桶狭間の戦い ニコニコ。 桶狭間の戦いが「奇襲」になった理由:動画も観ていないのに…

戦国BASARA3 前田慶次9 関ヶ原の戦い 乱入 [ニコニコあっぷる]

桶狭間の戦い ニコニコ

史実での今川義元 幼年期~花倉の乱 駿河・遠江守護で今川氏の9代当主・今川氏親の五男として、永正16年(1519年)に生を受ける。 誕生した時点で既に長兄・が嫡男と定められており、4歳にして仏門 後述の 義元のゆかりの寺『臨済寺』参照 に出されの下で学問を修する日々を送る。 その間に得度し一時期は「 栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名乗っていた事もあった。 天文5年(1536年)、家督を継いでいた氏輝、そして同母兄の彦五郎が相次いで急死すると、重臣達からの要請に応じて還俗し義元と改名、後継者に名乗りを上げる。 これに対し、今川家中の有力家臣であった福島氏は異母兄・を擁立し義元と対立、遂には武力衝突にまで発展した(花倉の乱)。 この内紛を家臣の支えや北条氏の支援もあって鎮めると、晴れて今川氏当主に就任した義元は忠義の家臣らを重用し、支配体制の確立に努めた。 版図拡大と盟約締結 家督相続から間もなく、それまで敵対関係だった甲斐の武田氏から、当主・の娘 を正室として迎え入れ同盟を結ぶ。 以降、信虎が息子のに追放された際にはその身柄を預かったり、高遠における武田氏の軍事行動においても援軍を派遣するなど、二代にわたってこの同盟関係は維持され続けた。 しかしこの動きはそれまでの盟友であった北条氏との敵対を招き、駿河東部を占領される結果となってしまう(第一次河東一乱)。 この状況を打破すべく、義元は北条氏と敵対関係にあった山内上杉氏と結んでこれに対抗。 北西からの挟撃によって北条氏を追い詰めると、の仲介の下結んだ和睦の条件として河東の地を取り戻し、実質的な勝利を収めている(第二次河東一乱)。 一方、西方では尾張のと三河を巡って対立し、一時は小豆坂の戦いで大敗を喫するなど劣勢に立たされたが、の帰順などもあって三河勢への支配を着実に進めていった。 この時広忠より人質に出された嫡男・はその幼年期を今川氏の本拠・駿府にて過ごし、義元は姪 を養女としてに嫁がせると共に、偏諱を与えて「元信(後に元康)」と名乗らせている。 天文17年(1548年)には信秀との再戦(第二次小豆坂の戦い)で雪辱を晴らし、さらに安祥城の攻略によって織田氏の勢力を三河から一掃している。 天文23年(1554年)、先に結んだ和睦の後も緊張状態にあった北条氏から、嫡男・の正室としての娘 を迎え入れる。 既に武田氏にはの嫡男・に義元の娘・嶺松院が、北条氏には氏康の嫡男・に信玄の娘・黄梅院がそれぞれ嫁いでおり、これによって三者間での盟約()が成立した。 その背景には、これまでのように東西に敵を抱える状況を憂慮した、義元の戦略的な考えがあったとされ、盟約成立によって後顧の憂いをなくした義元は三河経営の強化に努めると共に、尾張進出を狙って当主・信秀が没したばかりの織田氏に対し、更に攻勢を強めていく事となる。 こうした動きは永禄元年(1558年)、嫡男のに家督を譲り隠居の身になって以降、さらに本格的なものとなっていく。 桶狭間の戦い 永禄3年(1560年)5月、義元は自ら2万5000の大軍を率いて尾張への侵攻を開始する。 従来、この軍事行動は「義元が上洛を目指していて、その途上で邪魔な織田氏を蹴散らそうとした」というイメージで語られることが多いが、上洛を前提としているにしてはその途上の近江六角氏、越前朝倉氏などへの根回しが行われた形跡は見られず、そのような状況下でさらに織田氏を退けての上洛は困難との見方が強い。 一方、この当時はがようやく尾張国内を統一しつつあり、尾張と三河の国境地帯では鳴海城・大高城など今川方の諸城が織田方からの攻勢に曝されていた事から、純粋に尾張国内の今川方への支援などが目的であったとする見方が主流となっている。 ともあれ、先鋒を務めた松平元康らの働きにより、前哨戦では勝利を収めた今川軍であったが、義元率いる本隊が沓掛城から大高城への移動の途中、桶狭間で休息を取っていたところに信長率いる軍勢による奇襲を受ける。 義元も家臣達と共に奮戦するも、信長の家臣であるによって討ち取られ戦死。 時に永禄3年5月19日(1560年6月12日)、享年42。 遺体は生き残った兵たちが駿府まで連れ帰ろうとしたものの、腐敗の速さゆえに叶わず三河中部の宝飯郡に已む無く埋葬された。 一方で織田方に奪われた首級は、鳴海城番を務めていたが開城と引き換えに取り戻し、駿河へ戻った。 義元の死後、松平元康の自立を皮切りに三河での今川氏の勢力は徐々に失われ、さらにその影響で遠江にまで混乱が波及する(遠州錯乱)など、今川氏は最盛期から一転急速に没落へと転じていく事となる。 