中島 みゆき contralto。 中島みゆき オフィシャルサイト

中島みゆきを手がけるプロデューサー、瀬尾一三が語る『CONTRALTO』

中島 みゆき contralto

この にはなが不足しています。 の提供に協力をお願いします。 存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的にあるいは有害となるものは すぐに除去する必要があります。 にシングル「」でデビューした。 公式ファンクラブ名は「なみふく」。 において、4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストであり、他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得している(後述参照)。 また、自身の歌唱も含めると、作詞・作曲を手掛けた作品が5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得したことになる。 経歴 幼年期 - デビュー前 祖父は帯広市議会議長なども務めた、父・眞一郎は医学部出身の医で院長。 に生まれ、5歳の時にに引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。 に移り、を卒業、に入学する。 の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせてに移り、に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。 その後、を経て、文学部国文学科を卒業する。 帯広柏葉高校3年生の時、文化祭(第20回柏葉祭・)で初めてステージを踏む。 この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。 大学時代は、放送研究会に所属し、でスタッフのバイトなどをする。 のメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。 「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っている。 には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。 この時の音源は大会実況版として化されている。 後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が支給されるので、バイト代わりであったと述べている。 大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続ける。 オーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏んでいる。 デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない(後述のを参照)。 デビュー - 1970年代後半 5月、の主催による「 」に「傷ついた翼」が入賞した。 9月には「」でからレコード・デビューを果たす。 10月の「」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「」によってグランプリを受賞し、の第6回でもグランプリを受賞した。 「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックのに見出される。 その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。 ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。 4月、ファースト・アルバム『』を発表。 その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。 同年にはに提供したシングル「」と「」が、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。 同年大晦日『』で研ナオコが「」で出場、一挙に認知度を広める。 翌には歌手としても「」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。 ・としても、先述の研ナオコに提供した「」をはじめ、「」、「」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。 数少ない出演番組の一つとしてから放送された『』がある。 その中で披露された「時代」ではグランプリ受賞の様子がインサートされ、「」においてはと共演している。 歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた発表の4枚目のアルバム『』には「」という楽曲が収められている。 後年に系『』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなっている。 『』以降、発表のアルバム『』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でのアルバムチャートで1位を獲得している。 