ショパン本。 ショパン・コンクールが生んだ「怪物」マルタ・アルゲリッチ。彼女をヨーロッパへ導いた「運命の人」とは

ハンナ│株式会社ハンナ

ショパン本

ここでは、ショパンのピアノ曲をほとんど知らない、または全然知らない、 興味はあるけれど、初めに何を聴いたらよいか分からない、何かきっかけが ほしい、という方のために、入門用のお薦めCDを紹介します。 ショパン弾きとして世界的に名高いアシュケナージが、ショパンのタイトル付きの名曲を弾いています。 きれいな音で誰にでも分かりやすく丁寧に弾いてくれます。 ショパンの入門編の名曲集のファースト・チョイスとして最適です。 1985年のショパンコンクールで文句なしの優勝を勝ち取った世紀の天才ブーニンが、ショパンの名曲を弾いてくれます。 完璧なテクニックと想像力溢れる個性豊かな彼のショパン演奏には、多くの聴き手を惹きつけて放さない魅力があります。 現在出版されているショパンの伝記の中では、内容・分量が最も標準的で、ショパンのことを全く知らない人からある程度「通」の方まで、幅広い層の方に おすすめできる良書です。 ショパンの誕生する前、父ミコワイ・ショパン、母ユスティナ・クシジャノフスカの出自から2人の出会いから触れられており、 ショパンの誕生、ショパンの才能の早熟、幼少期過ごした環境・受けた教育、ショパンの少年時代に関する事実についてもバランスよく記述されています。 ショパンがポーランドで過ごした最後の時期(20歳まで)からパリに行き、パリ社交界での生活、当サイトで紹介している3人の女性 (コンスタンツィア・グラドコフスカ、マリア・ヴォジンスカ、ジョルジュ・サンド)についても詳細に記述されていますし、 その中でショパンがどのように考え、ピアノに向かっていたかが分かります。 史実の「曲解」や著者の個人的な主観はほとんどなく、現在ショパンについて一般的に知られている事実に即して客観的な立場で書かれたもので、 あらゆる点で現在出版されているショパンの伝記の標準です。 おすすめです。 「決定版」というタイトルは自画自賛的ですが、さすがに「決定版」というだけあり、ショパンの人生、人となりについて非常に深い 部分にまで立ち入って、詳細に描写した力作だと思います。 著者はポーランド人ショパン研究家で、ショパンの書簡等を詳細に調べ上げた結果をもとに、慎重に 筆を進めた跡がうかがえる伝記で、他の伝記では浮かび上がらなかったショパン像が新たに構築されていくようなスリルがあります(特に、片想いの女性グラドコフスカへの告白が実現した、との記述にはビックリ仰天!(通説では告白できずにため息をついて空想していたということになっていますよね)。 ただ、各描写、客観的史実を述べるために固有名詞が頻繁に登場するので、気軽に読める読み物ではなく、あくまでショパンの生涯について より深く、より詳しく知りたい、ショパン通になりたい、という人にのみお薦めしたい本格派伝記です。 逆にショパン通になりたいという気持ちが少しでもあるのであれば、持っていて絶対に損しない一冊です。 ショパンの生涯について、客観的に分かりやすく書かれた伝記です。 またショパン関連の品や縁の地について、カラー写真が豊富に挿入 されていて、ショパンの生きた場所、生きた時代の雰囲気が視覚的に分かるようになっているのも大きな魅力です。 