そして永禄12年(1569年)に武田と徳川による攻勢を受けるに至り、戦国大名としての今川氏も滅亡の時を迎えたのであった。 当主・氏真は駿河を追われた後、妻の実家である北条氏や、かつて傘下の勢力であった徳川氏の庇護下を転々とし、京の相国寺で仇敵・信長の前で蹴鞠を披露したり、に御伽衆として仕えたりとしぶとく生き延びた末、においては氏真の子孫が高家として存続することとなった。 悲惨な評価と真の姿 悲惨な評価 その生涯よりも最期が圧倒的に有名。 やたらとアホキャラ、色物、三枚目、暗愚扱いされることが多く、扱いとしては信長の踏み台そのニ(一は)。 後世の創作作品においては、わけもなく太っていたりバカ殿メイクをさせられていたりする。 生前は破竹の勢いでまで勢力を拡大しようとしたが、その途中にに足元を掬われて桶狭間に散った挙句に独立され、の代で戦国大名としては滅亡し各地を流浪……大まかに彼の末路を語ってしまえばこのような有様なので、後世においては、馬にさえ乗れなかった(かあたりとの混同。 桶狭間では最初に馬に乗って逃げたと言われている)とすき放題に創作されて踏んだり蹴ったりである。 真の姿 しかし実際には、前述の通り 名族今川氏の最盛期を現出して「一の」と恐れられた大名であり、があれだけの戦力を持ちながら足を引っ張られたりもした、 まごうかたなき名武将である(そもそも、討った信長自身ですら桶狭間の勝利に関して、「あれはマグレ」という旨を後年口にしてる程である)。 義元自身も軍略はもちろんのこと、最古の分国法と言われる『今川仮名目録』の改訂 『仮名目録21条』 、商業の保護や流通の構築、それに家臣団の体制作りなど 内政面にも卓越した手腕を持っていた。 その手腕は同時代の武将であるをして、「 国持、人つかひの上手。 よき手本と申すべく人」と、武田晴信や織田信長らといった面々と同列に高く評価している程である。 ちなみに分国法の改定に伴う「守護使不入地」の廃止は、幕府を支える名家の一つであった今川氏と室町幕府との間の関係を断つものでもあり、この事は今川氏が幕府権威を背景とした守護大名から、自らの実力に依拠する戦国大名への脱皮を果たした一つの表れともいえる。 その点も含め、 正しい意味での日本での最初のであると見る向きもある(他は守護や守護代からの成り上がりが大体)。 この他、河東一乱においては周辺勢力との連携により河東の地を奪還せしめ、さらに三国同盟の締結によって尾張侵攻への後顧の憂いを無くすなど(師の太原雪斎の助けも大きいとはいえ) 高い外交センスの持ち主でもあった。 あまり書かれることは少ないが武芸も人並み以上であったようで、桶狭間の合戦時にも近寄る敵兵相手に奮戦し、槍で刺された後に首をそぎにきた雑兵の指を食いちぎったりもしている。 一方、に乗っていたのは事実で、これは流石に他の武将と大きく違っている点である。 それが高じて趣味扱いされることもあるが、それは「(よほど高貴な人間でなければ乗れない)輿を使うことを許される家格の高さを誇示するため」という外交的理由を多分に含んだ行動であった。 よく歌を詠んでいたというのも、教養の高さを誇示する目的があった。 というより当時は、それなりに教養を積んだ人間であれば多少の歌を詠むぐらいは出来て当然という世の中であった。 彼の場合は「バカ」というイメージが先行してしまっただけだろう。 そしてこの文化人としての教養は氏真にしっかりと受け継がれ、大名として滅亡した後もこれらの教養を活かして朝廷にパイプを作ることに成功。 一代で高家として復権するに至っている。 よく平安貴族風の服を着せられるが、これも実際に着ていたもの。 というよりこの衣装は、 公の場における正装としては当時普通のもので、別に義元に限らず一方の身分の持ち主ならば誰しもが着ていた。 他の武将が戦装束で描かれる中、バカっぽさを演出するために彼だけが戦場においてもこれを着ていたように描かれているだけである。 これらのマイナスイメージは、滅亡した大名家の当主というものばかりではなく、おそらくは自身を討った大名である信長のその後の活躍を描いた講談モノ、そして後年に成立した軍学書『甲陽軍鑑』(正確には祖先顕彰本)に基づいた、各種講談での扱いに基づくところが大きく、正規の史書や歴史資料に基づいた記録、それに同時代を生きた信長他の武将達の証言においては、正しく名将として語られている。 要するに 通俗文化のイメージによるの部分が大きいのである。 義元のように後世で好き勝手に描かれて同様の被害を被った武将は結構いるもので、やなども似たような扱いを受けている。 また、これまで桶狭間の戦いは「天下統一のために上洛を目指した義元と、それを阻止しようとした信長との戦い」とされてきたが、近年の研究から上洛も天下統一も義元の(少なくとも当座の)目的ではなく、前述の通り尾張国内の今川方への支援、さらに言えば元々は今川氏の分家の旧領であったを信長から奪取するべく侵攻した、という見解が定説となっている。 