ジェイミー ジョセフ。 ジェイミー・ジョセフ ヘッドコーチの俳句を英語にしたらさらにカッコよかった件!

ラグビーのジェイミー・ジョゼフ監督の経歴は?ヘッドコーチの実力は!

ジェイミー ジョセフ

ラグビー日本代表のジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチ(HC、49)が、現在の契約が切れる今年12月31日をもって退任する可能性があることが21日、複数の関係者への取材で分かった。 日本協会が8月に下交渉を行い、続投に前向きな姿勢を示していたものの、W杯で史上初の8強入りを果たしたにもかかわらず、21日現在で正式オファーはなし。 ニュージーランド代表からも就任オファーが届く中、日本協会への不信感を高めており、電撃退任劇に至る可能性が出てきた。 南アフリカとの激闘から一夜。 東京都内で31人の教え子たちと総括会見に臨んだジョセフHCは、「国民のサポートに感謝したい。 皆さんの応援なくして、ここまではできなかった」と感謝。 約40分間、終始穏やかな笑みを浮かべていたが、その裏で深刻な事態が起きようとしている。 複数の関係者によれば21日現在、日本協会から契約延長に向けた正式オファーはおろか、交渉日時の打診もないという。 W杯では1次リーグを4戦全勝の1位突破。 日本を史上初の8強入りへ導く手腕を発揮したにもかかわらず、日本協会の誠意を欠く態度に、当初続投に前向きだったジョセフHCも難色を示し始めているという。 協会内では森重隆会長(67)、清宮克幸副会長(52)が続投支持を表明し、8月ごろには下交渉を行った。 推定約5000万円とされる年俸も、ほぼ据え置きで2年の契約延長に本人も基本合意。 そんな中で協会内の一部幹部は手順にこだわり、8強入りを決めた後の今月16日の理事会でも続投は決まらず、次期HCの選考委員会を立ち上げるにとどめた。 水面下では協会幹部が後任候補として、07年W杯で南アを優勝に導いたトヨタ自動車のジェイク・ホワイト監督(55)、元ニュージーランドHCで神戸製鋼のウェイン・スミス総監督(62)と極秘面会。 こうした動きも、ジョセフHCの気持ちを逆なでした。 21日の会見後、急きょ駆け付けた幹部との面会を、自ら打ち切るほど態度を硬化しているという。 一方、手腕を買う海外からは続々とオファーが届いている。 その筆頭が指揮官の母国でもあるニュージーランドだ。 W杯後にスティーブ・ハンセン監督(60)の退任が決定済みで、日本が当時世界ランク2位のアイルランドを破った9月28日以後、同国協会から本人に就任要請が届いたという。 他にもスーパーラグビーやイングランドのプロクラブからオファーが届いている。 今週中には初めての選考委員会が開催される予定だが、その間にジョセフHCが他協会や海外クラブと正式契約を交わせば、続投の可能性は消滅する。 日本を史上初の8強入りへと導いた名指揮官が流出すれば、4年後のW杯フランス大会に向けた代表強化が停滞するのは必至。 日本ラグビー界の未来が風雲急を告げている。 【ジョセフHC就任までの経緯】前回大会で指揮を執ったエディー・ジョーンズ前HCは、当初16年以降の続投に前向きだったが、日本協会への不信感からW杯開幕前の15年8月に退任を決断。 協会の後任選びは難航し、当時スーパーラグビー(SR)ハイランダーズでヘッドコーチを務めていたジョセフ氏と正式に契約を結んだのは、16年1月だった。 就任も16年のSRシーズン終了後の同年秋にずれ込み、選手選考や強化の面で半年以上の遅れが出た。 92年に同国代表初キャップを獲得し、95年W杯に出場。 W杯後にサニックスに加入し、99年W杯には日本代表として出場した。 通算キャップはニュージーランド20、日本9。 03年に指導者に転じ、11年にはハイランダーズHCに就任。 15年にスーパーラグビー初優勝に導いた。 16年9月から日本代表HC。 1メートル96。 家族は妻と1男3女。