発表のアルバム『』から発表のアルバム『』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。 1980年代 、『』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーの間で大きな人気を集めた。 前半にはミュージシャンとしてさらに大きな人気を集めており、のシングル「」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。 にはに提供した「」が大ヒットし、の作曲賞を受賞した。 以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。 のやなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、やラリー・アレキサンダーなどによるでのなどに臨んでいる。 発表のシングル「」ではの吹くを大々的にしている。 中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期 を振り返り、「御乱心の時代」と称している。 自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としてはの「」、「」などの作詞を担当した。 「御乱心の時代」は、のアルバム『』のを手がけたとの出会いによって収まることとなる。 中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。 からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「」(やかい)をで毎年12月に上演するようになる。 「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。 1990年代 1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやとのによってを記録するシングルが後を絶えなかった。 中島みゆきも例に漏れず、ドラマ『』の主題歌「」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。 なかでも主演の系列『』の主題歌として書き下ろされたの「」は147万枚のセールスを記録した。 発表のアルバム『』収録曲「ファイト! 」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。 この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めた。 『』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。 には『』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新した。 から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成され、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。 にはの国語審議会委員を務めた。 この審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきだけである。 2000年代以降 - には25年にわたって在籍したを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーの・に移籍。 以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。 移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、のテレビ番組『』の主題歌「」である。 中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。 発売当初は話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。 このアルバムの発売にあたっては、の仕様をめぐりからクレームがつき 、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。 このロングヒットをきっかけに中島はのに出演。 『プロジェクトX』内でもとりあげられた(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。 このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52. これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。 同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。 には『プロジェクトX』の最終回に出演。 スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。 通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。 