尚、は生誕五百周年の年であり、ではが執り行われ、「 今川復権まつり」など今川義元公に関する知名度と理解を深めるイベントが開催された。 近年の創作物ではこうした言わば「有能な権力者である今川義元」像が再び見直される傾向があり、後述するなどではそれまでの通俗的な表現は抑えられ、有力な戦国大名としての姿が描かれつつある。 静岡駅の銅像 静岡駅北口に2020年5月19日に設置。 台座を入れて約2m。 前年に生誕五百年を迎えた他、真の姿の有力な権力者である今川義元を見直す取り組みから 戦国武将今川義元公の生誕500年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所)は「海道一の弓取り」と称される義元公の功績を理解し、発信していく事業の一環であると話している。 その姿も今までのような装束ではなく、後述の大河ドラマ「麒麟がくる」に出てくるような勇ましい顔つきの姿の義元像である。 腰に刀を差して座って構えている。 ちなみに銅像制作設置費用はで集め、目標は300万円であったがなんと生誕五百年記念としても語呂が良い約500万円も集まったということである。 なんとありがたい事だろう。 【一部抜粋】 ここ駿府の繁栄の礎は今川時代にあり、竹千代に英才教育を与え、徳川家康という天下人を生み出した今川義元公は政治的、軍事的手腕をもった類いまれなる名将であった。 題字 臨済寺住職 阿部宗徹• 構文 文字博士 小和田哲男• 創作 堤直美 尚、義元公像は竹千代像の斜め後ろに有り、台座がくっついており、史実通り「竹千代を人質にとっている今川義元」にも見える。 義元のゆかりの寺『臨済寺』 臨済寺〔/〕はの菩提寺 代々その寺の宗旨に帰依して、 先祖の位牌を納めてある寺 であり、今も全国各地から修行僧が集まっている臨済宗妙心寺派の禅寺 の である。 賤機山山頂には南北朝時代から戦国時代にかけて今川家の詰城である賤機山城が臨済寺真裏 山門から見た山頂付近に 存在した。 現在は山道から頂上にかけて城跡に記念碑や城塞跡があり、頂上には救世観音菩薩 今川家とは無関係 がある。 義元の父が開祖であり、出家した義元のために氏親の母の北川殿(室、姉)の跡に、雪斎を招き建立した寺院・善得院が前身で、義元が幼い頃修行した場所。 1536年に兄の氏輝が急逝したため、還俗し家督を継いだ義元が氏輝を弔うために、大休宗休を開山として『臨済寺殿用山玄公大居士』の戒名より「臨済寺」と改め開いた寺である。 雪斎は、当寺を駿河のに昇格させた上、今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。 しかし 信玄により焼失し、によりその信玄が再建。 今度は家康により焼失し、正親町天皇の内令 により、その家康が再建したものが現在の臨済寺である。 厳密に言うと諸説はあるが、信玄進攻後に焼失した臨済寺を滅亡後に天皇の命令で家康が再建・復興したというのが有力である かつては臨済寺のある賤機山の麓には多くの歴代今川家縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収され、氏輝・義元らと雪斎の墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。 そして1983年に国のに指定された『本堂』には左側に義元、右側に長兄の氏輝の木像が安置されており、また雪斎木像も安置されている。 ただし開祖の氏親木像は『 増善寺』にある 通常は寺の境内までしか公開されてないが例年、義元の命日5月19日と10月15日「祈祷会」の2日のみ一般公開している。 しかし義元、氏輝木像のある本堂までなら他の年間行事でも入る事が可能である。 例:の禳災祈祷会等 創作物での今川義元 シリーズ 信長には及ばぬものの、全体的に高い能力を持つ大名として登場。 とりわけ政治方面の能力が高く評価されていることが多い。 平安貴族風のグラフィックが恒例だが、茶化すわけではなくあくまで風格を感じさせるデザインとなっている(後に、天道のパワーアップキットでは遂にイケメン義元が登場した)。 多くの作品で歴史イベントとして「桶狭間の戦い」が存在する(然るべき手段をとることで回避や、失敗させることも可能)。 初期国力が高く(配下も後のこと松平元康などがいるので、織田軍に比べても不自由はしない)、また中央(京都方面)への進軍が容易なことから、序盤の桶狭間イベントで失敗しないように気をつければ、全国統一は容易な部類の大名である。 「」 1983年 演: このドラマでは悪役として一世を風靡した成田三樹夫が演じている。 