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【夢を叶える名言集】ジェイミー・ジョセフ

ジェイミー ジョセフ

8としても活躍した現役時代のジェイミー・ジョセフ。 1999年パシフィック・リムで日本代表初キャップを獲得。 コロナ禍で多くのスポーツが延期や中止されるなか、NumberWebでは、『Sports Graphic Number』の過去の記事から、「こんなときだからこそ読んで欲しい」と思う記事を特別公開します! 今回は、昨年ラグビー日本代表を初のW杯ベスト8へ導いたジェイミー・ジョセフの物語です。 玄界灘を望む宗像にあるサニックス(現・宗像サニックスブルース)に加入したのは1995年。 ラグビーで結ばれた仲間たちとの出会いを、改めて振り返ります(2016年12月1日発売/Number916号より)。 サニックスは愛のチームだ。 福岡県遠賀郡、国道沿いの寿司割烹店、かつて、この支店でホールを担当した年配の女性に顔写真を差し出してみた。 「覚えてます」 水草郁子さんは、息子の親友を見るような目で続けた。 「いつもナマスシ、ナマスシって。 並寿司のことなんですよね」 日本代表の新しいHC、ジェイミー・ジョセフは、1995年から2002年までサニックスに在籍した。 ラグビー界がプロ容認に踏み切って、その先駆として日本の新興クラブにやってきたのだ。 グラウンドのそばにあった寿司店の「みよし」を気に入り、足を運んだ。 新鮮なにぎりが8貫の「ナマスシ」が好物だった。 ハイ、ミヨシ。 道ですれ違うと、赤ん坊の笑顔で手を挙げた。 「体は大きいのに愛嬌があって」 元ニュージーランド(NZ)代表オールブラックスの大男は、かけなら360円の「英ちゃんうどん」とも恋に落ちた。 帰国後も、サニックスの短期コーチで来日するたびに通った。 本誌の渾身の調査によるとこのごろは「肉うどんに海老天を3本追加でのせる」らしい。 店に飾られた油まみれのジャージィ。 宗像サニックスの「もうひとつのクラブハウス」を訪ねた。 鶏や豚の串焼きで鳴る酒場、カウンター席のみ、おそろしくうまく不思議なほど良心価格ゆえ、店名を明かしたら満席確実、選手たちが路頭に迷う。 ここでは「HJ」としておこう。 頑固だろう主人とその夫人は、都会のビッグなクラブとは異なるスモールでローカルなチームをラブしている。 有名大学出身の有名選手なし。 草の根クラブを経て入団の遠回り組が複数在籍、水道料金滞納者の蛇口をハリガネで縛る公務に従事していた者もいる。 潤沢でない布陣ながら走り負けせぬ体力を養い、独自の戦法を貫徹、しぶとく白星をたぐる。 そこがたまらない。 選手寄贈のジャパンの練習着やオールブラックスのジャージィが油まみれで飾られている。 ビニール袋でくるんだりケースに収めないのは無精ではなく、主人の心の奥の「照れ」ゆえだ。 店の角に積まれたビールケースのてっぺん、某選手の幼子が眠っている。 後ろに結んだ尾っぽの髪をたまに鉄板で焦がす主人は、引退した無名戦士のその後の奮闘を熱く語ってくれて、牛蒡の鶏皮巻きもいっそう美味だ。 もういっぺん記す。 サニックスは愛のチームである。 スーパーラグビーのハイランダーズを頂点へ導いた敏腕、ジェイミー・ジョセフのコーチングは、ここ宗像の歳月と無関係ではない。 重視するのは、キャップ数ではない。 盟友の証言がある。 宗像サニックスブルースを率いる藤井雄一郎監督が、本家クラブハウスの応接スペースで言う。 「彼の中で、このクラスの選手じゃなくては勝てない、という感覚はあまりないんです。 これとこれを守ってくれれば必ず勝てるから、という発想。 練習の態度がしっかりしているなら誰にも資格がある」 人間に関心がないわけではない。 「戦術よりも人について話すことが多い。 ただ(代表歴を示す)キャップ数がいくつだとか、そういうことより、練習に対するエネルギーのようなところを重視する」 背景にサニックスのクラブ文化がある。 博多駅から最寄りの東郷駅まで快速で40分近くかかる。 地理的に、また大企業ひしめくトップリーグにあり'94年創部という歴史の短さからしても、人材は集まりづらい。 名もなき原石を掘っては磨く。 練習態度がなっていなければ話にならない。 現役時代の藤井監督は、熊本のニコニコドーの主軸、西日本社会人リーグでジョセフを擁するサニックスと戦った。 「初めての出会いは敵です。 