1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となっている。 近年では、アレンジ等にの父親として知られるや、、、などといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えてアルバムを制作するのが毎年恒例となっている。 に一旦休止した「夜会」はから再び不定期で行われるようになり、の「Vol. 14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのではなくで、大阪では初めてにおいて上演された。 、第56回 を受賞した。 「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。 シンガーソングライターとしては初の受賞者。 同年には、に提供した「」の作詞が評価され、の作詩賞を受賞した。 8月から新設のヤマハミュージックアーティスト(現:)がマネジメントを行う。 秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。 11月3日、を受章。 中島は受章に際して、 「 思いがけずうれしいことの表現に『』と申しますが、今の私の気持ちは『 棚から』くらいの驚きでございます。 ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます! 』と、お返事してしまいました。 」 — とコメントした。 10月から1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。 このツアーから各公演の様子を伝えるを開始した。 10月から2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われた。 また、11月から12月まで「」と称するを開催した。 9月よりNHK『』の主題歌として「」が使用され、同年12月31日のにも出場し、同曲を歌った。 中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となった。 概要 楽曲 歌詞 中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。 非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができる。 普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多い。 例えば、発売のアルバム『』収録曲の「永久欠番」。 この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されている。 対照的に、に提供した「」やに提供した「」のように軽いノリの詞も存在する。 ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピー にひっかける方が望ましいと中島が指示を受けていた経緯がある。 大学のではを論じており 、からの影響が濃い。 また、中島みゆき自身の歌詞が現代詩の一つとして扱われ名詩選に収録されていることもある。 歌唱法 基本的に、深いブレスと力強い声質を生かして朗々と歌い上げる。 曲によって、また曲の中でも情景や詞が含む感情によって、いくつもの声色を使い分けている。 例として、「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌い回しの違いが挙げられる。 同じアルバムの中でももっと声質の大きく異なる曲が収録されることも多い。 歌っているときの声と普段の喋り声とのギャップも著しい。 転調が得意であるため、転調する曲が多い。 例として、「浅い眠り」と「空と君のあいだに」が挙げられる。 記録 年代 曲名 1位獲得年• 他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってオリコンシングルチャート1位を獲得している。 年代 曲名 アーティスト名 1位獲得年• アルバム・シングルを併せた・のトータルセールスでは、までの時点で2131万枚。 女性ソロ・ミュージシャンとしては歴代8位。 女性シンガーソングライターとしては5位。 オリコンアルバムチャートでベスト10入りした枚数では、、、、に次いで歴代5位(2015年現在)。 50歳以上で週間オリコン・シングルチャートで1位を記録した女性歌手はとと中島の3人だけである(2015年現在)。 ライバル は、かつて「ライバルは? 」と聞かれ「中島みゆきさん」と答え、テレビ・ラジオなどでは「みゆき」と呼ぶ。 逆に中島は、『』で「松任谷」と呼んでいた(中島は松任谷より2歳上)。 1980年代以降、トレンドに合わせた楽曲でヒットを飛ばす松任谷由実と、己の道を行く中島みゆきを「月と太陽」「光と影」とするような対比が多く見られ、ユーミンは「 恋愛歌の女王」、中島みゆきは「 失恋歌の女王」、「 女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容された。 当人同士は、そうした周囲の対比をさほど気にもかけていない様子である。 同年代で交友もあり(ユーミンの夫が中島の曲のアレンジを担当したこともある )、互いに認め合っている。 