これまでの織田信長に討たれるだけのやられ役とはちがう老獪な戦国武将として登場、幼年期の竹千代を軍師・太源雪斎 演:小林桂樹 に預けて一人前の戦国武将に育て上げるまで描かれた。 大河ドラマ「」 1988年 演:中村勘九郎 演:杉良太郎 、 演: など甲斐・武田を囲む強敵のひとりとして登場、後に武田信玄 演:中井貴一 、北条氏康と同盟を結び、上杉謙信に対抗する。 油断のならない武将であったが、尾張を統一したばかりの新興大名・織田信長 演:石橋凌 を侮り、さらに元家臣であった山本勘助(演:西田敏行)らの工作もあり、桶狭間の戦いにおいて首を討たれる。 「」 2007年 演: 主人公・の一族・井伊家を支配下に治める、東国最強の大名と称される男。 部下や子どもたちの前では無口で剣呑な雰囲気を漂わせているが、や母:の前では割と。 演者の昇太氏は 静岡出身であり、放映前特番ではMCを務め 「義元はねぇ! バカ大名とか思われてますけど本当はそうじゃないんですよ!! 」と役に対する想いを熱弁していた。 また、昇太氏は同じ日曜日に放送されている『』の司会を務めており、司会者に就任してからも者達に好き勝手弄られては制御できずにムキになってそのまま振り回される同番組での時との雰囲気のギャップがファンの間では語り草となっている(やっぱりともいうべきか、共演者達には 「セリフのない今川義元」といじりのネタにされたが)。 実際『』のある回で出演した際にこの話題に触れ、 「役作りのために大好きな出演者との談話を慎むように努めたは良いが、他の役者さんたちとあまり仲良くなれなかった」と述懐して笑いを誘っている。 その努力もあってか、謁見の折りの義元の存在感は 「圧力の塊」と言い得る異様な雰囲気だった。 場末の家臣である井伊家からすれば、義元の存在との謁見は命懸けだったのかもしれない……。 そして、「桶狭間の戦い」で史実同様の末路をたどるのだが、その際のサブタイトルは『』だったのである。 「」 2020年 演: 「海道一の弓取り」と称され、強大な軍事力を持つ有力戦国大名。 その家柄と軍師:太原雪斎(演:)の参謀力を抱え、東海最強の戦国武将の座にある。 平安貴族風の姿ではなく 鎧と戦装束 姿 に身を固めたいかにも戦国武将という出で立ちで登場し、上記する新たに見直された近代の今川義元像を推しだした姿。 シリーズ 今川家の君主として登場。 こちらでは元々の「SR仕様」と「センゴク」および島本和彦のデザインした「SS 戦国数寄 仕様」のスペックを併記する。 SR仕様解説 二つ名は「海道一の弓取り」。 非常に有能だが、『圧倒的! 圧倒的よぉ!』 計略使用時 や、『我こそ東海の覇王ぞぉ!』 虎口攻め成功時 などの台詞から、テンションが高く、どこか飛んでいる人物。 口を中心に禍々しいが施され、男なのにを着用している。 何かと目を引くデザインで、ある意味では非常に珍しい描かれ方をしている。 彼に限らず今川所属の武将は、全員フェイスペイントをしていて個性が強い。 2以前は「制圧」 と「魅力」。 武力・統率・特技ともバランスが良く優秀なスペック。 キー計略持ちでありながら武力要員での採用もありうる。 流石当主と言うべきか。 固有計略は今川家所属者のみを対象にしたハイリスク・ハイリターンな全体強化『上洛の幻』。 今川家に属する武将の武力を大幅に引き上げるが、効果の終了時に兵力が大幅にダウンするかなり重いデメリットもある。 まさに圧倒的な力で敵軍を圧殺できるが、その後のフォローをきちんとしないと大惨事になるため、使う際はよく考えて使おう。 『 我が軍の力は圧倒的……すなわち天下最強である! 』 SS仕様解説 「センゴク」版 二つ名は「唐鏡の申し子」。 実物カードイラストも作者本人が手掛けており、台詞回りも原作になぞらえたものが大多数を占める。 持ち計略の「果てなき遊び場」は、「上洛の幻」同様に今川の武将を限定にした大名采配系計略。 前者との違いは、武力の上昇幅が減った分兵力を回復する効果が付与されている。 もちろん、効果の最後には固定の兵力ダウンが付いているため注意。 「乱世っていう遊び場には 誰にも足を踏み入れさせない」 SS仕様解説 島本和彦版 二つ名は「走れ名門」。 なぜか口にくわえた串に今川焼を刺してある。 上の義元と比べると見劣りするが、計略はこちらも強力。 状況によっては、破格の上昇値を叩きだすことも可能。 ただし、数が物を言う陣形計略なので必然的に個々の能力が低くなるため撤退させられやすく、各個処理されると苦しい立場になる。 上二人のものと比べて兵力が減らず、別の勝ち筋も仕込みやすいため、上手く使えればリスク抜きに高い爆発力を引き出せるのが利点。 「天下など、この義元が ペロリと喰ろうてやろう!」 海道一の…もとい弓取りと名高い、東国有数の大大名。 冒頭の言い間違い(by氏真)からもわかる通りで、公家風の外見をしている(氏真が幼い頃は武将風のいでたちをしている)。 