うちのサニックス戦のゲームプランは、ジェイミーがきたら誰と誰が倒す、喧嘩になったら全員でいく、というもの」 '98年度を最後にニコニコドーが廃部となりサニックスへ移籍、両者は同僚となる。 「最初の日に飲みにいきました」 ジョセフはニコニコドーのしぶとさを知っていた。 自分がいるのに勝てなかった。 きっと優秀な日本人がいる。 それが練習とゲームを仕切る主将の藤井だった。 藤井雄一郎が語った、指導の才。 当時のジョセフについての印象。 「コーチがグラウンドの中に立っているような感じでした。 選手としてはとんでもない化け物というほどではない。 むしろチームの導き方、仲間の心理の把握に優れていた。 ゲームの裏側を見るというのか」 すでに指導の才はあった。 「ジェイミーがついていたのは(新しいチームである)サニックスに長くいて、すべてを自分で手掛けられたこと。 私もニコニコドーが貧乏チームだったので選手のころからそうでした」 持たざるゆえに裁量の幅を持てた。 '15年にスーパーラグビーを制するハイランダーズも似ていた。 ウェリントン、オークランド、クライストチャーチら都市のチームに比べ、オタゴ地区のハイランダーズの資金と人材は薄い。 「いい選手を集めて勝つ。 いいコーチングで勝つ。 彼は後者ですね。 15人全員の能力が高くなくても戦えるシステムを考える。 ハイランダーズがそうでした。 いまのジャパンも近いと思います」 ジャパンを強くした戦術システム。 システムの解説。 「ポッド=pod」システムを採用する。 辞書の最初に「豆のサヤ」とあるが、別の意味の「イルカなどの小群」から名付けられたらしい。 NZ発祥。 選手を数名ずつ小さく分けてピッチに配しボールを動かす。 ジョセフ流は次の通り。 「グラウンドに4つのポッドを配する。 真ん中の2つのアタックでは、スクラムは強いが器用でないという選手もこなせるよう簡潔に確実にボールを出し、両側の大外に能力の高い選手を置く」(藤井)。 これなら万能型の数が限られても機能する。 そしてサニックス在籍の最大の冥利は、宗像の土地の人情に抱かれて「日本が本当に好きになった」事実だ。 この夏も家族連れで藤井家に「1週間泊まった」。 ジョセフその人がラーメンを軸に外食ローテーションを緻密にこしらえる。 「帰りの荷物は刺身包丁にポン酢に醤油」。 地元漁師に釣り道具探しを頼む一幕も過去にあった。 藤井監督に聞く。 ジョセフ、ジャパンを強くしますか? 「します」。 よく研がれた包丁の口調だった。 合言葉は「ゼッタイ、カツ」。 最後に紫のあざを書きたい。 ジェイミー・ジョセフは、'99年5月から同年10月のW杯ウェールズ大会まで、故・平尾誠二監督の率いたジャパンに選ばれている。 あのころは居住3年の条件を満たせば複数国の代表になれた。 元リコーのロック、日本体育大学ラグビー部の田沼広之監督は、計8試合、ともに桜のジャージィをまとい出場している。 「ゼッタイ、カツ。 これが僕とジェイミーの合言葉でした」 大物の合流。 好漢、田沼は、敬して遠ざけず身上の明朗さで懐に飛び込む。 以来、現在に至るまでの友となる。 「年に2、3度は電話をするので、日本語と英語を混ぜながら話すんですけど、離れている感じはしませんでした。 知性があり砕けたところもある。 完璧な人柄ですね」 愛称タヌとジェイミーの思い出。 「僕、代表を落とされかけたことがあったんです。 タックルができずに。 そこで特訓を命じられまして。 それがジェイミーへの連日の1対1のタックル。 30分から1時間近く、まっすぐ本気でぶつかってくる。 僕は骨っぽい体なんで、ジェイミーの膝のあたりが紫色のあざだらけなんですよ。 それでも、タヌがいいと思うまでやろうよと、また、すごい形相で向かってくる」 後年、本人にたずねた。 なぜ、あんなにまで手を抜かずに? 「タヌにタックルができるようになってほしかったから。 それだけ」 弟分の訃報「まだ信じない」。 タヌとジェイミーに弟分がいた。 渡辺泰憲。 複数ポジションをこなす大型FW、代表の遠征休日によく行動をともにした。 現役引退後の2010年4月3日、何が起きたのだろう、鎌倉駅の鉄路に忽然と命は消えた。 享年35。 ジェイミーは噂を聞いてタヌに連絡をよこした。 「残念だがそうだ」 受話器の向こうに嗚咽が広がる。 「まだ信じない」 そう言って、また泣いた。 (Number916号『[特別読物 宗像純情物語]愛のひと、ジェイミー・ジョセフ。 』より).