実際に写真で見ると、ポーランド(ジェラゾヴァ・ヴォーラ、ワルシャワ)やフランス(パリ、ノアン等)の美しい風景を見て、 ショパンの過ごした場所にゆかしく思いを馳せることになると思います。 また、この本は、文庫本ということもあり、 価格も非常に手頃なので気軽に購入することもできると思います。 著者は、パリのエコール・ノルマル出身のエリートピアニストとして活動を始め、最終的には現代音楽の作曲家としての活動、及び 評論活動で名を成したと言われており、実際に演奏芸術を、演奏家、聴衆、作曲家の3つの異なる立場から考察し、その意義について 独自の見解を詳述しています(特に「ショパンの鏡像」において)。 また、「ショパン像」の章においては、ショパンの生涯、私生活 を概観し(いわゆる「伝記」の縮小版)、第3章の「ショパンの真実」では、各作品の特徴等について解説をしています。 若干、学術的な本ですが、著者の目から見たショパン像についての知見を得ることにより、ショパンの音楽への理解を深める のに役立つ一冊です。 著者の下田幸二氏は、長い間、ポーランドでショパン研究を行っているその道のスペシャリストであり(月刊誌「ショパン」の 連載等でおなじみの方も多いと思います)、長年に渡る演奏、研究の成果をもとに、ショパンの全曲作品解説としてまとめたのが この本です。 作品成立の時代背景、ショパンの心的状況、作品の特徴等について、豊富な譜例を用いながら詳しく解説されており、 主に演奏する立場の人にとって、非常に役に立つ一冊だと思います。 また、ショパンの全作品について、演奏する立場から 書かれた作品解説集としても非常に珍しく、希少価値の一冊だと思います。 この本は、立ち読みしただけで実際に持っているわけではないのですが(しかも絶版です)、デルフィーナ・ポトツカ夫人に 宛てたショパンの手紙(偽造説濃厚)の 真偽を巡る論争の成り行きについて、具体的な資料をもとに説明されています。 手紙の内容からは、「ショパンの主義や信条、性格から 考えてありえない」という「状況証拠」しかなく、しかも筆跡がショパンのものと酷似していて、偽造と断定するだけの「物的証拠」がないようです。 ショパンとポトツカ夫人の関係はどうだったのか?といった興味は尽きないですが、この本を詳細に読んでいくと、ショパンに対する 認識が変わる可能性もありそうです。 ショパンの生涯をより深く知るための第一歩としては最適の伝記だと思います。 ショパンの生涯で押さえるべきポイントを押さえながら、 必要なだけの「深さ」にまで立ち入った記述をしています。 比較的幸せな家庭生活を送った幼少期、ワルシャワの天才児として大いに注目を集める 少年期、ワルシャワ音楽院生時代、ポーランド出国をしてパリに到着してからの華やかで(でも不幸な)生活、ヴォジンスカとの美しい恋愛、 ジョルジュ・サンドとの恋愛、破局等々、ショパンを語る際に不可欠な話題が偏りなく盛り込まれ、バランスの取れた伝記に仕上がっている と思います。 白黒ながら、ショパン縁の地、ショパンのゆかりの品の写真や絵が豊富に挿入されていて、ショパンの人生、時代背景を視覚的に 捉えられるというのも大きな魅力です。