、中島のコンサートツアー「明日を撃て! 」のパンフレットに寄稿した松任谷は、「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と中島の音楽を評し、「でも、そうやってこれからも一緒に、日本の布地に風合いを出していきましょう」と締めくくっている。 中島は自身の著書『愛が好きです』の中で松任谷のことを「尊敬している」と語っている。 2人はこれまでにラジオで7回対談している。 『』(1980年6月9日、1983年6月13日)『ミュージック・パスポート』(1982年3月7日)、『』(1994年10月23日)、『』(2001年8月24日)など。 また、ライバルというよりも戦友的存在の一人として、も挙げられる。 谷山も中島と同じくヤマハ・ポプコン出身ということや、オールナイトニッポンの構成作家が同じということから交友があり、谷山が出演していたラジオ番組『』(木曜二部)にたびたび出演するほか、後年、『』 2000年 でも共演している。 コンサート コンサートは現在でも、2000人~3000人規模のホールを中心に行っており、原則アリーナクラス以上の会場では公演を行わない。 過去に、、では行ったことがあるが、では一度も公演を行なったことがない。 海外における知名度 チャイニーズのホームページ内「音楽評論家のアフターヌーンティー」コーナーには「中島みゆきの創作力は、広く認められている。 彼女の作品は、常に香港や台湾の歌手にカバーされ、日本のみならず、アジア全域に中島みゆきの音楽が行き渡ったと言っても過言ではない」と書かれている。 膨大な数のカバー曲や、日本音楽業界との密接な関わりにより、中島のニュースは時々台湾の新聞でも見かけられる。 『』、『』の両新聞社の情報バンクだけを取り上げても、ここ十年間における中島に関する報道は、年間20件 - 30件ある。 台湾の詩人は、文学雜誌で中島みゆきに関する評論を載せ、香港の評論家もに「中島みゆきの名にちなむ」という文章で中島を紹介した。 作家も中島の長年のファンとして知られ、自身の作品の中に、幾度も中島のことや歌を書き上げたことがある。 私の窓から ・にて開催された「全国フォーク音楽祭」札幌地区予選の優勝曲。 公式では未発表だが、に「ミュージックBOX」にて放送された。 町へお帰り でのコンサートにおいて発表された。 帰郷 あの人は船乗り ホンキー・トンク・ママ に実在したファッションタウン「ベル」にて開催された「第3回ヤング・フェスティバル」において発表された。 町へ帰れば で開催された「第52回青年会総会 前夜祭」で「」や「」などの楽曲とともに初披露された楽曲。 質問 から刊行されていた雑誌『』1977年5月号の別冊付録『プチプチ』に掲載された「POEM GALLRY 中島みゆきの世界」の中に発表された。 エッセイ「街の女」および「」や「VOL. 8 問う女」の源流となった作品で、に行われたコンサートツアー「1978年・春のツアー」にて、初披露された。 きつねの嫁入り に行われたコンサートツアー「1979年・春のツアー」において発表された。 北の旅人 にて開催された、天理教「あらきとうりょう・女子青年決起北海道大会」の大会歌として書き下ろした楽曲。 「」から、次の「」への導入として使われていた。 後に、から刊行された中島の著書「片想い」に全文掲載されている。 誰ひとりわたしを知らない 「夜会VOL. 3 KAN TAN 愛が好きですII 新潮文庫 夜会Vol. 4 金環蝕 角川書店 ジャパニーズ・スマイル 新潮社 夜会Vol. ヤマハ・フォークイン(、 - )• (、)• ミュージックマガジン( - 、 - 、 - 、 - 同年)• ( 月曜1部 - 、、、)• ( 金曜 - )• (NHK-FM 金曜 - )• 本人は「フル金(ジョイフルポップ金曜日)」と呼んでいた。 NHK80周年・15周年記念スペシャル・シンガーソングライターの時代(、)• (NHK-FM、)• ( - 月1回放送) テレビドラマ• (、)• 初のドラマ出演で、第10話に出演した。 (フジテレビ、・)- 南雲律子 役、第2話・最終話。 (、)- 清掃員 本人 役、第1話。 (、・・)- 車椅子を押す入居者 役 、第64・70・102話。 (2019年7月15日、) - 語り 映画• (1985年) - ムジカ 役(声の出演)• (1997年) - バーのママ 役• (2005年) - 巌岳 役• (2005年)• (2006年) - 間宮順子 役 その他のテレビ番組• 中島みゆき3Days-もっとみゆきと深い仲『第一夜、第二夜、第三夜』( 、 - )• 中島みゆき『夜会の冒険』(NHK BS2、)• (、)• オール中島みゆきナイト( ) CM• 「キリンプレミアムビール」()• 「」() と共演。 「」( - )• 郵政省「」(、)• 「北海道 生搾り」(、) ()と共演。 スキンケア化粧品「」()• 二種類のCMがあり、「偶然の出会い」という題名で、中島みゆき編、松田聖子編があり、松田聖子編では中島みゆきの「時代」を、中島みゆき編では「」をBGMとして流れていた。 特設ホームページでは、メイキングムービーが公開されている。 関連人物• - デビュー前、中島は拓郎の追っかけをやっており、拓郎の楽屋にも出入りするほど、周囲では有名なファンであった。 拓郎は、中島の「」を気に入っており、よくコンサートで歌っている。 