アラブ の 春。 教えて! 尚子先生「アラブの春」のその後はどうなっているのですか?【前編】

「アラブの春」幻想、そしてその末路 ~シリアを事例に~: IISEの広場

アラブ の 春

アラブの春とは アラブの春は2011年初頭から 中東・北アフリカ地域の各国で本格化した一連の民主化運動です。 アラブの春が起こった背景には、チュニジアで起こった民主化革命運動「ジャスミン革命」が関係しています。 中東や北アフリカ諸国では長期的な独裁政権が続いている国が多く、国民は不満を抱いていました。 そんな中チュニジアで起こった民主化運動は多くの人々に勇気を与え、立ち上がる決意を与えました。 これまでも限定的な政治参加しかできなかった民衆が変革の原動力となり、大きな革命運動が各地で起こったことにより、 アラブ諸国の情勢を変革させた動きを「アラブの春」と言われています。 大きな民主化運動は独裁政権で苦しめられた各国の国民へと広がっていきましたが、その中には今も内戦が続いているシリアにも波及しています。 21世紀最大の人道危機とも言われている シリア内戦もアラブの春をきっかけに始まったとされています。 それまでアサド政権に弾圧されていたスンニ派の人々がこのアラブの春に呼応し、行動を起こしたことがきっかけで、ここまで続く内戦へと発展していったのです。 アラブの春は、2011年から始まった中東・北アフリカ地域各国で起こった民主化運動のこと• 民衆が原動力となり、アラブ諸国の情勢を大きく変化させた• 21世紀最大の人道危機と呼ばれたシリア内戦もアラブの春がきっかけで始まった (出典:「シリア・アラブ共和国基礎データ」 (出典:「アラブの春と中東・北アフリカ情勢」) アラブの春が起こったきっかけや背景は? アラブの春は 2010年にチュニジアで起こったジャスミン革命が発端と言われています。 チュニジアでは長年に渡る独裁政権に多くの国民が不信感を抱いており、 抵抗を示すため一人の青年が焼身自殺を行いました。 イスラム圏内では自殺は禁じられており、青年の抵抗による自殺が人々へ大きな波紋と影響を及ぼしたのです。 その後、同年10月に制憲国民議会選挙が実施され、イスラム主義政党アンナハダが第一党となり、12月には大統領と首相が選出されて民主化へ移行する新政権が始まったのです。 この民主化運動が中東へと広がったことがアラブの春へと発展することとなっています。 アラブの春は2010年にチュニジアで起こったジャスミン革命が発端である• 1人の青年が抵抗を示すために焼身自殺を行った。 イスラム圏内では自殺は禁じられており、人々へ大きな波紋と影響を及ぼした• エジプトの大統領退陣 チュニジアの民主化デモは国境を越えて各国へ拡大しましたが、最初に大きな変化をもたらしたのはエジプトでした。 2011年1月以降、国内で反体制デモが発生し、全国各地で参加する市民が増え続けました。 この動きを踏まえムバラク大統領は同年2月に国軍最高会議に権限を委譲し、 ムバラク政権は30年の独裁政権に終止符を打つこととなりました。 これにより暫定的な軍政が始まりましたが、デモ隊と軍との衝突が続くこととなりました。 しかし同年11月に行われた人民議会選挙によって、自由公正党が47%の議席を獲得し、2012年5月には新しい大統領も選出され、 民政移管されました。 リビアの政権打倒 エジプトより1ヶ月遅れることで、リビア国内でも 反体制派とカダフィ政権が激しい衝突を起こしました。 この戦闘は継続し、多くの犠牲者を出しましたが、国際社会からはカダフィ政権への非難が強まり、 国連安保理決議で英米仏を中心とした多国籍軍が軍事行動を開始しました。 