神 の 使者 その 名 ヨハネ。 洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネ

神 の 使者 その 名 ヨハネ

個人のを訴え、でらに()を授けた。 『新約聖書』の「」によれば、父は祭司、母は。 バプテスマのヨハネ、 洗者ヨハネとも表記・呼称される。 ではキリストの道を備えるものという意味の 前駆( Forerunner)の称をもってしばしば呼び、での呼称は 前駆授洗イオアン(ぜんくじゅせんイオアン)。 イエスの弟子であるとは同名の別人である。 生涯 [ ] 出生と洗礼活動 [ ] 『』1章36節では、ヨハネの母エリサベトとは親戚だったという。 同福音書においては、天使によってその誕生を予言されている。 『』3章によれば、ヨハネは「の皮衣を着、腰に革の帯をしめ、とを食べ物とする人物」と記述されている。 河畔の荒野で、が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫り、罪のゆるしに至るを授けていた。 は当時すでに、改宗者をの一員として受け入れる儀式の一部として行われ、異邦人の汚れからの清めを象徴するものとされていた。 しかし、ヨハネはに新たな意味と緊急性を付与した。 ヨハネは、でさえも罪の汚れによって神の民と呼ばれる権利を失ってしまっている考え、洗礼は悔い改めた者に対する神の赦しの確証と、新しいの一員として受け入れられた確証とを意味する預言的しるしとしたのである。 西暦ころ、も彼のを受けた。 彼はこの後、ヨハネによって創始された荒野での洗礼活動()に入っている。 なお、ヨハネが求めた「悔い改め」とは道徳的な改心ではなく、むしろ従来の当時のにおける人間の生活上の価値基準を180度転換すること、すなわち文字通りの「」であった。 ヨハネは、など当時のの主流派が、過去においてを守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを、穢らわしいものとして差別し、蔑む心のありようをと考えた。 『』3章5〜6節では、ヨハネの登場にあたり、40章4〜5節が引用され「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くなる。 曲がった道はまっすぐに、でこぼの道は平らになり」と二重の並行句によって、イエスの先駆者としてその道を整えるヨハネの使命が示され、社会的不均衡の是正が示唆されている。 これに続く「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という引用句は、ルカの普遍的救済思想を示している。 なお、『』1章35節では、他の福音書でもイエスの最初の弟子としているとは、元は洗礼者ヨハネの弟子であったとしている。 死 [ ] さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。 ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。 それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、他の人々は「彼はだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻をめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。 ところが、よい機会がきた。 ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このがはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。 そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。 あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。 するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。 そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。 衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。 — ヨハネの弟子たちは、その後も世界において集団で宣教活動をおこなっていたことが『』から伺われる。 キリスト教における位置づけ [ ] において、伝統的にヨハネはイエスの先駆者として位置づけられている。 このためでは前駆授洗者(ぜんくじゅせんしゃ、Forerunner)の称号をもって呼ぶ。 キリストの先駆者として特別の尊崇を受け、カトリック・正教会・聖公会などでとされている。 伝統的に、誕生・斬首・首の発見、のそれぞれが祭日とされる。 洗礼名としても好まれ、他のヨハネと区別するため、ジャン=バティスト(フランス語)ととくに呼ぶこともある。 また「洗礼者」のみを名前として用いることもある(イタリア語、バッティスタなど)。 キリスト教における崇敬 [ ] キリスト教内のヨハネ理解 [ ] ヨハネの旗 福音書筆者はイエスの言葉として、洗礼者ヨハネは預言者のうち最大のものであるが、天国の最も小さいものでも彼よりは大きいとしている。 キリスト教におけるヨハネの位置は、旧約時代の最大の預言者であり、イエスの到来を告げる役割をもっていたとする。 