絶な生涯をご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。 はたから見れば、華やかな暮らしをしているように見える芸能人も、見えていない一面をもっていたことがわかりましたね。 井沢八郎さんを知ることで、工藤夕貴さんの人生も違った側面から知ることができました。 晩年は、親子関係が良好であり、わかり合うことが出来たことはなによりも良かったです。

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小出活動停止で再燃した「パッチギ!」の悲運 止まらない出演俳優「不祥事ドミノ」(2017年6月9日)|BIGLOBEニュース

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先月26日に亡くなった俳優の萩原健一が、大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」(毎週日曜放送。 本日4月7日は放送休止)に出演することが、没後にNHKから発表された。 萩原が演じるのは、明治から昭和初期にかけて大蔵大臣や日本銀行総裁、また首相も務めた高橋是清で、6〜7月放送予定の第25回から登場するという。 4月4日のNHK総合の「クローズアップ現代+」では、亡くなる直前の萩原を記録した映像が放送され、そこでは病気を押して「いだてん」撮影にのぞむ姿も紹介されていた。 大河初出演は1974年放送の「勝海舟」で、岡田以蔵を演じた。 主人公の勝海舟や同じ土佐出身の坂本龍馬など歴史の大舞台で活躍する人物たちの裏で、人斬りとしてしか生きられなかった以蔵は、影のある青年を演じることの多かった初期の萩原にまさに適役だった。 その後、大河には1991年の「太平記」に新田義貞の役で17年ぶりに出演。 だが、このときはケガで途中降板している。 代役をやはりいまは亡き根津甚八が務めた。 無念の降板から2年後、1993年の「琉球の風」では、薩摩藩主・島津義久の典医で、主人公の父親である楊邦義(架空の人物)役で出演した。 さらに1999年の「元禄繚乱」では江戸幕府5代将軍・徳川綱吉を、2002年の「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」では明智光秀をそれぞれ演じた。 いずれも、ときには狂気すら感じさせる演技が強烈だった。 不祥事による大河ドラマ降板も 「いだてん」では、足袋屋の主人・黒坂辛作を演じていたピエール瀧の降板により、同役が三宅弘城へと交代したばかりだ。 大河ドラマでは、今回の一件や「太平記」の萩原健一以外にも、たびたび出演者が降板している。 記憶に新しいところでは、「軍師官兵衛」(2014年)で語りを務めていた女優の藤村志保が病気で途中降板、フリーアナウンサーの広瀬修子に交代している。 不祥事による降板もある。 1978年の「黄金の日日」では、蜂須賀小六を演じていた室田日出男が同年2月に覚醒剤事件で逮捕され、降板した。 このときはとくに代役も立てられず、役そのものが劇中からフェードアウトしたようだ。 しかし逮捕後のNHK側の対応は、ピエール瀧の一件で、放送済みの場面まで撮り直しが決まった今回とはまったく違った。 このときは、それまで収録した分については、室田の出演場面をカットするのは制作条件上無理との理由で、オープニングタイトルから室田の名前だけカットし、収録日をテロップで明示してそのまま放送されている。 「黄金の日日」は現在、NHKオンデマンドで全話が配信中だが、そこでは室田の出演シーンも視聴できる。 主演と脚本家が降板して激震が走った「勝海舟」 萩原健一が岡田以蔵を演じた「勝海舟」は、大河ドラマ史上最大の降板劇が生じたことでも知られる。 幕末の幕臣・勝海舟を主人公にした同作では、渡哲也が主演を務めた。 しかし、年明けにドラマがスタートして早々に、渡は病気でドクターストップがかかってしまう。 このため収録を1月いっぱいで終え、松方弘樹と交代する(放送では松方は3月に登場)。 大河ドラマで主演俳優が交代したのはこれが初めてで、その後もいまにいたるまで例がない。 「勝海舟」ではまた、脚本を担当していた倉本聰も途中降板するという前代未聞の事態となった。 原因は、NHKの演出陣との対立だった。 倉本は脚本執筆にとどまらず、俳優たちの脚本読みに立ち会い、注文をつけるのを流儀としていた。 