この結果、反体制派が同年8月に首都トリポリを制圧し、 42年続いたカダフィ政権が崩壊しました。 出身地であるシルテで捕捉されたカダフィ元大統領が死亡したことをうけ、反体制派がリビア全土の解放を宣言、移行政府によって新たな首相が選出され、制憲議会選挙が実施されることになりました。 イエメンの新大統領就任 イエメンでは サーレハ大統領退陣を求めるデモ運動が各地で頻発していました。 これに対して当初は政府治安部隊によるデモ隊鎮圧を行いましたが、軍幹部や有力部族がデモ隊の支持を行い、治安部隊との衝突が起こり一時混乱が拡大することにつながります。 この事態を受け、地域協力機構である湾岸協力知事会が仲介し、仲介案を提示しましたが、大統領が拒否します。 そのため 治安当局と反政府勢力の衝突が激化することになり、国連安保理が先の提案に大統領が署名をすることを促す決議を成立させ、大統領は受け入れることになりました。 そして2012年1月には大統領他に対する追訴免除が成立し、同年2月に大統領選挙が行われ ハーディー大統領が就任しました。 中東・北アフリカ諸国の動きとアラブの春の今後 これらの動きは全世界に衝撃を与えるとともに、さらに広く中東や北アフリカ諸国へと広がりました。 バーレーンやオマーン、クウェート、ヨルダン、モロッコ、アルジェリアなどの各国で、一時は大規模な反政府デモが起こり、民主化の要求を行っています。 この中でもバーレーンとヨルダン、モロッコでは 憲法改正を実現しています。 しかし全てが上手く言っているわけではありません。 先ほど触れたように シリアもアラブの春の影響を受け、民主化に向けた動きが始まりましたが、情勢は不安定となり内戦まで発展。 現在では様々な思惑が絡み合う複雑で終わりの見えない状況となっています。 アラブの春の後、民主化デモが発生した多くの国で、国民が求めた民主化に向けたプロセスが進行しています。 しかし経済格差や雇用面では課題が山積みとなっており、 新体制への不満の先鋭化や経済成長に欠かせない社会の安定が失われる危惧があるなど、まだまだ目が離せない状態となっています。 アラブの春が中東や北アフリカに波及したことによって、各地で民主化運動や武力衝突が起こり、政権打倒や交代があった• エジプト、リビア、イエメンなどでは暫定政権を打倒し、新たな政権が確立した• 他にもバーレーンとヨルダン、モロッコでは憲法改正が実現したが、シリアでは情勢はより不安定になり内戦が絶えないなど、どの国も上手くいっているとは言えない (出典:「アラブの春と中東・北アフリカ情勢」) シリア内戦の難民支援を行う団体を支え、難民の力になろう アラブの春を契機としたシリア内戦により、多くの人々が難民となり故郷を追われました。 難民となってしまった人々は、食糧や住む場所さえ得られず困っている人も多く存在しますが、生きていくために必要な食事や水、住む場所、医療、教育などを受ける権利を守るために 様々な機関や団体が支援活動を行っています。 このようなNPO・NGOは、寄付などによってその活動資金が賄われます。 つまり私たちが寄付をすればそれが大きな力となり、間接的に難民を支援することになるのです。 寄付は数百円や1,000円などの少額から可能です。 多くの人が寄付をすることで、より多くの難民へ支援の手が届けられます。 一人でも多くの人を救うために、難民の現状を知り寄付を行ってみてはいかがでしょうか。

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チュニジアだけ「アラブの春」が成功している理由は?