全く政治を顧みないバカ息子にほとほと呆れているが、その外見や人望の薄さをしょっちゅう氏真からイジられており、「あんまりモテないから他国から養子(=氏真やおつね)を貰った」都さえ思われていた。 元康()の部下・からは「主君をいじめる悪漢」と思われ、顔を合わせるたびに襲撃されている。 シリーズ CV:(と兼ね役) 東国三大大名の一人で、家康の正室・の叔父。 内政・外交・軍事の全てに長けた名将で、からも実力者と認められていたのだが、「自分より実力の劣るものを歯牙にかけない」という図々しさがあることを雪斎からも見抜かれていた。 この時代珍しく「本気でを目論んでいた」野心家でもあり、雪斎亡き後上洛のために邪魔な尾張に侵攻を掛けるも、主人公・の伝令を受けた織田軍に察知され、突然の雨に一時休止を命じた所を強襲される。 たるに対して矢を放つも捌かれてしまい、獅子奮迅の戦いの末に馬周り衆の猛攻の前に膝を突き、滅多刺しにされ戦死。 死後もたびたびとして地の文にツッコミを入れる。 と呼ばれる敵として登場。 特徴的な麻呂顔を残しつつ、他の兜と比べてもかなり華奢な体つきをしている。 自身が持つ巨大な弓の他、ファンネルのように飛行する弓ユニットを携えている。 よく創作でなされる「高慢かつ高貴」という性格をこれでもかと誇張したような性格をしており、高慢は一週回って他のあらゆるものを見下し、高貴は一週回って「撤退の時すら神輿に乗る」というロイヤルっぷりを見せる。 強さはかなりのもので、高火力の弓攻撃をポイポイととばしてくる。 移動速度も速く、ブロックができる盾や一瞬で削れる遠距離火力担当がいないと削れないままスルーされ、殿を射殺される。 覚醒すると付属品だったはずの弓ユニットが独立して行動する様に。 盾持ちのブロックを通り抜けるため、早く破壊しないと本体を殺してもファンネルで相打ち…なんてことに。 乙女パズルゲームの攻略キャラクター。 初期レアリティはNでの登場だが、高いレア度でのリメイクも多くされている。 長い黒髪と、右の目元のほくろが特徴的。 武士でありながら公家の文化も嗜むセレブ。 メインストーリーでは敵として登場するが、主人公らの活躍により解放。

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戦国BASARA3 前田慶次9 関ヶ原の戦い 乱入 [ニコニコあっぷる]

桶狭間の戦い ニコニコ

写真 今回紹介するのは、が投稿した『【ゆっくり解説】経済で見る敵に塩を送るの真実』という動画です。 音声読み上げソフトを使用して、 アダム・スミスと ケインズの二人のキャラクターが、経済的観点から「敵に塩を送るの真実」について解説していきます。 投稿者メッセージ(動画説明文より) 第15回目のテーマは「敵に塩を送る」です。 私は傷口に塩を擦り込む派です。 調べながら義理人情で送った、そうであってほしいとおもっていましたが、 はい、全く違いました。 しかもあの戦国イベントはこんなところにも影響していたんですね… お暇なら見てね! アダム・スミス: 「敵に塩を送る」は、「たとえ敵でも、苦境の時は助ける」「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味で使われています。 戦国時代で最も知られた宿敵関係である上杉謙信と武田信玄のエピソードの一つで、 事の発端は、武田信玄による「駿河攻め」です。 それまで武田・北条・今川で三国同盟を結んでいたのですが、当主の今川義元が桶狭間で敗戦・戦死すると武田信玄が今川領内が不安定になったのを見計らって三国同盟を無視し今川領である駿河に侵攻します。 攻撃を始めたのは良いですが、内陸の武田は塩の生産ができません。 それまで沿岸国であった同盟国の今川・北条から塩を輸入していましたが、北条・今川の「塩留め」によって輸入が出来ず武田の領民たちが塩不足で困ることになります。 アダム・スミス: 川中島の戦いで5回も武田信玄と戦った宿敵である上杉謙信はそのことを知ると、塩不足で困窮している領民の為に塩を送りました。 武田信玄はこれに感謝し自身が持つ名刀を謙信に送ったとされるエピソードです。 ケインズ: 上杉謙信と武田信玄の、まるでマンガの様な良き宿敵のエピソードですね。 アダム・スミス: 実はこれが全く違っていて、まず史実の資料の中に 上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという証拠となるものがありません。 武田信玄も別に敵である上杉から塩を送ってもらわなければならないほど塩不足で困ってはいませんでした。 ケインズ: 漢同士の胸熱エピソードが……。 武田信玄に塩を送ったとされる証拠がないことに 「これ謎だった、歴史勉強するほど義だけでやるわけ無いって分かるし」「前提破綻するのはえーよw」といったコメントが寄せられました。 