森永 ヒ素 ミルク。 森永ヒ素ミルク事件

森永ヒ素ミルク事件

森永 ヒ素 ミルク

被害児 は、1953年頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、(Na 2HPO 4)をに添加していた。 試験段階では純度の高い試薬1級の製品を使用していたものの、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていた。 に徳島工場()が製造した缶入り(代用乳)「森永ドライミルク」(製造所コード「MF」の刻印がある缶)の製造過程で用いられた「第二燐酸ソーダ」に多量のヒ素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児がになり、130名以上の中毒による死亡者も出た。 この時に使用された「第二燐酸ソーダ」と称する物質は、第二燐酸ソーダとは似て非なる物であり、元々はがからを製造する過程で輸送管に付着した副産物(廃棄物)で、低純度の(Na 3PO 4)であり、これに多量のヒ素が混入していた。 この副産物が複数の企業を経た後に、松野製薬(「製薬」の商号があるが医薬品ではなく工業用薬品のメーカーだったことが明らかになっている )に渡り脱色精製され「第二燐酸ソーダ」として販売され、森永乳業へ納入された。 事件発覚 [ ] 当初は奇病扱いされたものの、医学部第1病理学講座の妹尾左知丸(せのお さちまる)が森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。 1955年8月24日に、を通じて当時の(現)に報告され、事件として発覚した。 被害児の母親達 1956年の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は12,344人で、うち死亡者は130名であった。 しかし、森永乳業の粉ミルクが原因と認められた患者についても『』が確立されていない時期でもあり、満足のいく患者の救済措置がとられなかった。 当時は日本の産業育成政策やが最優先される時代であり、も森永乳業側に立って収束を図った。 森永ミルク中毒の子どもを守る会の運動にも弱点があり、被害者の運動は抑え込まれてしまった。 こうしてヒ素ミルク事件は終わったかのように見えた。 後遺症の発覚 [ ] しかし、その14年後、医学部教授・が指導した人たちによって、被害者に後遺症が残っている可能性があぶりだされた。 その報告がで発表され、事件は再燃した。 被害者側の親たちは「救世主が現れた」と最大級の感謝を表明した。 被害者の親たちは再結集し、森永ミルク中毒の子どもを守る会は活動を再開した。 その闘いの中でとは大きな力を発揮していった。 1審では森永乳業側が全員無罪とされたものの、検察側が上訴した。 刑事裁判はまで続き、判決はの予見可能性判断において(新々過失論)を採用して、徳島工場元製造課長1人が実刑判決を受けた。 ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。 1審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念したが、その後の差し戻し判決により、被害者側は民事裁判を有利に進める形になっていった。 その後に後遺症問題が明らかとなったのだが、その際も森永乳業側は長らく因果関係と責任を否定し続けた。 森永乳業が因果関係を認めた [ ] 森永乳業側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過したの民事裁判中のことであった。 その際、森永乳業側は「第二燐酸ソーダ」の納入業者を信用していたので、自分達に注意義務は無いと主張していた(工業用第二燐酸ソーダの納入業者は「まさか 食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかった」と裁判所でした)。 しかし、後にが、第二燐酸ソーダ(製造)をのボイラー 洗浄剤として使っていたが、使用前の品質検査でヒ素を検出し、返品していた(は、蒸気機関車のボイラーの状態保持には細心の注意を払っていた)事実が明らかとなった。 森永不買運動 [ ] 「 食品としての品質検査は必要ない」と主張した、森永乳業の企業態度は消費者から厳しく指弾され、には、森永製品のが発生した。 当時、森永乳業は乳製品の売り上げでは・を凌ぐ企業であったが、となったこともあり、森永乳業のイメージダウンは拭いきれず、市場占有率を大きく落とした。 特に岡山県では事件以降、森永製品への不信感が消費者に根強く残ったことから、売り上げの見込めない森永製品を一切扱わない商店も数多く存在した。 このような動きは西日本一帯で、事件が一応の決着を見たまで続いた。 こうした不売買運動は、当初は森永告発など支援者らの自主的な運動として行われていたが、森永乳業の不誠実な対応に対抗するために、守る会全国本部方針として決定し、日本国民に呼びかけてから大きく拡がり、日本の不売買運動において史上最大のものとなった。 その後、森永乳業が責任を認め、被害者救済に全面的に協力をすることを表明して以降、守る会は『不買運動の取りやめ』を決定した。 被害者の苦しみ [ ] 被害者の中には、現在も・・・異常・等の重複障害に苦しむ者もいる(2014年現在、約730名が障害症状を有している)。 また、若い頃に就職差別や結婚差別を受けたり、親亡き後に施設に入所している被害者もいる。 ミルクを飲ませた自責の念で、長く精神的に苦しんだ被害者の親も多い。 最終的に、被害者・厚生省・森永乳業の話し合いにより、1973年12月23日に確認書が結ばれ、1974年4月25日に被害者の恒久的な救済を図るため財団法人が設立され、事業を続けている。 事件のその後 [ ] 1973年12月に、森永ミルク中毒の子どもを守る会(現「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」。 全員が成人したため「子ども」から「被害者」に差し替え)、国、森永乳業の三者により、「確認書」が締結され、被害者を恒久救済することで合意し、森永乳業は救済資金を拠出することを約束した。 この合意に基づいて「ひかり協会」(現、公益財団法人ひかり協会)が1974年4月に設立され、その後安定的に救済事業は進められている。 三者およびひかり協会はその後も定期的に「三者会談」を開催し、被害者の救済にとって必要な協議を実施している。 またこの救済事業に賛同する400名近くの専門家により支えられている。 地域救済対策委員会は19の地域で被害者の相談に乗ったり、必要な援助対応についてひかり協会職員に対し助言を行ったりしている。 これだけ多くの専門家による協力を得ている公害被害者救済事業は、日本では他に見られない。 また、被害者自身が救済事業協力員として、被害者の健康づくりの呼びかけ等を行っているのも大きな特徴である。 現在600名を超える救済事業協力員が活躍している。 