NHKで「勝海舟」以前にたびたび倉本とドラマを一緒に手がけた演出家の大原誠によれば、脚本読みから、さらに立ち稽古まで見て、動きを指示し、自分の書いた作品の意図を俳優に伝えていたという。 また、配役(キャスティング)にも強い関心を持っていた(大原誠『NHK大河ドラマの歳月』NHK出版)。 じつは、渡哲也の降板が決まり、代役に松方弘樹を立てる案が出たとき、直接、交渉にあたったのも倉本だった。 NHK局内ではこの案に無理だろうという観測が強まり、誰も口説きに行かないので、倉本がプロデューサーに承諾を得たうえで動いたという。 松方が当時専属だった東映の社長・岡田茂は、倉本の申し入れに「松方にもいいチャンスだ」と言って、進行中の仕事を除いて、その後のスケジュールを止めてくれた、と倉本の自伝にはある(倉本聰『見る前に跳んだ』日本経済新聞出版社)。 ただし、松方自身は後年の聞き書きで、倉本から直接電話で打診されたと証言している(松方弘樹・伊藤彰彦『無冠の男 松方弘樹伝』講談社)。 一方、倉本も、演出家が台本を書き替えていると出演者の萩原健一から教えられ、不信感を募らせる。 彼に言わせれば、《僕の意図を上回るいい解釈には諸手を挙げて賛同する。 もちろん演出家の考えもあるし、それも尊重するけれど、無断変更は気分が悪い》(『見る前に跳んだ』)。 結果的に、倉本と演出陣は決裂するにいたる。 引き金となったのは、倉本が取材に応えた女性誌の記事だった。 NHKの広報の指名で、倉本が渡哲也の代役問題について取材依頼に応じることになったが、やって来た記者はNHKの不手際ばかり熱心に聞いてくる。 出演者やスタッフ一同頑張っていると説明しても、そういうコメントは一切メモしない。 これに危うさを感じた倉本は、雑誌の版元に赴き、記事をチェックさせてもらったところ、案の定、番組を中傷する内容だった。 押し問答の末、真意を説明して修正を頼んだのだが、うかつにも見出しのことを忘れていた。 雑誌の発売日、「『勝海舟』を内部から爆弾発言!」という見出しの新聞広告に、NHK局内は騒然とする。 このあとのことを、倉本は《二十数人の番組スタッフに徹底的に吊し上げられた。 僕に同情的な人はたったの二人。 「記事の内容をよく読んでくれ」と言ったが、聞く耳を持たない。 悔しくて悲しくて泣けてきた》と述懐している。 ただ、当該記事(「ヤングレディ」1974年6月17日号)を読むと、「出演者やスタッフ一同頑張っている」といったニュアンスはあまり読み取れず、見出しがどうあれ、結果は変わらなかった気もする。 『NHK大河ドラマの歳月』によれば、このときチーフプロデューサーとチーフディレクターが両者の和解に奔走したものの(おそらく倉本の言う「同情的な人」とは彼らのことだろう)、こじれた糸は戻らなかった。 NHKと決裂した6月のその日、倉本は局を出るとそのまま羽田空港に向かい、札幌行きの飛行機に乗った。 その後、札幌市内の旅館に身を潜めながらも、10月27日放送の第43話「大政奉還」までは脚本を書いて郵送し続けた末、降板する。 それから先、12月の最終回までは中沢昭二が代役を務めた。 一方の当事者である、演出陣の一人だった4番手の演出担当者は、倉本との対立を、後年次のように振り返っている。 《倉本氏はその自信から「勝海舟」は自分一人でつくっていくんだという思いがあり、一方我々は、一つのチームで、一つの組織でつくっていきたいという思いがあったのは事実です。 脚本どおり映像化していくのが演出なのか、NHK制作の主体性・演出の主体性はどこにあるのか、ということです。 /結局、倉本氏がスタッフに謝罪し、その代わり降板するという最悪の形となってしまいましたが、今思えば、当時皆若かったなあということです》(『NHK大河ドラマの歳月』) 前出の大原誠は、自身の経験から《倉本氏は徹底的に話し合うことのできる作家です。 この話し合いの時間をおろそかにすると、演出者と倉本氏は常に対立します》と書き、《大河ドラマの演出者はブロック撮りのため、毎週毎週スタジオに入って収録しています。 演出陣が極端に忙しかったことも事実でしょう。 残念なことですが、徹底的な話し合いが欠けていたようでした》と指摘した(『NHK大河ドラマの歳月』)。 倉本の降板について、出演者に対しスタッフから連絡はなかったらしい。 主演の松方弘樹はこれに不信を覚え、「勝海舟」の収録をすべて終えた直後、新聞紙上で《NHKに出演する気は、もうありません》と宣言(「朝日新聞」1974年11月5日付夕刊)、その後も雑誌などでNHK批判を繰り返した。 