次の

「ショパンー200年の肖像」展

ショパン本

フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年の3月にポーランドで生まれました。 ロマン派音楽の前期において代表的な作曲家であります。 また、それと同時に彼はピアニストでもありピアノをこよなく愛しておりました。 彼の作曲のほとんどはピアノ独奏曲が占めており、ピアノの詩人と称されるようになります。 代表作は「ノクターン」や「ワルツ」など、クラシック音楽に詳しくない人々の耳にも、なじみのある有名な曲を残しています。 彼は父の影響で、4歳からピアノのレッスンをしていました。 8歳で演奏講演会を開くほどの腕前だったといわれています。 その後父の勧めもあり、16歳の時にワルシャワ音楽院に入学し、首席で卒業しました。 卒業後はワルシャワ出て音楽の旅に出ます。 1837年にジョルジュ・サンドという女性に出会って恋をたことで、たくさんの名曲が生まれたといわれています。 また、彼はパリに出向き、ケルビーニ、ロッシーニ、メンデルスゾーン、リストといった数人の著名作曲と知りあいました。 そんな出会いと幸せに満ちた人生は急激に変わります。 1847年、恋人ジョルジュとの別れを迎えるのです。 そして健康も優れなくなり、生活にも困窮するようになったといわれています。 彼女と別れてから2年後の1849年10月に結核の病にて、39年の短い生涯に幕を閉じました。 1:ショパンの心臓は故郷に持ち帰られた 遺言により、彼の心臓だけが故郷のポーランドへ持ち帰えられました。 ワルシャワの聖十字架教会の柱の内部にアルコール漬けされ保存されているとのことです。 2:ショパンの妹の死因も「結核」だった 彼には一人の姉と二人の妹がいました。 そのうちの一人、エミリアという妹も結核でなくなったといわれています。 エミリアとショパンは同じ芸術の趣味があり特に仲が良かったそうです。 3:趣味は物真似 ショパンは音楽以外にもたくさんの趣味がありました。 漫画や絵描き、そして芝居と芸術に関することに興味がありました。 芝居好きがこうじて、よく人前で物真似をして周りを楽しませていたと伝えられています。 この芸術好きと、人間観察力は彼の世渡り上手なところに通じてきます。 4:音楽家以外の著名人とも仲が良かった 芸術全般に興味があり、人間観察が上手だった彼は音楽関係者だけではなく、画家、詩人、版画家、彫刻家との交流がありました。 なかでも親睦が深かった人物として画家のドラクロワが挙げられています。 5:出国許可が下りず親友とは数十年前にお別れして以降会えずじまいだった 彼は18歳の時の故郷を離れ音楽の旅にでます。 途中までは親友のティテュスも同行していましたが、諸事情により、19歳の時に離れ離れになってしまいました。 その後、彼はパリへ移り住み音楽家としてのキャリアを積みます。 故郷に戻った際、親友との再会を願っていましたが、出国許可がおりず実現しませんでした。 6:「子犬のワルツ」は恋人のジョルジュ・サンドへささげた曲 ショパンはパリで出会ったサンドという女性と恋に落ちます。 そして彼女の依頼により、彼女の飼っていた子犬が彼女の周りを駆け巡る情景を曲にしたのがこの「子犬のワルツ」なのです。 7:サンドという女性にギャップ萌えした ショパンは最後の恋愛としてジョルジュ・サンドと恋に落ち10年間関係を持ちます。 破局を迎えた後に鬱になってしまうほど、彼は彼女のことを愛していました。 実は、当初二人が出会った時には、ショパンは男勝りなサンドに嫌悪感すら抱いていたそうです。 しかし、彼女の女性らしい優しい一面などを見て、惚れてしまったといわれています。 8:自身の病弱な体のせいで二人の女性と破局をした 晩年体調の悪さが悪化し、恋人のサンドは女性としてではなく、まるで母親のような立場になり、彼を看病し続けました。 しかし看病に疲れ、ショパンに対しいら立ちを感じはじめます。 とうとうサンドは彼のもとから去りました。 また、彼女に会う前に婚約までかわした女性がいましたが、結局はショパンの虚弱体質のせいで破綻となっています。 9:ショパンは残された肖像画通り美しい容姿をしていた 肖像画は写真とは違い、実物よりも良くおられていることが多々あります。 ショパンの場合は、肖像画どおりの端正な顔立ちをしていたといわれているのです。 髪は茶色ふさふさしており、額は秀でた美しさがあり、優しい笑顔があったと当時の書記にあるとされています。 10:ショパンは当時のファッションリーダー的存在だった 彼はファッションに大変気を使っており、宮廷中の女性の目をくぎ付けにしていたほどだといわれています。 故に、彼はファッションリーダー的存在になっていました。 ショパンについての教科書とも言える本 ショパンという音楽家は、その時代ではリストと並びクラシック界で最高のピアニストとして一目置かれた存在でした。 そんなショパンは弟子を取ると、一人一人の才能を伸ばすべく奮闘していたと伝えられています。 こういった豆知識もふんだんに盛り込まれていて非常に読み応えのある作品です。 そして彼自身の教育理念など、全体像を垣間見ることができます。 著者は旧版以来もさらなる研究を重ね奮闘し、ついにこうして新たに改訂版として刊行することが実現されました。 丁寧で詳しい解説を基盤に編集されたのがこちらの書籍です。 今回は4冊に絞って様々な書籍をご紹介させていただきましたが、彼の作った曲がなぜこんなにも多くの人々に愛されているのか、この本を読むことによって理解できる、初心者にもわかりやすい書籍ばかりです。 このようにどの書籍も自信を持っておすすめできるものばかりなので、教養のためや参考文書のため、目的は人それぞれだとは思いますが、興味がある方には是非手に取って頂けたら幸いです。