この三者会談方式による救済事業は、公害被害者救済方式として注目されているが、現段階ではこの事件以外で同様の方式をとっているところはない。 ひかり協会は、その公益性が認められ、2011年に公益財団法人に認定された。 (公益財団法人ひかり協会ホームページ参照) 被害者組織である守る会と、加害者である森永の関係は、1973年12月に責任を全面的に認めてからは、被害者救済において協力する関係に変化した。 被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だったである。 彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。 その後民事訴訟の弁護団長として活躍し、ひかり協会設立後は理事や評議員を務め、亡くなる直前まで被害者の運動を応援した。 一方、「森永砒素ミルク闘争二十年史」は不売買運動を開始させ、収束させたのは1955年当時の被災者同盟の指導者であり 、和解交渉にあたっては、追い詰められた森永のほうがを通じて、被害者との面会を切望したものである。 「森永ミルク中毒の子どもを守る会」は機関紙で次のような主張を掲載し、森永乳業への警戒を呼びかけていた。 事実、森永は15年前にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。 曰く「森永の処置に十分満足している」「森永に感謝している人が沢山いる」「騒いでいるのは一部の人たちだけである」と。 — 「ひかり」第11号、1970年4月20日付け これが1973年の確認書締結以前の状態であった。 1973年確認書締結後は、「森永は責任を果たしている」というのが「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」の評価である。 一部には「森永事件はまだ終わっていない」として恒久的な社会的監視が必要だとの意見もあった。 事件の震源地となった徳島工場は粉ミルクの製造を中止した上で操業を続けていたが、2011年1月、同年9月の閉鎖が決定され 、9月30日に閉鎖された。 「守る会」に対して、 救済のあり方を問題視した被害者家族が「守る会」内で発言機会を奪われるという言論制限事件があったという報道がなされた。 また、重症被害者の親によって「守る会」「ひかり協会」を相手取って人権救済の訴えが提起されている が、結果は申し立て棄却。 さらにひかり協会や国、守る会、森永に対し損害賠償を提訴したが、ひかり協会らに非はないと棄却された。 さらに、2月、機関紙「ひかり」で行った批判キャンペーンに対して、事実無根の羅列であるとして、名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起し(「平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件」)、は、その主張を一部認めた。 この事件の反省から、森永乳業は毎年、新入社員に対してこの事件を引き合いに出した食の安全に対する徹底的な社員教育を実施している。 森永乳業社員の仕事はこの事件を振り返る食の安全教育から始まる。 その教育体制は凄まじく、ノイローゼになって早期退職者を出すことも少なくない。 裁判関係書類の遺失 [ ] 2013年2月20日、厚生労働省職員が帰宅途中に、事件に関連する裁判資料を地下鉄車内で遺失した。 原告等3名と被告関係者10名の氏名・住所等の他、被害者13,432名のうち1979年に森永ひ素ミルク飲用者証明書を交付された455名について、当時の氏名と居住市町村が記載されたリストが含まれていた。 同省は当該職員と上司に対して文書による厳重注意等を行い、被害者らに謝罪した。 他の事件への波及 [ ] グリコ・森永事件 のでは、(編集部)への挑戦状で、森永乳業と関係が深いをターゲットにした理由が「森永 まえに で の こわさ よお わかっとるや ないか」と記載されており、ヒ素ミルク事件が遠因になったことを示唆している。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 「大阪の府庁を通じてこの松野製薬なるものを調べたわけでございます。 そうしましたら、その返事といたしまして、これは医薬品の製造会社ではない。 工業薬品のメーカーであるという返事が参ったわけでございます。 」 — 昭和45年8月11日、参議院社会労働委員会での質問に厚生省の加藤成二が答弁 出典 [ ]• 2011年1月26日. 2011年1月26日閲覧。 朝日新聞2011年10月01日朝刊 工場は閉じる。 教訓は残す 乳児130人死亡、森永ヒ素ミルク事件• 2003. 25付山陽新聞報道• 2003年6月24日の岡山県における人権救済申し立て事件(岡弁庶第33-1号)及び、2003年7月8日の広島県における人権救済申し立て事件(広弁第57号) 2003年6月25日付読売新聞岡山版報道• 第24回自治体に働く保健婦のつどい実行委員会編『私憤から公憤への軌跡に学ぶ 森永ひ素ミルク中毒事件に見る公衆衛生の原点』せせらぎ出版、1993年1月、• 滝川恵清、1972、『十七年目の訪問 森永ヒ素ミルク中毒の子どもたち 滝川恵清写真集』、柏樹社• 田中昌人、北条博厚、山下節義編『森永ヒ素ミルク中毒事件 京都からの報告』ミネルヴァ書房、1973年• 『ひかり協会10年の歩み : 恒久救済の道を求めて』ひかり協会編、ひかり協会、1985年3月。 (非売品)• 協会前史年表・協会史年表: p291 - 324• 森永ミルク中毒事後調査の会編『14年目の訪問 森永ひ素ミルク中毒追跡調査の記録』(復刻版)、せせらぎ出版、1988年6月、• 森永砒素ミルク闘争二十年史編集委員会編『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社、1977年2月• 森永砒素ミルク中毒事件関係資料・森永砒素ミルク闘争二十年史年表: p. 343 - 380• 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会編『守る会運動の歴史から「三者会談方式」を学ぶ 守る会運動の歴史学習版』森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会、1991年6月、(非売品)• 事件史年表: p123 - 164• 森永ヒ素ミルク中毒「被害者」の会編『太陽の会の歩み17年 事業と運動の発展をめざして 解散記念文集』太陽の会、1988年10月、(非売品)• 吉田一法著『エンゼルの青春 森永ヒ素ミルク中毒事件被災児の記録 吉田一法写真集』草土文化、 関連項目 [ ]• - -• - -• (1955年)• (2000年)• 『はせがわくんきらいや』(すばる書房、1976年) 外部リンク [ ]• (本項が森永に都合よく改竄されていると批判・記録している)• - 閉鎖(2013年10月30日時点のアーカイブ)• 2016年3月31日閲覧。 (山陽新聞).