中島は拓郎のことを「よた」と呼んでいた。 に行われた「」にゲスト出演し、提供曲「永遠の嘘をついてくれ」で共演した。 この模様はNHK BShiで生放送され、同コンサートのDVD『』に収録されている。 ゲスト出演すると、コンサートを全部見ることができると思っていたが、ゲスト出演が極秘であったため、ある部屋に出演時間まで、缶詰され目隠しの車に乗せられてコンサート会場に行き、リハーサル無しで、出演し歌を歌い終わったら、そのまま東京へ護送された(本人曰く)ということだった。 - ともに STV のディレクターだった竹田健二(1977年、37歳で急逝)に恩義があり、北海道出身同士の友人。 髪が薄いのをからかって中島が「と千春のコンサートには、ワカメの花束を持って行こう! 」と言ったことも(談…さだ・松山・中島の三人で食事をした際に、松山が薄毛対策のためにわかめスープを飲んだのに、さだが付き合う形で二人で飲んだ。 その時「みゆきがそばでジィーッと見てて」 )• - 「あの人に似ている」を共作。 古くからの仲であり、お互いに「みゆき」「まさし」と呼ぶ間柄。 二人でレコーディングした際のインタヴューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。 このデュエットの実現は中島の要請によるものである。 さだは、元日に放送された自身司会のNHK『』で、『プロジェクトX』の後継番組『』の番宣に登場したNHKスタッフに、「この番組には中島みゆきさんの歌はないんですか? 」とわざわざ質問していた。 2011年1月1日放送の『年の初めはさだまさし』で中島が『』の視聴者であることが紹介されたが、その際さだは、中島と2010年末に名古屋で会った時にさだが「『今夜も生で中島みゆき』やればいいのに。 みゆきなら出来る」(中島が「TOUR2010」で観客からのお便りを読むコーナーをやっていることから)と言ったところ中島が「白板の前のライトはきつい」と答えた、というエピソードを紹介した。 さだの妹・のデビュー曲は、中島が書いている。 なお、さだは中島の表現力と感受性を大いに称賛しており、中島の作品を「良質な流行歌」と評す。 - 『グッバイガール』以来、ずっと中島のアレンジャー、プロデューサーを務めている。 - 一時期・演奏で中島と多く組んだ。 - 『36. でののスペシャル・ラスト・ライヴにゲスト出演し、甲斐バンドの「」を共演した。 この模様は甲斐バンドのDVD『』、CD『』に収録されている。 - 中島みゆきの提供した曲は息継ぎがしづらく、こめかみに青筋を立てて歌っていたと、中島自身がラジオで語っていた。 - 柏原のレコーディングは、どの提供曲も毎回、中島が立ち会ったという。 そのレコーディングで中島は「芳恵ちゃんって歌うまかったのね」と語った。 ・・ - 自他共に認め合う年来の大親友たち。 - 「」のパーソナリティ同士として知り合い、時々各々の曜日に行き来した。 所の思いつきで、ゲームに負けたら所のシングル『寿司屋』に因んだ『蕎麦屋』という曲を作って歌え、と言われた中島はそのゲームに負け、本当に『』なる曲を歌うこととなった。 - 中島が大阪で「ミュージックマガジン」(MBSラジオ)のパーソナリティを担当していたこと、またそのであったが鶴瓶の「」の構成も担当していたことから引き合わされ、それ以来の交友がある。 特筆すべきは、4月の音楽番組出演を最後に、以後のCM出演まで13年の長きに亘り、テレビ出演から意識的に遠ざかっていた中島が、唯一「鶴瓶のミッドナイトトレイン」(関西テレビ、)にゲスト出演していることである。 鶴瓶もで中島について語ったり、「夜会」に度々訪れていることを「」()にて話題にしたりしている。 - 6月、のため『中島みゆきのオールナイトニッポン』に出演。 肝心の中島みゆきは、TVで『』を見たことがないだけでなく、明石家さんまの存在自体を知らなかった。 当然、話は噛み合わずさんまが「『』って観たことあります? 」 みゆき「昔…」 さんま「その裏番組で『ひょうきん族』っていう番組をしてます……」という会話があった。 - カバーアルバムで「空と君のあいだに」「ファイト! 」をカバー。 『お時間拝借』にゲスト出演したこともある。 - 自身とが中心のバンドで「僕たちの将来」「糸」をカバー• - 写真家。 中島の『みんな去ってしまった』から現在までのアルバムジャケット写真をはじめ、世に出回る中島の写真のほとんどの撮影は田村によるものである。 - かつて中島が『』の月曜1部放送後の、2部パーソナリティーがうえやなぎであったことから懇意となり、2003年-2004年、『』内で『』がベルト番組として放送されていた。 メインパーソナリティーである、うえやなぎに「おーやさーん! 」(大家さーん! )と、中島独特の抑揚で叫んで回覧板を持ってくる…という設定のオープニングだった。 には『オールナイトニッポン』40周年を記念し、一夜限りの復活をした『』では、アシスタントとして登場した。 - 安達主演のテレビドラマ『』、『』(1994年-1995年 )主題歌で大ヒットとなる。 - 『』の初めの方には、中島みゆきに関連した書き込みが多く見られる。 中島みゆきは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のコミックス11巻の後ろの紹介文も書いている。 - 『中島みゆきの社会学』著者、学長。 