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エジプト・コプト教会の爆破など、一向に衰えることのないISのテロ行為。 アラブ諸国の混乱は落ち着くどころか、ますます混迷を深めています。 「アラブの春」と呼ばれた民主化運動とは何だったのか? その後の経過は? 日本では珍しい女性の中東研究家として活躍する岩永尚子先生がわかりやすく説明します。 今回は、チュニジアとエジプトの動きです。 この連載が始まったのは2014年3月ですが、連載5回目(2014年5月)で、「アラブの春」と呼ばれる一連の民主化運動について、その発端となったチュニジアを中心に説明しました。 参考記事: そして今、連載開始から3年が経過しましたが、その後もアラブ諸国の政治的混乱は続いています。 「何が起きているのかさっぱりわからないわ」という感想や、「アラブの春は結局どうなったの?」という疑問がよせられているため、現段階での各国の状況を簡単にまとめてみたいと思います。 「アラブの春:その後」として今回取りあげるのは、地理的に隣接しあうチュニジア、エジプト、リビアの3カ国です。 「アラブの春」と称される一連の民主化運動が起きたのは、この3カ国のほかにも、ヨルダン、シリア、バハレーン、モロッコ、イエメンなど多数ありました。 「アラブの春」の後に政権が崩壊した国もあれば、ヨルダンやモロッコなど、王政を維持した国もあります。 政権崩壊後も戦闘が続いているシリアとイエメンについては、別の機会に取り上げてみたいと考えています。 今回取りあげる3カ国は、いずれも長期政権が民主化運動によって崩壊へと導かれました。 ところが、現在では、チュニジアが唯一の民主化成功例、エジプトは逆戻り、リビアは内戦へと、まったく異なる結果となっています。 「アラブの春」をどのように評価すべきなのかについては、まだ年月が必要となるでしょうが、いったん、現時点での経緯を比較検討してみます。 まずは「前編」として、チュニジアとエジプトの経緯を紹介します。 アラブの春の発端となったチュニジアの今は? チュニジアは「アラブの春」の発端となった国です。 2010年12月のいわゆる「ジャスミン革命」は、路上で青果を販売していた失業中の青年が、警察の取り締まりを受けたことに抗議して、焼身自殺した事件に端を発しました。 この事件をきっかけに、高い失業率に抗議する、若者を中心とした市民のデモが発生しました。 デモはしだいに、23年間も続いていたベン・アリ政権の腐敗や人権侵害を批判するデモへと変容したのでした。 その結果、強固だと思われていた長期政権があっけなく崩壊したのです(2011年1月)。 政権崩壊後の2011年10月には、実に1956年以来、初めての議会選挙が行なわれました。 この選挙で第一党となったのはナフダ党で(イスラム主義:得票率41%)、ついで「共和国のための会議」(中道左派の世俗主義:得票率13%)、エタカトル(「労働と自由のための民主フォーラム」左派:得票率9%)の順でした。 この3党がそれぞれ大統領、首相、議長のポストを占めるという合意のもとに、組閣が行なわれました。 ところが、この頃からイスラム主義勢力と、世俗主義勢力の対立が明確になり、2013年には、左派の政治家が暗殺される事件が相次いで発生しました。 また、イスラム過激派によるテロ事件や、イスラム主義勢力とチュニジア国軍との対立もみられるようになっていきました。 また、政治的には、野党勢力が内閣や議会の解散を要求し、議会をボイコットしたため、チュニジアは社会的にも政治的にも混乱状態に陥ってしまいました。 この危機的状況を打開するために、イスラム主義者と世俗派の仲裁に入ったのが、チュニジア最大の労働組合であるチュニジア労働総同盟(UGTT)で、さらにチュニジア商工業・手工業経営者連合(UTICA)、チュニジア人権擁護連盟(LTDH)、弁護士の団体である「全国法律家協会」という3つの市民団体が加わりました。 この4団体が「国民対話カルテット」で、これらに対して、2015年にノーベル平和賞が送られたのは、まだ記憶に新しいかと思います。 「ジャスミン革命」3周年を前に皆が妥協し、なんとか対立を回避した結果、2014年1月には暫定内閣が新たに作られました。 そして、ようやく新憲法が可決されたのでした。 新憲法はイスラム教が国教であると定めながらも、法の支配に基づく「市民国家」であるという(注:ここでの法はイスラム法ではない)、イスラム主義者と世俗主義者の双方に配慮されたものになっています。 危機的状況において、イスラム主義者と世俗派の双方が協議のテーブルについた背景には、もちろん上記の4つの集団の努力があったことは確かです。 