それは、倉本をはじめとするスタッフやキャストにくすぶる不満を義侠心から代弁したものであったが、松方はひとり矢面に立たされる結果となる(『無冠の男』)。 松方が再びNHKに出演するのはじつに35年後、徳川家康を演じた大河ドラマ「天地人」(2009年)まで待たねばならなかった。 大河ではこのあと、2013年の「八重の桜」に出演している(大垣屋清八役)。 なお「勝海舟」の主演を松方に譲った渡哲也は、1996年の「秀吉」で織田信長、2005年の「義経」で平清盛を演じている。 倉本聰は、「勝海舟」での騒動を機に北海道に拠点を移した。 当初は転職も考えていたというが、彼の滞在する旅館を探し当てたフジテレビのプロデューサーとディレクターからドラマの脚本を依頼され、引き受ける。 ここから生まれたのが、テレビ番組の内幕を描いた「6羽のかもめ」という連続ドラマで、騒動直後の1974年10月より半年間放送された。 翌75年には、北海道を舞台にした「うちのホンカン」(北海道放送・TBS系)と、萩原健一が東京・深川の料亭の板前見習いを好演した「前略おふくろ様」(日本テレビ)があいついでヒットする。 後者は萩原に「何か書いてください」と頼まれたのをきっかけに生まれ、いまなお名作の誉れ高い。 さらに1981年には北海道富良野を舞台とする「北の国から」(フジテレビ)が始まる。 これは、やがて俳優や脚本家を養成する富良野塾の開塾へとつながっていった。 「琉球の風」での役柄は、萩原健一演じる医師が仕える薩摩藩主・島津義久だった。 室田は逮捕から約3ヵ月後に映画の撮影で活動を再開した。 彼の特異なキャラクター、演技がいまの日本映画界には貴重なものとされての起用であったという(『週刊平凡』1978年6月1日号)。 「特異なキャラクター、演技」という点では、やはり薬物事件で大河ドラマを降板せざるをえなかったピエール瀧もまた、室田と同じく貴重な存在であった。 萩原健一も大河からこそ降板しなかったものの、大麻事件を含む4度の逮捕を経験している。 訃報を受けて、テレビなどではそんな彼の破天荒な人生が、多分にノスタルジーを交えて紹介された。 それがピエール瀧に批判が集まる時期と重なったのは、皮肉というしかない。 萩原にかぎらず、松方弘樹しかり、往年のスターたちは多かれ少なかれ、一般常識からどこか逸脱したところがあった。 そのなかで、「飲む、打つ、買う」は芸の肥やしともいわれた。 ただ、そうした逸脱が、スターたる条件ととらえるのもちょっと違う気がする。 そこで思い出すのは、ビートたけしが目下「いだてん」で演じている古今亭志ん生について、以下のように話していたことだ。 《志ん生さんの話に戻ると、「飲む、打つ、買う」の芸人と見られがちだけど、落語を忘れて溺れたことはなかったと思う。 酒も博打も芸の肥やし。 勉強家で、歩きながら落語をブツブツやってたそうだよ。 講談も都々逸も常盤津もできるけど、「俺の芸を見ろ」としたり顔をすることもない。 落語が大好きなだけなんだ。 だから周りは許しちゃう。 形だけ「破滅型」をまねる芸人とはわけが違うよ》(『NHK大河ドラマ・ガイド いだてん 前編』NHK出版) 志ん生の次男の古今亭志ん朝も、父親について「私生活はぞろっぺえだったが、芸に対する態度は鬼気迫るものがあった」と生前語っていた。 思うに、本当に「飲む、打つ、買う」が芸の肥やしになるとして、それは志ん生のように芸に対する執念や情熱が、まず先にあってこそ初めて成り立つのではないか。 執念によって磨き上げられた芸は、しくじりをも飲みこんで、それすらも芸に昇華してしまうに違いない。 逆にいえば、逸脱が芸への執念を侵食したとき、その人物は文字どおり破滅にいたるのだろう。 萩原健一も、たしかに破滅型ではあったが、挫折のたびに復帰を果たし、ついに破滅することはなかった。 それは周りの人たちの協力もさることながら、彼が人一倍、俳優という職業に執着していたからではないか。 こうした例を見るにつけ、やはり芸能人が不祥事を起こしたからといって、その才能を活かす場までとりあげてはいけないという思いを強くする。 ピエール瀧も、今回は残念な結果となったが、いずれまた復帰し、大河ドラマにもまた出演してほしいと願っているのは、私だけではあるまい。 (近藤正高).

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