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森永ドライ砒素ミルク。|とむらい師たち

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公益財団法人ひかり協会とは ひかり協会設立の経過と事業の特徴 1955年(昭和30年)に起こった森永ミルク中毒事件は、森永ドライミルクにひ素等の有害物質が混入し、1万数千名の被害児をつくった、過去に類例のない痛ましい事件でした。 子供を救い守るため親たちは、長く苦しい運動の結果、国(厚生労働省(事件当時は厚生省))、「守る会」、森永乳業の三者による話し合いがすすめられ、1973年 昭和48年 に「三者会談確認書」が、三者の間で成立しました。 ひかり協会は、1974年(昭和49年)4月に、三者会談における合意を基盤に、全被害者の恒久的救済を図るため、設立されました。 ひかり協会の目的と事業 ひかり協会は、1974年(昭和49年)に、厚生省(現、厚生労働省)の認可を受けて設立された公益法人で、森永ひ素ミルク中毒事件被害者のための救済事業を行っています。 その目的は、被害者の救済のための事業及び調査・研究その他の事業を行うとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上に資することとし、被害者の継続的な健康管理や生活の保障・援助、自立生活の促進など、総合的な相談事業を行っています。 ひかり協会の組織と運営 ひかり協会は、厚生省(現、厚生労働省)、森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会(「守る会」)、森永乳業の三者会談確認書に基づいて財団法人として設立され、その後、2006年6月に公布された公益法人制度改革関連法に基づき認定された公益財団法人です。 その運営は定款にもとづき行われ、毎年度の事業に要する資金は「三者会談確認書」により全て森永乳業が負担しています。 当時の被害児は12,131名、その内死亡者130名という、世界でも例のない大規模な乳児の集団中毒事件でした。 親たちが結集して森永乳業に原状回復と補償を求めたのに対し、厚生省は「五人委員会」を設置し事件の解決をはかりました。 その結果、ほとんどが全快の判定を受け、事件は医学的にも社会的にも一応落着したかのようにみられ、1974年(昭和49年)にひかり協会が設立されるまで、被害児たちは放置されてしまったのです。 被害者の実態 被害者数は、13,451名(2019年3月末現在)です。 森永ひ素ミルク被害者集団の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いこと、ひ素中毒特有の皮膚変化である点状白斑とひ素角化症が検診受診者の2~7%に存在すること、いろいろの身体的愁訴をもつ被害者が多いことです。 障害のある被害者には、知的発達障害が最も多く、肢体障害、精神障害、てんかんの順になり、重複障害が多いことも特徴です。