ですが、おそらくそれだけではありませんでした。 チュニジアが危機的状態にあった2013年に、ちょうどエジプトの民主化が暗礁に乗り上げ、同年6月にはイスラム主義を打ち出したムルスィー政権に対するデモに乗じて、軍が政権を奪うという事態が発生していたのです。 つまり、エジプトでの民主化が白紙に戻っていくのをチュニジアの人々は見ていたのです。 だからこそ、「エジプトの二の舞になってはいけない」と、多様な集団が協議に参加できたのだともいわれています。 ようやくできた新憲法に則って、2014年10月には議会選挙が、そして12月には大統領選挙が行なわれました。 その結果、2012年に結成された世俗派である「チュニジアの呼びかけ」党が第一党となり(217議席中87議席)、イスラム主義のナハダ党は67議席を獲得して第二党となったのでした。 そして、大統領には、ベン・アリ政権下で外相や国会議長を務めたムハンマド・ベジ・カイドセブシが選出されました。 このようになんとか民主的に政権交代を行なったチュニジアですが、「チュニジアの呼びかけ」党の内部の分裂や後継者の問題などもあり、政権がまったく問題なく安定しているとは言い難い状態です。 観光が主要な産業であるにもかかわらず、2015年3月には首都チュニスでの博物館襲撃事件などテロ事件が相次いで発生しています。 16年にもリビア国境に近い都市で、市民50名以上の死者をだすテロが発生し、非常事態宣言が発令されるなど、薄氷を踏むような状態が続いています。

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シリア内戦のきっかけとなったアラブの春とは?原因や当時の状況など詳しく解説

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アラブの春の発端と実態 アラブの春は2010年12月にチュニジアで起こった民主化運動(ジャスミン革命)が発端になります。 そこから北アフリカおよび中東のアラブ諸国に波及していった一連の革命の流れを アラブの春と呼んでいます。 民主化運動がおこった国では独裁政権が覇権を握っており、それらを打ち倒すことを目的として行われた運動でした。 当時はこれらが新たな時代をつくっていく希望として報道され、新たな時代が到来するものと信じられていたのです。 ところが、現実はそんなに甘くありませんでした。 革命が成功したと言えるのは発端となったチュニジアくらいで他の国々では独裁政権の回帰やイスラム諸国の台頭、そして内戦の勃発といった問題に繋がってしまったのです。 そのため、アラブの春は完全な失敗として認識されています。 なぜ、民主化運動がそのような結果に繋がってしまったのでしょうか。 それぞれの国での出来事から検証していきたいと思います。 アラブの春の唯一の成功者であるチュニジア チュニジアはアラブの春の唯一の成功例と言われています。 チュニジアでは、果物の違法販売を摘発された若者が抗議目的で焼身自害をしたことをきっかけに反政府デモが広がり、 2011年1月には当時の独裁政権だったベンアリ政権を打倒すことに成功しました。 以後、4年間にわたり世俗政権とイスラム政権の対立が続きましたが、2015年2月に連立政権の発足という形で決着が付いたのです。 ただし、独裁政権によって弾圧されていたイスラム過激派が勢いをつけたことで治安が悪化しています。 「イスラム国(IS)」に参加する国民はイラク人、シリア人に続いてチュニジア人の純に多くなっています。 国内でも各地でテロが起こっており、国内治安を安定させるのが一番の課題とされています。 このような現状から見ると、 チュニジアがアラブの春の成功例といわれるのは、あくまで政権が安定したという部分のみだと言えます。 それ以外はイスラム国の台頭による対抗策もなく、国民が日々危険にさらされている生活を強いられている現状であり、結局は失敗だったという観方もできてしまうのです。 しかし、もちろんそれは現時点での話であり、今後状況を改善できる可能性があります。 チュニジアが今後政治や治安が安定した国になるためには、世界が一丸となってイスラム国(IS)の存在をどうにかしていくための対策を打ち出していく必要があるでしょう。 これはチュニジア一国でどうにかなる問題ではないからです。 先進国や新興国といわれる国々はこうした国々の支援をしていかなければならないだろうと思います。 アラブの春で政治が安定しないリビアとエジプトの現状 リビアのきっかけとその後 リビアは アラブの春により2011年にカダフィ政権が崩壊しています。 その後2つの政権が覇権を争い、2014年に暫定議会選挙が行われました。 