そのような解釈の根拠となったのはやにある「主の道を備える者」についての預言である(イザ40:3、マラ3:1)。 この理解は比較的早くキリスト教内に成立したとみられ、共観福音書すべてが旧約のこの箇所に言及している。 またマラキ書には、この預言者をと呼んでおり(マラ3:23)、福音書ではヨハネをエリヤの再来と捉える見方が提出されている。 エリヤはユダヤ教において、モーゼに匹敵する預言者とみなされており、またその不死が信仰されていたのである。 また、キリストの洗礼をもって三位一体の顕現とみなす立場からも、ヨハネはキリストの本性を示す役割を担ったとされた。 このような「イエスに導くもの」としての理解から、後に、ディーシス(執り成し)において、マリアと洗礼者ヨハネを並置して描く図像表現が生まれている。 また時代が下がった伝承では、新約外典のルカ福音書外典等に、荒野の幼子洗礼者ヨハネがエジプト逃避行にある聖家族と出合ったとする伝承も生まれた。 これはルネサンス以降特に西方で好んで描かれる題材となった。 それが浸礼者ヨハネである。 ヨハネは、ローマ皇帝ティベリウスの在位十五年に、ヨルダン川流域で活動を開始した。 彼はラクダの毛衣を身に着け、腰には革の帯を締め、と野蜜を食べていた。 その姿は、かつてイスラエルに現れた大いなる預言者エリヤの姿を彷彿とさせるものであった。 『旧約聖書』には、次のような予言がある。 「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」この使者こそ、洗礼者ヨハネであった。 彼の活動の中心は「洗礼」であった。 彼は終末の接近を説き、神に心を向ける(回心する)よう人々に求め、その回心を認証するものとして洗礼を施していた。 こうして洗礼を受けることが、最後の審判の際に救われる唯一の手段だというのである。 この活動は「罪の許しに至る回心の洗礼」と称され、民衆の絶大の人気を得た。 その活動を聞き及んだナザレのイエスも、ヨハネのもとに赴いて彼から洗礼を受けた。 ヨハネの描き方には、いくつかの伝統的な主題がある。 キリストの洗礼 ヨルダン川でイエスに洗礼を施すヨハネを描く。 これは浸礼であったと推測されるが、が主流となったでは、しばしば川に立つイエスにヨハネが滴礼を施す場面が描かれる。 荒野のヨハネ 成人したヨハネは荒野で生活し、悔い改めを呼びかけた。 これは荒野での修道生活の模範のひとつとされたため、好んで描かれる。 切り落とされた首を添えて描かれることもある。 ディーシス(とりなし):聖母マリアとともに描かれる。 キリストの両側に配されることが多い。 古いモティーフであり、東西教会の両方にみられるが、特に東方教会のイコノスタシスにしばしば配置される。 神の子羊(アニュス・デイ):キリストを指し示すヨハネ。 ヨハネ福音書1章の記事に基づく。 「見よ、神の子羊」と書いた文字が添えられることが多い。 西方教会に多い作例である。 処刑されたヨハネ:処刑されたヨハネの首が皿に載せられている図。 東西両方にみられるが、この場面のみを単独で描くのは、西方教会に多い作例である。 聖母子と少年ヨハネ:ルネサンス以降、西方教会で描かれるようになった主題。 「神の子羊」と組み合わされることも多い。 ヨハネとともに描かれることの多い象徴()には以下のものがある。 「らくだの毛の皮衣」(ヨハネの衣装として)• 「悔い改め」を象徴する「斧を添えた切り株」• 「見よ、神の子羊」(Ecce, Agnus Dei の文字、多く十字架に結んだリボンの上に描かれる• 「杖状の細長い十字架」(しばしば) 祭日 [ ] 洗礼者ヨハネに関しては以下のような祭日が伝統的に設定されている。 ただし今日では聖人崇敬を行う教会においても、必ずしもすべてが祝われているわけではない。 懐胎(・使用教会で)(使用教会で)• 誕生(・使用教会で)(ユリウス暦使用教会で)• 斬首(・使用教会で)(ユリウス暦使用教会で)• 聖首の発見• 第1回と第2回(・使用教会で)(ユリウス暦使用教会で)• 第3回(・使用教会で)(ユリウス暦使用教会で) またこれに加え、正教会ではの翌日()をヨハネのシュナクシス(前駆授洗イオアン会衆祭)としている(冬の前駆受洗イオアン祭とも)。 なお6月24日はカトリックなどにおける彼のとなっている。 キリスト教以外でのヨハネ観 [ ] の『』には洗礼者ヨハネへの言及がある。 はヨハネをイエス同様、預言者として認めている。 イスラム教における名は ヤフヤー。 イエスとモーセを預言者として認めないにおいては、ヨハネは最後のもっとも偉大な預言者とされる。 脚注 [ ] []• Caird, George Bradford, 1917-1984. , Fujisaki, Osamu, 1951-1998. , 藤崎, 修, 1951-1998.. 教文館. 2001. 荒井(1988)p. 110-111「イエス・キリスト」• Kiyoshi. , Mineshige,; 嶺重淑. 2018. ルーヴル美術館では『』とともに『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』とも呼ばれることがある。 『農民の聖母』と呼ばれていたこともある(、『はじめてのルーヴル』、 、2013年、p. 193)。 参考文献 [ ]• 「イエス・キリスト」『世界大百科事典 第2(アラネ——イワ)』、1988年。 関連項目 [ ]• - 洗礼者ヨハネをとする• - 洗礼者ヨハネをとする• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 in the 1911•