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ジェイミージョセフ(ラグビー日本代表監督)年俸や結婚した妻や子供は?親日家でwiki経歴や国籍は?

ジェイミー ジョセフ

8としても活躍した現役時代のジェイミー・ジョセフ。 1999年パシフィック・リムで日本代表初キャップを獲得。 コロナ禍で多くのスポーツが延期や中止されるなか、NumberWebでは、『Sports Graphic Number』の過去の記事から、「こんなときだからこそ読んで欲しい」と思う記事を特別公開します! 今回は、昨年ラグビー日本代表を初のW杯ベスト8へ導いたジェイミー・ジョセフの物語です。 玄界灘を望む宗像にあるサニックス(現・宗像サニックスブルース)に加入したのは1995年。 ラグビーで結ばれた仲間たちとの出会いを、改めて振り返ります(2016年12月1日発売/Number916号より)。 サニックスは愛のチームだ。 福岡県遠賀郡、国道沿いの寿司割烹店、かつて、この支店でホールを担当した年配の女性に顔写真を差し出してみた。 「覚えてます」 水草郁子さんは、息子の親友を見るような目で続けた。 「いつもナマスシ、ナマスシって。 並寿司のことなんですよね」 日本代表の新しいHC、ジェイミー・ジョセフは、1995年から2002年までサニックスに在籍した。 ラグビー界がプロ容認に踏み切って、その先駆として日本の新興クラブにやってきたのだ。 グラウンドのそばにあった寿司店の「みよし」を気に入り、足を運んだ。 新鮮なにぎりが8貫の「ナマスシ」が好物だった。 ハイ、ミヨシ。 道ですれ違うと、赤ん坊の笑顔で手を挙げた。 「体は大きいのに愛嬌があって」 元ニュージーランド(NZ)代表オールブラックスの大男は、かけなら360円の「英ちゃんうどん」とも恋に落ちた。 帰国後も、サニックスの短期コーチで来日するたびに通った。 本誌の渾身の調査によるとこのごろは「肉うどんに海老天を3本追加でのせる」らしい。 店に飾られた油まみれのジャージィ。 宗像サニックスの「もうひとつのクラブハウス」を訪ねた。 鶏や豚の串焼きで鳴る酒場、カウンター席のみ、おそろしくうまく不思議なほど良心価格ゆえ、店名を明かしたら満席確実、選手たちが路頭に迷う。 ここでは「HJ」としておこう。 頑固だろう主人とその夫人は、都会のビッグなクラブとは異なるスモールでローカルなチームをラブしている。 有名大学出身の有名選手なし。 草の根クラブを経て入団の遠回り組が複数在籍、水道料金滞納者の蛇口をハリガネで縛る公務に従事していた者もいる。 潤沢でない布陣ながら走り負けせぬ体力を養い、独自の戦法を貫徹、しぶとく白星をたぐる。 そこがたまらない。 選手寄贈のジャパンの練習着やオールブラックスのジャージィが油まみれで飾られている。 ビニール袋でくるんだりケースに収めないのは無精ではなく、主人の心の奥の「照れ」ゆえだ。 店の角に積まれたビールケースのてっぺん、某選手の幼子が眠っている。 後ろに結んだ尾っぽの髪をたまに鉄板で焦がす主人は、引退した無名戦士のその後の奮闘を熱く語ってくれて、牛蒡の鶏皮巻きもいっそう美味だ。 もういっぺん記す。 サニックスは愛のチームである。 スーパーラグビーのハイランダーズを頂点へ導いた敏腕、ジェイミー・ジョセフのコーチングは、ここ宗像の歳月と無関係ではない。 重視するのは、キャップ数ではない。 盟友の証言がある。 宗像サニックスブルースを率いる藤井雄一郎監督が、本家クラブハウスの応接スペースで言う。 「彼の中で、このクラスの選手じゃなくては勝てない、という感覚はあまりないんです。 これとこれを守ってくれれば必ず勝てるから、という発想。 練習の態度がしっかりしているなら誰にも資格がある」 人間に関心がないわけではない。 「戦術よりも人について話すことが多い。 ただ(代表歴を示す)キャップ数がいくつだとか、そういうことより、練習に対するエネルギーのようなところを重視する」 背景にサニックスのクラブ文化がある。 博多駅から最寄りの東郷駅まで快速で40分近くかかる。 地理的に、また大企業ひしめくトップリーグにあり'94年創部という歴史の短さからしても、人材は集まりづらい。 名もなき原石を掘っては磨く。 練習態度がなっていなければ話にならない。 現役時代の藤井監督は、熊本のニコニコドーの主軸、西日本社会人リーグでジョセフを擁するサニックスと戦った。 「初めての出会いは敵です。 