そこでは世俗派が勝利をおさめて政権を樹立しました。 しかし、敗れたイスラム政党がそれに納得せず、首都を制圧して新政府を樹立したのです。 現在では2つの政党がそれぞれ統治の正当性を主張し合っている状況で、結論が出せない状況にあります。 こんな時こそ民主主義に基づいて投票をと思うかもしれませんが、中央政府が機能していない以上それもできません。 このまま争いが続けば、解決策は武力もしくは第3者の介入しかありえないでしょう。 しかしながら、後者の可能性は内政干渉になりかねないため可能性は薄いと言えます。 そうなると、このままでは再び武力衝突が起きかねない状況であると私は推測しています。 エジプトのきっかけとその後 エジプトでは アラブの春によってムバラク独裁政権が崩壊しました。 しかし、問題はその後にありました。 次に成立した政権がなんとイスラム組織「ムスリム同胞団」中心のモルシ政権だったのです。 更に問題は続き、2013年7月に大規模な反政府デモが起こりました。 そして、それに乗じて軍がクーデターを起こしたのです。 2014年6月にはクーデターの首謀者シシが大統領の座に就きます。 しかし、軍によるクーデターによる政権は独裁政権になりがちです。 この政権も例にもれず反政府勢力に対する弾圧を強め、独裁政権に回帰するような動きが見られます。 これは私の推測ですが、次の政権もおそらくクーデターによって変わることになると思われます。 クーデターによって統治者が決められたのであれば、次の統治者を決める方法もそれに倣うのが自然だからです。 実際にタイではクーデターによる政権交代が当たり前になっています。 これを防ぐにはきちんとした憲法を作り、法整備を進めるしか方法はありません。 しかし、現政権ではそれも難しいでしょう。 2011年に民主化を求める民衆のデモを当時のアサド政権が弾圧しました。 それにより政権と反体制派の戦闘が勃発。 ロシアやイランがアサド政権側につき、米国やサウジアラビアが反体制派についたことで戦況は悪化して泥沼化してしまいました。 さらに、シリアにもイスラム国(IS)の勢力が伸びてきたことで3すくみの戦いとなり、いまだに決着はつきません。 2015年に起きた難民危機もこうしたシリアやイエメンからの難民が押し寄せた結果になります。 難民問題を解決するには根本的にシリアの内戦状態をどうにかしなければならないのですが、現状はどうにもできないというのが結論でしょう。 イエメンのきっかけとその後 イエメンは 長期独裁支配をつづけたサレハ大統領から政権を剥奪することを対話で実現させました。 しかし、その後イスラム教スンニ派のハディ政権とシーア派の武装組織フーシが対立したことで内戦状態となってしまいました。 政権を支持するサウジアラビア主導の連合軍がイランに支援をしているフーシと闘う主導権を握っていることから、 実質サウジアラビア対イランの戦争がイエメンを舞台に行われていると形容するのが正しいでしょう。 内戦と表現はされているものの実際は代理戦争という表現が近いです。 これに関しても、イエメンの国民や外部からの介入による解決が難しいというのが結論になるでしょう。 まとめ アラブの春は、現状を見ると希望ではなく絶望への道に繋がってしまっているようです。 失敗どころの騒ぎではなく、逆に状況が悪化してしまったのです。 当時運動に参加した人々は今どのような心境で自分の国を見ているのでしょうか。 もし、民主化に成功していたのであれば、著しい発展が期待できていただろう未来が予想できるだけにとても残念でなりません。 こうしている今もなお治安の悪化で、身の危険に怯える人々や内戦で難民となっていく人々が増え続けているのです。 しかしながら、そうした問題を根本的に解決する手段は現状ない、と言っても過言ではないでしょう。 もし、ここで武力介入すれば後世になって報復行為に走る国が出てくることも確実です。 さらにイスラム国(IS)に傾倒する人々をせん滅するということも、現実的ではありません。 こうなるとPKOや国連といったものも無意味でしょう。 思想と思想のぶつかり合い、いわゆる宗教戦争といったものは歴史上でも非常に根深いものとなっています。 その理由は負ける=自己の否定につながるからです。 宗教に関する認識が薄い日本人には理解しづらい感情だと思います。 しかし、第3者が介入することは確実に悪手です。 私たちにできることはおそらくこれ以上犠牲になる人が増えないよう祈る事だけでしょう。 私も北アフリカやアラブ諸国の人々の暮らしが一日でも早く安定するよう願っています。

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