中島みゆきのファンであり、講義でも数多く中島みゆきについて解説している。 - 『』(号)で対談。 『女歌』の文庫版に解説「幸福という言葉に惑わされない女達」を寄稿。 村上とがホストの鼎談集『EV. Cafe 超進化論』ではと3人で中島の歌詞について語っている。 小説『テニスボーイの憂鬱』では、会話の中で中島みゆきが話題になる箇所があり、登場人物の一人が、涙が出てきそうな歌の文句として「五才の頃」の歌詞に触れる台詞がある。 - 中島に関わる書籍を多数書いている。 - 「ファイト! 」をカバーする。 2011年10月22日、福山とみゆきはで共演した。 - 『』にて、ヒロインが「中島みゆきソング・ブック」と名付けられる。 - アルバム『』の一部の楽曲の編曲・レコーディングを担当。 - 自身熱狂的ファンであることを公言し、中島の楽曲を「恋愛が近代的自我にとって最大の不条理になるという逆説」(「中島みゆきはである」)を歌うものとして高く評価する。 - ドラムの村井守はいとこに当たる。 - 『』(、2008年・2013年)に、舞台作品としては初めて書き下ろしの楽曲を提供。 関連項目• - 「あした」をリリースした頃、自作が演歌のコーナーに置かれていたのを、みゆき本人がラジオで笑っていた。 - 中島みゆきに因んで命名された。 脚注 注釈• 音源化はされていないが、の「 ミュージックBOX」で放送された• このLP音源はCD化されておらず、当時売れなかったこともあり非常に貴重で、では高価な価格で取引されている。 通称ポプコン、現在の• 『』から『』まで。 2曲とも作曲は。 現在この記録を保持しているのはの『』。 岩波文庫をもじって 山波文庫(ヤマハ文庫)と表記したため。 ツアー終了後は、中島に関する最新情報を伝えるスタッフ公式Twitterとなった• シングルのリリースは。 「」「」「」「」の4曲。 中島みゆき with 名義• 中島以外では、やなどがAPO盤がリリースされている。 LP盤はA面がM-1〜6、B面がM-7〜10となっている。 LP盤はA面がM-1〜5、B面がM-6〜10となっている。 誕生日設定があり、誕生日には中島本人の肉声によりお祝いのメッセージが流れる。 この予選通過後、中島は、・で行われた「全道大会」と・の「全国大会」では「」を歌っている。 CMには中島本人が出演し、2000年まで放映された。 中島本人も女医役で第2話と最終話に出演。 CMには中島本人が出演し、1995年まで放映された。 元々は「」のテーマソングである。 起用された話数は、第1話 - 第4話、第10話 - 最終話。 起用された話数は、第5話 - 第9話。 中島本人も「糸占い」の占い師役として出演• 版では第4話• 元々は「」の挿入歌である。 DVD版では版権元の管理の関係で「悪女」は収録されておらず、別のBGMに変更されている。 中島本人も清掃員で第1話に出演。 タイトルは「強がりはよせ ヨ」• 研も1982年に30thシングルとして、このタイトルでリメイクした。 タイトルは「 サヨナラを伝えて」• 中島がセルフカバーするにあたって、タイトルを変更してリリースされた。 日本盤のボーナストラックに収録している。 さだまさしとのデュエットで収録されている。 アルバム収録にあたり、詞を自ら書き直しタイトルも「清流」に変更して収録されている。 車椅子に乗るのは本作の脚本家である。 から中継された。 歌詞を間違えたことも有名。 12年ぶりに紅白歌合戦に出場。 ・CT-101スタジオから中継され、「」に出演したとの2人と共演した。 「」は初めて他者へ提供した作品である。 文化庁. 2020年5月8日閲覧。 oricon news. 2005年12月28日. 2020年5月8日閲覧。 井沢真 2009年11月2日. 毎日新聞 毎日新聞 : p. 谷川俊太郎『詩を書くということ』p. 水内喜久雄『あなたと読みたい詩の本 恋日和』など。 の解説より• 台湾蘋果日報, 2003年12月11日。 (中国語)• 演奏の最初に歌声が入っているが、中島みゆき本人ではなく、別人。 映画ナタリー 2015年8月11日. 2015年8月13日閲覧。 デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2017年3月2日. 2017年3月5日閲覧。 ORICON STYLE 2016年2月25日. 2016年2月25日閲覧。 NHKドラマ. ドラマトピックス. 2019年4月18日. 2019年4月19日閲覧。 さだまさし『さだまさし ステージ・トーク 噺歌集』( 1986年 pp. 129-130 さだの発言自体は1979年6月のもの)より。 この話は、かつては三人で食事をするほどの仲であったことも示している。 外部リンク• (公式サイト)• - チャンネル.

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中島みゆき

中島 みゆき contralto