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ヨハネの黙示録15・1~8

神 の 使者 その 名 ヨハネ

2020年06月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生 祭日 2020年6月24日 水 6月24日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。 主イエス以外で、その誕生を祭日として祝う聖人は、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネだけではないかと思います。 それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。 ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。 ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。 マタイの福音で11章11節に、不思議な言葉がみられます。 「はっきり言っておく。 およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。 しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。 」 この言葉は、何を言っているのだろうか。 前半は、大変、ヨハネを評価する言葉である。 ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはない、とイエスは言われた。 しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。 天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。 ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。 洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと野蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。 イエスの方は神の国の福音を説きました。 イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。 イエスは貧しい人々と親しく交わりの時を持ち、また、罪人として蔑まれていた人々、ゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。 「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。 徴税人や罪人の仲間だ」 ルカ7・33 と悪口を言われています。 洗礼者ヨハネは、ヘロデによって斬首の刑を受けましたが、イエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。 二人とも処刑されたわけですが、ヨハネを引き継いだイエスの死の後、教会が生まれました。 イエスの死後、生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。 洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、 イエスは愛の掟とともに 罪の赦しの福音を伝えたと思います。 キリストの聖体 の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血 となったのであります。 第一朗読:イザヤ書 イザヤ49・1-6 島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。 主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠してわたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。 わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。 主の御目にわたしは重んじられている。 わたしの神こそ、わたしの力。 今や、主は言われる。 ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。 わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。 だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。 第二朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録13・22-26 (その日、パウロは言った。 「神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。 『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。 彼はわたしの思うところをすべて行う。 』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。 『わたしを何者だと思っているのか。 わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。 その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。 』 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ(たのです。 )」 福音朗読:ルカによる福音書 ルカ1・57-66、80 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 近所の人々は皆恐れを感じた。 そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。 この子には主の力が及んでいたのである。 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