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森永ヒ素ミルク事件50年 消えぬ心身の後遺症 被害者の5割 単身生活困難 保護者高齢化、将来に不安|岡山の医療健康ガイド MEDICA

森永 ヒ素 ミルク

森永ヒ素ミルク中毒事件が題材 森永ヒ素ミルク中毒事件とは、1955年に起こった乳児用の粉ミルクによる中毒事件のことです。 製造過程で使われていた安定剤のひとつにヒ素が混入していおり、それを粉ミルクに入れて出荷してしまったことで、およそ1万2000人余りの乳幼児たちが中毒症状(130人が死亡)を起こしてしまいました。 これにより、発熱や下痢など同様の症状を訴える乳児が西日本で増え、不審に思った岡山大学が原因を突き止め、厚労省に報告したことで事件が発覚したのです。 その後、すぐに国が主導となり患者の追跡調査が行われました。 当然のことながら親たちは製造元の森永乳業に対し「治療費の全額負担と後遺症に対する補償」を求めました。 しかし、国は被害者7000人弱の検診はしたものの、1年後にはほぼ全員の治癒を宣言してしまい、補償を求める親たちの不安を押さえ込む形で一旦幕引きされてしまったのです。 とはいえ、体の弱い乳児がヒ素を飲んだのに簡単に治癒するはずがありません。 成長段階でさまざまな症状が出てきます。 そして1968年、大阪の養護教諭が自分の学校に森永ヒ素ミルク中毒事件により肢体不自由になったと主張する子どもがいたことが気になり、当時知り合った大阪大学の丸山博教授(衛生学教室)に相談したことがきっかけで、あらためて被害者の訪問調査が実行されることになりました。 その結果は翌年1969年の日本公衆衛生学会において、67人の訪問調査のうち50人に異常、つまり後遺症があることが明らかにされました。 この発表は「14年目の訪問」と呼ばれ、強引に治癒したと決め付けられ、何の補償もしてもらえなかった被害者を救済する大きな役目を果たしました。 調査にたずさわった人たちのリアルな話 本書「恒久救済」では、その経緯や実際に訪問調査にたずさわった養護教諭や保健師たちの姿、事件発覚当時から地道な活動を続けてきた「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」のこと、発表を受けいち早く被害者救済に動いた京都府と京都市の動き、さらに事件後に被害者の恒久救済にたずさわっている「ひかり協会」のことなど、多方面から公害と被害者救済について触れています。 公害救済のモデル「恒久救済」 発行元:せせらぎ出版 いずれも当時の活動に尽力した人たちへのインタビューを行い、リアルな話がいくつも紹介されています。 中でも興味深かったのは、当時の保健師(保健婦)たちが被害者の訪問調査に尽力したところです。 それは単に頑張ったという話ではなく、公務員としての矛盾と、看護専門職としての使命感が複雑に絡み合っていたことが分かります。 つまり、 一旦国が治癒を宣言しているのに、なぜわざわざ訪問調査などするのか? おまえは公務員なのに、お上に逆らうつもりなのか? そんな圧力が上司や周囲からあったわけです。 もしかしたら調査を行うことで職を奪われるかもしれないという不安、目の前で苦しんでいる人がいるのを見過ごすことができない専門職としてのプライド。 両方が交じり合い、苦悩しての活動だったことがよく分かります。 保健師の仕事を考えるうえで役立ちます A5サイズで70ページ弱のボリュームです。 1時間もかからずに読み終わってしまうことでしょう。 しかし、本書に込められているメッセージは実際のページ数以上に熱く、保健師、そして保健師を目指す人にとって得るものが大きいと思います。 恒久救済という考えは、森永ヒ素ミルク中毒事件のことだけでなく、今現在日本にある他の問題にも大きな影響を与えるものです。 例えば、福島の原発問題。 放射線による被害は国もあやふやなまま「影響はない」といい続けているが、本当にそうなのか。 実際に福島県で子育てをしている親たちの気持ちを考えると、そこで保健師がどう活動していくべきなのかを考えるきっかけにもなることでしょう。 宇都宮で行われた2014年日本公衆衛生学会の自由集会においても、本書に大きく関わっている徳島大学の岩本里織教授が「保健師による生存権を護る活動について考えよう」において、この話題を取り上げていました。 なお、同様の恒久救済モデルは他にもあり、広島や長崎では県や市に原爆による被爆者を援護する部署があり、そこで活動している保健師たちがいます。 保健師とは母子や成人などを対象とした基本的な業務のほか、このような分野にも関連するのだということを、本書から理解していただければ幸いです。

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