うちのサニックス戦のゲームプランは、ジェイミーがきたら誰と誰が倒す、喧嘩になったら全員でいく、というもの」 '98年度を最後にニコニコドーが廃部となりサニックスへ移籍、両者は同僚となる。 「最初の日に飲みにいきました」 ジョセフはニコニコドーのしぶとさを知っていた。 自分がいるのに勝てなかった。 きっと優秀な日本人がいる。 それが練習とゲームを仕切る主将の藤井だった。 藤井雄一郎が語った、指導の才。 当時のジョセフについての印象。 「コーチがグラウンドの中に立っているような感じでした。 選手としてはとんでもない化け物というほどではない。 むしろチームの導き方、仲間の心理の把握に優れていた。 ゲームの裏側を見るというのか」 すでに指導の才はあった。 「ジェイミーがついていたのは(新しいチームである)サニックスに長くいて、すべてを自分で手掛けられたこと。 私もニコニコドーが貧乏チームだったので選手のころからそうでした」 持たざるゆえに裁量の幅を持てた。 '15年にスーパーラグビーを制するハイランダーズも似ていた。 ウェリントン、オークランド、クライストチャーチら都市のチームに比べ、オタゴ地区のハイランダーズの資金と人材は薄い。 「いい選手を集めて勝つ。 いいコーチングで勝つ。 彼は後者ですね。 15人全員の能力が高くなくても戦えるシステムを考える。 ハイランダーズがそうでした。 いまのジャパンも近いと思います」 ジャパンを強くした戦術システム。 システムの解説。 「ポッド=pod」システムを採用する。 辞書の最初に「豆のサヤ」とあるが、別の意味の「イルカなどの小群」から名付けられたらしい。 NZ発祥。 選手を数名ずつ小さく分けてピッチに配しボールを動かす。 ジョセフ流は次の通り。 「グラウンドに4つのポッドを配する。 真ん中の2つのアタックでは、スクラムは強いが器用でないという選手もこなせるよう簡潔に確実にボールを出し、両側の大外に能力の高い選手を置く」(藤井)。 これなら万能型の数が限られても機能する。 そしてサニックス在籍の最大の冥利は、宗像の土地の人情に抱かれて「日本が本当に好きになった」事実だ。 この夏も家族連れで藤井家に「1週間泊まった」。 ジョセフその人がラーメンを軸に外食ローテーションを緻密にこしらえる。 「帰りの荷物は刺身包丁にポン酢に醤油」。 地元漁師に釣り道具探しを頼む一幕も過去にあった。 藤井監督に聞く。 ジョセフ、ジャパンを強くしますか? 「します」。 よく研がれた包丁の口調だった。 合言葉は「ゼッタイ、カツ」。 最後に紫のあざを書きたい。 ジェイミー・ジョセフは、'99年5月から同年10月のW杯ウェールズ大会まで、故・平尾誠二監督の率いたジャパンに選ばれている。 あのころは居住3年の条件を満たせば複数国の代表になれた。 元リコーのロック、日本体育大学ラグビー部の田沼広之監督は、計8試合、ともに桜のジャージィをまとい出場している。 「ゼッタイ、カツ。 これが僕とジェイミーの合言葉でした」 大物の合流。 好漢、田沼は、敬して遠ざけず身上の明朗さで懐に飛び込む。 以来、現在に至るまでの友となる。 「年に2、3度は電話をするので、日本語と英語を混ぜながら話すんですけど、離れている感じはしませんでした。 知性があり砕けたところもある。 完璧な人柄ですね」 愛称タヌとジェイミーの思い出。 「僕、代表を落とされかけたことがあったんです。 タックルができずに。 そこで特訓を命じられまして。 それがジェイミーへの連日の1対1のタックル。 30分から1時間近く、まっすぐ本気でぶつかってくる。 僕は骨っぽい体なんで、ジェイミーの膝のあたりが紫色のあざだらけなんですよ。 それでも、タヌがいいと思うまでやろうよと、また、すごい形相で向かってくる」 後年、本人にたずねた。 なぜ、あんなにまで手を抜かずに? 「タヌにタックルができるようになってほしかったから。 それだけ」 弟分の訃報「まだ信じない」。 タヌとジェイミーに弟分がいた。 渡辺泰憲。 複数ポジションをこなす大型FW、代表の遠征休日によく行動をともにした。 現役引退後の2010年4月3日、何が起きたのだろう、鎌倉駅の鉄路に忽然と命は消えた。 享年35。 ジェイミーは噂を聞いてタヌに連絡をよこした。 「残念だがそうだ」 受話器の向こうに嗚咽が広がる。 「まだ信じない」 そう言って、また泣いた。 (Number916号『[特別読物 宗像純情物語]愛のひと、ジェイミー・ジョセフ。 』より).

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