なぜ5回も川中島で戦ったのか アダム・スミス: 経済的な目線でみると「敵に塩を送る」は川中島の戦いまで遡る事ができます。 戦国時代に興味はなくても「川中島の戦い」は知っている人が多いでしょう。 第5次まで繰り返し戦い、数多くの名勝負を生み、上杉謙信と武田信玄の宿敵関係を象徴する戦いです。 ケインズ: なぜ両者は5回も川中島で戦ったのですか? アダム・スミス: それは 川中島がある善光寺平の権益争いです。 善光寺平は現在の長野県の長野盆地のことで、ここには千曲川と犀川、その他の河川が多く流入し、とても肥沃な土地で古くから稲と麦の二毛作が行われていました。 米の収穫高だけでも信濃全体の4分の1を占めるほどでした。 さらに河を遡ってくる鮭や鱒の漁業も盛んだったため、内陸にも関わらず農業・水産業もできる優秀な場所でした。 また善光寺平とあるようにこの地には、長い歴史を持つ善光寺という大きな寺院があります。 アダム・スミス: 大きな寺院には参拝者や信者が多く集まり、その人々を対象に商工業が発展し門前町が形成されるのですが、当時から全国的に有名な善光寺にも門前町があり、善光寺を中心に信濃に大きな経済圏を作り出していました。 農水産業が豊かで経済・宗教の中心地と言う善光寺平は、農業生産力が低い甲斐(山梨県)の武田はもちろん、今でこそ米所として有名な越後ですが、当時はほとんど沼地で意外と農業生産力の低かった上杉にとって喉から手が出るほど欲しい土地でした。 ケインズ: そりゃ5回も戦ってまで奪い合いますね。 アダム・スミス: 特に武田はずっと小競り合いを続けていた今川・北条と手を組んでまで三国同盟を結び、背後を固めて信濃へ侵攻する力の入れようでした。 武田信玄はなんとか善光寺平を自分のものにできましたが、善光寺平の獲得の為に10年以上の歳月をかけ、弟の武田真繁をはじめ優秀な家臣を多く失い、善光寺平をめぐる川中島の戦いで多大なる犠牲を払ってきました。 その上、内陸の本望である海の獲得となると上杉謙信の本拠地、越後への侵攻が必須となります。 川中島の戦いをはじめとする信濃侵攻で多くの犠牲を払った武田信玄にとって越後侵攻は国力的に見ても難しい事は容易に想像ができました。 ケインズ: 戦上手の上杉謙信が相手だと考えると尚更ですね……。 アダム・スミス: そんな中、戦国時代最大のイベントが、この善光寺平の権益争いにも影響を及ぼす事になります。 善光寺平を巡って5回も戦った川中島の戦いについて 「やっぱ戦略の起点は経済だなぁ」「信濃で最も豊かな土地」などのコメントが寄せられました。 武田は塩不足で悩んでいなかった アダム・スミス: 1560年6月12日、三国同盟の一角、 今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ戦死します。 これによってすぐに今川家が崩壊したわけではないですが、優秀な当主を失った今川家は徐々に没落していく事になります。 徐々に衰退する今川家を見ていた武田信玄は外交戦略の転換を決意します。 まず今川と同盟関係にあるにもかかわらず、 1565年に織田信長とも同盟を締結します。 そして最後の第5次川中島の戦い(1564年)が終わった4年後の1568年に今川への侵攻に反対した息子(長男)を幽閉してまで今川領へと侵攻します。 ケインズ: 息子を幽閉するほどとはすごい決意ですね……。 アダム・スミス: 同じ海を手に入れるにしても元気いっぱい戦上手の上杉軍と当主が死んで結束力の無い今川軍、どっちと戦いたいかという話です。 その上、今川義元は駿河を中心に港を整備し内外に向けての交易路を整え、商工業を推進し経済活性化を成功していました。 上手くいけばそれらも手に入れる可能性もあります。 さらに今川家より独立し、織田家と同盟していた徳川軍とは今川領の分割をネタに駿河侵攻の同時進行の約束を取り付けていました。 このような状況で武田信玄は、戦争相手として上杉と今川を天秤にかけた時、今川に侵攻する方が得策と考えたのでしょう。 当然、三国同盟を反故にしたため今川・北条と対立。 塩などの禁輸処置がとられる「塩留め」を受けることになりますが、武田領内は別に塩不足に悩むことはありませんでした。 ケインズ: この時点で故事と大きく異なりますね。 アダム・スミス: 先ほども言った通り駿河侵攻の前に織田家と同盟を結んでいました。 織田も沿岸国であるため塩の生産は可能です。 ケインズ: あ、ここから輸入できますね……。 武田領内が塩不足に困っておらず、織田からも塩を輸入できたことに 「経済制裁は足並み揃わないといかんのだ」「あ、そっかぁ…」「ドロドロしすぎている」などのコメントが多数寄せられました。 なぜ上杉は塩を送った話が出たのか アダム・スミス: 武田信玄も単なる戦馬鹿ではないので、織田・徳川からの塩の輸入経路を確保した上で、三国同盟を破棄しました。 