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イエスの福音への招き「洗礼者聖ヨハネの誕生とイエス」

神 の 使者 その 名 ヨハネ

ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年) にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区のに移って学んだ。 にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭にされた。 後にはベッルーノ教区神学校の教授になり、その後にによってのに任命された。 司教に任命された後もサン・マルティーノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。 なお、この司教時代におこなわれたには、全会期を通じて参加した。 総大司教 [ ] にのに任命され、同地域の貧困層やの救済、さらにへの支援に尽力した。 なお、「聖職者にならなければになっていた」とよく周辺に話しており、実際にこの頃からやへの投稿を数多く行うなど、積極的に言論活動を行っていた。 そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万の寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。 ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。 これに対してルチャーニ総大司教はバチカンに抗議をしたものの、マルチンクス大司教がから直々にバチカン銀行総裁に任命されていたことから、パウロ6世へ累が及ばないように巧みに抗議を行ったことなどがパウロ6世に感銘を与え、パウロ6世からの信頼を勝ち取った。 この事も影響し翌年のにはに選ばれた。 教皇 [ ] 「ヨハネ・パウロ1世」 [ ] 教皇就任後にバチカンのバルコニーから演説するヨハネ・パウロ1世(1978年) 1978年にパウロ6世の死去を受けて行われたにおいて、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿や出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でアルビーノ・ルチャーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。 教皇名は「ヨハネ・パウロ」となり、複合名を初めて採用した教皇となった(これはとパウロ6世前教皇の改革路線を継承するという意志の表れとも言われる)。 また通常初めての名前には2世が表れるまで「1世」と付けないのが通例であったが、就任当初から「ヨハネ・パウロ1世」を自ら名乗っている。 これには「ヨハネとパウロという法王名を組み合わせた初めての例だから」「(バチカンの)刷新の思いを込めた」などの説がある。 改革 [ ] ヨハネ・パウロ1世は様々な意味で型破りな教皇であった。 複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、例えば、教皇演説の中で、これまでの教皇が伝統的に自らを「」と呼んでいたのを初めて「私」に変えた他、豪華な教皇やも拒否した。 教皇用のの使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるを得なかった。 さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、やなどを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めたが、「威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。 また、や諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、で行われていた「」を進めていた(上記の「ロッジP2」は同大統領を支援していた」)が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。 避妊の解放 [ ] ヨハネ・パウロ1世は、避妊についての禁令を解くつもりでもあった。 9月23日日曜日、ローマ司教の職権によりサン・ピエトロ大聖堂を受け継いだヨハネ・パウロ1世は、の市長と握手を交わし、ミサの後、教会の真の宝である貧しい人々のためには尽力するが、悪人に対しては教皇の教権を憚ることなく行使すると宣言した。 アメリカの幾つかの教会とは既に接触を持っていた。 教皇に選出される直前、アメリカ議会代表団を歓迎し、避妊について女性の排卵期について語った後「どうして妊娠しない期間を、24日から28日にすると罪になるのか、私には理解できません」と述べた。 そして、パウロ6世による旧来の産児制限反対を再確認する回勅『 人間の生命について〔フマナエ・ウィタエ〕』は誤りだったと口にしていた。 「神からの贈り物である子供が出来ないようにする行為は罪である」とするそれまでの主流派に反して、「本当に子供を望んでいる女性のみが妊娠すべきである」との 避妊擁護の考えを持っていた。 バチカン銀行の改革 [ ] リーチオ・ジェッリ(中央)とジュリオ・アンドレオッティ首相(左) 就任後間もなくバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明し、実際に、かつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」の代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、偽造公債の発注がの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。 