中島みゆき、前作より2年ぶりとなる43枚目のオリジナルアルバム。 作品タイトル『COTRALTO』の読み仮名は「コントラアルト」。 中島みゆきはこのタイトルについて「私の音域のことです」と述べている。 合計4曲のタイアップが収録。 前作の『相聞』から約2年ぶりに発売する43枚目のオリジナル・アルバムが発売決定。 作品タイトル『CONTRALTO』の読み仮名は「コントラアルト」。 中島みゆきはこのタイトルについて「私の音域のことです」と述べている。 また、このアルバムには「自画像」「歌うことが許されなければ」という曲が収録されていることから、自分自身を様々な視点で綴り、歌っていることが感じられる作品となった。 本作に収録されたタイアップ曲は、先行シングルとして発売された倉本聰脚本、テレビ朝日60周年記念帯ドラマ劇場『やすらぎの刻~道』の主題歌「離郷の歌」「進化樹」の2曲に加え、このアルバムに収録された「終 おわ り初物 はつもの 」「観音橋 かんのんばし 」が、さらに同ドラマの新たな主題歌として決定。 合計4曲のタイアップが収録されることとなった。 前作の主題歌「慕情」も含め中島みゆきの主題歌が5曲も起用された前代未聞のドラマ『やすらぎの刻~道』の音楽を存分に楽しめる内容にもなっている。

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CONTRALTO

中島 みゆき contralto

リンク タイトルの「CONTRALTO」は音域を表し、女声であるが、テナーの音域の少し上を表すようです。 前の記事で、今回のツアー「結果オーライ」で演奏された楽曲の音域はCONTRALTOか?という検証を行ったので、第二弾として、最新アルバム「CONTRALTO」の楽曲の音域も検証したいと思いました。 (結果オーライのネタバレを含みます。 ) CONTRALTOの音域と感想 若干の高低差はありますので、一曲ずつ感想と共に見ていきたいと思います。 (最新アルバムのネタバレを含みます) 1. 初めて聞いて一瞬で虜になってしまいました。 美しく澄んだ声が少女の様です。 みゆきさんの標準的な最高音は HiA と思われます。 2.おはよう mid2B hiA 初めて聞いた時は「バラ色の人生」に似てるな~と思ってしまいました。 朝というのは清々しく爽やかなものと歌う曲は多いですが、この様に朝をとらえる曲は珍しいと思いました。 最高音のHiAはみゆきさんのスタンダードですが、最低音がmid2Bというのは、最低音の中では高めであると思いました。 (なんだか、血圧で上は普通で下は高めという感じですね) みゆきさんの曲では挨拶をタイトルとした曲はいくつかありますが、自分のお気に入りは「サヨナラ コンニチハ」です。 この曲は夜会24時着00時発の舞台のオープニングで歌われました。 CD化はされていませんが、みゆきさんの曲には珍しいメロディーとコード進行の曲です。 どうしてこういうメロディーが書けるんだろうと驚いた記憶があります。 リンク おはようはメロディーはみゆきさんっぽいなーと感じ、驚きはしませんでしたが、歌詞の内容には深く考えさせられました。 メロディーラインも美しく、36時間のように、今までのみゆきさんのメロディーとは 少し違うモダンな旋律でした。 この曲のテーマはEAST ASIAの様にどんなに強力に縛り付けるしがらみからも、心は自由であるという事を歌った曲なのでしょうか。 そういえば今回、みゆきさんのホームページに更新された淡い緑色のドレスを着た妖精のように美しいみゆきさんの写真はEAST ASIAに出てくる柳絮(りゅうじょ)の様だと感じました。 リンク みゆきさんは中華系の旋律は多いなーと思っていましたが、こういったエスニックな 旋律も作れるとは、なんと引き出しが広いのでしょうか。 音域は標準的な音域です。 齢寿天任せ mid1E hiA この曲も聞けば聞くほどハマっていきます。 今のところ自分はこの曲を一番繰り返して聴いているかもしれません。 この曲で歌われている事はなかなか強烈で、突き放されたような感覚に陥りました。 メロディーも美しく、わらべ歌の様に始まりますがいつのまにか壮大なみゆきさんワールドに包みこまれている事に気づかされる様な曲です。 音域は標準~少し高めです。 この曲はサビに入るまでは黒鍵を使わないで弾ける(Cから始まる) ピアニストフレンドリーな曲になっています。 どんなメッセージなのかはまだ自分でもよくわかっておりません。 途中までですが。 最後のフレーズは高そうですが、みゆきさんの標準最高音よりも少し低く 低音ソングになります。 「地上の星」の様な、日の当たらぬ人を照らす歌詞なのでしょうか。 メロディーはルチルなどと一緒で従来のみゆきさんらしくないなーと思ってしまいました。 音域は標準よりもやや高めです。 間奏のギターは瀬尾さんのアレンジでしょうか。 この手の間奏、結構好きなんです。 音域は標準よりやや高めです。 CONTRALTOの楽曲はCONTRALTOだった みゆきさんのアルバムなので、みゆきさんの音域で歌われるというのは当然の結果ですね。 しかしながら、デビューから40年が経過して今なお 当時の音域を守り続けているみゆきさんは、本当に凄いと思います。 これからも「CONTRALTO」の素敵な歌声を聴かせてください。 音域調べは自身でCD音源を元に簡易的に行ったもので誤りがあるかもしれません。 また、全曲を調査したわけではないため、情報が誤っている可能性もございます。 ご了承ください。 中島みゆきラストツアー「結果オーライ」初日レポートはこちら。 結果オーライコンサートで演奏された楽曲の音域検証はこちら。

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