では「なぜ上杉から塩が送られた話がでたのか?」と言う疑問が出ます。 ケインズ: 「敵に塩を送る」は塩不足で困っていることが前提ですからね……。 アダム・スミス: 実際に越後から武田領へ塩は送られていたと考えられますが、あくまで塩の販売が目的でした。 上杉謙信は戦上手のイメージが先行しますが、かなりの商売上手のやり手で塩による利益が主な目的だったのですが、 上杉謙信には善光寺平に影響力を商人の力で残すことも目的の一つであったはずです。 善光寺平の権益争いについての説明時に、実は越後の農業生産力は低かったと説明しました。 上杉謙信はそんな越後の国力を高めるため、特産品と日本海交易で経済力を上げることで国力UPに成功していました。 それが越後の特産品であった 青苧(あおそ)の栽培です。 アダム・スミス: 当時は木綿が普及しておらず、越後の青麻から作られる越後上布は京都の公家たちに人気の商品でした。 その人気は京都の上方商人が越後に青苧を買いにくるほどで、さらに商人たちが日本海交易の中心地であった敦賀から越後上布を買いに来る商人の迎え入れるように直江津や隣の柏崎などに港を整備することで経済を活性化し、青苧座と言う組合を結成させ国外から青苧を買い求める船に関税を掛けるようにしました。 上杉軍の強さの背景にはこの様な経済基盤がありました。 そんな上杉謙信だからこそ交易ルート確保の重要性を理解していて戦争で善光寺平の直接的な支配権は失っても善光寺を中心とする経済圏に上杉の影響力を残すために塩商人を派遣したとしても何ら不思議ではありません。 ケインズ: どんな形であれ系争地となる善光寺平に影響力を残しておく方が良いですからね……。 アダム・スミス: また「上杉謙信は武田領民のために塩の価格を不当に値上げさせなかった」という話を聞くことがありますが、そのような史料は無く、仮に言っていたとしても織田・徳川から塩を輸入できる状況を考えると基本的に不足することが無く、上杉の塩販売にとって商売敵となる織田・徳川の塩がある以上、目先の利益だけで不当に値上げしてしまうと上杉の塩が人気がなくなって売れなくなり、 武田領内の塩販売から排斥される可能性が出てきます。 影響力を与えたい上杉謙信にとって武田領内の塩販売から排斥される事は避けたい為、 「影響力を残したいから市場から排斥されないよう塩の価格を不当に値上げさせなかった」と考えるのが一番合理的だと考えられます。 アダム・スミス: また越後からの距離を考えると輸送コストがかかる距離の遠い南側では価格面において織田・徳川が有利になり、逆に越後に近く輸送コストが少なく済む北側は上杉が価格面で有利になれると考えれば、基本的には塩の価格は不当に高くならなかったと考えられます。 いくら織田・徳川が塩を輸出してくれるとは言え、輸入先を一つに頼りすぎるといつか突然、価格を不当にあげられる可能性があります。 織田・徳川側も上杉の塩供給がある以上は、価格面でお互いを警戒するため塩の価格が安定します。 アダム・スミス: 塩を武田領に送った返礼として、武田信玄から上杉謙信に贈ったとされる「塩留めの太刀」は、重要文化財として現存する刀なのですが、上杉家の台帳には贈り主が武田信玄の父である「武田信虎」と書かれているため武田信玄からの贈り物とは言い切れませんが、いずれにしても武田家から贈られたのは間違いなく、そういった面で上杉謙信が今川・北条の塩留めに強調せず塩の供給停止しなかった事に対して、感謝の念はあったのでしょう。 これで「敵に塩を送る」という故事は美談なのではなく、単なるビジネスのお話であり、桶狭間の戦いが意外と影響していて、駿河侵攻が原因で塩不足になっていなかったという事がわかってくれたと思います。 ケインズ: ありがとうございました。 アダム・スミス: そもそも「敵に塩を送る」の話が書物に出てくるのは1696年の「謙信公御年譜」という文書の中です。 ケインズ: 100年以上後……。 アダム・スミス: 1696年だとすでに江戸時代になっているし、さらに上杉家は越後から米沢に移った後です。 「謙信公御年譜」のなかでは謙信の言葉として、「今川から塩を留めるように頼まれたが、甲斐の人たちが苦しむだろう。 今川の手段は浅はかだ。 人道に背くことはできない。 信玄とは弓矢で戦う。 以前と同じように信玄の領地に塩を送るように」と残っていますがこれは 上杉家による一種のプロパガンダだと考えられます。 ケインズ: いつの時代もプロパガンダはあるんですね……。 上杉家の塩の市場対応や「敵に塩を送る」というのが一種のプロパガンダだったということに 「国を持つって大変なんすねぇ〜」「戦争は経済活動の一環とはよく言ったものだね」「そんな背景があったのか」などのコメントが寄せられました。 二人の解説をノーカットで楽しみたい方はぜひ動画をご視聴ください。 東証、国立第一銀行(みずほ)、サッポロビール…500社以上を設立した男が関東大震災で起こした奇跡 ・「ほな伊達政宗と違うか〜」ミルクボーイ風に戦国武将を紹介してみた。