急逝 [ ] 教皇在位33日 [ ] 上記のような改革を表明したことが、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采(そして対象者とその利害関係者からの抵抗と非難)を受けたにも関わらず、ヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目のの午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。 わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから最短の在位記録となった。 「証拠隠滅」 [ ] 通常通りの起床時間になっても起きて来ないことを不審に思ったによって発見された直後に、個人秘書であるマギー神父に連絡が行き、さらに午前5時にはヴィヨ国務長官に連絡が行ったものの、ヴィヨ国務長官はすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後にようやく医師団次席であるレナート・ブゾネッティ医師に連絡を行った。 その後午前6時過ぎに駆けつけたブゾネッティ医師による検死が行われたものの、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、ブゾネッティ医師は「死亡推定時刻は27日の午後11時ころで、死因は急性である」と断定し、午前7時27分にによる逝去の発表がされた際にはこの検死内容がそのまま発表された。 なおこの際には、なぜか(聖職者の私室に修道女ではあっても女性が入ってはいけないという理由で)遺体の発見者が個人秘書のマギー神父であると偽って発表され、さらに遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表された。 さらに死去後に、ヨハネ・パウロ1世の遺体発見時にベッド周辺に置かれていた眼鏡とスリッパ、就寝前に手元にあったヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教などのバチカン銀行関係者の更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、通常は常時用意されている遺言状が、前日ヨハネ・パウロ1世より更迭が言い渡されたヴィヨ国務長官により持ち去られており、その後行方不明になった。 またヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われたことが、信者やイタリア政界関係者、だけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。 イタリアの有力紙である「」は、遺体解剖がすぐに行われなかったことをの紙面で大々的に批判した(なお、遺体解剖は防腐処理の終了後に秘密裏に行われた)。 「謀殺説」 [ ] ヨハネ・パウロ1世の棺 この様に、死後間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにも関わらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、ヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説が囁かれることになった。 このほかにもこれらの人物と近い関係にあったマフィアによる暗殺説もあり、マフィアとバチカン、イタリア政界の関係を扱った公開の「」のプロットは、この教皇の謀殺説をもとにしている。 また、2006年に発表され世界的ベストセラーとなったポルトガル人作家によるミステリ小説「」(新潮社刊・原題 O Ultimo Papa )は、この教皇謀殺と秘密結社「ロッジP2」との関連をテーマにしたものである。 葬儀 [ ] 葬儀ミサは同年に執り行われた。 「微笑みの教皇」といわれ、飾らない態度と柔和と謙遜、率直な姿勢が人々の信頼と期待を生み、さらにバチカン銀行の改革を表明していたこともあり、多くの信者からその死去を悲しむ声が聞かれた。 「英雄的な徳」を認定 [ ] 11月9日、バチカンはがヨハネ・パウロ1世の「英雄的な徳」を認定したと発表した。 ヨハネ・パウロ2世 [ ] 1978年10月に行われたで、次の教皇に選ばれたカロル・ヴォイティワは、「ヨハネ・パウロ1世の姿勢を継承する」という意味をこめて「」を名乗ることになる。 しかし、出身のヨハネ・パウロ2世はバチカンの事情に疎く、下において諸国に組み込まれた故郷のポーランドの民主化をはじめとする反活動に力を注ぎ、教義の面では保守的であったため、ヨハネ・パウロ1世が推し進めようとしたバチカン内の様々な改革は後退する結果となったとする見方もある。 その後のバチカン銀行 [ ] ヨハネ・パウロ1世の死去により改革が行われないままとなったバチカン銀行は、その後も主要取引銀行を介して度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されている。 2代後の時代には、11月と9月の2度に渡り、バチカン銀行とエットレ・ゴッティ・テデスキ総裁が主要取引行の1つのクレーディト・アルティジャーノ銀行を介したマネーロンダリングを行ったとの報告を受けたイタリアの司法当局が捜査を行い、捜査の過程で2300万ユーロの資産が押収されている。 出典 [ ]• 2013年3月24日. 2013年3月24日時点のよりアーカイブ。 2017年11月20日閲覧。 『キリスト教と聖書の陰謀』〔原題: THE FIRST CHRISTIANS〕• 『カトリック新聞』2017年11月19日付。 MSN産経ニュース 2010年9月22日. 2010年9月25日時点のよりアーカイブ。 2011年1月10日閲覧。 参考文献 [ ]• Yallop, David. 1984. In God's Name. デイヴィッド・ヤロップ『法王暗殺』訳、、1985年。 "THE FIRST CHRISTIANS" , Maurice Chatelain モーリス・シャトラン『キリスト教と聖書の陰謀』訳、、1994年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• -67? -78? -91?

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