次の

「ショパンー200年の肖像」展

ショパン本

フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年の3月にポーランドで生まれました。 ロマン派音楽の前期において代表的な作曲家であります。 また、それと同時に彼はピアニストでもありピアノをこよなく愛しておりました。 彼の作曲のほとんどはピアノ独奏曲が占めており、ピアノの詩人と称されるようになります。 代表作は「ノクターン」や「ワルツ」など、クラシック音楽に詳しくない人々の耳にも、なじみのある有名な曲を残しています。 彼は父の影響で、4歳からピアノのレッスンをしていました。 8歳で演奏講演会を開くほどの腕前だったといわれています。 その後父の勧めもあり、16歳の時にワルシャワ音楽院に入学し、首席で卒業しました。 卒業後はワルシャワ出て音楽の旅に出ます。 1837年にジョルジュ・サンドという女性に出会って恋をたことで、たくさんの名曲が生まれたといわれています。 また、彼はパリに出向き、ケルビーニ、ロッシーニ、メンデルスゾーン、リストといった数人の著名作曲と知りあいました。 そんな出会いと幸せに満ちた人生は急激に変わります。 1847年、恋人ジョルジュとの別れを迎えるのです。 そして健康も優れなくなり、生活にも困窮するようになったといわれています。 彼女と別れてから2年後の1849年10月に結核の病にて、39年の短い生涯に幕を閉じました。 1:ショパンの心臓は故郷に持ち帰られた 遺言により、彼の心臓だけが故郷のポーランドへ持ち帰えられました。 ワルシャワの聖十字架教会の柱の内部にアルコール漬けされ保存されているとのことです。 2:ショパンの妹の死因も「結核」だった 彼には一人の姉と二人の妹がいました。 そのうちの一人、エミリアという妹も結核でなくなったといわれています。 エミリアとショパンは同じ芸術の趣味があり特に仲が良かったそうです。 3:趣味は物真似 ショパンは音楽以外にもたくさんの趣味がありました。 漫画や絵描き、そして芝居と芸術に関することに興味がありました。 芝居好きがこうじて、よく人前で物真似をして周りを楽しませていたと伝えられています。 この芸術好きと、人間観察力は彼の世渡り上手なところに通じてきます。 4:音楽家以外の著名人とも仲が良かった 芸術全般に興味があり、人間観察が上手だった彼は音楽関係者だけではなく、画家、詩人、版画家、彫刻家との交流がありました。 なかでも親睦が深かった人物として画家のドラクロワが挙げられています。 5:出国許可が下りず親友とは数十年前にお別れして以降会えずじまいだった 彼は18歳の時の故郷を離れ音楽の旅にでます。 途中までは親友のティテュスも同行していましたが、諸事情により、19歳の時に離れ離れになってしまいました。 その後、彼はパリへ移り住み音楽家としてのキャリアを積みます。 故郷に戻った際、親友との再会を願っていましたが、出国許可がおりず実現しませんでした。 6:「子犬のワルツ」は恋人のジョルジュ・サンドへささげた曲 ショパンはパリで出会ったサンドという女性と恋に落ちます。 そして彼女の依頼により、彼女の飼っていた子犬が彼女の周りを駆け巡る情景を曲にしたのがこの「子犬のワルツ」なのです。 7:サンドという女性にギャップ萌えした ショパンは最後の恋愛としてジョルジュ・サンドと恋に落ち10年間関係を持ちます。 破局を迎えた後に鬱になってしまうほど、彼は彼女のことを愛していました。 実は、当初二人が出会った時には、ショパンは男勝りなサンドに嫌悪感すら抱いていたそうです。 しかし、彼女の女性らしい優しい一面などを見て、惚れてしまったといわれています。 8:自身の病弱な体のせいで二人の女性と破局をした 晩年体調の悪さが悪化し、恋人のサンドは女性としてではなく、まるで母親のような立場になり、彼を看病し続けました。 しかし看病に疲れ、ショパンに対しいら立ちを感じはじめます。 とうとうサンドは彼のもとから去りました。 また、彼女に会う前に婚約までかわした女性がいましたが、結局はショパンの虚弱体質のせいで破綻となっています。 9:ショパンは残された肖像画通り美しい容姿をしていた 肖像画は写真とは違い、実物よりも良くおられていることが多々あります。 ショパンの場合は、肖像画どおりの端正な顔立ちをしていたといわれているのです。 髪は茶色ふさふさしており、額は秀でた美しさがあり、優しい笑顔があったと当時の書記にあるとされています。 10:ショパンは当時のファッションリーダー的存在だった 彼はファッションに大変気を使っており、宮廷中の女性の目をくぎ付けにしていたほどだといわれています。 故に、彼はファッションリーダー的存在になっていました。 ショパンについての教科書とも言える本 ショパンという音楽家は、その時代ではリストと並びクラシック界で最高のピアニストとして一目置かれた存在でした。 そんなショパンは弟子を取ると、一人一人の才能を伸ばすべく奮闘していたと伝えられています。 こういった豆知識もふんだんに盛り込まれていて非常に読み応えのある作品です。 そして彼自身の教育理念など、全体像を垣間見ることができます。 著者は旧版以来もさらなる研究を重ね奮闘し、ついにこうして新たに改訂版として刊行することが実現されました。 丁寧で詳しい解説を基盤に編集されたのがこちらの書籍です。 今回は4冊に絞って様々な書籍をご紹介させていただきましたが、彼の作った曲がなぜこんなにも多くの人々に愛されているのか、この本を読むことによって理解できる、初心者にもわかりやすい書籍ばかりです。 このようにどの書籍も自信を持っておすすめできるものばかりなので、教養のためや参考文書のため、目的は人それぞれだとは思いますが、興味がある方には是非手に取って頂けたら幸いです。

次の