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上杉謙信が「敵に塩を送る」のは経済的な狙いがあった!? 駿河侵攻、桶狭間の戦い、川中島の戦い…義理人情では語れない戦国武将たちの知略をご紹介

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織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦い。 歴史オタクは勿論、一般にも広く知られる有名な合戦です。 この戦いは、織田軍が数に勝る今川軍の油断をついた奇襲として知られていました。 日本三大奇襲の一つにも数えらているそうです。 しかしながら、歴史オタクには、段々常識になりつつある通り、『信長公記』などを使った研究により、この話はかなり揺らぎつつあります。 wikipedia. ごく簡単にまとめれば、織田軍が目の前の部隊を攻撃してみたら、たまたまそれが今川の本隊で、しかもその本隊が城から出てきたばかりで準備も整っていなかった。 他にも色んな偶然が重なりあい、 「ラッキー」で勝ってしまった戦い、というのが真相に近いんじゃないか、というわけですね(もちろん、これは相当乱暴なまとめですけど…)。 では、なぜ「桶狭間は奇襲」というのが、我々の常識になったのか。 逆にいえばどうして、「ラッキーで勝った戦い」というのは最近まで常識にならなかったのか。 今回はこれについて考えてみたいと思います。 そもそも、桶狭間は奇襲だ、と言い始めたのは、丹羽長秀や豊臣秀吉に仕えた 小瀬甫庵という人だといわれます。 ちなみに、小瀬は長篠の戦いの「鉄砲三段撃ち」というのを言いだした人でもあるんですが、この三段撃ちの話も、疑わしいというのが広まってきています。 要するに、小瀬の著作は余り信用できないということになるでしょう。 wikipedia. とはいえ、歴史好きであっても、この小瀬さんの著作を直接自分で読んで、影響を受けたという人はあまりいないのではないでしょうか。 ちなみに、私も読んだことないです。 赤字にする程の事なのかは知りませんけどもw 奇襲だと言いだした人、犯人は、小瀬さんなんでしょうが、むしろ気になるのは、これを広めたのは誰で、それは何故だったのかということの方でしょう。 結論から言えば、これはどうも 陸軍参謀本部ではないかというのが、今回のオチになります。 明治時代、日本に近代的な陸軍が作られます。 この陸軍の頭脳が参謀本部、作戦なんかを考えるところですね。 作戦をたてるには、過去の経験の蓄積が大事です。 過去の戦争の勝因、敗因を探り、これをデータベース化する。 今日の軍隊でも戦史が重視されるのはこのためです。 そのため、日本陸軍の参謀本部も啓蒙活動を兼ねて戦史の編纂をおこなっています。 実は、この参謀本部による戦史編纂の代表的な例が、長篠や関ヶ原に加えて、桶狭間なんです。 参謀本部の戦史編纂事業は、膨大な史料を収集、駆使しておこなわれたもので、日本戦史研究に大きな影響を与えました。 今回の主題である桶狭間=奇襲という構図や長篠=三段撃ち、なんていう構図も、この参謀本部の仕事によって、あるいはそれに基づいた教科書によって、より広範に流布されたのです。 ただし、そこには落とし穴がありました。 そもそも、軍隊が戦史を編纂する究極的な理由は、さきほども書いたように、ある戦いに何故勝ったか、あるいは何故負けたか、その原因を分析し、データベース化することにあります。 ということは、分析の対象にした戦争からは、 何か「戦訓」を引き出せないと意味がないということです。 この戦訓は、しかも後世の人間が参照して、参考に出来るものでないと意味がない。 つまり「桶狭間はラッキーで勝てました」では戦訓たりえないんです。 だって、そんなの参考にしたり、真似たりすることが出来ないんですから。 これに対して、「迂回戦術などを駆使して敵の油断を見事についたから勝った」というのであれば、立派な戦訓たりえます。 桶狭間が「奇襲」でなくてはならなかった理由は、どうもこのあたりにあるようです。 これは、ただの研究者や歴史好きじゃない、なんといっても実戦としての戦争を任務とする軍隊ならばこそ生まれた「戦訓史観」ともいうべき歴史観だったように思います。 歴史そのものの話もさることながら、その歴史がどのように解釈、叙述されたか、という話もなかなか面白いのではないかと思います。

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